月曜日の午後八時過ぎ。私は少し遅れて彼氏との待ち合わせ場所に着いた。息を切らしながら、彼の姿を探していると通りすがる人がヒソヒソと話している様子が不意に、目に飛び込んでくる。その先に視線を向けてみればどうやら184センチの彼が注目の的になっているようだった。特に、女性陣から……。私はふう、と息を吐きその彼の元まで駆け足で向かう。

「ったく……おっせーよ」

 私の姿を見つけるや否や携帯電話を耳に当てたままで彼は唇を尖らせ不満を露わにする。この時初めてずっと鞄の中でブーブーとマナーモードの携帯が鳴っていたことの真相を知ったのだった。

「……っ、はぁはぁ……ごめんねっ、支度に手間取っちゃってさァ」
「おっせーだっせー。俺は腹減ってんだっての。ずっとグーグー腹鳴るしよぉー」
「だっ……から!走って来たの、私だって!」
「わーってるって。マジ腹減った。さっさとメシ行こうぜ」

 彼はその乱暴な言葉とは裏腹に、柔らかく私の頬に手を添えて、そして髪をかきあげ、耳たぶに触れた。私が小首を傾げると、彼は満足したのか口角を吊り上げて私の耳から手を離す。そうしてどちらからともなく手を繋いで歩き出した。
 何度も言うが彼の身長は184センチ。やはり道ゆく女性たちは振り返って彼を見やる。だか当の本人はまったく興味がないのか、慣れているのか気にしない素振りであーだこーだと隣で話を盛り上げている。
 例えヒールの高い靴を履いても、そんなにこの距離は縮まらない。他の女性になど興味はないと分かっていても、彼を見ている女の子達の中にはモデルさんみたいな人がうじゃうじゃいるわけで今更こんな事を気にしている私もバカなのだろうが、釣り合わない気が、と悲観的になってしまったりする日だってあるのも事実だった。なんで、こんな私みたいな女と?と、私を見た綺麗なお姉さん達から思われているんじゃないかな、って。

「ねぇ?やっぱさ、水戸くんのとこ行かない?』
「あ?なんだよ……お前からたまには良いとこで外食しようっつたんだろ?」

 ——まさか、女の子の視線が気になる、なんて言えないし。絶対バカにするし。まあオレだからなぁ、とか得意げに鼻を鳴らされた瞬間に、手が出てしまいそうだ、今の私なら……。また生産性のない喧嘩をするくらいなら気心の知れた人達とこのモヤモヤしている気持ちを晴らすために飲んで笑って時間を有意義に使いたい、なんて思っている私の気持ちを察したわけではないだろうけれど、彼からぽつりと「じゃ、水戸んとこでいいのな?」と言われパッと顔を綻ばせた私はすかさずそれに乗っかった。

「うん!ほら、こないだ新しい日本酒入ったとか連絡もらったじゃない?行こうよ、ね?」
「へ?……ああ、んなこと言ってたかもな。よしじゃあ行こうぜ、まじ腹減って死にそ」

 なんとか水戸くんのお店行きで丸く収まった事に安堵し、その後は歩きながらたわいのない会話を続けた。
 そうして、お目当てのお店に到着した——ら、今日は若いカップルやグループがたくさんで店内は大賑わいだった。入り口に入って来た私たちに水戸くんが気づくとゴメンというように手を合わせた後、彼はカウンターの隅を指差した。「そこに座って」と言う意味だろうと二人で察し了解の意味も込めて、目配せを返してからカウンターを見ると、隅でチビチビと、お酒を嗜んでいるリョータくんの姿が目に入る。「おー、宮城」と寿は早速、彼の隣の席を陣取って、さっさと腰を下ろした。私はため息を吐きながら、リョータくんの隣ではなく、その寿の隣に腰をかける。

「おっ?ここ、あったけーし。誰かいたのか?」
「うん、彩ちゃん」
「なんだァ?機嫌わりーな、なんかあったのか」
「あった」

 聞けばリョータくんと彩子が一緒に食事兼飲み会をしていたところ何やら関係性の疑わしい相手からの着信に出た彩子が急いで帰宅したらしかった。リョータくんは相手は絶対男だった!と声を荒げてみたり、かと思えば彼氏できたんかな……とジメジメと嘆いてみたりしている。それをカウンター内で忙しそうにしていた水戸くんが時たまチラッと視線をよこしては心配そうに見ていた。
 緩い飲み会になるはずが、何だかスタートから彼の恋バナに付き合う羽目となってしまい約一時間ほどがすぎた頃、客足も減って店内はいつものように、穏やかな雰囲気となっていた。そのとき突然、寿の携帯電話が鳴り着信相手を確認した後ハッとして「ちょ、わり」と一言詫びを入れ彼がそのままお店を出て行った。

「三井サン、誰からだろーね」
「この時間だと……お母さんとかかもね」
「ふうん、そか」

 二人きりになった後もしばらくリョータくんの話をただただ口を挟まず聞くと言う姿勢を貫いて数分後、外に電話をしに行っていた寿が戻ってきた。やけに表情が暗いのでどうしたのかと問えばどうやらバスケ部の問題児が家に帰ってこないのだそう。行き先に、思い当たる場所があると言い出した彼は「俺ちょっと行くわ」と言って、嵐のようにお店をまた出て行ってしまった。その背中を眺めていた私とリョータくんだったが彼が店を出て行ったあとすぐに、リョータくんが問う。

「生徒と、プライベートでやり取りしてんの?」
「ううん。たぶん親が学校に連絡入れて、学校にいた先生から寿に連絡が入ったんだと思うよ?」
「そか。大変ねー、教師ってのも」
「ねっ」

 そのとき、お店がひと段落したらしい水戸くんがカウンターを挟んで私たちの前に姿を現した。二人して「お疲れー」「お疲れ様」と労いの言葉をかけると面食らいつつ「どーも」なんて言って彼は自分のお酒を慣れた手つきで作り出す。そうして「あ」と思い出したように下の棚から何かを手に取って、私たちの目の前にそれを翳した。

「常連さんからもらったの、飲む?」

 ドン!っと、私とリョータくんの間に置かれた一升瓶。それは入手困難な日本酒だった。そして彼から放たれたその一言が、まさかあんな事態になるなんてことは、このとき、誰一人として想像していなかっただろうと思う。


 ——数時間後。


「あ、ねえねえオレさー名前ちゃんにどーしても聞きたいことがあったんらよねぇ〜」

 文字のとおり、リョータくんの呂律はすでに、限界値に達しかかっていた。かくいう私もあまり変わらないだろうが。そう……早い話が水戸くんから出された日本酒を、ほぼ二人で空っぽにしてしまったのだ。水戸くんは、しれっと何度も私とリョータくんの脇に、水の入ったコップを置いてくれている。が、私達もお酒とお水を交互に飲む(もはやどっちがお酒かわからなくなっている)という水戸くんの和らぎ水作戦にまんまとひっかかったもののもうここまでくれば酒だろうが和らぎ水だろうが関係ないですねと言う状態だった。

「あんさぁ〜実際どーなん?藤真とヤッたお?」
「ええ?ふじまさぁん?」

「もういい加減にしとけって」とカウンターの中から水戸くんが諭すがリョータくんはそんな水戸くんを見向きもしないでシッシと手を振り、ぐいっと上体ごと私の方を向きギロリと下から視線をよこしてくる。リョータくんの目が据わってる。でもきっとそれは私も同じだろうと思った。私はリョータくんに向けていた視線を手元に戻して、お酒か水かどちらかが入っているコップを両手でぎゅっと掴む。お客さんのいなくなった店内では水戸くんがカチャカチャと食器を洗っているらしい音が響いていた。

「ねえ〜、ほんとは、シてんだよね!?ねっ?」
「……」

 不意に意識が朦朧としている中に元婚約者——藤真さんの姿がぼうっと浮かび上がってきて私はなんだか、居た堪れない気持ちになった。
 ……しあわせだった。確かにあの空間に、愛はあったのだ。いま彼は、いったいどこにいて何をしているのだろうか。今もあの……無表情な顔で仕事ばかりしているのだろうか。

「親友でしょ〜?俺にだけ、ねっ?おせーて♪」

 好きだった、私は彼が大好きだった。彼の腕で思いのほかスヤスヤと眠れたあの日。朝目覚めた私は、このままがいいって。まどろむ視界の中で確かに、そう思ったのだ。

「だってシねぇ理由がねーもんね?やっぱ——」
「——た」
「へっ?」
「シた——好きだった、藤真さんのこと……。」

 視線をリョータくんに向けて、ぽつりと言った私の声はお酒のせいか、思ったよりも低かった。その言葉と一緒に、一筋の雫が私の頬をつたう。さっきまで瞳をらんらんとさせていた彼が、目を見開いている。そのとき目の端に見えた、洗い物じゃなくて、こっちを凝視してその場に固まっている、水戸くんの姿が。
 店内には水道から勢いよく流れている、水の音だけが未だ、虚しく鳴り響いていた。


 *


 それからすっかりアルコールが抜けてしまった私とリョータくんは、真横を流れる海を目の端に映しながら、肩を並べて一緒に駅まで向かった。この時間であれば、まだ終電は間に合うだろう。

 あんな会話……明るいテンションで受け流せばよかったのに私が泣いてしまった事ですっかり場の空気は白け、静かに会計を済ませてくれたリョータくんに急いでお金を渡すと「いいよ」とだけ言い返されて今日はご馳走してもらう事にした。そして私たちの間は、いまも沈黙が続いている。
 彩子には藤真さんとの事を伝えていたけれど、当たり前に彼女は他言無用という感じで、誰にも言っていなかったんだなと思えば、やっぱり私は馬鹿野郎だなと更に落ち込んだ。暴露したうえに泣き出すなんて……と思わず出てしまった溜め息が聞こえていたからか、偶然か、リョータくんがぽつり「ごめんね」と呟いた。

「……ん?なにが?」
「あ、いや——その。調子乗った、ごめん」
「ううん、別にやましい関係だったわけじゃないからさ」
「うん、でも……なんか、ほんとゴメン」

 心底から反省してます、という彼の様子に私は目尻を下げて「だいじょーぶっ」とだけ言った。そうしてずっと心の隅に引っかかっていたことを言おうか言うまいか考えあぐねて、やっぱりこのまま隠し通すことは出来そうにないと自分の能力を買い被ることはせずに「あのさぁ」と、今度は私から声をかける。

「彩子が会ってる男性、いるでしょ?」
「へ?あーはいはい、うん。あ……思い出したらまた腹立ってきた!で、そいつがなに?」
「あれさ……寿が、紹介したんだと思う……」
「え——?」

 今日は厄日だ……。嫌なことがあった日はこうして気心知れた仲間とワイワイお酒なんか飲んで騒いで忘れちゃおう!と、言うわけにはいかず、私が空気を壊してしまったせいで終わりよければ全てよし、なんて上手いこと一日を締めくくる事は出来ないらしかった。なんとも説明し難い表情で私を凝視している親友を見て、きっと私はトラブルメーカーなんだなと……まざまざと思い知らされたのであった。




 *


 リョータくんが荒れていたあの日よりもすこし前の、よく晴れた朝のことだった。突然「彩子、男とかいねーよな?」と同棲中の彼氏——寿から質問をされた。聞けば同じ教員で彩子に紹介したい人がいるとのことだった。
 この人、なにを言っているんだろうと、戸惑い固まっている私を置き去りに彼は「いねーよな!絶対」と自己解決をさせ口笛を拭きながら玄関を出て学校に向かって行った。しかし、その後に寿からも、もちろん彩子からも特にこの話について相談されるなんて事もなかったのでリョータくんの事を考えて彼が思い直したのだろうと思っていたのだけれど……リョータくんの話を聞きやっぱり例の知り合いを彩子に紹介したんだと思ったらどうしても、隠しておけなかったのだ。

 そうして結局、最後はリョータくんとの飲み会になってしまったあの日から約一週間が経った頃仕事中の彼氏から、一通のメッセージが入った。それは洗濯物を干し終えたすぐ後のことだった。


三井 寿

宮城から飲み誘われたから夕飯ナシで!ちなみに水戸の店だから来れそうなら来いよ!



 すぐに嫌な予感がして返信に戸惑っていると、同時に、彩子から着信が入り心臓が跳ね上がる。彩子からの連絡の内容は特別、重要そうなものではなかったので、一先ず安堵した。
 彼女は今日、有休消化でお休みらしく一応ダメもとで水戸くんのお店に飲みに行かないかと誘ってみたら夜の九時まで予定があるため、そのあとだったらいいとの回答だった。もちろんリョータくんと寿もいるらしい旨を伝えれば特に驚いたり焦る様子もなく二つ返事で「いいわよ」と返してくれた彩子。とりあえず電話を終話し水戸くんのお店に着くまでの間に、歩きながらでも彼女から例の男性のことを聞き出そうと思った。


 *


 ——夜、八時。先に水戸の店に到着した俺は、座敷で宴会をしていたらしい軍団の姿を見て手をあげる。水戸も今の時間帯は忙しいようで、俺の顔を見るや否や「好きなとこ座って」と酒を運びながら声を張る。カウンターにしようか二人掛けのテーブルにしようか迷っていると、軍団の中の誰かが「リョーちんこっちこいよー!」と、声を掛けてくれたのでどうせ一人で寂しく飲みながら相手を待ってるよりはいいと思って遠慮なく座敷席へと向かう。

「お疲れさん、一人か?」

 俺が野間の隣に座ると、野間がそう問う。俺が首を横に振り「三井サン」とだけ言うと、すぐに理解したのか「あぁ」と他の連中も口を揃えた。そして俺の方へとまだ手をつけていないサラダの乗った皿を滑らせてきた大楠。まだ何も注文していないのに勝手にビールを持って来て、俺の目の前に置いた水戸。それに口をつけようとしたとき高宮が「乾杯」と言って、持っていたジョッキを掲げる。それに合わせて残りの奴らも低くジョッキを掲げカンパイと言う。そんな後輩達の姿に面食らいつつも「うぃ」と言って俺もジョッキを軽く持ち上げて飲んだ一口目は格別に美味かった。

 緩く軍団たちと会話や酒を楽しんでいるとガラガラッ!と勢いよく入り口の扉が開き約束の相手が登場したことを知らせてくれた。
 そうして、当たり前に俺の目の前に座ったその待ち合わせしていた相手——三井サン。斜めかけしていたバッグを頭から潜らせ、早速メニューを開いているその様に何だかカチンときてしまった俺は「アンタさ」と、開口一番声を低くして言い眉毛を歪ませる。

「あ?」

 カチン——第二弾。俺はそんないつもと変わらぬ呑気な反応を返してきた彼にイラッとして自分のジョッキに入っていたビールを一気飲みし隣の野間がちびちびと飲んでいた日本酒の瓶を持ってぐびぐびと行儀悪くも口をつけて飲んだ後、その瓶をテーブルにガン!と置いた。
 当たり前に目の前の三井サン、そばにいた他の軍団たちが俺にぎょっとした視線を送ってくる。俺はふぅーと大きく息を吐いたあと、勢いつけて捲し立てた。

「最低っ!何で彩ちゃんにメンズ紹介すんの!?考えらんない、ありえない!!ほんとサイテーとしか言いようがねーんだけどっ!!死ねっ!!」

 だーっと矢継ぎ早に言われるがままだった三井サンは、はじめこそきょとんとして聞いていたが締めの「死ね!!」は流石に聞き捨てならなかったのか、瞬時に眉間に皺を寄せ「あン?」と俺にガン垂れてくる。それでもここまで来ればこっちだって歯止めが効かない。もう一度日本酒の瓶を手に取りグビグビと飲んだとき野間が「お、おい
……やめとけって」と俺の肩に手を置いて制止を求めたが俺はその手を振り払い瓶をまたガン!と置くと同時に、三井サンに思いの丈をぶつけた。

「俺がアンタの恋路ジャマした事あった!?ねーよね!?ずーっと協力して来たじゃん!その仕打ちがこれなわけっ!?ちゃんと説明してよ!!」
「うっせーな……耳が痛てェ。つか、いつまでもグダグダしてるお前が悪ィんだろーがよ」

 三井サンはわざとらしく右耳に指を突っ込んであたかも言葉のとおり「うるせェ」と言いたげな仕草を取る。そうしてハァと抑揚つけて馬鹿でか溜め息を吐いたあと、投げやりに言った。

「男いねーならいいじゃねーか。誰も文句言う奴いねーだろ。そもそも本人がいいって言ったんだからよ」
「え……彩ちゃん、すぐオッケーしたの……?」
「したからこないだお前より男優先で帰ったんじゃねーのか?俺に聞くな、本人に聞けよヘタレ」

 ……カチン。もうかれこれ何度目かもわからなくなってきた先輩に対する怒りの矛先に迷って、俺もハァァとわざとらしく馬鹿でかため息を吐いた。そんな俺の姿を見たからだろう、いつものようにお決まりの「ちっ」と言う彼特有の舌打ちが聞こえてきて俺は怒りと悲しみと、もうよくわからない感情を一気に吐き出すように俯いたまま、「かわいそ」とぽつり呟いた。その俺の声がやけにその気まず過ぎる空間に響き渡った気がした。

「……あ?何がかわいそうなんだよ」
「そんなん、名前ちゃんしかいねーっしょ」
「……は?」

 三井サンの声のトーンがすこしばかり弱々しくなったのが顔を見ていなくてもわかった。そこで俺はさっき浴びるように飲んだ日本酒のアルコール度数のおかげで脳みそまで熱くなっていく感覚に力を借りて、そのまま淡々と言葉を続けた。

「名前ちゃんの未来が心配だね。気の毒だよ、アンタみたいな幼馴染がいる十字架背負ってさ」
「……やめろよ宮城ィ、そのへんでよ」
「やめねーし。だってかわいそーじゃん?本当は幸せ確定されてたのにさアンタが出て来たから」
「……」
「彼女以外にも、周りをかき回す天才だもんね?アンタって。昔っからじゃん結局は自分が一番、自分のことが最優先、自分だぁ〜い好きっ♡」
「……喧嘩、売ってんだな?」
「だね。あっ、教えてあげよっか、スッゲー話。天と地がひっくり返るようなお・は・な・し♪」

 未だ店内は賑やかで背後からは水戸が忙しなく動き回ったり注文を取っている声や時たま、わっと盛り上がる客の声、コップを倒してあぁー!と言って笑っている声なんかか聞こえてくる。それでも俺達の座るこの座敷席だけは、無音だった。

「なんだ、天と地がひっくり返る話ってよ」
「アンタの最愛の彼女と——藤真の話だよ」

 三井サンの片方の眉毛が、ぴくりと反応した。相変わらず俺も三井サンもガンを垂れ合っていて真横からはじっとその様子を伺っている軍団達の姿が目の端の視界に移る。それでもこの重い空気を和ませようとしたのか、大楠が水戸に向かって「洋平!生おかわり!」と次の酒を頼んでいた。

「三井サンさぁ、知ってた?」
「なにを」
「知らないよね、まぁ言えるわけないもんねー」
「だからなんだ。さっさと言え、ウゼェな」
「ええ?——ブチ込んでんだよ、あの二人」
「……」
「言葉わかる?もうしっかりすることしてんの。エッチ、してんだよ?藤真と名前ちゃん」

 そのとき高宮が「お、おれ帰ろっかなァー」と徐に席を立ちあがろうとした瞬間ダンっ!と三井サンがグーでテーブルを叩いた事で高宮がビクッとして動きを止めた。

「いま誰も動くんじゃねェ、さもねーともれなく俺の拳を食らうことになんぞ」

 高宮が「ハイ、スンマセン」と素直に言って立ち上がりかけていた腰をまた座布団に下ろした。それを見ていた俺が思わず鼻先で笑って日本酒を自分の空になったビールジョッキに三分の一ほど注いでちびちび飲めば三井サンがまた「あ?」と俺にガンを垂れてくる。

「ほんとさぁ、三井サンって幸せモンだよね」
「は?」
「そんなんだから不安だって言ってんの……」
「……てめぇ、マジでいい加減にしねーと——」
「泣いてたよ、名前ちゃん」
「……!?」
「好きだったって——藤真のこと。泣いてた」

 さらにシン、と静まり返る座敷席。そしてピリピリとしていた空気に、今度は異様な空気も立ち込めてきた気がした。それでも俺が、そんなことまったく気にしていませんみたいな素振りでさっき大楠からスライドしてもらった薄い皿に乗ったサラダを食べようと皿を持った瞬間それを誰かの手が払った。相手は言わずもがな、三井サンだ。皿は高宮が背をつけて座っていた壁の方に飛んでいき、壁にぶつかった皿がパリーン!と耳障りな音を立てて割れた。すんでのところで頭を背けた高宮は「間一髪!ギリギリセーフ」とか言って、安堵して息を吐いている。なぜか野間と大楠は、おー!と言いパチパチパチと拍手を送っていた。

「……ナニすんの」

 俺は飛んで行った皿の行方を見送った後、睨め付けるようにして三井サンを見て、そう言う。

「呑気に食ってる場合じゃねーだろ、ナメてんのか、テメェ」
「……割れたじゃん、皿。ほんと乱暴だねぇ〜」

 三井サンは、ハァとまた大きくため息を吐いてあぐらをかいていた足を解き、馬鹿真面目に皿を片付けに向かった。座敷の段差を降りて下にまで飛び散ってしまった割れた皿の残骸に手を伸ばした彼の腕を誰かがガシッと掴んだ。相手は水戸だった。三井サンは腰を曲げたままで水戸を見る。


「——あんたらさ、ほんと出禁にするぜ?」


 ため息混じりに呆れたように言った水戸の言葉に俺と三井サンが面食らって押し黙る。それでも水戸はまた一つ息を吐いて掴んでいた三井サンの腕を離すと「危ないから、やるよ」と言い、しゃがんで、テキパキと片付けをし始めた。
 そんな水戸を一瞥した三井サンは「わりィ」と小さな声で呟いていた。しかし俺は、追い討ちをかけるようにして三井サンに背を向けたまま杯を煽って、軽い口調で続ける。

「変なことじゃねーっしょ、あんたら・・・・がシてなくても愛し合ってんならくっつきてーだろうしね」
「……宮城テメェ、なにが言いてぇ」
「言ったまんまの意味だっての。偽装結婚とは、違うって言ってんの、名前ちゃんと藤真は」

 そのとき、ガラガラーと遠慮がちに開けられた店のドア。なんとなく全員で入り口を見やれば、そこには、いま俺が話題に上げていた美女二人の姿があった。彼女達は俺と三井サンの今の現状を知る由もないので笑顔でこちらに向かってくる。そうして開口一番に、水戸の片付けている様子を見た三井サンの彼女が言った。

「水戸くん、大丈夫?手伝おうか?」

 そばにいる自身の彼氏の心境も知らずに彼女はいつものように小首を傾げて優しい声色で水戸に声を掛ける。水戸は「大丈夫」と言うように珍しく手だけを軽くあげて断りを入れるように返し、彼女には背を向けたまましゃがんで片付けに意識を集中させている感じだった。

「……なぁにを勘違いしてんのかわかんねーけどな、宮城よォ、」

 その低く不機嫌で、かつ呆れたような声に俺が首を少しだけ後ろに向ける。それでも体勢は正面を向いたままで。見えてはいないけれど水戸以外の他のメンバーが三井サンを見ているんだろうなって、その雰囲気から感じ取った。

「湘北の先生が、奥さんジム通い始めて体調悪くしたって言ったからガチでジム通いしてる彩子に相談しただけだ」
「……」
「めんどくせーから直にやり取りさせたんだよ、悪かったな、昔っから自分最優先で、乱暴でよ」
「……」
「でも俺は、お前に恥じるような真似はあれから・・・・一回もした覚えはねェ……帰るわ」

 三井サンはダンダンと踵を鳴らして再度座敷に上がり乱暴に自身の鞄を持ち上げそのまま俺達を一瞥もせずに店を出て行った。
 当たりまえに沈黙が流れる空間で彩ちゃんが、「どうしたのよ」と、軽い口調で問う。さすがに内容も内容だったのと、水戸も珍しく怒りムードなので軍団達は「あ、いや」とか「なんつーか」と、後頭部をかきながら困り果てている。すると三井サンの彼女、名前ちゃんが急いで彼の後を追おうとする動きを見せた。そこでようやく腰を上げた水戸が振り向くことはせず「やめとけ」と低い声で言った。彼女はその声に反応して足を止め、水戸を見やる。

「ほっといてやんな、今は。」

 水戸はやはり彼女や俺達の方は見ずに、割れた皿の残骸が入っている塵取りを持ってカウンターにスタスタと戻って行く。そんな奴の背中を見送っていたときバタバタと急いで店を出て行く音が聞こえた。やっぱり彼女は出て行ったのだ。ずっとそんな光景を、ただただ見つめていた座敷席の面々とカウンターの中でこちらに背を向けたままの水戸。ややあってやれやれと言いたげな水戸の溜め息が、しっかりと俺たちの耳にも届いた。
 間も無くして、店の外で馬鹿でか声で怒鳴っているらしい三井サンの声もここまで聞こえてきて内容までは、さすがに聞こえなかったけど「近所迷惑すぎっしょ」と酒を煽りながら思わず零した俺の言葉に今度はそばにいた軍団たちが馬鹿でかため息を吐いたのだった。


 *


 私は急いで水戸くんのお店を出て彼を追いかけた。ただでさえ足が長い彼のことなのでさっきのただならぬ様子から鑑みてももうそばにはいないかもしれないと思ったが彼はお店の外——すこし先で手すりに手をつき海を眺めていた。その姿を確認して私はゆっくりとした足取りで彼の元まで向かう。そして背後からそっと「寿——」と声をかけると勢いよくこちらを振り返った彼が急いで走り去ろうとしたので私はそれをさせまいと思い切り、その腕を掴んだ。

「——っせ、離せよっ!!」

 まるで、癇癪を起こしている幼稚園児みたいに私の腕を勢いよく振り払った彼に面食らって掴んでいた腕が簡単に外れてしまった。その場で目を見開いて立ち尽くしている私を一瞥した彼は私にまた背を向けて、低い声で言う。

「実家帰る」

 今度は拗ねて「もう帰る」と、甘えている女子高生みたいなことを言い出したその様に私は当たり前に困惑するばかりだった。実家、帰る——。え……?なぜ?という、疑問符ばかりを頭の上に浮かべる私が、とりあえず思ったまま口にした。

「どうしたの?なんかあったの?」
「なんか……あったの、だぁ?」

「ふざけんな」と吐き捨ててそのままスタスタと駅方面へと向かっていく彼を私は追いかけてその背中に問う。

「何で怒ってんの?どうしたの、わかんないよ」

 その声が届いたのか彼はぴたりと足を止めた。そうして私に背を向けたまま「嘘だよな?」と、ぽつりと言った。「え?」と、未だ困惑している私の方をゆっくりと振り返った彼が、今度は声を荒げる。

「嘘だって言えよ!だいぶ遅れたエイプリルフールだって……ンなことありえねェって言えよ!」
「はっ?エ……エイプリル、フール?」
「お前らそんなんで同じとこで働いてたのかよ?また俺だけ何も知らなかったってオチかよ!?」
「え、ね……ねぇ、なんの話をしてるの……?」
「なあ、嘘だよな!?ぜってぇ、ねえよな!?」
「……」

 彼が突然距離を詰めて来て私の肩を掴み力いっぱいに揺さぶる。そっとその手を離したあと彼は何も答えない私から怯えるように後退りしながら離れていく。そうして私をまっすぐに見たその目は潤んでいた。明るすぎる月の光と海の水面が、彼の潤んだその瞳の中に映っている。場違いにもそれが、綺麗だな……って思った。

「俺にはもう、お前しかいねぇのに……お前しか見えねぇ。なのに、なんで……っ」
「……」
「なんで藤真と——ヤったりすんだよ……」
「——!」

 突然あの日——藤真さんに初めて抱かれた日の情景が蘇ってきた。茶色味がかった瞳が真っ直ぐに私を見つめている。そうして差し出されていたその手を握ろうとしたとき気づいたら次には私は彼の胸の中にいた。
 私は驚きのあまり言葉を失っていた。頭の中は真っ白になっている。彼が傷ついた心で私を求めている。そんな彼の気持ちが、私にはよくわかった。私もその瞬間に、受けたばかりの新しい傷を抱えていたから——。
 だがそれらは、すべて言い訳にすぎない。あの瞬間の気持ちを説明できるとは思わない。ただ、私はあのとき、何を失ってもいいと覚悟を決めたのだった。


「ずりィだろ……」
「……」
「俺はもうお前の事……こんなに好きになっちまったんだぞ?今更どんなにズタズタになったって後戻りできねーんだぞ?……ずりィよ、名前」
「……っ」
「なんで、ンなことすんだよ……?」

 鼻先で笑って問いかける彼の左の瞼から一雫の涙がつ——と頬をこぼれ落ちた。
 私は、答えなかった。答えられなかった。何となくわかってた。なんとなくは。きっと藤真さんとの事に彼は気づいているんだろうなって。でも確かめられずにいたのも事実だ。このまま流してくれればいいなって、甘えてたんだ。
 時が流れるだけでも心の色は変わるって今ならわかる。理解している。だけど、それでもいい、それでもいいから、そばにいてって、素直に声にできたらまた明日を二人で作っていけるのかな。

 愛しさが募っていくほど臆病になっていった。すんなり言葉になるほど、まだ強くはなれない。だって、これ以上望めば今が崩れていきそうで。上手にしまえた感情が暴れだしてしまいそうだ。今はただ何も言わずに抱きしめてほしいのに……


「もう、無理だろ。俺もう、頑張れねーよ……」
「……」
「本当でも、何で嘘って言ってくれねんだよ!」

 彼はたまらなくなったように叫ぶと、ふたたび私に背を向けて、走り去って行った。そのうしろ姿を見つめながら私はただその場に立ちすくんでいた。それでも私は、どうしてか彼を追い掛ける事ができなかった。その場から、動けなかった。
本当でも何で嘘と言ってくれない#゙は、そう言ったけど、それで解決できたならきっとこんなふうにはならなかった。そのとき携帯電話が鳴り見ればディスプレイには、すぐ近くにいるはずの親友の名前、リョータくんだった。

『——もしもし?名前ちゃん……ごめん』
「……?」
『俺のせいなんだ。おれ、勘違いして三井サンに当たってさ、名前ちゃんと藤真とのこと——』
「……うん、さっき本人から聞いたよ」
『……そか。ごめん、ほんとごめんね』


 ——彼が見ている明日の向こうに浮かび上がる違う景色。二人で話したあの日の未来図は、描き変わってしまったの?もう戻れないのかな……?


 *


 明日が見えなくなった私は行くあてもなく夜風に吹かれながら、ただ茫然と歩いていた。私は今どこを歩いているんだろう。ココハドコ?ワタシハダレ?ねえ、誰か。後戻りのできない恋に囚われた、哀れな私を助けてよ。
 結局わたしは、いつまで経っても恋愛が下手だし、こんな性格だし、バカだから上手い慰め方も思いつかない。ねえ、今ならまだ遅くないかな?寿——いま追いかけて行ったら私とちゃんと向き合ってくれる?だって……だって私にだって、寿しか見えないんだもん。私だってもう、後戻りはできないんだ。寿が思ってるほど私、そんなに、変わり身早くないし、器用じゃないんだよ。
 どうしよう、このまま涙が止まらなかったら。だって止まる理由が見当たらないよ。寿、助けてよ。どうせなら、こんなふうになる前に私に構うのをやめて欲しかったよ。こんなに苦しい思いをするために寿の事を好きになったんじゃないよ。あの頃みたいに、高校の時みたいにいつも一緒にいて、楽しい事や嬉しい事を二人で二倍に悲しい事や苦しい事は二人で半分にしたかっただけなんだよ。例えそれが、綺麗事ってわかっていても。

 不意に目の前に一台のタクシーがハザードランプを付けて止まったのが視界に入る。静かに後部座席の扉が自動で開き私が車道側に身体を向けて立ち尽くしていたことをこのとき知る。きっと、タクシーを待っている人だと勘違いされたのだろう。とりあえず、ここがどこかも不明なので私はそのタクシーに乗ることにした。
 私が乗り終えたのを確認して、運転手が自動で扉を閉める。行き先を問われさすがに彼と一緒に住んでいるマンションには帰れないだろうと気づけばなぜか私は水戸くんのお店がある駅を運転手に指示していた。
 しばらく無音が続いていた車内に運転手同士の無線が飛び交った音でハッとし、窓の外に向けていた視線を、なんとなく運転手の背中に向ける。
 
「——大丈夫ですか?」
「え」

 密やかで柔らかい声。正面を向いて、運転したまま声をかけられたので驚いた。よく見ればお父さんと同い年かそれよりもやや若く見える運転手さんが、もう一度そっと優しげな声で「大丈夫ですか?」と問う。

「——あ、ごめんなさい。ぼーっとしてました」
「色々ありますよね、私でよければ聞きますよ」
「え……」
「何もなかったならすみません」
「——なんにも……ないですよ」

 そう返して思わず俯いた私に彼は「本当ですか?」と、笑いながら言う。それに面食らって、「大丈夫、大丈夫です……」と呟けば「そうですか」と、ぽつり短く返されてしまった。

「——大丈夫……なんですけど、」
「……大丈夫じゃない?」

 コクン、コクンと頷けば、バックミラーで見ていたのかハハハと浅く笑ったその雰囲気がなぜか水戸くんを連想させた。確かに、この感じとても水戸くんに似ている気がする。だから私はいま、無意識に「なんですけど」なんて含みがあるように言ってしまったのか、なんて、自分を分析してみたりした。

「うん、わたし……大丈夫じゃないですね」
「不安なこと、嫌なことたくさんですよね」
「はい……でも、なんか大丈夫じゃないですけど大丈夫じゃないです≠チて言えたのでちょっと心がスッキリしました。ありがとうございます」

 そう言って、ぺこりと頭を下げると運転手は、「こちらこそ、答えてくれて嬉しかったです」と言った。そうして、緩やかに停車したタクシー。「はい、到着しました。ここらへんですかね?」の声で私は「あ、ここで大丈夫です」と、財布を急いで取り出し二千円を運転手へと差し出した。

「あ、お代は——またいつでもご乗車ください」

 差し出した私の手をさっと戻すように待ったをかけた運転手さんがそう言う。私は、当たり前に慌てて首を横に振った。

「……いやいやいや!いや、さすがにそれはっ」
「次は——元気な顔、見せに来てくださいね。」
「え……で、でも……」
「ね?」

 バックミラー越しに、マスクをつけた運転手と目が合い、軽くウインクをされた私はぐっと押し黙った。そうして、ややあって「じゃあ……」と私が口を開く。

「すみません、ありがとうございました。なんかあるかな……あっ!飴玉しか持ってない、ごめんなさい。じゃあ飴玉……」

 私がおずおずと、ポケットに入っていた飴玉を差し出すと、それを受け取った彼が「ありがとうございます頂きます。ではまた」と言った。私はチラッと助手席の目の前に設置してあった名札を見た。

「はい、また……み——みと、さん?」
「はい、水戸です。」
「ほんと……ありがとうございました」

 タクシーを降りて深々とお辞儀をし、そのタクシーを見送った私は頭を上げてふぅと息を吐く。——水戸、なんて、水戸くん以外に初めて聞いた名前だけど、こんな偶然もあるんだな。雰囲気もどことなく水戸くんに似ていたし日本にいる水戸って姓の人は、みんなあんな感じなのかな、とか呑気に思ったあと、私はその足を今度こそ本物の水戸くんの元へと向けた。それでもなんだか重い足取りで辿り着いたそのお店の入り口には閉店という板が掛けられていた。しかし中はまだ灯りが付いていたのでお店の主が、片付けをしているんだろうと思った。入り口の扉は鍵がかかっているみたいで遠慮がちにコンコン……と叩いてみたら間も無くして中から微かに聞こえてきていた水道の音が止まった。カツカツと入り口に向かってくる足音がどんどん大きくなっていく。ガラッ、と少しだけドアが開いたと同時に冷めた視線で私と目を合わせない水戸くんが「何?」と言った。

「あ、あの……ごめんね、ちょっとその……っ」
「……閉店作業してるから後にして」

 ——パタン、と水戸くんとの間に出来た、扉と言う名の壁。閉め出されたみたいになってしまった私の心にズキリと痛みが走る。小さくため息を吐いて、私は静かに目を瞑った。

 出会った頃から、リーゼント、セブンスター、桜の花……そして桜木くん。水戸くんの好きな物はずっと変わらなくて、移り気な私には、それがとてもかっこいいことのように思えたんだ。そういう真っ直ぐなところを尊敬していてつい頼ってしまいたくなって、何十年経った今でもこうしてごめんね、ごめんね水戸くん。わたし、やっぱりここに来ちゃったよ——。
 あの頃から私は、誰かを上手に愛する事もできないのに、誰かに愛されたくて仕方なかった。

 本当に悲しいと、涙が出ない事を知っている。どれだけ会いたくても、声が聴きたくても、抱きしめたくても、側に居られない辛さを知ってる。
 神頼みしてしまうくらいに好きでどうしようもないっていう気持ちを知ってるし誰かに取られる悔しさも知ってるから、リョータくんが頭に血が昇って怒ってしまった理由も理解できる。でも、この辛さと戦えるのは自分だけしかいないことを知ってるからこそ、あの瞬間、素直に彼は謝ってきたんだろうなって思う。
 私だけじゃない。みんながいつも、誰かに恋をしていて——ちょっぴり、傷ついているのだ。

 そう言う感情を知らないで生きていけたほうが幸せだったかもって思うけれど、メンタル強く、恋愛体質じゃない子に生まれたかったけど誰かの辛さに絶対寄り添える自信はついたつもりでいたんだ。でも、やっぱり違ったみたい。
 それでも出会いにはきっと順番なんてなくて、今だからきっと好きになったんだって。出会えたことに意味があるって、そう思いたいんだよ。


 ——ガラガラ……

 視界がやや明るくなった気配に閉じていた目を開けば再度、入り口の扉をそっと開けた水戸くんの眉毛を下げて、困ったように情けなく笑う高校時代から変わる事のない、見慣れた姿があった。
 それを見て私は泣きながら笑うという得意技を披露してみせたのだった。









 ただしくき放す、その優しさ。



(——ハハ、なんちゃって)
(ごめっ……ごめんね、水戸く、ん……)
(いーえ。さぁ、風邪引く前に、中にどーぞ)


※『 大嫌い(feat.sanari)/當山みれい 』を題材に
※ Lyric by『 つよがり/JUJU 』

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