彼女は、誰に対しても笑いかけるし、とにかく優しい。唐突に顔を近づけて来て、まるで珍しい生き物でも見ているみたいに揶揄ってきたりはするけれど、あれが彼女なりの他人との距離感なのだろうと思う。なので、決して俺の身体に触れてくることはない。その日出会った相手に向かって言い淀むことなく真っ直ぐに「あなたは!ただのへそ曲がりです、屁理屈です天の邪鬼です!失礼します!さようなら!」なんて……あれには心底驚かされたものだ。

 これは俺が勝手に思っていることだけど彼女は透明なんだ。今まで、耳や目から嫌な言葉の音や物を入れたことがないみたいな感じで。人間っていう生き物は最初は透明の入れ物みたいなものでその入れ物を傷つけたり汚したり、はたまた磨いていくのも他人の影響だから俺は、彼女に影響を与えたいって、ずっと見ていたいって思った。
 はじめて彼女と出会ったとき、俺が差し出した二千円札を取ったその手が透き通っているように見えて綺麗だな……なんて思ったのが深く印象に残っている。まるで、汚い物を触ったことがないようなその手はやっぱり、透明に見えた。
 ちらちらと舞い落ちる雪の中で、冷たくて悴む手と手で触れ合えばきっと指先が熱くなるのだろうと感じたあの瞬間。恥ずかしいけど、感じ合う鼓動に、ずっとこのままがいいって思ったんだ。彼女を知れば知るほど目も手も表情も透明で綺麗で、今は上手く見れない。もうずっと彼女にだけ見惚れている。そんな自分をおかしくも思う。

 彼女は急に好きだよ、なんてこわい事を言って見せるけれど、これも彼女なりのスキンシップなのだ。彼女を見ていて思ったがどうやら友人達に対しても全部そうらしく、もちろん俺にもそうで他意など全然なくて。
 コイツの事を好きになったらきっと不幸になると俺は思っていた。優しくて怒りっぽくて危なくて。屈託なく笑いかけてくるとき俺は、なんだか無性に泣きたい気持ちになった。その度に自分でも未来を予知できたからである。

 きっと一生忘れられなくて一生憧れていて……だけど、一生痛いままなんだろうって。それでも俺は彼女から見る世界はどれくらい広いんだろうって興味を、拭い去ることができなかった。
 彼女が現れて広がっていく世界に、この溜め息さえ優しく染まっていくようで俺を彼女の世界に入れて欲しい——そう思った。俺のいる世界に、お前がいること、きっとそれこそが奇跡なんだ。





 *


『——藤真さん。今日もお仕事ですか?なんだか声が疲れてるね』

 土曜日の夜、急に携帯電話が鳴りそれに出ると彼女は開口一番にそう言った。彼女の声のうしろから外のガヤガヤとうるさい雑音や通行人が彼女に対して声を掛けたのであろう「ねえお姉さん」という声などが、いっぺんに聞こえてきた。この都会のど真ん中を呑気なツラして歩いている彼女の姿を思い浮かべながらカーテンの開け放たれている窓辺に移動して、耳に当てていた携帯電話をスピーカーにし、窓縁に置く。部屋に備え付けられている姿見に映った自分、たしかに少し窶れているみたいだ。

「仕事じゃない。シャワーを浴びたあとだ」
『へぇ、じゃあマンションかぁ』

 マンション≠ニいう発音に、いやに横文字なアクセントをつけながら彼女が楽しそうに言う。

「ああ。名前はどうしてた?」
『私はですねぇ、いま、近くにいるんですよね。夜桜がどうだーとか、言ってたでしょ?』

 俺は驚いて目を見開いた。先日、職場の近くで桜のライトアップが……と話したことを、彼女は覚えていたのだ。そのとき彼女は「へぇ、それはいいですね。桜の時期ですもんね。行こうかな」──と、淡々と言ってたけれど、しれっとまさか本当にお花見に繰り出すとは思わなかった。だが考えてみれば彼女が、社交辞令を口にする人ではないってことくらい今ではわかりきっていたことではないか。

「そうなのか?じゃあ……俺も出るか?」
『決まり!近くまで迎えに行きますね。歩きたい気分ですし。あと十五分くらいで着くと思う』
「わかった、じゃあのちほど」
『はーい!』

 電話の切れる音を聞いて携帯電話を取り上げ、深呼吸をひとつ。一度脱ぎ去っていたジャケットを再度羽織り簡単に支度を済ませているとあっという間に十五分が経っていた。その瞬間また携帯電話が鳴る。当たり前に彼女からだった。それに出ると「ついた!」の三文字を言ってその通った声が彼女の来訪を伝えてくれている。
 マンションを出ると果たしてそのとおり彼女は立っていた。小さな身体と頭の影。夜道にたたずむその姿に俺は、わかっていたはずなのに驚いてしまう。まさか、ほんとうに俺のマンションまで来るとは思ってもみなかったからだ。この瞬間、実際にこの光景を目にするまでは。何かの幻じゃないかって。
 彼女は夜風にのって、ふわりと自身の袖をくすぐった。そうしてうつむき、身を揺らせている。彼女の顔と唇の血色とをぼうっと照らしている。その姿に見惚れていた俺はもうひとつ息を吐き、彼女のところまで歩みを進めた。


 *


「急に、付き合わせちゃいましたね」

 と彼女はゆっくり言う。その声を聞き月みたいに真ん丸い瞳に一瞥されたとき、これがまぼろしではないことを知った。俺はなんだか自分が突然情けなくなってきた。俺と彼女が、対等な関係でないことを、まざまざと思い知ったからである。これは——彼女の気まぐれなんだから。俺は何も考えず品のある彼氏≠ただ演じていればよいのだ。一人であれこれ考えて期待したりやきもきしたりするのは相手が彼女では疲れてしまうだけだ。他の女が相手ならば期待も失望も少しは生活のうるおいになるだろう。経験にもなろう。だが彼女ではいけない。彼女の思考回路なんて、俺に読めるわけはない。
 考えれば考えるだけ、疑惑の中に取り残されて苦悩し溺れてしまうだけに違いない。フラットな気持ちでいなければ。ドキドキしてもいいけれど見返りを求めてはいけない。これは、完全に——片想い≠ノ、他ならないのだから。

「お前、花見なんてする柄か?」
「えー!?しますよ!季節行事と自然は、大切にする主義だもんっ」
「宴会が好きなだけじゃないのか?」
「あ、それだったら今から宴会だーって言ったら付き合ってくれます?」
「えっ、それはちょっとな……」
「冗談です!たまには静かに藤真さんみたいな人と、なんか綺麗なもの見たいなって思って」

 彼女はくちびるに薄笑いを浮かべてそう言う。藤真さんみたいな人──俺、みたいな人。俺みたいな人って、果たしてどういう人なんだろうか。そして彼女には俺みたいな人がいっぱいいるんだろうなとふと考えてかぶりを振るう。きっと彼女の言うそれは、高校時代か何かの他の友人たちのことを言っているのだろうと思った。

「——桜が、好きなんです。」

 ぽつりと言ったその言葉のあと彼女を見た刹那まるで高校生のような少女みたいに幼く見えたのは目の錯覚か。単に春が好きなのか言葉のとおり桜が好きなのか、それとも……もっとなにか別の要因が——。


 *


 小路は、紺色の暗闇に包まれていた。白い月の明かりが、つやのある夜空を照りかえしている。マンション近くを歩いているうちは街の光、音声や人の気配などがしとしとと伝わってきていた。だが、それもいまは過去のものとなった。彼女とふたり、ひとけのない夜道を歩いている。

「けっこうこっちは、人気のない道ですね」
「そうだな、昼間はすごい人なんだけどな」
「ふーん。ライトアップって言ったらもっと人が集まってそうなもんですけどねぇー」
「こっちからは裏手だ、またいで大通りから行くと混雑してるかと思うから」

 彼女は聞いているのかいないのかよくわからない横顔で前を見据えていた。彼女が黙りこむと、俺の意識もすうっと薄れてただそばにいることに満たされているような平和な安らぎを感じる事ができた。彼女の沈黙にはそのような作用があったのだ。だからいちいち彼女は今何を考えているのだろうなんて全然考えなかった。沈黙の中に深い憩いがあることに、俺は感謝していたから。
 友人たちと笑っている彼女、こうして桜を観て喜んでいる彼女、自由奔放で大胆な彼女、それらを俺はこの短期間でも見てきたけれども、沈黙を守るときの横顔が一番、彼女の本質が見えるときなのではないか、と思う。そうしてそこに居合わせていることを嬉しく思う。
 出会ったばかりのころは彼女のこうした一面は全く見ることができなかった。だから胸が苦しいけれども、しあわせに思う。


 やがて東の方角に紫に霞む桜の一房が漆喰塗の塀からはみ出ているのが見えてきた。直線を描いた光が夜空に向かって淡く弱々しく伸びている。その光を吸って、桜は本来の色よりも濃く紫の雲みたいに夜空の中に浮いていた。それがあまりに湿っぽく艶やかなのでまるで大輪の花のように、強い芳香をもっているのではないかと錯覚させるが匂いといえば彼女の髪の匂いがそよ、と香っただけだった。そんなことをぼんやりと考えている俺の気持ちなんて当たり前に知りもしない彼女は「おお!見えて来たぁ!」と言って、おそろしいほどに口角を吊り上げた。

「これよこれ。これが見たくなったの〜」
「お気に召してよかった」
「くぅ〜たまらないっ!お酒とお団子の匂いまでしてくる〜、あの奥はお祭り騒ぎですかねぇ?」
「……まあ、そうだろうな」

 やっぱり、それが目当てだったか。花より団子とはまさにコイツのために生まれた言葉なのだろうなと思う。肩をすくめたい気持ちが半分、そしてやっぱり彼女はそうでなくっちゃなという気持ちが半分——このまま夜桜を見た後は酒を買ってきっとたらふく食いもんを食って気づいたら俺に介抱されて……そんなことを容易に想定できる。
 そこで突然彼女は急ぐでもなく立ち止まった。不思議に思いながら彼女の横顔を見下ろして凍りついた。こいつ……めちゃくちゃにニヤニヤしていやがる。目をらんらんとさせてくんかくんかと匂いを嗅ぎながら歩き始めるその姿。獲物は傍にある、団子屋だろう……もはや飢えた肉食獣だ。もちろん獲物は俺ではない。みたらし団子が彼女の狙いなのだ。

「名前。顔がやばいぞ」
「えっ!?そうですか?顔に出てた?いやぁ〜、テンション上がっちゃう匂いがしたのでねぇ〜」
「通報される顔だったからな?」
「ひっどーい!今日は桜を堪能したい気分だから安心してくださいっ」
「本当にそうなのか?」
「うん。言ったじゃないですかー静かに藤真さんと花見する気分だーって」

 ちら、と彼女を見下ろすと、ご機嫌に微笑する彼女のそれは綺麗な横顔がある。白い横顔ごしに広がった燃えるような夜桜が、まるで彼女の持つオーラみたいだ。俺は、きゅっと締めつけられるような苦しさを感じる。苦しくてじわっと熱くてほのかに痛くて、でもそれが気持ちいい。痛いのが気持ちいいなんて、生まれてはじめてだ。この苦しさが一生続くなら、一生片想いのままならばそれはそれで幸せだろう。すくなくとも、彼女がそばにいない虚無の毎日よりは、ずっと。

「なんか、ほんといい匂いがしてますね」
「うん、タコ焼き屋も来てるみたいだな」
「違いますって!どんなデリカシー!?」
「は?」
「藤真さんの匂いに決まってるじゃん!」
「……お、おれ?」
「お風呂上りなんですよね?きっと、桜に匂いがついてたら、こんな感じなんだろうなぁー」

 ぬっと顔が近づいてきた——と思ったら、腹のあたりに鼻を突っ込まれて、ぎょっと叫びそうになる。俺が赤くなって慌てていると彼女は揶揄うようにニシシと笑った。その顔は……まずい。

「じゃあ、行きましょ♪」
「……あ、ああ」

 そっと俺のジャケットの袖を彼女が、きゅっと掴んで、身を寄せてくる。不思議に思って視線を下ろすと、なぜかじろりと横目で睨まれた。そうして今度は彼女がほんのり顔を赤くして言った。

「こっ、転んだら危ないからっ!」

 言い切ったあとは掴んだその袖を、ぶんぶんと振り回しながらぶつぶつとまだ何か言っていた。俺が面を食らいつつもそっとその手に自身の手を伸ばして重ねると彼女がようやく歩き始めたので俺も歩幅を狭めて歩いた。転んだら危ないからということは、手を繋いでもいいということだろうか。伸ばして重ねていた手を彼女の手首に這わせて自分の手のひらと彼女の手のひらを絡ませる。しかし彼女はもう夜桜のことに夢中で、手の所在など気にしていなさそうだった。道行く人々が、ライトアップされた景観を楽しんでいる。彼女の淡い桜色のカーディガンのひんやりざらざらした感触、その下にある彼女の体温。桜吹雪が舞って俺は急いで目を閉じた。次に目を開けるとそこにある彼女のまじめな瞳。ひらひら舞い落ちる小さな桜模様。「どうしたんですか?」と思いのほか優しい声を掛けられた。

「なにー?藤真さん、黙りこくっちゃってー」

 ……くちびるに、桜がついている。でも何だかとっても似合っているからもったいない気がしてまだ伝える気になれない。俺の世界に何の脈略もなく現れたこの感情のやませ方なんて、俺はまだ知らなくていい——。

「……名前」
「んー?」


 俺を、
 名前の世界に入れてくれ——。


「いや……べつに。」
「変な藤真さぁーん」

 彼女がふっと笑った。桜のいたずらが可笑しくて、それを取ってあげるのも楽しみで。俺も笑った。痛いけれど……幸せな片想いだと嬉しくて、笑った——。










 を知るとは、君を知ること。



(ずっと……このままがいいな)
(え、もしかして藤真さんも桜好き?)
(……ああ、好きだよ。——どっちも)
(ん?やっぱ今日の藤真さん変なのー)


※『 雪の音/Novelbright 』を題材に

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