幼いながらも自信に溢れる振る舞いとその年頃には珍しいと思われる、異性に対してもとっても優しかった藤真健司が、私は好きだった。
 あれは確か小学校の頃だったと思う。サラサラで茶色味がかった髪の毛がトレードマークの彼に「いつもサラサラだね、きれい」と、話しかけてから仲良くなったように思う。その印として私は彼を健ちゃん≠ニ、呼んだ。私にだけ許された呼称であることに特別を貰えた気がした。単純に嫌がられなかったことが嬉しかったのだ。

 彼はいつでもおともだちをたくさん引き連れていて子供が遊ぶ場所にしては適さない方の公園、怖いお兄ちゃんたちがうようよと溜まり場にしている空まで届きそうな程の高いバスケットゴールが設置してある方の公園でよく遊んでいた。男の子同士で話すときはあまり口数が多くはなかった彼だが私と話す時に限っては割と紳士的だったと記憶している。
 健ちゃんは私よりいくつか年齢が上だったからか私の面倒を見るようになった。街を歩くときははぐれてしまわないよう手も繋いでくれた。片手で数えられる程度しか遊んだことはなかったが、その中でも一度だけ藤真邸宅にあがらせて貰ったこともあった。出迎えてくれた彼の母親は着物姿で幼い私には珍しい格好であった為によく覚えている。なるほど、と。藤真健司の母親だとすぐに判断出来るほどには顔が似ていたのだ。おやつとして出されたロールケーキがとにかく美味しくてもっと食べたいと駄々を捏ねた時には健ちゃんがしぶしぶ、自分のケーキを半分わけてくれたのも覚えている。そのことが嬉しくて楽しくて、家に帰り一から十までを母に話し終えると「藤真さんのお家に上がったの!?」と叱られたのものだ。

 そうして時が経ち互いに歳をとると自然と彼に会うことが叶わなくなった。登校時に身につけているものがランドセルから、制服に変わったのを皮切りに私の遊び場や一緒に過ごす人も少しずつ変わっていったので、きっと向こうもそうだったのだろうと思う。今思えば、あれは初恋だったのかも知れない。

 東京で働き始めて在るバーにて可愛らしい色をしたカクテルを飲みながら、幼い頃を思い出していた。初めてこの街に来た時よりも所々街並みは変わっていたがどんな人間でも受け入れてくれる東京≠ノ変わりはない。
 友人と映画を見ようと待ち合わせを約束したのだがその友人が遅れて来るとの事で何処か時間を潰せるところか無いかな……とふらついていた。たまたま立ち止まったこの店は気が付かなければ通り過ぎてしまうような場所にあり私は好奇心で入った。カウンターのみで構成された店内は広いとは言い難くそれでも雰囲気は良かったのでそのまま腰を落ち着けたところだった。「甘めで」とオーダーしたカクテルも、それなりに美味しい。つまみのチーズを口にしたところで、人が入って来た。空いている隣の席にその人が座ろうとしてきたので、ついていた肩肘を引っ込めて、距離を取ろうとそちらを見てみると爽やかな香水の匂いを纏った、質の良さそうな黒いスーツをピシッと着こなしている、壮年の男性と目が合った。


「…………健ちゃん?」

 先程まで浸っていた思い出の人物が、そのまま大人になったような、それでも全く知らない他人にも見えた。思わず声を掛けてしまったその男性は目を真ん丸にして私を凝視し、思い付いたかのようにそっと、滑らかな声色で答えてくれた。

「……名前ちゃん、か?」

 柔らかいベロア生地を撫でるような声だった。私の知っている健ちゃん≠フ発していた声とは合致せずに少々面食らった。そして動揺もした。当然だ。今の彼はとうの昔に成人を迎えている。

「驚いたな。久しぶり、というかどのくらい振りかも覚えてないくらい、久しぶりだ」

 ぱっと明るく笑う彼を見て、ほっとした。彼の母親に似た優しい眼差しと少し垂れたような目尻が印象的な目元は加齢による皺が刻まれていても私の知っている藤真健司≠サのものであった。

「本当に久しぶり。まさかここで会うなんてね」
「ああ。このあたりにはよく来るのか?」
「うん。たまに遊びに来るけど、それなら街中で会う方がありえるのにね」
「俺はここによく来るんだ。ここは初めてか?」
「そう。私はさっき見付けて何となく入ったの。偶然かな?」

 バーテンダーが「チーズとチョコどっちにします?」と問うと彼は迷うことなく「チョコで」と言った。そうして「相変わらず甘いものが好きなんだな」と言って私の呑んでいるカクテルを見る彼の緩やかに弧を描く口元に生えた整えられた髭に男性を感じ取った。というか、チョコを頼んだあなたに言われてもね、と私は小さく笑う。それでも、あっと言う間にお互い大人なったのだなと改めて感慨深く思ったりもした。

「……その、なんだ。」
「なに?」

 彼はバーテンダーに出されたグラスに手を添えて私の方を見るもすぐに目線を自身の手元のグラスに戻す。それにつられて私も、自分のグラスに唇をつけた。

「綺麗になったな」

 あと一口という量だったので飲み干して、また先ほどと同じカクテルをオーダーすれば彼が目尻を下げながら言った。残ったカクテルの味のせいか舌が痺れている気がする。頬が熱いのは、そのせいと言うことにしておこう。

「——ねぇ、このあとって、空いてる?」

 彼の様子を伺うように、チラリと視線と質問を投げてみれば、思い出したように携帯電話のディスプレイを見る彼。そうして密やかに「いや、」と言われ、自分も声をかけておきながら十分前に友人からそろそろ待ち合わせ場所に着くと連絡が入っていたのを思い出し肩を落とす。もうすこしだけ話していられるかと思ったが向こうも予定があるみたいだし、私も先約があるのだから仕方がない。「急にごめんね」と言えば彼はいいよ、と言いたげに小さく一笑した。

「……彼女?」

 身支度をして、会計を済まそうと鞄から財布を出しながら不意に問い掛ければ彼に制止された。どうやら奢ってくれるらしい。この年齢になっても面倒を見られるのだと思うと、なんだか、くすぐったいような気持ちになる。

「いいのに……ありがとう」
「気にするな」
「健ちゃんは変わらないね。なんか安心した」

 それには返事をせずその代わりに彼はグラスの中身を一気に飲み干して、何とも言えない表情をさせていた。それを見てきっと、彼の中では変わったのだろうと悟した。私と同じように彼も歳を重ねた。互いに知らない間にたくさんの出来事が起きて、それを過ぎ去った今≠ェ、この空気を作っていた。突然会わなくなった理由も訊かれないので私も敢えて言わない。これが大人になる、ということなのだろう。

「じゃあ、今度ご飯でも食べに行こうよ」
「——まぁ、時間が合えばな」
「ロールケーキ!」
「は……?」

 このままでは暗い気持ちで店を後にしてしまうと察して咄嗟に声を張った。これが正解か如何かはさて置き彼は素っ頓狂な声をあげて、私と目を合わせる。

「昔、健ちゃんの家にお邪魔した時に食べたじゃない」
「よく覚えてるな」
「食べに行こう。ね、約束。連絡先も教えて?」

 ちなみに今彼氏は居ないので心配ご無用ですと付け加え、彼の目の前に小指を出せば、観念したような顔をして「お前は変わらないな」と言った彼は、私が差し出した小指に指を絡ませることはしなかった。

「また半分お前に食われるから断っておくよ」
「なんだ、健ちゃんも覚えてたのね」

 そろそろ向かわなければ友人にどやされると、私は差し出していた指を引っ込めて彼に帰る旨を告げ店を後にしようと踵を返した。そのとき——背後からそっと「彼女だよ」と言う声が追いかけてきて、私は彼に背を向けたままぴたりと動きを止めた。

「ごめんな、連絡先も交換できなくて」
「……ううん、」

「気にしてないよ」と背を向けたまま言い置き、私はお店を後にした。外に出て私はたまらず破顔した。子供っぽい約束の取り付け方に失敗。でもあんな行動をとってしまったのは彼の笑った顔に一緒に遊んでいた当時の面影を彷彿とさせたからだった。

 そんなことはさておき、彼には彼女がいるらしい。浮き足立つような嬉しいけれど、すこしだけ切ないこの気持ちを、私はもう知っている——。





 *


 彼女の唇から発せられる一言一言に耳を傾け、一所懸命に聴くのが俺の癖になっていた。彼女の声は基本的に小さくて注意深く聞き耳を立てていないと、真意まで読み取れない事が多いからだ。

 常から泣き出しそうな不安であるような表情をさせている印象が先行する彼女だが実際は丁寧で穏やかに話をしてくれるので、他愛もない会話をしている時間が俺はとても好きだった。そして、真綿に包まれたような柔らかい抑揚で自身の名前が彼女の唇から発されると、それがいつどんな時でも途端に、きらきらと美しい魔法にかけられた気分にさせられた。彼女の中に、俺という存在がある事が確認出来て、確信が持てて、とても安心した。


「なんでそんなに怒ってるんですかぁ?」
「……」

 それはこっちの台詞だ。怒っている。不貞腐れている。どちらとも取れるその口調だが、表情を見る限りでは、楽しそうであるようにも感じた。

 彼女は感情の表現を得意としてはいないらしいと気づいたのは出会ってすぐのことだった。いや喜怒哀楽が激しすぎて、感情の表現が下手くそと言った方が正しいかもしれない。
 きっと俺の知り得ない小さな頃からそばに自分と似たような人種がいたか、感情の豊かな相手と幾度となく言い合いを繰り返して来た過去が今の彼女を創り上げてきたのだと思う。そうだとすると何故か。胸の真ん中の辺りからきゅっと締まる様な息苦しい感覚に襲われた。
 この、言葉に云い表せない気持ちを、どうにか共有したくてそっと彼女の頬に触れた。その行為に返事をする代わりに俺の手のひらに触れた彼女は、困ったように微笑んでいた。

「盲目的なんだな」
「だって、いつも不機嫌そうにしてるから」
「その言い草が盲目的なんだよ」
「私は一緒にいたら楽しいのに」
「楽しいよ、とっても」
「私には、逆立ちしてもそうは見えません」

 逆立ち……してみせろよ、なんて言ったら本当にしそうだな。いやだが、むしろそっちのほうが良いと思っているのは、お前なんじゃないのか?いつか俺に裏切られると勝手に思い込んでいるから。自分を知って認めて貰いたいと、自分だけを見て欲しいという率直な欲求を俺に晒す割には、自身の華奢な心を壊されないように、これ以上は踏み込んで来るなと頑なに一定の距離を保とうとしている事を、俺は知ってる。彼女には俺の胸の内に拡がるわだかまりを解っては貰えないだろうと寂しくなった。そして俺も彼女が俺をどのようにしたいのか、きっと同じように解らないのだ。

「私のこと、嫌いですか?」
「そうじゃないよ」
「でも、好きとか、言ってくれないですよね」
「お前は、そういう軽い言葉が欲しいのか?」
「うっ……違います、けどぉ」

 その問いに対する答えを返す代わりに、彼女の手のひらに短く口付けをした。ごまかされているのだと解ってはいるのか彼女はなんとも不服そうな顔をしていた。

「……髭が、くすぐったいです」
「嫌か?」
「うーん……無い方が好きかも、しれませんね」
「じゃあ剃るよ」
「いや、それじゃあまるで髭が嫌いだって言ったみたいじゃないですか。強制したわけじゃ……」
「違うのか?」
「……どっちも、好きですよ?私は」

 彼女の髪の毛を耳にかけてそのまま髪を優しく撫で付けてやると、安心したような表情を見せてくれた彼女を見てこちらも胸の内のわだかまりが少しずつ溶かされていく様な気がした。
 寄り添い合う日々の中で生きている意味をくれたのはお前なんだと、いつも心で想い続けている俺の声は、彼女には聴こえていないのだろうな。

「藤真さんって、なんかずるいですよね」
「誰にでも……こういうことをしているわけじゃない、って言ったら納得するのか」

 すこしだけの沈黙。俺は考えていた。これだと誰にでもではないけれど、つまり特定の人物には彼女にしているのと同じことをしていると言っているみたいだなと。そしてきっと彼女はそう思うのだろうな、と。

「私だけは、違うってことですか?」

 俺が考え事をしているからか今度は彼女が俺の手を取りさっき俺がしたように手のひらに口付けて静かにそう囁く。

「名前だけは違う」

 そうして俺が囁いたその一言に、まるで彼女は魔法にでもかけられたかのようにパッと顔を綻ばせるのだ。その笑った顔が、とても好きだった。


「好きだよ」


 その言葉を聞いた彼女の眼球の表面を覆う水分に淡く暖かい色の照明がきらめいてまるで夜景を一望しているかのように見えたあの瞳を俺はいまでも、ふとしたときに、思い出すよ——。





 *


 ——四月。海外にいようと日本にいようとこの高層階の一室に隔離されるという事からはどうも逃れられない人生らしい。
 海外にありがちなガラス張りのこのオフィスの中で俺は大きな窓の前に立って遠くを見据える。ここから望める夜景も日本で見た夜景も、俺には大して変わらないように見える。
 するとそのガラス扉を開けて誰かが中に入って来た気配を背後に感じ取った。けれど俺は振り返りはせずにそのまま目を瞑って小さく息を吐く。

What's wrongどうしたの?」
「……」
「kenji?」
「……I want to see cherry blossoms桜が見たいと思って
cherry blossoms?」

 振り返って彼から書類を受け取り、その質問に返すように、軽く相槌を打つ。すぐに椅子に腰をおろし書類に目を通している横で先の言葉を投げかけてこようとした彼のスマホが鳴る。その電話を取ると彼は険しい顔をしてこちらを見た。それを見て「OK」と言うように手を翳して返せば、彼は足早にオフィスを出ていった。

 ふと、デスク上のカレンダーに目を向け改めてああ、日本はそんな時期か、なんて思った。特に仕事をする場所さえあればどこがいいなんていうこだわりはないが、四季のある日本はいいよな、とは、たまに思う。


「桜の……季節だな。」


 素直に言えなかった胸の奥の言葉。今ならありのまま君に渡せるだろう。
 囁けば届けられた距離。このゼロセンチの指先で、渡せた気になっていたのかも知れない。どうしてだろう、離れている今の方がこんなにも言葉が溢れ出てくるのは。
 めくれないままでいた夏の日のカレンダーは、あのまま君と一緒に過ごした部屋に置いてきた。送り先もわからない忘れものばかりだけれど心が壊れる音が聴こえた、あの日——。


 『別れよう——』

 『無駄な努力を重ねてお互いのことを完全に
  嫌いになる前に』


 俺は、自分を守ったんだ。きっといつか裏切られると勝手に思い込んでいたのは俺の方だった。自分を知って認めて貰いたいと、自分だけを見て欲しいという率直な欲求を彼女にぶつけていれば未来はもっと、変わっていたのかも知れないな。
 
 だから、ただただ願っている。何の悩みもなく毎日気持ちの良い朝を迎えてくれる事を。どうか幸せになって欲しい、と——。










 凍らせた、こころの 悲鳴



(ほんとはずっともっと、 一緒にいたかった。)


※『 Last Kiss/JUJU 』を題材に
※ Lyric by『 幾億光年/Omoinotake 』

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