絡まって解けない糸みたいに、時が経っていくほど硬く脆くなっていく。
 ひび割れたままの記憶を片付ける事もできずに綺麗な服を纏って、全て忘れたふりをしていた。
 きっとこのまま誰も愛さないし、誰にも愛されないと胸の奥ヒリヒリ痛む度にうずくまってそう呟いていた。幸せを願うことさえ怖くて泣き方もわからずに怯えていた。肩を抱く誰かの温もりに顔を上げるとそこに、あなたがいた。その腕の中聴こえてきた音はとても優しく温かい音でした。一つずつ心が解けていく、あなたと出逢い初めて愛を知りました。


 藤真さん≠健司≠ニ初めて呼んだ日からしばらく経った。本人は普段であれば特にどちらで呼んでも構わないという雰囲気だけれどたまに抱き合っている時なんかに名前を呼べと半強制的に指示されたりはする。
 彩子やリョータくんに『未だに藤真さん、っておかしくない?』とか『さん≠「らねーっしょ下の名前で呼ばないの?』とか何だか不満そうに言われる。でも、一つ年上なのだから『さん』と付けるのが礼儀だと思っていたし、かといって、多少なりとも特別ではありたいのも事実だから、『健司さん』にしようかとも思ったのだけれど、その案を出したら、何故か彩子とリョータくんに笑われた。どうやら私が恋仲にある年上の人を、さん&tけしていること自体が、似合わないのだそう。

「ねえ、藤真とさ、どこまでいったの!?」
「……リョータ、やめなさい」
「あの藤真のことだし、手早いんじゃない?!」
「ダメよ名前、激しいなら断らないと!」
「イヤ〜彩ちゃん、それは男として傷つくって」
「何言ってるのよリョータ!こういうのはねぇ、最後に傷つくのは女の方って決まってるのよ?」
「……」
「「——で、どうなの?」」

 仕事終わり、藤真さんとの待ち合わせ時間まで一人で時間を潰そうと歩いていたらこうして二人と鉢合わせになり三人で軽く飲む流れになった。以前、藤真さんと四人で入ったこのバーでお酒を片手にこの手の話題は大好物ですと言いたげに、ニヤニヤしながら私を覗き込む、高校時代からの最強コンビにして、親友の二人組。

「え?あ、いや、えっと……あ、藤真さんだっ!じゃあ、私は先に帰るね」
「え、ちょっと、名前ちゃん!?」
「あー、お代……」
「いーわよ、名前。ここは私のお・ご・り♡」
「じゃあ……ゴチになりまぁーす。」

 藤真さんが窓の外から私を見つけて目配せしたが彼はまだ仕事中なのか電話をしているみたいだけど、こうして無理矢理に二人から逃げる最近、敏感になっているこの話題——会うたびに『藤真なら早そうだよね』とか『藤真健司ってテクニシャンっぽいわよね』なんて言われたりする……。毎回私はハハハと曖昧に笑って流しているけれど実際は、展開が早いだなんてとんでもない。最近ようやく、その一線を越えたのだから。しかも、温泉宿で……正直はじめの頃は全くその類を見せない彼に対して私は自分に興味がなかったらどうしようなんて少し不安になっていたのだけれど。女子は本当に単純だ。一度めちゃくちゃに愛されてしまったら、沼にハマったように相手に対する好き≠ェ加速してしまうのだから。それを考えると先に彩子の言った「こういうのはねぇ最後に傷つくのは女の方って決まってるのよ?」という言葉が、ずしりと重く心にのし掛かってくる。
 また傷つくかもしれない恋愛≠ネんてしないって決めていたけれど、でもこの想いが加速するのを止める術なんて、私は知らないから。

 外に出て、藤真さんが電話を終えるまで窓から見える彩子やリョータくんとジェスチャーで軽く喋ってみたり私も携帯を開いてネットニュースを見たりしていたら通話を終えたらしい藤真さんが「悪いな、お待たせ」と、密やかに少しだけ屈み姿勢で私を覗き込んできた。見えげるように視線を返すと彼はすぐにお店の方を見て彩子とリョータくんに「じゃあな」と言うように軽く手を翳していた。彩子は丁寧にペコっと頭を下げリョータくんは明らかに「今度また飲もうぜ!」と笑顔で叫んでいるようだった。

「……さてと、マンションでいいか?」
「あ、はい。」
「ごめん、仕事がまだ残ってるんだ。晩御飯は、何かデリバリーでも頼もう」
「……はい、わかりました」

 言いながらまだリョータくんに手を振ってやや微笑している藤真さん。そっと、挙げていた手を下ろし歩き出したその背中に改めて目を向ける。私にもあまり見せることのない二人に見せていた柔らかそうな笑みを思い返せば、ドキドキする。

「偶然会ったのか?二人と」
「え?」
「ほら、メッセージで二人と軽く飲む事になったって送って来てたから」
「あ……うん、偶然……」

 仕事なのか携帯で誰かにメッセージを打ちながらも、タクシーを探すその目線をこちらに向けた彼と目が合って私は慌てて視線をそらす。見惚れていたのを隠したくて「歩きスマホ禁止です」とぽつり言えば彼は鼻先で笑って「了解」と、言い返しその携帯電話をポケットへと仕舞い込んだ。

「彩子たちに尋問されそうだったから藤真さんがグッドタイミングで現れてくれて助かりました」
「尋問?」
「あ、えっと……藤真さんとの、こととか。」

 ちょっと戸惑いながら答える。するとタクシーを捕まえた彼がタクシーが停まってドアが開くや否や、先に私に乗るように促す。それに従って、タクシーに乗り込めば「もっと詰めろよ」と優しげに目尻を下げて言われて不意に初めて彼と出会った日のことを思い出した。藤真さんが運転手に行き先を告げた後、タクシーはすうっと滑らかに発車した。

「俺とのこと……か。」
「あ、はい……しつこいんですよ最近あの二人」
「あいつら、俺たちのこと、面白がってるだろ」
「……ですね。」

 浅く笑いながらも、ため息をついた藤真さん。でも、きっと彼もわかっているはず。あの二人も私達のことをからかいながらも、応援してくれているってことを——。

「でも、すごく感謝してますよ?」
「ん?」
「だって、あの二人のおかげで、今またこうして誰かと一緒にいれる喜びを噛み締める事が出来たから……」
「……」

 そう——彩子とリョータくんと仲良くなかったら、バスケ部の練習を見に行かなかったし二人の協力がなかったら、あの当時、寿と付き合う事もできなかったかもしれないと、今なら思う。もしかしたら、昔のように好きになることもなかったかも。そして当時≠避け続けていた私の心の闇をこうして解放してくれたから。本当に感謝している。そんな私の顔を見て藤真さんが呟いた。

「……今、昔を思い出してただろ?」

 珍しく少し不服そうな藤真さん。くすりと笑うと「なんだよ」と言う彼に対して何か可愛いな、なんて思ってしまったのだけど何でもないと私は首を振った。
 藤真さんのバスケをしている姿を見る事は高校時代には叶わなかったけれど、寿のいない世界でバスケをしている藤真さんを見たら好きになっていたのかもしれないとも思ったりする。最初は、イケすかない人だなって思っていたが今ではこうして付き合って、彼のイメージが変わっていく。色んな表情の彼を知る度にどんどん好きになっていくのがわかる。こんな藤真さんを知ってるのは私だけだといいな、そんなことを考えている間にいつの間にか目的地にタクシーが到着していた。

「降りるぞ、雨で濡れてるから足元気をつけろ」
「ふふ、はぁーい」

 タクシーを降りると街からはまだ賑やかな声が聞こえてくる。それに背を向けて、少し先にあるマンションまで向かった。外に出ると空気の冷たさがまだ夏を遠くに感じさせる。雨が降ると一気に気温が下がるためこうして肌寒くも感じるが、これが日本の四季というものなので私は嫌いじゃなかったりする。藤真さんは「寒くないか?」と言いながら歩き出す。いつものように、先に私を気にかけてくれる彼の気遣いに、ぽっと胸がまたあたたかくなる。

「……あいつらに、何を言われたんだ?」
「え?」
「俺たちのこと、聞かれたんだろ?」
「あ、えっと……どこまで進んだの?って」
「……やっぱりな」

 つまらない事を聞きやがってあいつら、と藤真さんはまた、鼻先で笑う。けれどもその表情は、なんだか穏やかそうにも見えた。

「別に外野に心配されなくてもちゃんと進んでるって言ったら?」
「へ?」

 どういう意味かわからないままでいると、彼は私のいる後ろを振り返る。「どういうこと?」と言いたげに首を傾げる私に、その答えではなく、彼からは、疑問系の言葉が返ってきた。

「手、寒くないか?」
「……え、手?」

 思いがけない言葉に戸惑いながらも自分の手を見ると寒さで少し指先が赤くなっている。冷えているのは一目瞭然だったので「ちょっと寒いですけど……」と言い終わる直前——私の右手は彼の大きな手に握られ、そのポケットへと吸い込まれた。一瞬の出来事で頭がついていかない、わかるのは冷えていた指先に暖かさを感じることだけ。

「ほら、冷たい」
「……ご、ごめんなさい」

 こちらを見ないようにして浅く笑って言う藤真さんだけど何だか、らしくなくて堪えきれなくてクスクスと笑うと彼は「なに?」と、少し不機嫌そうな様子でこちらをジト目で見下ろす。私は、ポケットの中で繋がれていた手を恋人繋ぎに握り直した。そんな私の手を引いて歩く彼の隣で見えた景色は——とても、とても綺麗だった。

「藤真さんって案外、慎重派なんですね。きっとみんながこんな姿見たら、びっくりしますよ」
「みんなって、宮城たちか?」
「あ……はい、藤真さんはモテるだろうし、慣れてるんだろうなって、いつも言われますけど」
「……」
「私にだけ、こうだったらいいなぁなんて……」

 正直に伝えると、藤真さんはまるで「馬鹿らしい」と言いたげに、大きくため息を吐いた。

「俺は——昔から男からだけなんだよ、慕われるのは」
「え……?じゃあ……」
「……モテない。こういうの、慣れてもないよ」
「はい——嘘つきぃ。閻魔様に舌抜かれますよ」

 ハハ、と楽しげに笑っただけの藤真さん。モテないは、絶対に嘘だとして。でも本当は言いたくなかったかもしれない『こういうの慣れてもないよ』なんて。それに素直に、正直に話してくれたのが嬉しくて。自分とは釣り合わないかもと心配していたから、少し身近に感じられて安心する。気持ちが昂ってポケットの中で彼の手をきゅっと握り返すと彼が「ん?」と、こちらを向いた。

「よかったぁ〜」
「何が」
「え?藤真さんが、とんでもない遊び人じゃなくて。私なんか「すぐ飽きた」って捨てられちゃうかと思ってましたよ」
「そんなことしない。俺はちゃんと——」

 言いかけた言葉を明らかに『しまった』という表情で慌てて飲み込む藤真さん。それをめざとく見ていた私がすかさず期待を込めた声色でトーンを上げて「えっ?ちゃんと何ですか?」と問う。

「な、何でもない」
「えー!言ってくださいよ」
「言わない」

 それから頑なに拒否する藤真さんを散々揶揄って——自惚れかもしれないけれど、たぶん一番、私が言って欲しい言葉を藤真さんは言ってくれるつもりだったはずだ、って……。
 聞きたいけれどとりあえず今日は我慢しよう。この右手の暖かさを感じられただけで、充分幸せだから。気難しい彼だから、難しいかもしれないけれどいつかその言葉を伝えてくれるといいなと願いながら……。

「これからはあいつらに何か聞かれても答えなくていいからな?」
「ふふ、はぁーい」
「今日は随分、間延びした返事をするんだな」
「ははっ、厳しいなぁ。はいっ!」
「よし、合格。」

 なんて……藤真さんは嫌がるかもしれないけど女の子はお喋りなんだから、リョータくんは置いておいても、彩子には隠し事は出来ないよね。
 でも、今日のことはしばらく内緒にしておこうかな。だって、せっかく最近こうして恋人っぽくなれてきたんだもん、もう少しこの幸せを、二人だけで、味わっておきたいから——。


 *


 彼のマンションに着いて早々会社からかかってきたであろう着信に応えている彼にチラと視線を送る。玄関先で電話に捕まったために、どうやら靴を脱ぐタイミングを失っているようでとりあえず、そのまま話し込んでいるようだった。

 部屋の中へと促すつもりでスリッパを目の前に置いてみるが、彼の表情を見る限りではなかなか終わりそうに無い。「ああ」と、相槌を打っては聞き慣れない横文字をつらつらとその薄い唇から連ねているのを眺めていることにしてからすぐ、彼は盛大な溜め息を吐いて、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。あら、なんて恐い顔が出来るのかしら、なんてね。せっかくの綺麗な顔が怒りに充ち満ちていくのが分かって、矛先がこちらでないにしろ少し、背筋が張る雰囲気が伝わって来た。仕事をしているときの顔はいつもこんな感じなのだろうかと、少々心配になってみたりする。

「——いい。もう結構だ、この時点で埒が明かないのなら、一度そちらに戻る」

 彼がうんざりとした様子で電話を切った。最後相手がまだ、電話の向こうで何か言っているようではあったが多分藤真さんから無理矢理に切ったのだろうと想定する。

「健司、さん……」

 彼の名前を呼ぶのは、無意識に近かった。半ば強制的に終了させた会話の内容がどんなものかは聞いているだけでは正直分からないがやっと彼が時間を見付けて会えたというのに『戻る』の一言を聞いて、途端に寂しくなったのだ。恋しい、というのが近いのかもしれない……同じ屋根の下に居るのに、今だってその気になれば、触れられる距離だけしか無いのに——恋しいというのが今の私の心情にしっくりと来た。

「……」
「……」

 やや目を見開くその彼の心情は計り知れないが私の心情だけは汲み取ってくれたらしい彼が困ったような、呆れたようなそんな雰囲気で息を吐き出した。そうして先に私が置いたスリッパを履いて家の中へと入っていく。私は、その後を追う。彼はスーツのジャケットを脱いでハンガーにかけそのままソファーに、腰を落ち着かせた。普段はスーツのまま座ることのない彼の背を屈めて眉間を左手の親指と人差し指で押さえ込むその姿に、改めて彼の多忙さを身に沁みて感じ胸が詰まる。
 私はそっとその隣へ腰を下ろして目の前のテーブルに置いてあったテレビのリモコンでNetflix≠フボタンを押す。視聴中になっていた彼とこの部屋でよく見ていた海外ドラマの続きを再生すれば隣から、ふ、と鼻先で笑った声が聞こえた。
 手洗いうがいもしてないですね、とかスーツは着替えないんですか?とか。そういう言葉を投げかけてしまうと「このまま仕事に戻る」と言われてしまいそうで私は口を噤んでテレビの方に意識を向ける。彼と見る海外物は全て字幕がお決まりだったので、一心に字幕を追っているとちょうどそのとき、流れていたドラマの主人公がシリアスなシーンで、何とも王道な恋愛論を語っていた。ちら、と気づかれぬように隣の彼に視線を送ると無表情でもなく何やら難しい顔をしている。彼の視線はテレビの方を見ているけれど、その内容に夢中になっているようは表情ではなかった。

「初恋は——実らないって、よく言いますよね」
「……今、単純に字幕を読んだな?」
「……え、バレました?」
「実際は、ちょっと違うニュアンスだったぞ」
「でも本当によく、結婚は一番目に好きな人じゃなくて二番目に好きな人とした方がいいって言うじゃないですか……」
「……。確かに今の彼の表現はそう言ってたな」
「え……?」
「結婚相手は一番好きな人ではなく、二番目に好きな人を選んだ方がいい——と。」
「……」

 そのまま何故か私たちの間に沈黙が流れ、そのドラマもベッドシーンへと移ってしまって途端に気まずい雰囲気になる。けれども彼はそんな事を気にしてる様子もなく、ふう、と一つ息を吐いてネクタイを軽く緩めると天井を見て首を捻る仕草を見せていた。そのまま私がまた視線をテレビに向けたとき、隣でぽつりと彼が言った。

「付き合っている相手が、人生で二番目に好きかどうかなんて実際に分かる奴がいると思うか?」
「……え」
「そんな心理的な話はどうでもいい。俺は、一番好きな奴と、死ぬほど惚れた女と結婚がしたい」
「——、」

 私をじっと見つめるその瞳に——光をたくさん潜めて、その中に確かに私がいた。私は急に泣き出してしまいそうになって、言わずに抑えていた言葉をぽろりと情けない声色でこぼした。それは思っていた以上に、えらく弱々しい声だった。

「次は……いつ会えますか?」

 皮肉までも無意識に舌に載せてしまった辺り、私もまだまだ子供だと思った。きっと顔も明らかなほど不機嫌に仕上がっている。けれど私は悪くないのだ。彼が一度会社に戻ったら日付は跨いだ後に片が付くのだろうし、その頃には私も翌日の仕事が待っているから、長居は出来ない。数時間だけでもと思って楽しみにしていたのだから少しの悪態くらい許されるはずだ。これで、先ほどと同じくらいの溜め息を吐かれたらこちらから此処を飛び出してやろう、とまで考えに挙げていた。
 すると——先ほどの恐ろしい形相とは程遠い、柔和にも見える顔で、手招きをされた。そうして距離を縮めていけば、まんまと腕の中に引き寄せられて隙間なく抱きしめられてしまう。いびつに微笑んだ私の瞳の奥を見つめて、何も言わずに、強く抱きしめてくれる。全てを包み込むように。一つずつ心が解けていく。そうだ、私は彼のこの無言の『おいで』には、めっぽう弱いのだった。

「怒ったか?」
「そりゃあ、だって……」
「名前は、全部顔に出るから分かり易い」

 頭の天辺から注がれる低い声にやおら撫でられているようだ。スーツの隙間から外の空気の匂いと僅かな香水の匂いがして、もっと欲しいと強請るように顔をそこに埋めた。その腕の中——聴こえてきた音は、とても優しく温かい音だった。

「——藤真さんと、健司さん……どっちが、いいですか?」
「……どっちでもいいよ」
「藤真さんって、お仕事のときはいつもあんなに恐い顔をするんですか?」
「いつもと……変わりないと思うけどな」
「閻魔様みたいだった……私が舌を抜かれそう」
「……抜いてやろうか?」
「……遠慮しておきます」

 通話中の声音とも大きく差がありその変貌ぶりに堪えきれずこの温もりを失いたくないと埋めていた顔を上げて目を合わせて笑えば、音も無く、唇が重ねられた。思っていたよりも湿り気のある張りのある温かい唇が私の下唇を食む。そのまま甘噛みをすると舌でそこを執拗に舐る。彼がキスをする時に出す癖だ。口腔にいきなり舌を突っ込んでくる事もなく、こちらの息が保たないのを、閉じている私の唇が開いて彼を迎え入れるのを、
——私自らが彼の舌を強請るのを、待っている。

「……ん、」
「……、」

 焦らされているのが分かると余計に欲しくなってしまうのは何故だろう。ついさっきまでは彼に対して少なからずとも、八つ当たりに近いことをしたのに、もう如何でも良くなっていた。
 上手く手の平で転がされているのが分かっていながら、ここで意地を張るのも馬鹿らしくなり、『もういいよ』と言う代わりに舌で彼の唇の表面を舐めれば今度は歯で舌先を甘く噛まれて、やわらかい舌に絡め取られた。このまま此処で情事に耽りそうな勢いだ——でも、彼は絶対に此処では私を抱かないことを、私は知っている。

 一度離れて互いに浅く息を吸い彼が角度を変えてもう一度唇を重ねて来ようとしたところでワイシャツの胸ポケットに仕舞っていたであろう携帯電話のバイブレーションが震えた。小さく舌打ちをした、あからさまに機嫌を損ねた顔をした彼はその着信に応えるのかと思えば、それを無視して私の唇に吸い付いてきた。

「——ん、電話、でなくていい、ん……ですか」
「……どうせ、大した用じゃない」

 私の舌と唇が腫れ上がるのではというくらいに貪っているとも言えるキスを繰り返している最中でも携帯電話の着信を知らせる震えが止まらない事に痺れを切らしたのか、ちゅ、と控えめに音を立てて唇が離れる。彼の顔を見れば、微かに頬が上気していたが、すぐに通話をしていた時の顔に戻った。仕事となるとやはりこの顔になるのだと思った。私は堪らず、電話を取る前の彼にそっと語りかけた。

「やっぱり、今日中に帰ってきて」
「……善処する」

 わざとらしくそんな難しそうな言葉遣いをする彼の、私の左瞼の上に唇を落としたその表情は、和らいでいるように見えた。この顔を見られるのは私だけだ。私だけでいい、私だけがいい——。

 私もきっと同じように頬は緩んでいるのだろうと思いながら、彼の広い背中を見送った。不意に触った唇は、未だ熱で痺れていた。











 say you love me.



(——名前)
(……ん?)
(帰らないで、待っててくれ)
(……)
(必ず、帰ってくる。)
(……はい、待ってます、ずっと。)


※『 LOVER/m-flo 』を題材に
※ Lyric by『 ファーストラヴ/Uru 』

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