——校則抜粋——
 第1章 教育課程及び授業時間数
(教育課程)
 第9条、本校の教育課程は高等学校学習指指導要領の基準により、校長がこれを定め、委員会の承認を得るものとする。
 2.教育課程表は、別に定める。
 第2章 単位修得及び卒業の認定
(単位修得の認定)
 第12条 単位修得の認定は生徒の出席状況と平素の成績によりこれを行う。
 2.前項による設定の方法は、校長が、これを定める。
(卒業の認定)
 第13条 校長は、本校における所定の各数料に属する利目及び特別活動を履修し、その成果が満足できるものと認められた者に対して、卒業の認定を行い、卒業証書を授与する。
 第3章 入学、休学、退学、転学、転籍、留学及び出席停止
(入学)
 第14条 本校への入学は、校長がこれを許可する。
(休学、復学及び退学)
 第18条 生徒が疾病その他やむを得ない事情によって休学または退学しようとするときはその事由を具し、保護者と保証人が連署の上、校長に願い出て許可を受けなければならない。ただし、疾病による休学若しくは退学の場合は医師の診断書を添えなければならない。
(生徒心得)
 第22条 生徒心得は校長が定める。
 2.生徒は、別に定める生徒心得を守らなければならない。
 第4章 賞罰
(表彰)
 第26条 校長は、学業、人物その他をが優秀であって、他の模範となる生徒に対してはこれを表彰することがある。


 ——生徒の心得——
 生徒の心得は、教師と生徒の協力によって定められた心得で、生徒の守るべき規律と責任を示したものである。
 ——登校・下校
 1.生徒は、始業5分前までに登校するように心がけること。
 2.授業終了後は原則として、5時までに下校する。下校時刻以後居残るものは関係教師の許可を得ること。
 3.始業時刻から終業時刻までは、原則として校外に出ない。校外を出るときは、前もって担任教師の許可を得ること。
 4.休日登校は必ず事前に教師の許可を得る。登校・下校の際は、警備員に連絡すること。
 ——校内生活
 1.食事は昼食時に、教室、食堂等定められた場所ですること。
 2.掃除は規定のとおりに実施し、担当教師に連絡すること。
 3.放課後の部活動は、掃除その他の任務終了後、原則として5時までとする。早朝および5時以降活動する部は届け手をし、許可を得ること。
 4.部室の使用は放課後に限る。
 5.常に清潔、整頓に心がけ、校内の美化に、積極的に協力すること。
 6.校舎、校具その他一切の備品、教具等は、丁寧に取り扱うこと。
 ——校外生活
 1.常に本校生徒として自覚を持って行動すること。
 2.旅行、外出等をする場合は、必ず保護者の許可を受け、長期にわたる場合は担任教師に連絡する。


 *


「三井先生!なにをそんなに怖ぁ〜い顔して見てるんですかぁ〜?」

 卒業式当日——三年生を受け持つ教員たちとの軽い打ち合わせが終わり自席についた俺はそばにあった湘北高校の学生手帳をなんとなく手に取りその中身をまじまじと眺めていた。どうやら顔が顰め面になっていたらしく、斜め向えの席に座る女性教員からそんな声がけをされハッと我に返り顔を上げる。

「あ、いや……これ、うちのクラスの生徒のやつで。昨日、拾ったって持ってきた下級生がいて。なんとなく見てました」

 俺の時代から全く変わらない黒い表紙で手の平サイズのそれは一ページ目を開けばもくじ≠ニ書かれていて、順に『高校沿革』『校則抜粋』『生徒心得』『自転車通学許可願』『年間行事』と続いている。しっかりと全ての文字にフリガナが振ってあって、それを見ていたら目がチカチカしたので顰め面になってしまっていたのだろう。
 本来は生徒手帳を開いた一番前に学生証を入れる規則となっているが、高校生にもなれば自身の真面目腐ったツラなど誰も拝みたがるやつなどいない。大抵は手帳の一番後ろのポケットに入れるか、もしくは裏返しにしているか。そもそも生徒手帳自体を持ち歩いていない輩なんかも出てくるのが普通だ。俺の時代もそうだった。
 しかしこの手帳を落とした生徒、俺のクラスの問題児の女子は、しっかりと表紙の裏ポケットに学生証を入れており、珍しいなと思って、後ろのポケットを見てみれば、冬頃に別れたと風の噂で聞いた男子生徒の写真が入っていた。それは彼がインターハイで勝利に繋がったスリーポイントを打った瞬間のものだった。

「青春だなぁって……」
「へ?なにがですか?」

 物思いに耽って椅子の背に体重を預け窓の外を見やった俺にその女性教師はクエスチョンを浮かべる。俺は「いや、」と手を翳し、立ち上がる。そうして、いま眺めていた手帳を今日卸したてのスーツのズボンのポケットへと仕舞い、本日卒業する我がクラスの生徒たちが待っている三年三組の教室へと向かった。
 職員室を出ると、山積みの卒業アルバムを抱えながらキャッキャと駆け足で教室に向かう、別のクラスの女子生徒二人と鉢合わせになる。

「持ってやっか?」
「えー、やだ。ミッチー中見るでしょ〜?」
「バーカ。もうずいぶんと前に見てらぁ。てめーらのツラもしっかり俺の頭ン中に記憶されてんぞ?」

 ニヤニヤと後ろから身長の低い二人を見下ろせば睨め付けるように見上げてきた彼女たちは鼻を鳴らして「ほんとミッチーって顔だけ!」なんて吐き捨てて笑いながら駆けて行った。覚えたての化粧に校則違反のベージュのカーディガン。スカート丈もパンツが見えそうなほど短く通常ならば生徒指導でもある俺は注意せねばならないのだろうが、今日くらい、大目に見てやってもいいかとフッと笑みをこぼし、自身のクラスへとゆっくり歩みを進めた。

 卒業式は窓の外に青色の空を映したまま今年も無事に終了した。俺が推薦した男子生徒が答辞を立派に読み上げ頭を深々と下げたとき近くに座っていた教員達からも鼻を啜る音が聞こえてきた。かくいう俺自身も胸に込み上げてくるものがあり涙が溢れてくるのを抑えるのに必死だった。
 彼は、先ほど生徒手帳を落とした女子生徒の元恋人だ。彼のおかげで今年も湘北バスケ部は華々しい成績を収めることができた。彼が答辞を読み上げている最中、彼女は真っ直ぐに彼を見据えていた。そのとき彼女はいったい何を想っていたのだろうか。さて——じゃあ行くか。最後のホームルームに。

 三年三組の教室に向かっているときからすでに我がクラスの教室の方から笑い声や泣き声が階段にまで響いていた。なぜ問題児ばかりを俺のクラスに集めたのかと今更ながらに溜め息が漏れる。本当にこの一年は大変だった。でも生徒と喧嘩をしたり笑い合ったりしながら歩んだこの一年は、確実に俺も一緒に成長できた貴重な一年間だったなとは思う。
 ガラガラッ!と勢いよく教室の扉を開け放つと一瞬だけシン、となった教室内がすぐにガヤガヤと賑やかになる。そのまま俺が教卓に向かい生徒達の方に体を向ければ騒ぎ声はぴたりと止んだ。どうだ、校長……俺がここまでヤツらを優等生に仕上げてやったんだぜ、なんてな。

「よし、それじゃあ最後のホームルームすんぞ」

 俺の声のあと真っ直ぐ通った声で委員長の男子生徒が「起立!」と言う。それを合図に、残りの生徒も立ち「礼!」の声で一礼をする。そうして全員が席に着いたのを確認した俺は小さく深呼吸をしてから、ゆっくり口を開いた。

「あーっと、なんだっけな。忘れたわ……」

 しっかりと俺からの最後の言葉を一言一句聞き逃すまいの向けられていた痛いほどの視線が一瞬和らいで教室内に「もー」だの「ミッチー!」という声がこだまする。俺もふはっと笑い「悪い悪い」と全く反省していないふうに返した。笑い声が収まったあと俺は教室を見渡して、その視線を窓の外へと向けた。つられて同じように窓の方に視線を移した、数名の生徒の姿が目の端に映る。

「まあ……何度も言ってるけど先生はこのクラスだった。みょうじ、お前の席だ。」

 そう言って席を指差せば「急にビビった」と、指された生徒が声を漏らし、またクスクスと教室内に柔らかい声が響く。

「……卒業、だな。」

 ぽつり、そう囁くように言った俺の声がやけに教室内に響き渡り、その瞬間に一気にシンとした空気が立ち込める。同時にさっきまで「もー!」だの「ちゃんと締めて〜」だのと、文句を垂れていた生徒たちの啜り泣く声が聞こえはじめた。

「ダラダラと語るのは性に合わねーから、手短に済ませるぞ。じゃあ、先生からの最後の宿題だ」

 窓に向けていた視線を正面に戻してそう言えば生徒たちが顔を真っ赤にして俺を見ていた。ぐっとくるものを抑え込んで俺は奥歯を噛み締める。

「なおこの宿題は、提出期限なしだ。好きだろ?お前ら、提出期限なしって言葉」

 しかし、もう笑いは起きなかった。ただただ、教え子たちの泣いている音だけが俺も高校時代に過ごした、この同じ空間で聞こえるだけだった。

「どんな人間になっていい。優しくても利口でもなりたいものになれても、なれなくても。どんなに落ちぶれても、俺は怒ったりしねぇ」

 ——あの日、大切な人たちに見守られながら、未来を誓い合った幼馴染との特別な日に俺の恩師安西先生から頂いた言葉だ。初めて三年生の担任を持つことが出来たら言おうと決めていた言葉。俺は今日台本なしできちんと最後まで言い切れるだろうか。

「どんな人生でもかまわねぇ。ただし自分を好きと言える人間に。自分にだけは嘘をつかないで、誤魔化さないで信念を持って、真っ直ぐに——」

 青春を彩った甘くほろ苦いこの通学路を、あと指折り数えて、何回歩けるのだろうかと、教室のカレンダーに目を向けて月日が経つのは早いものだなって……

「先生はお前たちのことを——信じてるからな」

 来年の今頃、自分たちは……どこで、何をしているんだろうって、誰と一緒にいるんだろうってそんな風に感傷的になった素直で綺麗な心のまま日々の中で、ふと手を止めて思い出して欲しい。退屈だと思っていた日々だって、いつかは恋しいと思える日が来るから。やるべきことに追われているありがたさにきっといつかお前達も気付けるだろう。

「二十年後なりたい自分を想像してくれ。未来を想像してみてほしい、幸せになれ——ゆっくりでいいから、いつか面と向かって幸せになったんだって……聞かせてくれよ」

 負けるな。諦めるな。これからもたくさん襲いかかってくる孤独な闘いに——勝って見せろ。

「それが先生からの——最後の宿題だ。」

 号泣している教え子たちに圧倒されて俺の涙は引っ込んでしまい、眉間を寄せて面食らえば一番の問題児だった男子生徒がガタン!と席を立ったので、俺を含む全員が彼を見やる。


「三井先生——ありがとうございました……っ」


 初めて呼ばれた「三井先生」という呼び名に、思わず目を見開いて「は?」なんて、素っ頓狂な声をあげてしまった。しかしその生徒に続くようにバラバラに席を立った残りの生徒たちから、「ありがとうございました!」と頭を下げられ、俺は、満足したように左の口角を吊り上げた。

 お前たちを強く生きていける人間に育ててやりたいと思った。お前たちは、本当に俺の自慢だ。いつもお前たちは俺の心の真ん中にあった。俺はお前たちの担任になれて、幸せだったよ。本当にありがとう。卒業、おめでとう——。


 *


 最後のホームルームも無事に終え卒アルにメッセージを書いたり共に泣き、笑い合った友人たちと写真を撮っている生徒たちの横を通り過ぎ俺は一度、職員室へと戻った。
 他の先生たちと一緒に外に出て、卒業生たちと会話を交わして気づけばもう時刻は5時を刺そうとしていた。不意に今朝見た生徒手帳に記されていた『生徒の心得——授業終了後は原則として、5時までに下校する』という内容を思い出して、くすりと笑う。最後に、三年の校舎を見回ろうと歩き出しポケットに手を入れた俺はハッとした。

「やべっ——名字の生徒手帳……!」

 と、そのとき——三年三組の教室の窓だけが、開け放たれていることに気づく。ちらっと窺えばそこには、この生徒手帳の持ち主が見えた。もう卒業生も在校生もほぼ帰ったというのにまったく最後まで問題児かよ、なんて思いつつとりあえずその教室に向かうことにした。
 途中、まだ残っていたらしい在校生の二人組が廊下の窓を開けて写真を撮っていたため無視するわけにもいかず、声をかける。

「こら、中にゴミとか桜が入るだろーが」
「あ、ミッチーだ」
「あ、じゃねえ。ったく誰がこれ掃除すんだよ、窓閉めろ!」

 そう言いながら結局俺がさっさと窓を閉める。「あ!」と言う耳に刺さる声に「さっさと帰れ!問題児予備軍が!」と声を張れば、生徒らは楽しげに靴箱の方へと走って行った。やれやれと後頭部を掻きながら辿り着いた三年生の校舎。目指す三年三組の教室に着く手前で、話し声が聞こえてきたので、ふとその場で俺は足を止めた。


「——卒業、だな。」


 その声を聞いて、二年生の水戸だろうと瞬時に察した。彼女とやたら距離の近い相手だったのでそう思ったのかもしれないが。あと——その水戸が、非常に手のかかる生徒だったからというのもある。無意識に声を覚えていたのだろう。そして名前が……その水戸≠ニいう名前がなぜか覚えやすかったから。特に、深い意味はないけれど。

「……寂しい?」
「んー......ちょっと、な?」

 我がバスケ部のポイントゲッターと別れたのはもしかしたら俺のせいかもしれないと、ちょっと引っかかっていたので問題児という事ももちろんあるが、彼女のことを俺はよく気にかけていた。
 進路選択の用紙を、白紙で出し続ける彼女の元恋人に言った、俺のあの言葉——。

「推薦ダメだったんだから受験するんだろ?」
「まぁ……はい」
「彼女作って浮かれてんのもいいけどなぁ、今、最優先しなきゃならねぇこと他にあるんじゃねーのか?」
「……」
「頼むぜ」

 そう言い置き、ぽんと彼の肩を叩いて職員室に入ろうと廊下の先を何の気なしに見た時、そこにいたんだ——彼女が。俺と目が合いじっと見据えられたその視線に、何故だか気まずくなって俺は咄嗟に目を逸らした。そのまま逃げるように職員室へと入った俺にはあのあと二人がどうなったのかはわからない。ただ間も無くして二人が別れたらしいと、バスケ部の生徒から聞かされた。

「ねえ——水戸くん」
「んー?」
「ニケツ……出来なかったね。夢だったのにな」
「まあ、俺らチャリ通じゃなかったしなー」
「……たくさんバスケ、見に行ったね」
「ああ」
「ねえ、水戸くん」
「はい、水戸です」
「第二ボタンちょーだい」
「え」

 姿が見えないように、教室側の壁に背を預けて二人の会話を盗み聞きしていた俺も驚き、思わず目を見開く。下級生から卒業生がボタンをもらうシステムなんてあるのか?今の時代はそれが流行っているのだろうか……そういやボタンと言えば俺の高校時代の学ランの第二ボタン。一つ残ったあれだけはまだ実家に眠ってるな……と、こんな教え子たちの会話を聞いて思い出す。アイツは、誰かからその第二ボタンとやらを、もらったのだろうか。考えたくもないけど。よし——もらってないと言うことにしておこう。

「これで、いい?」
「……え、何が?」
「ボタンの代わり」

 その会話にそーっと教室を覗いてみれば、こともあろうに水戸が桜の花びらを彼女に差し出していて粋なことしてるな、と感心する始末。しかしその問題児が俺たち教師には絶対に見せない顔。リーゼントでもない、原付に乗っているわけでもない彼のその、眉毛を下げて困ったように笑った表情に過去、散々ぶん殴られた後輩のあの面影を彷彿とさせる。なんだか感慨深いんだか悲しいんだか……俺はまた、壁に背を預けて廊下の天井を茫然と見上げた。
 二人はこのまま付き合うのだろうか。鈍感だと称される俺の見解ではきっと、水戸は彼女の事が好きなのだろう。いつだったか彼女が補導されたとき一緒にいなかったはずの水戸が彼女を庇ったことがあった。俺は嘘をつくなと怒鳴ったが彼は断固として譲らなかった。俺が誘ったんだと。
 一方で部活を引退したあと生徒入り口で呆然と突っ立っているポイントゲッターを発見し、脅かそうと声を掛けたら彼は俺には何も反応を示さずじっと雨の降る外を見つめていた。その先には、元恋人の彼女と、水戸の姿——。

「居残りさせられるし」
「おぅ」
「単位足りねーって、怒られるし」
「足りねぇんだから仕方ねーだろ」
「傘……、持ってきてねぇし……」
「……ああ、」
「そんな簡単に、切り返れるもんなのかよ……」
「……」

 ぽつりと呟いた彼は、はぁと溜め息をついた。不幸のどん底状態の彼に対し俺は、一度ゴクンと唾を飲み込んでから「あのよ?」と、呟く。俺を一瞥したあとにゆっくりとまた視線を二人に向けたのにならって俺もその二人を見ながら言った。

「見えてるもんと真実は、違ったりすんじゃねーのか?」
「え?」

 知らねーけど、と付け加えて言った、あの日のことを思い出し、俺は苦笑した。
 ——そのとき「水戸くん、もう屋上」と言った彼女の声が遮られ、俺はもう一度チラッと教室を見やる。彼女は水戸の腕の中にいた。驚いて身動ぎしようとする彼女の頭を水戸が、ぐっと抑えたことで彼女の動きは完全に止まってしまった。

「こうしたら見えない」
「……え、なにそれ。ドラマの見過ぎ水戸くん」
「プライドっていうか、ポリシーには反するかもしれないけどな」
「え……?」
「最後だもんな、もういっか。今日だけ特別。」

 水戸はぽつり、「泣く事は、負けってことじゃないと思うぜ」と囁いた。彼女の、頭の上で。

「泣きたい時くらい泣いてもいいさ。泣きたいと思う自分を、泣く自分を、許してもいいんだ」
「……」
「それくらい許してあげないと壊れちゃうと思うよ。とくに、アンタみたいなタイプはな」
「……っ」
「……寂しくなるよ」
「……っ、う、ん——っ」

 語尾が震えたその声に、何故か熱を持ち始める俺の目の裏。必死に声は出さないよう泣いていた彼女の頭を何も言わずにずっと撫でていた水戸。
 コイツに、お前がいてくれてよかった。本当は俺が別れるきっかけを作ってしまったのだろうと思って後悔の念に押しつぶされそうだったから。

「あーあ、苦手なんだよなあ、コイツ。」
「……え?」
「って、思ってるだろ?みっちー、俺のこと」
「……」
「顔に出まくり」

 生徒指導室で二人きりになったときに彼、水戸から言われた言葉だ。お前には、感謝していた。だから俺はお前と——しっかり向き合うことが、できていなかったのかもしれないな。ごめんな、ありがとな、大切な俺の生徒を見ていてくれて、支えてくれて、守ってくれて。ありがとう——。


 *


「ただいま」

 彼女と一緒に住んでいるマンションに帰宅すれば、今日はオムライスらしく、彼女特性のソースのいい香りが玄関まで漂ってきて急に腹が減ってきた。リビングに入るや否や、珍しくソファーで読書をしていたらしい彼女の背後から読んでいたその本を奪い取ると、ようやく旦那様のお帰りに気づいたらしい彼女が「あ、おかえり」と言う。

「おう、何読んでんだ?……あ?桜=c…?」

 俺が表紙の題名をそのまま読み上げれば彼女は「そう、エッセイだよ」と返す。へえ、と相槌を打ち裏表紙を見ようと本をひっくり返したとき、ヒラヒラと床に何かが落ちたのでそれを拾い上げる。それは、透明なラミネートで出来た、しおりくらいのサイズで、中央に一枚だけ、小さな桜の花びらが挟まれてあった。

「なんだ、これ?」

 表裏をひっくり返してクエスチョンを浮かべる俺から「あ!」と急いでそれを奪い取った彼女がサッと自身の手帳にその謎すぎる物を仕舞い込んだ仕草を見て俺は、ニヤリと口角を吊り上げる。

「なんだよ、それ?」
「しおり」
「しおりぃ?そんな貧乏くせーちゃっちいヤツがか?」
「前の会社のラミネート借りて作ったの。自作」
「センスねーなぁ。小学生が作ったやつみてぇ」

 その言葉にジト目で俺を見やった彼女がふん、と顔を背けてキッチンへと向かった。俺は面白がって、その後を追う。

「なぁ、名前。何だよさっきの。教えろよ」
「だから、しおりだってば」
「ふーん……なんだお前、桜好きだったのか?」

 これ以上は相手にしてもらえないだろうと早々に諦めた俺がスーツのジャケットを脱ぎ、椅子の背に乱暴にそれを掛ければ、こちらに背を向けて茫然とキッチンに立ち尽くしていた彼女がぽつり好きだよ、と呟いた。

「……私ね、桜——好きなんです。」
「へえ」

 特に返す言葉も見当たらず、軽く相槌を打った俺は洗面所に向かって手洗いうがいをした。ふと先ほど見た、三年三組での光景を思い出しハッとして、うがいしていた水をゴクン、と飲み込んでしまって勢いよく咽せる。「大丈夫!?」と駆け寄ってきた彼女と、洗面台の鏡越しに目が合う。無意識に睨みつけていたらしい俺を見て彼女は、「な、なに……?」と後退る。俺はくるりと旋回し、彼女を廊下の壁へと追い詰めた。

「え、な……なに!?」
「おい……さてはさっきのよ、誰かからもらったとかじゃねーよな」

 彩子であれ……俺の威圧に根負けしてすんなり宮城なんて言った暁にはもうアイツとは絶交してやる。ましてや流川なんてもっとダメだ。100歩譲って桜木だ。そうだ、アイツならまだいい……最悪なのは、俺がうがいをした水を飲んでしまう程に動揺した相手。コイツか?と頭を過った——水戸だ。水戸だけは、絶対にあってはならねぇ。もしも、だ。もしも、水戸だなんて言ってみろ。さっきのあのセンスの欠片も無いブツをライターで燃やしてやる。ライターなんて持ってねーけどと、そんな俺の思考に反して彼女は地声で、は?と言い返してきた。

「今日は卒業式だぜ?嘘ついたら承知しねーぞ」
「ど、どういう論理!?」
「バカヤロウ!卒業生達に嘘つくなって、誤魔化して生きんなって言っといて嫁に嘘つかれてたらかっこつかねーだろうが!」

 彼女の両肩に手を置いて揺さぶる俺に、彼女は完全に呆れ返っていた。そうして意味わかんないとかなんとか、ぶつくさと小言をつきキッチンへと戻って行った。くそ……!今日は吐かせるまで寝かせてやんねーからな!覚えておけよっ!!










 さあ、は……手折られたよ?



(さっきの本、今日買って来たんだろ)
(え、そうだけど……なんで知ってるの?)
(GPSで本屋いんの見たから)
(……はっ!?寿、私にGPS付けてんの!?)
(おう。結婚する前からだぜ?知らなかったのか)
(何をそんな意気揚々と!こんのサイコパス!!)
(うっせ!嘘つき!誤魔化し女!!)
(はぁ!?子供か!あんたはっ!!)


※『beautiful/絢香』と『蕾/コブクロ』を題材に

 Back / Top