春の傲慢をくゆらせながら

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  •  いつもの道をいつも通りに登校する。そのありがたみを私たちは苦しいほどよく知っています。花の香りに、鳥の声に、春を、感じるようになりました。移りゆく季節の花は、その一瞬が儚くていつの時代も変わらずに、愛おしいです。
     胸が痛むほどの勇気と向き合った日々。震える弱い背中を支えてくれた、大切な仲間。今も心に残る、春の想い出たち。シワが増えた今でも桜を見るたびに、元気にしてるかな?と、日々の中でふと、手を止めてみることがあります。
     ——お元気ですか?今年の桜もいよいよ満開を迎えようとしています。今も大好きなバスケットボールを追いかけて、あなたは笑っていますか?
    ……ねえ、会いたいよ。





     18歳、春
    ― 18歳、春 ―



     湘北高校までの道のり。私の青春を彩った甘くほろ苦いこの通学路を、あと指折り数えて、何回歩けるのだろうか。
     教室に入りふとカレンダーに目を向けてみればもう二月の後半だ。月日が経つのは早いもので、気付けば私たちも、もう高三の冬を越そうとしていた。卒業が目前に迫っている。結局二年間同じクラスだった彩子と私。クラスは違えど安田くん潮崎くん、角田くん、それに……リョータくん。みんなそれぞれ進路も無事に決まって本当にもうお別れなんだなぁと改めて思えば、しんみりしてみたりする今日このごろ。
     放課後——どこかの誰かさんと同じように、今でも部活へ顔を出すリョータくんをみんなで冷やかしながら見送って帰り際にマネージャーの晴子ちゃんを見かけたら手を振って。陽が短くなったせいでもう暗がりの午後四時の通学路をリョータくんを除く、元バスケ部員たちと歩く。吐く息が白い。そんな中、ガヤガヤと騒がしい声がするなと思い視線を上げてみれば私達の前を歩いていたらしい桜木軍団を発見して、彼らの会話を全員で盗み聞く。これも今となれば、よくある光景だ。

    「そういや、もうすぐバレンタインじゃねーの」
    「今年は日曜らしいなー。キツいなコレは!!」

     野間くんと高宮くんがそんな会話をしていた。大楠くんは「まっ、俺は彼女が居るから関係ねえけど!愚かな意地の張り合いにはな!」と、ケラケラ笑っている。

    「何だとコラ!さっさと別れちまえ裏切り者!」
    「そうだそうだ、別れてしまえ!」
    「んだとコラア!!」

     冷たい潮風の中を三人が元気よく駆けて行く。「あーあ、行っちまった」と、取り残された水戸くんが、タバコをポケットから取り出して、その先端に火を燈しながら苦笑していた。

    「校門前で堂々とタバコ吸ってんじゃないわよ!水戸洋平!!」

     彩子が背後から声を張るとあからさまにぎくっというリアクションで肩を竦めた水戸くんが立ち止まり、ゆっくりと、こちらを振り返った。彩子を除く私たち四人がくすくすと笑う。なぜかそのまま、六人で横並びになって歩くスタイルとなり水戸くんはタバコを消し、ボロボロの携帯灰皿にまだ一口も吸っていなかったであろうその吸い殻を手際よく捨てていた。本来なら吸い殻を地面に捨てそうでもあるが今日はそれをしないらしい。流石に元スポーツマン達の手前、というか彩子の前なのでしっかりしている風を装いたいのかな?なんて。ふとそんなことを思った。そこはあえて聞かないけれど。

    「寒いのに相変わらず元気だね〜アネゴは」
    「ちょっと〜、年寄りくさいわよ水戸洋平」
    「あんたらより若いけど、でも寒いもんは寒い」
    「マフラーつけないからでしょー?」
    「そっちだってスカート短いくせに」

     水戸くんは彩子のセーターから、下5センチも出ていないであろうスカートの裾をピッと指差した。それを横目で且つ、ジト目で見やった彩子が溜め息にも似た白い息を吐きながらぽつり呟く。

    「観点がもうジジイね……」
    「ははは、すんませんねぇ」

     彩子はマフラーの中で言ったのに、その言葉をしっかりと拾ったらしい彼が、素直に謝罪した。そして急に静かになった駅までの帰り道。二酸化炭素入りの水蒸気は空へと向かって消えていく。鼻のあたまが冷たくて、ほんのすこし痛かった。
     駅に着く途中で水戸くん以外の同級生チームと別れ、水戸くんと私は、そのまま駅に向かった。水戸くん、バイトじゃないかな?もしバイトなら駅は使わないはず、なんて思いつつでもこのまま何も言わずに、甘えていようって思っちゃった。だって独りぼっちで電車を待ってるのって暇だし
    ……ごめん、ちょっと付き合ってね、水戸くん。

    「名前さんは大学だっけ?」

     水戸くんが、何の気なしにぽんと言葉を投げてきた。だから私は「うん」とただ頷いた。しかしすぐに、「水戸くんは?来年。就職するの?」と訊けば「うん」と彼も私と同じ返答をする。そうしてタバコのケムリがほわ〜っと舞い上がった。歩きタバコはダメなのに。まったく、生粋の不良なんだから。でもさっき彩子に待ったをかけられてしまったから身体の中がニコチンを求めて仕方ないのかもしれないから、ここは目を瞑ることにしようって、あえて注意はしなかった。

    「なんか早かったー、二年間」
    「あーそうか、名前さんは二年か。まあ、わりとあっという間かもな」
    「楽しかった、特に桜木くんの成長が」
    「はは、そっか」

     年が明けてからというものこうやってしみじみと、感傷に浸ってしまうことが増えように思う。来年の今頃、私たちはどこで、何をしているんだろう。誰と一緒にいるんだろう……って。
     桜木くんは大学からスポーツ推薦が来るだろうと今から既に陰で噂されていた。そして彼の夢は世界へ行くことらしい。初めてそれを聞いたとき軍団含めバスケ部員は喜んで騒いでいたが何故か水戸くんだけは周りの反応とは違ってハハと苦笑していただけだった。それがちょっと気になって声をかけようとしたらすぐに流川くんと桜木くんがいつもの喧嘩を始めてしまって水戸くんに声をかけそびれてしまったけど。そんなことを不意に思い出していたその時、市役所が鳴らす四時半の放送が流れた。煩いエコーの轟きが脳に響く。

    「私、てっきりさぁ?桜木くんは水戸くんと同じ道を歩むと思ってたっていうか……」
    「あー就職組ってことか。まぁ、最初はどーなることかと思ったけど、バスケに出会ってから人生変わっちまったからなー、アイツは」
    「……うん。」
    「もう俺らみてーなろくでもない道には来れねえから、ああなっちまうと」
    「……」
    「一回ハマっちまったらな。でも、それで良いんだ。花道はもう——大丈夫だよ。」

     水戸くんが空を見上げたので、なんとなく私もつられて上を向く。そこに、一番星を見つけた。どうやらそれは水戸くんも同じだったみたいで。どうして彼もその同じ星を見ているということがわかったのかと言うと小さな声で「あっ、一番星か……」って、彼が呟いたからだった。このとき私は何となく水戸くんにとってのヒーロー≠ヘ桜木くんなのかもしれないなって思った。じゃあ私は?私にとってのヒーローっていったい……、誰なんだろうか。

    「きっと、世界も夢じゃねーさ」
    「そうだね」
    「俺は——タバコでもやめてみるかぁ」
    「やめられる?今さら」
    「男に二言はないぜ?」
    「へえー?なんか意外」
    「はははっ、それ心外。でもやっぱ無理かもな」
    「もーぅ、なにそれー。どっちだよぉ」

     思わず頬がほころぶ。水戸くんは私にかからないよう配慮して肺から思いっ切りふーっとケムリを吐いた。残念なことに、副流煙が苦手じゃない私はもしかしたら近いうちに喫煙者の仲間入りを果たしてしまうかもしれない、なんて思ったのは単純に水戸くんのタバコを吸っている姿に憧れていたからなのだと思う。

    「——でも、俺も人生で一回くらいは……」

     彼はコンクリートに吸い殻を落として、それを踏み付けた。やっぱり毎回ご丁寧に携帯灰皿なんて使ってないじゃんって思って少しホッとした。だって……リーゼントのくせに携帯灰皿なんて、らしくないんだもん。そうして私は、水戸くんをそっと見やる。

    「誰かの憧れになるような——尊敬されるような人に、なってみたいもんだなぁ……」

     そう、自分に言い聞かせるように彼は呟いた。思わず、立ち止まってしまう。そんな私に構わず先を歩いていく彼の背中を、なんだかいつまでも眺めていたくなった。桜木くんだけじゃないよ、人間だから、みんな多少は成長できるの。そんな事を思ったら熱を持ち始める自分の目の裏——。

     たくさん悪さして来たね。死ぬほど先生に怒鳴られてたね。先生から逃げてきた軍団の誰かを、よく教室に匿ってあげたこともあった。赤点も、いっぱい取ったね。ケンカだって、たくさん……でも、どんなに今がろくでもない人生だとしても私達はいつかきっと胸を張って歩いていけるって最後くらいカッコよく、水戸くんに言ってみてもいいかな。水戸くんに、笑われたりしないかな。

    「……早く桜、咲かないかねぇ」
    「……え、桜?」
    「そう、桜。俺ね、桜——好きなんです」
    「……そう。」

     誰かの憧れになるような——尊敬されるような人になってみたい
     と、そう密やかに笑って言った彼の決意は脳を震わせた。また明日も、強く生きようと思えた。
     まだまだちっぽけな私達はいつだってスタートラインに立てるんだって今でも信じてるよ——。





     *


     桜木の木漏れ日が未来への地図になって行く。時代の流れの中で、出会いと別れを重ねて行く。また日をまたげば、心を殺して言う「じゃあまたね」って。また明日、会えることを願って——。
     退屈だと思っていた日々だっていつかは恋しいと思えるだろう。やるべき事に追われているありがたさに、きっといつか、私も気付くのだろう。
     さぁ、そろそろ行こうか。じゃあまたねって、拳を合わせて振り返る。それぞれに明日への轍を踏みしめて。私は大丈夫だよ、心配しないでね。
     卒業はなぜどこまでも切ないのだろうか。私はヒラヒラと舞い散る桜に、そっと手を伸ばした。でもそれを、一枚も掴むことはできなかったよ。

     卒業式終了後——いつもはグラウンドから響く部活動にいそしむ生徒たちの声も卒業式を終えた今日は、全くと言っていいほど聴こえてこない。
     三年三組の教室。私は、ある一つの席に座ったまま動けずにいた。机の上に置かれた携帯電話の通知のバイブレーションがさっきから五月蝿くて耐えきれなくなって鞄に乱暴に放り込む。そしてようやく重い腰を上げてガタンと席を立ち教卓の前にやってきた。私はしれっとその普通より少し高い机の上へ上がり、あぐらをかいて三年三組の教室内を見回した。

     風のように過ぎていく今日も明日の糧になって大人になったとき、今日のこの場所を思い出して何故か耽って泣いているだろう。いや……笑っていたいな。
     最愛の相手、幼馴染の彼の卒業式は雨だった。私達の始まりはいつも雨——なんて、嘘。今年の卒業式は快晴、雲ひとつない青空のまま、静かに幕を降ろしたよ。


    「白い光のな〜かにぃ、山並みは萌えて〜♪」

     今年の卒業生も去年と同様に王道の卒業ソングを在校生や保護者の前で歌った。彩子は泣き過ぎて全然歌えてなかったし、リョータくんはずっとニヤニヤしていた。それを見て二年生の赤い髪や黄色い髪、リーゼントに無精髭、パンチパーマのイツメンの面々は、声高らかに笑っていた。
     その、さっき体育館で歌った歌が、今でも脳裏から離れず、自然と口づさんでしまう。私はどうだったのだろう。しっかりと、歌えていたかな。

     人生ってなんだろう——って考える。我ながら重苦しい話題だな、と苦笑せざるを得ないけど。だって生きる事に疲れる日もあるし。毎日全力で毎日フルパワーで、毎日必死で、私はこの人生にしがみついている。負けたくないって。諦めたくないって。そしてそれはなんて孤独な闘いなんだろうって。
    自分≠フ人生って、どうしても主人公は自分で考えるのも自分でやるのも自分で、自分が動かなきゃ何も始まらない世界で。今日まで意味もなく必死に走ってたら息切れがした。だから立ち止まりたくてこうしているのかも。明日からまた走るために……なぁーんて、まるで答辞≠ンたいな臭いセリフを心の中で呟いて俯くと最前列の子の机の落書きが見えた。流川くんの似顔絵だ。ついくすりと笑ってしまう。すると、ガラッ——と、教室のドアが急に開いた。

    「あ」
    「あ」

     ドアの向こうには一個下の二年生、通称湘北の番長≠アと、水戸くんが制服姿で立っていた。彼は誰かと電話をしていたみたいで「や、いい」とだけ短く言い置き電話を切った。何となく彼女かな、って思った。本当に、なんとなくだけど。

    「名前さんだ。え、なにやってんの」

     けれども彼は私を見るなりプッと吹き出して、いつものように眉を下げて柔らかな表情を返してくるのだ。「ここ名前さんのクラスじゃないよな?」と言いながら教室の扉を閉めて、なぜか窓際の一番後ろの席へと向かっていく。私は片膝に頬杖をつきながら、その背中に声をかける。

    「……別に?教卓に乗ってみたかっただけだよ」
    「んー、じゃあなんで、乗ってみたくなったの?相変わらず、おもしろい感性を持ってるねぇー」
    「水戸くんは?三年生の校舎で何してんの?」
    「んー、なんだろ」
    「あ、屋上にタバコ吸いに行くとこだ?で、なんとなーく三年生の校舎歩こうかなーって感じ?」
    「うん、正解。新しいでしょ」
    「あはは、なにそれ」

     水戸くんもハハハと笑った。そしていまさっき座ったばかりの席を立ったと思ったら、そのまま教卓までやってきた。屋上に行くのかと思いきや意外。彼は教卓の真横に立って片方の肘を教卓に乗せて、窓の外を見やる。私の胡座をかいた膝と水戸くんの学ランが、微かに触れ合う。なんだか気まずくてそっと体育座りに切り替えて膝を抱えた私は、もう少しだけ会話を続けることにした。

    「水戸くん、帰らないの?」
    「そうだな、帰らないとな」

     水戸くんは言いながらくるりと黒板に向かってチョークで何か描いてるみたいだった。背後からそんな音がしたから。未だに教卓の上で体育座りをしている自分には、彼が何を描いてるかまではわからないけど。私は教室をぼんやりと眺めた。後ろから聴こえる水戸くんのチョークを走らせる音がやけに教室内に響いている。
     不思議な沈黙が生まれた。ただ……嫌じゃない沈黙だな、と思った。沈黙に耐えられる相手ってあんまりいないから実に不思議だなと思う。水戸くんはいま、何を考えているのかな。なにを想いながら、落書きしているんだろう。

    「——できた。カリメロ」

     水戸くんがそっと呟いた。私は、くるりと振り返る。黒板には毎年恒例の『卒業おめでとう』の文字と共に綺麗な桜の木や今流行りの何かの絵。その隅に、なんとも評価しがたい微妙な黒いヒヨコ——いや、白いチョークだから、白いヒヨコが結構なサイズ感で描かれていた。落書きの定番と言えば誰しもがアンパンマンとかドラえもんとかを書くんじゃないのかな。なんで、カリメロ?と思いながらも、私は淡々と感想を述べる。

    「意外とうまいね」
    「なにその棒読み? 傷付く」
    「いや、私よりはうまいから大丈夫だよ」

     そう?と水戸くんは飄々と返して、黒板消しでキュッキュッとその落書きを消した。そして次はミッキーにしようとか言いながら今度は別の色のチョークを持ってまた落書きを始める。急にどうしたのかな、落書きしたい気分なのかしら?と、彼を流し見て私が窓に目を向けたその時だった。


    「——卒業、だな。」


     水戸くんの凛と通った声が教室にこだました。鼓膜に震えて……水戸くんの声が聞こえたんだ。急に教室内にピン、と張り詰めた緊張感が走る。

    「……寂しい?」

     ——寂しい?なんて。なんで彼に、そんな事を聞いているんだろう。何を言ってほしいんだろ。水戸くんに、私はいったい何を期待していたのだろうか。それでもきっと彼なら、絶対に——

    「んー......ちょっと、な?」

     ……やっぱりね。そう言うと思った。校庭の桜の木が揺れている。移りゆく季節の花が咲き誇る姿はその一瞬が儚くて、愛しい。そして外からは時たま、まだ残っているらしい卒業生や、在校生たちの笑い声が風に乗ってここまで届いてくる。
    ……うん。そうだね、卒業……だね。

    「——たまに思うんだよな。楽しくもねーのに、笑えるかよ、って。ほんと、たまになんだけど」
    「……」

     水戸くんの声とチョークをキュキュと走らせるやや耳障りな音が混ざり合って、鼓膜に心地よく響いてくる。チョークの音って、苦手だったはずなんだけどな……水戸くんってやっぱり凄いな。

    「別に嫌とか辛いわけじゃないんだけど。毎日、楽しいけど。青春してんなーって思うけど」
    「……」
    「たまにすごい疲れる。何も考えたくなくなって何もしたくなくなって誰も、何もないとこで一人で、無になりたいと思うっていうかさ——」

     水戸くんの声と同時にチョークを滑らせる音が止まった。「ミッキー」という呟きに振り返ればウォルト・ディズニーが顰めツラをして腕組みしそうなネズミの絵。しかも青色だから、なんだか禍々しく見えてきて、思わず笑ってしまった。

    「水戸くん、絵の才能ないね」
    「……お、出たな本音!」
    「ごめんごめん」

     校舎内にチャイムの音が響く。彼と目が合う。あんまりこの子の顔を、ちゃんとまじまじと見たことがなかったから、ちょっとだけ緊張した。
     チャイムが鳴り止んで私は目を反らしたけど、たぶん彼はまだこっちを見ている。そう、私を。すベてを見透かすような、その鋭い瞳で——。
     気まずくて「よいしょ」とわざと声に出し教卓を降りた私はそのまま窓辺に立つ。ややあって、隣に水戸くんもやってきて、開け放たれた窓から入ってくる春の香りを、二人で目一杯に浴びた。

    「ねえ——水戸くん」
    「んー?」
    「ニケツ……出来なかったね。夢だったのにな」
    「まあ、俺らチャリ通じゃなかったしなー」
    「原付だもんね。たくさんバスケ見に行ったね」
    「ああ」
    「あのね……私も好きだよ、桜。」
    「そう」
    「ねえ、水戸くん」
    「はい、水戸です」
    「第二ボタンちょーだい」
    「え」

     くれ、と言わんばかりに、右の手のひらを差し出した私に目を見開いて固まっていた水戸くんはすぐにハハハ、と眉毛を下げて困ったように浅く笑ったあと、真っ直ぐに窓の外を見た。その彼につられるように私も差し出していた手を下ろして窓の外を見れば風が吹いてきた……ねえ、この風は、あなたですか?次の春も、吹きますか——?桜吹雪が舞っている。それはまるで……桜が空を泳いでいるようだった。

     すると突然、水戸くんの右手がぐっと窓の外に伸びて驚いている間も無くその手が私の目の前に持ってこられる。小首を傾げた私と、手のひらを開いて見せた水戸くん。そこには、桜の花びらが乗っかっていた。小ぶりで、鮮やかなピンク色をした……とっても儚い、一枚の花びらが——。

    「これで、いい?」
    「……え、何が?」
    「ボタンの代わり」

     そう密やかに言って彼はやっぱり眉毛を下げて困ったように笑うのだ。
     私がどんなに手を伸ばしても決して掴むことのできなかったそれを彼の手のひらからそっと受け取り、私は両手で大切そうに抱えこむ。そうして窓に背を預けるように体勢を変えた私は、小さな声で、ぽつりぽつりと話し出す。

    「ちょっと……でも、そう言うのさ?軍団とか、そのへんには言わないの?あ、でもそれって水戸くんのガチな悩み?それとも、ただの心の声?」
    「うん」
    「でも相談しても元気出してーとか、がんばれーとかって言われて終わりだよね、みんなおんなじこと言うの。そりゃ他に言う事ないだろうけど」
    「うん」
    「え、なんかそれやだね、腹立つね!」

     ——あ、やばい。私、声震えてるじゃん。急に喉の奥が痛くて。気付いたら私は、泣いていた。

    「がんばれじゃねーよ、って、思うよねぇ……」
    「……」
    「みんな頑張れ頑張れって言うけどさぁ私はもう頑張ってるよ、もうとっくに限界なんだよ……。これ以上どうしろってね。死ねってか?なんて」
    「……」
    「頑張れって言われて苛立つくらい、限界だよ、わたしは……」

     こんなに頑張ってるじゃんって。もう、頑張れないよって。何を頑張ればいいんだよって。誰もわかってくれないんだ。私しかわからない事なんだろうけど、って。その繰り返しだった。てかさいまさらだけどさ。「ミッキー」って、なに?「みっちー」って言ってるのかと思ってドキッとしたじゃん。なんだよ、もう。ミッキーってさ。ミッキーって……。

    「……ごめん。結局、なんの話してたんだっけ?でも、ありがとね逆に。なんか言わせてくれて」
    「……」
    「水戸くん、もう屋上——」

     無様に泣いてしまった涙を見られたくなくて、セーターの袖で、涙を拭おうとした刹那——肩を引かれた、と思ったら。私は水戸くんの腕の中にいた。びっくりして顔を上げようとしたらぐっと力を込められて私の動きは止まってしまい、彼の顔を確認することは出来なかった。目の前に水戸くんの胸。校章。タバコの匂いと、ほのかに香るムスクの香水——状況が、よくわからない。

    「こうしたら見えない」
    「……え、なにそれ。ドラマの見過ぎ水戸くん」
    「名前さんのプライドっていうか、ポリシーには反するかもしれないけどな」
    「え……?」
    「最後だもんな、もういっか。今日だけ特別。」

     水戸くんは、ぽつり「泣く事は、負けってことじゃないと思うぜ」と呟いた。私の、頭の上で。

    「泣きたい時くらい泣いてもいいさ。泣きたいと思う自分を、泣く自分を、許してもいいんだ」
    「……」
    「それくらい許してあげないと壊れちゃうと思うよ。とくに、名前さんみたいなタイプはな」
    「……っ」

     ずるいよ、水戸くん……何で今なの。今日——卒業式なんだよ?私もう、明日からは、ここには来ないんだよ?なのに……どうしろっていうの。
     でもね、本当はね、私……こうやって水戸くんに慰めてもらいたかった。彩子やリョータくん、桜木くんに流川くん。晴子ちゃんも私の幼馴染、寿だって。みんなにはいつだって、バスケットがあった。もちろん私も、一丸となって応援した。あの時の気持ちに嘘はないの。でもやっぱりたまに、みんなを遠くに感じたりしてたのも事実で。

     そんな時いつだって私と同じ立場で同じ目線で見ていてくれた人、支えてくれた人。水戸くん。
     遠くを見つめて溜め息をごまかしても、そんなときはそっと気にかけてくれた。いつも触れない距離にいてそれでもいつも強くて、いつも優しくて。出会った頃も今も変わらずに見守ってくれたから。でももう本当にお別れなんだね。明日からはこうして、甘えられる場所はなくなってしまうんだよね。彩子やリョータくんの事は、もちろん大好きだし親友だって思ってる。でも、水戸くんとはもっと違う何か……恋ではない、何か特別な存在だと互いに思ってた、なんて言ったら、おこがましいかな。

    「……水戸くん、脚本家でも目指してるの?」
    「はは、いいや?」
    「なれるよ、多分」
    「名前さん」
    「ん……?」
    「……寂しくなるよ」
    「……っ、う、ん——っ」

     語尾が震えた。必死に……声は出さないようにって思いながら、泣いた。水戸くんの学ランが、びしょびしょになっても、バカみたいに泣いた。彼が甘やかしてくれるって、遠回しに言うから。散々甘えてやろうと思ったんだ。気が済むまで、泣いてやろうって思ったんだ。でも今までだって散々甘やかしてくれたから……これが最後。水戸くんに甘えられるのは本当にこれが最後になるんだよね。でも秘密にしてね。お願いね水戸くん。私が泣くのも、あの人以外の胸を借りて泣いたのも……ぜったい、誰にも言わないでね。約束ね。楽しかったよね、幸せいっぱいだったよね……、寂しいね、最後まで、本当に沢山ありがとうね。

     水戸くんは何も言わずにずっと頭を撫でてくれていた。最後まで本当にごめんね、私はただ疲れただけなんだ。休んだらまた走るから。今はこのどうしようもない私を許して下さい。言葉はいらない。全て、わかっているから。いまだけ、立ち止まることを許して下さい。そしてこれは二人だけの、秘密にしてください。こうして水戸くんの胸の中で泣いたことも一緒に教室を出る前に水戸くんが描いたミッキーの左顎に赤色のチョークで傷を描き足して、ふたりで、クスクス笑い合ったことも——。

     水戸くんにこそ聴いてもらいたかった。そして言ってもらいたかったのです。泣いたっていいんだ≠チて——。そして私は、ずっとこうして、水戸くんから、抱きしめてもらいたかったんだ。

     守られてた日々が、一緒にいた日々が、たとえ思い出に変わっていっても、私のヒーローは——ただ一人、白馬に乗った王子様なんかじゃなくて桜色の、原付バイクに乗った水戸くん……あなたでした。











     切り捨ててきたいとい。



    (初めて言われたよ。先輩からボタンくれなんて)
    (じゃあ来年の卒業式に貰いにくるから)
    (ははは、鬱陶しい卒業生扱いされるぞ)
    (いいじゃん。死守しといてね、絶対!)
    (んー、それは約束できません)
    (え〜、ケチっ!!)


    ※『You're my HERO/EXILE ATSUSHI』
     『 風/コブクロ 』を題材に
    ※Lyric by『サクラ/絢香』『I gotta go/GeG』

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