黒と白とで準える
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——見てしまったものは、仕方ない……。水戸くんが『でも俺は洋画ばっか。お気に入りは��フィフティシェイズオブグレイ�≠チて映画』って。『曲が好きでさ、いっ時あればっか見てたなぁ』なんて、言ったから。
だって……もう見ちゃったんだから仕方ない。でもそのときちょうど私の部屋には彼氏——寿がいた。だって……もうすぐインターハイだから。お父さんに広島行きの許可を取らないといけないなと思ったから。わざわざ彼が説明に来てくれるって言ったから、お父さんが午前中にいる時間を見計らって、彼が私の自宅に来たんだ。
久しぶりに入った私の部屋で、レンタル屋さんから借りて来たDVDを彼が見つけて——だって官能映画だなんて、思わないじゃない。私を抱き抱えるように背後に彼氏。自宅には誰もいない。テレビからは官能映画。そしたらさ、自然とああなってしまったのだから、仕方がないのだ。私のせいじゃない、これは——ぜったいに。
「……ちぇ。なんか最近ツレねーよなぁ、洋平」
私の横に座っていた大楠くんが唇を尖らせて、ぽつりと呟いた。どうやら水戸くんに電話をかけていたらしいが、一向に出なかった模様。
「ま、しゃあねーわな。夜のバイトしてんだろ?顔イイからな、洋平は」
「疲れて寝てんだろ」と大楠くんの隣で野間くんが笑ってそう返した。するとその横に座っていた高宮くんがこちらを向いて「バーテンダーらしいぜ。いっちょヒヤかしに行くか?」と、ニヤニヤ締まりのない笑顔で囁く。
「洋平器用だからなー、多分そこらのバイトより金になるんだろーなぁー」
「未成年のくせして」と高宮くんがアハハと笑いながら言うと「そーだなー」と残りの二人も感心しているんだか、呆れているんだか緩く笑った。
夏休み真っ只中——体育館の入り口。もうすぐ準備運動を終えたバスケ部員が、本日もハードな練習を開始しようとしている。彼らの話が真実か否か。それでも私は「えっ?水戸くんって、夜のバイトしてるの?」と聞くタイミングをまんまと逃してしまった。だって、あんな映画を勧められた後だし。夜のバイトをしていると言われても、あながち間違っていないようにも聞こえてくる。しかし、いつもこの定位置で桜木軍団4人とゲラゲラ笑い合ってバスケ部の応援をするのが日課になっていたため誰かがこうして一人欠けてしまうのは寂しいやら静かでいいやら……うん、寂しいかも、やっぱり。
「ねぇ?わたし気になってたんだけどさ、なんで水戸くんってかっこいいのに、彼女いないの?」
シュートを外して悶えている桜木くんを眺めていた三人に向けてそんな質問を振ってみた。すると三人は顔を見合わせて、ふはっと笑う。この子たち彼と中学からの付き合いみたいだし知ってると思うんだよね……と私はなんとなく向こう側にあるバスケットリングの方をぼうっと見つめる。
「まぁそうだなー、あいつ中学ん時も彼女いなかったからな。多分付き合ったことねーと思うぜ」
そう言って大楠くんが「な?」と、他の二人に同意を求めた。二人は大楠くんに向けていた視線をゆっくり桜木くんの方へと移した。そして野間くんが後頭部を掻きながら、それに応える。
「なんつーか……彼氏彼女とかの次元じゃねぇんだよなーアイツは。ただ、中二のときの荒れようったらなかったぜー」
「毎日女とっかえひっかえ!男とは毎日殴り合いの喧嘩!洋平喧嘩最恐伝説はこっから始まってるわけよ」
野間くんが言ったあと、高宮くんが人差し指をぴっと伸ばして得意げにそう言った。
��洋平喧嘩最恐伝説�∞�毎日女とっかえひっかえ�=c…本当なのだろうか。俄かに信じがたい。この子達いつも私を揶揄ってくるからなぁ。真実なのかな?でも水戸くんの家庭が複雑なのはなんとなく耳にしてたから……お父さんが夜逃げしてお母さんが夜の仕事に走っちゃって子供作っちゃって、とか。他にも水戸くんは毎日、年の離れた妹の面倒に明け暮れてるとかなんとか。けれど、これはいわゆる��風の噂�≠ニいうやつなので本人から聞いていない内は色眼鏡で彼をそんなふうには見たくないと思っている。ただ仮に本当にそういう問題を抱えているのだとすればハードなバイトで稼いだお金はすべて、生活費に消えていっている可能性もあるのか……。
「まだ15歳なのに……大変なんだね、水戸くんわたしとは大違いだわ……」
「まーな。洋平に比べたら俺らなんて、まだまだガキだよなぁー」
大楠くんが乾いた笑い声を出した。なんとなくだけど多分、大楠くんが一番わかってるんだよなぁ、と思う。水戸くんのことを。そして水戸くんが一番信頼しているのは桜木くんで多分桜木くんもそうなんじゃないかなって。桜木軍団はみんな大親友なんだろうけど水戸くんと桜木くんはどこか、別格な気がする。わかんないけど。
「誰がガキだって?」
背後で、心底呆れたような声音。その場にいた全員で恐る恐る振り返ると、そこには……
「ぎゃあああ洋平いいい!!!」
「ぎゃああああ!!!!」
「出たあああ!!!」
「うるせーよ!だーもー、急に大声出すなよな」
絶叫する軍団をよそに水戸くんはスパコーンと軍団たちの頭に、キレイに手刀をお見舞いする。そうして「よいしょ」と声に出しながら私の隣に腰を下ろした。あぐらを掻いた水戸くんの横で、なぜか正座に切り替える男三人と、わたし……。
「本当に寝てたのかぁ?」
「パチンコ帰りじゃねーのか?」
小声でやり取りする高宮くんと野間くんに水戸くんが「夜のバイトもしてねーし、パチンコ帰りでもねーよ」と普通の声のトーンでトゲを刺す。ちょうどそのとき、ミニゲームが始まったらしく向こうから「やい、お前ら!しっかりこの天才の華麗なダンクを見てやがれ!」と桜木くんが声を張っていて、それを受けた水戸くんが「頑張れよー」と、軽やかに返していた。そのまま水戸くん以外の軍団はいつも通りヤジに専念していたので私が改まって「バイト?」と問うと私の横で真っ直ぐに桜木くんを見ていた彼が「いや?ちょっと野暮用」と言った。「そう」と私は小さく頷く。
水戸くんの反対側ではずっと、楽しげにヤジを飛ばしている声が聞こえてくる。目の前のコートからもボールの弾む音や、バッシュの擦れる音、声を張る赤木先輩に彩子の声。けれど水戸くんと私の空間だけは何故だか、時間が止まったように無音だった。
「——そう言や、観た?おすすめした映画」
チラと横目に彼を見てみれば、あぐらの姿勢を解いて立て膝をしていた。相変わらず依然、桜木くんを見つめている彼の横で私も正座をしていた姿勢を体育座りに切り替えてそっと視線を自身の彼氏の方へと向ける。彼はリョータくんにやいのやいのと、走りながら何かを言っていた。それを軽く手であしらっているリョータくんの姿を目で追いながら、私は少しだけ目を細めた。
「見たよ。」
「そっか。曲は、聞いたかい?いいよな、あの、ヘリに乗り込むシーン」
「……えっ?お母さんのお墓行くシーンだよね?クライマックスの。あの曲だと思ったんだけど」
「ん?……お墓?」
「えっ……、え!?待って、待って。この曲じゃないの!?」
私は急いでポケットから携帯電話を取り出して携帯にぐるぐる巻きにしてあったイヤホンを耳に嵌め、ついこの間ダウンロードをした、あの映画で流れていた曲を再生した。それを、水戸くんに確認してもらうため急いで「これでしょ!?」と両耳からイヤホンを抜いて渡そうとした瞬間——片耳のイヤホンだけを誰かが奪い去って行った。誰かって、一人しかいない。だって彼氏はいま、コート上で走り回っているし、横の三人はヤジを投げて笑っているし……じゃあ自ずと、一人しか残らない。
ついさっきまで私の左耳に嵌められたイヤホンを奪い取り自身の左耳に差し込んだその相手が「あーそうそう、これこれ」とつぶやいて、目を伏せてみせた。横目で見たその横顔に思わず私は息を呑む。やばい……耳が、目が——潰れそう。おまけに心臓までも、潰れてしまいそうだ。
そのまま視線を床に落とし込むしかなかった私のイヤホンの取れた左耳には「三井スリー!」とベンチで声を張る木暮先輩の声、こちらのリングに走ってくる数名の人影。そんな中、スリーポイントラインに立ってジャンプをした誰かの姿が、目の端に映った。言わずもがなそれは私の彼氏、寿だった。ガンッ!!とシュートを外した音と、あ〜と溜め息を吐くベンチメンバー。すぐにボールを持って向こうのリング目掛けて駆けていく、リョータくんと、流川くんのシルエット。そんないつもの聞き慣れた音が鳴り響くこの空間で水戸くんが密やかにそっと声を発した。時計の針は、間も無く、午後15時10分を刺そうとしている。
「……ほんと、いい曲だ」
「……」
口ずさんだりは、しないのかな……なんて思いながら落とし込んでいた視線を少しだけあげて、水戸くんを盗み見てみたけれど、どうやら歌を口ずさむことはしないみたいだ。一つのイヤホンをまさか、水戸くんと共有するなんて夢にも思っていなかった。どうしよう……私、今ぜったい顔が赤い気がする。寿の方を見れない。しかもさっきから「三井サン!どした!」とか「ミッチーまた外した!」などというリョータくんや桜木くんの声が聞こえてくるのでどうやら今日の彼は調子が悪いらしい。で、あれば尚のこと……寿のことは見れない。顔が赤い事や、こんな……水戸くんと同じイヤホンで、同じ曲を共有している姿なんて見られたら私、きっと今日中に死ぬ。今はゲーム中なので、こちらを見ている余裕など無いだろうけれど。このまま、どうかこのままこの曲が終わるまで、ミニゲームが終わりませんように……。
「あなたのやり方で私を愛して——私に触れて」
「え……?」
「——って、和訳らしいぜ、この曲。」
思わず彼の方を見てしまったが、彼が私の方を向く事はなく、やはり視線はずっと、コート上に向けられていた。誰を見ていたのかまではわからない。桜木くんかも知れないし流川くんかも知れないし、もしかしたら寿かも知れない。はたまた彩子の隣に私服姿で立っている晴子ちゃんを見ていたのかも知れない。わからない……あの映画の題名のように、水戸くんには色んな顔があって、それを上手に自分で使い分けて絶対に他人に本性を読まれないよう努めているように見えるから。だから、彼の考えていることなんて、私なんかがわかるわけはないのだ。きっと、一生——。
「……ったく、バカだなー花道も」
「……」
ハハ、といつものように困ったふうに水戸くんが笑った。そんな気配をそばで感じた。もうすぐ曲が終わってしまう。曲が終わったら、すんなりイヤホンを返してもらえるだろうか。そのまま、付けっぱなしにされたらどうしよう……とにかく何か会話を繋げなければ……!
「水戸くんってさぁ……意外と頭いいよね。和訳とかするんだ、ちゃんと」
「———…」
「本当はバカなフリしてる?実はめっちゃ優等生だったりして」
「はは、それ心外。頭悪いぞー?赤点取るし」
「じゃあ和訳なんていつ調べるの?授業中?」
「いや、授業中は他のことしてるから」
「え?他のことって?」
「——紙吹雪、作ったりとか?ほら……ハサミでシャキシャキ、って」
思わず目を見張る。だって——絶対に今優しい顔をしているんだろうなってわかったから。でも私の目に映った彼はまた新たな表情をしていた。正面を向いたままで……くしゃりと。こんな笑い方、初めて見た。
「か、紙吹雪って……ああ!桜木くん用の!?」
「そーそー。あれ自作なんで」
「お金……取った方がいいよ」
「え?誰から」
「桜木くん?」
他の軍団同様に彼が今言ったことが本当なのか冗談なのかは分かりかねるが。でもいつもの困ったように「ははは」と笑っているその顔を見たら結局はどっちでも良くなった。ただ——さっきの笑い方だけは、初めて見たな。あんな可愛い顔もするんだな水戸くんって。初めて彼が年下だったってことを、思い知らされた気がする。
突然立ち上がった残りの軍団を見上げればどうやらバスケ部が休憩に入ったらしかった。それに合わせて彼らも一服でもしに行くのだろう。三人は桜木くんがどうだったとか言いながら「まー、あれでダンク決めれたら最高だったけどな!花道だもんな!」と高宮くんがガハハハと笑い、それに残りの二人も続けて笑って三人は体育館を出て行った。
「名前さんが観たやつって、もしかしてフリードじゃないか?」
「ん……?フリードって?」
「あの映画さ、三部作になってて、その最終章がフリードってやつなんだよ」
「あ、そうだったんだ……」
「——あぁ……なるほど。だからか……」
水戸くんは何かを思い出したようにそう呟いて「確かにあれはAVかもな」と言った。その台詞に私の顔が一気にまた熱くなる。動揺を隠すため「い、いや!ほんとね!私、何見せられてるかと思ってさ!」と言った私に水戸くんは、チラッとこちらを見やったあとハハ、と笑って、私の横で真面目そうな、少し低めの声でぽつりと呟いた。
「どこが、良かった?」
「え?」と赤い顔のまま水戸くんの方を見て聞き返せば彼は自身の耳からイヤホンを取り外して、それを私に戻してきた。差し出された片方のイヤホンを受け取り、私も耳からイヤホンを外す。
「名前さんは、どのシーンが良かった?」
「——えっ!?ど、どのシーン!?」
「やっぱラストの曲が流れるとこ?」
水戸くんは嬉しそうにニッとうち笑む。だめ、今そんな真っ直ぐ見られたら、そんな眩しい笑顔を向けられたら、本気で目が潰れる。私は咄嗟に顔を反らして何と言い返そうかと悩み苦しんだ。
「はは、冗談。」
「は、はっ!?」
「何を想像したんだー?名前さんのエッチ」
「——っ!!」
「コラよーへー!この天才の勇姿を見やがれ!」
気づけば軍団も一服から戻ってきたらしく向こう側のリング前でシュートの構えをしている桜木くんの後ろに並んで立っていた。水戸くんがゆっくりと立ち上がり、彼らの元へと向かう。それを見て私もその場から立ち上がったときポケットに浅く入れていた携帯電話が体育館の床に落ちた。その音に反応した水戸くんが足を止めて、こちらを振り返る。私は携帯電話を拾って駆け出した。水戸くんはそれを確認してまた桜木くんの元へと歩き出す。野間くんと大楠くん、高宮くんとじゃれあう水戸くんの背中を、なんとなく見つめた。あの背中に何を背負って何を抱えてるんだろう、って。きっと一生わからない。知らない水戸くんが、まだまだたくさんいる。
いつかこの桜木軍団とも、もちろん彩子やリョータくんともバラバラになっちゃう時がくるかもしれない。でもこれからもきっとこうだと思う。だって私は、みんなのことが大好きだから——。
「桜木!」
「む……?なんだミッチー」
シュートフォームのまま気だるげに声のする方へ桜木くんが顔を向ければ腰に両手を添えた寿が首を傾げて面倒くさそうに、そして、やや不機嫌そうに言った。
「膝使え、膝を」
「ぐっ……おうよ」
言われた通り膝を使って放たれたボールは綺麗な弧を描き、シュポ……とリングに吸い込まれていった。桜木くん含む水戸くん以外の軍団が目を合わせて驚いている。そうしてすぐに「ガッハッハ!見たか、この天才のシュートを!」と声高らかに叫ぶ桜木くんに「いよっ!単純王!」なんてヤジを飛ばす軍団。すかさず桜木くんが「なんだと!」と言いながら三人を追いかけ始める。そうして一人、輪の中から外れてその様子を優しげな眼差しで見つめていた水戸くんが言った。
「——第一章はね、あの二人の出会いが、細かく描かれてるんだ」
「……」
「まあ……つっても、三分の一は同じくエッチなシーンだけどなっ」
「……!?」
「また一緒に観たらいいさ……みっちーと。」
そう言ってウインクしてきた水戸くんの背中をバシン!と叩けば、痛くもないくせに「痛っ」と言って笑う水戸くん。それに対して私も、照れたように、そして呆れたように笑い返した。
「てめぇ」
「あだっ!」
突然背後から誰かにチョップを喰らわされた。両手で頭のてっぺんを抑えて振り返れば、歌舞伎役者みたいな形相で私を上から見下ろす彼氏——寿だった。突如起きた衝撃で反射的に潤む視界のすぐそこに幼馴染の姿。
「一体テメぇは何しに来たんだよっ、バカ!」
目ん玉をひん剥く勢いで怒鳴っている彼の瞳が痛い。やっぱりさっきの水戸くんとの一部始終を彼は見ていたのだ。その場から逃げようと、踵を返そうとする。でも、やっぱりかなわない。腕を捕まれ、ぜったいに、離してはくれない。
「……っ」
逃げられない。へたり込みそうになる身体を、寿が強く引く。距離が縮まる。近い……熱い……痛い——。ごめん、と。消え入りそうな私の声。バカヤロウ、と。私の耳元で、彼の声が響いた。
*
「……触んなって。」
部活からの帰り道——ちょっと触れただけで、この有様。そうやって彼は言うけれど、ついつい指先で触れてしまうその、顎に残る傷跡。これは彼が苦しんだ証なのだ。
「おい」
苛立たし気な声を転校して来た当初は気にしていたけれど今はお構いなしに触れる。こんなことをしても本気で怒らないと分かっているからだ。
電車の揺れは規則的に私たちの身体を揺らす。がたりと揺れるたびに掴む腕は筋肉がついていて頼りがいがある。ドアのそばに立つ私を囲うように立つ彼の顔を見上げると、いつも見える顎先の傷跡に触れてしまうのが私の癖だった。
「……いじわる。」
私の言葉を聞かずにぷいっと顔をそむける彼は思春期が到来した中学生だったあの頃とちっとも変わらない。今はあの頃みたいなただのキラキラしていた少年ではないけれどこうして電車に乗っていると思い出してしまう。湘北に転校して来て彼の部活帰りに、ドキドキしながら初めて二人で電車に乗ったことを。身長差もあって、ちょうど視界には彼の顎があった。何気なく指先で触れてしまった瞬間に、頬から耳まで赤くした幼馴染にこちらの方が顔が熱くなったのを覚えている。
陵南戦を終えて、初めて彼の過去を告白されたあの日——��話したい事がある�∞�俺がバスケを捨てて、馬鹿やってたときの、傷�≠サう吐き出すように言った顔が今でも忘れられない。
荒れていた頃の彼の事を直接は知らない。中学MVPを取って自信に溢れていた中学時代。意気揚々と憧れの恩師のいる、湘北に進学したこと。怪我をしている間に自分より下手だと思っていた人間がチームの中心にいて挫折を感じた事。好きだったはずのバスケが大嫌いになり、全てが憎く思えたこと。学校にも行かず、不良仲間と一緒にバスケ部に殴り込みに行ったこと。殴りに行ったはずが、逆に殴られ血だらけになっていたときに現れた恩師の姿を見て涙が止まらなかったこと。
ひとつひとつ、噛みしめるようにして彼は私に教えてくれた。すべてを語り尽くしたあとに彼はこう言った。
��嫌いになっただろ?��
その口調は冗談めかしているようにも聞こえたけれど海を眺めている彼を横目に見たとき、未だかつて見た事のない情けなくて不安そうな表情の横顔が目に映った。私があなたを嫌いになんて、なるはずがない。彼の味わってきた悔しさや苦しさがこの左顎に残る傷に集約されていると思うと触れずにはいられなかったのだ。
晴れて恋人同士になれた後、唐突に触った時も彼は「触んな」と言って私の手を取りぐっと顔を近づけてきた。それが私と彼の何度目のキスだったかな、なんて……そんな事を思い出し、指先でちょん、と傷跡にまた触れてみた。
「だー、もう。おとなしくしてろって……」
「……」
「ちゅーすんぞ?静かにしねぇなら」
「だって……」
電車の扉の窓——左腕を私の顔の横につけて、右手で私の伸ばした指先に、自分の指先を絡めた幼馴染。そんな風にされると私の視界にはあなたしか映らなくなるんだよ?わかっててやってるのかな……そうじゃなきゃ、ズルいよ。
「あ?だって?なんだよ」
「……触りたいんだもん」
見上げると怒ったような照れたような顔を返してくる。それでも「やめろ」と、小さく呟いた。混雑した乗客の重みが私にかからないように顔のすぐ脇に押し付けられた腕に力が入っているのが分かった。顎の傷に触れるのを嗜められた私は、今度はその腕に触れてみる。すると「おい」と、低くて小さな声が、頭上から響いた。
「ガキかよ」
「ガキだよ」
「はぁ……そもそも俺が機嫌悪ィってわかってんのか?おめぇは。」
「え、そうなの?」
「マジかよ……ほんっと、信じらんね」
飽きれたように言う眼差しをじっと見つめれば根負けしたように、すっと視線を外された。彼について、何も知らなかったあの頃とは違う。もう知っている。この顎の傷跡がなければ私は二度と彼のバスケットをしている姿を見ることは出来なかったかもしれないということ。じっと見つめると視線を外すのはキスがしたくなって困るからだということも——。
「——名前。」
「……ん?」
「さっき体育館で何聴いてたんだよ……水戸と」
「えっ?あぁ……そうだ、聴く?寿も」
ポケットからイヤホンを付けたままの携帯電話を取り出そうとした手を、制止された。不思議に思って、下から上目遣いで彼を見上げてみれば、つんとした表情で、そっぽを向いて唇を尖らせた彼の顔がそこにあった。そうして、視線を私から反らしたままで彼が、ぽつりと言った。
「そのイヤホン、捨てろよな」
電車内のアナウンスが私たちの降りる駅を告げた。通い慣れた、一緒に育ってきた街がもうすぐ見えてくる。最寄り駅まで、あと二分——。
なまぬるい
拘束
。
(なんかさ、こないだの映画。最終章らしいよ)
(映画?へえ……続き物かよ。あんなのが)
(第一章は二人の出会いが描かれてるって)
(……)
(でも……エッチなシーンはあるんだって、また)
(お前もう、水戸の隣に座って見学すんの禁止な)
(なっ!!なにその性的嗜好!!)
(は!?どこが性的嗜好なんだよ、ちげーだろ!)
※『 Love Me Like You Do/Ellie Goulding 』を
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