桜の樹の下には、死体が埋まっているらしい。その木の下に死体が埋まっていて、養分を吸っているから桜の花が美しく咲く。良く聞くフレーズだが実際に俺はまだ、それを読んだことはない。
 四月——。今年も桜の開花予報をテレビで見かける季節になった。卒業式と春休みも無事に終わり今日は土曜日。体育館の補修作業のためバスケ部は休みだ。こんな風に家でのんびり過ごすのはいつぶりだろうか。ソファーに寝転がって携帯でSNSを開き画面をスクロールする。そうして目に留まったニュースや、友人たちの投稿を読んだりする。まあ、至っていつもの日常だ。

「——そもそも標準木って、何?」
「…………へ?」

 反応が遅くなるのも無理はない。何を隠そう、彼女からこうして声をかけられるのは、久しぶりなのだから……さっきのは確実に疑問系だったよな?しかも俺に対しての。なんて一人で動揺して天井を見たまま目を泳がせている俺を置き去りにして「三輪咲いたら開花宣言ってどうなの。家の近所の桜はほぼ満開なのに」と婚約者の彼女が、朝の情報番組の天気予報を見ながら文句を言っている。俺はソファーから起き上がって座り直し、目の前のテーブルの上、彼女が淹れてくれた珈琲を飲みながら、先の質問に応える。

「あの桜は……ソメイヨシノじゃねーからなァ」

 マグの淵に唇を添えたままでチラ、とテレビを見て俺が言えば、彼女は「ふーん」と相槌を打ちながらも、なんだか不満そうな顔をしていた。

「桜の木の下には——死体が埋まってるってよく聞くよね?あれ、何でだろう」
「あー昭和初期の散文詩からとか、もっと昔から実際に死体を埋めた上に桜を植えてたからとか、いろんな説があんだよ、たしか」
「へえ……なんか、先生みたいだね」
「残念だったな、俺ァ先生なんだよ」

 そう答えながらもう一度テレビを見ればすでに桜の話は終わっていてレモンフェア≠フ特集が流れていた。俺は何となく『檸檬』という漢字はどうだったっけ、なんて考えてみる。そうして、珈琲を飲み終えマグを下げようと席を立ち彼女の座るダイニングテーブルの横を通り過ぎて、キッチンのシンクへとマグカップを置いた。
 
「でも実際にさ……埋まってたら、どうする?」

 食パンを噛りながら唐突に彼女が聞いてきた。「じゃあ逆に俺が昔、埋めた事あるって言ったらどーすんだ?」と振り向いて質問返しをすると、彼女はケラケラと笑った。笑った顔……久しぶりに見た気がする。こんな可愛かったか?こいつの笑顔って……。

「鳥か何かの死体?ほら、小さい頃はよく虫とかのお墓を木の下に作ってあげたよね、一緒にさ」
「……え、そうだった……か?」

 確かに言われてみればそんな事もあったかも、と、一人物思いに耽っていると「行ってきます、今日は私ちょっと遅くなるから」とすでに食器をシンクに下げて、パパッと支度を済ませた彼女が俺を振り返る。そのまま玄関に向かう背中を送り出そうと、俺もすこし遅れて玄関へと向かった。俺たちの住むマンションは常時ゴミ捨てができるため彼女は玄関に纏めて置いてある燃やせるごみの袋を手に、玄関の重い扉を開け放つ。

「行ってらっしゃい……気ィつけてな」

 チラッとこちらを見た彼女が出て行って玄関の扉が閉まった音を聞き俺はまたリビングへと戻りソファーに寝転んで携帯を見た。進学や就職で散り散りになった昔の友は元気にしているのだろうか、なんて考える。そういえばアイツは今どこにいるんだろう、コイツは大学院に進んだって聞いたな、と中学、高校、大学の色んな友人に思いを馳せフォローしている人達の投稿を眺める。そのままスクロールしていくと、ふと目に入ったのは中学時代毎日一緒に汗を流してバスケットに夢中になったみょうじだ。県外の大学に進学した彼は、今でもバスケを楽しんでいると他の友人から聞いたことがある。中学の頃の懐かしい思い出が蘇ってくる。が、ここで気づいてしまった。その彼からフォローが外されている事に……。

「え、なんでだ……?」

 思わずそんな声がこぼれ出る。懐かしい気持ちから一転まるで崖から突き落とされたような気分だった。普段はそんな事、気にも留めないし誰にフォローされ誰にフォローを外され、なんてちっとも気づかなかったのに……なぜか今だけは気づいてしまった。ああ、きっと俺は今、病んでいるのだろう。突然、婚約者の元婚約者がマンションに来て、あからさまに喧嘩を売られたから……。

「……俺、なんかしたか?見に覚えがねぇ……」

 なにかの間違いかもしれない。相手側が誰かと間違えて外してしまったとか。念のため奴と繋がっている他のSNSを確認してみるとすべてフォロワーや友達から消えていた。え……なんで、そこまで仲が良かったとは思えない元クラスメイトの事はフォローしているのに。俺の心に、黒い靄が広がっていく。思い当たる節はないが仲がいいと思っていたのは俺だけだったのか、向こうはそこまでではなかったのか……。

「はぁ?……なんでだよ?」

 たしかに奴は交友範囲が広く友達も多かった。けれどどちらかと言えば浅く広くのタイプだったようにも思う。俺は高校でグレて以降狭く深くの交友範囲を極めてきたので互いに成人した今では仲がいい≠フ認識に違いがあってもおかしくはない。しかし頭では結論が出ても何故か受け入れがたい。何か気に障るような事をしてしまったのか——記憶にないだけであるのかもしれないな、どうやら俺はデリカシーが無いらしいから。けどなぁ……なんか、悲しい気分になってくる。
 普通の人ならそんなに悩むことではないのかもしれない。けれども今は心が弱っているためこんなちんけな事でも深く悩みこんでしまう。頭から離れない。なんで、なんで、なんで、なんでだ。


『それじゃあ今俺の目の前にいる男は大きいのか?それとも、小さいのか』

『お前に、バスケットをやる資格なんてない……。お前はプライドもクソもない、ただのゴミだ。』



 ああ、悪かったな。どーせゴミだよ俺なんか。忘れてしまおう、酒を飲んで忘れよう。そう思い立ち財布を片手にコンビニに走る。昼間から缶の酒(ビール×2、ストロング×3)を買って自宅に急いで戻った。こんな真っ昼間から酒を買っている高校教師はいかがなものかと苦笑しながらも、今日はもう酒ヤクザになってやろうと決意する。そうしてソファーの目の前にあるローテーブルの上に適当に戸棚から見つけたつまみと買ってきた酒の缶をセットする。よし、飲むぞ!と気合いを入れつつも、頭の片隅には……

「本当、なんで消されたんだ……?」

 プシュッ、と缶を開ける音が一人きりの部屋に消えていく。もう今日は、やけ酒だ。明日は午後からの練習だから二日酔いになったとしてもなんとかなるだろうと、淡々と飲み進めて行って缶を3本ほど開けたところで、携帯の着信が鳴った。画面を見れば相手は中学時代の別の友人だった。

「もしもし?おぅ、久しぶりだな。どーした?」
『久しぶり、なぁ三っちゃん聞いてよ。みょうじからフォロー外されたんだよ……結構仲良かったはずなのに、何でなんだろうって』
「え、お前も?俺もフォロー外されたんだよな」
『マジで?いやさ他の人からしたら小さい事かもしれないけど悩みこんじゃって。俺、昼からやけ酒してたとこなんだよねー』
「いや、めっちゃわかるぜ。俺も同じくやけ酒してたとこだ。外された理由とかも特に思い当たるようなことがなくてよォ……」
『あっちからしたら些細な事かもしれないけど、こっちは気になるよな?でもまぁ、もう忘れる!酒飲んで美味しいもの食べてリフレッシュしよ、お互いにさ!』
「まぁ、それもそうだな」

 同じ境遇にあった友人と電話越しに酒を飲みかわし世間話や近況報告をして時間が過ぎて行く。4本目を飲んだあたりから記憶があやふやだが、性格が似ている事を再確認してお互いの大切さを改めて感じた土曜日になった。こりゃ明日はしっかり二日酔いでやっぱり大丈夫じゃないかも、と先の予想が外れそうな予感に苦笑いを浮かべる。
 友人と電話を切って、気づいたら寝てしまっていた。テーブルの上に置いたままの携帯が鳴ったのをきっかけに目を覚まし、画面をチラと見れば相手は宮城だった。俺は一瞬拒否≠押しそうになったがとりあえず応答≠タッチしてすぐにスピーカーに切り替える。そうして緩くなっているであろう残りの1本を開けて、杯を煽った。無言の俺に、先に相手が言葉を発する。

『もしもーし?おつ♪ねぇ三井サン何してる?』
「家にいる」
『あれ?部活は?部活あんなら顔出そうかなって思って連絡したんだけど』

『新しいバッシュ買ったから履きたくて♪』と、やけに楽しそうに話す電話越しの後輩の声を聞き捨てて俺は缶の中身を一気飲みする。どんな会話をしたのかも、もはや記憶にないが、朦朧とした意識の中、どうやら俺は宮城を飲みに誘い出していたらしい。『飲みなら早くても6時頃からじゃないと無理っしょ』とか言われた気がする。通話を終えたあと俺はまたソファーで寝てしまって、次に目を開けたのは宮城からの鬼電が鳴っていた午後の7時を過ぎた頃だった。
 そもそも友人からフォローを外されたからと、こうしてやけ酒をしたわけではない。彼女とその元婚約者のことが自分の中で消化できていないのだ。それに付け加えて彼女とセックスレス≠ノ陥りそうな不安を消すために昼間から酒に逃げただけの話。本当にこんな自分が好きになれない。

「あーダリぃ……はぁ〜あ……チッ。」

 俺は宮城からの鬼電に折り返すことはせずに、気だるくも、出かける準備を整える。その間にも着信を知らせるバイブレージョンが鳴り続けてはいたがフルシカトで財布と携帯のみを所有し彼女と住むマンションの玄関を出た。空きっ腹に酒を飲んでしまったからか、気持ちが悪い。ビールはまだいいが普段飲まないストロングなんて3本も飲んだからだと自分を咎める。
 酔い覚ましと思って、エレベーターは使わずに階段を降りている最中、不意に彼女の元婚約者を追ってここを駆け降りた日の記憶が蘇ってくる。階段を降り切った先——以前、野郎と言い合った場所を、ぼうっと眺めながら、俺は立ち尽くす。


『俺と名前は初めての晩、真実で結ばれていた』

『俺と名前の間に起こったすべての出来事が真実だった』



 あの時に戻れたら、なんて、何の意味もない。そう思わないよう精一杯、迷って悩んで見つけて確かめて生きていかなければいけないのに……。ごめんな、俺、本当に後悔してる。何であの日、成人式のあの約束の日に行かなかったのかって。

 ほんの少しの後悔。お前にじゃなく、捨てられない過去に——。


 *


 ガラガラっと店の扉を開け放つと、すでにカウンターで飲んでいた宮城と目が合う。唇を尖らせ「誘った分際で遅っせーの!」と言われて、俺もさすがに苦笑するしかなかった。遠慮がちに隣の椅子を引いて腰を下ろせば目の前、水戸が戻ってきて「お疲れさん」と、眉を下げて労ってくる。しかし、宮城におかわりの杯を置いたところで、水戸から、まさかの言葉を投げつけられた。

「——で、サイコパス・・・・・は何飲むんだ?」
「……!」

 ギクっという明らかすぎるオノマトペを頭上に浮かべた俺を覗き見た宮城が「え、アンタ水戸にサイコパスなんて呼ばれてんの?」と、ニヤニヤ腹立たしいツラを向けてくる。それをジト目で見下ろし、俺は小さく舌を打ち鳴らした。宮城の顔が元の位置に戻っていくと同時に俺は視線を自分の手元に落として「ビール」と、言葉を返した。
 すぐに水戸がビールをサーバーから出して俺の目の前に置く。それを手に持った瞬間、正面——珍しく腰に手を当て、少し首を傾げた水戸の鋭い視線に見下ろされた。怖ぇーからその目やめろ。

「みっちー」
「……あ?」
「こないだガラス直しに行かしてもらったけど」
「ん……ああ、悪かったな。助かった」
「今回は、ちょっとやり過ぎなんじゃねーの?」
「だからっ!反省してるって……うっせーなぁ」

 ふぅと俺の返しに溜め息を吐いた水戸。すぐに異変に気づいた宮城が「え?てか、なんかあったの?」と、俺と水戸を交互に見やる。水戸は俺を睨む。そこで俺が観念して大きく溜め息を吐き、藤真と彼女が偶然再会した事、彼女との言い合いのもつれから彼女に怪我を負わせてしまった事、その後に藤真がマンションに来たこと等々あらいざらいに説明した。流石に数時間の昼寝だけでは酔いが覚めていなかったようで話し出したら止まらなかった。途中、水戸は店が忙しくなって俺達の前から離れたが、その間は愚痴から何から宮城がただただ無言で酒を飲みながら、たまに相槌を打ったりして全て口を挟まず聞いてくれた。俺があらかた話し終わった頃、宮城が口を開く。

「てか——あの花火大会、藤真と見たんだ……」
「知らねーよ、そこまでは聞いてねぇしな……」
「いや、見たんだろーね?たぶん。ふーん……」
「……あ?なんだよ」
「え?いやぁ、なんてゆーか、お似合いだった、二人で花火見てんの想像したら、的な?」
「……」
「三井サン花見とか花火とか似合わねーもんね」
「悪かったな、風流なモンが似合わねー男でよ」

 そのとき座敷席の方にある大型テレビから懐かしいメロディーが聴こえてきて、なんとなく俺と宮城が酒を飲みながら振り返る。テレビからは、『タイタニック』が流れていた。それと同時に、すでに時刻が21時を回っていたのだと知った。

「うわ〜、タイタニックじゃーん。懐かしぃー」
「……」
「あっ!んねぇ、なんか藤真ってさ?ジャックに似てね?ほら、雰囲気とか中性っぽいツラとか」

 そう言って上体を正面に戻した宮城が楽しそうに今度はこちらに体を向けて問う。ついでに「水戸、同じのおかわり」と次の酒も注文していた。俺も、ゆっくりとテレビの画面から上体を正面に戻して一度、グラスをカウンターテーブルの上に置いた。すると水戸がやってきて宮城に次の酒を渡す。空いたグラスを、宮城から受け取る仕草を目の端に映していたとき、水戸が不意に言った。

「確かにわかる。ジャックが似てるってやつ」
「ねっ!だろ!?似てるよね、藤真に!レオ様に似てるってよりタイタニックのジャックにな!」
「それで言ったらローズも、名前さんに似てると思うけどな、ある意味」
「あー......なんか言ってる意味わかっかも!!」
「案外あれが前世だったりしてなー......二人の」

 二人の会話を聞き流していた俺は、水戸のその言葉に視線をゆっくりと水戸へと向けた。水戸と目が合う。宮城は「ありえる」とか「前世ね〜」と言いながら酒を手に持ってまた上体をテレビの方に向け、一人で映画を鑑賞し始めた。

「あっ!ソウルメイトってやつ!?それって!」

 勢いよく宮城がこちらを振り返り前のめり気味に水戸に問う。水戸はいつものように眉を下げ、困ったように宮城に苦笑いを返しながら答えた。

「どーだろーなー。どっちかって言うとツインレイ≠ネんじゃねーのかな?あの二人の場合は」
「ツインレイね〜!!……って、なんだっけ?」
「ハハッ、えっとソウルメイトっていうのは家族や友人とか深い絆や繋がりがある人を指すから、必ずしも恋愛関係になるとは限らないんだよな」
「なるほどな……それこそ、花道とお前じゃん」
「いや俺の話はいーけど……で、この世に何人もいるソウルメイトに対して、ツインレイは——」
「うんうん、ツインレイは?」
「唯一無二の存在で……この世にたった一人しかいない存在。」

 水戸の言葉を受けて天井を仰ぎ見ながら物思いに耽ってる宮城と俺をじっと見据える水戸。そしてその視線から目を逸らす事が出来なかった俺。背後のテレビからは未だ聴き慣れた音楽が虚しくも、その場に流れ続けていた。

「そう言や藤真も左の額に傷があったような……そうそう。三井サンのそのさ、顎みたいな古傷」
「バァカ。これは、テメェが付けたんだろーが」
「はいはい、すんませんね。でもツインレイかぁだから同じようなとこに傷出来た説かね、水戸」
「いや、名前さんのあの傷は完全にみっちーのせいだからな、ツインレイかどうかまでは……」
「ハハ、それは違いねーな!ついに傷物にしちゃったわけね?三井サン、名前ちゃんのこと」
「だから……反省してるって言ってんだろうが」


俺を、幸せにしてくれ′に出した途端、考え抜いた本心だって薄っぺらな言い訳に聞こえた。
 どうしようもなく遠い。この俺の手なんかでは届かない人だったのかもしれない。わかってる、このままではこの距離は埋まらない。決して振り向くことはない。でも——嫌だ、くるしいんだ。だって、好きなんだ……お前が、好きなんだよ。

 俺はまたこうやって逃げて、逃げて、逃げて。一番なりたくない自分≠ノ、なるのだろうか。


 *


「行ってらっしゃい……気ィつけてな」

 と、彼は声だけで送り出してくれた。いつもと変わらない朝だった。久しぶりにちゃんと会話ができた気がする。私なりに、頑張ったと思う。
 駅に向かう途中で、七分咲き位の桜があった。私がさっき彼に言っていたのは、この木の事だ。以前、このお宅の方に伺ったところ『大寒桜』と言う種類だと教えてくれた。
 日本人は何故、桜と富士山を見るとテンションが上がるのか謎だが私もその内のひとりなのだと実感する。何となく今日は良いことが有りそうな気がしてきた。婚約者とこんな冷め切った関係の今でも、季節の風物詩の会話をした事でお互いの大切さを改めて感じたような気がした。
 大丈夫だ、私たちは。そう思ってその日の夜は久しくゆっくりと眠りにつけるはずだったのに、全然まったく、大丈夫なんかじゃなかった……。

 前の職場の人とショッピングをし、夜は都内で食事をして自宅に帰宅すると彼の姿はなかった。時刻は22時を回ったところ。携帯を見てみたが特に連絡も入っておらず、私は部屋着に着替えてビールでも飲もうと冷蔵庫に向かった。その時、シンクの脇にアルコールの空き缶が置かれているのを見つけて、何となく背筋を冷たい空気が撫で付ける。こういう時、私と彼の関係はすでに破断していると、嫌でも思い知らされるのだ。
 小さく溜め息を吐き、冷蔵庫からビールを取り出してソファーに腰をかけテレビをつけた。画面からはこれまた懐かしいタイタニック≠フ映画が地上波放送されていた。ぼうっとそのままテレビを眺めていたら不意に主人公の映画俳優の仕草や雰囲気が、元婚約者の彼——藤真さんを彷彿をさせた。

「なんか……藤真さんに似てるかも……」


一生一緒に居て欲しい≠サんな約束を、彼にも求めた私が悪かったの。ただ……好きだっただけなのに。あの人の見上げる空と私の見上げる空。今は、もうこんなにも遠い——。


 *


 映画も中盤に差し掛かった頃——まだ婚約者が帰ってくる気配はない。携帯電話も鳴らない……手元のビール缶は、すでに4本目に突入しようとしていた。映画の内容とその音楽も相まって急に心細くなってきた私は、気が付けば泣いていた。

「……え、っ、」

 涙が頬を伝って自分でも初めて泣いている事に気がついた。なに泣いてるんだろ、私。変なの、子供みたい。だけど一人でいると何か淋しくて。何がこんなに寂しいんだろう、よくわかんない。でも頑張らなきゃ、みんな頑張ってる。だから、がんばらなきゃ、強く……ならなきゃ——。
 しかし、すぐに音もなく溢れる涙は枯れる事も知らずに絶え間なく私を襲う。時は無情に過ぎて何かを解決するどころか秒針が進む度、足元から消えていく温度。深くなる、幼馴染との溝——。

「すぅ……、ふう……。」

 私……情緒不安定なのかも。ふと、手に持っていたままの携帯電話の画面を見て、ハッとした。なぜか私の携帯電話の画面には、元婚約者の彼のアドレス帳が表示されていたのだ。そうして携帯電話をお手玉するように持ち直した瞬間——彼の電話番号に触れてしまったどうしようもない私の指先。一気に酔いが覚める。焦る、やばい……!

「やっ……!えっ!?」

 急いで終了≠フ文字を叩くように押して私は電話を抱えたまま頭を項垂れさせて息を整える。ワンコールすら鳴っていないはず。大丈夫、発信していない。もしくはこの番号はもう解約されているかも——なんて願いも虚しく、間も無くして震え出す私の携帯電話。恐る恐る画面を覗き込んだ私の目には藤真健司さん≠フ6文字。思わずソファーからずり落ちて床にぺたんと座り込む。

「………、」

 ……切れちゃう。早く取らないと切れちゃう。私の胸はドクドクと早鐘を打っていた。私は意を決して応答≠人差し指で押して、そのまま、携帯をそっと耳に当てがい、息を潜めた。

『——藤真です』
「——、」

 落ち着いていて、それでいて低く滑らかな声。『藤真です』と言ったその声に緊張と不安が襲いかかる。私の番号、登録していないんだなって。悲しいとか寂しいとか、そういうわけではない。でも何故か……泣きたいような気持ちになった。

『……もしもし?』
「……っ」
『………』
「………」
『………、——名前?』
「——!」

 このまま静かに電話を切ってしまおう……そう思ったときだった。彼の密やかな声が私の鼓膜を容赦なく刺激した。脳が震えた——まさにそんな表現が、一番近かったと思う。私は声を上擦らせながら返事をする。

「は、はい……私です。あの、番号……登録してない感じ、なんですね……」
『こっちの電話は基本使ってないんだ。アドレス帳も、ほぼ入っていない』
「そっか。えっと、こんばんは。あ、アメリカは日中ですかね?じゃあ……こんにちは、かな?」
『今は台湾だ。日本とそんなに、時差はないよ』
「あ、そうなんだ……そっか……」

 確かによくよく耳を澄ませてみれば電話の向こうは静かだった。室内にいるのかも。私は背後のソファーの上にあるクッションを取り抱きしめるようにして抱える。顎をそのクッションに乗せて携帯電話が落ちないように今一度、握り直した。

『なんだ、昨日だったか一昨日の女かと思った』
「え……誰と寝たとか、覚えてないんですか?」
『いや、覚えてるよ』
「……」
『あのな……そんな目で、見ないでくれるか?』
「そんな目って?」
『それだよ、その人を捌くような目。』
「……こう言う、目ですか?」

 互いに顔も見えていないのに、私が顰めツラをして言えば、電話の向こうで彼が息を吐くように小さく笑った気配を、左耳に心地よく感じた。

『お前だって覚えてないだろ?例えば、火曜日のランチはなんだったか、なんて』
「ハヤシライスです。前に藤真さんと一緒に食べに行ったお店の。あ〜あ、おいしかったぁー!」
『だけど、お前に責められる覚えはないよ。俺は大人だ。相手も大人だ。大丈夫、確認はしたよ』
「……」
『お互い承知の上なら別に一週間毎日違う誰かと寝たって、問題はないだろう?誰も傷つかない』
「古代ローマなら大変でしたね、一週間は9日ですから」
『お、よく知ってるな……少し、感心した』
「……」
『……冗談だよ』
「知ってますよ」

 突如おとずれた沈黙。きっと私が語気を強めて言い返してしまったからだろうと思う。自分の中では「知ってますよ〜全部冗談だって!」というニュアンスで返すつもりだったけれど、こうして珍しく普通に会話をしているというのに急に藤真さんが女を取っ替え引っ替えしてるみたいな事を遠回しに言ってくるもんだから、なんだかムキになってしまっただけだ。深い意味は、特にない。
 だけど——。このままその声で『どうした、』なんて聞かれてしまったら私は確実に泣く自信がある。しかも嗚咽してその涙を止めることは出来なくなってしまう気がする。しかし、そんな私の不安をよそに彼から放たれた言葉は何とも意外なものだった。

『——タイタニック、か』
「えっ?」
『懐かしいな……』

 藤真さんとの会話に気を取られてテレビを付けっぱなしにしていた事なんて忘れ去られていた。そう言えばタイタニックがやっていたんだったとこの時思い出した。視線をテレビ画面に向ける。映画は間も無くクライマックスを迎えようとしていた。

I’m the king of the world!世界は俺のものだ 
「あっ、そのシーン実は、見逃しちゃって……」
『You let go, and I’m going to have to jump in there after you.』
「ん……?え、えっと……」
『飛び込むなら僕も一緒に=x
「あ、それさっき、言い返してました飛び込むときは一緒よ=c…って、ローズが」
『そうか……じゃあ間も無く沈むな、船は……』
「ちょっと!何か言い方が……あ、今沈みます」

 船がバキッと真っ二つになって、垂直に沈んで行く。何度も目にしたシーンでもやはり見入ってしまう。画面に集中する私と、かたや藤真さんと世間話のような流れで普通に会話のキャッチボールが出来ているという現実に不思議な感覚になりつつそのままテレビの映像に集中していると……

『言い合いができる元気があるなら大丈夫だな』
「え……?」
『お前は用もなく俺に連絡できる三枚のチケットのうち、すでに二枚を、今日で使い果たしたぞ』
「え!?私、そんなチケット持ってたんですか?二枚......一枚は今日だとして、もう一枚は?あ、こないだ呼び出した時ですか?ほら、カフェに」
『あれは呼び出すという目的があったから回数に入れていない』
「え……じゃあ……」
『過去酔っ払って夜中に電話を掛けてきた時だ」
「……!」

 思い返される、数年前のあの日——。ホワイトデーのお返しをもらってそれを返すだの何だのとお酒に飲まれて連絡をした時の出来事だ……。
 まさか今、あのときの失態を蒸し返されるとは思いもしなかった私は途端に顔を赤くする。あのときのお礼を私はちゃんとしていたっけ?なんて思って吃りながらも今更ではあるが改めて謝ってお礼をと、口を開きかけた瞬間『あとは——』と先に彼が声を発したので私はそのまま押し黙る。

『残り一枚だな。よく考えて有効に使ってくれ』
「……え、」
『……ん?』
「もう、電話……切っちゃう、感じですかぁ?」
『……切るよ。お前が思ってるほど俺は、暇じゃないんでな』
「ですよね……」
『Winning that ticket was the best thing that ever happened to me.』
「へっ?」

 彼の言葉に思わず間の抜けた返事を返した私は反射的にテレビの方を見やる。すると映画は丁度主人公の二人が海の中で最後に会話をするシーンに差し掛かっていた。

『It brought me to you. And I’m thankful, Rose. I’m thankful.』
「——!」

君に会えたから。神に感謝してる。感謝しきれないよ≠ニ……。藤真さんの言葉と被るように、確かに今、映画の主人公は日本語でそう言った。

『まあ……元気そうでよかった』
「……」
『今日はお前の暇潰しに付き合わされて眠れそうにないから、タイタニックでも見る事にするよ』
「……藤真さ、」
『じゃあな、おやすみ——』

 私の呼びかけを制するように彼はそう言い置きすぐに通話が切れた。プツ、という機械音がいつまでも私の鼓膜に響いている。電話を当てていない片方の耳には、映画の聴き慣れた音楽が入ってきては流れていく。このとき、初めて気が付く。本当は彼に『どうした、』って聞いて欲しかったんだって……。

 一人の女性として立派に生きていくにはきっと私はまだまだ弱すぎる。ひとりでは立っていられないくせに手放せない人ができるとそれが足枷になる。いつ消えてもいいように、身軽でいたい。もしくはどんな汚い私も受け入れてほしい……。結局は、どちらも叶わないのだ。

 二兎を追うものは一兎も得ず

 ほんの小さなため息も、未然の不穏な気配も、敏感すぎるほどに、ぴりぴり感じ取ってしまう。全ての元凶が自分にあるような気がして怯える。きっと私が思うほどに世界は私に興味なんてないって解っているのに、劣等感が拭えない。
 生きる事に疲れて、でも死ぬのは怖くてどこかで生きていたくて、それでも消えたい、と願う。ただ今も一秒先も今日も明日も生きていくことがこんなにもつらいと感じる自分に絶望する。

 つらいことばかりじゃないって知ってる。塗り替えられる。きっと明日、本当に消えたら、後悔する。なのに抜け出したい、笑いたい、強くなりたい、死にたくない、消えたくない。本当はただ笑って生きていたいだけ——。





 *


「……ただいま」

 玄関の扉が開いてからすぐに、小さく聞こえたその声にふと掛け時計に視線を巡らせてみれば、時刻は22時。テーブルの上には冷めきった夕飯があり手を洗ってきた彼がそれをレンジで温める姿が目の端に映る。こちらもすっかり冷め切った珈琲に口をつけた。
 彼が脱衣所に行くと同時に私も立ち上がり歯を磨きに脱衣所に向かう。ここで狭くも同じ空間にいる事で向こうから声を掛けてもらうきっかけを作りたかったがそれも叶わず私は歯を磨き終えて寝室に行く。寝室に入る前にチラと見えたリビングの隅にある棚の上にはインターハイの時の山王を打ちのめした後に撮影した写真が飾ってある。少し目を赤く腫らした私。湘北バスケ部のメンバー達に囲まれて笑い合っていたあの頃の私達が、確かにその中には、存在しているのに……。

 藤真さんの会社を退職して約一年。プロポーズの返事をして式場を見に行く予定を立てていた。しかし、藤真さんがマンションに来たあの日から一ヶ月。式場を見にいく約束も流れタイタニックが地上波で放送されていたあの日、藤真さんとの電話を終えて夜遅くに帰ってきた彼に思い切って誘ってみたら「めんどくせぇ」と冷めきった声で吐き捨てられてから心が折れた。体に触れる事も辛くなった。クリスマスプレゼントで貰った右手の指輪の意味が、今ではよく分からない。この前渡された婚約指輪すら受け取るタイミングを逃して、私たちはこのまま一緒にいるのが正しいのかどうなのかさえ、もう分からないでいる。


 *


「……いってくる」

 彼が無言の部屋を出ていく。私が数日ぶりに、その背を見送るように彼の方に顔を向けた。今日は5月22日。幼馴染にして婚約者の彼——寿の誕生日だ。目の前のテーブルの上には婚約指輪が入った箱が置かれていた。気づいて欲しかった、自分で渡してきたこの箱の存在に。今日が自分の誕生日だという事に……でも彼は、すぐに私から視線を逸らし背を向けてその場を去っていった。間も無くして、玄関の扉が開閉される音がする。バタンという音のあと、何も聞こえなくなった。

 同棲したいと意思表示をして一緒に決めたマンションの一室。今はまるで、ここが牢獄のような気分で一人でいる時は何も思わないのに彼が帰宅すると酷く重たい物に変わった。どうやって再会して想いを打ち明け合って付き合ったんだっけ、なんてふと高校時代のことを思い返した。彼との過去を思い出しては少しばかり辛くなってなんだかんだ言って、好きな人に拒絶された冷たいこの家が辛いのだと実感する。
 そんな事を考えていると時間は刻一刻と過ぎていき、携帯電話が震えた音で我に返り掛け時計で時間を確認すれば、午後の12時を指していた。


三井 寿

飲み会になった



 たったそれだけの短いメッセージ。思わず溜め息が漏れる。返信を打とうと途中まで文章を作って、また溜め息を吐きそれは送る事なく消した。こんな業務連絡のような一方通行の連絡も、心を重くする原因だった。


 ——22時半。お風呂に入って、念入りに体を綺麗にしてお気に入りのヘアオイルをふんだんに着けて冷蔵庫から缶ビールを取り出し部屋の灯りを全て消し去ってテレビをつけクッションを抱きしめながら、ソファーの前に座り込む。

名前

まだ帰らない?



 勇気を振り絞って送ったメッセージ。数分だけ画面を眺めていたが、一向にメッセージを読んでくれた形跡は表示されない。またひとつ溜め息を零して携帯を目の前のテーブルに置きリモコンでDVDの再生ボタンを押す。さっきお風呂に入る前に今日はこれを見ようと、先にセットしていた映画だ。


 ——23時59分。

名前

この箱に入った指輪は、受け取ってもいいの?


名前

メッセージの送信を取り消しました



 立て続けに送ったメッセージ。二通目の『今日寿の誕生日だよ?』というメッセージは早々に、送信取り消しをした。それでもしばらく先と同様に無機質な画面を眺めていたが先ほど送ったメッセージと合わせて読んでくれる動きは、変わらず見受けられなかった。

「未読スルー、普通するぅー?なんつって……」

 酔ってるんだきっと。だってもう5本目だし。酔っている、だから私は今、冷静な判断が出来ていないだけ——。
 時刻は遂に0時を回った。復縁してから初めて幼馴染の誕生日を一人で迎えた。もしかしたら、向こうは誰か特別な人と過ごしているのかもしれない。

「午前0時を過ぎたらぁ〜一番に届けよ〜ぅ♪」

 私はクッションを抱えたまま両手に携帯電話を持ち、ある人物のアドレス帳を呼び出した。電話番号をタッチする指が微かに震えている。出ないだろう……だって、最後の一枚だと言っていた。だから、また、くだらない事で連絡してきたって思って今回はきっと出ない。しかも彼は私の番号を、登録もしていないから。登録……してよね。出ない、でも、出て欲しい——私は目をぎゅっと瞑ったままその番号を押した。プルプルプル……耳には当てず、両手に携帯電話を持ったままでも発信音がしっかりと、ここまで聞こえてくる。

「やっぱ……出ないよね……」

 ——プツ、と。諦めかけたその瞬間に、相手を呼び出す機械音が消えたので、私は慌てて携帯を耳に当てがった。

『——なんだ』
「ウソ……出て、くれた……」
『誰だって出るだろ……電話がかかってきたら』
「……ですね。あ、もしかして番号、登録……」
『してない。けどお前だと思った、なんとなく』
「すごーい、なんか……エスパーみたいですね」
『エスパーなんだよ。……そんな事より、こんな短期間の内にチケットを使い果たすとは思ってもみなかった』
「あ……」
『普通、あんなことを言われたらそれが抑止力となって連絡なんてしてこないものなんだけどな』
「……」
『流石にお前は他の女とは違うな……参ったよ』

 彼が外にいる気配を感じる。車の音とか、通り過ぎる人の足音とかが聞こえるから。でも本人の歩く足音は聞こえない。もしかすると、ベンチにでも、腰を落ち着けているのかも。彼がベンチに座っている姿を想像して私は頬を緩ませた。今もまだ台湾にいるのかな、それとももうアメリカに戻ったのかな。もしくはまた、違う国にでも——

『……どうした、いつもの元気は』
「……!」

 その声音に、その言葉に……私は目を見開く。そうして走馬灯のようによみがえって来た記憶。そうあれは幼馴染の彼の実家の前で彼の婚約者と鉢合わせになった日の帰り道、駅のベンチで放心状態にあった私に声を掛けてきてくれたときと、そのあと、その幼馴染と行ったクルージングにて彼、藤真さんと再会した時、甲板のベンチに座っていた私に、今と同じ台詞で声をかけてくれた。そうして三度目の今回は今までの中で一番、優しげな声色に聞こえた気がして、私は胸が詰まる。

「藤真さんこそ、いつもみたいに貶してくださいそしたら、気持ちよく、泣けると思います……」

 私の弱々しい声に、電話の向こうで彼が小さく溜め息を吐いた息遣いが聞こえた。きっと、目を伏せてゆっくりと瞬きをしている。そんな、気がする……。

『俺は人前で泣く女は嫌いだ』
「ですよね、知ってます……」
『女は寂しさに流されやすい生き物だからな……まあ、電話してきた理由くらいは汲んでやるよ』
「……」
『……なんだ、きょうはあれ≠見てるのか』
「えっ……?あ、あれ、って……」
『なるほど。心中穏やかだとは言えないな……』
「……はい」

 丁度、私が声を漏らしたとき、すっかり存在を忘れていた流しっぱなしになっていた映画、その映画の名シーンが映し出されて高校の頃から何度も聴いたこの映画のテーマソングが、室内に響き渡っていた。

「あの……なんで毎回、私が観てる映画が何か、わかるんですか?」
『好きだからだよ。惚れてるから——』
「……!?」

 え、と呟いてから声に出さずにもう一度心の中で、え、と呟く。相手は、ごく普通にしている。まるで『当たり前だろ』というようなそんな空気が流れている。もしも、その空気が乱れているとすれば私が動揺しているからであってしかもその事を向こうはまだ、気づきもしていないと思う。

『……なんてな。音が丸聞こえだ、わかるよ』
「あ、そっか。ですよね、びっくりした……」
『確かに俺は人前で泣く女は嫌いだ。けど——』
「……?」
『最後のチケットを使い果たすくらいだからな』
「……っ」
『泣きたきゃ泣いたっていいんだぞ……聞いててやるから』
「——藤真、……さん……っ」


『泣きたきゃ泣いたっていいんだぞ、見ててやるから』


 あのとき——駅のベンチで距離をそっと縮めて寄り添い私の頭を優しく自身の肩に傾けてくれた藤真さん。その肩を借りて声を殺して泣き続けた時の記憶が、鮮明に蘇ってくる。
 ずっと押し殺していた真っ黒な感情が、一気に音を立てて崩れ堕ちる。胸の中いっぱいに溜まり切ったそれは止まる事を知らず溢れ出た。私は、堪えようとして不意に激しく嗚咽した。彼はただ黙って、あの日と同様に寄り添うようにして電話越しに私が声を殺して泣いているのを聞いていてくれた。


 *


「ご迷惑を、おかけしました……」

 しばらく泣き続けて冷静になった頃、深く深呼吸をした私はそう呟いた。でも思い切り泣いたらだいぶすっきりした気がする。また、藤真さんに助けられちゃったなぁ……感謝しなくちゃ。
 電話の向こう、車の走行音だけがしている静かな空気を揺らしたのは彼の低く掠れた声だった。

『今度こそもう二度と会う事は、って言いながら何度も会ったな、俺たち』
「……」
『……外れたな、天気予報は』
「え?……天気予報、って?」
『……雨が降ってきた』

「へ?」と聞き返して、私は徐に立ち上がった。クッションを抱えたままでなんとなく窓際に歩み寄りカーテンを手繰り寄せてみれば、確かに雨がポツポツと、静かに降りはじめたところだった。

「偶然……。こっちも雨、降ってきましたよ?」
『次は、出ないからな。チケットはもうないぞ』
「え……、はい……わかりました」

 その時——ピーポーピーポーと。突然、救急車の音がすごく近くに聞こえた気がして、窓の外を見回した。近くを走ったわけではなさそうだったがまだ救急車の音が側に感じる。変なの、と言葉には出さず、首を傾げてカーテンを閉め、さっき座っていた定位置に戻り腰を落ち着けた瞬間……電話を当てていた耳に届いた『救急車が通りますご注意ください』という女性の明らかな日本語の機械的な声。藤真さん、まさか今日本に……!?
「藤真さん」と言いかけた声は彼が『名前』と、私の名を呼ぶ声に、またもかき消される。

『これが……本当に最後だ。もう俺は、お前とは会わないし、連絡を取ることもない』
「……」
『だから——約束してくれ、何があっても望みを捨てないって、絶対に……幸せになる、と。』
「……っ」
『約束して。守ってくれるよな?今を大切に……諦めるな、名前。お前なら、大丈夫だ』
「……はい、約束します。諦めないよ、私……。絶対、幸せになってみせるね……藤真さん——」
『……よし、いい子だ……、よく出来ました。』

 緊張感はあるが嫌な緊張感ではない。まるで、この間観た超感動巨編映画の主人公のような台詞を最後に残した彼はもしかしたら前世はどこかの国の王子様だったんじゃないかな……と、この時呑気にも私はそんな事を思った。だったら私や寿はその前世とき、どこで何をしていたんだろうって。

 心臓がね、痛いって泣いてるんだよ。あなたの事、忘れたい——嘘、忘れたくない。くるしい。だから忘れたい。くるしい。けど忘れたくない。出会わなきゃ、好きにならなきゃもっと楽に生きられたのに。今からだって遅くないのに。私達を繋ぐ物はなんだろう。いくら見つめたって離れていたら、抱きしめることもできない。
 藤真さんの話し方はいつも棘があって、だけど時々、弱々しく力の入らない語気が、本当は心配してくれているんじゃないかって思ったりもして
……だけど寿は力強くて何もかも包み込んでくれるような話し方をする。私は結局、そんな寿の手を取ったのだ。自分自身が選んだこの選択肢に、後悔はない。後悔なんて、してはいけないのだ。

 あなたが藤真健司≠ナいてくれてよかった。出会えてよかった、生まれてきてくれて、本当によかった。今この世界にあなたが存在しているという奇跡に、ただただ感謝している。


『どんなに辛いことも、いつか過去に変わる』


 四年前——藤真さんに言われた言葉が、不意に脳裏をよぎる。人生の分かれ道……人はそれを、分岐点≠ニ呼ぶ。いま私は確実にその分岐点に立っているに違いないと感じた。

『——じゃあな』

 と密やかに囁いた声をしっかりと記憶に刻んで私は「藤真さんも幸せになってね」と想いを込めて「……じゃあね」と、同じ言葉を返した。
 通話が切れた気配。私は、携帯電話を目の前のテーブルにそっと置き、側に置いてあった小さな箱を手に取った。中を開けて左手の薬指にそれをゆっくりとはめる。この重みを、背負っていく。
 埋めに行こう——過去の弱い自分を。彼との、思い出も、想いも……なにもかもを。そしてそこには桜の木を植えよう。三年後、きっと、綺麗な桜の花が、咲きますようにと願って——。

 あなたには、一ミリの迷いも隙間もなく幸せになってほしい。そうじゃなきゃ、いま隣にいないことを私はいつか、後悔しそうだから。それでももう逃げないって決めたんだ。胸の中にひとつ、誰にも負けない、強い想いを見つけたから——。









 生まれ変わったのは 世界 の方。



(藤真、ここにいたのか?探したぞ)
(一志……。悪い、ちょっと野暮用でな)
(相変わらず忙しそうだな、仕事の方は)
(確かに……日本へは、蜻蛉返りだった)
(みんな、三次会に流れるようだが。行くだろ?)
(うん。そうだ一志……改めて、結婚おめでとう)
(ああ、ありがとう。お前はいい話はないのか?)
(俺は……最初で最後の愛した人ならいるかもな)
(本当か?今度、ぜひ会わせてくれよ!)
(……残念。それは叶えられそうにない)


※『My Heart Will Go On/Celine Dion』を題材に

 Back / Top