冬は長く暗く、いつまでも続くように思えたがやがて、ふと頬に当たる陽射しの色が違うことに気づく頃、寒さは間遠になっていき雪が融けて露が光る枝に固い新芽の蕾が見えるようになった。

 卒業式に入学式と、高校教師を生業にしている俺には毎年恒例の行事になりつつあるが、自身もそんな出会いと別れの門出を経験した一人であることに変わりはない。そう、こうして教師として勤めている俺の職場、神奈川県立湘北高校は俺の母校でもあるのだ。
 今年も生意気な教え子、一緒に汗と笑いと涙を共有した三年生が無事に、一人と欠けることなく湘北高校を旅立って行った。


「——出会いと、別れの季節、か……」

 日曜の昼下がり、生徒達は春休みの真っ只中、今日は珍しくバスケ部も休みだった。俺は昼飯を食い終え携帯電話の画面を眺めながらソファーに寝転がって、ぽつりとそんなことを呟く。
 幼馴染であり、今では妻でもある、名前には、そんな俺の声が聞こえなかったのか、特に相づちを打たれることもなく、クローゼットから始まり今ではリビングの棚と言う棚の全てを開け放ち、何やら片付けをしている様子だった。

 彼女が季節の変わり目になるとこうして断捨離≠する傾向にあると知ったのは同棲して少し経ってからの事だったと思う。買ったら買ったでどんどん物が溜まっていくという性質だからか、自ら季節の変わり目は片付けをする、とルールを設けているのだろう。そんな彼女が、何かを手に取り、ぼうっとそれを眺めていたので、俺は不思議に思いソファーから起き上がって、彼女を抱え込むように背後から足を伸ばして座り、その肩に自身の顎を乗せた。

「なあ、なに見てんだよ?手が止まってんぞ。」

 彼女の手のひらの中には、随分と使い古されたような革のブレスレットらしき物。イニシャルが印字されていたようだが、もはや何と書いていたのかも確認できないほどボロボロのそれを見て、彼女は、何か大切な思い出でも蘇らせているかのようにそれはそれは優しい笑みを浮かべていた。

「……なんだそれ。ゴミか?」
「ゴミじゃないよ。でも——捨てなきゃね……」

 いる物≠ニいらない物@pで分けるためか二つのダンボールのうち多分いらない物≠フ方の箱にそれをそっと入れた彼女が、ふぅとまるで一仕事終えたとでも言いたげな溜め息を吐いたのを見て、何やら説明しがたい感情が、ぐるぐると俺の中に渦巻いていく。こういう勘は割と当たる方だとは思う。いま彼女が手に持っていたそれはきっと——元婚約者、藤真から贈られた物だろうと察する。こう言う、ネガティブ思考というか、奴の事ばかりに感性が研ぎ澄まされる性格をなんとかしたいものだが、もうどうする事もできないので、こんな時こそ冷静に、怒らず、いじけずに素直にその事実を相手に確認するようになったのは、結婚して——そう、最近になってからの事のように思う。

「……それ、誰かからの贈り物か?」
「え?」

 彼女が首だけをこちらに振り向かせてそう聞き返してきたので、俺はそのままその唇にちゅ、とわざと音を立てて触れるだけの短いキスをした。唇が離れると俺はぎゅうっと彼女を後ろから抱きしめ、肩に顔を埋めて、今度は弱ったふうに問いかける。

「なぁ……誰からもらったんだよ」
「えっと…………ふ、」
「よしわかった!もういいぜ、答えなくてもよ」

 俺は彼女の先の言葉を遮るように言いすくっと立ち上がり、腕を伸ばして背伸びをする。それを見ていた彼女は呆れたような揶揄うような雰囲気でくすくすと楽しそうに笑う。そんな彼女をジト目で見下ろして、俺はそのまま便所に向かった。





 ——数年前。


「……そういえば、」

 珍しくやけに歯切れの悪い言い方で藤真さんが切り出したのがきっかけだった。
 オフィス兼……とは言っても今ではここは彼のプライベート空間のみに近いかたちではあるが、藤真さんの自宅のマンション内でいつものように彼が仕事をしている側でソファーに座りテレビを見ていれば私の背後からコーヒーの入ったマグを二つ器用に片手で持った藤真さんが何の前触れもなく投げ放った。
 どうかしたんですか?——と。それに対して、そういう意図を含めて視線を流せば心なしか気まずそうに瞳を細めて、彼が一つ咳払いを零した。

「……」
「……藤真さん?」

 そうして、そっと、オフホワイトのマグを私の目の前のテーブルの上に置いて、それから今まで彼が仕事をしていたダイニングテーブルへと向かったかと思えば、そのまま椅子に凭れかかって、自分専用のマグに口を付けた藤真さん。やっと、一息ついたのか最初の投げかけから暫くして漸く彼の視線がこちらに向いた。コツリ……とマグがテーブルに置かれる音。乾燥した指先が一、二度ほど手持無沙汰に交差して。次いで溜め息のような、微かな吐息の漏れる声。

「しばらく、お前と出かけてないな。久しぶりにどこかへ行くか」

 それは私の視線をかっさらっていくには十分な誘いだった。思わず前のめりになりそうな身体を抑えて、ぐつぐつと今にも溢れだしかねない心臓には、気付かないふりをして。

「急に、どうしたんですか?」

 と。思ってもいない言葉を返せば、そんな邪な思いなんて見透かしたみたいに藤真さんがフッ、と笑う。

「そういう気分になったんだよ。その番組はもうすぐ終わりそうか?」

 テーブルの上に両肘をついて指を組んだ彼が、その網の上に唇を添える。特に、真剣に見ていたわけではなかった旅番組だったがとりあえずその質問に、何か返さなければと急いで返事をする。

「え……あっ、はい。あと三十分くらいで終わりますけど、でも、」
「それじゃあ、それが終わったら少しドライブに行くか。たまには俺も、息抜きが必要だしな」
「……」

 思わず体が硬直する。そして今度こそはっきりと一体どういう風の吹きまわしだろうと思った。
 藤真さんはあまり、ドライブとか……そういうデートみたいなものを好まない。二人きりで会うのはもっぱら外食時か此処か——本当にカップルのような緩やかな時間を過ごす事なんてほとんどなかったように思っていたから。ましてやそれが私からではなく相手からの誘いなんて余計に滅多にないことだったから聞き間違いか私の妄想かと一番に疑ってしまったくらいだ。それくらい私の心臓を脅かしたのだ。
 こういうとき、そういえば私と藤真さんって、付き合ってるんだっけ、なんて……少し落ち着いたら馬鹿みたいにそんな言葉が頭を過って。それを誤魔化すように、彼が淹れてくれたコーヒーで喉を潤す。挽きたてだからか、それとも藤真さんが淹れてくれたからか......一際鼻腔を擽る香りを放つブルーマウンテンを飲んでいれば美味しさが顔に出てしまっていたのか、彼が満足げに口角を上げてくすりと瞳を伏せた。

「うまいか?」
「はい、とっても」
「それはよかった」
「……」

 恋人——といざ自分たちを取り巻く関係を思い返してみると、藤真さんの『仕事』を間近で見てしまっているせいか、その根底に触れてしまっているせいか。そういう気概を持つタイミング、というのが普通の恋人同士に比べてどうにも少ないように思える。彼があまりそういった接触を好まないというのもあるけれど、きっと私が無意識のうちに考えないようにしているのだ。まあ、仕方ないのだけど。だって、とってもとっても忙しい人だから……。

「……」
「……」

 でも……やっぱりどうしても寂しいから。そういうところに、距離を感じてしまう時間が長いというのは。彼は——明確な言葉を投げかけてくるタイプではないのでどうしても私はネガティブに考えてしまう。けれどそれもこうして藤真さんのきっと一年に一度あるかないかくらいの気まぐれで、簡単に全て覆ってしまうのだけれど。

「……」
「……」

 藤真さんの急かすような視線に応えるように、「もう大丈夫です」と番組終了の十分前にテレビを消せば、待ちくたびれたと言いたげに彼が首を振るった。それに一度だけ微笑み返せば私の側に置いてあったマグを無骨な指がかっさらっていく。スリッパの擦れる音が遠ざかってまたこちらへ近づいてくる。その音が間近に迫る前にコートを着て襟元を正せば、後ろに居る藤真さんが私の横へ顔を出した。

「行くぞ」
「……はい」

 分かってはいたけれど、ほんとうに行くんだ、デート……。
 このまま気が変わったりしないだろうか。何故だか、少しだけはらはらして、そして久しぶりのその感覚が、妙にくすぐったかった。


 *


 かつりかつり、とヒールの音と革靴の音が交互に、駐車場へと響き渡る。共に歩むようになって数ヶ月経つけれど、この感覚にはいつまで経っても慣れない。どこへ行っても思うのだけれど彼のスポーツカーはよく目立つ。凄く、かっこいい。

 車へと先についた藤真さんがロックを開ける。彼の腕の先導のままにその車へ乗り込めばいつも嗅いでいる清潔そうな香りがシートから漂って、ああ……藤真さんの車だ、と、当たり前のことを思わされる。この車の匂いが、彼に移ったのか、それとも彼の匂いが、車内に移ったのか、とか。車内に香りを放つそれらしいものは無いかを探しながら、どうでもいい事を考えてしまうちっぽけな脳みそを笑った。

「……藤真さん」
「ん」
「どこへ……行くんですか?」

 香りの根源を見つけられぬまま滑るシートベルトに手をかけ私より少し後に車に乗り込んだ藤真さんを見ながら問いかければ、ハンドルに左手を置いた彼が一呼吸置いて私に茶色い目を向ける。

「……腹でも減ってるのか?」
「えっ!?べ、べつに……そんなんじゃ……」
「なら、そう焦るな。これから時間はあるんだ。お前の行きたいところならどこでも連れていってやる」
「藤真さん……なんだか、今日は優しいですね」
「……言っただろ、今日はそういう気分なんだ」

 その僅かな空白は、浮立つ私の心にしっとりと不安感を募らせていく。言葉を返さない私を一瞥すると、彼がキーを差して、エンジンをかけた。ぶおん、という車体とは反対に控えめな音が二度響いて間もなくして緩やかに車が発進する。サイドミラーを窺い見る彼の瞳の端をこっそり見やれば、そこからは感情の類は知ることが出来ない。

「……」
「……」

 どうして急に、ドライブなんか……。改めて、そんな思いが私の頭を過ってまさか、別れ話でもされるんじゃないか……なんて、これから起こりうるであろう最悪の事態を想定してぎゅっと拳を握りしめた。これが最後のデートになるとしたら藤真さんのこの気まぐれは、どれだけ残酷なことだろう……と。

「……っ」
「……」

 揺れのほとんど感じない車内の中、私は緊張でいっぱいだった。窓の外を眺めてみても彼の方を見ても、情報が全く頭に入ってこない。普段ならこんなに嬉しい事はないというのに、先のこともあって、どうしても、素直に喜ぶことが出来ない自分が恨めしかった。彼は、そんな私の気持ちが分かっているのか、それとも運転に集中しているのか、あれから一言も話そうとしない。ただひたすら、そこにあるだけの沈黙が、徐々に私の首をきつく締めあげて行く。


「…………最初は、ここで良いか」

 ふと、出発からしばらく経って独り言のようにそう呟いた彼が車の速度を落とす。そして近くの駐車場に慣れた動作で駐車を決めるとエスコートするように私の方のドアを開けた。重たい気持ちのまま、それに倣うように車を降りる。
 ——ここで良いか、と先ほど彼が呟いたのは、私の見間違いで無ければ有名なブランドショップ
……その眩い看板に、いつの間にか銀座へと来ていたことよりももっと大きな事が気にかかって。私がこういうお店に普段好んで立ち寄らない事は藤真さんも知っているはずだし、とか……。だとしたら用があるのは藤真さん?とか。たとえば、たとえば、私じゃない誰かにプレゼント?とか。でも、それだったらべつに私を連れてこなくても良いし……とか。

 答えの無い問いの中をぶるぶると彷徨いながら一人、拳を握る力を強めていれば藤真さんが私の手を解いて握る。やんわりとした暖かさが、私の手を駆け巡って、思わず藤真さんに視線を向けてしまったのだけれど。彼は私の視線に一度頷くと握る手はそのままに歩き出した。都会のコンクリートを藤真さんの革靴と、私のヒールが叩く。
 かつりかつり......一歩遅れて、こつりこつり。私より先を歩く藤真さんの一定のリズムで刻まれる足音。それは何だかいつもより、妙に早足だった。けれど、目的地であろうお店の前まで来た時不意に藤真さんがこちらを見た。

「……欲しいもの、何か無いのか」

 私は未だ自分の置かれている状況が分からなくて言葉の真意を汲む前に、先より思っていた事を口走ってしまう。

「……どなたかへの、プレゼントとかですか?」

 出たのは思ったよりも小さな声だった。けれども確かに彼の鼓膜を震わせたらしい。少しばかり気をよさそうにしていた藤真さんの眉間に、皺が寄せられムっとしたように唇が歪んだ。男の人にしては長めのまつ毛が一度震え、そうして瞬きにより開かれる音が聞こえてくるほど私がしっかりと彼を見据えているせいか動作がゆっくりに見える……と同時に、握られた手のひらに僅かに力が込められたのが分かった。

「……。分からないのか?」
「…………えっと……、」
「……今、欲しいものは無いか——お前に聞いたんだぞ」
「えっ……だって私がブランド物にあまり興味がないのは藤真さんも知ってるし、一般の女性論として、聞いたのかなって……」
「違う、お前の欲しいものを聞いただけだ」

 ため息交じりに放たれた語気の強い言葉と同時に「そんなことも分からないのか」と言いたげな藤真さんの視線が私に送られる。力のこめられた手を引き掴まれたまま彼の歩みにつられるようにして店の中へと入れば煌びやかな装飾と柔らかなシャンデリアの光が私を照らして。尚もこちらを見る藤真さんも相まって、どこを見ればいいのかすら、わからなくなってしまう。

「興味が無くても実際に見てみたら何か見つかるんじゃないかと思ったんだけどな」
「うーん……でも、やっぱりどれも高級そうで。普段買わないですし、いざ目の前にしたら目移りしちゃって、選べないです」
「目に付いたものがあったならどれでも構わないよ」

 ぱっ、と。藤真さんの手が、私の手のひらから外れる。ぬくもりの無くなった手のひらと彼とを交互に見れば、きつく顔を顰めたままの藤真さんが私を見下ろしていて。艶のある薄い唇がほんの少し開かれたかと思えば、そのまま何も発する事なく閉じられていく。まごついたその唇は何だか彼らしくなくて、私の方も落ち着かなくなる。
 固く閉じられてしまった唇をしばらく見つめていたけれど、それが開かれることはすぐにはなさそうだったから、大人しく店内を見渡した。

「……」
「……」

 ……でも、やっぱり。目を引くものは見当たらない。二つ三つ桁の違う値段を見て気が引けたというのもあるけれど日用的ではないバッグやネックレス、ヒールの高い靴は私には見合わない気がして。そう思って、もじもじと彼を見ていれば、そのきつく歪められた眉が片方だけつり上げられた。暗がりな瞳が周囲を一周回って不思議そうな色を携えて、また私に戻ってくる。

「……どうした」
「——その。ここには、無いです。欲しいもの。私の欲しいもので、良いんですよね?」
「ああ」
「ならやっぱり、無いです」
「……そうか」
「はい」

 ……あれ……?何故だか藤真さんが私の言葉に肩を落としたような気がして。
 見間違いかと、ぱちりぱちりと数回瞬きをしている内にいつものぶっきらぼうな顔つきに戻ってしまったのだけれど私は無性にそれが気になって彼の方を、ちらちらと見てしまう。

「……」
「……」

 ……それにしても、欲しいものって。どうして私にプレゼントなんか。とりあえず他の人宛でも別れ話でもなかったみたいで安心したけれど……それでも、思い当たる節が無さ過ぎて首を捻る。
 今日はべつに、特に記念日というわけでもないのに。というかそもそも藤真さんがそういう細かい事を覚えているとは思えない。それに……こうやって、二人きりでデートをしてくれているだけでも私がどれだけ幸せかこの人は分かっていないんだろうなぁ……。
 そう思って、ひとつ。ひとつだけ。藤真さんに買ってもらえたら嬉しいんだろうな、と思い付くものがひとつだけあったのを思い出した。小さな雑貨屋にあったフェイクレザーのベルトブレス。見た目に温度が感じられる……なんだか藤真さんみたいな色だな、って思って、買おうか迷って。でも、気持ち悪がられるかなと思いやめた、あのブレスレット。もしそれを本人にプレゼントしてもらえたら——。

「……ん?何か思いつくものでもあったのか」

 黙りこんでいる私を不思議に思ったのか、やや屈み気味に、藤真さんがこちらを伺う。

「ここから、少し歩くんですけど……」
「ああ。別に構わない。道は任せていいのか?」
「はい。こっちです」

 今度は——何が欲しいのか、聞かないんだ……そう思いながら今度は私が彼の手を握る。そっと握り返された手のひらのぬくもりを感じながら、店を出ると私達はまたつま先と踵でコンクリートを叩いていく。特に会話のないまま、手に伝わる体温だけを大事にして真っすぐ前だけを見て私は歩いていた。十分もしないで目的地へ着いたときふと足を止めれば半身にかかっていた重力が地面へと分散されていく。藤真さんは、やはりというべきか、きょろきょろとあたりの様子を眺めると私を訝しげに見ながら瞳を細めた。

「……ここです」
「……名前、本当にここにあるのか?」
「はい。あの……」

 閉店間際のその店のぽつぽつと所々消えかかっている電飾がチープで先のブランド店の面影すら感じさせてはくれない。私はともかく彼には釣り合わない店の装いに何となく居た堪れない気持ちになるが、けれども彼はそれを馬鹿にするような様子は見せなかった。
 OPENのドアプレートのかかる扉を開ければ、カラカラと、おもちゃの鈴が鳴る。外見に違わぬ古ぼけた内装と埃っぽい空気に今度こそ藤真さんが顔を顰めていないかと振り向けば彼は私が何を選ぶのか、そればかりを気にしているみたいで。

「……」
「……」

 ドア横の柱で立ち止まると、そこに凭れかかり腕を組んでこちらを見ながら、上に来た手の指をとんとんと二の腕で跳ねさせていた彼。私は彼のその視線を感じながら、目当ての物を探す。確かこのあいだ来たときは、あの砂時計の隣に……。

「……あ!」

 ぼんやりとしたテーブルランプが照らすコーナーで立ち止まると目に入ったそれを私は手に取った。まだ残っていたみたいで、良かった。と思いながら恐る恐る振り返って彼の元へと歩み寄る。

「えっと……これです……」
「……」

 簡素なベルトブレス。さりげなく隅にK≠フ文字が彫られていて、他のブレスにもそれぞれにイニシャルが刻まれていたが、この色のベルトの全体の印象が——藤真さんを彷彿とさせていた。改めて手にとって今回は目の前に、本人が居るのだ。見比べてみて色も質感が持たせる温度も何もかもが、やっぱり藤真さんみたいだなと思った。
 思ったままに彼の目の前に翳せば、私の手からそれを受け取り無言のまま、紐で吊りつけられた値段のシールを見て、ちらりとこちらを見返してくる。そこに書かれている値段はさっき見たバッグの端数にも満たない額。やっぱりと言うべきかなんと言うべきか。本当にこんなものでいいのかって顔をしている。

「……本当に、こんなものでいいのか」

 ——ほら。私は、言うべきか迷って、少しだけ口ごもる。けれど、どこか……藤真さんの視線が私の胸中を促しているように見えたから……。

「藤真さん……ディズニーランド行ったことあります?」
「え……ああ、幼少期になら」
「パーク内のウッドクラフトのブレスレットが、中学、いや——高校時代に、流行ったんですよ」
「……」
「好きな文字とか彫ってもらえて昔は友人と同じ文字にしたり彼氏、彼女の名前を彫ったりして」

 藤真さんは訝しげな表情をしてから「ああ」と何かを思い出したように、少しだけ声のトーンを上げた。

「そう言えば、学生時代に女子がつけていた気がするな」
「え、もしかしてそれって元彼女とかですか?」
「違う。考えてみればディズニーシーには行ったことがないな……」
「そうなんですか?もし一緒に行ったらお揃いのカチューシャ着けてくれます?」
「……」

 苦い顔で、僅かに口の端を吊り上げて微笑する藤真さん。その審美眼には微妙な提案だったらしく、曖昧に首を傾げられただけで終わった。私はふっと一つ笑みを溢して「……それ、」と言葉を続ける。

「初めて見た時に、そんな昔の事を思い出して。それと同時に、なんかこの作りの雰囲気が、藤真さんっぽいなぁって、思ったんです」
「……」

 なんとなく革の品物を見つけるたび藤真さんのさりげなくお揃いにしているであろう、ベルトと革の靴を、私の中で思い出させたから——。

「仕事中に付けてもおかしくないデザインだし、その時に買おうかな……って思ったんですけど」
「……」
「もし藤真さんに見つかって、藤真さんっぽくてなんて言ったら——気持ち悪がられるんじゃないかなって思って、それっきり……」
「……、」
「それを藤真さんにプレゼントして貰えたら私、凄く大切にします」

 私の言葉に、どう思っただろう……藤真さんと視線が一度かち合ってそして外される。彼の視線はそのまま、自分の手元に下ろされて、フェイクレザーのそれを睨みつけるように見つめていた。複雑そうなその表情は、何とも形容しがたいものだった。嬉しそうな、悲しそうな、納得いかないような、そんな顔……。

「……欲しいものと思って、まず最初に浮かんだのが、これだったってことか」

 彼の言葉に間を置かずに一つ頷く。すると彼は「そうか」と囁くように呟いて凭れかかっていた柱から体を離しそのまま店の奥へと進んでいく。数分も経たずに帰って来た藤真さんは、先ほどのブレスレットと、もう一つ——同じ色のフェイクレザーで出来たキーリングを握ったまま私を店の外へと誘導した。

「そんな、何個も買ってもらうなんて悪いです」
「いや、こっちは鍵につけたらいいよ」
「え?」
「合鍵、裸で持ってただろ?」
「——、」

 値札の外されたそれを、少しの時間眺めると、私の右腕を取ってブレスレットをはめてくれる。そうしてもう一つの革のキーリングを、私の手のひらへとそっと握らせた。その一連の流れがスムーズ過ぎて、言葉を失う暇すら無かった。まさかほんとうに、プレゼントしてくれるなんて……。

「……」
「……」

 感情と表情が追いつか無くてただただ受け身になる私を藤真さんがいつものように鼻でわらう。けれど、いつもは滅多に見せない、愛しいような嬉しいような響きを含んだそれに当たり前のようにプレゼントされたブレスレットとキーリングも相まって、心が揺さぶられて泣きそうになる。

「泣くなよ」
「だって……」
「大切な女に想われて、気持ち悪いと思うわけがないだろ」
「……っ」

 深く刻まれた眉間の皺を置き去りにして、酷く和らげな表情を浮かべた藤真さんが、私に言う。私の不安も何もかもを拭い去りながらただ純粋な喜びだけを与えてくれる彼に、私は今きっと情けない顔で笑っているんだろうと思う。

「名前、お前はどうも——俺を喜ばせるのが上手いらしいな」

 赤みがかった薄い唇を優雅につり上げて、彼が笑う。プレゼントを貰ったのは私なのにどうして藤真さんが喜ぶのだろうと情けない顔をそのままに首を傾げていれば——、

「少し早いが……誕生日おめでとう、名前」

 酷く優しい声で藤真さんがそんなことを言ってのけるから——覚えていてくれたのか、と一番にそんなことを思って。流れるタイミングを見計らっていたみたいに、頬に雫が伝っていくのが分かった。

「……これ、すっごく大事にします……」
「……ああ」
「ふ、藤真さんだと思って、大事にします……」
「………うん」

 唇をかみしめて俯きがちに言えば緩やかに腕を引かれてされるがまま、彼の腕の中にすっぽりと収められる。刹那の藤真さんがまた笑った気配。くすくすと耳を擽る喉をざらつかせた低い声に、今日の藤真さんは、感情表現が豊かだなぁ……と温まる心を感じていれば……、


「俺の誕生日には……名前、お前が欲しい」


 甘い熱を感じさせる真面目な声で、そう言ってきつく、きつく抱きしめられたから。
 ただぼうっと熱くなる体に茶化すことも出来ず藤真さんこそ私を喜ばせるのが上手い、と。その胸元に顔を埋めながら、私は小さく頷いた。










 そのだけでもうつしとれたら。



(——夜からでもいいなら、今度、行ってみるか)
(……ん?どこにですか?)
(ディズニーランド。そこで本物のブレスレットを作ろう)
(え!行きたい!なら藤真さん初のシーがいい!)
(……ああ。時間、取れるようにするよ)
(あっ!!じゃあ、お揃いのカチューシャは……)
(……それは保留。考えておく)
(はい!ぜひ、前向きに検討、お願いしますっ!)
(はいはい……わかったよ、お姫様。)


※『 指輪と合鍵(feat.Ai From RSP)/ハジ→ 』を
お題に。

 ※↓next......三井夫妻の、あの後のお話。











 寿がトイレから戻ってきた頃、私はキッチンで自分用のコーヒーを淹れていた。無言で後ろから抱きついてきた彼の行動に、自然と頬が緩む。

「手は洗ったの?」
「洗った」
「で、どうしたの?」
「……別に。」

 ……なんて。すごくいじけているのが丸わかりな声質。私はそのままの体勢で小さく息を吐き、マグを持ってソファーへと向かう。尚も背後から離れない彼のおかげで、まるでロボットのような歩き方になってしまう。思わず、吹き出した私に続いて彼も、ふはっと柔らかい笑みを溢した。
 結局一緒にソファーに腰を落ち着けた私たちは自然と目線を同時に、窓の外に向けた。

「雨、だね」
「雨、だな」

 私は視線をそっとマグを両手で抱えている自身の手元に移す。そのとき目の端に見えた彼はまだ外の様子を窺っているようだった。

「——あの日も……雨でさ。」
「……あ?」
「夜に舞浜駅で待ち合わせして。でもパーク内に入った途端に、雨がピタっと止んだの」
「……」

 彼は視線を窓の外から私に移した後、そのままソファーに気だるそうに背を預けて長い腕を伸ばす。特に口を挟んでくることもなさそうなので、私は先を続けた。

「シーに行ったらウッドクラフトのお店がなくてさぁ?キャストさんに聞いたら、あれはランドのお店だって言われちゃってね……」
「……」
「でも、のちに調べたらね?どうやら今はレザーブレスレットは作っていないらしくて……」
「……」
「結局……お揃いのブレスレット作れなかった」
「……」
「……なーんて。昔々の甘〜い恋バナでしたっ」

 過去を懐かしむように目を伏せて、私はマグに口をつける。一口飲んだあと少し長めの息を吐いたとき、隣に座っていた彼がぽつり「それって」と呟いたので、反射的に彼の方に顔を向けた。

「いつの話だよ」
「え?」
「それ……いつの話なんだよ?」

 切な気な、悲しそうなその瞳と声に一瞬ひくっと息を呑んでしまった。彼が今、欲しがっている言葉、それを私はちゃんとわかっている。だから私は目を逸らす事はせずに「だいぶ昔の話だよ」と目を細めて言い返す。

「寿の知らない——男の子との話」
「……」

 彼はそう言って微笑んだ私に少しだけ唇を尖らせて先に私から目を反らした。そうしてすぐに、目の前のテーブルに上がっていた自身の携帯を手に取りどこかに電話をかけ始める。私はそんな彼の動向を目で追いながら再度マグに口をつけた。

「——お、宮城か?テメェ今日なにしてんだ?」

 どうやら電話をかけた相手はリョータくんだったらしい。私はソファーに深く腰を預けるように座り直して、両手で抱えたマグをまた、口元へと運ぶ。それにしても、すごい土砂降りだ……夜には、晴れてくれるといいな。

「おう、なら彩子誘ってディズニーシー行くぞ」
「——!?」
「大丈夫だって、着く頃にゃ晴れっから!」
「……」
「ああン!?ランドがいい、だぁ!?バカ、シー一択だ!ぜってーシー!今日はシーなんだよ!」

 私はそんな旦那様の姿をジト目で見やる。そうこうしている間にリョータくんとの通話を終えたらしい彼が携帯電話をテーブルに少々乱暴気味に置いてこちらへと体ごと向けてきて、私は咄嗟にぎょっとして身を引いてしまった。

「……な、なに?」
「聞いてたろ?行くぞ、シー」
「はっ!?今から!?」
「ったりめーだろ」
「だって、土砂降りだよ……!?」

 そう言って窓の外をもう一度見た私の背後で、彼が立ち上がった気配を感じ、また視線をそちらへ向ける。「さっさと準備しろよ?」と言い置き彼はシャワーを浴びるためかバスルームへと向かって行った。

 そう言えば——過去、水戸くんに言われた事があった。

『元婚約者は名前を付けて保存するタイプ≠ナみっちーは確実に上書き保存タイプ≠セよな』

 ……って。水戸くんの言う元婚約者≠ニは、藤真さんのことを指していたのだろう。言われたときは「そうかな?」なんて返して特に深く意識もしなかったけれど、よくよく思い返してみれば本当にそうかもなんて思う。特に、こんな時に。

 しばらくそのままぼうっと窓の外を眺めてしまっていたらしく気がつけばシャワーを浴びてきた彼が真後ろに立っていて「早く準備しろって」と声を掛けられたことでずっとここに座っていたということに気付かされた。私は立ち上がり、手に持っていたマグをシンクへと置きに向かう。

「お、雨——上がりそうだぜ」

 その声に反応してキッチンから振り返って見れば彼は窓に手を付いて空を覗き込むように見上げていた。そうして「あ、虹……」と、彼が呟く。上半身裸で下はスウェット。首からバスタオルをかけたその見慣れた後ろ姿を、感慨深く見つめてしまう。

「なあ、名前……知ってっか?」
「……ん?」
「虹ってよ、遠から見てるやつにしか見えねーんだってよ」
「……へえ」
「真下にいるやつには見えねーらしいぜ。でも、幸せなんて、そんなもんかもしんねぇな……」
「……、」


 難しいことは、また明日考えよう——。今は、もっと大事なことがある。

 今まで私たちは何回も離れようとした。でも、どうしてもきっぱり離れることが出来なかった。けれどそれは、似たもの同士だからだ。私と寿がどんなに遠く離れていても引きつけ合うから——うん、大丈夫。今はもう、それが、私とあなたの運命さだめ≠セって……知っているから。










 思い出さえさなかった
         非道な王子様。




(……え、三井サン)
(あ?)
(また、降ってきてね?)
(……気のせいだ)
(いや!しかも、土砂降りなりそーな気配じゃん)
(……)
(ちょっと、雨降るなら、行き先変更しましょ?)
(……寿。ほらシーは、またの機会にさ……)
(——だぁ!うっせぇ!今日行くのっ、シー!!)
(((子供かっ!!))) 


※『 東京/JUJU 』&『 if/西野カナ』をお題に

 Back / Top