「浮気はバレなきゃ大丈夫だって思ってんだろ」

 年が明けてバレンタインが間近に迫った今日、晩ご飯時に口論になった。というか勝手に一人で勘違いと妄想で暴走している目の前に座る彼氏に対して私は返す言葉も見つからず思わず溜め息を漏らす。

「そりゃ堂々と『浮気していいですか』って聞いて来てるよーなもんだろうが」
「……」
「キャバクラで働きてぇって?バカかよお前は」
「……」

 実は昨日、大学時代の友人とランチをした。久しぶりの彼女からのお誘いに私は仕事の昼休みを利用したのだが向こうが「何時でも合わせる」と言って来て。その時からもしかしてまたそっち系のお仕事でもしているのではないかと心配していたが案の定、彼女はあの頃と同様に夜の蝶≠生業としているらしかった。
 ゆっくり会話が出来たのも数年ぶりとなるため特に彼女の職業について口を挟む事はしなかったが昔からその清楚系な見た目且つ誰もが目を惹く美貌で実は腹黒い様が私は好きだった。逆にやりきっている感が好印象というか、なんというか。
 そんな彼女から手を合わせて頼みこまれた事、それが……

「——明後日一日だけ、ヘルプにつけない?」

 一日だけ、というお願いを断る術を私は持っていなかった。腐れ縁になりつつある友情を育む、友人の頼みだった、というのもあるけれど……。

「一生のお願いっ!!」

 そう続けられた言葉に、思わず頬がひきつる。まさか、この歳になって聞かされるとは思ってもいなかったそのフレーズと共に縋るように両手を擦り合わせる友人を見て私の平凡な心はきりりと痛む。
 彼女はあの夜の街、歌舞伎町でも有名なキャバクラ嬢らしく、ギラギラとした見た目とは反対に世間を知らないようなその接客がウケているんだとか。もちろん悪い子ではない。けれども、もし昔からの知り合いじゃなかったらきっと私はここまで仲良くなっていなかったと思う。男子に人気のある女の子はそんなものだ。その証拠に、こうやって夜のそれとは一切関わりの無さそうな私が駆り出されてしまうのだから。
 友達が居ない……とはまた違うと思う。彼女が遠慮せずに頼める相手が私しかいなかった≠ニいうだけで……。

「明後日だけでいいの!!お願いっ!頼まれて、くれる?ちゃんと、お礼はするから!」

 いや、そういう問題じゃなくて。そう言えたらどれだけ楽だっただろう。日本人体質をここぞとばかりに発揮して気が付いたら彼女の勢いに押されるままに頷いてしまっていた。
 夜のお仕事に抵抗があるというわけじゃない。けれど、控えめに見ても私はその世界では見劣りするような見た目だと思う。彼女のような重たそうに瞬きをする瞼に添えられた付け睫毛は私には一生縁のないもののように思えた。しかし……、このどうしようもないお人好し精神から引き受けてしまった事に変わりはなく職場はともかく彼氏にだけは伝えねばと思ったら、これである。

「まるで、犯罪者の考え方だな。バレなきゃって思うって事は浮気は犯罪だからバレたらダメだって言う後ろめてぇ気持ちがあるから、そーやって黙ってんだろ?」
「だから……明日だけヘルプで頼まれたって何回も言ってるでしょ。なんで浮気の話になるのよ」
「……なんでテメェが不機嫌になんだよ、じゃあもし俺が一日ヘルプでホストしてくれって頼まれたって言ったらお前、すんなり納得すんのかよ」
「うん」
「うん、って……。ったく、意味わかんねーし」

「もう勝手にしやがれ」と彼は夕飯を半分以上も残して席を立ち車の鍵をポケットへと乱暴に入れわざと踵を鳴らして、荒々しく玄関の扉を開けて出て行ってしまった。

「なんで、そんな話になるわけ?意味わかんないのは……こっちなんですけど」

 思わず出てしまった溜め息と小言が誰もいない部屋の中、虚しく響いては宙に消えていく。

 藤真さんが社長を務める会社で働き出してから今月で四ヶ月。彼氏が元婚約者とキスをした、と聞かされてからは約二ヶ月が経つ。
 私たちの関係は決して安泰とは言えない状況であった。そんな矢先、彼女が一日だけだとしてもキャバクラのヘルプをする事なったと聞かされた彼の心境を汲み取れば怒りたくなる気持ちも分からなくはない。ましてやあの三井寿なわけだし。けれども今更、どうすることもできない。私には彼との関係を修復する術を見出せない。しかも、腹癒せにこんな仕事を引き受けたわけでもない。きっと彼との関係が良好な時期であったとしても頼み込まれたら私は引き受けていたはずだから。残念ながら、自分の性格はよく熟知している。

 ただ——覚えておきたい事は小さな違和感は後で大きな確信に変わる≠ニいうこと。何かおかしいと言う違和感を無視すると後で痛い目を見るだけだということを、この時の私はまだ気づいていなかったのである。


 *


 何とか定時で仕事を終え一度自宅へ帰り着替えを済ませてから安堵の表情を浮かべる友人に案内されるがまま着いてきたお店は当たり前だけれど聞き覚えも見覚えもないお店だった。
 隣接しているホストクラブも繁盛しているらしい。頬を赤らめながら、その店のホストであろう茶髪の青年にお見送りをされている女性二人組を見ながら、やっぱり私は場違いだよなぁと改めて思う。そんな私を煌びやかな電飾が迎える。重い扉を両手で引いて、私を中へと促す友人に抵抗もせずついていけば、内装は意外と落ち着いたものだったので、思わず辺りを見渡してしまう。

「……」

 もう夜も良い時間だというのにお客さんは見えない。キャバクラ嬢の数人がテーブルを拭いたりグラスをセッティングしているのを見て私は首を傾げる。

「どう?イメージと違った?」

 したり顔でこちらを見る友人に、素直に頷いて笑みを返す。知らないうちに緊張していたのだと気付かされた。モダンな雰囲気の漂う店内にふぅと、息がこぼれる。

「何て言うかもっと目に痛い感じだと思ってた」

 お店の真ん中に置かれたグランドピアノと観葉植物を見ながら呟けば、自慢げに友人が笑うものだから、先ほどから気になっていたことが言葉となって宙を舞った。

「ねえ。どうして今日ヘルプが必要だったの?」

 お世辞にも混んでいるとは言えない。それも、お客さんが一人も見当たらないのだから気になってしまっても仕方が無い事だと思う。
 私の言葉に友人がしゅんと眉尻を下げて申し訳なさそうに「騙すつもりは無かったんだけど」と不穏染みた言葉を返してくる。

「……今日、これから貸し切りなの」
「へっ?……か、貸し切り?」

 視線をうろうろと泳がす友人の言葉を反芻すれば、その頭を勢いよく下げて「ごめんっ!」と。
 事情を飲みきれない私を余所に、店内に流れるBGMより大きな友人の声が辺りに響いた。

「太客の団体様が来るの。接待でここ使うって。本当に、騙すつもりは、無かったんだけど……」
「ふ、太客の団体様って……あの、その……?」

 今までの自分の生活ではおおよそ考えられない単語が鼓膜を震わせるものだから、私は間抜けな顔で友人を見つめてしまう。

「うん、今めちゃくちゃ業績あげてる会社でさ。よく貸切で接待に使ったりするんだよね、最近」
「へ、へぇ……」

 そう相槌は打ったものの現実味のない言葉だと思った。脳内で咀嚼を終え、飲みこんでしまった今も、全く味がしない。
 夜の街にて、何度かそれらしい雰囲気の集団を見かけたことはあれど、それでも想像のしにくいものだった。そのせいか自分自身でも彼女がここまで焦る事の重大さが掴めない。けれどそれだけお店の売り上げに貢献している存在なのだろうと言うことくらいは想定出来た。

「どこの……会社の人たちなの?有名な会社?」

 だからこそ——好奇心が口をついて出た。瞳を伏せた友人が言い難そうに私をちらりと窺って、その艶やかな唇が、ゆったりと開く。はっきりと言葉にしたその社名に、私は目を見開くばかりであった。


 *


 フィッティングルームに連れられてあれよあれよと言う間に化粧を施された私は今もなお放心を止めることが出来なかった。
 友人の放った太客の団体様≠スちの会社名は紛れもなく、私の現在働いている会社の大元——大企業の社名であったからだ。やれ太客だの常連の団体客だの友人は簡単に言っていたけれど私のキャバクラ嬢デビューを、そんな環境に持ち込む友人の精神が、一番恐ろしいのではないかと思った。けれど——致し方がない。彼女は私がそこの社員≠ナあることを知らないのだから。
 私が、本社勤務でないことだけが救いだった。しかし、そんな立派な人たちを相手に私は接客をしなければならない。それも未経験なのにも関わらず、だ……。

「……よしっ、」

 考えたらきりがない上に、口を開いたら溜め息しか出てこない気がしたので、ぐっと堪えて鏡に向き直る。お店のキャバクラ嬢の人たちは、既に準備を済ませて席についているらしい。私の他にも何人か集められていたみたいだったけど、どの人も経験者らしく慣れたように指示に従っているのを見て一人浮いている事をまざまざと実感してしまう。
 ……けれど。付け睫毛はきっと似合わないからやめてくれと控えめに足されたシャドウとリップに少しだけ自分の顔が華やかになったように感じてまるで一丁前にこの世界に足を踏み入れた錯覚に陥る。友人に無理やり押し付けられたホルターネックタイプのドレスはやっぱり似合わなかったけれど貧相な体を笑うように背中の大きく開いたデザインが、更にそれを際立たせていた。

「名前、準備出来た?」

 そう言ってフィッティングルームに顔を出した友人の先ほどよりラメの増えた目元と唇に、少しだけ頬が引きつる。綺麗だけど、やはり自分とは違う。友人である彼女は、夜の人間≠ネのだと思わせられて、それに何故だか焦燥して髪の毛を弄ってしまう。その動作にくるりと巻かれた髪が気にいったと思ったのか「似合ってるよ、やっぱり名前に来てもらえて良かった」と友人は白い歯を覗かせながら、そんなことを言う。

「う、うん……ありがとう」

 私の評価はすなわち彼女の評価に繋がるのだ。
 私の勤める会社——再度、頭の中で噛み砕いて飲みこむと、ホルターネックから見える背筋が、やけに張り詰めた気がした。


 *


 友人に促されるままに控室を抜けて店内に出れば、既にそれらしき人たちで席は埋め尽くされていて先ほどとは違う熱気に包まれた店内の様相に知らずの内に体が強張ってしまう。
 けれど怖いとか、そういう感覚は不思議とないことだけがまだ救いだった。

「楓さん、今日この子のことお願いできますか」
「……ん?……ええ、いいわよ。よろしくね」
「は、はい……よろしくお願い、します……」

 聞けば彼女はこのお店のNo.2らしい。友人が一緒に付いてくれるわけではないのか……。少し不安を抱えながらも、とりあえず彼女のヘルプに付くため、その後ろに着いていく。
 通された席は、他の席とは違う、白い革張りのソファーがL字に並び、ガラスのテーブルが三脚置かれた少し広めの所だった。そこに一人、つまらなそうに眉間に皺を寄せたまま、こちらを睨みつける男性が居た。背筋が凍りついた。きっと、私の顔色は今、真っ青だろうと思う。
 照明に反射してやけに茶色に光る艶やかな髪の毛。黒や灰色のスーツの人間が多い中、小豆色ともチョコレートブラウンとも取れる色のスーツを纏った姿は、他の人とも一線を博したように感じられた。間違いない……藤真、社長だ——。
 慣れたように会釈をしながら自己紹介を済ませた彼女にならい、私も控えめに挨拶をすませる。

「初めまして……名前、と申します——」

 一日だけだから源氏名はついていない。友人の配慮だろうけれど、私もきっと他の名前で呼ばれたら反応出来ないだろうから、ありがたかった。けれど——私が名前を言うや否や、ぴくりと彼の寄せられた眉が反応して視線がこちらに向けられる。眼光が強すぎるし鋭すぎて穴が開きそうだ。

「……お前、ヘルプか?」
「え……あ、は……はい」

 相変わらず感情のこもらない、無機質な声だと思った。見た目から感じる若さよりも落ち着いた低めの掠れたその声の問いかけに、ややどもってしまいながらも返せば彼は瞳を伏せて一度頷く。

「そうか……」

 何かを考えるように伏せられた瞳が開けられて私を射抜くように見つめたかと思えば不意に私の隣に居るNo.2の彼女に視線が流されて、直後、私たちの背後へと彼が顎をしゃくった。

「今日は名前——お前だけで良い。そっちの女は戻れ」
「え!やだ、藤真さぁん。どうしてですかぁ?」

 彼の突然の言葉に彼女が慌てて噛みつく。甘ったるいその声に私はぎょっとしてやや目を見開いた。さすが夜の蝶——さっきの落ち着いた雰囲気はどこへやら、なんて感心していると彼はそんな彼女を見て鬱陶しそうに目を細めると、溜め息を隠しもせずに、近くへ居た黒服へと声をかけた。

「俺の指名はこいつにする。」
「……は、はぁ……ですが、」
「そっち女は余所にやれ」
「わ……わかりました。」

 私を一瞥して首を傾げた黒服の男性は、彼女をなだめるように一言二言言葉をかけるとそのまま他の席へと彼女を連れて行ってしまった。ヘルプのはずが指名を言い渡されてどうしようかとその場に突っ立っていると、目の前から……

「座れ」

 と。小さな命令が落とされて、それに従うまま「失礼します」と白のスツールに腰を下ろそうとしたのだけれど、彼の隣を再び顎で示されて座りかけたその腰を上げ、彼の隣へと座りなおした。

「……」
「……」

 彼女のヘルプとは名ばかりでお手伝い感覚で隣に居ればいいのだろうと思っていた私はもちろんこの世界のイロハも一も二も分からず、これからどうしたらいいのか悩んで、とりあえずは飲み物だろうと、テーブルボトルに手をかけたとき——

「これは——面倒な客の独り言だと思っていい」
「……」

 確実に軽蔑的な視線を寄越されている気がしてたまらなかったので敢えて目は合わせなかった。

「俺の勘違いでなければ、君に似た人物が、俺の会社で働いている。普段彼女はもっと質素だが」
「……」
「……うちの会社は副業≠認めていなかったはずなので、きっと俺の勘違いだろうと思う。」
「……っ」
「まぁいい……今日この場に君を知る人は俺しかいない。上層部連中のくだらない趣味だからな」
「……」
「仕方ない。今日だけ、目を瞑ってやるよ」
「……すみません、」

 社長——、という言葉は飲み込んだ。ガラスで出来たテーブルの上には既にフルーツの盛り合わせやシャンパンが置かれていたので彼はもしかしたらこの団体様の中でも重役なのかも知れないと思った。このお店のメニューの値段は分からないけれど、シャンパンのボトルが数本置かれているところを見るに、きっと、数十万はくだらないであろうという事は容易に想像できたからだ。
 売上のことは気にしなくていいのだと、事前に友人に言われていたけれど、シャンパンは避け、不慣れな動作でボトルを開ける。逆さに置かれたグラスをひっくり返して氷をつまみ水割りを作りながら、それとなく彼に視線を送る。

「……」
「……」

 けれど、その彼はと言えば私の気など素知らぬふりで徐に煙草を取り出した。これは、私が火を付けるべきなのだろうか、そんな事を考えている内に高級そうなジッポライターを内ポケットから取り出して手際よく着火してしまったから、私はマドラーでグラスの中身をかき混ぜながら、少しだけ俯いてしまう。

「……煙草、吸われるんですね……」
「元スポーツマンは吸わない≠ニでも、思っていたか」
「いえ——吸っていて欲しくなかったという……私の勝手な、願望です」
「……。普段は、付き合い程度にしか吸わない」
「……」
「自らこうして吸う時はよほど気が立っているか不愉快なことがあったときだけだ」
「……、」

 俯いた先に丁度彼の指先が映り、指名を告げた割にこちらを見ずに淡々を煙草をふかすその様子を見て、あ、と一つ思い出した事が脳裏をよぎりそのまま口を突いて出た。

「煙草を吸う仕草って、女性に人気ですよね。」

 ぎろり。煙草を顔の前に置いたまま視線だけがこちらに向けられて、その、見定めるような鋭い視線に俯きがちだった私の首が反射的にしゃんと伸びる。

「……なぜだ?」

 陶器で出来た灰皿に、二度三度と彼が、手首を振る。興味のなさそうな態度とは裏腹に、視線は確かに私の言葉の先を促していたから、その先を用意していない見切り発車の発言だった事を後悔した。

「いや……詳しいことは分からないですけど、」

 カラカラとマドラーが氷をつつく音が私をあざ笑う。これ以上タイミングを見誤ってはならないと、思いきって出来あがったお酒を差し出せば、彼は視線を私から逸らすことなく紫煙を肺に吸い込んで、溜め息とともに宙に細く吐き出す。

「……指先と、口元を見て興奮すると言うことはセックスの事を、考えているのかも知れないな」

 煙草を挟む指がくるりと曲げられて、こちらに向けられる。

「……」
「……」

 淡々と世間話でもするみたいに発せられた言葉は、噛み砕くまでに時間がかかった。どうして、そんな話になるのだろう。疑問は頭で流れるだけで言葉にはならなかった。彼がふざけている様子だったら私も自然な流れで会話を繋げられていたかも知れないけれど、その無表情は決して、私をおちょくっている訳ではなさそうだった。

「煙草を吸うとき、自然と指と唇が触れ合うじゃないですか——」
「……、」
「そういうのが好きということは、煙草を自分に見立てて相手との行為を想像しているのでは?」
「……。」

 真面目な内容と、その瞳の静けさのギャップが私の心を震わせる。そうして先ほどまではいくらか乱暴だった言葉使いが敬語になっているということにも気がついてしまって、ただ、煙草の灰を落とすだけの単純な動作すらも直視出来なくなってしまった。きっと私を初対面の相手≠ニいう位置付けで会話をしているのだろう。

「さ……さぁ。私は生憎、嫌煙家なので……」

 キャバクラ嬢なら、頷いて、柔和に笑い返して話を合わせるのが正解だったのかも知れないけれど、自分が持ち出した話にも関わらずその会話をこれ以上続けるのが怖くなり彼の視線に返すことなく、ぽつりと遠くに投げてしまう。

「……そうか」

 そう言って再度紫煙を吐き出した彼が私の言葉に小さく笑って、手に持っていたものを灰皿へと押しつけた。その行動が嫌煙家だからという私の言葉に対してのものだったのなら——私は、彼の事を客として扱い、気持ちも切り替えられたかも知れないのに。でも……きっと違う。彼は、私の何たるかを試している。けど、それが何なのかはまだ分からない。火の消えた吸殻は、まだ長い。

「どうして……」

 彼女を、他の席へと帰したときにも思っていた言葉が、今度こそ彼の耳に届いてしまった。何も持つものが無くなった両手を膝の上で組んだ彼が私を一瞥して口角を上げる。それでも、無表情という印象は抜けない。緩められた目の奥——光を携えないその深淵が、私は気になって仕方が無かった。

「……どうせ、お人好し精神で引き受けたとか、その類だろうと容易に想像がつく」
「……、」
「もしくは同居人・・・と何かがあってその腹癒せか」
「——!」

 彼の言葉は、私の問いに対する答えではなかった。しかし図星の何ものでもないその物言いに、私は言葉を返せずに言い淀むばかり。そんな中、私の作ったお酒に手を伸ばしてグラスに口を付けながら彼が続ける。

「それならそれでも構わない。——ただ、お前も友人関係を築くのなら、相手は選んだ方がいい」

 それが恐らく私の友人ではなくNo.2の彼女のことを指しているのだろうということは考えなくても分かった。それでもどうしてそこまで、あの彼女の事を毛嫌いするのだろうか、そんな思いが顔に出てしまっていたのか彼はグラスをテーブルに優しく置き直すと、両手を再び膝の上で組み、その指をとん、と跳ねさせて、眉根を寄せる。

「お前を連れて俺に媚を売ろうとしていたこと、気付いてなかったのか?」

 わずかに傾げられた首がこちらに向けられる。心当たりのない問いに同じように首を曲げてしまった私を見て彼が心底愉快そうに、そしてやはり軽蔑する眼差しで私を見遣った。

「彼女、俺のことが好きなんだよ。だから、お前を引き立て役にでも使うつもりだったんだろう」
「……」
「まあ……こうなる事までは予想していなかったみたいだけどな」

 彼の膝の上で組まれていた指が言葉最中に離されて、ジャケットの内ポケットに伸ばされそうになったかと思えば宙で行き場を無くし、そのままネクタイを正して下ろされる。

「こうなる、こと……?」
「本当は誰でも良かった。ただ、彼女を指名するのは御免だったってだけだ」
「……?自ら、指名されたんじゃ……?」
「まさか。彼女が勝手に来たんだろう。どういうわけか……今日はNo.1も休みのようだしな」

 引き立て役——という部分には触れられなかった。彼女がそう思わずとも、周りから見たらそう感じてしまうだろうという事は分かっていたからもし彼女もそうやって私を使っていたとしても、実際のところ、そんなことはどうでもよかった。

 同じ姿勢で足を斜めに組んでいたからか、慣れない靴の甲の部分が食い込んで皮膚が赤く擦れているのが痛みで分かった。唐突に——ここでこの靴を脱ぎすてて、グラスの中身を彼にぶちまけて帰ってしまいたい衝動が、私を襲う。その感情を誤魔化すようにまた私に不釣り合いなまでに綺麗に巻かれた自身の髪に触れれば彼がふ、と吐息を漏らして笑った。

「君は、自分の魅力を分かっていないようだな」

 彼の手が不意に持ち上げられて近づき私の手と同じように髪の毛を弄んでいく。突然のそれに、彼の手を振り払う事も出来ず重力のならう限りに腕を下ろし、ただされるがままに体を硬直させていれば彼は満足したのか、その手が私の唇を掠めながら離れて行った。

「他の女とは違うと、自分の事をそう思っている女は好きや嫌いの感情論だけで物事を図る」
「……」
「たとえ綺麗な宝石でも一度人の手に渡った物は欲しいとは思えない。その宝石を、視線で愛でているのか、触って愛でているのかは分からない」
「……」
「不確定要素の多い綺麗な物というのは、総じて汚いものだと思っている、俺の場合は——。」
「……っ」

 私の唇に触れた指を愛おしそうに見つめる彼の眉根は相変わらず寄ったまま普段は茶色に見えるその瞳の奥に確かな漆黒を滲ませ言葉を区切る。

「……」
「……」

 なんとなく、分かってはいた気がしたけれど、ずっと思っていた懸念がこのとき、かちりと当てはまる音がした。
 瞳の奥の奥。真っ暗に染まるそこに溺れたように腕をばたつかせてもがく私が見えてくるようで怖かった——。

「……ああ。そうだ。藤真健司っていうんです、俺の名前です」

 知っている——。声には出さずに唇だけを振動させて形どればそれを確認した彼の目がゆっくりと細められる。それがまるで獲物に狙いを定めるような鋭いものだったから私の視線は意思に反して泳ぎ始め動揺をそのままに露わにしてしまう。

「——かと言って、綺麗なものを汚す趣味も俺には無い。逆に汚いものを綺麗にしてやろうと思うことも、無いですけどね……」

 何事も無かったかのように自然に紡ぎだされた言葉の続きに、うっすらと彼の内面が見えた気がして、私はどうしてか彼を見ていられなくなり、瞳の渇きなど感じていないというのに、無意識に瞬きが増える。

「だが、その綺麗なものに埋まれば、俺も綺麗になるのか……。そんな事は人並みに考えますよ」

 目は確かに、その言葉と共に細められて笑みを表しているのに、彼はまったく笑ってないような口ぶりで、冷え切った声で呟いた。


 「名前さん=v


 取り繕われた敬称は——私を酷く怯えさせる。店内はスーツの人間で溢れ、こんなにも賑わっているというのに、その会話や雑音すら聞こえない錯覚に陥るほど彼の声は……私の鼓膜を刺激してこびり付いた。

「その意味——君なら、分かるだろう」

 眉根を寄せて口角を上げた彼の唇から挑発するように犬歯が光って私を牽制する。
 今度こそ、彼はしっかりとその顔と声に笑みを刻ませていた。横暴な彼の主張に私の内臓がざわめく。
 
「……」
「……」
 
 No.2の彼女は、何故こんな人が好きだったのだろうか——。考えて、その何も反射していないガラス玉のような瞳の奥に、手を伸ばしてしまいたくなる衝動に駆られたから、きっと彼の本質がそうして人を惹きつけてしまうものなのだろうと理解して、諦めたように嘲笑してしまう。

 やはり私は場違いだ……誰が見ても、そう思うだろう。それでも友人に頼られた以上仕事は全うしようと思った。思っていたのだけれど——嘲笑して刹那、自分でも気がつかぬ内に伸びた右手が先ほど彼が口付けていたグラスを持ち上げてそのまま中身をぶちまけていた。
 実際に衝動に身を任せてしまえば、なんて事のない出来ごとだった。残り少ないグラスの中身はそれでも彼のスーツを汚すには十分な量だった。頬に跳ねたお酒を、彼が鬱陶しそうに指で拭う。

「……っ」
「……、」

 間もなくして事態を理解したのか時計の秒針が触れる音が聞こえるほどに辺りが静まり返ったのが分かった。

「名前! 何してんの!?」

 友人の慌てた声が、遠くで聞こえる気がする。それでも私は、その事態の大きさを理解するには至らなかった。だって……私がそのグラスを掴む瞬間——彼は間違いなく、私に向かって微笑んだのだから。

「……」
「……」

 視線は優雅に私の手元を追っていたと言うのに彼は避ける素振りすら見せなかった。そしてそれがとても怖ろしいことだと理解しながら私も振り上げた腕を止めることが出来なかった。

「——お客様、大変申し訳ございません」

 少し遅れてやってきた黒服が、彼に腰を折って謝罪を言う。そして腕にかけたタオルを差し出そうとしたけれど、彼の手にその行動は遮られた。

「……いい。」

 びしょ濡れになったスーツを一瞥して、黒服を突っぱねた彼に、タオルを持ったまま相手が眉をひくつかせて首を傾げる。周囲もこちらの動向を窺っている様子だった。店内にかかるアップテンポなBGMが、その場の雰囲気にそぐわないまま空気を散らかしていく。
 彼はもう、スーツの染みに視線を送ることはなかった。その代わりに、私のつま先に乱雑に落とされた視線が、足、腰、胸、首、顔……と順々に上がってくる。やがて、目元まで引き上げられたその二つの黒と重なりあった時、私は先ほどまで直視出来なかったそれをまじまじと見つめる事が出来るようになっていたことに気が付く。

「代金は俺に付けていい......一緒に来た連中にもそう伝えろ。今日は、好きなだけ飲めと」

 静けさの漂う店内に、一気に活気が取り戻される。首を捻っていた黒服も、その腰をまた直角に折り曲げてその場から立ち去る。私を呼び付ける友人の声はもう聞こえなかった。もしかしたら、もう、縁を切られてしまうかも知れないと、何故だかこのとき漠然と思い、何となく彼の顔を見てしまう。

「——おまえは……謝らないのか?」

 私の視線に気づいて鼻で笑った彼が問う。声に出さずに、ゆるゆると首を横に振れば彼は、満足そうに笑って、私の手を引いて立ちあがらせる。


「……帰るぞ」

 どこへ、と聞くのが野暮だということは分かっていても、口に出さずにはいられなかった。
 けれど彼には私の小さな呟きは聞こえなかったようで、こちらを見ずにずんずんと歩いて行ってしまう。引き止める者は、もう居ない。引かれた手をそのままに、私の足は彼の後をついていき、ついには店を出てしまった。
 ホルターネックのドレスも、高いヒールの靴も煩わしい。かつりかつり……と、どちらの靴とも分からぬ音が珍しく静かな歌舞伎町の路地に響いては消えていく。
 晴れていたはずのガスで煙る空からはぽつり、ぽつりと雨が降ってきた。ちらりと見遣った隣店のホストクラブのネオンは眩しく、今しがた出てきたキャバクラと合わせて、どちらも今後は来ることがないだろうと思った。


 *


 近くの駐車場に私を連れ込んだ彼はその中でも一番高級そうな車の前で止まり私をその車の助手席へと押し込んだ後、自身も運転席へと乗り込んだ。この外車を以前からなんとなく彼らしくないなと思ってはいたが、その一目見ても分かる高級そうな佇まいに、彼の地位≠感じていた。

「——飴、食べますか?」
「……?」
「さっき、煙草——吸われていましたから」

 正面を向いたまま鞄から飴玉を取り出して差し出せば未確認飛行物体でも見るみたいにしてこちらに少し顔を向けている彼が目の端に映り込む。それでも小さく、ふ、と笑って差し出したままでいる飴玉の包みの端を掴んで受け取ってくれた。すぐにカサカサと包み紙が開かれる音がしてそのまま口に含んだらしい音が車内に響く。
 今更ながらに私が渡したレモン味≠フ飴玉と彼を重ね合わせて見て似合わないな、と思った。

「挑発、したんですよね?さっき、私に……。」
「……」
「あーやって女の子を口説き落とすんですか?」
「お前は、乗っかってこないことを知っていた」
「じゃあ、なんで——」

 窓ガラスには小さな雨粒が滴っている。ビルや信号や街の光が雨に滲んで、より鮮やかに輝いている。

「あんな、品のないところで副業されているのが気に障っただけだ。まさか、女に酒を、ぶっかけられるとはな……人生初だ。」
「……」
「これ以上、自分を安売りしてほしくなかった」
「え……?どういう、意味ですか?」

 ハンドルに手をかけ、エンジンをふかした彼がわらう。気に障った?安売り?だからあえて私を怒らせるようなことを言ったってこと……?え、どうしてそんなことを。副業が社内で認められていない腹癒せ?え、わかんない、どういうこと?

「……ヒールは脱いで構わない。接客のときも、そんな顔をしていただろう」

 返って来た言葉は、私の問いに対するものではなかったけれど、その言葉に甘えて靴を脱ぎ捨てれば、履き慣れない靴から解放された足が、幸せそうに羽を伸ばした。
 私はこれからどこへ連れてかれてしまうのだろうか。歩く気の無くなってしまった両足を見つめながら発進を始めた車の中、今更なことを考えてくすりと笑った私は、言葉を発する。

「社長は……どこからが浮気だと思いますか?」
「……」
「手を繋いだら?抱きしめ合ったら?それとも、キス——したら、ですか?」
「……」

 たとえ別れても、離れてもう会えなくても——愛していた≠ニ本気でそう思える人がいた事は幸せなことだと思う。とても素敵な事だと思う。
 本当に大切な恋だからこそ忘れられない記憶がある。本当に大切な恋だから、綺麗なまま残しておきたい。二度と戻らなくても恋をした二人は、確かにそこにいたのだから。
 もっと、話したかった。もっと会いたかった。触れていたかった。好きでしか、なかった……。いくつも飲み込んだ言葉が胸に重なって積もって溢れてこぼれる。自分だけあの日のままで——。

 結末がどうであれ、もう他人のもの≠ネのにキスをしても、許されるのだろうか。きっと私は彼の元婚約者の心理は逆立ちしても分からないし分かりたくもない。

「……」
「……」

 根に持っているのだと、まざまざと思い知らされる。もう自分に振り向いてくれないと分かっているのに、そんな行動をした彼女のことも、油断して、それを許した……彼氏のことも——。
 友人に頼まれたから仕方なく、なんて言うのは明らかな口実で、本当は腹癒せにこんな事をしているのだ。それを十分わかっているから悔しい。

「……そこに恋人がいても、同じ事ができるかを考えてダメだと思ったら、そこからじゃないか」
「確かに。でも、わかっていてもしてしまう人が多いのは、なぜですかね……」
「それは——そのときに、大切な人の顔を忘れてしまうからだと思う」
「……」
「女性が許せないのは自分の事を忘れられる事に耐えられないからだ。だから女性は絶対に浮気を許せない」
「男性でも、いますよ。そのタイプの人は……」
「……。このまま、どこへ行きたい?」

 ——と。前触れもなく、隣から投げかけられた言葉に私はまた、髪の毛をいじってしまう。私はきっと……このまま彼に、埋まってしまう。
 こちらを見ずに、ぽつりと呟かれた彼の言葉にどこか期待している女々しい自分が居ると気付くまでに、そんなに時間は必要なかった。


「……藤真さんの、行きたいところに——。」


 私の言葉が、彼の望むものだったのかは分からない。咄嗟に思いつかず、やっとのことで出した言葉は、先ほど考えても出てこなかった、まるでキャバクラ嬢のそれ≠フような、相手の胸中を窺う女のものだった。

 ……藤真さんは、私のことを綺麗だと言って、そしてそれに埋まりたいと言ったけれど気付かぬうちに私自身、彼に侵され始めているような気がしてならなかった。
 好きだとか嫌いだとかそういうものじゃない。ただ彼との再会で、もっと奥に直接ねじ込まれた彼の印象が私の平凡な脳みそをかき混ぜるには、十分な威力を持っていたと言うだけに過ぎない。

「それじゃあ……、自宅近くまで送って行くよ」
「……っ」

 ……だと思った。彼は絶対に私情を挟まない。私は彼の働く会社の従業員であって、私には彼氏がいて。いっ時の感情に流されつつある私の心情なんかは、この人には全てお見通しなのである。
 もしも今——つい先日レストランで食事をしたあの時のように『仮に今ここで部屋を取ってあると言えばお前は着いてくるか』なんて言葉を掛けられてしまった暁には私はあの時のように淡々と『いいえ』と断らない、いや……断れないことをこの人は、しっかりと熟知しているのだ。

「……はい。」

 俯いて頷けば彼は少し困った顔を浮かべて何かを咀嚼するように口元をまごつかせると間もなくしてその口元を引き結んだ。信号が青に変わる。車がまたゆっくりと進んでいく。
 目の前に迫る長いまつ毛に、きらりと光る雫が見えて、私は黙って再び瞼を閉じる。私は泣いていた。きっともう、彼の心の中にはあの頃≠フ私たちは居ないのだろうと思い知らされたから。


「……お前は、やっぱり狡い女だな」

 信号で止まって瞼を伏せていた彼が熱混じりの上擦った声でぽつりと呟いた。その言葉を合図にするかのように耳のずっと奥の方で、何かの扉が閉まる音。私たちの人生がもう二度と交わらない音がした。

 違う。ズルいのはいつだって藤真さん、あなたの方です。だって私は今このまま——連れ去って欲しかったんですから……。
 それでもしぼんで伸びた私の心臓の鼓動ならば彼と同じ速度でどこまでも生きていけるような、そんな、気がした。
 足掻らうことのできない大きな流れの中で私はとても小さく、とても無力だった。










正しさ ≠ネんて、いらないのに。



(社長——飲酒運転、ですよね?)
(微量しか飲んでいないから大丈夫だ)
(なんか……納得しちゃいますけど捕まりますよ)
(じゃあその時は、道連れだな)
(……)
(安心しろ、お前に迷惑はかけないよ)
(かけてくれて、いいんですけど……)
(ふっ、心中穏やかじゃないな、可哀想に)
(いじわる……)


※『 はじまりはいつも雨/Bank Band 』&
 『 Answer/HY 』を題材に

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