しくじった……。ターンタラタララッ♪と携帯の着信音が響いて、閉じていた目を薄く開けた。
 見慣れた天井がいつもよりやや霞んで見える。俺はこの天井が高すぎる体育館の中央に大の字になって仰向けになっている。生徒は全員帰った後で、ここには俺しかいない。着信音がいまだ鳴り止まず俺はそのまま携帯を電源ごとオフにして、また目を瞑った。ただそれだけの動作が億劫で、頭の細胞が死んでしまうのではと思うくらい頭が熱かった。えもいわれぬ疲労感が俺を襲う。

 朝、妙に寒気がして目覚めたとき、同じ部屋のベッドで眠る彼女が俺の額に額を当ててくれる、なんてことはなかった。時刻は早朝5時。あー、これはまずいな、と。彼女を起こさぬようそっとベッドから出てキッチンに向かい冷蔵庫を開けてミネラルウォーターをがぶ飲み。しくじった、と思った。まさかよりによって今日熱を出すのかよって。たしかに最近校内で、風邪が流行っていたけれども。昨日も一昨日も眠れず夜遅くまで起きていたけれども。でもこれはないだろう。今日は彼女がキャバクラに出勤する日だ。そんなタイミングで風邪を引くなんてな。仕事終わりに隠れてその店に行ってやろう作戦が台無しだ。
 今日は授業が始まる前も終わった後も、ずっと彼女の事を考えていた。意を決して昼休みにメッセージを送ろうとしたが何度打ち直しても彼女を責めるような文章にしかならず携帯をポケットに仕舞い頭を抱えていた。
 午後一番は授業がなかったので何となく見回りがてら外を歩いていたら用務員の男性と出会して「三井先生なんだか体調が悪そうですね」と眉を下げて心配するその風貌が、なぜか水戸を彷彿とさせ苦笑いを浮かべながらもそのまま二人でそばにあった花壇に腰を掛け他愛のない会話をした。

「そう言えば息子さん、志望校受かりました?」
「ええ、無事に第一志望の翔陽に推薦で。」
「——しょ、翔陽……すか。そーすか……」
「あ、そうそう。バスケットやってるんですよ、うちの息子。翔陽ではレギュラーを取ってキャプテンになるんだって、今から張り切ってました」
「……」
「過去にね、一年生からレギュラー取って三年の時に監督権選手をやった子がいたらしくてね……あれ?前もこの話、三井先生にしましたっけ?」
「あ、あー。聞いた、かも知んないっすね……」

 声、震えてないだろうか。今の俺の声は聞こえていたか?と不安になっていると二、三秒空いて「三井先生と同い年くらいじゃないかなぁ?その監督権選手だった生徒」なんて声が返ってきた。用務員さんの声が、鼓膜を揺らす。帽子を取った時代を感じさせるそのリーゼントもどきの髪は、日の光を反射してきらきら輝き息子を思う澄んだ目は、まるで太陽のようだった。彼はにんまりと笑って、俺にレモン味の飴玉を差し出してきた。

「今年もまた出会いと別れの季節が来ますねぇ」
「……」
「三井先生、無理しないでくださいね」
「え……ええ、ありがとうございます」

 俺は小さく返事をして立ち上がり、チャイムの音を背負いながら校舎へと足を向けた。開け放たれている教室の窓からは一斉に椅子を引く音や、ガヤガヤと騒がしい生徒達の声が聞こえてくる。一気に足が重くなる。本当にしくじった。これは結構ガチで体調が悪いかもとさっき貰った飴玉を口の中に投げ入れて後頭部をガシガシかきながら職員室へと重い足を進めた。

 そんな感じでほぼ絶賛体調不良のまま迎えた、彼女がキャバクラ出勤の今日。でもどんなに文句を言ってみても風邪はすぐには治らないわけで。とりあえず外の空気でも吸えばいくらか良くなるかと早めに家を出て学校に向かいこうして一日の業務を終えて体育館に寝そべっているが……仕方ない。さっさと自宅のベッドで寝てしまおうと、ようやく気怠い体を起こして、学校を後にした。


 *


 真っ暗な自宅に帰り電気を付けラフな部屋着に着替えコンビニに夕飯でも買いに行こうと玄関に向かいそのままふらふらしてその場に座り込んでしまった。暫くして立ち上がり部屋着を脱ぎ捨てて脱衣所のカゴへ放り込む。次は外出できそうな私服に着替えて、ようやくマンションを出た。
 熱を出すのはそう珍しいことでもない。俺は、立ち寄るはずだったコンビニを通り過ぎ、駅へと向かった。乗り込んだ電車で、見慣れた駅へ降り立ち、数分歩けば一軒の灯りが見えてくる。ガラガラと力無くその扉を開け放てば「いらっしゃいませ〜」と、よそ行きの声が出迎えてくれた。

「あ、ミッチーさんじゃん」
「洋平くーん、ミッチーさんご来店でーす!」

 当たり前にカウンターを陣取る二人組の女子。「いらっしゃいませ〜」と声だけで出迎えてくれたらしい水戸が、カウンターの奥からひょこっと顔を出して目を見開いている。俺はそれを気にしない素振りで彼女らが座る席の隣に腰を下ろす。

「ミッチーさん、最近よく来るね」
「名前さんと上手くいってない系?」
「……うっせ、ほっとけ」

 そんな雰囲気に当てられて確かに俺もここ最近はよくこの店に通っている事を自覚する。彼女が残業も多くなったことで毎日仕事終わりに近所のスーパーで安くなった惣菜を買ってきて一人寂しく食べるのが嫌だったという理由もある。ここに来ると、顔を顰めながらも水戸信者のこの二人がずっと俺のそばに寄り添って、アドバイスをしてくれた。俺も鬱陶しそうにしながらも、あれこれ相談している時点で心中穏やかではないのだろうと自分を客観視している節もあるが。
 最初は「お前らに言ったって解決するかよ」と天を仰いだ俺も「名前さんとこれ以上拗れるより私たちがこうして愚痴を聞いてた方がマシ」とズバッと言われたりして、だんだん「甘すぎ」とか「ちゃんと女心分かってあげなよ」みたいな具体的な指摘に変わっていって最後には「まぁ、ミッチーさんだから許されてるよね、その性格」と、言ってもらえたのがつい数日前の話だ。

「みっちー、顔真っ青だぜ」

 ここで初手——水戸が俺に対して目を見開いた理由が明確になった。奴は一目見ただけで体調が悪いと気づいてくれたらしい。俺はモゴモゴしながらも頬杖をついて、目を逸らしつつ答える。

「熱ある、多分」
「熱あるって、じゃあ大人しく家で休んでろよ」
「飯ねーんだって。悪い、なんか食わしてくれ」

 水戸は冷たいおしぼりを俺に手渡しながら軽く相槌を打って奥のキッチンへと向かって行った。常ならばしないおしぼりで顔を拭く行為も今だけは許して欲しいと思う。あえて冷たいおしぼりをくれたのだろう、その冷えた温度が肌に触れるのは心地よい。すぐさま隣の二人組のうち一人が、カウンターの中へと入って行って俺に氷を入れた水を渡してくれた。座ったままでいるもう一人が「気持ち悪くなったらトイレで吐いてね、あと、風邪移さないで」と言って自身の鞄からおもむろにマスクを取り出して、遠慮もせずに装着する。その姿を俺がジト目で見やれば、何故か睨み返されて思わず溜め息がこぼれた。そんな俺の様子を見てカウンター内に入っていた一人は困ったように眉を下げた。どんどん水戸に似ていくその様にほとほと呆れを通り越して、もはや萎える。

「おい、その顔やめろ。水戸そっくりだな。俺、弱ってんだからよォ、労われよな、今日は特に」
「ミッチーさんがちょっと残念なのって、ほんとそう言うところだよねー」
「あン!?」
「はいはい仕方ない。今日も私たちが話、聞いてあげるよ」

 とか言いつつも座ったままでいる隣の水戸信者Aから新しいマスクを受け取り、さっさとそれをつけた目の前の水戸信者Bをギロリと睨めつければマスクをつけたままニヤと笑った水戸信者B。そのとき、即席で作ってくれたお粥を持ってきてくれた水戸が俺の視界を覆った。

「いいなぁ〜、ミッチーさんはぁ〜」

 ぽつりと呟く横に座る水戸信者A。いつものように勝気に片眉を上げて見せれば彼女は、ふんと鼻を鳴らして前に向き直り自分の杯を煽りながら「洋平くんに特別扱いされてさ」と、言い放つ。

「なぁに今更なこと言ってんだ、水戸は俺の後輩なの。先輩を労って当然だろうが」
「しかも彼女さんは美人だし、瞳は綺麗だし……モテるし?可愛いし、優しいし、美人だしィ?」
「何回美人言うんだよ、つかモテるってなんだ、まぁ美人なのは、否定しねーけど……」
「名前さんはそれ相応の努力をしてんだよね」

 カウンターの中にいた信者Bがそう言って席に戻ってきた。それを聞き流して水戸に「ビール」と言えば、まるでその体調で飲むのかとでも言いたげに呆れた表情を晒し、それでもサーバーからビールを注いでくれた。しかし俺の側にジョッキを置いた水戸は、水色のジャケットを羽織って「お二人さん、ごめん。ちょっと店番頼んでいいかい?」と信者二人に言い残して、さっさと店を出て行ってしまった。

「……あ?……おい、水戸どこ行ったんだ?」
「買い出し。卵切れたってさっき言ってたから」

 言いながら二人がおもむろに席から立ち上がりカウンターの中に向かう。後ろの席から「ビール三つ追加!」と声が掛かりそれにも慣れた様子で笑顔で応対していて、ただの水戸信者だと思って馬鹿にしていたが風邪で弱っているのも手伝って素直に感心している俺がいた。

「で、今日は何があったわけ?ミッチーさん。」

 まるで高校時代の後輩イケメンルーキーみたいなサラサラな黒髪を靡かせて問う信者Aを一瞥し俺は小さく溜め息を吐く。自称お洒落な彼女曰く「派手な子より素朴な方が男ウケがいい。日本人女性は黒髪だよね!」らしい。最近まで俺の彼女の元婚約者みたいなサラサラ茶髪だったくせにと言いそうになった口を噤んで俺は手元の杯を煽った。返答なしな俺にのど飴を手渡して来た信者Aからそれを素直に受け取り、口の中に放り込めばアルコールと飴のほろ苦い味が混ざって逆に具合が悪化しそうだった。白と水色のボーダー柄の、ワンポイントでバイクのワッペンが付いたらしきポーチの中には飴玉の他に目薬とリップクリームが入っているようだ。

「なんだその、クソ趣味悪そーなポーチ」
「水戸くんっぽくて雑貨屋さんで買った」
「水色に、バイクぅ?うっわ、怖っ……糞信者」
「うるさいなぁ〜元婚約者に彼女寝取られそうな人に言われたくないねっ」
「うぉい!!コラァ!寝取られるってやめろっ!縁起でもねぇ……ったく。」


 *


 緩い宴の時間は淡々と過ぎていき、かれこれ、ジョッキも五杯目に突入しようとしている。今日は、自分でもペースが早いことは自覚していた。でも、酒でも飲まないとやってられない。シラフだと今リアルタイムでキャバクラで働いてるんだよなとか、あと——元婚約者と一緒に仕事してる光景を妄想してしまって頭がパンクしそうになるから。ああ、だけどちょっと気持ち悪いかも……

「ミッチーさん、元気?」
「あ?……おう、こう見えて意外と元気だぜ」
「いや、違うってば。名前さんのことっ!」
「あ、名前?どうだかな、元気に見えっけど。キャバクラにヘルプで入るぐれーだしな」
「「えっ!?キャバクラぁ!?」」

 前のめりしそうな勢いで隣の二人が声を揃えて復唱した。四杯目を飲み終えておかわりの意味でジョッキを翳せばそれに気づいた水戸がキッチンからやってきて、俺の持ち上げているジョッキをまじまじと見た。「まだ飲むの?」と言いたいのだろうが俺は「んっ!」と空ジョッキをぐいっと前に突き出す。水戸は仕方なくそれを受け取り、五杯目を注いでくれた。そうして、早く寄越せと言わんばかりに、手をひらひらさせる俺の手に、ジョッキを戻した。つか、使い回し止めろよ。

 それから更に酒のペースも進んで同居している彼女と彼女の元婚約者との愚痴やら彼女がキャバクラで一日ヘルプで働く事になった経緯など水戸信者の二人と水戸に話した。感覚的にだいぶ熱は下がった気もするが頭がぼんやりして考えがまとまらない。味覚が鈍くていつもより多めのアルコールで口の中を消毒していたら遂に水戸が痺れをきかせたのか溜め息混じりに言った。

「みっちー明日も仕事だろ?そろそろ帰らなくていーのか?」

 時刻はすでに0時を回ったところ。店の客は、テーブル席の二人組みとカウンターの水戸信者の二人、そして俺のみとなっていた。

「おい、水戸」
「はい」
「なんで遠回しに帰そうとすんだよ」
「あら、バレた?」
「バレバレだろ、ったく。つれねーなァ、新しいジョッキもくれねーし」
「だってみっちー、自分で言ったんだろ?同じのでいいぜって、二杯目のときに」
「あ?そうだったか?」
 
 俺の隣の隣の席。水戸信者Bは茶髪。光を吸収するような髪。まるであの元翔陽の4番を彷彿とさせるようで、それを見るのが嫌で、あえて信者二人に背を向けるように頬杖をついて食べかけの切り干し大根を箸で弄べば俺の横に座る信者Aが突然バッグから手鏡を取り出し俺の顔を映した。

「あ?なんだよ。いい男のツラ拝みてーってか」
「どこ?いい男。洋平くん意外いなくない?」
「おい、真面目にぶっ飛ばすぞ」
「いいから見てみな?ひどい顔だよ?」
「……」

 死人みたいな肌の色。不吉に感じる黒色の目。溜め息をつく。熱っぽい。気を紛らわせるために外を見ようとして入り口を見やれば入り口の扉には窓がない事に気づく。そういえばこの店は壁にある窓を開けても、海しか見えない立地だった。
 本当に今日はぽやぽやしてるな。目を閉じれば瞼の裏に昨日や一昨日の事が浮かんでは消えて、消えては浮かんで。特に意味も無いけれど幼馴染の彼女に謝りたいという気持ちが膨らんで「俺が悪かったっつの……」と溜め息と共に小さく声が零れた。

「ねえ、マジでミッチーさん……やばくない?」
「うん、確実にやばいよね。……ね?洋平くん」
「まぁ熱あるなら幻覚も見るだろうな。ましてや今日はいつも以上に、ピッチ上げて飲んでるし」

 今年も恒例のバレンタインが過ぎ去り卒業式が近づいてきて学校中も、どこかそわそわとしていた。近くの花屋や文房具屋にはいつ行っても学校指定の制服を着た連中が三人以上はいたし好きな人と離れ離れになる前にと色んな人が色んな人を遊びやデートに誘っていた。俺のクラスにも二、三組カップルがいたけれど彼らも友人とではなくパートナーと一緒にいる時間が増えた。昼休みや放課後に中庭や空き教室で隣り合って座るペアもよく見かけた。切ない季節に感化されている。

「ふーん、名前さんがキャバクラねぇ……」
「まあ、名前さんならキャバクラで人気だろうね。老若男女から好かれそうだもん」
「おい水戸信者。今忘れかけてたのに、いちいち傷を抉ってくんじゃねーよ。あーあ、萎える」
「だってさぁ……あっ、もしかして会社関係じゃないの?ほらイケメン元彼社長の付き合いとか」
「あ!確かにありえるよね、でもミッチーさんに気を遣って、友達から頼まれたって言ったとか」
「仕事じゃあ仕方ないねぇ。ね?ミッチーさん」
「なんだそのイケメン元彼社長≠チて……ネーミングセンスの欠片もねーな出直して来やがれ」

 苦し紛れに「おい水戸」と何度が声をかければこともあろうに奴は目の前に立って携帯の画面を眺めていた。ようやく「ごめん、何?」と笑顔でこちらを見た所で俺は目を細めて唇を尖らせる。

「もはや聞いてねぇじゃねーかよ。泣くぞ、俺」
「ごめんごめん。いや、だってさ、みっちーって自分のことは、ぜーんぶ棚の上状態だからさ?」
「……あ?」
「自分に落ち度は、全くないのか?」
「そ、それは……」
「いい加減——棚も重みでぶっ壊れちまうって」
「……っ」
「——さっすが洋平くん!全世界の女性の彼氏。ほんっと大優勝」
「あ?全世界の彼氏だぁ?いつから。てめーは、どこまでホラ吹きなんだよ?ホラ吹きラッパが」
 
 信者の内の一人がそう抑揚つけて言ったことにすかさず突っ込めば、気まずい空気が流れかけたその場に少し穏やかな雰囲気が立ち込めた。きっと気を遣ってくれたのだろうとは思う。だって、水戸に言われたその言葉は図星の何ものでもなかったから——。

「みっちー」
「……あ?」
「俺ずっと思ってたんだけど聞いていいかい?」
「……なに」
「アンタの憧れたキラキラ時代の高校生の彼女はもういないのに、それでも彼女のこと好きだって思えんのかな、って?」
「……は?」
「ずっと追っかけてるだろ……あの頃の彼女を」
「……、」
「もう何もかも変わってるってことに、気づいてないのか?それとも……気付きたくない、とか?もしくは、気づかないフリ?」
「……っ」
「みっちーは、名前さんの何を見てるんだ?」
「——、」

 不意に、高校時代の記憶が蘇る。水戸は今までお情けで誰かと付き合ってあげていたとかいつも野郎軍団が話しているけれど信ぴょう性の欠片もないそのネタは、意外と真実なのではないかと、俺は密かに思っていた。ある意味、見下していたんだと思う。こいつって、本気で恋とかしたことねーんだろうな、って。
 最近本気で恋する相手が現れたらしいぜ——。そう野郎軍団から聞かされたのはつい最近の話。閉店間際になると徐に外に出て誰かとずっと電話をしていると大楠が言っていた。しかし、酔った勢いで、こちらが問い詰めても最後は「花道から着信あって」で終わるので相手は『花道』もとい『桜木』という事だけしか分からず真相はいつも闇の中なのだ。

『洋平≠ニ妖精≠ナ韻が踏めるじゃん?洋平くんて桜木さんを導くティンカーベルなんだよ』

 以前、水戸信者がそんな事を言っていた。もし高校時代に俺がバスケを離れていたとき——俺の幼馴染が水戸に惚れる瞬間があったとして水戸も彼女に本気の恋≠していたとしたら……仮に将来俺と結ばれる運命だったとしても彼女の中にこいつの存在が眠ったままなら、俺たちは上手くいかなかったかも知れないと何度も妄想した事がある。こいつだけは、絶対にダメだと思っていた俺は他を見落としていただけで、既に彼女の中で特別≠ニして位置付けられる存在が、水戸ではなくて、あの、元婚約者だとしたら……俺の入る隙なんてもともと無かったのかもしれないって。


「恋≠ニ愛≠チて海と空のように似てるけど実は全く別物だよねっ!」

 すこしのあいだ現実逃避をしていた俺の耳に、そんな言葉が突如入ってきて我に返る。気づけば水戸信者と水戸は恋≠ニ愛≠フ定義について語り合っていた。とは言っても水戸はやはり携帯をいじりながら相槌を打っている程度ではあるが先の質問に答えない俺のことなど意に介さず信者に笑顔を向けている。
 確かによくよく考えてみると恋と愛は海と空のように似ているようで全く違うもの、という定義には納得がいくようないかないような。一般的に教師≠生業としている者ならば、模範解答の一つや二つ、こういう時にぽんぽんと出てくるのかもしれないが、俺にとっては専門外中の専門外だ。なので彼女らが望んだ回答などすぐに浮かぶわけもなく……なんて頭の中を巡らせていると、恋と愛の違いを語った信者のもう片割れの方は、携帯で早速『恋と愛の違いとは』なんて検索している始末。まったく最近の若いのは仕事が早ぇ。

「ミッチーさんは何だと思う?恋と愛の違い」

 ……きた。俺に振るなよと言うオーラを放っていたつもりだったがそれも虚しく内の一人がそう言って、もう一人の検索していた彼女も、カウンターの上に自身の携帯電話を置いてしまった。
 ここは逃げ場がない。どうやら水戸のポリシーで、トイレ以外はカウンターから全員の客の顔が見えるような席の配置になっている。そして、今座っているカウンターなんてもっての他だ。俺は当たり前に水戸と水戸信者からの視線を浴びて、逃げ場を失う羽目になった。全員に気配りが出来るようにとこんな感じの席の配置を考えたのは、飲食店を経営する者の目線で見れば立派な事でもこういうときには逆に不便だなと思う時がある。

「……さぁな。恋は限りがあっけど、愛に限りはねぇんじゃねーのか、知らねーけど」
「うーん……え、どういうことぉ?」
「あ?」
「なんかかっこいいこと言ったふうだけど、全然意味不明なんだけど」
「俺に聞くな!適当に言ったんだからよ……」

 本当になんとなくで思いついたまま言ったのに改めて解説も求められると、困ってしまう。俺は苦笑いをして残りの杯をぐびっと煽った。すると感心したとでも言いたげに水戸がニヤッと笑い、「へえ……」と、会話を繋げた。

「みっちーも、たまには良い事こと言うんだな」
「……うっせーなぁ。なんだ、たまにはって」
「ねぇ洋平くんはなんだと思う?恋と愛の違い」
「んーわかんないけど。愛って他人の幸せが自分の幸せにとって不可欠になる状態のことだよな」
「やだ深ぁ〜い!!待って待って!メモ取る!」
「はぁ?なんだそれ。そっちのが意味不明だろ」
「じゃあ——。みっちーの愛に……限りはないのかい?」
「え——。」

 これまた難しい質問を投げて寄越した水戸に、俺は眉を歪める。隣の二人は、協力して目の前の料理を食べ進めはじめ「これ美味しいよね」とか「これも好き」とか食うことと飲むことに神経を注ぎ俺に鋭い言葉を浴びせてきた水戸も俺が口を噤むと途中からキッチンの方へと移動して皿洗いなんかを始めた。そうして、ダラダラと俺も飲み食いに専念し、特に会話がそれ以上弾む事もなく俺と水戸信者が帰る頃には当たり前に外は真っ暗で、俺たちの吐く息が白く夜空へ昇っていった。


「てかさぁ、ミッチーさん」
「あー?」
「名前さんがもしもそのイケメン元婚約者とそーいう関係になったら、結局ミッチーさんどーすんの?」

 水戸の店を出て三人で駅に向かう途中——突然そんな質問を投げかけられて俺は息を呑む。だが特に動揺することなく意気揚々とその質問に対して俺は言葉を返す。

「ありえねぇ。ンなこと、考えたこともねーな」
「ふーん。意外と冷静なんだね、ミッチーさん」
「……」

 冷静——そうだ。言葉は……頭は、いつだって冷静なんだ。泣きたい感情は、喉で詰まって止まる。そんなの、昔から慣れてることだったはず。

「冷静……ねぇ」
「名前さんならきっと大丈夫だよ。何か危ない目に遭ってもスーパーマンが助けてくれるから」
「は?スーパーマン?」
「うん。イケメン元彼社長。またの名を、元スーパールーキ且つ、監督権主将!」
「……」
「待って!すっごいパワーワードだね、それっ!てかさ、本当にそんな展開だったらミッチーさん立場なさすぎて涙も出ないって!あはは!」
「涙すら出ないときに救ってくれるのは、何でも話せる友人と、泣ける映画と美味しい食べ物!」

「確かに!それに限る!」と、言葉を返したもう一人の水戸信者。二人は何が面白いのか顔を見合わせて、アハハハと笑っている。
 会計時にまだ恋と愛の違いについて盛り上がっていたこいつらに「この人と一緒に幸せになろうとか、この人に幸せにしてもらおうと言うよりもこの人とだったら不幸になっても後悔しないって相手と巡り会えたら最高なんじゃないかな」と、最後にスカして締めくくりやがった水戸の言葉が反芻する。
 今日きっと俺は「彼女がぜんぶ悪い」と言ってもらいたかったんだと、このとき改めて知った。けれども、ハッキリと言われてしまった——


 「自分に落ち度は、全くないのか?」


 ——と。確かに、水戸の言う通りなのだろうと思う。俺はいつだって、自分のことは全部棚の上状態だ。そもそも事の発端は俺が安易に元婚約者を車に乗せたことから始まった気がする。それに目を背けたくて藤真との事を話題にあげて、その度に彼女を責めて、彼女を避けて……そのせいでここまで関係が拗れて悪化した。本当いい加減、棚も重みでぶっ壊れちまうかもしれないな……。
 どうしたら関係を修復できるのか——もう今の俺にはわからないところまで来ている。


 *


「お疲れ様」

 一日ヘルプで入ったキャバクラからの帰り道、私は、夜になっても街頭の光を反射して輝く彼の綺麗な髪の毛を盗み見ながら時折チラとこちらを気に掛けてくれる視線もかっこよくて……思わず見とれてしまっていた。

「……え?」
「慣れない仕事は疲れただろう」
「あ、まぁ……お気遣いありがとうございます」
「——ほら、お前も。お疲れ様は?」
「はっ?……へ?」
「俺は今日したくもない新人キャバクラ嬢の相手をした上に酒まで浴びせられたんだぞ……少しは労わってくれ」
「あ、……お疲れ、様、でした……」

 私は動揺しながらも小さく返す。そのまま二人とも車内で無言が続く。それは私のマンションの近くまで、ずっと続いた。そうして車は赤信号で止まった。

「妙だな」

 ぼーっとしていると不意に顔をのぞき込まれてとてもびっくりした。しかしその冷たすぎる声色とは裏腹に澄んだ瞳が心配の色を含んでこちらを見ている事の方が心臓に悪いから止めて欲しい。

「え、えっ、えと……妙、と言いますと……?」
「うん。妙。さっきまでは、淡々と俺との会話に受け答えをしていたはずだ。客に、酒を浴びせる元気もあった」
「……」
「なのに今はノリが悪い。声も小さい。」
「……」
「よくそんなんで一日だけとは言えあんな仕事を引き受けたもんだな」
「……っ」
「なんだ……なにか、考え事か?」

 やや眉をしかめる社長。信号が変わって、車が流れ始める。咄嗟に「あの、止まってください」と言った自分に驚いた。彼が目を丸くする。私も私にびっくりして、でも言っちゃったことはどうしようもない。半泣きになりながら「あの、少しお話したくて」と言った。
 車は暫く走って、道路脇の非常停止帯のような膨らみにハザードランプを点灯させて止まった。日中は車の通りも多いけれど今は数分に数台しか通らないような道路だ。「どうした」と少し声に困惑の色を纏わせていた彼もここまできたら何かを察したらしく、じっと黙って正面を見ていた。

「あの、ですね……」

 深呼吸、深呼吸。心の中の彩子が「まずは落ち着くこと。一世一代よ、噛んだら大惨事だわ」と高校時代に、アルバイトの面接練習に付き合ってくれた時にアドバイスでくれた言葉をこんなタイミングで語りかけてくる。私は息を整えて体を横に向け彼をまっすぐ見る。こちらを見た彼と視線がかち合う。茶色い目が私だけを見つめている。

「——まずは、これを」

 肩にかけていた小ぶりのバックからハンカチを取り出した。お気に入りのハンカチでミント色の糸で私のイニシャルが隅に施されている。彼は、大袈裟なほど慎重に長い指でつまんで受け取って「何?」と問う。きっと「これはなんだ」と言う意味だろうと思う。

「綺麗な髪が……濡れてしまって……」
「……」
「あ、あと……高そうなスーツも」
「ふっ……今更すぎるだろ。もうほぼ乾いたよ」
「その色のスーツ、珍しいですね……とっても、似合ってます。あと……素敵なネクタイですね」
「最近のお気に入りだ」

 それでも、綺麗に微笑む藤真社長。受け取ったハンカチの刺繍の部分に視線を落として、慈しむように撫で付けるその仕草がかっこ良くて思わず顔がにやける。いけない。見えないように重ねた手の上で片方の手の甲をつねって、何とか真顔を取り戻す。

「あの、社長……」

 彼が唾を飲み込む音が聞こえた気がした。少し間が空いて、「うん」と返事がある。深呼吸……吸って、吐いて。そして——

「尊敬してます……ずっと、社長のお側で仕事がしたいです」

 世界から音が、ぜんぶ消えたような気がした。彼が、ぎゅっと唇を引き結んで、私を見ている。そうして長い長い沈黙の後、ゆっくりと彼が口を開いた。

「——それは、……いつからだ?」

 一瞬頭が回らなくて少し間が空いた。私も驚いていたからだ。だってまるで……『愛してます。私のパートナーになってくれませんか?』とでも言っているような響きに自分でも聞こえたから。

「いつから、その……そういうふうに思っていたのか、という……ことでしょうか?」
「……そう。」
「それ、は。初めて会ったとき……かな。あの!ほら、タクシーを横取りされたとき……」
「……」
「私、その……高校の頃から、ずっと好きな人ができなかったんです。出会いはあったんですよ?いくらでも……けど、社長と出会って……始めは何、この人?って」
「……」
「でも、かっこいいなぁって。好きだなぁって」

 ぽつり、ぽつりと語る。私はいったい、なにを言っているのだろうか……藤真社長≠尊敬しはじめたのはいつなのか?と聞かれたはずが気づけば自分でもよくわからない事を口走っている。今日そんなにお酒飲んでないんだけどな。チラと目線を上げると社長は少し、顔を曇らせていた。

「それは、その。俺の、顔を尊敬していると?」
「ううん!あ、いや、顔も!好きですけどっ!」

 食い気味に遮る。待て待て、そうじゃない……今、せっかく向こうから好き≠あえて尊敬≠ノ変換してくれたのに——私って正真正銘のバカなのかもしれない……。

「最初に好きだな、かっこいいなって思ったのはそれは確かに、見た目なんですけど。でも、そのあと付き合うことになって」
「……」
「一緒にお花見したり、食事したりするうちに、社長の内面の優しさというか、その……暖かさが好きになって」

 社長が私を見ている。もうこんな支離滅裂な事を言ってしまっているのだから今のうちに、言いたいことを全部言っておけと心の中の私が叫ぶ。

「そのうち、ふ、ふれ合うことも増えて。その、プ、プロポーズされて、でも、別れちゃいましたけど……」
「……」
「社会復帰とか言いつつ未熟な私に、真剣に向き合ってくれる姿が、とても頼りになって、かっこよかった。ちょっとした変化にすぐ気づいて思いやることができて。素敵だなと、思いました。」

 そこで、いったん言葉を切る。彼と視線を合わせる。社内には、私より美しい子なんてたくさんいた。長谷川さんとか、受付嬢の二人組とか……みょうじさん、とか……。
 受付嬢の二人なんてまるで童話のお姫様みたいに可愛らしい容姿をしているし。こんなに身近に何人も美しい人がいるんだから、私が社長の側で働くなんて場違いだよね、と思っていた。
 でも、かっこいいって見た目だけで声をかける女の子たちに多分、嫉妬しちゃったんだと思う。
 社長の良くない噂を聞く度に、私といるときはたまに穏やかな目をしているのになぁとか、あとこうしていざってときに、助けてくれたりとか。気が付いたら私があなたを——笑顔にしたいって思っちゃったんだよなぁ……。
 まったく、自分勝手な話だ。あなたの髪や瞳も美しいと思うけれど話すときに目をしっかり合わせてくれるところとか当たり前だけど、みんなに平等に接しているところとか出会った頃から偉くなるために毎日こつこつ努力しているところとかそういうところの方が、もっと好きで……。

「好きです、今は部下としてですけど。誇らしいです、偶然でも、藤真社長の会社で働けて……」
「……」
「私に、これからも尊敬させてくれませんか?」

 言葉が変だったかもしれない。でも一生懸命に伝えようとして。だけど、社長が機嫌のいい時にたまに見せるあの——満足げに微笑している顔に気づいてしまって、一気に気が抜けた。

「積極的だな、相変わらず君は。そういうところ嫌いじゃないよ」
「えっ、その、え?ごめんなさい……?」
「謝らなくていい。ただ、ここからはもう、俺のプライドの話だ」
「……?」
「それは、地位や立場を通り越して、俺の秘書をしたいっていうことか?」
「……う、うん……みょうじさんみたいに、お力になりたいです」
「ずっと一緒にいたいって、ことか?」

 こくり、と頷く。彼は「参ったな」と、口元を覆って目線だけで天を仰いだあと、こちらに向き直ってやや早口で喋り始めた。

「君のことは評価してるよ」
「……はい」
「だが、どこまで本気か分かりかねる。しかも、そんな格好で言われてもな……酒も入ってる。」
「お酒はまぁ。え、そんな格好と申しますと?」
「キャバクラ帰りのお前の覚悟がまだ、よく汲み取れていない」
「ゆっくりでいいです。今日ほら、一日ゆっくり寝てもらって、それから……!」
「……酔っ払ってるのか?揶揄ってるだろう」
「だから!私はずっと藤真社長のお側で働きたいんですってば!!」

 なぜか伝わらなかったみたいなので、もう一回大きな声で伝えてみた。と、よく見ると、社長は目を見開いていた。それでもかっこいいので腹が立ってくるが珍しくこんなに驚いた顔を見たのでなんだか可愛く見えてきた。
 それから彼は無言で車を発進させた。しばらくして、マンション手前の最後の信号で止まった。彼はずっとぎゅっと唇を引き結んで黙っていたが無言が続いたことで逆に落ち着いたのかゆっくりと口を開いた。

「少し、時間をくれ。俺なりに考えて、近い内に答えを出す。それでもいいか?」
「はい、もちろん」
「君の力にも出来る限りなりたいとは思ってる」
「はい」
「意欲は伝わった」
「……はい。」

 そして二人で顔を見合わせてまるで昔のようにくすくすと笑った。
 その後しっかりとマンション前まで送り届けてもらって自宅に帰ったら同居人の姿はなかった。


 *


 情けないなぁ。ため息をついてシャワーを浴びて寝室に入ると、そのあいだに同居人が帰宅していたらしくベッドで寝ていた。私もその隣に潜り込み、いつの間にか瞑っていた目を開ける。
 勢いで色々言ってしまったから今になって後悔の念がどっと押し寄せてきた。もっといい言い方があったんじゃないのか、もっと事前に水戸くんファンのあの子たちとかからアドバイスもらえば良かった。いや、きっと社長は他に側で働かせたい人材がいたのかもしれない。こんな派遣社員の私が、生意気なことを言ってごめんなさい……。

 のろのろとベッドから降りてキッチンに向かい冷蔵庫から水を取り出して、一気飲みする。水の入ったペットボトルをシンク脇において、それにしても寒いな、と思って窓の側まで歩み寄りカーテンをそっと開け、窓を見る。窓が結露していて透けて、ちらちらと動く白い何かが見えた。窓の水分をパジャマの袖でちょっとだけ拭ってみる。

「雪だ——。」

 次から次へと白いふわふわが落ちてきて真下にある道を、白く染めていた。しばらく雪を眺めていると、このマンションの斜め向かいにあるアパートの窓のむこうに誰かがいる気配がした。
 こんな夜更けに電気がついていて何かが動いているのが影になって見えた。少ししてその何かが人だと悟る。その人物が窓の結露をタオルで拭い始めた。その窓の下に誰かが立っている。男性っぽいな……そう思って首をかしげていると、アパートの中にいた女性がにんまりと笑って下の彼に手を振っている。私はしばらく固まって見ていたけれど窓ガラスの上の方——結露した窓に彼女が何やら描き始めた。
 何だろう……。大きいものを描こうとしているらしく少し背伸びをしている。そうして描き上がったのは大きなハート型だった。部屋を見上げて得意そうに、でも照れたように、手を振る男性。

 その光景に気づけば私は泣いていた。泣きながら見る景色はどこもかしこもきらきらしていて、彼女の笑顔も手を振る男性も、窓に映る私の髪も雪も等しく輝いていた。私も未だ曇っている窓の隅にそっとハートマークを描いた。過去に、彼のマンションで、同じようにハートマークを描いて怒られたことをふと思い出した。果たして私は今誰のことを考えてこのマークを書いたのだろう。今の私には分かりかねる。そんなことを無意識に思っていて私はふ、と小さく笑う。


「分かりかねるって……」

 いつだって過去は痛いものだ。過去から逃げることもできるし過去から学ぶこともできる。どうにもならない事なんてきっとこれからもたくさん起こる。起こる前から心配する必要なんてない。
 それでも一つだけ、わかっていることがある。それは私と幼馴染はもう一緒にいれる未来はないと言う事。冷め切ってる関係を終わりにしたい。
 だって、私が彼と望んだ未来はこんなはずじゃなかったから。

 藤真さんとのこの関係に名前が欲しかった私はこのとき、冷め切っているこの空間からただただ抜け出したかっただけなのかもしれない……。










 巡れど憎、
     それでも私はに還る。




(まるで、藤真さんみたいな口調だなぁ……)


※『 エンドロール/川崎鷹也 』&
 『 One Call Away/Charlie Puth 』を題材に

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