夢だと思えば怖くない(2/2)
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寂しさに打ち勝つのがいい女。寂しくさせないのがいい男——以前、水戸くんに言われた格言。
人を好きになる。どこが、なんかわからない。人を好きになるのにどこが、なんて考えて好きになるんじゃない。気づいたら好き。それが本当の好きなんだと、最近になって常々思う。
結局あの日はあのまま最後まで致す事にはならずに済んだ。私が無理矢理に彼の行為に待ったをかけ、しっかりとキャバクラで起きた一件を全て包み隠さず説明した。話を聞いている最中も機嫌がいいとは言い難かった彼だったがとりあえずは納得したようだった。けれどそれは自分にも落ち度がある事を、彼が理解しているからだ。だから最後は折れてくれると言う事を私は知っている。
元婚約者とキスをしたことに勝る出来事なんて私の生活下では生まれるわけがない——。それを利用しているのは実は私の方なのかもしれない。
今日も眠いなぁ……と、あくびを喉の奥で噛み殺しつつ私は昼休憩に入った。気がつけばバレンタインの時期も過ぎて目の前にはあの桜の季節が迫りつつある。お疲れ様、という声かけと一緒に休憩室に同僚と入れば——先にいた同僚の彼女の第一声が「藤真社長」で私は��またか�≠ニ思わず顔を引き攣らせてしまった。
「今朝ね、廊下ですれ違ったんだけど、めっちゃ良い匂いした〜」
彼女は手作りであろう弁当を広げながら、少し目を見開きつつ鼻息荒く言った。「甘さの中に、鼻にすっと抜けるような、それでも男性的な香りを纏っていた」という言葉に以前キャバクラでの席で感じたそれと、先日の会議室の一連を思い出しながら、私は箸を進めつつ同僚の話を聴く。
今日は一日良い事が有りそうだとでも言いそうな程に、にこにことお弁当を食べている彼女は、いわゆるミーハーなのだろう。実は社長の元婚約者なんです、なんて言った日には彼女から無視されるんだろうなぁ、なんて思って小さく嘲笑う。
「いつ見てもカッコイイよね社長。名字さんは九階に異動しても最近はあまり見かけることがないんだっけ?」
「うん。でも先日みょうじさんに頼まれて会議室の後片付けをしたんだけど、そこで少しお話したよ」
——言っても業務連絡を二、三言。会話らしい会話では無い。終いには睨む様な視線を寄越されたのだ。素直にそう伝えれば、それでも良いのか目の前で同僚は「いいなぁ」と、羨望の眼差しを向けてくる。本当にミーハーだ。ぜひ水戸くんを紹介してやりたい気分だ……すぐにハマりそう。
「でもさぁ……」と。弁当箱の端に残った白米を口に放り込んで、彼女は続けた。
「噂だけど藤真社長、女遊び激しいんだってね。お金も持ってるし、選びたい放題だろうなぁー」
それを聞いて何故だか先日の社長とのすれ違い様に香った匂いとあの日キャバクラの��お客様�≠ニして交わした会話を思い出して、決して今では知りえない彼のプライベートな表情を想像する。
食べ終えた弁当箱を片付ける同僚を後目にとっくに昼食を食べ終えていた私は残りの休憩時間をぼうっと過ごすことにした。
*
用事があるわけでもなく急いで帰る理由もないが今日こそは定時で上がりたい。先日はイレギュラーで定時退社を逃してしまったからか気持ちは逸るばかりだ。
残り何時間か頑張ればと踏ん張っていた矢先に「今よろしいですか」と声をかけられた。まずいと、私は咄嗟に返事をしたが声をかけてきた人物によって今日も定時は無理かもしれないと悟る。
「お忙しいところすみません。この集計をまとめて頂けませんか」
「……は、はぁ……」
「本日中でなくて結構ですが出来れば明日のこの時間までにお願いします」
嫌だ、という顔を貼り付けた私を一瞥するも、みょうじさんは有無を言わせないように資料を私のデスクに載せると先日と同じくさっさとその場から立ち去ってしまった。
相変わらず厳しい印象が強く愛想の無い人だ。容姿が良いだけに余計にそう感じる。私はふと、夕日に照らされた社長の顔を連想してしまった。
諦めて置かれた物を見ると明日までには何とかなりそうではあったが今から取り掛かるとなると数時間残らなければ後が大変になるような量ではある。その様子を見た同僚に「名字さん、みょうじさんに何かしたの?」と心配される始末だが、これは与えられた仕事で嫌がらせではないと自分に言い聞かせ、私はパソコンと資料を交互に睨め付けた。
かなり集中して六割を終わらせる頃には目標としていた定時退社を三時間も過ぎていた。すっかりお腹も減り段取りを決めていたお陰か、思っていたよりも進められたのでそろそろ切り上げようとパソコンの電源を切りフロアを見渡すと残っていたのは私を含めて数人の管理職の人間しか居なかった。私は身支度を整えてから挨拶をしてその場を後にした。
「——!……お疲れ、様です……」
社長だ。外へ出ようと向かった会社の入り口に藤真社長が居たのだ。見ると出先から戻って来たようで、ビル内に入るところであった。
まさか鉢合わせするなどと夢にも思わずしかも昼間に同僚と話題に挙げたばかりの人物で何だか気恥ずかしい。そして確かに��いつ見てもカッコイイ�≠ニ私は同僚が言っていた台詞を、頭の中で復唱していた。
「——珍しいな、君がこんな時間まで」
「明日までにと任せられた事がありましたので」
「そうか……」
��珍しい�≠ニ言ったのは、普段なら既に会社に居ない時間であるというニュアンスなのだろう。実際にこの時間まで残るのは久しぶりであった。
私が特に深く考えず「お先に失礼いたします」と続けようとしたところを彼、藤真社長によって遮られてしまった。
「あとは帰るだけか?」
「えっと、は、はい。」
「十分もしない。駐車場で待っていろ」
社長はそれだけ言い残しビルの中へと向かって歩いて行った。え?もしかして、もしかすると。いや……有り得ない、でも——。
昼間に同僚が言っていた��噂話�≠ェチラついてどうしようも無いが、とりあえず指示された駐車場へと私は向かう事にした。
彼が立ち去った後に香ったいつもと変わらず、くぐもったような甘い匂い——鼻に抜けるすっとした余韻が、なぜだか私を不安な気分にさせた。
*
「何か——悩み事でもあるのか」
高速に乗ってしばらく、走行音だけがしている車内の静かな空気を揺らしたのは彼の低く掠れた声だった。そこで彼と会社の入り口で鉢合わせた時に「あとは帰るだけか?」と問われ「えっと、は、はい」と返してから、一言も言葉を発していない事にはっとして気付いた私は、どうにか取り繕えないかと必死に話題を頭の中で探る。
「すみません。……どこに行かれるのかと考えてました」
苦し紛れに出てきた言葉が不自然に思われないかと目が泳いでしまう。しかし社長も私の考えている事を察せるわけでもない。なのに何故だか、彼には全てを見透かされているようだと私は思った。この感覚は��過去�≠ノも感じた記憶がある。
「……」
「……」
乗車した瞬間に香った彼の香水に——彼の隣に自分が居ることを許された空間に。固めた決意がぐらぐらと揺れたのを、私は口を噤むことで気を保っていたのだ。どうにも、居心地が悪い。
「そうか……」
納得しているような口ぶりであるが整えられた眉がきゅっと寄せられたのが分かってしまって、更に落ち着かなくなってしまう。
機嫌を損ねてしまったのだろうか。不安になった私をよそに社長は視線を外さずスーツの内側に手を入れ、携帯電話を取り出し画面を数回タッチすると通話をし始めた。仕事の話かと思い、息を潜めてその動作を眺めていると、彼が「例の店はキャンセルしておいてくれ」とだけ言って、携帯電話をそのまま懐に戻した。口調から察するに、相手はみょうじさんで、新規案件あたりの取り引きで何かあったのだろうと私は見当をつけた。
「……何か、トラブルでも……ありましたか?」
「いや……予約していたレストランを取り止めにしただけだ」
げっ。やってしまった……これは失態に近い。だって今回ばかりは自意識過剰でもなんでもなく私と行く予定だったんだよね?と。そう私が思うよりも先に「君があまりにも浮かない顔をしているものだからな」と、心配そうな声音で言う彼は続けて一瞬だけ目配せをし、僅かに目を細めた。
悪い事をしてしまった気になってしまい、場を繋ぐように「すみません」と小さく謝ると、来た道を戻ろうとしているのか彼がハンドルを切る。
「……」
「……」
このまま何も無く、家まで帰れる——。それでいいはずなのに、物足りない気持ちになっているのは何故だろう……わだかまりが胸に広がるのを誤魔化すように自身の手元へ目線を向け腹に決めた話をするなら今しかないと私が運転席を見るとこちらが口を開く前に、彼が応えた。
「到着まで時間が掛かる。疲れているなら眠るといい」
今から何処かへ向かおうとしている事を知り、反射的に了承の返事をすれば彼の機嫌は多少良くなったのか寄せられた眉は少し緩められていた。
どちらかといえば今だって目の下に薄く隈が出来上がりそうな彼の方が余程疲れているはずだ。それを差し置いて気に掛けてくれた事に、嬉しさから頬の筋肉が緩みそうになるのを堪えた。
……いけない。揺らいでは駄目だ。たまたま、この時間に捕まったのが私なだけであって、社長には、他に私と同じような女性はたくさん居る。それでもいつでも良いから必ず今日は切り出さなくてはいけない。もうこんな中途半端な関係を、続けていては……いけないと——。
そう思いつつも、静かな夜を泳ぐような彼とのこの空気感が私はやっぱり好きだった。心地良さすら感じる時間を忘れられず、日を追う毎にそこから抜け出せない。だからこうして彼の気まぐれで起こる声掛けに毎度応じてしまっているのだ。
��社長は……どこからが浮気だと思いますか?��
��そこに恋人がいても、同じ事ができるかを考えてダメだと思ったら、そこからじゃないか��
��確かに……でも、わかっていてもしてしまう人が多いのは、なぜですかね……��
��それは、そのときに大切な人の顔を忘れてしまうからだと思う��
彼の言う浮気の定義は正しいと思う——しかし切り離せない想いに蓋をするように、私はそっと今はただただ、目を閉じるのだった。
*
「起きたか」
掛けられた声にうつらうつらとしていた意識を呼び戻された。目的地には到着していたようで、駐車してからそれほど時間は経っていないだろうが、掛かっていたエンジンは切られていた。彼は既に腰にあるシートベルトを外していたのでそれを見た私もベルトを外し、扉が開くのを待った。
「お待たせしてしまったようで、ごめんなさい」
車から出て彼が車の鍵を閉めるのを横で見ながら謝罪すれば彼は「いや」と一言だけ言って駐車場の中央にある、上へと続くエスカレーターへと向かった。
営業時間をとうに過ぎたレストランやカフェなどがシャッターを既に降ろしていてそこは殺風景であった。先頭に立つ彼の香水が風に乗ってきて香った。そして、磯の香りもする。
「……初めて、来ました」
感嘆の吐息と共に、一言こぼした。登りきれば真っ黒な海と、遠くの方でそれをぼんやり照らす高いビルの群れや、燃える様にも見える工業地帯らしき景色が広がっていた。
ふと視界に入ったここの名物らしき鐘を見る。きっと自分が今より若い年頃で、相思相愛関係の相手とここに来ていたら迷わず写真を撮っていただろう。過去に見ていた夢を思い出してちくりと胸が痛んだ気がした。違う景色に意識を向けようと海をより近く見られるために設けられた踊り場に降りていけば後からゆっくりと追ってきた彼の革靴の音が聞こえた。
「気晴らしになると思ったんだが」
落下防止の柵を触りながら、海の向こうにある明かりを眺めていると、海から吹く風を遮る様に彼が私に寄り添う距離に立つ。まるで私の機嫌を伺うような、もしくは正解を教えて欲しいような凪に混ぜられた、そんな声音だった。
「……ありがとう、ございます。嬉しいです」
単純に嬉しくなった私は、今度こそ微笑んだ。私が彼の目を見て言えば、ふっ、と息を吸うのと同じく顔が近付けられる。そして彼の薄い表面のひんやりとした唇が私の左瞼にそっと柔く触れて離れていった。
「……っ、」
驚いて後退る間も無く一層近寄った事によって香水の匂いが押さえ込んでいた切なさを掻き立てて、決意が乱される。
出来れば、勘違いをしたかった。彼から受けるものを愛だ恋だと勘違いをしてその波に身を任せたかった。でも……もう駄目だ。私は触れられた事によってきつく閉めていたはずの蓋を、いとも簡単に開けられたと思った。
「藤真——社長。私……」
次いで塞き止めていた気持ちと一緒に、涙まで溢れ、ぽろぽろと頬の上をするっと滑る。彼は、気取られないようにはしているだろうが、少なくとも驚いてはいたようだ。
今から言う言葉に彼、藤真社長はどんな反応を示すのだろう。遅かれ早かれ、いずれは退職届を出すことになる運命だったのかもしれない。海の向こう側の景色と同じ位の遠い意識の隅で、私は冗談めかしたことを思い浮かべていた。そして、泣いてはいるものの、真剣な表情で彼を見据えて言った。
「私は、本気であなたを……藤真さんのことを、好きになってしまいました」
海の向こう遠くから煌めいている光が彼の眼の表面に覆う涙に反射している。光は、きらきらと波と同じように揺れているが彼の瞳は一切と揺らいではいなかった。そこで気がついた。揺らいでいるのは、告白をした私のほうだ、と。
流した涙を袖で拭おうとした瞬間、そっとその手首を掴まれた。睫毛の先に残った雫を彼の長い指が掬い取る。そうして、やや首を傾げて、私の様子を改めて伺った。私は彼のした行動の意味とその中に込められた感情を汲み取れないでいた。
「社長、私が何を申し上げたかお分かりですか」
「ああ。俺のことが好きだと言った」
「……はい。」
「それも��本気�≠ナ、だろう」
そこで思わず私は、黙り込んでしまった。その通りだ。彼が復唱したのだから、きちんと告げられている。何一つ間違ってはいないにも関わらず相手に自分の意志が伝わっていないのではないかと疑うほどに、やけにあっさりと受け入れられている。過去に幾人からも同じ事を言われているのだ。きっと好意を告白される事に慣れてしまっているのだろう。そう思うと、私の今の立場も一世一代とも言える愛の告白も涙ながらにしてしまったことを私は、ほんの少しだけ後悔した。
「何か腑に落ちない顔をしているな。なんだ?」
抑揚の抑えられた声が疑問を投げてきた。私は視線を彼の首元のきっちりと締められたネクタイの辺りに落とし込んだ。
「藤真、社長は……」
今まで、そのネクタイを解いてきた女の数は、どれくらいなのだろう。私と別れてからこの甘い匂いを漂わせる肌を直に触れる事を許された女は一体どんな人たちだったのだろう。それを考えると何故だか胸が熱く締め付けられるように痛い。
「色んな女性と、関係がおありでしょうから——私なんか今さら……取るに足らないですもんね」
自嘲気味に吐いた言葉は、彼に対する甘えだ。何なら八つ当たりにも近い。卑屈になって現状がより一層ややこしくなるのも、それはそれで良いだろうと考えていた。
嫌味を含めて呟いた私の様子を見て、彼が私の顔を両手で包み、無理矢理に逸らしていた視線を合わせる。彼の手のひらは風に当って冷えた頬に暖かく感じると思いながら私はそっと彼を見た。眉根こそ寄せられているが、彼はどこか傷付いたように、切ない表情をしていた。
「何を……怒っているんだ」
「もう辛いんです、私——」
私だけが貴方を、一所懸命に追い掛けている。私ばかりが貴方に必死だ。あの頃もそうだった。それを心の中で伝えたとき——彼の瞳が、僅かに見開かれた。
「俺が好きで辛いのか。それとも、あの男に縛られていて、それでも離れられないのが辛いのか」
「——!」
彼に、初めて送ってもらったときからだった。私の心は��藤真健司�≠ニいう男の存在によって、ある日はたゆたうように穏やかで、またある日は荒れ狂う海のように浮き沈みが激しかったのだ。
彼からのアクションが無ければ自ら声を掛けるのも億劫で彼からの言動に一喜一憂している自分が情けなかった。正直に言えば、秘書の肩書きで彼の隣に当然のように立つみょうじさんにも嫉妬をしている。かといって私が彼女の仕事をこなせる訳でもない。
日々膨らんで大きくなっていくこの感情は恋と呼ぶには本当に醜いものだった。ぽろぽろと零れて止まらない涙の粒が彼の手のひらに流れ落ちていく。
「どうして、お前だけだと思ってる」
「……?」
「俺がいつ——他に女が居るだとか、そんな事を言ったんだ」
いつに無く強い口調の彼に私は少し狼狽えた。怒っているのかと思われたが、彼の瞳は真剣そのもので私は目が離せず、じっと見つめてしまう。
「今このタイミングで俺もお前が好きだと言っても信じて貰えるのか?」
「……え?」
「だけど——今更だ。俺は過去に、お前を捨てた身だ。人間そんなに簡単に変われる物じゃない」
「……」
「仮に一緒になったとしよう。きっと俺達はまた同じ過ちを繰り返す」
「……っ」
「下心でこんな事をしていたわけじゃない。心配していただけだ、
上司
(
・・
)
として——」
「——。」
なのに——どうしたら良いんだ、という表情を貼り付けた彼が私の目を見据えて力強く私の体を抱き寄せた。私の鼻先に彼の首筋があり、そこにすっと鼻に抜けるあの、くぐもった甘い匂い……
「——なら……もう、帰らないと……っ」
私が恐る恐る背中に腕を回すと先より強くぐっと抱き締められる。彼は私の耳に唇をつけて黙っていた。こうして再会してから、月日が長いとは言えないが、彼は当初から言葉が少ないのを私は解っていた。必要以上のことは話さないのを解っていながらも、それを不満に思っていた。しかしそれを指摘することも無く、過ごしてきたのだ。
「社長があの時——私を好きになった理由が分かりません。なんで私なんかと……結婚したいって言ったのか、逆立ちしても私には……っ」
出会った頃、私から彼にアプローチを仕掛けたことは無く、こうして別れてから再会したあとも互いに社内でその姿を見掛けていた程度で、なぜ今こんな事になっているのか頭が追いつかない。周りの人の彼への熱い視線を直に感じていたからこそ過去に彼が、あんなにも私に執着した理由が分からなかった。他にも良い人がいるはずなのになぜ、私である必要性があったのだろうか、と。
��君は、自分の魅力を分かっていないようだな�#゙は……そう言ってくれた。だったらその魅力、貴方がしっかりと私に、教えてください——。
「人を好きになるのに、理由が要るのか?」
やけに低い声音が、耳の奥にまで響いた。彼はリアリストだと普段の仕事ぶりや対人関係を見ていて思っていたがこういう時はロマンチストにもなるのだと今になって思い出して私の顔が彼の肩口で綻んだ。まるでサイコパスだ。こんな状況下でニヤニヤしているなんて絶対にバレたくない。
「あの時の俺の気持ちが伝わっていなかったのであれば謝るよ」
「……、」
「それで不安になっていたのならそれは俺のせいだ。辛い思いをさせたな」
「……っ」
私はそんな事ないです、と言うように彼の肩に顔をつけたままで首を横に振ってみせた。そんなこと、あるわけがない。だってあんなにも大切に愛してくれたじゃないですか——。さっきの私の彼に対する問いは、明らかに彼への甘えなのだ。
「けどお前は今、寂しさに流されているだけだ。見誤るな、俺なんかを好きだと——」
「……、」
「だが——これだけは言っておく。理由は無い。ただ……あの頃は本当に、お前が好きだった。」
「……っ」
だけど今は好きではない、そう言っているのと変わりがなかった。それでも彼の今の立場で出来る私に対する精一杯の優しさなのだということはわかる。何せ落ち込んでいるのだろうとわざわざこんな一社員を遠出してまで夜景と海が一望出来る場所に連れ出してくれるような人である。
後付けになってしまったが彼は彼なりに自分の立場を鑑みて私を想ってくれているのだと改めて確信が持てた。そして、やはり彼と私の未来が、それ以上でないことも——。
「社長が、モテる理由がわかりました……」
互いに胸の内を曝け出して何となく吹っ切れた私は愉快になりそんな台詞を吐き出す。その頃合いで私から離れた彼が、ふっと鼻で笑った。
「確認までにしますが本当に他に女の人と関係をお持ちでは、ないんですか?」
「それを聞いてどうするんだ」
「社内で社長を推している女連中に知らせます」
「……君と付き合う前までは居た、とだけ言っておく」
「えっ、じゃ……じゃあ、あの頃から女性遊びはまったくしてないって、ことですか!?」
「言葉で予想できるだろう、いちいち声に出して言うな」
確かにあの頃の彼のスケジュールでは他の女とどうこうなどは、無理だろうとは思う。だからといって私と別れた後の彼の行動を知る由も無く、仕事に追われる毎日の中でも他人に対する自身の気持ちの処理もままならない状況であったのかと思えば、なんだか不憫にも思えてきた。
「——さて、元気になったようだし帰るぞ。俺も幾らか気分転換になったしな」
「え、待ってください!あの頃から全く女の人と寝てないって事ですかぁ!?」
そういうことは言葉にしてくれないと分かりません!と私が声にして続ける前に彼が私の背中をぽん、と優しく押して車に戻るように促す。
それに前のめりになりながらもそれでも懲りずにしつこく質問攻めをする私に彼はやはり鬱陶しそうに顔を顰めるのだ。
すぐ真下で寄せる波は穏やかで心地の良い音がした。まるで、数日後に起こるあの出来事を全く予期していない、今の私の心のように——。
あい
のかたちを、知っている?
(君は我が社のためによく働いてくれている)
(……)
(その意欲が恋愛感情が故でなければいいと思う)
(もしそうだったら……どうするんですか?)
(——異動を命じる。君の代わりは何人でもいる)
(……)
(……そう、なのか?)
(……、)
(お前——三井は……?)
(——はい。異動を命じてください。)
※『 Only/IsamU 』を題材に
※ Lyric by『 晩餐歌/tuki.×優里 』
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