喉元で止まる光
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痛みを訴える腹部に掌をあてながら、私は薄く息を吐いた。熱を持った内側が波のようにひいては寄せてを繰り返し、そのたびに骨盤の奥を鈍く叩く感覚があり、身体の芯が誰かに握られているみたいに重い。
視線を上げた先——最初に目に飛び込んできたのは、静かな表情の奥に濃い色を湛えた彼、藤真さんの瞳だった。
「他に欲しいものは?」
低く落ち着いていて整った声が、室内の空気を震わせる。無表情に見えて、その実、隠しきれない動揺のようなものが滲んでいる。
「いえ………大丈夫、です」
そう答えながら、自分の声が思った以上に頼りないことに気づく。重くて、重くて仕方がない。腹部を押さえる私の仕草を見逃すまいとする視線が頬の色、唇の乾き、呼吸の浅さまでを確かめるように追ってくる。彼はいつだって観察者のように冷静で、そのくせ私のことになると理性の輪郭が曖昧になるのだ。
「そうは見えない」
穏やかな言い方なのにそこに含まれる切実さが胸に刺さる。心配されることに慣れていないわけではないけれど、ここまで真剣に、まるで、私の痛みがそのまま自分の損失であるかのように受け止められると、かえって居心地が悪くなる。
「こういうことには疎いんだ」
「えっと……藤真さんがそうだと言うなら、世の男性はみんな落第です」
冗談の形を選べる程度には私はまだ余裕があるのだろう。軽口を差し出した自分の声が、思いのほか穏やかだったことに、どこか他人事のような安堵を覚える。けれど彼の眉間には細い影が落ちたままだ。ほんのわずかな皺。けれどそれは彼が本気で私を案じている証であり、例えば仕事中やバスケの試合の最中に見せていたであろう、研ぎ澄まされた集中とはまるで質の違う私にだけ向けられた緊張のかたちだった。
私が笑みを添えても彼の口元は動かない。冗談として受け取る余裕がないのではなく冗談にしてしまうこと自体を拒むような、まっすぐで静かな眼差しが、私の体調を、呼吸を、存在そのものを確かめるようにそこにあった。
「俺が変わってやりたいくらいだ」
その一言に、胸の奥が静かに揺れた。変われるはずもないと分かっているのに本気でそう思っているのが伝わるから、私は困ってしまう。
音を立てずベッドに腰を下ろした彼はゆっくりと身を屈め、触れるか触れないかの距離で、唇に口づけを落とした。そこからじわりと移る体温。顔を上げた横顔はどんな試合の終盤よりも真剣で勝敗でも作戦でもなくただ私の顔色の変化だけを追っている。まるで、些細な兆しも見逃すまいとするように。
「顔色が悪いな」
頭のすぐそばに置かれた腕は思いがけないほど逞しく、骨格の強さがはっきりとわかる。けれどその持ち主は私よりも弱った顔をしているように見えた。私が痛んでいるのに、どうして彼の方が今にも崩れそうなのだろうと、不思議な気持ちになる。
「高校を卒業した頃から、ずっとこんな感じなんです。今日を越えれば、何事もなかったみたいに戻りますから」
軽く笑ってみせると、腹部にまた小さな痛みが走った。誤魔化すように寝返りを打とうと身体を反転させたその瞬間、視界がふっと暗くなった。
「ん、……っ、」
「名前……」
スーツの布地が擦れる音とともに、彼の体温が覆いかぶさる。重いわけではないのに、逃げ場がなくなるような感覚。彼の手は、確かめるように私の肩、背、腰へと滑り、血の通いを辿るように触れていく。その指先は優しいのに、どこか焦燥を帯びている。「可愛い」と囁きが耳元で溶けるたび、呼吸の仕方が分からなくなる。だから私はただ目を閉じるしかない。
「お前は儚くて透明だから、」
「……え?」
彼の声が、少しだけ震えた気がした。続けて、「何かの拍子に消えてしまいそうで、怖い」と、静かな告白。握られた手が痛いほど強い。まるでここにいる証を確かめるように。私は眉を下げ、なんとか微笑みなるものを作った。
「藤真さん」
「……ん?」
「大丈夫です。本当に」
「……」
「ほんとうに、大丈夫なんですよ?」
こんなことで死んだりしませんから、と続けた言葉は部屋のどこかでほどけて消えた。彼はまだ納得していない顔をしている。首筋をなぞる指が思いのほか熱い。
「……んっ、ふ、藤真さん、時間は……?」
問いかけると、彼はようやく我に返ったように腕時計へ視線を落とし、眉をわずかに寄せ、息をつく。その仕草が、私から離れたくない子どものようで、胸が締めつけられた。
体を起こし白いシャツの襟を整える姿はすぐに外の世界へ戻っていく人のものだ。さっきまで、私の上にあったはずの温度が少しずつ空気の中に溶けていく。
「……何かあったら、すぐに連絡してくれ」
ベッドサイドにあるデジタル時計を横目にみつつ、待ちわびた一人の時間にほんの少し心が軽くなる。それでも、その言葉の裏側にある不安を、私は知っている。自分ではどうにもできないものに対する無力感。彼は、それを嫌う人だ。
「行ってくる」
繊細な手つきで前髪を掬い上げられ額に口づけが落ちる。唇が離れたあとも、そこだけがひどく熱かった。遠ざかっていく背中を見つめながら、私は小さく息を吐いた。彼が出ていくたび部屋は静まり返るのに、同時にどこか軽くもなる。心配される重みから解放される安堵と置いていかれる寂しさが、同じ場所で絡まり合う。
バタン、と扉が閉まる音が響く。その残響が、腹の奥の鈍い痛みと重なった。重い。身体も彼の想いも、なのもかも——。
「ほんと……」
言いかけて誰に向けた言葉かも分からないまま私は目を閉じた。けれどその重さに包まれている自分を、どこかで愛おしいと感じていることを、私はまだ彼に言わないでいるのだ。
*
扉の閉まる音が静寂の底へ沈んでからどれくらい経っただろう。部屋は驚くほど整然としていて彼の残り香だけが空気の縁に淡く留まっている。私は横向きのまま腹部に手を当て規則正しくない波をやり過ごしていた。
痛みは相変わらず鈍く、ついでに先ほどよりも孤独の重みを伴っている気がする。
枕元の携帯電話が震えたのはまさにそんなときだった。画面に浮かぶ名前を見て、思わず小さく息を呑む。
「……もしもし」
『名前……起きてたか』
受話口から流れ込む声はいつも通り澄んでいるのにその奥にわずかなざらつきが混じっている。周囲の雑踏の気配、車の走行音。遠くで、誰かが笑う声。外の世界に立っている彼の音だ。
『今、大丈夫か』
「……はい。さっきより、落ち着いてきました」
嘘ではない。けれど本当でもない。私の返答を待つ沈黙が、ほんのわずかに長い。
『声が弱い』
簡潔な指摘。まるでコート上で味方のわずかな呼吸の乱れを察知するみたいに、彼は私の微細な変化を拾い上げる。
「横になってるからだと思います……ちゃんと、休んでますよ」
少し笑いを含ませて言うと電話の向こうで息がこぼれる気配がした。
『昼は何か食べたか』
「えっと……ゼリーを少し」
『少し、ってどれくらい』
問い詰める声ではない。ただ具体を求める声。私は天井を見つめたまま、曖昧に言葉を探す。
「半分くらい、です」
しばしの沈黙。今、彼がきっと眉を寄せていることが容易に想像できてしまい思わず苦笑した。
『無理にでも、もう少し入れたほうがいい。帰りに何か買っていくよ』
「そんな……忙しいでしょう?」
『関係ない』
短い否定。その言葉に私への執着が滲む。通話越しに聞こえるウインカーの音。彼は移動中なのだろう。それでも、電話をかけてきた。たぶん、何かの合間に、ふと私の顔色を思い出して——。
『本当に、無理していないか』
低く落とされた声が、耳の奥を震わせる。私は返事をする前に、自分の鼓動がわずかに早まっていることに気づく。
「無理はしてませんよ」
言い切ると、腹部にまた小さな痛みが走った。その反応を悟られたくなくて静かに息を整える。
『……今、顔を見られないのがもどかしいな』
ぽつりと漏れた本音に、胸が温かくなる。彼はきっと、画面越しではなく、実際に私の額に手を当て、体温を測るみたいに確かめたいのだろう。
「そんなに心配しなくても、私は消えませんよ」
少しだけ冗談めいた調子で言う。するとすぐに『それが怖いと言っているんだ』と返ってきた。ああ、と思う。彼はまだ、朝の続きを抱えたままなのだ。
『俺がいない間に何かあったらと思うと落ち着かない』
率直すぎる言葉に、私は目を閉じた。守られているという実感と、縛られているような感覚が、同時に胸を満たす。
「何も起きませんよ。ちゃんと、ここにいます」
私は自分の胸元に手を置きながら言う。それは彼への保証であると同時に自分自身への確認でもあった。すると、電話の向こうで小さく息を吐く音がした。
『……あと二時間ほどで戻れる。連絡は遠慮せずしてもらって構わない』
「……」
『返事』
「……はい、何かあったら、ちゃんとします」
ようやく、かすかな笑い声が聞こえた。
『いい子だ』
その一言が思いのほか深く心に染みた。受話口の向こうで、彼は少しだけ間を置く。エンジンの低い振動音と、遠くを走り抜ける車の気配。車内特有のこもった空気越しに、かすかに、息を吸い込む音が届く。
『……名前』
その呼び方がいつもより近い。密閉された空間から発せられる声は、逃げ場を持たず、まっすぐ鼓膜に触れて、そのまま胸の奥へ落ちてくる。
体が弱っているせいかもしれない。あるいは、ただ私が、彼の声に、慣れていないせいかもしれない。名前を呼ばれただけなのに胸の内側の柔らかい場所が静かに波打つ。それは大きな動揺ではなくひどく小さな揺れで。けれど確実に今ここにいる私を、内側から確かめるような震えだった。
『俺は……』
そこで、言葉が止まった。続くはずの音が来ない。代わりに、短く吐き出される息だけが、耳に触れた。
『……いや、なんでもない』
取り繕うように、声色がわずかに整えられる。けれど、その一瞬の沈黙に込められていたものの重さは、はっきりと伝わってしまう。きっと彼はもっと踏み込んだ言葉を口にしかけたのだ。けれど、それを飲み込んだ。私の体調を気遣う立場で感情まで背負わせまいとしたのかもしれない。
「……なん、ですか」
思わず問い返した声は自分でも驚くほど静かでどこか、縋るようにやわらいでいた。
本当は『なんですか』では足りない。その先に続くはずの言葉を私はもう半歩踏み込んで待っている。胸の奥で、名もない期待がかすかに灯り、彼が今まさに口にしかけている何かを逃さず受け取ろうと身構えている自分がいる。
電話越しの沈黙が、やけに長く感じられ、エンジンの低い振動音だけが現実に彼が車の中にいることを知らせるのに、私の意識はそこにはなく、ただ彼の次の一音だけを待っている。
『大したことじゃない。ただ——』
「……」
『……無理はするな。それだけだ』
また、わずかな間を挟んでそう結び直す声は、いつも通り落ち着いている。理性的で整っていて余計な熱を含まない。けれどその奥に沈められた言葉の輪郭を私は勝手に想像してしまう。きっと別の続きを飲み込んだのだと。私に、重さを預けまいとして。胸の内側に、言われなかったはずの響きが残る。喉まで上がってきた返事を私もまたそっと飲み込む。今ここで形にしてしまえば何かが変わってしまいそうで——それが怖いわけではないのに、まだ触れずにいたいと思ってしまう。だから私は、ただ小さく息を整えた。言葉の代わりに、鼓動だけが静かに応えている。
「……はい」
短い返答。それだけなのに胸の奥にあるものをできる限り、そこへ乗せたつもりだった。通話が終わったあとも彼が言いかけたまま伏せた想いが部屋の空気に淡く残っている気がした。耳元にはもう何もないのに、鼓膜の内側には、あの途中で止まった声がまだ触れている。
私は腹部を押さえて、ゆっくりと目を閉じた。痛みはまだある。消えない。けれど、さっきまでとは質が違う。冷たい孤立ではなく、どこか内側から灯る温度を伴った重さ。言葉にされなかったからこそ、くっきりと浮かび上がるものがある。言い切らなかった彼の躊躇も飲み込んだ私の続きも、どちらも同じ場所で静かに息をしている。
重いのは、体だけでいい。あの人が戻ってくるまでこの熱を抱えていられれば、それで十分だと思いながら私はただ静かにその時間を待つだけ。
言葉より
重い
もの
(それ以上は、まだ聞かなくていい。)
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