まさか——。あの一本の通話が、こんなふうに続いてゆくとは、思ってもいなかった。
夜勤のシフトは肌にうっすら夜気を貼りつけるような静けさを連れてくる。まるで街そのものが息を殺して音を立てないようにしているかのようで……だからこそ、その夜、受話器の向こうから聞こえてきたその声は、ずいぶん生き生きとしていて、不釣り合いなくらいに軽やかだった。
「──はい。こちら、ヒーロー緊急支援センターです。事故ですか?事件ですか?」
いつも通りの、ごく日常の応対文句を口にしただけの私にすぐさま返ってきたのはどこか甘えたような、けれど、やや掠れるような声だった。
『……あ、オペレーターさん?あのさ、ちょっと笑わないでほしいんだけど……』
「……? はい、どうされましたか?」
『今、木の上に引っかかってまして……俺の羽根が。しかも、下、めっちゃ子どもたちが見てる』
「は、はあ……それで?」
『いや、さすがに��ヒーローが降りられない�≠ヘダサすぎない、かなぁ〜?と……』
私は思わず息を呑んだ。それは、どこか軽く、けれど、どこかに翳りのようなものを孕んでいて感情の底が、深く冷たい湖面のようにぴんと張り詰めていた。瞬時にその彼が誰であるかを悟ったのはやはり、ヒーローのなかでも彼の声は特別、独特すぎたからだろう。
「もしかして……ホークス、ですか?」
『わ、バレた?マジで? 声だけでわかるって、もうそれ、俺のひなどりチャンでしょ〜絶対』
笑っているようでいてどこか、少し照れているふうな声だった。通話越しでもわかるその明るさと、何かを誤魔化すような気配。その瞬間、私はなぜか自分の背筋がすうっと冷えるのを感じた。ヒーローである事、それがただの人間である事をふと、忘れてはいけないと思わされたからだ。
「……ご対応、こちらで致しますよ。位置情報、受け取りました。救助班へは別途要請を──」
『いや、待って!それがさ。俺が手配しちゃうとあの、ほら。ニュースになっちゃうでしょう?』
「……ええ。でしょうね。」
『��空から降りられない剛翼のホークス──現場からSOS�≠ニかさぁ……もう、想像つく。笑えない。だからこっそり、助けてほしいなぁ〜って』
こっそり……ヒーローなのにそんなことを頼んでくる彼の声音にはある種の、無防備さがあった。気づけば私はそれに抗えないまま端末の操作をしながら彼との通話を続けていた。やがて雑談とも世間話ともつかない言葉がいくつも交わされるようになっていたことに私はふと気づいたのだった。
『……で。名前、聞いても?』
そう言ったのは救助班が現場に到着し、彼が、『助かった〜!』と、本気で安堵の声を漏らしたほんの数秒後のことだった。
「え……? わたしの、名前でしょうか?」
『はい。え、ほかに誰がいるんです?』
「こちらにかけていただければ……私でなくても誰かが、いつでも対応しますよ」
『いや、そういう意味じゃなくてさ?オペレーターさんって名乗らないのが��プロ�≠チて聞いたけど』
「ええ、名前を出さずに任務にあたるのが基本です。私たちはあくまでヒーローの支援要員。個人よりも、組織として動いていますから」
『うんうん、わかってるんだけどさぁ。でも俺、もうちょっと話したいなぁ〜って思っちゃって。今日の夜とかまた電話しちゃダメです?』
「それは……��通報�≠ニして、ですか?」
『うーん……まあ!なんか理由つければ、いくらでもできるけど。今日は、ただ声が心地よかったっていう、それだけでも?』
ほんの少しの間。私の沈黙に、彼が照れ隠しのように、少しだけ声のトーンを落とした。
『……なんて。やっぱ変ですよねぇー。ごめんなさい、気にしないで』
「いえ──そう言っていただけるのは光栄です」
『え、じゃあ、また電話しても?』
「え……ええ。ただし��緊急通報�∴ネ外は番号を使わないでくださいね」
『それって、つまり……使い方によっては、また俺と話してもいいって思ってるってことで?』
一瞬、胸の奥に波紋のような揺れが広がるのを感じた。けれど私はそれを深く吸い込み、すぐに沈める。これは業務の延長、あくまで、ヒーロー支援の一環。そう自分に言い聞かせながら努めて淡々と声を整えた。
「今夜きっと、声の主がまた必要になる方がいるかもしれません。私もまだ、ここにいますから」
『……了解。じゃあ俺、また誰かを助けながら、あなたに電話する口実、探してみます』
からかうようでいて、真っ直ぐすぎるその声に私は一瞬、戸惑った。その戸惑いはたぶんほんの一拍の沈黙に滲み出てしまったのだろう。
『……あれ、今ちょっと困った顔しました?もしかして俺のこと、ちょっと嫌いだったりする?』
「そうじゃありません。ただあなたみたいなヒーローとこうやって話すのは、ちょっと、現実味がないというか……」
『そっか。じゃあ、夢ってことにしときます?』
彼の声がふっとやさしく笑った。まるで本当にこのやりとりが夢のように脆く儚いものなのだと知っているかのような声音で。
通話が終わったあと私はヘッドセットを外し、ほっとひとつ息をついた。けれど、それが最初で最後ではなかった。彼はまた電話をかけてきたのだ、あの夜から何度も。時には救助のふりをして時には、ほんの挨拶だけを口実に。
いつも空の向こうにいる人と、それを見上げるだけの私。名前も知られないまま、誰よりも彼の心の声を受け取ってしまったようなそんな錯覚を私はこの先、夜勤の静けさの中で、何度も味わうことになるのだった。
*
夜のしじまは今日もまた、静かに、牙を剥いていた。
『──本部、こちら緊急支援センター。当直オペレーター、受信中。』
その言葉を幾度、呟いてきたことだろう。緊急回線は決して眠らない。救われる命がある一方で間に合わなかった声も、こちらには残響のようにこだまする。そんな中で、その通報はあまりにも唐突だった。通話口から聞こえてきたのは小さく震える女の子の声。
『誰か……助けて。ママがうしろにいるけど……怖くて、動けないの……』
瞬間、わたしの心拍が跳ねた。無意識に眉間にやや皺が寄る。途端に、緊張感が走る。
「大丈夫。今、あなたの声がここまで、ちゃんと届いてる。あなたの声が救える命を繋いでるの」
私の声は穏やかに、けれど一切の迷いなく彼女の恐怖を受け止めていた。場所は駅裏にある小型コンビニ。深夜帯、店内には少女と、その母親、そして、銃を持った、強盗犯に扮したヴィランが一人。すでに店員ひとりが倒れているとの情報。通報は、少女が忍ばせたスマートウォッチによる通話で、私は静かに極めて冷静に彼女から店内の構造や犯人の動線を引き出してゆく。そして私はとあるヒーロー名を、端末に打ち込んだ。
──ホークス。この案件にすぐさま対処できる唯一のヒーロー。音もなく高速で現場に飛び誰も傷つけずに制圧できる��剛翼�≠�持つヒーロー。そして、通話を送信してから、数秒後。
『──……お疲れさまでぇーす』
「こちら、緊急支援センターです。お疲れ様です、ホークス」
『あ、その声、あのオペレーターさんじゃないスか〜。え? 俺もしかして個人的に呼ばれた系?』
やや緊張気味だった胸が、不覚にもふっと緩むのを感じてしまった。私はどうやら彼の��声�≠�身体で覚えてしまっていたらしい。
「──現場、把握してください。少女は、母親をかばうようにレジカウンター奥に伏せています」
声を抑えるように、しかし一切の迷いなく私は受話器越しに、目の前の空間を描くように状況を読み上げた。彼の息が、ほんの一瞬だけ止まる。その無言の読み取りの速さに、こちらも無意識に息を詰めた。
「強盗犯に扮したヴィランは、拳銃を所持。尚も興奮状態。少女との通話は現在も継続中です」
『了解……。降下ポイント、指定してもらってもいいですか?』
「店舗南東の屋根裏換気口からの進入が最適です。剛翼なら、無音での滑り込みが可能。屋内照明は蛍光灯式、破損で自動消灯しています」
彼の頭のなかに、現場の立体図が出来上がっていくのが通話の向こうでも伝わってきた。私は、一拍だけ息を整える。
『へえ、俺の個性にけっこう詳しいんですねー』
わずかに場を、和ませようとするような声音。けれども、その下に隠されたヒーローの顔までは隠せていなかった。
「はい。前回の出動時の映像で確認済みです。進入後は照明をカットしてください。パニック誘導で侵入をカモフラージュできます」
それは、すでに私の中で何度も繰り返した予行演習のようなものだった。もちろん失敗の余地をひとつでも減らすための。
『──すごいね、オペレーターさん……こういう連携、慣れてるんです?』
声が少しだけやわらぐ。けれど軽さの奥に彼がなにかを見ようとしている気配がした。
「��慣れる�≠ネんていうことはありません、一生。誰も死なせないために慣れざるを得なかっただけです」
気づけば私は、小さく笑っていた。それを彼がどう受け取ったかはわからない。けれどその後の彼の返答はやさしく、静かな熱を孕んでいた。
『じゃあ──その声のとおりに動いてみますよ。俺、あなたを信じます』
それは、ヒーローからオペレーターへの、ある意味で、最も重い言葉だった。命を預けるということは、命を委ねるということ。声ひとつで導かれた先に確かに��正義�≠ェあると、信じること。
「照明カット3、2、1──ホークス、今です」
彼が滑り込む音は通話には乗らなかった。けれど少女の息がぴたりと止まり、すぐに『羽根が!羽根が飛んできたっ……!』と囁いた瞬間、私はその場で無言の祈りを口にした。騒然とする店内の様子が、少女の言葉で断片的に伝わってくる。
『……赤い羽根が、怖い人の手から銃を……!』
「大丈夫、ママのほうに行っていいよ……。その赤い羽根が──守ってくれてるから……!」
私は、通話の向こうでかすかに聞こえる犯人の怒声と、誰かが倒れる音、そして、最後に少女が上げた小さな歓声に、思わずヘッドセット越しに静かに息をついた。──成功だ、よかった。
まもなく警察が現場に到着し、ホークスは店の裏口から静かに姿を消す段取りだった。その後の彼らヒーローの動向を私たち緊急支援センターの者たちが知る事はない。事件や事故が収束すればそれがすべて。通信は切れ、物語の幕も下りる。けれどその夜。すべての処理が終わり、静けさが戻ったオフィスに、不意に一人のヒーローからの直通ラインが鳴り響いた。
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ありがとう
名無しのオペレーターさん
君こそ、ヒーローだ。
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「……」
静かだった。派手な冗談も、軽口もない。ただ静かに、それだけ。私はしばらくのあいだ、誰もいない通信室でそっと目を閉じた。呼吸の音すら響きそうなほど、世界は静まり返っている。だが彼の声の余韻だけが、まだ耳の奥に残っていた。
「……助かったのは、私のほう。あなたが信じてくれたから」
「ううん。あの子が助かったのは……あなたが、声で守ったからですよ」
言葉は交わっていない。互いの声は、お互いの元へは届いていない。けれどその瞬間、まるで、同じ場所にいたような、そんな錯覚に包まれた。交わした言葉より、交わさなかった想いのほうが今はずっと重たくて。でも不思議とそれは苦しくなかった。
この夜からきっと私たちは、何かが変わったのだ。ただの��ヒーロー�≠ニ��司令係�≠ナはなくなった。見えない羽根と聞こえない声で、たしかに命を繋いだ一つの記憶を共有したふたりとして。
──この人なら、きっと、また誰かを救う。
──この声は、また俺を、導いてくれる。
遠く離れた場所で、ふたりの胸のうちに灯ったその確信だけが、夜の静けさのなかで、しずかに重なっていた。
この人なら絶対にまた命を繋いでくれる。そう信じられる��本物のヒーロー�≠ノ、私は出会ってしまったのだった。