その日の夜の彼の声はいつものように、軽くはなかった。その、深く抑えられた吐息の奥に私は確かに違和感を感じていたのに……きっと、聞こえないふりをしたかったのだろう。

『こちらホークス、現場急行中──あのさぁー、オペレーターさん? 今日、風、強いですねー』

 それは、ただの雑談に聞こえなくもなかった。けれどヒーローである彼にとっての��風�≠ニいうものがどれだけ重大な意味を持つのか、私はもう知っているつもりだった。
 現場は、湾岸の古い遊園地跡地。取り壊し目前だった観覧車に不法侵入した若者たち。事故は、彼らのひとりが観覧車の頂点近くで足を滑らせたことにより発生した。吊り下げ式ゴンドラの金具が緩み、今にも転落しそうな状態。それを支えているのは横倒しになった柱と、わずかな風の──気まぐれ、だけだった。『強風注意報』という、その言葉がこんなにも重くのしかかってくる夜が来るとは。

『目視確認、到着。ひとり、ぶら下がってますね。あと二人、まだゴンドラの中。揺れてる……!』

 ホークスの通話越しの息がやや乱れる。いつもなら余裕と皮肉にまみれた彼の声が、焦燥の縁でわずかに震えているのを私は聞き逃さなかった。

『……距離が高すぎる。風に逆らう角度が……』

 羽根が──飛ばない。彼の武器である赤い剛翼は、強風に煽られて、自由な制御を失っていた。


 『──色々あって、いま俺、ザコ羽なんす。』


 あのときの軽やかな声が、ふと記憶の奥底から蘇る。けれど、それでも。彼は迷わず空へと身を投じたのだった。

『……行きます。俺が、行くしかない』

 声が消える。映像はない。こちらに届くのは、彼の呼吸と、風のうねりと、わずかな、金属音。まるで無音の祈りが続いているような、数秒──それが私には、永遠に感じられた。

『──っ、落ち着いて!動くなって、言ってるでしょうが……!』

 聞こえてきたのはホークスの絶叫だった。直後回線の向こうで何かが折れる音、風が爆ぜるような音、そして──鋼のきしみを突き破るように、誰かの悲鳴が、夜の闇の中に溶けていった。

『え、うそ──落ちた……!』

 それは少女の声だった。取り残されたもう一人の子が泣き叫ぶ声も、次いで聞こえてきた。私の指は通信盤の上で凍りついたまま動かなかった。

『嘘、だろ……間に、合わなかった……?』

 そう呟いたホークスのその声は、もはや、誰に向けられたものだったのかもわからない。

『ごめんなさい、俺、間に合わなかった──!』

 ただ、それが彼自身を刺し貫くためだけに発された刃であったことだけは、痛いほどに伝わってきた。
 その後、事故は滞りなく処理された。生存者はふたり。死者ひとり。原因は不法侵入による老朽施設の事故として片付けられた。それでも、ホークスは戻ってこなかった。彼はその日、報告書も上げず定例のテレビ会議にも姿を見せなかったと聞いた。

「……休務届、出てません。彼の事務所からも、特に連絡はありませんね」
「そう、ですか……」
「彼の個性の反応も、通信からは追えませんし」

 同僚のオペレーターが、淡々とそう告げてきたとき、私の胸の奥が静かに軋んだ。思わず端末の通話履歴を開いてしまう。彼が最後にかけてきた通話記録。私は指先で、その名前に触れた。
 ──発信中。ほんの一秒。通じたと思ったその瞬間、彼の声が息のように微かに届いた。

『はいはい、こちらホークス……なんですー?』
「あ、いや……その、出るとは思わなくて、」
『まさか��俺にまた誰かを助けてほしい�≠ネんてもう、言わないですよねー?オペレーターさん』

 どうしてそんなことを言うんだろう。心配してただ無事か確かめたかっただけなのに。肩の奥がひとつ強張るような微かな苛立ちが胸をよぎる。わざと茶化すようなその調子に少しだけカチンときた。

「……あなたがいなければ、残りの二人も確実に死んでいました」

 私は思わずそう応えていた。けれど自分の声はひどく震えていた。それが怒りなのか何なのかは自分でもよく、わからない。

『でも……ひとりは助けられなかった。それが、俺の全部──結果です』

 そして、通話は一方的に切れてしまった。私はその夜、仮眠室でも眠れずにいた。救えなかった命の重さはヒーローだけのものではない。私たち通信室にいる者にも、同じように喪失は残る。
 光に照らされた��ヒーロー�≠ニ声だけで繋がる私たち。交わらないはずの二つの世界の狭間で、彼の笑顔の奥に隠された傷を見抜いてしまった。それでも。たとえまた同じような夜が来たとしても私は、彼に声をかけ続けるのだろう。


「……ホークス。今夜、あなたは行けますか?」


 ──と。その問いかけがまた誰かの命を繋ぐと信じていたい。信じたいと思ってしまう。たとえそれがどれほど無謀でも、儚くても。私には彼の羽音だけが、まだ、信じられるものだったから。


 *


 朝の光は妙にやわらかくて、逆に痛いと感じるほどだった。冷めかけたマグカップのコーヒーを指先で転がしながら、夜勤明けの私は、休憩室のテレビに視線を移す。そこには、ニュース番組のコーナーが、見覚えのある現場を映していた。
 湾岸地区──観覧車事故から一夜。各局が取り上げた中でも、特にセンセーショナルに映されていたのは��ヒーロー・ホークス�≠フ活躍だった。

【風速12メートル、厳しい状況下での空中救助
──若きトップヒーローの奮闘】

 画面には落下寸前のゴンドラに飛び込んだ彼の後ろ姿が映る。羽根は風に煽られながらも必死に広がり命の綱として彼の腕が伸びていた。けれどその映像に落下の瞬間はなかった。一人の若者が命を落とした事実は、小さな字幕と静かなナレーションで済まされていた。

『それではウィングヒーロー・ホークスご本人にお話を伺ってみましょう』

 スタジオに切り替わる。そこにはジャケットを着た彼の姿。髪は少し乱れ目の下には疲れの影。けれど口元は、プロフェッショナルな笑みを貼りつけていた。

『昨夜の現場、ヒーローが少ない中で非常に困難だったと思いますが救助の判断、何か葛藤はありましたか?』

 マイクを向けられた彼はわずかに瞼を伏せる。その沈黙はほんの数秒だったけれど私にはなぜか永遠のように感じられた。

『いつも思うんですよねー。あと一秒早ければって。ヒーローってタイムマシン持ってないんで。だから今を信じて動くしかない……そう思ってやってますね』

 司会者が笑みを浮かべる。『それがプロの言葉ですよね。若いのに、本当に素晴らしい』という言葉に拍手が起こる。スタジオの空気は、賞賛に満ち、彼のコメントは、前向きな言葉として字幕付きで編集されていく。
 けれど私は知っている。その言葉の裏に沈んでいる沈黙の声を。彼が「救えなかった」と呟いていたあの声。いま目の前で微笑む彼のその目が、どれだけ深いところで何かを諦めているのかを。私は画面に映る彼の瞳を凝視しながら思わず手にしたマグカップを少しだけ、強く握りしめた。
 ──ホークス。あなたは昨夜のことを、まだ、自分のなかで、終わらせていないでしょう?

 インタビューの最後に彼はふいに視線をカメラから逸らした。その一瞬、ほんのわずかに、彼のくちびるが、何かを呟いたように見えた。


 『……本当は、まだ、苦しいんだ──。』


 私は呼吸をひとつ、深く飲み込んだ。テレビを消したリモコンの感触が、妙に冷たく感じられたのは、きっと、気のせいじゃない。
 彼に再度連絡をするべきなのか何度も迷った。でも私は彼の直通ラインを開いたまま何も、送らなかった。代わりにふと思い立って、ひとつだけ短いメッセージを入力した。


 ―――――――――――――――――――

名前

あの夜あなたが救った命は、今もまだしっかりと息をしています。
あなたが残した羽根は、今も空に在るままです。



 ―――――――――――――――――――


 送信は、しなかった。けれど、その言葉だけは私のなかに、確かに残ったのだった。そして私は明日も明後日もまた、席につく。何十本もの通信ラインと何百もの声に囲まれながらどこかで彼の羽音をまた聞けることを、密かに願いながら。


 *


 それから約一週間が経過した頃。テレビ画面の向こう、スタジオの照明を浴びながらも、どこか所在なさげに笑うあるヒーローの姿を私は黙って見つめていた。
 休憩室の画面に映っていたのはヒーロー・ホークス──あの観覧車事故で二人の若者を救出した��英雄�≠ニしてまた、情報番組に出演していた。

『本日はホークスをお迎えしております。数日前の観覧車事故、非常に困難な現場だったと聞いていますが?』

 きらめく金髪の前髪の隙間から覗く瞳は笑っていた。けれどやはり、私には、わかってしまう。あの奥に宿る、深く、漆黒の影が。
 彼はマイクを受け取り少しだけ間を置いてから口を開いた。

『……俺は仕事をしただけですよ。もちろん多くの人を助けられたのは嬉しい。でも残念ながら亡くなった方もいます。助けきれなかった命がある。だから俺の中ではまだ、終わってないですね』

 その一言に、スタジオがしんと静まる。ほんのわずかにマイクを持つ彼の指先が震えていた気がした。

『さてここで気分を変えまして──視聴者からも多くのメッセージが届いていますよ。ホークス、視聴者から一番多い質問、ご存知ですか?』
『……さあ、存じ上げませんねえ』
『ほとんどが「彼女はいるの?」でしたよ?』

 スタジオ内が、軽く笑いに包まれる。彼は一拍置いてから、やや目を細めて微笑んだ。

『……あはは。それってなんか嬉しいですけど、でも、どうなんだろうなぁ。たぶん興味を持ってもらえるのは、ヒーローの制服を着てる俺だからで……』

 そして、ふと。彼のまなざしが淡く滲むように宙を彷徨った。

『もし、俺がこれ(・・)を脱いだら、それでもいいって言ってもらえるかなって……あっ、いや! そういう意味じゃなくて!変な意味じゃないっす、マジで!』

 笑いが起きる。けれど私には、はっきりとわかってしまった。彼の冗談の中に混じる、それでも拭えない不安と戸惑いと、それから、なによりも��誰か�≠ヨの、問いかけのようなものが。

「……答えなかった。」

 ぽつりと零して視線をそらすと仲の良い同僚のひとりがコーヒーカップを片手に、私の横へ腰を下ろしていた。

「──え? やだ……いつから、いたの?」
「ずっと。なに〜?��答えなかった�≠チて?」
「……彼女がいるかどうかって質問。あのひと、答えてなかった。否定も、肯定も」
「え、ちょっとアンタ……」
「……ん?」
「ヒーローは、危険よ!?あんな体つきで、顔に可愛い痣もある。女なんて、よりどりみどりって感じでしょー? 危ない危ないっ!」

 彼女は軽く肩をすくめて笑う。でも、私は笑えなかった。胸の奥がひどく、静かに痛んでいた。

「電話……しようかなって思ってたの。様子を、聞こうかって」
「うーん……それよりさ?デートに誘ってみたらどう?」
「え、だめだよ」

 私の声は妙に真剣だったのかもしれない。彼女は驚いた顔でこちらを見ると、つぎに、からかうように言った。

「……彼が��犬�≠ネら、あなたは��女狐�≠ヒ」
「やめて、そういうんじゃないんだってば!」

 我ながら強い声になっていた。でも止められなかった。だって違う。違うのだ。そんな軽い感情じゃない……たぶん。

「わたしたち、いつも誰かの命を繋いでる。そうやって私、自分を遠ざけてきた。でも、彼だけは違ったの」
「違った、って?」
「うん。初めてだった『ありがとう、君こそヒーローだ』なんて……そんなこと、言われたのは」

 彼の声がまだ耳の奥に残っている。羽音と共に届いた、あのメッセージと、風のような軽やかなあの声が──。

「彼は今、助けを求めてる。わたしにはわかる。周りは拍手してるけど……あの人、喜んでなんかいない」

 テレビには未だ笑顔を浮かべているヒーロー、ホークスの姿。けれど、その笑顔はどこか羽根を失いかけた鳥のように、哀しみを隠していた。

「……英雄扱いされても、彼はまだ、喪失の中にいるままなんだよ、きっと。」

 私の声は静かだったけれど、奥底からにじむ、熱を帯びていた。
 彼を呼びたい。声をかけたい……あの夜、彼が私に寄せてくれたように、今度は私の声で、彼を救いたい。この声が、あなたの暗く沈む夜を照らせたなら──。
 休憩室には、コーヒーと書類と疲労の香りが、いつものように、静かに滲んでいた。背後では、『今日のゲストは、ウイングヒーロー、ホークスでした〜』というアナウンサーの甲高い声と観客席の通称ひなどりたちの拍手が鳴り響いている。

「……ねぇ、早く電話しちゃいなよ」

 彼女がにやりと笑って小声で囁く。私はわざと聞こえないふりをしてコーヒーを片手に、書類に視線を落とした。けれど彼女は、容赦なく背中をつついてくる。

「報告書に直通番号、載ってたんでしょー?」
「……」
「今きっと彼にはそういう言葉が必要だと思う」
「……どうして、そう言い切れるの?」
「声で人の生死がわかる私たちが、黙ってるってことは──もうぜんぶ、分かっちゃってるからでしょう?」

 その一言に、私は息を呑んだ。否定などできるはずがなかった。
 オペレーターである私たちは日々��声�≠セけを頼りに人の命の瀬戸際を判断している。声の調子息づかい、言葉の間、そのどれかひとつが崩れただけで相手が今どんな状況に置かれているのか、助かる見込みがあるのか、それとももう、手遅れなのかが、痛いほど分かってしまう。そんな声に最も敏感な職業の私たちが沈黙してしまうということ──それはつまり��もう助からないと知ってしまったから�♂スも言えないということなのだ。彼女はその沈黙の意味をまっすぐに言葉にした。だから私はそれ以上なにも言えずに、そっと席を立った。誰の目にも触れぬように静かに休憩室の扉を押し開けたとき、背後から聞こえた「ひとつ貸しね」という彼女の声が、私の背中をやさしく撫でた。
 手にした携帯を胸に抱きしめるように持ち私は深く一度だけ呼吸を整える。そして、彼の番号を押した。コール音が長い。静まり返った小部屋のなかで、それはやけに鋭く耳に届いた。掌がじんわりと汗ばみ通話が繋がったのは三度目のコール音が途切れた、その直後だった。

『──はい、ホークスです。』

 その声に胸が少し震えた。画面越しじゃない、通信越しでもない……たったふたりの世界だけに鳴り響くヒーローホークスの声。私はごく小さな声で、口を開いた。

「あ……もしもし。わたし、あの──」
『……』
「いえ、オペレーターの……。このあいだ、例の事件で……観覧車の引き継ぎで、あなたと……」
『ああ!あの凄腕のオペレーターさん?まさか、直接電話くれるなんて』

 彼が少しだけ笑った。その笑みがどんなふうに歪んでいるのか、今の彼の顔を見なくても私にはなんとなく、わかってしまった。

『あ、そうだ。この前せっかく頂いたお気遣いの通信、勝手に切っちゃってすみませんでした』

 それは、いつもの軽やかな声だったが、どこか申し訳なさそうな響きがしっかり混ざっていた。

「え? あ、い、いえ……こちらこそ、お節介なことしてしまって……」
『あれ? そういや、どうやってこの番号を?』

 ふいに問われて思わず息が詰まった。けれど、今さらだ。正直に答えるしかないだろう。
 
「あの、報告書で……あなたの、番号を見て」
『あー、なるほど。じゃあこれが、あなたのプライベートの番号?』
「そ、そう……プライベートの、ほう。」

 電話の向こうで『ふーん』とあいずちを打った彼がほんの少し、笑った気がした。

『そーですかぁ。じゃあ遠慮なく、登録しておきますねー』

 相変わらずな調子に、ふっと、胸の奥がほどけそうになる。けれどそれ以上にどうしても今すぐ彼に、伝えておきたいことがあった。

「それより……ずっと、気になってて……。最近テレビでよく、見かけるけど……」

 言葉を選びながらそれでも止まらずに続けた。

「でも、あの……見てて思って。本当は、苦しいんじゃないか、って」

 電話の向こうで、ほんの一瞬、空気が変わった気がした。彼の息が、ほんの僅かに止まったのがわかった。

『……どうして、それを?』
「職業柄、ね。声で状況を読む訓練、何年もしてきたから。音のない言葉にどうしても耳がいってしまうっていうか……」

 しばらく静かだった。でもその沈黙は今まででいちばん彼を、近くに感じた瞬間でもあった。

『……ありがとう。そうなんですよねー。どこに行ってもみんな俺のこと褒めてくれて。ヒーローだって』
「……」
『でも──本当は、叫びたくなる』

 彼の語気はかすかに震えていた。言葉になりきらない感情を喉の奥から無理やり押し出すようにして。それでも、どうしても伝えたかったのだと痛いほどにわかった。

『人が、死んだんですよ。俺の……俺の目の前で。手を伸ばせば、届くかもしれなかったのに……』

 何も言えずに私はただ、スマホを握りしめた。彼の声が、ひどく遠くて、それでも胸に鋭く突き刺さる。

『あのときザコ羽根しかなくて、届かなかった。それが俺の全力だったなんて……笑えるでしょ』

 強がっているのが、すぐにわかる。笑えるはずなんて、なかった。本当は、笑えるはずなんて、最初から、このヒーローには、なかったのだ。

「……わかる。」

 それでも私は、胸の奥で、波紋のように広がり続けている想いを抱えたまま、静かにその続きを言葉へと変えていった。

「通話中に目の前で命が消えたことがある。突然声が途絶えて──」

 そこまで言いかけて、私はふと、息を呑んだ。

「そこには音も気配もなくなって。ただ、静かになる。何も言えなくなる。その人の息づかいが、話し声が、もう二度と戻らないって知った瞬間」

 言葉の余白が、静けさと痛みを伝えていた。

「……あんな静寂は、他に、ない。」

 その沈黙を、忘れたくても忘れられなかった。目を閉じれば今でも耳の奥で、あの何もない音が再生される。人が消えるというのは、こんなにも音がないのだと、この仕事を通して知ったのだ。
 彼は何も言わなかった。けれど、通話の向こうから聞こえてきたのは、たった一度の、深い息。

『……あの、落ちた子の手、掴めたかもしれない。もっと風に逆らえれば、あと一秒、早く飛べたら』
「……」
『……俺のせいだって、何度も思う。』

 彼の声は小さかったけれど、静けさの中でよく響いた。その悔いと自責がすぐそばで触れられるような温度で私の耳にはしっかりと届いていた。

「……それでも、あなたは、誰かを救った。生きている子たちは、あなたの羽根で守られた。あの夜、私もあなたに、救われたんです」

 自分でも驚くほど自然に言葉がこぼれていた。嘘でも慰めでもない。現場にいなかった私の方がずっと、はっきりと、見えていたこと。
 再び、沈黙が訪れる。けれどその間にはもう、先ほどまでのような痛みはなかった。ただ呼吸と互いに届いているとわかる��声�≠セけが、確かにそこにはあった。繋がっている──。そう思えるほどに、やさしい、沈黙だった。

『……電話、ありがとう。』

 間を置いて彼がそう呟いた。その声に、ほんのわずかな照れと、安堵の色が混ざっていた。

『今度は、俺からかけてもいいです?』
「ええ……かけて。今度は、この番号に」

 ほんの少し笑い声が聞こえた気がした。それは夜明けのようにかすかで──けれど、ずっと聴いていたくなるような音だった。

「あっ──もしくは、��緊急支援センター�≠ノ。」
『……それ、笑えないです。ほんとにかけそうだし俺。』
「ふふ……。じゃあ、また。」
『はい……。また。』

 通話が切れた。耳の奥に残っていたのは、彼の声の名残。まるで余熱のような、かすかな温もりだった。私は携帯をそっと胸に抱き寄せる。息を吸い込み小さく吐くと静まり返った小部屋の壁に背を預け、そのまま床に、しゃがみ込んだ。膝をかかえるようにして、ふわりと笑みがこぼれる。
 ──やっと、彼と話せた。名前も教えぬまま、声だけを頼りに誰かの命を繋いできたあの人と。ほんのわずかでも��それだけじゃない何か�≠ェ、ふたりのあいだに、確かに生まれた気がした。

 休憩室に戻ると先ほど私の背中を押してくれた彼女が、待ってましたとばかりに目を細めてニヤついていた。

「わ……なによ、その顔。あっ、電話したの?」

 私は黙って頷いた。彼女の期待に満ちた目が、じわりと、さらに細まる。

「ふ〜ん……で? どうだったの」

 少しだけ迷って、それから、そっと小さな声で返した。

「……悪くは、なかったよ」

 その一言が、胸の奥でゆっくりと波紋のように広がっていったのだった。


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