次の勤務日──私はあえて、ホークスからよく通信が飛んでくる担当ブースから、離れた位置に座った。もちろん、業務上の理由をつけることはできた。緊急支援センターの中では、誰かが必ずどこかのヒーローを支え回線と情報の波に飲まれながらも冷静さを保つ。それが私たちの仕事だ。だからただ一度くらい私が彼──ホークスの名を避けたところで、誰も、不審には思わなかった。けれど自分ではわかっていた。私の胸の奥にあるのは、傷でも怒りでもなく、静かな距離だということを。
あの夜のことを、何も整理できていなかった。彼の苦しげな眼差し、崩れかけた声。緩められた手……突きつけられた感情。どれもが心に残っている。けれど、それでも「会いたい」とは、まだ思えなかった。
『……こちら、ホークスが対応中です。サポートオペレーター、対応お願いできますかー?』
後方から声がかかる。私はほんの一瞬、言葉に詰まりかけた、が──。
「──第2ブース、対応お願いします」
私はそう、無意識に答えていた。まるで自分の声ではないような、静けさで。ほんのわずかに、周囲の空気が動いた気がしたが、誰も私を咎めることはなかった。業務は常に、次へ次へと進んでいく。それが救助の現場で起こる唯一の救いなのかもしれない。数分後モニターにホークスの姿が映る。
『こちらホークス──現場に到着。軽度の挟まれ事故ですねー。搬送対象は1名、意識あり。念のため呼吸のチェック入りまーす』
その声は変わらず軽やかで、けれどもどこか、機械的だった。
いつも私がいるはずのオペレーターブースには別の新人が座っていた。ぎこちなくも一生懸命に対応する声が聞こえる。その様子をホークスは、まったく動揺することなく淡々と受け止め、必要事項を的確に報告していた。
『酸素濃度95、かな。手足の痺れなし。搬送は俺が同行します。ルートはどこが空いてます?』
ああ、彼はちゃんと、やっている。私がいなくてもまるで、何事もなかったかのように。それが嬉しかったのか寂しかったのか、自分でもわからない。ただ、彼がプロであるということを改めて痛感させられた気がした。彼の真っ赤な剛翼が、夕陽をかすかに反射してモニター画面の端に光った。私の胸のどこかが、ほんの少しだけ軋んだ。
その日、私は、彼からの通信をひとつも取らなかった。いや正確には取れなかったのだと思う。
深夜勤務が終わる少しまえ、席に座ったまま、深呼吸をした。胸の奥が少しだけ、軋んでいた。思い出そうとしなくても脳裏にはあの夜のことが浮かんでくる。言葉ではなく、音でもなく、あのときの彼の目の奥にあった焦燥と熱。私はあんなふうに誰かに求められたことがあっただろうか。その問いに答えが出せないまま気づけば目の前の端末には、別のオペレーターの名前が表示されていた。交代の申請もしていないのに業務システムがなぜか、勝手に別枠を割り当ててくれていた。
いや──違う。私はわざと彼の回線を外した。今夜だけ。そう……たった一晩だけ彼の声を聞かない夜にしたかった。彼が何も言わなかったら、それでいい。怒っていてもいい。公私混同をしていると、軽蔑されたってきっと仕方ない。けれど画面越しに映る羽根の動き。飛行ルートに、通報記録……位置情報。どれもが彼が、淡々と職務をこなしていることを、静かに伝えてくる。何事もなかったように彼は飛び人を救い、笑っていた。まるで私なんか初めからいなかったかのように。
胸の奥が、またひとつ、きしりと音を立てた。言葉は交わしていない。プライベートの端末に、連絡もない。それなのに彼の気配だけが、どこかずっと残っている。
机の端に置いたままのスマホをふと手に取る。指先が勝手にメッセージアプリを開く。未送信のまま残された『元気にしてる?』の文字列が──まるで痛みの化石のようにそこにあった。それを見た瞬間、喉の奥が詰まりかけて、私はスマホを裏返した。
あの夜のことを、もう一度、ちゃんと向き合うには、まだ少し時間がいる。でも。彼の声をふたたび聞きたいと思ってしまった自分に、私はもう気づいてしまっていた。
──あれから、彼女の声を聞いていない。センターと通信が繋がったとき真っ先に意識したのはオペレーターの人の声だった。けれど聞き慣れたあのトーンではなかった。
『──第2ブース、対応お願いします』
無機質な、でも間違いのない一文が耳に入る。新人さんかな。まあ新人にしてはよくやってると思う。言葉の選び方も誠実でテンポも悪くない。なによりも、俺の無茶ぶりにもちゃんと対応してくれた。でもなんか、違うんだよなぁ……。
その声の向こうに彼女はいない。すごく普通に振る舞ったつもりだった。ああいう現場では感情を出す余地なんかないし、出しても意味がない。プロとして任務をこなすのは当たり前で、それは自分にとっても彼女にとってもきっと��当然�≠ナあるべきことだ。だけど、いざ終わって救急車が見えなくなって、風だけが吹き抜ける中にひとり残された瞬間、どこかで、ぽっかりとした空白があった。
……あの夜、俺はなにをした?自分でも、よくわからない。言葉にできなかった想いを、勢いに任せて吐き出そうとした。伝えたい気持ちが溢れて、手も声も制御が効かなくなって、それを見た彼女が、泣いた。逃げるように出て行った。その背中を追わなかったのは、ただ、それ以上は壊したくなかったから。それだけだった。
俺が泣かせてしまった。涙を流させてしまったんだ。俺はまた誰かを傷つけたのかもしれない。街の灯りが遠く霞んで見える夜空の下──羽根を揺らす風に任せながら、俺はただ静かに、そこに佇んでいた。通信が繋がらなかったくらいで取り乱すほど子どもじゃない。でも、できることならあの声で聞いてほしかった。「無事ですか?」って、そう聞いてほしかっただけ。たったそれだけの言葉なのに、それが今夜はやけに遠かった。
*
それからいくつかの夜を超えて、今夜もこの、大都会の街にサイレンが走った。それはいつものように唐突で、容赦がなかった。
入電──。午後11時23分。内容は、住宅街でのガス漏れの可能性あり。住民の一人が、寝る前にわずかな異臭に気づき、通報を入れた。火災には至っていないものの、念のため避難誘導と点検が必要とのこと。担当の振り分けは私の端末にまっすぐに落ちてきた。別に、誰の顔も見ていない。上司や同僚が、私を選んだわけでもない。ただ、システムが淡々と��それ�≠�決めたのだ。
現場のモニターに羽根のシルエットが映るのを見た瞬間、息が、止まりかけた。ホークス──。それは、名前を呼ぶよりも前に、心のなかで音になっていた。
あれから一週間。私たちは一度も声を交わしていなかった。夜が来ても、スマホは静まり返ったまま。それがまるで最初からの普通だったように私の生活は私の孤独をいつのまにか、日常に溶かしていた。でも今、その羽根の動きだけで、息が浅くなるのがわかった。やがて、無線が開く。
『──こちらホークス。現場到着。確認します』
その声は変わらなかった。変わらない、いつもの調子。どこか軽く、けれど──芯の通ったあの声音。胸の奥が、淡く疼いた。
「……こちら、緊急支援センター。状況報告を、お願いします」
自分でも驚くほど平坦な声だった。震えそうな喉を押し込めて私は平常心を装った。プロとしての顔が、感情を押さえ込む。
『えっと、該当の住宅前まで来てます。異臭も、ありますねー。ガスの可能性高そう。住民は避難済み。これから中を確認しまーす』
「了解しました。二次災害のリスクを、最優先で排除。ガス会社と消防には既に連絡済み。現場、指示を続行してください」
『──了解。』
たったそれだけ。たった数十秒の業務上のやりとり。なのに胸が焼けるほど熱くなったのはなぜだろう。いつも通りの声だった。いつも通りの、会話だった。でも、そのいつも通りが、こんなに遠くにあったなんて。
画面の中で彼が住宅に入っていく。背中越しのカメラが、何も語らない彼の輪郭を映していた。その姿を、私は、息を潜めて見つめていた。
ねえ……ホークス。あなたは何も感じていないふりをしてるだけ?それとも本当に、私とのあの夜を、もう、忘れてしまったの──?
思いかけたその問いを私はそっと呑み込んだ。今はただ、彼が無事に、何事もなく任務を終えてくれることだけを祈る。それだけしか今の私にはできなかったから。
*
「押し倒したやってぇ〜!? おまえ、ほんま、なにやらかしとんねん!」
ファットガムのバカでかボイスが、天井に反響する勢いで響いた。
「ファットさん!?ちょ、声、声のボリューム!エンデヴァーさんに聞かれちゃいますってば!」
ファットガムの隣に座るベストジーニストが、眉間に皺を寄せて、そっと湯呑を置く。
「……詳しく。順を追って話してくれないか」
「まさか、プロヒーローからレイプ魔が出るとはなぁ、ほんま、驚きやで」
「いや! そういうんじゃないっすよ、マジで。なんかこう俺としては、勢い、っていいますか」
「……」
「なんか、もういろいろ……いっぱいいっぱいになっちゃって」
膝を抱えるホークスの背中が、普段よりずっと小さく見える。自慢の剛翼はどこか、元気をなくしたように垂れ下がっている。
「ふむ……つまり理性が飛びかけた、というわけかな?」
「いや、飛びかけたどころか滑空しそうになった感じっすね、もはや」
「君は最低だ、男としてもヒーローとしてもね」
「でも直前でブレーキはかけましたって!ええ、ほんとに……っ」
その顔が、ぐしゃりと崩れる。まるで、駄々をこねる子どものように。
「彼女──泣いてて……、俺が、泣かせました」
「あちゃ〜……」
「で、何も言わずに出て行きました。ホテルから走って」
「……重罪やな、それ」
「俺、逮捕されます?」
「せんけども! いや、せんけどもやなぁ!」
ファットガムが両手を広げて、肩をすくめる。ホークスはというと、テーブルに額を打ち付けるようにして突っ伏した。
「一週間っすよ、一週間。連絡なし。通信も完全無視っす。一回だけ奇跡的に繋がりましたけど」
「……」
「なんなら運よく繋がっても別のオペレーターの子が対応したりして……」
「自業自得では?」
淡々と返すジーニストにホークスがかろうじて顔を上げる。
「だって……俺たち、いい感じじゃ、なかったんですかね……?」
「君がヘマをしただけだよ」
「……ですよねぇ〜。ははっ……あ〜っ!もう!何やってんだよ、俺ぇ〜〜!!」
顔を両手で覆いながら、ホークスは、椅子から転がり落ちた。そのまま羽根をばさばささせて、床を転がる姿に、ファットガムが苦笑いする。
「まぁ、そもそも、テレフォンセックスフレンド止まりだったわけやしなぁ……。見限られたんとちゃう?」
「やめてくださいそれ以上言わないでください。死ぬほんとに死ぬ。泣くここから飛び降ります」
床に突っ伏したままのホークスが、ぎゅっと、両手で耳を塞ぐ。
「ま、せやけど、好きなんやろ?ちゃんと話しに行くことやな。逃げててもあかん」
「話す……?な、なにを……?どこから……?」
「そりゃあ、本音しかないやろ」
その一言にホークスはゆっくりと顔を上げた。目尻にほんの少しだけ湿り気を帯びた赤が滲んでいる。
「ほんとのほんとに、俺ぇ……」
その続きはまだ、口からは、こぼれなかった。けれど彼の背中の剛翼だけが静かに震えていたのだった。
*
夜が来るのが少し怖くなった。それまで当たり前だった��声�≠ェない。耳の奥が、ずっと空洞のようだった。
最初の夜は何度もスマートフォンの通知を確認していた。鳴るはずのない画面を見つめて結局、眠れなかった。あの夜──何が正しかったのか、いまだに分からないまま。でも、あのままなにもなかったふりなんてできなかった。だって、あのとき彼が見せた表情は、私の知っているホークスとは少し違っていた。ほんの少しの歪み。ほんの少しの痛み。それを私の身体で埋めようとした。
彼を嫌いになんてなれなかった。むしろ、あのとき、怖かったのは──自分がその腕に、甘えてしまいそうだったこと。あの瞬間の彼の不器用な懇願はまるで「好きです」と言葉にする代わりの行為だったように思えた。けれど、それではダメだと頭が警鐘を鳴らした。だから、逃げた。
泣きながら、ホテルの非常階段を駆け下りて。名前を呼ばれることもなく彼は引き留めることもなく追ってもこなかった。そして沈黙の七日間。職場でも、あえて彼と直接繋がる通信を避けた。ホークスの声は端末の向こうから、別のオペレーターに向けて届いていた。
『──こちら、ホークス。現場に到着しました。応援は必要ありません』
冷静で端的で、プロフェッショナルなそれは、まるで何もなかったかのように聞こえた。でも、どこか少しだけ掠れていた。何度も心が揺れた。でも私からは電話をしなかった。できなかった。もしもまたあの夜の続きを口にされたら。それが怖かったから。それに私はまだ「好きだ」と直接言われてはいない。あれだけ近くにいて、何度も通話して笑い合って、恋人のようなこともして、それでも。たった一言がなかった。
だけど、もし今、彼があのときの言葉の続きを口にしてくれるなら。あるいは、逃げた私をもう一度だけ呼んでくれるなら。私はそのとき自分のすべてで向き合える気がする。そんなふうに思いながら、七日目の夜が、更けていった。