夜、十時過ぎ。チームアップ帰りの三人が顔をそろえたのはベストジーニストの事務所だった。喧騒を遮るように静かな空間。窓の向こうでは、街のネオンがちらちらと瞬いていてそれはまるで水面に浮かぶ光のように揺れていた。
ホークスはソファに深く体を預け、背もたれに頭をもたせかけたまま膝の上で手をだらりと組んでいた。ただ、目だけが虚空を彷徨っていた。
「……なぁ、ホークス。」
ファットガムの低く丸い声が、不意に降ってくる。テーブルの上に置かれた紙コップが、微かに揺れた。ホークスは目を動かさず気だるげに「なんすか」とだけ、短く返す。
「あ? いやぁ……」
そこでファットガムは、一度、言葉を切って、ぐい、と背を伸ばす。そして小さく笑みを浮かべながら、しかしどこか楽しげに口を開いた。
「最近、おまえ......一歩、昇格したらしいやん?あの子との関係性」
「はい? 昇格って?」
「おう。聞いたで〜、してるんやろ?夜な夜な、テレフォンセックス♪」
「ぶっ──!!」
ジーニストが丁度口にしていたハーブティーを盛大に噴きかけそうになって、むせ返る。一方のホークスは虚ろだった瞳を一気に見開き「ちょ、やめてくださいよ……!」と、顔を赤くして身を起こす。その様子に、ファットガムは腹を抱えて笑っていた。
「……いや、言い方ぁ!って──誰から聞いたんすか、そんなこと……!」
顔を覆いかけた指の隙間から、ホークスの声が跳ねた。それにファットガムは肩をすくめながら飄々と答える。
「ミルコ」
「──! あんの、おしゃべりウサギ……っ、」
噛みつくように呟くホークスを尻目にファットガムはゆっくりと立ち上がる。そしてテーブルのポットを取り上げると、まだ軽く咳き込みを引きずるジーニストのティーカップに熱い湯を注いでやった。湯気が静かに立ちのぼる。
「でもなぁ。」
と、ファットガムは、湯の音にかぶせるようにぽつりと言った。
「声だけ繋がって、気持ちだけ熱くなって。けど触れられへん、目も見えへん。画面越しに温度もない──それ、虚しないんかぁ?」
その言葉にジーニストが淡々と、しかしどこか呆れたように息を整えてから、静かに呟く。
「まあ……君がここまで落ちてるのも、珍しい話ではあるな」
「や……、落ちてないっすよ。別に……」
ホークスは、そう返しながら、テーブルに肘をついてうつむいた。その声にはいつもの軽快さはなく背中からはどこか頼りない寂しさがにじんでいた。
「え? ほんまの話やったん? 電話エッチ」
「電話エッチて。」
「してへんの? え、ほんまはどっちなん?」
「……や、そんなにはしてないすよ、たぶん」
「そんなには〜って、それ、実践してるやん」
「ま、まあ……ゼロでは、ないですけど……」
返しながら、ホークスの声にほんの少しだけ、熱がこもる。それを面白がるでもなく、ファットガムは、ただ頷いて続けた。
「いやな?別に悪い言うてへん。ただ、あんだけ毎晩のように話して仕事でも通信してるやろ?」
「はぁ……まあ、はい。」
「でも、結局会えてへんのやったら──それってまるで……」
言葉を濁しかけたそのとき、ホークスが小さく顔を上げる。その目には、なにか、覚悟のようなものが宿っていた。
「……まるで、なんです?ファットさん。」
「……」
「どーぞ、気ィ遣わずに言ってくださいよ」
しばらく沈黙したのちファットガムは少しだけ目を細めて、息を吐き出すように言った。
「いや──オンラインセフレ、みたいやん。」
時間が止まったような間。その空気のなかで、ホークスは何も言わず、ただ目線を落とす。そうして、わずかに、喉仏が上下する。
「……なんか、言えなかったんすよねぇ」
それは、ぽつりと零れ落ちた、心のひだの奥に沈んでいた本音だった。照れ隠しの軽口でもなく冗談めかしたいつもの調子でもない。どこか遠くを見つめるような声音で、ホークスは続けた。
「結局あの夜も、そもあとも何も言えなかった。
……ずっと、タイミング探してたくせに」
「……」
「ほんとは、何回も言おうとしてたのに……」
語尾はかすれ言葉の輪郭はぼやけていく。それでもそこに宿っているものだけは、まぎれもなく真実だった。
ジーニストが、ティーカップの縁に指を添えたまま視線だけをホークスに向ける。ファットガムは返す言葉を選ばず、ただ、その背中を見守っていた。
「��会いたい�≠ニいう言葉を? それとも──」
「……」
「��好きです�≠ニいう、言葉の方かな?」
ジーニストが、穏やかに尋ねた。問いは静かでありながら、どこか、核心を突くような切実さを孕んでいた。ホークスは、短く息を吸ったまま、すぐには答えなかった。視線をそっと外しガラス越しに広がる夜景のその奥へ、何かを探すように目を細める。
「……はい。後者のほう、っすね。」
言葉は、かすかに揺れていた。その声音の底に沈んだものを、ふたりは黙って受け取った。
「そんなシンプルな言葉が一番、言えなかった」
それは嘘のない告白だった。届いてしまいそうで、届かないまま、胸の奥に沈んでいった言葉。夜ごと電話を交わしても、名を呼び、冗談を交わしても、けして、踏み越えられなかった境界線。
「それや。」
ぽつりと、ファットガムが呟いた。その声は、静かで、それでいてどこか、あたたかかった。
「たぶんそれが……正直なとこや思うで。電話でなんでも話せる思うたら、大間違いや」
「……」
「声だけじゃな、どうしても……伝わらんもんがある。言葉っちゅうのはな、触れ合って、初めて届くもんやで」
そう言って、ファットガムはわざとらしく肩をすくめて笑ってみせた。けれどその笑顔は、からかいではなく確実に同志の背中を押すためのものだった。
「会わんとな。自分の手で──ちゃ〜んと、伝えんと、なぁ?」
「……はい。」
その一言に言い尽くせないものが滲んでいた。長い沈黙のあと、ホークスは目の前の紙コップを手に取りぬるくなったコーヒーをひとくち、口に運ぶ。湯気の消えたその香りが、夜の空気に少しだけ滲んでいった。
──今夜。ようやく彼は直接会って話すということの意味を静かに、痛いほどに噛みしめていたのだった。
*
その夜。私は、いつもよりも時間をかけて髪を巻いた。ゆっくりと指先を通し、そっと耳元にはあの羽根がモチーフの小ぶりのピアスを揺らす。
ほんの少し丈のあるワンピースを選んだのは、過度になりすぎず、それでいて彼が見たときに、「今日は特別な日なんだな」と思ってもらいたかったから。そういう感情が服装を選ばせるのだとようやく知った。
インターホンが鳴ったのは──予定の5分前。まるで羽音のように早すぎず遅すぎず静かに鳴るその音に、私は軽く深呼吸をしてから玄関に向かった。
「……お迎えにあがりました、名前さん。」
ドアを開けた瞬間、目の前に立っていた彼は、普段とはまったく違う装備だった。スーツに身を包んだホークス。あの日と同じように夜の静寂に溶け込むようなシルエット。彼の持つ軽やかさと少しの緊張がそこに滲んでいた。そしてその目が私の全身を一度見てから言葉もなく、ほんの少しだけ丸くなる。
「……すごく、似合ってます。あの、どこから褒めていいか、わかんないっすね……」
まっすぐに向けられたその言葉に、思わず私は笑ってしまった。笑いながらも、どこか胸の奥がくすぐったく温かくなる。ふだんは軽口ばかりの彼がこうして不器用にけれどまっすぐに気持ちを伝えようとしてくれることが、嬉しかったのだ。
「ありがとう。ホークスも、すごく……」
「カタい──ですか、ね?」
「……ううん、とっても、いい、と思う……」
少し、風のある夜だった。私は彼の隣で自然と歩幅を合わせていた。ホークスは、黒のシャツにやや光沢のあるスーツジャケットを羽織り、ネクタイはせず首元をラフに開けていた。髪はいつもより少し整っていて、それでも毛先を風が揺らすたびに、どこか、少年のような無邪気さを纏っていた。
「せっかくだし剛翼は使わずに今日はちょっと、地上を一緒に、歩いてみたくて」
その言葉に振り向くと彼はどこか照れくさそうな笑みを浮かべながら、私の足元へと視線を落とした。マンションの前にタクシーがそっと停められている。そのドアを開けて待ってくれる仕草がふだんの軽やかさとは少し違って、静かな誠意のようにも思えた。そんなふうに、誰かに手を差し出されること。誰かと、特別な夜に向かうこと。それがどれほど尊く、どれほど心を震わせるものだったかを私はきっといつの間にか忘れていた。
カチリとドアが閉まり、車が、ゆるやかに走り出す。車窓の向こうには街の灯りが連なりビルの谷間から覗く月がいつもよりもずっと高く冴えた光を放っていた。静かに並んで座る彼の横顔に、窓の外から流れ込む月明かりが薄く降りて二人の間にひそやかな静寂が生まれる。何も言わずとも今夜がきっと特別な夜になることだけは──その沈黙のなかで、確かに感じられていた。
「あのさ、今日は、満月じゃないけど……」
「うん?」
「ちょっと、落ち着いて見えるね、街が。」
私のその言葉に彼はちらりと横に座る私を見てそっと微笑んだ。
「満月じゃない夜の方が心って、静かに揺れるのかも、しれないですねぇ……」
「なんか、かっこいいじゃん」
「まあー、今日……くらいは」
信号が赤に変わる。車が止まり、ほんの数秒の静寂。彼がふいに、小さな声で囁いた。
「緊張してます。……バレてます?」
「うん、ちょっとだけ」
「やっぱり……でも、バレるくらいで、ちょうどいいのかもって思ってて」
「うん……」
「俺──今日こそ、ちゃんと伝えたいことがあるんです」
その言葉に私は黙って頷いた。それだけでこの夜が、たしかに始まっているのだとわかった。
到着して予約の名を彼が告げると、すぐに案内された席は夜景が見渡せるガラス窓に面した場所だった。やわらかな光を灯すシャンデリアが水面のように揺れていた。まるで私たちを静かに祝福してくれているかのようなそんな空間だったのにテーブルクロスに手を重ねたまま彼は数度言葉をのみ込んでいた。ナイフとフォークの先端が微かに触れ合う音だけが沈黙を縫っていた。私もまたそれを待っているようで、けれどどこかでそれが怖くもあった。
「……あの、俺。さっきもちょっと、言いましたけど」
「……」
「話したいことがあって、本気で。今日こうして時間つくってもらったのも、ほんとは、それで」
その声は意外にも緊張を含んでいて、どこか、戸惑うような瞳が、こちらをうかがっていた。
「……うん、聞くよ?」
心のどこかで、警鐘が鳴っていたのに。うまく軌道修正できないまま、ただ時だけが静かに過ぎていった。
「……緊張、してる?」
沈黙に耐えきれずふとこちらからそう訊ねれば彼は、ふっとため息を吐くように笑って言った。
「めちゃくちゃ、してます。……だって、今日は、いつもより、ほんの少しだけ特別な日なんで」
「ふふ……じゃあ、ちゃんと味わって?匂いも、雰囲気も、ぜんぶ」
「匂いといえば、名前さんの香水……今日の匂い好きです。ほら、いつもとちょっと違う?」
「あ、気づいた?」
「もちろん。俺、声だけじゃなくて、記憶力も、けっこうあるんですよ?」
そんな何気ないやりとりが、なぜかくすぐったくて、嬉しくて。ささいな数十秒間でさえ、私にとっては、宝物のような時間だった。
ワインの追加を注文し終えると彼はふっと肩の力を抜いたように、大きく息を吐いた。
「……ね、こういう普通のことって、逆にすごく大事だと思いません?」
「うん。ヒーローにとって普通って、いちばん、難しいもんね」
「ですです。だからこそこうしてご飯を食べに来たっていうだけのこの時間が、俺にはすごく、貴重で──」
けれどそのときだった。彼の視線がふと横へと逸れる。私はその動きにつられるように、そっと視線を辿った。すると数テーブル向こう、ふいに目に留まったのはかつての職場でオペレーターとして共に働いていた年上の元先輩だった。まさかこんな場所でも偶然に会うなんて。驚きながらも目が合ったその一瞬に私は自然と軽く会釈を返していた。ただ、それだけだった。声を交わすでもなくすぐに視線を戻す。なのに目の前に座る彼の空気がかすかに変わるのが伝わってきた。笑顔の輪郭がどこか曖昧になり、沈黙がほんの少し濃くなる。それが嫉妬なのか不安なのか、まだ私には判然としなかったけれど確かに彼は何かを感じ取っていた。
「お知り合いで?」
軽く向けられたその問いかけは何気ないようでいて、どこか、硬さを孕んでいた。
「え? あ……うん。職場の、元先輩」
私はそう答えながらグラスの水面を見つめた。ゆらいだ氷が、小さく音を立てる。
「ふーん……プライベートでも、よく一緒に?」
「う、ううん……たまたま、見かけただけだよ」
言葉に少し焦りが混じったのが、自分でもわかった。
「たまたま、ね。……俺、そういう偶然、あんま信用してないんスよねー」
彼は笑っていた。けれどその笑みは輪郭が少しだけ崩れていた。その奥に潜む何かが、胸の奥をじわりと締めつける。
「え、やめて……?なにそれ。さっきまで楽しくしてたのに、急にどうしたの?」
「どうもしないっすよ。ただ……やっぱ俺、まだまだなんだなーって思って」
「……は?」
わずかに語尾が上ずる。彼はグラスの縁を指でなぞりながら、どこか、遠い場所を見ていた。
「たとえば、名前さんの世界には、俺が知らない人も、時間も、あるんだなって」
「……当然でしょ。私にだって、あなたの世界は全部わからない。お互い様じゃん」
「でも、俺は──全部、知りたいって思ってる」
その声はどこまでも静かだった。優しさのようにも、独占のようにも聞こえるその一言に、私は返す言葉を見つけられなかった。沈黙が皿と皿のあいだに、そっと降りた。
レストランの空調の音だけが、無表情に空間を満たしている。そしてその夜は無言のまま静かに時間だけが流れ込んでいったのだった。
帰りのタクシーの中。車窓の外には街の灯りが流れているのに車内にはあまりにも静かな空気が流れていた。
窓の外には、雨上がりの街がぼんやりと滲んでいる。彼は窓の外を見たままあれからひとことも喋らなかった。私も言葉を見つけられなかった。互いにひとことも発さないままフロントガラスに映る街灯の光が、まるで、時間を巻き戻してくれないかとでも願うように、ぼうっと流れてゆく。肩と肩が触れそうで触れない距離。だけど、そのわずかな間に遠い海峡のような隔たりがあるように感じてしまうのは、なぜだろう。
ほんの小さな嫉妬と、すれ違い。けれど私は、彼が「全部を知りたい」と言ったことを、どこか嬉しく思ってしまっていた。あたたかな料理の味も、窓際にあったキャンドルのゆらぎも、あの、レストランの美しい夜景さえ、いまはもう、遠いところにある、幻のようだった。
こんなふうに終わらせたかったわけじゃない。でも、言葉を探すには、今夜の空気はあまりにも繊細で、触れると壊れてしまいそうだった。
彼がふと静かに喉を鳴らした。その気配だけが切なく胸の奥に降り積もる。私は車窓に額を寄せて、心の中で、そっとつぶやいた。
──お願い、もう一度だけ。あの夜景のようにもう一度だけ、穏やかに笑って。
車の振動がどこか遠くに感じられるほど車内の空気は静まり返っていた。ふたりの間に漂うのは言葉の代わりに膨らんだ、「言わなかったこと」たちの影。さっきまで楽しかった食事の記憶が、まるで別の時間の出来事のように遠のいていく。
窓の外には、ネオンの滲む夜の街が通り過ぎてゆく。無数の光が二人の間の沈黙を映していた、そんな、ときだった。
「……このへんで──止めてもらっても?」
急に彼が運転手にそう告げた。語気は静かだったがなぜかそれが胸に刺さる。タクシーが徐々に減速し、そして、ゆっくりと停車する。場所は、煌びやかな灯りが並ぶ、ホテル街の一角。
「……ちょっと、どういう……つもり?」
思わず問いかけた私の腕を彼がやや乱暴に掴んだ。けれどその手の力は、不器用な迷いと焦りをはらんでいて私はすぐに引き離すことも抵抗することもできなかった。ただ彼の背中を追って無言で降車し濡れたアスファルトの上に足を下ろす。
彼は一言も発しないまま、夜の人通りを避けるように歩いていく。その背には、いつもの軽さも余裕もなかった。高く積もった怒りでもなくただ静かに煮詰まったような冷たく苦しい衝動だけが滲んでいた。
そして彼は、一軒のホテルの前で立ち止まり、迷いもなく、階段を登っていく。私の足もなぜか止まらなかった。無言のまま、案内された部屋に入ると彼はドアを閉めるなり私を振り向き、詰め寄るや否や、次の瞬間、ベッドへと押し倒した。
「──きゃ、!」
その動きは確かに衝動的だった。けれど決して乱暴ではない。ただ抑えきれないまま溢れ出した感情の奔流に、彼の内側が抗いきれずに崩れた、その証のようで、それは、怒りでも欲でもない。どこにもぶつけられない、行き場のない��痛み�≠フようなものだった。
手首を掴まれ身を起こす隙さえ与えられぬまま私は彼の影の下に閉じ込められていた。そして、覆い被さるようにして私を見下ろす琥珀色の彼の瞳が──静かに、震えていた。
「……嫌だったら、このまま俺を引っ叩いて──今すぐ逃げてください」
その声は、まるで自分自身を罰するかのような震えを帯びていた。彼の手が、私の手首を掴んで離さない。けれどそれは、どうしてか、暴力ではなく──哀しみの色に似ていた。私は瞬きもできずに、ただ彼の瞳を見上げていた。少し前まで、夜空の向こうで羽ばたいていたはずのひとが……こんなにも近くにいて、こんなにも苦しげに私を押さえつけているという事実に、心が、追いつかない。
「……なんで、笑ってたんです?」
それは喉の奥から絞り出すように落ちた声だった。抑えきれない感情の重さだけが言葉の輪郭を滲ませていた。
「さっきあの男と……なんで目、見て、笑ったんですか。あんなふうに」
あの男──それが誰を指すのか、すぐにわかった。職場の元先輩。ただ偶然同じ店で出くわしただけ。交わしたのはたった一瞬の視線と、小さな会釈。けれど、それすらも彼には痛みになったのだろう。
「俺といるときより……優しい目、でしたね」
低く静かに落ちた声が、私の胸の奥にまっすぐ突き刺さる。そんなことないのに、その一言が、どうしても喉の先から出てこなかった。ただ息を呑み、目の前の彼を見つめ返すしかなかった。
「気になって仕方なかった……ずっと考えてた。帰りのタクシーの中でも、黙ってるあなたの横顔ばっか、見てた」
その声は独白のようで、誰に向けられているのかも曖昧だった。それでも私には、それが、彼の精一杯であることだけは、わかった。
「……俺って馬鹿だなって思いながら、でも……止められなかった」
覆い被さるようにして私を見下ろす彼の目は、もう、笑っていなかった。笑みの代わりに滲んでいたのはどうしようもない痛みと未消化の感情。もどかしくて哀しくて、それでもなお誰かを想い続けてしまう人間の弱さと、誠実さだった。
「会いたかったんです。ほんとに、ずっと……」
「……」
「ちゃんと、伝えたかった。俺はあなたが──」
そこまで言いかけて彼の言葉が途切れた。彼の瞳がやや見開かれて、指先にかかっていた圧が、そっと、解ける。彼の手首から力が抜けていく。静かに私を押さえていた手が離れていった。その動きに私はふいに胸の奥がほどけるような感覚に襲われた。なぜか涙が溢れていた。理由なんて、わからなかった。ただ彼の苦しさも私の戸惑いもどこにも行き場がなく、部屋のなかのやわらかな灯りの下で、交わることもできずにただ滲んで、溶けていく。
彼の見開かれたままでいる瞳が、揺れている。先に気づいたのは彼。そう……彼は、私の涙に、私よりも先に、気づいていたのだ。
「名前、さん──」
彼が私の名前を呼んだ。その声を遮って、私は小さく、でも確かな声で答えた。
「……ごめんなさい。」
それだけを残して、私は彼の上からすり抜けるように身を起こした。止められることも掴まれることもなかった。床に落ちていた鞄を拾い上げ、手探りでコートを取りドアへと向かう。振り返ることはできなかった。私は彼の目を──正面から見ることができなかったのだ。
そしてそのままホテルの扉を開けて外へと飛び出す。夜風が頬を打った。涙の痕をなぞるように冷たく、けれどそれはどこかで目を醒ますような痛みでもあった。タクシーの走る音。通りすがる人々の笑い声。すべてが遠く、遠くにあった。
彼と過ごすはずだった夜は、なにもかもが予定とは違っていた。けれど胸の奥に疼いていたのは悔しさでも、怒りでもない。ただ、ほんの少しの優しさだけが残っていた。それだけがどうしてかものすごく、痛かった。