私の心はいつだって彼の背に生えた羽根の影を追いかけている。ほんの少しでも手を伸ばせば、離れていってしまうのではないか、そんな錯覚に怯えていつも最後の一歩を踏み出せずに立ち止まってしまうのだと気づいたのは、夜の静寂が街を包み込む頃だった。このところ彼がまた、帰って来なくなった。そんなことにはもう、慣れたはずなのに夜が深まるほど胸の奥のどこかが音もなく疼きはじめる。
その夜も時計の針が深夜二時を回っても眠気は訪れず乾いた喉を誤魔化すように水を飲みに立った。台所の明かりが白く床を照らして、その光を引きずるように寝室へ戻ると、窓の外で赤い光がふっと揺れ、次の瞬間には当たり前のように彼がそこに立っていた。いつもの人懐こい笑みを浮かべてはいたけれども、その眼差しの奥に潜む熱の深さに私は、視線を絡められずにいた。
「そんな顔してると……俺まで我慢できなくなりますよ?」
「え……?」
『ただいま』を言うよりも先に、彼はそう口にした。軽口めいた響きでありながら、低く震える声色には、冗談の仮面を剥ぎ取るような切実さが滲んでいた。足音が静かに床を打つたび、部屋の空気がわずかに震えた。彼は無言のまま、肩からフライトジャケットを外して床に落とした。厚手の革が鈍い音を立てて沈み、続いて外されたグローブがその隣に転がる。それだけで空気の温度が変わった。悲しそうな笑みを浮かべたまま一歩、また一歩と距離を詰める。背中が壁に触れた瞬間逃げ場のない静寂がふたりのあいだに生まれた。
彼はいつもそうだ。飄々と笑って見せるけれどその瞳の奥で燃やしている感情はきっと私が思うよりもずっと濃く、熱く、彼自身を蝕むほどに、私へと注がれている。
伸びてきた指先が頬をなぞる。その触れ方は、驚くほど優しいのに、そこに込められた渇望は、あまりにも剥き出しで胸の奥に小さな悲鳴が響くようだった。
「あの、少しだけ……いいですか?」
そう囁いた彼の声に、私は頷くことしかできなかった。理性は抗おうとしたのに、身体はすでに彼に捕まっていた。
彼の指が頬をなぞったまま離れず皮膚の表面を滑ってはそこに熱を置き去りにしていくようで、その熱が浸透して骨の奥にまで届き逃げ場のない火照りを与えられてしまったかのようだった。
私は思わず瞬きを繰り返しながら、その赤みを帯びた黄金色の瞳に射抜かれるような感覚を避けたくて、目を逸らそうとするのに、彼の掌が顎をそっと持ち上げて、意識を奪うようにこちらへと向かわせる。
「……そんなふうに逃げないでくださいよ。俺、ほんとに我慢がきかなくなる」
冗談のような軽さを装う言葉に潜む必死さが、かえって胸を締めつけた。彼の想いがどれほどの強さで彼自身を縛り、今この場で、破裂しそうな衝動に形を与えているのかが伝わってくる。
背後の壁に追い詰められるようにして私は自分の呼吸が、どんどん浅くなっていくのを感じた。彼はすぐに押し倒すでもなく、唇を奪うでもなくただ数センチの距離を維持したまま、わざと私にその熱を意識させるようにじっと見つめてくる。その焦らすような間合いがかえって胸の奥に疼くような痛みを広げていく。
「俺ね……?こうしてるだけで、幸せなんです」
「……」
「触れるか触れないかその境界に立ってる時間がいちばん苦しくて……いちばん、気持ちいい」
低く囁かれた声が耳朶に触れるたび、私は堪えきれずに瞼を閉じた。吐息が触れるほどの近さでありながら、彼はあえてまだ唇を重ねてこない。そのもどかしさが焦燥の渦となって私の中を掻き乱していく。
触れてしまえばきっとすべてが壊れてしまう。けれど触れてくれなければ、もう立っていることさえ難しい。そんな矛盾の狭間で、私は彼の掌に顎を支えられたまま微かに震えそして彼の執着に似た愛しさに、自分自身が飲み込まれていく音を確かに聞いていた。
互いの吐息が触れ合うほどの距離で、彼の指がまだ私の顎を支えたまま緩やかに震えているのを感じた。吸い込む空気さえ、彼と共有してしまいそうで胸の奥が苦しくなるほどの圧迫感に包まれながら私は逃げることも許されずただその黄金の瞳に見据えられる。
「名前さん……あと、ほんの少し——」
微かに触れるか触れないか彼の唇が私の輪郭をかすめるたび、理性が崩れかけては戻り、心臓が喉を叩いてせり上がってくる。
彼は決して一線を越えず私を焦がすことだけを目的にするかのように吐息を重ね熱を滲ませては引いていく。
もどかしい。今すぐ触れてしまえばいいのに。けれどその「ほんの少し」の一瞬こそが彼の執着を最も色濃く映し出しているようで、私の身体はかえって抗えない熱を帯びていった。
そのとき不意に震える音が沈黙を破った。私の手に持たれていたスマートフォンだ。反射的に、身体を動かそうとしたが、顎を支える彼の指が、ぴくりと強張り獲物を見つけた猛禽のような視線が、さらに険しさを帯びて私を縫い止める。
「……誰からです?」
耳元に落とされた声は低く静かで、けれども、隠しきれない鋭い嫉妬の熱を帯びていた。画面に映る名前はきっと、ただの知人に過ぎない。だがしかしそんな説明は今の彼には意味を持たないのだと直感する。彼の指先がそっと動いてスマホを奪い取る。彼は苦笑を浮かべながらも、その瞳の奥では炎が微かに揺れていた。その光が息を呑むほど真剣で美しく、そして少しだけ怖かった。
「へぇ……俺といる時に、他の男から電話、ね」
「男か、なんて……わからない……でしょ」
「こんな真夜中に、女性がかけてきますかね?」
「確認する前に、取り上げたくせに……」
「しなくたってわかります。俺を、誰だと思ってんすか」
笑っているのに唇は僅かに震えている。嫉妬という名の熱が今にも決壊して私を飲み込むのではないかと感じた瞬間、私は、息を詰めたまま彼を見上げ、そして彼の吐息が一層深く私の頬に触れてきた。
「……出なくて、いいですよね?」
その囁きには、切実さと独占欲が混ざり合い、甘くも鋭い棘を含んでいた。
「出なくていい……。」
もう一度、わざと触れずに、吐息だけで焦がすように彼女を追い詰めていたその瞬間。いまだに震えているスマホを見下ろした彼女の瞳が揺れて俺の指先を振りほどくように一瞬だけ離れてしまったのが、どうしようもなく胸の奥を抉った。
俺は知っていた。その一瞬のためらいがどんな言葉よりも、残酷だということを。この着信音が全てを台無しにした。「出なくていい」と言ったのに彼女は苦笑いを浮かべて今度は逆に、俺からスマホを奪い返して、通話を取った。ほんの短い会話だった。相槌をひとつ、言葉を少し漏らしただけ。それだけのことなのに、その数秒の間に、俺の中で何かが軋む音を立て、冷静を装っていた仮面が静かに剥がれ落ちていった。
ああ……やっぱり。この人は俺だけのものにはなっていない。そんな当たり前の事実が吐き気がするほどの嫉妬となって、喉を焼きつけた。
「……楽しい声、出してましたねー」
笑って言った。軽く茶化すみたいに。けれど、自分の声が低く濁っているのを隠しきれなくて、視線も逸らせなくて彼女が困ったようにまつ毛を伏せる仕草さえも、そんな顔——俺以外には見せないでほしいと、心の底で呟いてしまう。
「……ただの、知り合いだよ」
彼女が静かにそう答える。けれどその穏やかな声がかえって胸の奥をかき乱した。俺はスマホをまた奪い取るようにして、ベッドの上に放った。振動はもう止まっていたのに耳の奥では知らない男の声が残響している気がして、息苦しかった。
「俺の前で他の
口にした瞬間、理性の境界が歪んだ。唇を重ねる直前まで抑えていた距離感を一気に踏み越え、頬に指を絡めて視線を逃がす隙を与えず、わざと、吐息を濃く落とす。
「……嫉妬、してるの?」
しかし彼女の方が一枚うわ手らしい。それでも彼女の声が笑いながらも、わずかに震えていた。
「俺、かなり嫉妬深いんで。知ってました?」
その言葉には照れ笑いの色はない。ただ彼女を一人の
「……もう、知ってるよ」
その甘い声に、思わず呼吸が詰まる。触れれば触れるほど余計に足りなくなるとわかっている。
たった数秒が、俺の中の渇望をこんなにも膨れ上がらせた。もう次に求めるのは、触れるか触れないかの距離なんかじゃない。俺だけの証をこの唇に、声に、熱に刻みつけなければ気が狂いそうだった。
しかし、あと一歩踏み込めば、すぐにでも唇を奪える距離にいるのに、俺は寸前で動きを止めてしまう。指先は彼女の顎をしっかりと支え吐息は頬に降りかかるほど近いのに、どうしても最後の境界を越えられないまま胸の奥で押し殺していた言葉がふいに零れた。
「……出らんで、ほしかった」
我ながら情けないほどに震えた声だった。軽く冗談めかすこともできたはずなのに、その余裕を装う仮面はさっきの着信音で粉々に砕けて、残されたのはただ切実に縋りつくしかない自分自身の心だけ。
彼女の瞳が揺れる。驚きか後ろめたさか、そのどちらもかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。ただ、目の前で、他の
「俺のこと、焦らしてるんですか?」
「……、」
「さっきまでは、俺のペースに飲まれてたのに、今度は、俺が見てる前で他のやつと話すなんて」
吐き出す言葉はとめどなく苦い。けれど唇は、まだ触れさせない。わざとではなく触れた瞬間にすべてを壊してしまいそうで、理性と欲望の間で立ち尽くす。頬にかかる髪を指で払うふりをして、そのまま、彼女の耳元に口を寄せて抱きしめる。
「……俺だけを、見ててほしいんです」
囁きながらも、まだ唇は重ねない。声が震えているのを自分でもはっきりと感じていた。焦燥に引き裂かれた胸は熱でいっぱいで抱きしめる腕が暴走しそうになるのを必死に押しとどめる。
彼女の吐息が微かに触れるたび俺の中で嫉妬と渇望がさらに膨れ上がり、苦笑ひとつ、浮かべる余裕もなかった。
「ねえ。突然どうしたの、ホークス……」
「……」
「怒ってるの?なにか、嫌なことでもあった?」
そのとき。二度目の着信が鳴る。彼女は結局、電話に出なかった。その沈黙は俺にとって甘美な勝利であるはずなのに胸の奥に滾るのは安堵ではなく燃えさかるような熱情だった。ほんの数秒、他の
抱きしめた身体を解放して目と目を合わせる。頬に触れた指先に、彼女の吐息がかすかに震えを乗せて触れてくる。その温度は淡雪のように儚いのに俺には火花が散るような熱として伝わった。息を吸うたび彼女の匂いが肺を満たし、吐き出すたびに彼女の吐息と混ざり合う。気づけば自分という輪郭がどこにあるのかさえ、もうわからなくなっていた。
「今度は……出ないんですね」
囁きは自分でも驚くほど低く濁っていた。喜びでもなく、ただ、切実な独占欲が声に絡みついている。彼女の唇が小さく開く。その隙間からこぼれた吐息が頬をかすめただけで、腰の奥が痺れるような熱に支配され、視界の端が赤く滲んだ。
「そんな甘い吐息を聞かされたら……もう、止められないですよ」
「止める気が、あったの……?」
「もちろん。このまま進めたら今日の俺は絶対にあなたを傷つける」
「うそつき……そんなこと、しないくせに」
その小さな反論が余計に堪えた。わざと距離を保とうとしたはずなのに彼女の呼吸に翻弄されるたび、意志は脆く崩れていく。
彼女を焦らしていたつもりが、焦らされているのは自分自身だと気づいた瞬間、喉の奥が焼けるように熱かった。頬から耳へ、そして、首筋へ。流れるように唇を近づける。触れる寸前で、また止まってしまうのは、触れた瞬間に、もう二度と離せなくなるとわかっているからだ。
「そんな顔……しないでください」
「どんな、顔……?」
「——欲しくなる顔、です」
吐息と吐息が絡み合う。喉の奥で名を呼びたくなる衝動を必死に押さえながら、俺はただ願う。どうかこの人が誰のものにもならず俺だけの腕のなかで、呼吸を震わせ続けてくれますようにと。
彼女の吐息に翻弄されながらも、あと数ミリで触れられる距離を、意地のように保っていたその時。不意に彼女の指先がそっと俺の頬に触れた。
「……啓悟、くん——。」
その一言が、限界を告げる合図だった。羽根の先で触れるほどの軽さなのに全身が震えるほどの衝撃で思わず目を閉じかける。けれど彼女が先に瞼を伏せたのを見た瞬間、その映像が脳裏に焼きついて離れなくなった。焦燥が、臨界点へと押し上げられていく。
「そうやって目を閉じられると、ダメなんですよねぇ」
「……どうして?」
「それが、俺を許してる合図に見えるんで」
閉じた瞳。それはつまり——触れられることを拒んでいない証。わかっている。理屈ではない。だが、だからこそ、触れられない。触れた瞬間、自分がこの
「ほんと……ずるい人ですね」
笑みを浮かべたふりをして囁くが声は震え喉の奥で、渇いた熱が暴れているのを抑えきれない。
彼女の睫毛が微かに揺れてその吐息が俺の唇にかかるたび、理性と欲望がせめぎ合い、胸の奥が痛むほどに焼けていく。頬に触れられた温もりが指先から心臓に直結しているみたいに脈を早め、全身を駆け巡る血潮が、熱を孕んで止まらない。今にもその境界を越えてしまいそうになるのに、ぎりぎりで立ち止まるたび、欲望はより濃く研ぎ澄まされていく。
彼女は知らないだろう。瞼を閉じたその小さな仕草だけで俺がどれほど焦らされ、どれほど……追い詰められているのかを。
「そんな顔、俺にしか見せないでくださいね」
低く掠れた声が、自分でも驚くほど切実に響いた。触れないままの唇が、かえって苛烈な渇望を孕み、焦燥の時間を、無限に引き延ばしていく。彼女の瞼がゆっくりと持ち上がりわずかに潤んだ瞳が俺を映した、その刹那。再び、鋭い着信音が空気を裂いた。その音は現実の冷たい爪で彼女の意識を引き戻す。俺の掌から、すり抜けようとする気配が一瞬で広がった。彼女が反射的にベッドのほうへ手を伸ばしかけたその動きを、俺は咄嗟に掴み取った。
「ダメです」
声は思ったより低く、喉の奥では焦りと嫉妬が絡みつき、切実さだけが剥き出しになっていた。彼女が驚いたように目を瞬かせる。
「……なんで?」
「出ないでください」
「でも……仕事かもしれない」
「いいえ、いまは違う」
ベッドの上に放り出されているスマホが、光を散らしている。その閃きを横目で捉えた俺は突き動かされるように手を伸ばした。指先が、それを掴むと同時に、彼女の視線が怯えるように揺れたのを感じる。俺はそのままためらいもなく後ろのポケットへと、彼女のスマホを押し込む。これを離せば二人の間にまた何かが割り込んでくる気がして——だから、俺は離さない。
「もう一度出ようとしたら……俺、ほんとに冷静じゃいられなくなりますよ」
自分でもぞっとするほどの声音だった。軽口を混ぜて和らげる余裕はもうなく、嫉妬と独占欲が臨界を越えている。彼女の瞳が揺れて、戸惑いと切なさが混ざり合う。その視線の揺れ一つで胸の奥の何かが崩れていった。同時に、彼女の吐息がまた俺に触れる。その一呼吸ごとに理性が静かに溶かされていく。ポケットの中でまだ震え続ける着信。だが俺にはその音さえ彼女を奪おうとする敵意のように聞こえた。
「……そんなふうに言われたら、私、どうしたらいいの」
「俺を置いて他の誰かと繋がろうとしないでください」
囁いた瞬間、視線が重なった。彼女の頬にかかる髪が微かに揺れ、吐息が俺の唇に触れる。あと一歩で届く距離。けれど届かせる前にこの嫉妬と熱をどうしても伝えずにはいられなかった。
彼女は俺の手に囚われたまま、それでも小さく身じろぎする。
「ふふっ……怖いくらい、まっすぐだね」
笑いながらも、迷うような声。頷くことも拒むこともなくただ吐息だけが震えていてその曖昧な沈黙が俺をさらに焦らし、胸の奥を焼き尽くしていった。
「言ってることと、声の温度が違いすぎますよ」
「え……」
「怖いですか? ずっと、震えてる……」
「……」
「そんなふうに躊躇われると、俺こそ、どうしていいか分からなくなります」
穏やかに響かせようとしたはずの声は喉を擦るような熱を含んでしまい結局は切実さが剥き出しになる。彼女の睫毛が震えるたびに、俺の呼吸は乱れ、吐息が彼女の吐息に絡め取られていく。
「俺、こんなに誰かを想った事ないんです。笑ってごまかすのは得意でも、これだけは、冗談にできない」
「ホークス……」
「自分のせいだってわかってても、会えなくて、寂しかったです」
「……」
「あなたのことを考えない日は、一日もなくて。飛んでいても戦っていても結局はあなたに戻ってしまう」
吐露するたび胸が痛む。言ってしまえば弱さになるとわかっているのに、もう、抑えられない。彼女の頬を撫でる指がわずかに震えて、その肌の温もりを確かめるごとに焦燥が募る。
「だから……お願いです。俺から、逃げんで」
「……」
「俺の前から、消えたりしないでください……」
「……」
「俺の知らん相手からの電話なんかに……意識ば向けんで」
「……」
「俺だけを、見ててください——」
近づけた唇はまだ触れず吐息だけが彼女に落ちていく。その距離が苦しくて狂おしくて、どうしようもなく、愛おしい。
「……どれだけ想ってるか、伝わってます?」
声が掠れ瞳が熱に滲む。焦燥を長引かせるたび欲望よりも先にあふれ出すのはただ彼女への愛の深さだけだった。
彼女は、何も言わなかった。涙の気配すら滲む瞳を伏せたまま、ただ吐息だけが俺の頬に触れている。その沈黙は、拒絶ではなく、迷いであるとわかっているのにそれでも胸は締め上げられる。
「……答えて、くれないんですね」
低く吐き出した声に笑みを混ぜようとしたけれど喉の奥で焦燥が絡みついて、どうしても苦い熱に変わってしまう。
「……伝わってるよ。でも、ちょっと怖い。」
「怖い?」
「うん。それでも……嫌じゃないよ」
俺の頬に手を添えて言ったその囁きが胸の奥の痛みを一瞬だけ和らげる。けれど同時に、理性の薄膜が軋む音がした。彼女の指先が微かに震え、俺の頬から離れそうになった瞬間、その手を咄嗟に捕まえて離さなかった。
「ダメです……離さんで」
その言葉は懇願であり同時に命令でもあった。彼女の吐息が乱れるたび胸の奥で膨らむ独占欲はかたちを持ち、もはや抑えようとしても隠しきれない。
「俺……あなたを誰にも渡しとうなか。電話も、視線も声も、全部、俺だけのものにしてほしい」
「……そんなの、無理だよ」
「無理でも、願ってしまう」
頬を撫でる指先が熱に震え、もう焦らす事などできないほど、切羽詰まっているのに、それでも唇は触れず、ただ、彼女を追い詰めるように吐息を重ねた。その距離が限界まで縮まった瞬間、堰を切ったように彼女を強く抱きしめた。まるで言葉の代わりに体温で何かを伝えようとするかのように、胸の奥から溢れ出すものすべてを、その腕に込めて。
「狂いそうなんですよ。あなたが他の誰かに少しでも心を動かすだけで俺は個性を失ったみたいに堕ちていく。だから、どうか……」
掠れた声が耳元に滲み、彼女の肩を抱く腕に、自然と力がこもる。焦燥は頂点を越え、狂おしい独占欲と愛情が絡まり合ってもはや自分が彼女に溺れていることを否応なく思い知らされる。だがそのとき——。
「……堕ちないで。ちゃんと、掴まえてるから」
その一言に張りつめていた胸の奥が、わずかに解けた。彼女の声は震えていたけれど、その震えごと全部、抱きしめたいと思った。
沈黙が続く。呼吸の震えだけが、互いをつなぎとめていた。吐息が重なり合うたびに、胸は焼けつくように疼き、もはや余裕など、どこにもなかった。
「……掴まえて、くれるんですか?」
「……うん」
「もし、掴まえられなかったら?」
「うーん……」
「ははっ。それでも俺は——あなたを一生、離しませんよ」
自分でも驚くほどの低い声で吐き出したそれは懇願ではなく決意だった。彼女がどれほどためらおうともこの腕だけは絶対に解かないと心の奥で誓っていた。そのとき掠れた声で彼女が囁いた。
「……私、ヒーローのヒロインにはなれないかもしれないけど」
「……」
「でもヒーローの隣にいて恥ずかしくない人にはなりたいって、思ってるよ」
その言葉はナイフのように胸に突き刺さった。彼女の不安は痛いほど理解できる。
光に照らされる者の隣に立つには勇気が要るし彼女が抱えてきた影や弱さもまた、簡単に消えるものではない。俺はゆっくりと、腕をほどいた。肩越しに息を吐きわずかに距離を置いたその瞬間空気が静かに揺れる。
「そんなもの、いらんですよ」
触れ合っていた体温が離れた場所に残響のように滲み、その余韻のなかで、そっと囁いた。頬に触れる指に力を込め、視線を逸らさせないように瞳を縫い止める。
「俺に必要なのは、だれかが作ったヒロインじゃない。あなたじゃなきゃ、意味がないんです」
「……」
「だから逃げないで。消えんで。俺が、絶対にこの手を離さないって、誓いますから」
声は震えていた。吐息が彼女の唇に触れそうで触れないまま熱を運び彼女の瞳に映る自分自身がもはや理性を剥ぎ取られたただの男に見えていることを、俺は知っていた。
「ヒーローである前に、俺は……あなたのものになりたい」
そう告げながら彼女をまた、強く抱き寄せる。焦燥と独占欲はもう限界を越えて、彼女の震える肩を押し包みその不安ごと奪ってしまおうとするほどに熱を孕んでいた。
彼女の瞳はまだ迷いを帯びていた。逃げるわけでもなく、頷くわけでもなく、ただ揺れている。その曖昧さに俺は限界を感じた。言葉で届かないのなら行動でしか示せない。胸の奥で軋む嫉妬と焦燥が一斉に決壊する。
「名前さん……ごめんなさい」
「……ん?」
「もう、限界です——」
その囁きは自分に向けた宣告でもあった。次の瞬間、彼女の唇に自分の唇を強く重ねた。触れるだけで終わるはずもなく、押し付けるように深く奪い呼吸をも支配する。彼女が小さく震えるのを感じたが離す気はなかった。むしろその震えさえ自分だけの証のように貪りたかった。
「んっ……は、……んん、」
唇の間から漏れる吐息が熱くて胸の奥を貫く。彼女の甘い酸素が喉を満たすたび、理性は溶け、ただ『もっと』という渇望に支配されていく。
「あなたは、誰にも渡さない——」
唇を離して、ゼロ距離のまま掠れた声で囁く。額を彼女の額に押し当てて、視線を重ねながら、逃げ場を塞ぐように腕を絡める。それは告白ではなく、誓いであり、鎖だった。彼女がまだ迷っていても関係ない。俺の独占欲はもう、後戻りできない場所まで来てしまっていた。
彼女の体がわずかに強張るのを感じた。戸惑い——それは、確かにあった。だが俺を拒む力ではなかった。震える吐息とともに唇が小さく開いた瞬間、俺の全身を駆け抜けた熱はもう抑えきれるものではなくなった。
迷っているくせに抗わない、その矛盾こそが、俺を狂わせる。彼女の唇をさらに深く押し分けて舌先を絡め、わざとくちゅくちゅと音を立てればわずかに震えた息が喉奥から洩れ、それが、俺の胸を打ち抜く。もっと聞きたいもっと感じたい、その欲望に呑まれて抱き寄せる腕に力を込める。
「抗わないんですね」
「……なに、に?」
「久しぶりに帰ってきて、会話もないままこんなこと、してることに」
唇を離さぬまま、囁くように零す。答えを求めているわけじゃない。彼女の沈黙はもう答えになっていた。彼女の指先が無意識に、俺の胸を掴む。その弱い力でさえ俺にとっては許しの証に思えて独占欲がさらに濃く燃え上がる。
「だったらもう——逃がさないですよ」
喉を焼くほどの熱情を吐息に変えて、再び唇を塞ぐ。今度はためらいも、境界も残さない。ただ、彼女の吐息を奪い自分の熱を押し込む。唇と唇が重なる音さえ、彼女が自分だけのものだと告げる合図に聞こえた。
戸惑いながらも抗えず受け入れるその存在が、俺を誰よりも幸福にし、そして、狂わせていた。
彼女の唇が、震えながらも俺を受け入れるのを感じた瞬間、長いあいだ自制の名の下に押し込めてきたものが一気に堰を切ったようにあふれ出した。もう焦らす余裕も距離を保つ理性も残ってはいない。ただこの腕の中で迷いながらも抗えずにいる彼女を自分だけのものにしたい。その一念が全身を貫いていた。抱き寄せる腕に力がこもる。彼女の細い肩が俺の胸に沈み、柔らかな温もりが体温を越えて心臓に直接流れ込むようで息が荒くなるのを止められなかった。
「ふ、ん……む、んっ……は、ぁ」
重ね合う唇の角度を変えるたびに彼女の吐息が漏れて、それが、俺をさらに煽り立てる。震える呼吸のひとつひとつが「まだ足りない」と告げているように思えて、重ねた口づけは深く、熱く、際限を失っていく。
「あぁ……もう、抑えられん——」
彼女の耳元に零れた言葉は、自分に対する敗北宣言でもあった。ヒーローとしての冷静さや計算高さなどこの瞬間どこにも存在しない。あるのはただひとりの男として彼女に触れたいというどうしようもない衝動だけ。
頬から首筋へと、唇を滑らせる。彼女が小さく身じろぎするたびに背にある羽根が勝手に広がりまるでこの世界から彼女を覆い隠そうとするかのように音もなく揺れた。
「全部……俺に預けてください」
掠れた声でそう囁きながら、彼女の身体を抱き締める。焦燥はもはや愛情と一体化し、欲望は、独占欲に飲み込まれて彼女を失うくらいなら理性などいらないと心の底で叫んでいた。抱き締めた腕の中で彼女がかすかに震え、そして、頬を伝う雫を俺は唇で拾った。塩の味が胸を締めつける。拒絶の涙ではないと直感した。むしろ迷いと恐れの果てにそれでも俺を受け入れようとする決意の涙だと思った。
彼女の瞳が潤んだまま、俺を映す。その眼差しに自分が、どれほど欲深いのかを突きつけられる。彼女を守りたいと口では言いながら本当は誰よりも独占し、誰の視線も届かない場所で自分だけに縋らせたい——そんな我欲で胸の奥が熱く爛れている。
「——大丈夫?……怖く、なか?」
掠れた声が震えた。問いかけながらも、答えを待つ余裕はなかった。彼女の指先が躊躇いながら俺の胸元をきゅっと掴み、その小さな力に心臓が破裂しそうなほど打ち震える。
「名前、さん——好きです、」
再び唇を重ねる。もっと深く、溺れるように。彼女が震えた吐息を漏らすたびその声を喉の奥で飲み込み、もっと欲しいと願う。もう、後戻りはできない。背中の剛翼が大きく広がり彼女の体をさらに包み込むように覆う。外界を遮断するその感触はまるで、ここから先は二人だけの世界だと宣言する鎧であり、巣であり——檻だった。
「……離しません、絶対に。」
耳元でそう囁き彼女の身体をゆっくりとベッドへと導く。柔らかなシーツが彼女を受け止め俺の影が、その上に落ちた。涙混じりに俺を見上げるその顔は、儚さと同時に抗えないほどの愛しさを孕んでいて、今にも身体を重ねずにはいられない衝動が、一人のヒーローを突き動かす。
唇を、指を、吐息を重ねながら俺たちはついに一線の手前で震える世界に身を投げ出していた。