華の金曜日——略して��花金�≠ニいうには吐く息があまりにも白く夜風が頬をかすめるたび胸の奥の温度までも奪われていく気がして私は思わず両手をポケットに沈めた。
 繁華街の片隅にある古びたビルの三階。半個室の居酒屋、その円卓の端に私は、少し遅れて身を滑り込ませた。ざわめきの熱と人の気配に包まれながら、椅子の硬さがようやく自分の輪郭を受け止めてくれるのを感じる。目の前のグラスには、水滴が幾筋も伝っていてそれが卓上の灯りを鈍く反射させながらまるで私がここにいる証のように静かに瞬いていた。私はその光を追いながら今の自分の居場所を、遅ればせながら確かめていた。

「名字さん遅〜い!もしかして残業ですか?」

 明るく投げられたその声に振り返り私は慌てて笑って見せたがその笑みが喉を越える頃には胸のどこかでまだ解けきらない名残の熱と、駅までの道すがら刺すように感じたあの冷気とが表情筋のどこかに影を落としたようで、鏡があればすぐにわかるくらい、たぶん、すこしだけ笑みの角度が遅れたままだった。
 言葉を返す前に、喉奥に残るその温度の正体を考えてしまった。けれど、答えは出ない。ただ、数時間前に鳴ったスマートフォンの着信履歴の下に記憶のように残る名前がひとつ。あのカタカナ四文字のヒーロー名が今でも私の胸の奥で、点滅しているようだった。

「——じゃあ、全員揃ったということで乾杯!」
「「かんぱ〜い!!」」

 しかし、それでも女子会という名の灯りは私を受け入れて、グラス同士が触れ合うカラン、という軽い音が夜の中央に落ちていった。

「——で、さ?所長って、どんな人だと思う?」

 緩い宴のなか、誰かがそう言い、私はその名にほんの少しだけ目を伏せる。背中に羽根を背負う彼の話題はたいてい空気の密度を変える。きっと彼の名が、風を連れてくるからだ。

「なにそれ、プライベートでのホークスの話?」
「それしかないでしょ!」
「絶対、緊張させないように冗談言うと思う!」
「うんうん、でも本番に入る前は、少しだけ黙りそう」
「あ〜、そっち系(・・・・)の話かぁ〜!」
「大丈夫?って一回、ちゃんと目を見てから進めそう♡」

 小さな笑いが起き私の指先はグラスをくるくる回す。テーブルの下で交差した自分の足の影が見える。私はとりあえず頷きながら皆の想像の輪郭に私だけが知っている温度を薄く塗り足すようにして、しかし、決して濃くはしないように、言葉を選ぶ。

「みんな、ほんとにホークスが大好きなんだね」
「え〜? 逆に福岡にいて嫌いな人いますぅ?」
「ほんとそれ!聞いたことないもん、ホークスが嫌いだって人。とくに女の人でね!」

 彼はきっと、触れる前に空気を整える。部屋の音量を下げるみたいに視線で合図し呼吸の速度をこちらに合わせ、最初に握るのは手首でも腰でもなく、手の甲。あるいは指と指のあいだで、そのやり方は優しいだけではなく、約束の仕方に少し似ていて、何かを始めるよりも前に同意を編む、そんなふうに。

「そういえば名字さん、やたらと所長と近いですよねぇ?距離感」
「え?」
「たしかに〜。絶対に所長の推しですよねー!」
「……推し?」
「そうそう、平成でいうところの��お気に♡�=v

 「実際どうだと思います?」というキラキラと期待の眼差しを向けて私の意見を待ち構えている彼女たちに小さくため息をつき、ここは、空気を読んで、私なりの意見を述べる。

「んー。ペースはね、合わせるタイプだと思う」

 私は言い、というか言いながら過去のある夜の置き去りにしてきた体温のきらめきが脈を打つみたいに指先を叩くので、ナプキンでそれを隠す。

「スキンシップは多いですよね〜、ぜったいに」
「ははっ。どうなんだろうね……多い、かもね。でも、雑ではないんじゃない?」
「えっ? たとえば?」

 問いが、こちらにやさしく落ちてくる。私は、ギリギリの境界線の上を歩くように気をつけて、言える言葉だけを選ぶ。

「たぶん……こっちが速いと追いかけてくるし、ためらうと、ちゃんと止まる——とかじゃ、ないかな……」

 彼は——髪を耳にかけるときに指の腹で余計な力を使わない。首筋にかかる産毛の流れを逆なでない。肩に口づける位置は服の縫い目に沿って、相手がくすぐったくならない高さを選ぶ。そして笑い方はあくまで軽く、けれど、軽さのうしろに逃げ場を用意しているからもしもこちらが不意に不安になっても、冗談の影でしばらく身を隠せるのだ。そんなふうに私は短く、けれど一文は長く説明ではなく空気の質感として心の中で、ひとり語る。

「キスは?」

 そんな私の心の中の独り言を知るよしもない、別の子が、そう問うた。

「意外とがっつかなそ〜。名字さんは、どう思います?」
「どうだろう。急がない……んじゃ、ない?」
「急がない……?」
「うん。たぶん、間を置く。触れてからひと拍、沈黙がある……と、思う」

 沈黙。グラスのなかの氷が鳴る。遠くの席で、誰かが、誕生日を祝っている声が聞こえてくる。笑い声と拍手が小さく波のように押し寄せてまた遠ざかっていく。その音の合間に私はまだ、彼の指先の記憶を追っていた。
 彼のやり方は、強さが主役ではない。けれど、主導権はある。舵を握っているのに波を立てない漕ぎ方で、こちらが迷えば少しだけ引いて待ち、こちらが望めば、小さく頷いて押し出す。そして、その合間にときどき耳元でほとんど独り言みたいな声で「いい?」とか「これは?どう?」と確かめる。それはたぶん職業的な慎重さというよりも相手の輪郭を丁寧に写し取っていく作業に近い。紙が破れないようにトレーシングペーパーを重ねていく手つき——そんな印象だと、私は言う。

「えー、まさかの優しいだけですかぁ?」
「ううん、違う。優しいのは前提で……その先に熱がある」
「熱……」
「火力の上げ方を知ってるけどスイッチはこっちに渡す——そんな感じ……かな、って」
「やだぁ〜、名字さんロマンチック〜♡」

 笑いが広がる。誰かが頬を赤くし、また誰かが「それ最高すぎ」と掌を合わせ誰かがマドラーで氷を押し沈める。私は、その輪の真んなかにいるふりをしながら、すこしだけ外側に立っている、あのヒーローの羽音の記憶に耳を澄ませて、風の匂いと汗の匂いの境界が、夏の夕立の前みたいに濃くなる瞬間、あの目の色が、冗談を引き出しにしまうときにだけ見せる深度を、言葉にしないで抱きしめる。

「……名前、呼ぶのかなぁ」
「絶対に呼ぶと思う!——きっと、笑ってから」
「え、じゃあ……愛は? ささやくのかな」
「あー。好きだ、とか……愛してる、とか?」
「言わないんじゃない?だってホークスだよ?」

 小さな沈黙。グラスの縁をなぞる指の音だけがさざ波のように、卓上を渡っていった。私以外の全員が、なぜか同時にうなずいた気がして思わず笑いが零れる。その笑いが合図のように、話題はいつの間にか、別の恋へと滑り出す。誰かの名前、映画の話、別れのタイミング——語られる物語の断片が夜気の中を漂いグラスの氷がとけるたびに一つずつ温度を変えていった。やがてデザートの皿が運ばれフォークの音が淡く重なった。甘さを分け合うように会話もほどけ請求書の隅には割り勘の数字が並ぶ。店のドアが開くたびに、夜風が足首をかすめ、信号が順に色を変えるたび通りの灯が静かに揺れていた。
 そんな終盤の街の呼吸に歩調を合わせて、私はマフラーを巻き直し誰かの肩を叩いて笑って見せ改札口で手を振る。そのとき胸の奥でひとつだけ鳴る音があって、それはきっと、名前を呼ばれた記憶の残響で、私はスマホを開き、送らないメッセージを打ちかけてはまた消して画面の明かりを閉じる。

 あの人のやり方は、たぶん、こうだ。最初に、��守る�≠�置く。次に��聴く�≠�置いて、最後に��あなたがいい�≠ニいう意味の長い沈黙を置く。そこまできて初めて笑う。そしてようやく触れるのだ。
 風が吹く——。夜風が少し冷たくなってきた。電車の音。夜はまだ優しく長い。繁華街の灯りが遠くに霞んで見える帰り道を私はひとり、肩に掛けた鞄の紐を直しながら歩いていた。飲み帰りの雑踏がひと段落したあとの街は、どこか取り残されたように静かで、それでも人の気配だけは薄く漂っていて、遠くの角を曲がった瞬間、そこに、彼がいた。

「………。」

 ホークス。夜の明かりに照らされたその姿は、見慣れているはずなのに息が少し止まるほど遠く感じた。
 きっと彼も疲れているのだろう。フライトジャケットの袖には、うっすらと砂埃がついていて、首筋をかすめる羽根の影が街灯の下でゆらゆらと揺れた。

「……あれ? 奇遇ですねー」

 その声を聞くだけで胸の奥にあったいくつもの夜が一斉に思い出になりかけては、また息を吹き返す。私はすこし笑って「任務の帰り?」と訊く。すると彼はいつものように片眉を上げ軽い調子で「ええ、やっと。今回はちょっとハードでした」と、肩を回す。その言葉の裏に何をどこまで含ませるのか私にはもうなんとなく分かってしまう。

「……あ、ごめんね。電話、でられなくて」
「いえ。こっちこそ突然、すみませんでした」

 しばらく沈黙が続いた。風がふたりのあいだを通り抜け、街のネオンが遠くで滲む。

「最近、全然会えなかったね」

 私がそう言うと、彼は小さく笑って、「そうですね。正直、めちゃくちゃ寂しかったです」と、ほんの冗談めかして言った。

「そもそも福岡(こっち)にいなかったんだっけ?」
「はい、関東を中心に飛び回ってました」
「あの部屋、一人じゃ広すぎるんだなって改めて思ったよ」
「でしょうねー。ほんと、すみませんでした」

 けれどその声のトーンはあまりに素直で、心のどこかが静かに揺れる。そのまま彼は立ち止まり少しだけ真面目な目でこちらを見る。

「このまま……愛の巣、帰ってもいいですか?」

 言葉が風に混じって耳に届くまでほんの一瞬の間があった。その一瞬が、世界を変えるほど長く感じられて、私はどう返せばいいのか分からなくなる。彼の顔にはいつもの軽やかさがあるけれど瞳の奥には、何か別のもの——たぶん、寂しさと安堵が混ざったような色が滲んでいた。

「今日は、ただ……、一緒にいたい気分で」

 そう言って笑う彼の声は、まるで羽音のように柔らかかった。
 私は頷いた。なぜ頷いたのか理由は言葉にするまでもない。けれど彼が誰か、人の温度に触れていたいと思ったのなら私はその居場所でいたいと思った。
 歩きながら、彼は時々こちらを見た。その横顔には、戦いを終えたヒーローではなく、ひとりの青年としての無防備さがあった。

「……疲れた顔、してるね」

 そう言うと、「いや。あなたに会えて、ちょっと元気出ました」と、まっすぐな声が返ってくる。彼の剛翼が少しだけ揺れて、街の光を受けて一瞬だけ金色に光った。その光の中で私はふと自分の心の輪郭が少しずつ解けていくような感覚に包まれる。
 
「じゃあ……行きましょうか」
「うん」

 信号が青に変わる。その言葉に夜がやわらかく頷いたような気がした。私達は並んで横断歩道を渡る。足音が重なって、消えて、また重なる。
 無事に到着してマンションの玄関の扉を閉めた瞬間、外の冷たい空気がふっと切れた。靴を脱ぎながら彼は少しだけ肩をすくめ「あ〜……やっと落ち着いたぁ」と、一日の終わりを告げるための小さなため息のように呟いた。その声には任務の疲れの中に少年みたいな若さも混じっていて私は思わず微笑んでしまう。

「お茶、淹れるね」
「いえ、大丈夫です。座っててください」

 そう言って彼は私より先にキッチンへ向かう。慣れた手つきでマグカップを取り出し電気ケトルのスイッチを押す。羽音のように軽い動作。だが、その背中がどこか少し、寂しげにも見えた。

「ねえ、ホークス」
「はい?」
「なんかほんと……すごく、久しぶりだね」

 彼はこちらをちらっと見て、すこしだけ笑ってみせた。

「そうですね。会ってない間に季節がまたひとつ変わってました」

 大袈裟に言いながら湯気の立つマグを差し出してくれる。その指先が私の手に少しだけ触れる。たったそれだけのことで部屋の空気がやわらかく揺れた。ソファに並んで座ると彼はカップを片手に持ったまま背中を軽く沈め、目を細める。

「……やっぱり、こういう時間がいちばん、落ち着きますねぇ」
「ヒーロー活動してるときの方があなたらしいと思ってたけど?」 
「いやぁー、それは仕事モードです。こうやって、黙って座ってられる相手がいるって贅沢ですよ」

 そう言って彼は、私の肩にもたれかかる。軽く頭を預けてくるその仕草は子どものようでもあり甘える雛鳥のようでもあった。羽根がすこしだけ広がって、背中からやわらかい風の匂いがした。私は少し戸惑いながらも、そっとその羽根に指を触れる。細い繊維のような羽毛がかすかに震えて彼はくすぐったそうに笑った。

「ははっ……すみません。つい、癖で」
「大丈夫だよ。甘えたくなるの?」
「たぶん、あなたの前だと、気が緩むんです」

 声が小さくなる。それは自分でも知らない心の底を覗き込んでいるような声音で、私はそのまま何も言えず、ただ彼の肩越しに夜を見た。
 窓の外では風が走り、カーテンがふわりと揺れる。その影の中で彼の横顔が優しく光っていた。疲れを隠すでもなく強がるでもなく、ただ静かにそこに在るというだけで、この部屋の空気が満たされていく。

「ねぇ」
「はい」
「今日は、朝までいれるの?」

 尋ねると彼は一瞬だけ目を見開いて、それから少しだけ情けない顔で笑う。

「……そのつもりで、来ちゃってました」

 その照れたような笑みが、ひどく可笑しくて、愛おしかった。
 私は、軽くため息をつきながら「わかった」とだけ言い、立ち上がって、ブランケットを持ってくる。彼はそのあいだも、ソファの背にもたれたまま私の動きを目で追っていた。

「ほんとに……こうしてるだけで癒されるんですよね」

 彼の声はもう少し低くなって夢の入り口で呟くような響きをしていた。私はブランケットをそっと彼の肩にかけそのまま隣に戻る。彼は一度目を閉じ深く息を吐く。呼吸のたびに剛翼がわずかに動いて、やさしい風が私の頬を撫でた。
 その夜は何も起こらなかった。けれど、何かが確かに満たされた時間だった。彼が眠りに落ちる直前、小さく私の名前を呼んだ。その声は、ほんのりと笑いを含んでいて私は静かに返事をする。

「……おかえり。」

 その言葉に、彼はかすかに頷いたようだった。夜が深まり風がやんで羽音が静かに沈む。それは戦いのない夜にしか訪れないひとつの奇跡のようだった。


 *


 朝の光がカーテンの隙間から、静かにこぼれている。湯気の立つカップの向こう側で、彼はまだぼんやりとした目をしていて髪の先にうっすらと癖が残ったままそれすら整えずに、ソファに腰を下ろしていた。テーブルには、昨夜のまま片付けきれなかったカップが二つ。片方にはまだ温もりが少しだけ残っているような気がしてその温度が夜の続きがまだここにあることを、証明しているようだった。

「……眠れた?」

 そう問いかけると彼は小さく笑い頬をかすかに指で掻いた。

「ええ。ぐっすり。たぶん、半年ぶんくらいは」

 笑っていたはずなのに、すぐその表情が静かに沈む。まるで何かを言おうとしてそれを喉の奥で飲み込むみたいに、視線がゆっくりと下を向く。私は彼の隣でコーヒーを一口だけ飲み、彼が口を開くまで待った。

「俺と付き合ってるの、しんどくないです?」

 その言葉は、あまりに唐突で、けれどどこか、必然のようでもあった。湯気の向こうで彼の目がゆらいでいる。少し疲れて少し怯えて、それでも笑おうとしている。そんな、表情だった。
 しんどい、という言葉がこんなにも優しい音をして届くことがあるのかと私は思った。彼の声は問いというよりも祈りに近かった。自分を責めるような、そして許してほしいような、そんな色を帯びていた。

「どうしたの、急に。なんで、そんなこと……」
「だって俺、最近はほとんど家にいないじゃないですか。予定は急に変わるし、夜も、朝もない」
「……」
「誰かの命と自分の時間を天秤にかけるみたいな生活で……普通の恋人として、ちゃんと隣にいられてるのか、自分でも分からなくなるんです」

 彼はそう言って笑う。けれどその笑みはほんの少し震えていて笑うたびに何かを失っていくような儚さを孕んでいた。私はカップを目の前のテーブルに置き、隣に座る彼の手の甲に指を重ねた。熱も冷たさもなく、ただ静かな皮膚の温度だけがそこにあった。

「ホークス」

 名前を呼ぶと、彼はすぐにこちらを見た。その目の奥には、戦場の風がまだ残っていて、それがふっとほどけていくのを感じる。

「私はね、あなたが帰ってきてくれるだけで充分なの」
「……」
「無理に普通の恋人になんて、ならなくていい」
「名前さん……」
「あなたが空の上でどんな顔をしていても帰ってきたときの声があればそれだけでちゃんとやっていける」

 そう言い切ると、彼は何も言わず目を細めた。しばらくして小さく息を吐き、手のひらで自分の口元を隠すように覆う。

「……ずるいですよ、ほんと。そういうの」

 その声は涙のかわりに笑いを含んでいた。私は何も返さずただその横顔を見つめる。彼はやがて手を下ろし、ゆっくりとこちらに顔を向けた。

「俺、あなたのそういうところにずっと救われてます」

 それから彼は、子どものように軽く頭を預けてきた。肩に触れる重みが思っていたよりもずっと柔らかくて、私はそっと髪を撫でた。風の匂いが近くで混ざり、彼の羽根がわずかに動いた。

「あの」
「うん」
「俺、たぶん、もう少し頑張れそうです」

 その言葉は約束のようでもあり、独り言のようでもあった。朝の光が少し強くなって、白いカーテンが、ふわりと膨らむ。羽根の影が壁に映り、それが二人の輪郭をひとつに溶かした。私たちはそんな影の中で、しばらく何も言わずに、そこに座っていた。そして、彼の手の温度がいつまでも離れずに残っていたのだった。


 *


 洗濯機の回る音が静けさの中で一定のリズムを刻んでいた。
 彼女は脱衣所に行き「他に洗うものない?」と顔を覗かせる。俺はソファに腰を下ろし何気なく頷いた。そのときテーブルの上で短くピッという電子音が鳴る。彼女のスマホだ。画面が一瞬だけ光を帯び、その光が反射して心臓の鼓動みたいに明滅する。視線を逸らせばよかった。けれども、ほんの一瞬、そこに浮かんだ文字が、目に入ってしまった。


 『今度は二人でゆっくり飲みましょうね!』


 名前の部分には、ひらがなの短い呼び名。男女どちらともつかないが、文面のやわらかさが妙に引っかかる。そして何より、その言葉の『今度は二人で』の響きが、胸の奥で小さく爆ぜた。
 俺は息を止めるようにして画面を見つめたまま瞬きを忘れた。ほんの一瞬の事だったのに時間が引き延ばされる。呼吸の仕方を忘れたように体が硬直した。音もなく、画面が消える。その瞬間、まるで誰かに見られたような罪悪感が押し寄せてきて慌てて視線を逸らした。スマホの光が消えたあとも、その言葉だけが瞼の裏に残る。

「………。」

 二人で……ゆっくり。ただの誘い。そう思えば済むはずだった。彼女はセンターの子たちからも好かれていて、今では仕事以外でも、交友関係はそれなりに広い。それをわかっているのに、どうして胸の奥がこんなにもざわつくのか。
 羽根の先が無意識に震える。それを抑えようと背もたれに深く沈み、顔を覆った。笑えばいい。大人なんだから。彼女を信じるのが一番だ。でも心が言うことをきかない。
 洗濯機の水音が止む。脱衣所の扉の向こうで、ハンガーがかちゃりと鳴る。その生活音のひとつ一つがやけに遠くに聞こえ、指の隙間から天井を見上げて、静かに息を吐いた。彼女が戻ってくる足音。咄嗟に、何事もなかったように姿勢を直す。彼女は「洗濯、終わったよ!」と微笑んだ。その笑顔がたまらなく優しくて、愛おしくて、だからこそ、余計に苦しかった。

「……ホークス? どうしたの?」
「えっ?……あ、いや。なんでも」

 嘘が口のなかで転がる。彼女は気づかず、いつも通り俺の隣に座ってリモコンでテレビをつける。距離は近いのに、心だけがほんの少し遠ざかった気がした。頭の中にはまだあの短いメッセージが残っていた。文字のひとつひとつが、焼き付いて消えない。
 ��今度は二人でゆっくり�≠スった、それだけの言葉が、静かに胸を締めつける。

「スマホ、鳴ってましたよ」
「え、うそ。ああ……このあいだ飲んだ子かも」
「ふうん……」

 自然と笑おうとしたが声にならなかった。その沈黙の奥で、背中の剛翼が小さく震えた。


 昼下がり。街の風は少し乾いていて木々の影が細く地面にのびていた。私が、夕食の買い出しに行くというと、彼もなぜか着いてきた。カフェのテラス席。テーブルの上には、彼が頼んだアイスコーヒーと私の方のカプチーノ。薄い雲を透かして落ちる陽光がカップの縁を淡く染めていた。そのきらめきの向こうにヒーローが座っている。

「……このあいだ、女子会してたんですよね?」

 ストローを軽くかき混ぜながら、彼は何気ない声で言った。その何気なさがたまらなく怖い時がある。彼はいつも軽い調子で核心を突いてくる。羽根で風を読めるように空気の流れの微妙な揺らぎを見逃さない。私は一瞬、笑ってごまかそうとしたが、喉の奥では息がつかえた。

「うん、まあ……ひさしぶりにね。センターの、みんなで集まって」
「へぇ。楽しそう」
「うん、楽しかったよ」

 答えながら自分の声がほんの少し高くなるのを感じた。彼は、それを聞き逃さない。

「どんな話、したんです?」

 そう言って、視線がまっすぐにこちらに向く。ああ、やっぱり勘づいている。私は、スプーンを持ち上げカプチーノの泡を無意味にすくいながら「いろいろだよ、恋バナとか仕事の愚痴とか」と軽く流した。けれど彼はまだ笑っていなかった。ただ薄く唇を閉じてグラスの水滴を指でなぞっていた。氷がひとつ、音を立てて沈む。

「恋バナ、ねぇ……」
「……うん」
「俺の話とか、出ました?」

 喉の奥で心臓が鳴った気がした。視線を下げると光の反射がテーブルに広がり、二人の影が少しだけ重なっていた。私はその影を見つめながら、できるだけ自然に言葉を探した。

「さあ……どうだったかな」

 彼は笑った。けれどその笑いはほんのわずかに寂しげだった。風が吹き彼の髪を揺らす。羽根の先が光を受けて瞬間だけ金色に輝く。その美しさが痛いほどで私は余計に目を逸らせなくなった。

「そっか。じゃあ……俺の勘違いかもしれませんねぇ」

 そう言って彼は軽く頭を掻く。でもその言葉の裏にほんの少しだけ、苦味のようなものが滲んでいた気がした。

「別に俺の事なんか話しても面白くないですしね」
「……そんなこと、ないよ」

 気づいたら反射的に否定していた。彼は驚いたように目を上げる。そしてほんの一瞬だけ黙ってそれから、小さく微笑んだ。

「……なら、よかった」

 その笑みは、風のように軽いのに、どこか胸を締めつける。彼はコップの中の氷をストローではなく、今度は指先で押して「俺たぶん、やきもち焼きなんですよねー」と、呟いた。冗談のように聞こえるその言葉の裏にほんの僅かに滲む本音。

「……そういう顔、しないでください?」
「え?」
「今の顔、ずるいです。なにも言わないで、かわすときの」

 私が笑ってごまかそうとすると椅子に気怠げに背をあずけ、彼は肩をすくめた。

「まぁ、いいです。次は、俺も混ぜてください。
女子会」

 そう言って、ようやく笑う。でも、その笑顔の奥には、たぶん、言葉にならないものがあった。
 彼が本当に知りたかったのは何を話したかじゃなく、誰を思い出していたのか。私は答えなかった。けれど、彼の視線の奥に確かに映っていた。あの夜のことが。そして、その沈黙こそが一番、正直な答えだった。

 彼が少し変わったのはそれから数日後のこと。いつもなら夜の見回りを終えた後、短いメッセージをくれるのに最近は『今日も遅くなるかも』とだけ送って、それきり音沙汰がない日が続いた。任務が立て込んでいるんだろう。そう思えばそれまでだ。でも彼の言葉の端にいつもより少しだけ硬さがあった。
 その夜、私はひとりで窓辺に座り、カーテンの隙間から夜空を眺めた。遠くで鳥の影がひとつ、ゆるやかに弧を描いていく。あの背中のかたちを知っている。けれど、今は手を振ることすらできない。
 風が冷たい。スマホを握ったまま、何度も彼の名前を開いては閉じた。そんな中でも無意識下で彼が私から少しだけ遠ざかっていることだけは、確かに感じ取っていた。


 俺はその日、夜の高層ビルの屋上にいた。風を切りながら街を見下ろす瞳はいつもの軽やかさを確実に失っていた。
 無線のノイズ、遠くで鳴るサイレン、そして——自分の胸の奥で続くもう一つのざわめき。それがどうにも消えなかった。あのメッセージを送ってきた相手は本当に��このあいだ飲んだ子�≠ネのだろうか。いや、聞けばよかっただけだ、素直に。そう自分に言い聞かせても、答えはどこにもなかった。あの短いメッセージを見た瞬間、胸の奥に走った痛みがまだ残っている。嫉妬という単語を口にするのもばからしい。それでもどうしようもなく、胸が重くなる。

 任務を終えた帰り道。通りの街灯に照らされながら俺はふとスマホを取り出した。メッセージの履歴を開く。そこには彼女からの短い『おつかれさま』というスタンプがひとつ。いつもならそれに心が和らぐのに今はなぜか、どこか遠い。自分以外の誰かにも、同じトーンで返しているのかもしれない。そう思ってしまう自分がどうしようもなく情けなくて嫌だった。

「……俺、なんしよっとか」

 誰もいない夜の街に零れた呟きは、灯りの滲む舗道の上で静かに溶けていった。


 *


 それからの彼はまた少しずつ忙しいヒーローへ戻っていった。『帰れると思う』という短い連絡が入っても任務を理由に、セーフハウス等で夜を明かす日が増えた。電話をかけても『今ちょっと立て込んでて』と、やさしい声で断られる。その声音に責める響きはなく、むしろ、いつも通りの穏やかさを保っていた。けれどわかる。そのやさしさの下に何かが静かに沈んでいることを。

 夜、キッチンに残されたお揃いのマグカップを眺める。ふたりで笑い合った朝の光景が、ガラス越しの記憶のように遠ざかっていく。きっと連絡を控えているのは彼なりの思いやりなのだろう。けれどそれは同時に私たちをそっと切り離す種類の優しさでもあった。信じたいと疑いたくない、そのあいだで、彼は立ち止まっている気がした。

 そして数日後、ようやく会えた。任務を終えてこの愛の巣に帰宅した彼は、いつもより少しだけ疲れた顔をしていて、私は思い切って尋ねた。

「……なんかさぁ。私のこと、避けてない?」

 彼は一瞬だけ驚き、すぐにヘラっと笑って首を振った。

「避けてませんよ。ほんとちょっと、忙しくて」
「……」
「……あと——考えごと、してただけです」
「どんな?」
「んー……どうしたら、もっと上手くやっていけるのかなって」

 そう言って、視線を外した。その言葉が、何を指すのか。たぶん彼自身もまだ言葉にできないのだろう。沈黙。夜風が木々を揺らしている。彼の横顔はその風に溶けるように儚く見えた。

 この人はきっと、私を疑うことすら、優しさで包んでしまうんだ。そう思うと胸が少し痛んだ。それでも私はその距離を責めなかった。彼が信じたい自分と、傷つきたくない心のあいだで揺れていることを、知っていたから。
 愛している。でもその言葉が届くにはもう少しだけ、時間が必要だった。


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