その朝、福岡の街はゆっくりと雲が流れ静かに晴れていた。カーテンの隙間からこぼれる光が、洗いたての白いシーツを照らし淡い風がレースを揺らすたびに部屋の空気が少しだけ甘く動いた。私は寝ぼけ眼のままベッドの中で伸びをして隣にいる赤い羽根を持つ彼の背中に手を伸ばす。
ホークス——いや、今ここにいるのはヒーローでもなんでもない私と同じ普通の人間、鷹見啓悟くんだ。彼を個人名で呼ぶときは、なんだかこの部屋の空気が少しだけ柔らかくなる気がする。
「名前さん……朝ですよー」
「うーん……あとちょっと。もう五分……だけ」
彼の個性である剛翼の赤い羽根。その先が私の剥き出しになっている腕にそっと触れてなんともくすぐったい。
「五分って言っていつも十五分になるっちゃん」
「じゃあ——十五分、で……」
「も〜ぅ、俺が甘やかすと思っとー?……まぁ、甘やかしますけどぉ」
布団の中で笑い声がこもる。キッチンからは、淹れたてのコーヒーの香りが、ゆるやかに漂っていた。私は、その匂いに誘われるように渋々身を起こす。もそもそとベッドを抜け出して目をこすりながら床の冷たさを踏みしめて歩けば、背後から温もりが追いかけてきてそっと私の腰に絡まった。しかしそんなことは当たり前に気にすることもなく、私はキッチンに立った。昨日の夜、私が淹れた豆を彼が勝手に挽き直したらしく粉の粒がいつもより細かい。
「また細かくしすぎたでしょ」
「そのほうが香り出ますから」
「でも、苦いの嫌いなくせに」
「あなたが甘いから、ちょうどいい」
「……ふふ、なにそれ」
言葉に照れて肩をすくめると彼がまた背後から私を抱き寄せた。肩越しにかかる息が優しくて、そして、少しだけ熱かった。
その日、私は昼からのシフトでセンターへ行く予定で彼は午後のパトロールまでしばらく休み。時間が重なる午前のひとときはまるでこの世界がふたりのために用意された特別な余白のようで、私はこの静かな空間を、心の底から愛していた。
「そういえば、今度はいつ休み取れるの?」
「どうでしょうね。ヒーロービルボードチャート発表後は忙しいですよ」
「じゃあさ、落ち着いたらどこか行きたいな〜。水族館とか、駅前のカフェとか」
「お、いいですねぇ。魚たちの水槽に俺の剛翼を泳がせちゃったりして?」
「やめてください? 子どもたちが泣きます」
「そうです?まあ、じゃあカフェでは紅茶に砂糖2つ入れちゃいましょー!」
「��じゃあ�≠フ使い方あってる?それ〜」
そんな身にならないような、くだらない会話を交わして、ふたりして笑った。小さなテーブルの上には、昨夜のまま置かれた果物のバスケット。窓辺には、彼が散歩の途中で拾ってきた、正体のわからない羽根が一枚。何でもない生活。それがこんなにも尊いものだなんて。その瞬間、改めて私は、彼との日々の幸せを噛み締めていた。
彼の横顔を見ながらふと思う。この人がいればどんな未来も怖くない。そんな事を考えてじっと彼を見つめていると、彼は首を傾げて、いつものように、少しだけ照れた笑みを浮かべた。
「ん? なんです?」
「……ん?なんでも」
「嘘ですね。今、俺の顔見てたでしょ」
「見てません」
「見てましたねー!俺、嘘つきは嫌いですよ?」
「私だって、嘘つきは大嫌いですー」
軽い口調と、やわらかな笑い。大袈裟でもなんでもなく、それだけで世界が満たされていた。
明日も明後日もこの人が笑っていられる世界であってほしい。明日もこの人の笑顔に会うために生きている。心の傷も酷い言葉も全て受け止めてあげる。手に入れたいものは何もない。この人のためなら強くなれる。きっと出会ったあの日から他にほしいものなんて、もうひとつもなかった。
「じゃあ俺の顔見てないっていうならその証拠に今すぐキスしてください」
「もう!何かそれ、ホークスだけが得してる!」
「あー、バレました?ちぇっ」
「ちぇっ、てなに、ちぇって」
「ちぇっちぇっちぇーですよ。もう、プンっ」
笑い声が絶え間なくこだまする。あの日の光を私は今でもはっきりと覚えている。彼が背伸びをしてベランダに出て、外の風を胸いっぱいに吸い込んだとき。その背中がいつもよりも少しだけ、遠くに見えた。けれどそれが��世界の終わり�≠�告げる予兆だったなんてこのときは夢にも思っていなかった。
*
秋深まる十一月。夜の福岡は、潮の匂いと鉄の匂いが混じり合っている。港に近いこの街の風はいつも湿っていて、けれど、どこか、遠くの空気を運んでくるような優しさがある。そんな風の吹き込む広いベランダで私は彼とお揃いのマグカップを手にしたまま、今日も彼の帰りを待っていた。時計の針はとうに日付を跨ぎ、テレビでは今日も飽きることなく下半期のヒーロービルボードチャートJPのニュースが流れていた。
下半期のTOP10。ランキング第二位。彼のヒーロー名があの皮肉めいた笑顔と共に映し出された瞬間、胸の奥にじんとした熱が灯るのを感じた。誇らしさと言葉にならない痛みが同時に滲み出していくようで、私は思わずマグカップを強く握りしめた。
彼が帰ってきたのは、それから少し経ったころだった。ランキングが大々的に発表されたあと、彼は下半期第一位に輝いたエンデヴァーとチームアップを組み、その忙しさもあって、この愛の巣にはしばらく帰らずにセーフハウス等で寝泊まりする日々が続いていた。連絡も滞っていたため、彼の状況は正直、把握できていなかった。
その夜、玄関のドアが、静かに開く音がした。次いで羽根が擦れるような、あの微かな音が耳に届いた。
「あれ……ホークス? 帰ってきたの?」
ベランダからそう声をかけると彼は何も言わず靴を脱ぎ、フライトジャケットもやや乱暴に脱ぎ捨ててまるでここに私がいないかのように淡々と寝室の奥へと進んでいった。その背中にはいつもの柔らかさはなく見慣れたはずの剛翼のあの羽根さえ、どこか重たげに沈んで見えた気がした。
どうしたのだろうか。なにかが違う。いつもの彼じゃない気がする。私はベランダから出て彼の背中を追いかけるようにして寝室へと向かった。
「……ホークス、おかえりなさい。」
「……」
「なにか、あった?……どうしたの?」
問いかけた声が、思わず震えた。それは、彼が無意識のうちに放っているあの圧のような空気のせいだったのかもしれない。彼は、一瞬だけ振り返ったが、その瞳はまるで、見知らぬ人間を見るように冷たかった。そして、ほんの小さく、薄く笑った。
「なにがですか」
その言葉に、私は一歩も動けなくなった。声の温度があまりにも低かったからだ。かつて笑顔で振り返って「ただいまぁ」と言ったときのようなはたまた夜更けにふたりでカップ麺を分け合って笑ったときのあの無邪気な口調とはまるで別人のようだった。
「……最近、忙しいんでしょ?疲れてるんだね」
「疲れてるのはあなたの方じゃないんですか?」
「え?」
「俺といると、面倒なこと多いでしょうし」
言葉が刃のように飛んできて、心臓の奥深くに刺さった。なぜ突然そんなことを言うのかわからなかった。けれど、わかってしまいそうでもあった。彼の職業はヒーローだ。その冷たい響きが、いつもどこかで私の背後に影を落としていたのを思い出した。彼はいつも「あなたを一人になんかしませんよ」と「俺が守りますから」と、笑っていたけれど、今の彼はその笑顔のすべてをどこか遠くへ置いてきたように見えた。もしかすると、何か重大な任務でも入ったのだろうか。そう問いかけたい衝動を私は、喉の奥で必死に押し殺す。
聞いてはいけない。私たちは、いつもそうやってバランスを保ってきたのだから。
長い沈黙のあと彼はポケットから小さな羽根を一枚取り出し、枕元のテーブルの上にそっと置いた。窓から射し込む街灯の光を受けてその羽根がゆるやかに揺れる。ただそれだけの仕草なのに、胸の奥が少しだけざわついた。だが、その理由はまだ私にもわからない。
「名前さん。話があります」
その声の調子で、すぐに悟った。こういう勘は残念ながら、よく当たるほうだ。これはいつもの世間話でも、仕事の話でもない。
「なに……?」
ゆっくりと息を整えてから私は言葉を返した。手の中にはまだ、お揃いのマグカップが握られたままで。彼は短く息を吐いて、目を逸らしたまま言った。
「……もう、この関係を終わりにしたい」
言葉の意味を理解するよりも先に、心臓が一瞬止まったような気がした。空気が途端に重くなり時計の針の音だけが室内に響く。私はすぐ何かを言おうとしたが喉が痛むほどに声が出なかった。そんな私を置き去りにして、彼は続ける。
「ずっと考えてた。俺たちは、もう、違う方向を見てる気がするんです」
「……違う、方向?」
「俺たちは、生きてる世界が違いすぎる」
「……」
「俺はヒーローで、あなたは普通の人で。いつか、こうなるとは思ってたんですけどね」
「……」
「ようやく、目が覚めました」
今だけだよ……今だけ雨が降って悲しいだけ。今だけ雨のせいで指先が、かじかんでいるだけ。今だけ夜になって真っ暗になっただけ。もうじき空は晴れて雨も止んで暖かさを取り戻して、すぐにまた、別の素敵な朝が明けるんだ。
なんてことはない。本当に今だけなんだから。だからお願い……その先を、言わないで——。
「別れましょう、今日限りで。」
今日は、エイプリルフールだったっけ。今私は何を告白されているんだろう。そんな幼稚な逃げ道のような低能な考えがぐるぐると頭の中を駆け巡った。——違う。そんなの、違う。本当はそう叫びたかった。けれど、彼の目に宿る光は、もう私など見てはいなかった。
「え、……なに。わかんない」
「もう一回言いましょうか?」
「待って、うそ……だよね?」
「嘘は嫌いなんで」
それでも「どういうこと?」と問うた私の声はひどく掠れていた。彼は、なおも視線を合わせぬまま、静かに続ける。
「どういうことって……言ったとおりですよ」
「え、ほんと、なに。なにか、あったの……?」
「ないですよ。ただ、終わりにしたいだけです」
彼は静かに言い切った。まるでそれが、何かの任務の報告でもあるかのように。
部屋の片隅では、夜風がカーテンを揺らした。私は息をすることすら忘れてしまっていた。彼の表情には、出会った頃の笑みが欠片も残っていなかった。彼はそのままクローゼットを乱暴に開け放ち私服やら私物やらを淡々とキャリーケースに詰め込み始める。その仕草には一切の迷いがなくまるで今夜という夜が、ずっと前から決められていた脚本の一節であるかのようにして。
「……残りの荷物は、また今度取りに来ます」
「……」
「あなたが、いないときにでも」
荷物を詰め込む音だけが、室内に響いている。気がつけば私は、その背中に向かって思わず声を放っていた。
「どう、して……?」
「……」
「ねぇ、急にどうしたの。なにが、あったの?」
彼はしばらく、黙っていた。服を畳む手の動きだけが、淡々と続く。やがて、わざと軽く笑ったように、小さく息を吐いた。
「別に。特別な理由なんてないですよー?まあ、これからさらに忙しくなりそうなんでね」
「……」
「あと、まあ……飽きたんですかねぇ、俺が」
「やめて。そんなこと、言わないで……」
「……」
「嘘つき。そんなこと、思ってないでしょ……」
喉の奥が焼けるように痛む。声を出すたび胸の奥で軋む音がした。動悸は速く、呼吸はどんどん浅くなる。——ああ、過換気を起こしそうだ。
「何か、隠してるでしょ。私、わかるよ。仕事のこと? なに……ほんと、どうしたの?」
彼の手が一瞬だけ不意に止まる。その刹那を、私は見逃さなかった。
「……ほんと、勘がいいですよね」
そう言って、彼は再び笑った。けれどそれは、どこにも届かない笑い方だった。
「でもそういうの詮索しないでください。俺たちもともと、そういう関係じゃないでしょう」
心臓が、またひとつ、ひどい音を立てた。脈が早くなる。
「そういう、関係じゃない?なに……またゲームだったとでも、言うつもり?」
「……」
「じゃあ今までの全部は何だったの。あの夜も、朝も、ずっと離れないって言ったのも全部……」
「……忘れたほうが、いいですよ」
彼の声は冷たかった。けれどその奥でかすかに震えていた気がした。いや、そう思いたかった。
「ホークス、お願い。言って。理由を、ちゃんと聞かせてよ」
「理由なんか言ったところで変わらないですよ」
「変わるよ、私にとっては」
ようやく彼は私の方へ顔を向けた。けれどその瞳はどこか遠くを見ていて私を通り抜けてしまうようだった。
「……あなたが思ってるほど、俺は、いい人じゃない」
「……」
「ヒーローって肩書きだけで立派な人間に見えるかもしれないけど、実際は……汚いこともする。嘘もつく」
「……」
「だから、そういう俺と一緒にいても、あなたが傷つくだけなんです。幸せには、なれない……」
言葉を失う私の前で、彼は手慣れた様子でキャリーケースを閉じて取っ手の部分をつかむ。その姿がひどく遠く他人のように見えた。私は震える声で問う。
「それでも……それでも、好きだって言ったじゃない」
「あれは——あのときの気持ちです」
「……」
「今ん気持ちじゃ、なか」
短く苦しげに、それでも、決して揺れ動かない声だった。しん、と音が止まった気がした。空気さえも凍りつくような沈黙。
「あら、泣いちゃいます? あーあ、これだから女の人は」
「……、」
「見苦しいっすね。泣いたって人の心が動くわけでもなかとに」
彼の瞳にほんの一瞬だけ翳りが射した。それを見て私はもう何も言えなかった。その言葉が落ちた瞬間、空気が固まり、息をすることさえ、どうしていいか、わからなくなった。
「……どう、して」
ようやく声が出たもののやはり投げかけられる言葉といえば、その四文字だけだった。けれども彼は一切、視線を上げようともしない。
「理由は今さら話しても意味がないと思います」
淡々とした声。感情を削ぎ落としたような言葉だった。私は、彼の前でただ立ち尽くすしかなかった。しばらくまた沈黙が流れた。彼はゆっくり息を吐いて、少しだけ目を伏せたままで呟いた。
「マンションの支払いは俺になってるんで、とりあえずこのまま住んでてもらっていいですよ」
その言葉があまりにも事務的で胸の奥がひどく痛んだ。
「……そんなの、あなたに悪い」
「悪くないですよ。俺が言い出したことなんで」
キャリーケースに視線を落としたままで、彼は淡々と続ける。
「もしずっといるって事ならさっさと買っちゃいますし。差し上げますよ、このマンション」
「……え?」
「ローンのこととかは気にしなくていいです。俺がどうにかしますんで」
彼の声は、静かだった。優しさにも聞こえる。けれどそれはあまりにも、残酷な優しさだった。
「もしまた東京に戻りたいってんならセンターに口ききますよ。住む場所も提供させてください」
その言葉に、息を呑んだ。いまさらになって、怒りがじわじわと腹の底から湧き上がってくる。マグカップを持つ手に知らず内に力がこもった。
「……なんで、そんなこと、淡々と……」
「急に別れを切り出したのは俺なんで、それくらいはせんとね。一応、ヒーローやけん」
そう言って、彼は薄く笑った。この流れでヒーローだからなんて、安々と口にしてほしくなかった。けれど、たぶん彼自身がいちばんそれを自分に言い聞かせているのだと思った。だから私は、何も言えずに口を噤んだ。その笑顔が痛かった。あたかも、自分の感情を処理するためだけに貼りつけた仮面のようで。
「そういう、問題じゃない……」
声が震えた。その震えが自分の中の、まだ彼を愛しているという事実をいちばん残酷なかたちで突きつけてくる。
「私、そんなこと、望んでない」
「知ってます」
短く答えて彼は立ち上がった。その動作ひとつひとつが、ひどく丁寧で、もう二度とこの部屋に戻らない人の動きに見えた。いや、すでにもう、この家の住人ですらないようにさえ思えた。
「……あなたって、ほんとずるいヒーローだね」
「あー、そうかもしれませんね」
「そんなふうに優しくされるほうが、よっぽど、つらい」
「……」
「ねえ、ホークス。ほんと、なにがあったの?」
言葉を投げても彼は何も返さなかった。玄関に向かう背中。私は思わずその手を掴みそうになって、止めた。もし今、触れてしまったら何もかも壊れてしまう気がしたから。
「……じゃあ、これで。もう二度と、会うこともないと思うんで」
彼が寝室の入り口で私に背を向けたまま、ドアノブに手をかける。
「お仕事、頑張ってくださいね」
それだけ言って振り返らなかった。彼はドアを閉めることはなく最後に一度だけ小さく頭を下げ部屋を出ていく。その瞬間、部屋の明かりが小さく揺れ、風がカーテンをまた鳴らした。まるで、この空間そのものが彼を引き止めようとしているかのように——。
私はしばらく、その背中を見つめていた。広い肩、少し乱れた羽根の輪郭。そのどれもが、私の知っている彼のかたちで、なのに今はなにか別の誰かに見えた。喉の奥が熱くなって、でも泣いてしまえば彼を追い詰める気がしてどうにか部屋を出て、声だけを絞り出した。
「……ねぇ、そんな顔、しないでよ。」
しかし、自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「突き放したいならちゃんと
「……」
「無理に笑おうとしなくてもいい。あなたが何か大変なことを抱えてるのはわかるから。話したくないなら、話さなくてもいい。ただ——」
そこで一度、呼吸を整える。心臓の鼓動が耳の奥で鳴っていた。
「誰にも言えないことがあるときってほんとうに孤独だよね。だから……せめて私だけはあなたの味方でいたかった」
玄関に立つ彼の肩がわずかに動いた。振り返るほどではない。それでも確かに言葉が彼の背中に届いたのだとわかった。
「ごめんね。私、何もしてあげられなかったね」
小さく、笑ってみせる。頬のあたりになにか、涙ではない、温かいものが滲んだ。
「でも、あなたがちゃんとご飯食べて、眠って、無事でいてくれたら、それでいいの」
「……」
「立派なヒーローでなくたっていい。ただ——、あなたが生きててくれたら、それで十分なの」
背中の向こうで、彼は静かに息を吸った。その呼吸の音だけが夜の部屋に滲むように広がった。
しばらく沈黙が続いた。もうこれ以上は言葉が届かない。そう感じたのは彼がほんの一瞬だけ、肩越しに視線を落としかけたのを見たからだった。けれど彼は、振り返らなかった。
聞き分けのいい女でありたかった。すがり付くような真似だけはしたくなかった。だってもう、大人だから。愛は努力じゃない。相手に依存した瞬間、愛は重さへと変わってしまう。無理をして掴んだものは指の隙間からすぐにこぼれていく。
「……わかったよ。」
その言葉は、息をするみたいに自然に零れた。私はただ彼の背中に向かって声を投げるしかできなかった。胸の奥で音を立てて砕けていくものを両手ですくうようにして。
「でも、最後にひとつだけ、教えてほしい」
涙が落ちる寸前で歯を食いしばり、私は視界を滲ませる。
「どうして?どうして、こんな終わり方なの?」
「……」
「だって私たち——まだ何も、話し合ってない」
玄関先で、彼の足は止まったまま。長い沈黙のあとようやく彼は振り返った。薄暗い照明の下、その横顔はどこまでも穏やかで、それゆえに残酷だった。
「俺はもうね、嫌になったんですって」
「……」
「あー、もう。嫌いになったんですよ」
その言葉はあまりにも静かに落ちた。私の胸の奥を裂くように、痛みもなく、ただ沈んでいく。
信じられない、というより——信じようとする勇気がなかった。
「俺は——名前さん、あなたが嫌いです。」
その言葉と同時に、彼の左の瞼だけがわずかに震えた。次の瞬間ひとしずくの涙がそこからこぼれ落ち、頬を伝っていく。自分でも驚いたように彼はそれを乱暴に袖で拭った。けれど、その涙の光だけが彼の嘘を静かに照らしていた気がした。私はと言えば、泣くことさえ忘れていて、ただ、言葉がどこにも見つからなかった。
「……ごめん。ちょっとだけ、待ってて」
そう言い置いたあと気づけば体が勝手に動いていた。足が向かったのはキッチン。冷蔵庫を開けると、昨夜作った唐揚げの残りが奥に眠っていた。私はそれを取り出しタッパーに詰めながら小さく息を吐く。何かをしていないと壊れてしまいそうだった。
もしかすると彼はもう出ていってしまったかもしれない。そんな不安を抱えたまま玄関へ戻ると彼は黙って立っていた。何も言わずただ穏やかな沈黙のまま。その背中があまりにも静かで余計に胸が締めつけられる。唐揚げの入ったタッパーを両手で抱え私は彼の方へ差し出した。タッパーを持っていた指先が、わずかに震える。
「……これ、持って行って。冷めててもちゃんと美味しいはずだから」
彼はほんの少しだけ目を伏せゆっくりとそれを受け取った。そして何も言わずに、玄関のドアを見つめた。私は息を整えてから、かろうじて声を出す。
「……身体に、気をつけてね。」
背中を向けた彼に、私はその言葉だけを低く、微かに残すように呟いた。彼は一瞬だけこちらを見ようと、わずかに顔を動かしかけた。けれど、すぐにその視線を逸らし軽く息を吐くようにして言った。
「——あなたも。じゃあ、お元気で。」
それだけ言って、彼は踵を返した。その言葉の響きに、涙が一気に込み上げる。返事をする間もなくドアノブが回り、扉の開く音がした。
「けいごくん……!」
夜風が吹き込みカーテンが大きく揺れる。外の空は星もなくまるで世界の輪郭が滲んでしまったようだった。
扉の向こうに消えていく背中を見ながら、私はようやく涙を流した。声もなく、呼吸をするたび喉が震え、胸の奥に残った彼の気配が風とともに静かに遠ざかっていった。
名前を呼んでも彼は振り返らなかった。ドアが閉まったあの瞬間に、世界から音が消えた。目の前が白黒になった気がした。私はどうすることもできず、ただ立ち尽くしていた。外では遠くで車の音が過ぎていく。気づけば風が止んでいた。まるでこの街ごと呼吸を止めてしまったように——。
そして、緋色の羽根がひとつ床に落ちた。私はその羽根を拾おうとして手を伸ばす。けれど指先が触れるより早く、ふわりと一瞬だけ吹いた風が、それをさらっていった。まるで彼の代わりに空へ帰っていくようにして。
絡ませ合った足先の行く末
(——愛してる、なんて言葉じゃ足りない)
(だからせめて、この風になって——)
(あなたに最後、)
(触れたかった。)
※image song『 依依恋恋/優里×KOKONA 』