夜の風が、やけに冷たかった。昼間まで降っていた雨の名残りが舗道に鈍く光り、その上を踏みしめるたび、靴底が小さく鳴った。
どこかの店から流れるジャズの音が、妙に遠く感じる。まるで世界のすべてが一枚の薄い硝子を隔てて俺を拒むように沈黙していた。
『——ヴィラン連合に取り入れ、ホークス。』
あの言葉を、忘れた日などなかった。それでもこのまま彼女と歩める未来をどこかでまだ模索し続けている自分がいた。
公安の重苦しく無駄に広い会議室——。冷たい蛍光灯の下で、淡々と告げられた任務。上層部は簡単に言った。まるでそれが誰にでもできることだとでも言うように。だが実際には一人の人間の心を切り離す事から始めなければならなかった。残酷でも、現実はそんなに甘くはなかったのだ。結果よりも、努力する過程が大事。そんなのは、真っ赤な嘘だと、大人になって人は気づく。所詮人は、結果でしかものを見ない。
『ヴィラン連合の内偵、俺が汚れてみんなが安心できるようになるのなら喜んで引き受けますよ』
彼女に送った言葉に、嘘はなかった。最後の、ひとつを除いては——。苦しくて胸が痛む。でもそれが自分に出来る最愛の人への最良の選択だと思った。後悔はしていない。するとすれば、嘘をついて傷付けた、自分の心だ。人を信じられない人って、きっと一度でも本気で人を信じたことのある人間なんだと思う。
彼女と過ごした時間。笑い声、食卓に並ぶ他愛ない会話。あの穏やかな日々のすべてが、使命の前では不要な感情だと頭では理解していた。理解しているつもりだった。それでも彼女の手のぬくもりは忘れられなかった。
彼女はいつもこの背中の翼を撫でるようにして「今日もお疲れ様」と笑った。血の匂いを纏って帰ってきた夜も無言で洗面所に立つたび後ろからそっとマグカップを差し出してくれたその手が、どれほど一人のヒーローを救っていたかをきっと彼女は知らない。あのやさしさが俺にとっては、世界の最後の色だった。だからこそ、今日告げた別れの言葉は、彼女を守るための、最初で最後のたったひとつの嘘だった。
『俺は——名前さん、あなたが嫌いです。』
あの言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。声は冷たく出せた。けれどそれは最後の防衛本能のようなもので。
もし一瞬でも迷いを見せたら自分は任務を放り出してでも彼女の腕の中に戻ってしまう気がしたから。彼女の瞳に涙が溜まっていくのを見ながら心のどこかで願っていた。どうか俺のことを憎んでほしい。忘れてくれ、と。そうすれば、彼女は狙われない。公安もヴィランも、誰も彼女に手を伸ばさない。そのためなら自分が悪者になることくらい、どうだってよかった。
けれど自分の涙までは止められなかった。左の瞼からこぼれた一滴が彼女の記憶にすがるように頬を伝い冷たい床へと落ちた。人は左目だけから出てくる涙は��悲しい涙�♂E目だけから出てくる涙は��嬉しい涙�≠ニ言われている。あの涙こそが俺の唯一の、最後の抵抗であり、本音だった。
『ごめんね。私、何もしてあげられなかったね』
とんでもない。こっちの台詞です。してもらったことの方が多すぎて、数えきれない。
空を見上げる。雲の切れ間に月が滲んでいる。あーあ、雲はいいよなぁ。自由で……。羽根が、湿気を吸って重い。けれどそれでも飛ばなければならない。任務は始まってしまった。それがビルボードチャート、ナンバーツーのヒーローとして与えられた使命。だが、俺の中ではもう、何かが壊れていた。誰かを守るために誰かを傷つける。その矛盾が夜気よりも冷たく胸の奥を締めつけていた。風が吹く。ビルの屋上に立つ剛翼の影が、静かに揺れる。遠くで海鳴りがして福岡の街灯がひとつ、またひとつと灯りを増やしていく。
彼女はいま、泣いているだろうか。その想像を打ち消すように俺は翼を広げた。羽音が夜を切り裂く。もう戻れない。戻れば彼女まで巻き込んでしまう。だから、いまだけ。心の中でだけ彼女の名前を呼ばせてほしい。少しだけでいいから思い出させてほしい。俺の名を呼ぶあの優しい声を、いつものように。けれど、風がそれらをさらっていく。夜は深く空は遠く、涙の跡さえ乾かぬまま俺は静かに、闇の向こうへと姿を消す。
俺はホークス——速すぎる男。ヒーローが暇を持て余す社会、必ず手に入れてやる。たとえその未来にもう彼女がいなくても。俺の出せる、最高速度で。
*
カーテンの隙間から、淡く金色を帯びた光が、部屋の奥までゆっくりと滲み込んでいた。
仕事が休みの日の昼下がり。テーブルの上には昨夜の残りのスープと出来合いのサラダ。食べるというより生きるための義務のように箸を動かしていた。テレビの音が室内を埋めている。内容は頭に入ってこない。ワイドショーの司会者が笑って、観客の拍手が続いて、その中に何も感じられないままその瞬間、なぜだか涙がこぼれた。箸を握ったまま、頬を伝う涙を止められなかった。
「……あれ、変なの」
自分でも驚いていた。胸のどこかが急にきゅっと痛くなり息がうまく吸えない。泣く理由なんてもうとっくに理解しているはずだったのに。私はしばらくして落ち着くと、深く息を吐いた。
「ふぅ……わたし、情緒不安定なのかも」
自嘲のように呟く。自分の声が、やけに遠くに聞こえた。シンクの中の皿を洗って流しの水音に紛れるように、呼吸を整える。誰かに会いたいと思っても、その誰かの名前を口に出すことができなかった。もう呼んではいけない気がしたから。
不意にテレビの音がまた耳に入った。何気なくチャンネルを変えた瞬間、画面に、見慣れた赤い羽根が映った。ホークスだ。ビルの屋上で記者に囲まれて、いつもの笑顔を浮かべている。画面の右上には相変わらず『ヒーロービルボードチャートJP下半期2位!』の文字が光っていた。
笑っている。あの人は、ちゃんと笑っていた。それだけで胸の奥に冷たい風が吹いた。私はリモコンを掴んで、そっと電源を切った。画面が黒くなり部屋の中が急に静まり返る。その静寂の中で自分の呼吸だけがやけに大きく響いた。
ソファに背を預けてふと天井を見上げる。彼と過ごした日々の断片がぼんやりと脳裏に浮かぶ。夜更けまで並んで見ていた映画。台所で、コーヒーの苦味に顔をしかめて笑っていた姿。雨の日、傘を忘れて、びしょ濡れになった私を何も言わずタオルで包んでくれた夜。そのひとつひとつが、静かに蘇っては胸の奥で弾けた。時間が止まったようだった。部屋の温度も音も記憶の中の呼吸もすべてが過去の中で固まっていく。
「……バカ、みたい」
思わず声に出た。誰に向けての言葉なのか自分でもわからなかった。彼か、己か。その区別さえもうどうでもよかった。窓の外は、淡い曇り空。遠くで、子どもの笑い声が聞こえた。その小さな音がやけに眩しかった。私は深く息を吐き、立ち上がってカーテンを閉める。光が部屋から消えると、少しだけ安心した。こうしていれば思い出も見えなくなる気がした。
テーブルの上のマグカップに残った紅茶はすっかり冷えていて指先でカップの縁をなぞりながら彼の指が一度だけ、自分の手を包んだ瞬間を思い出していた。
『俺は——名前さん、あなたが嫌いです。』
好きな人を好きなまま手放す恋は本当の愛だと思う。きっと、恋とか愛だけじゃない。人として好きだったんだと思う。叶わないとわかっていても、誰かを想えること。それ自体が愛だと思う。本当に好きな人はどこが好きなのかさえわからない。どんなに想っても届かない恋もある。どんなに好きでも、報われない恋もある。『幸せに』と願いながら、手放す恋がある。『幸せに』と遠く離れて見守る恋がある。たとえ一緒になることができなくても大切な人の幸せを願う——。そんな愛し方もある。
叶わない恋でも、ずっと好きでいることは愛。好きな人を何年も変わらず好きでいることも愛。相手の幸せを思い会いたくても会わないと決めて最愛の人を手放した人たちがみんな、幸せになりますように。好きな人の存在は、いつだって最強だから。
『ヒーローって肩書きだけで立派な人間に見えるかもしれないけど、実際は……汚いこともする。嘘もつく』
何かを守るために信念を曲げる。それはきっと善意からの行動にすぎない。けれどその善意が、他者にとっては残酷な結末をもたらす事もある。そんな皮肉まであのヒーローは、わかっていた。立場を入れ替えて同じ答えを繰り返すという壮大な物語構造には、ただ、脱帽するしかなかった。立場が変われば善も悪も揺らいでしまう。理性が信じた正しさは決して絶対ではない。だからこそヒーローではない私は、感情の声にも耳を傾けていきたい、彼の前でだけは、正しくありたいと、そう思っていた。——いや、願っていた。
何もかも遠くなっていく。だけど、それでも、心のどこかでまだ誰かの帰りを待っている。その事実を私は、誰にも言えないままでいる。
*
十二月の都会はやけに乾いていた。空気の粒子一つ一つが冷たく尖り、ビルの窓に反射する光が刃のように眩しかった。
公安本部での面談を終えた俺は、いつになく、足取りが重かった。ビル街を抜け辿り着いたのは下半期、ナンバースリーヒーローの事務所。俺にとって数少ない地上の空気を吸える場所だった。
事務所の扉を開けると忙しない人の往来と軽い笑い声が耳に入った。奥のデスクではジーニストさんが資料を閉じ、来客用のソファにはファットさんが大きな身体を沈めていた。
「おっ、ホークス!」
ファットさんが振り向きざま豪快な笑顔を浮かべる。
「珍しいやんか、顔出すなんて。もう福岡が拠点やろー?」
「公安からの呼び出しですよ」
俺は溜め息まじりに短く答え軽く頭を下げた。
「それでちょっと、寄らせてもらいました」
ジーニストさんは、手を止めたままでこちらを見やる。整った表情の奥から静かな視線が射抜くように届いた。
「公安帰りにここへ立ち寄るとは、よほど気疲れでもしたのかな?」
「まあ、そんなところです」
軽い口調の裏で、笑みは浮かばない。すると、ファットさんがコーヒーを差し出してくれた。
「ほらぁ、飲め飲め。都会は寒いやろ〜」
「ありがとうございます」
マグカップを受け取りながらも俺は未だ視線を落としたままだった。沈黙の間を持て余したのかファットさんが肘で軽く俺を突く。
「なぁホークス。あの子、元気にしてるんか?」
その一言に、ジーニストさんの目が、かすかに動いた。俺は、口に運びかけたマグの手を途中で止める。
「……あの子、って?」
「おン?引っ越したんやろ?わざわざそっちに」
「……」
「ほら、支援センターで働いてたっちゅー……」
「無粋だな」
ジーニストさんが、低く呟く。ファットさんはハッとしたように目を瞬かせ慌てて口をつぐむ。けれどもう遅かった。俺はマグをテーブルに戻しわずかに息を吐く。
「……彼女とは、別れましたよ」
声は静かだった。その一言だけで空気の温度が数度ほど下がった気がした。ファットさんは驚いたように目を見開き、口をあんぐりと開ける。
「えっ……うそやろ。あんな仲良かったのにな」
「そう見えてただけです」
俺は顔を上げず、淡々と答えた。
「……理由は?」
ジーニストさんの問いかけに俺はわずかに首を振り、少しだけ考えるふうを装ってから、静かに言葉を落とした。
「話しても、意味ないんで。——ただ、そういう決断をしたってだけです」
それ以上、誰も何も言わなかった。沈黙がコーヒーの香りとともに重く降りてくる。窓の外では冬の風が看板を揺らす音だけが響いていた。
やがて、ファットさんが頭をかきながら、深く溜め息をついた。
「……そか。ま、いろいろあるわな。ヒーローの恋愛っちゅーやつは」
ファットさんのその言葉に俺はかすかに口元を動かした。笑ったのか、苦く息を漏らしたのか、自分でもそれは、判別できなかった。ジーニストさんは静かに立ち上がり机の上の書類を整える。
「ホークス」
「はい?」
「君のしていることが、どれほどの覚悟を伴うか私は知っているつもりだよ」
「えっ、あぁー……」
「……」
「ありがとう……ございます?」
短く、それだけ。それ以上の言葉は、出てこなかった。その後の会話は自然な流れで、先日起こった脳無の暴走やらヒーロー活動の話に移った。だがファットさんは、終始落ち着かない様子で、何度か俺をちらりと見やっていた。それに気づきながらも俺は視線を合わせようとはしなかった。心はもうどこか遠くにあったから。
都会を渡る風と福岡を吹き抜ける風のあいだ。そのどちらにも還れぬ空気の狭間でただ、沈黙のまま、こうして今も立ち尽くしている。
その夜、東京の街は、早い時間から冷え込んでいた。夜風が街路樹を揺らし光の粒が冬の夜空に散っていく。
俺は、ジーニストさんの事務所の近くにある、小さな和風居酒屋の個室にいた。対面に座るのは無骨な体躯を持つ炎の男——エンデヴァーさん。テーブルの上で湯気の立つ焼き物が静かに冷めていく。
「まさかエンデヴァーさんも公安に呼び出し食らってたなんて驚きです。俺もいたんすよ〜?」
「……」
「——そういや、ショート君。元気です?」
いつもの調子で軽く笑ってみせた。片肘をつきながら、まるで、他人事のような口ぶりで。
「なんか彼、前より落ち着いた顔してません?」
「……」
「いや〜、いいすねー。青春ですよねぇ」
口角だけを動かして無理に笑う。けれど湯気の向こうで揺れる炎のように胸の奥は少しも温まらなかった。エンデヴァーさんは、無言でグラスを持ち上げた。赤い液体が光を受けて揺れる。
「ほんと俺、ショートくん欲しかったんですけどね〜。ほら、仮免落ちてブランドに傷いっちゃったんで」
「……うるさい。わざわざ二回も言わんでいい」
「ワハハっ。すんません、悪気はないんで。」
俺の声は相変わらず軽い。けれどその奥にある疲労と空白は、年長の男の目には、すぐに見えていたかもしれない。
「で——どーです? ショートくんの成長は」
「……悪くはない。焦凍は、よくやっている」
ようやく返ってきた答えは短く硬い声だった。俺は「そっか」と軽く笑い椅子の背にもたれた。届いた料理の湯気が、ゆらりと揺れる。その白い煙の向こうで二人の沈黙だけがゆっくりと冷えていくようだった。
「やっぱ、さすがですよねぇ〜。父親の背中を、ちゃんと見て育ってる」
その口調には、からかいも称賛も混じっていなかった。ただ、言葉の端で自分を誤魔化しているようなどこか空虚な響きがあった。店内に流れる琴の旋律が、二人の沈黙を柔らかく包む。エンデヴァーさんはグラスをそっと置き、わずかに俺を見やった。俺は笑った。けれど、瞳の奥は笑っていない。この人の目から見れば俺の仮面など明け透けだろう。その奥に何か重いものを抱えているのを悟ったのか、エンデヴァーさんはゆっくりと目を伏せた。
「あ、もう食べないならもらっていいです?」
「相変わらず卑しいな。勝手に食え」
「フハハっ。いやぁ〜欲しいと思ったらどうにも我慢できない性分でして」
「それは、以前も聞いた」
聞くべきか。「福岡ではどうしている」とでも問いかけようとしたのか、その言葉が、喉の奥で止まるのを感じ取った。一瞬の迷いだった。もし聞かれたとしても俺はきっとまた笑ってごまかすだろう。エンデヴァーさんも、それが嘘だとわかっていながら、黙って頷くに違いない。この人はそういう配慮をいつの間にか無意識に身につけてしまっている。
たぶん、俺の沈黙にすら気づいている。けれど何も言わない。それが、この人なりの気遣いなのだろう。重たい空気を誰のせいにもせず抱え込む背中。それを見ていると逆に今は息が詰まりそうになる。俺は気づかぬふりでナプキンを畳み肩を竦めてみせた。大丈夫。俺はまだ、軽口を叩けるプロヒーローだ。
「いやー、それにしてもエンデヴァーさんとこうして二人きりでご飯食べるなんて久々ですよね」
「……ああ」
「前回はあのときでしたっけ。ビルボードのあとチームアップの依頼したとき。それ以来?」
「そうだったな」
「俺、マジで順位なんてどうでもよかったんですけどねー」
「……」
「いや、ほんとはどうでもよくなかったのかも」
言いながら視線を落とす。ナプキンの皺を無意識に指で伸ばしながらほんの一瞬だけ表情が揺れた。だが、すぐに顔を上げて、また笑った。
「すみません、変な話。——で。デザート頼んでいいです?」
エンデヴァーさんは何も言わなかった。ただ、黙って頷き、メニューを指さした。店員を呼びながら、ちらりと俺を見たその視線を俺は目の端で受け止める。外では風が強まりガラス窓が小さく鳴った。その音を聞きながら俺は空でも見上げるかのように天井を仰ぐ。
この街にはやけに星が見えない。沈黙の時間をエンデヴァーさんは、決して壊さなかった。聞くべき言葉はいくつもあっただろう。けれどその夜ナンバーワンは何も聞かなかった。ただ
*
ニュースの音だけが、部屋の中を漂っていた。テーブルの上では飲みかけのコーヒーがすっかり冷めている。このところ、仕事以外ではまともに外に出ていない。最低限の買い物と、通勤以外、誰とも会いたくなかった。そんなことはないと、いくら自分に言い聞かせてみても現実問題、私はきっと、傷心しているのだろう。
そんな中、玄関のチャイムが鳴った。私はまだ寝間着のままだった。最初は、居留守を使おうと思った。けれどしつこく鳴り続ける音に観念してインターホンのモニターを覗き込む。すると聞こえたのは、どこか能天気で、それでいて懐かしい声だった。
「おーい! 開けてぇ〜な!」
扉を開けると、眩しいくらいの笑顔でプロヒーロー、ファットガムが立っていた。
「よっ、久しぶりやなぁ!顔見に来たで〜!」
「……え、ファットガム? どうしてここに」
「どうしてもこうしても、たまには外の空気吸わんと腐るで〜」
そう言ってずかずかと部屋に入ろうとする彼を慌てて止める。
「ちょ、待ってください!私、いま部屋着で!」
「えーからえーから!」
「ぃや、よくないですぅ〜!」
抵抗むなしく、あっという間に腕を掴まれて、外へと連れ出される。昼下がりの光がまぶしい。冬の冷たい空気が頬を撫でた。
「ん〜、いい天気やなぁ〜!」
彼は両腕を空に伸ばし、太陽の光を全身で受け止めるように深呼吸した。私は、ベンチに座ったまま、少しだけ顔をしかめる。街の空気が、痛いほど明るい。そんな自分の影を、余計に意識してしまうほどに。すると彼があたりを見渡しながらわざとらしく声を上げた。
「お〜?よく見りゃ、カップルだらけやなぁー。どよよぉ〜ん」
その大げさな調子に思わず口元が緩んでしまい苦笑いが漏れる。
「おぉ! 屋台あるでぇ!なんか食べるか?」
私は、とくにそれには答えなかったが、しかしなぜだか自然と微笑んでいた。それを見て彼は、少しだけ真面目な声を出した。
「あはは……泣いてるより怒ってる方が君らしいわぁ」
彼の言葉に、胸の奥のどこかがほんの少しだけ緩んだ。こわばっていた何かがゆっくりと溶けていくような気がした。私は小さく息を吐き、膝の上で指先をぎゅっと握りしめる。
「私、どうしてフラれたのかな……」
ぽつりと落とした声は、自分でも驚くほど弱かった。その言葉に、彼はしばらく沈黙した。街の喧騒が遠のき、風の音だけが耳に残る。
「ほんとに私のこと嫌いになっちゃったのかな」
「……さあなァ。俺はホークスちゃうからな」
淡々とした声だった。けれどその静けさがなぜだかひどく優しかった。慰めではなく受け止めるような間でもあった。
「まあ〜、ビルボードチャートんときもほんま、なに考えてるか、よぉわからん奴だったしなぁ」
彼の言葉に、思わずかすかに笑ってしまう。
「女として、魅力がなかったってことですよね」
自嘲混じりに言うと、ファットガムは、即座に顔をしかめて言い返してきた。
「なァに言ってんねん。十分、魅力的やで」
「やめてください、そんな気休め……」
「あらぁ〜? 俺の言葉が信じられへん?」
「信じられませんねー。絶賛、自己肯定感、だだ下がり継続中なんで」
「……よしっ!ほな、証明したる!」
その瞬間、ファットガムは、勢いよく私の手を掴んだ。大きな掌。あたたかくて力強くて、それでいてきちんと加減をしてくれていた。逃げる隙など、どこにもなかった。
「ちょ、ちょっと! どこ行くんですか!?」
「ええから!」
半ば、引きずられるように駆け出した。道端の落ち葉が足もとで舞い上がる。冬の風が頬を刺して痛いのに、どこか懐かしい匂いがした。
駆け込んだ先は街角の小さなブティック。ショーウィンドウに飾られた服たちが街の光を受けて、淡く揺れている。その光景がなぜかすこしだけ、夢の中のように思えた。
「すんませーん! 試着してええでっかー!」
「え、なに!? こんなとこで!」
「まあまあ、着るのはタダやろ?せっかくやし」
確かに、そうだと思った。ふと鏡の中の自分を見る。乱れた髪を指で直しながら、少し戸惑った顔をしていた。けれどファットガムが次々に服を手に取り、そのたびに「これ似合うんちゃう?」「これはないなぁ!」などと笑う声を聞いているうちに、気づけば自然と口元がほころんでいた。
「おおーっ!」
ようやく一着を身にまとい試着室の薄布を押し分ける。その瞬間、ファットガムが大げさに手を叩いた。その軽快な音が、胸の奥で凝り固まっていた空気を、ふっと揺らした。
「よっしゃ、次行こ!」
「え」
「次は、爪ちゃんギラギラにさして、髪もくるんくるんにせな!」
「待って、これ……脱がなきゃ……」
「えーのえーの、支払い済ましてるからなっ!」
「えっ!?ちょっと! 支払い済ませたってどういう、」
「今日のおれリッチやねん。気にせんでええ!」
「いや、だからって——!」
「えーねんえーねん!プレゼントさせてや〜!」
彼の声がやけに明るくて強くて、優しかった。笑いながらもその明るさの下にあるあたたかさが伝わってきて、気がつけば流れに飲まれるように私も笑っていた。このヒーローはきっと人を笑わせる天才だ。それは、どんな言葉よりも正直な、今の私にとっての救いだった。
「わぉ!めっちゃ可愛らしいや〜ん!プリンセスやぁ〜」
「や、やめてください……褒めすぎ、です」
「せやかて、ごっつかわえ〜んやも〜ん。最高や、ぃよっ、カリスマ!」
「……、もう。」
彼はまた大げさに拍手をして笑っていた。その笑い声が店内にやわらかく響いて、まるで世界が少しだけ明るくなったような気がした。私もつられてつい笑ってしまう。その瞬間、ふたりの笑い声が重なった。
ああ、笑うって、こんな感じだったんだ。胸の奥で忘れていた灯が小さく、確かに、またひとつ灯った。
「やっぱ怒った顔より、笑顔の方がええねぇ」
「……」
「ほら、また君のこと振り返ってたで?」
「……口が、お上手で。」
「いやいや。なぁ、俺の言った通りやろ?君は、充分魅力的や。自分のこと見下したらあかんで」
風が吹く。頬を撫でていくその冷たい風がやけに優しく感じた。思わず、涙が出そうになった。
やはり私はまだまだ傷心の真っ最中なのだろう。
「あ……あの。こ、これ……」
「んん〜?」
「洋服代、あとでちゃんとお支払いしますから」
「えっ? なんでや、プレゼントさせてぇ?」
「だめ!買ってもらう理由、ないですもん!ボーナスで、きちんとお返しします!」
「ガハハっ、カタイなぁ〜」
その笑い声が風に混ざって遠くへ散った。私は思わず小さく笑った。その笑いは少し震えていてでも確かにあたたかかった。
もしも——。もしもあの夜に戻れるなら。この笑顔を、もう一度見せられたら。もしもあのとき追いかけていたのなら少しは何か、違っていたのかな……。
帰宅して新しい服をハンガーにかけながら鏡を見る。まだ返せていない感情が、心の中で静かに息づいていた。
『めっちゃ可愛らしいや〜ん!』
『最高や、ぃよっ、カリスマ!』
ファットガムの声がふとよみがえった。もしも同じことを女友達が言ってくれてもこんなに心に響かなかっただろう。まだ私、笑えるんだな。
今日は、連れ出してもらえてよかった。そんなことを思いながら、テーブルの上に、置き去りになっていたカップを片づけていたとき外から突然犬の鳴き声が聞こえた。わんわん、と元気な声。なんとなく気になって窓を開けて下を見ると——通りの向こうに、人影が見えた。
「え——、」
胸の奥が一瞬だけ、激しく跳ねた。私は慌てて外に出る。でも、そこに立っていたのは赤い羽根ではない、BMIヒーロー、ファットガムだった。
「お? よう俺が戻って来たのわかったなぁ」
「び……びっくりしたぁ……」
「フハハっ。ホークスか思た?」
「……。」
笑いながらそう言うとファットガムは少しだけ切なそうに目元を細めた。
「すまんすまん、言い忘れたことがあってなァ」
「……ん、なに?」
「たまには関西でも関東でも、遊びにおいでや。関西には俺もおるし来たら飴ちゃんやろうな!」
「ふふっ、」
「ふふぅ〜♪」
その含み笑いの奥に、言葉にはならない温度のようなものが滲んでいた。明るく笑いながらも、彼の眼差しの奥にはどこかで誰かの痛みを知っている人の静けさがあったから。
「関東ならほらイレイザーもおるし。あの色男、彼女募集中やで、きっと」
「きっと、って……また、適当ですね」
「ワハハ!テキトーが最後は、世界を救うんや」
「……」
「しんどいだろうけど、逃げちゃダメやで」
胸の奥に風が吹いた。どうしようもなく、あの背中に羽根の個性を持つヒーローの声が恋しかった。でも、私はその想いを打ち消すようにして、静かに笑った。
「——もう、来ないんですね。ホークスは……」
その言葉を無情にも風がさらっていく。ファットガムは否定も肯定もせずただ遠くの空をじっと見据えていた。
街灯がにじむ。夜空は澄んでいて息を吐くたび白く揺れた。彼は、今もこの空のどこかにいるのだろう。そして私は、まだここで息をしている。たぶん、それでいい。冷たい風の中で私は自分の腕を抱きしめた。静かな夜の底で、彼の名前を、声にならないままそっと、心の中で呼んだ。
*
福岡の街は夜になると、どこか東京よりも光がやわらかい。ビル街のガラスが夕陽を受けてまだ赤く染まっている頃、私は勤務先のヒーロー緊急支援センターを出た。
ホークスと別れてからもうどれくらいが経ったのだろう。季節は巡り、街の風景も少しずつ変わった。けれど、どこを歩いても彼の面影がついてまわる。駅の構内に流れるヒーロー特集の映像、コンビニの雑誌棚、街灯に貼られた、イベントのポスター。どれもこれも、私の知らない顔の彼が映っていた。
そんな夜の帰り道、交差点の向こう側に見慣れたシルエットを見かけた。黒のタートルネックに青みがかったデニムのジャケット——ファイバーヒーロー、ベストジーニストだった。
「おや、奇遇だね」
あの独特の落ち着いた声に、思わず足が止まった。街のざわめきの中で、彼の声だけが、やけに静かに響いていた。
「仕事帰りかな?」
「はい……久しぶりですね、ベストジーニスト」
「久しぶり。こちらでちょっと仕事があってね。彼——ホークスと。」
その名を聞いた瞬間、心臓が大きく脈打った。ひどく懐かしくて、今では痛いほどに遠い名前。ベストジーニストは一拍置いてから、やわらかく微笑んだ。
「少し、時間はあるかな?」
「え……?」
「せっかくなので、これから食事でも」
特に断る理由はなかった。むしろ彼の穏やかな声に救われたような気がした。
私たちは街外れの小さなレストランに入った。テーブルの上には淡い照明が落ち外の通りを行き交う人々の影が、ガラス越しに揺れている。彼はワインを頼み私は温かいスープを選んだ。ベストジーニストは何も尋ねなかった。ただ時折、頷きながら、私の話を静かに聴いていた。
「もう、ご存知かもしれませんが……。ホークスとは、お別れしました」
「ああ、聞いていたよ」
「わざわざファットガムが激励に来てくださって高価なお洋服、買って頂いちゃいました」
「それはよかった」
ベストジーニストが、ワイングラスを傾ける。その中の赤い液体が照明を受けてゆらりと揺れ、光の筋を描いた。
「ヒーローって皆さん、優しいですよね」
「……今でも、そう思っている?」
「え?」
「いや、深い意味はない。気にしなくていいよ」
「でも……わからない。私、ホークスに何をしてしまったのか」
「……」
「彼、急に出ていって……それ以来、何も。ニュースで名前を見るたびに違う人みたいに感じるんです」
言葉を紡ぐたび、胸の奥で何かがきしむ。それでも止められなかった。自分の声を誰かに聞いてほしかった。その短い言葉のなかに、いくつもの思いが詰まっているのが、自分でもわかった。
「でも彼が、意味もなく別れを切り出すなんて、とても思えない。なにか、理由がある気がして」
ベストジーニストはグラスを持ったまま、ふと目を伏せた。そうして、ぽつりと呟く。
「ときどき理屈に合わないことをするのが、ヒーローというものだよ」
「え……?」
「ファットガム然り、私然り——あの剛翼であり強欲のヒーロー然り……ね?」
その言葉に私は息を詰まらせた。彼は、何かを知っている。そう思ったのは、その一瞬の沈黙の深さからだった。けれどナンバースリーヒーローベストジーニストは何も言わなかった。ただ一つ確かにわかるのは、彼の胸にある感情の温度だった。苦しむ相手を前にして、敵か味方か、合理か非合理か。そんなことはもうどうでもいい。ただ「助けたい、助けなくてはならない」という思いだけが、彼を突き動かし、私をこうして、食事に誘わせたのだろう。だがこれは、誰にでもできることではない。けれど誰もが「そうでありたい」と願うような行動だと思った。私も、そうでありたかった。ホークスの前ではそうありたかった。
理屈を超えた感情が人を動かす。そのとき初めて新しい道が開かれるのかもしれない。
「でも、ファットガムやベストジーニストとこうして出かけるなんて一般庶民は普通しませんよ」
「いや——私は、インターンに来た子たちも食事などに誘うけれどね」
「あ、そういえばベストジーニストの事務所にはインターン、誰が来たんですか?」
「雄英高校の爆豪だ」
「ああ! あの有名な……へえ。」
「しっかり生意気だよ」
「ふふっ。そんな気がします」
彼を真似て注文したグラスのワインが、照明の下で淡く光を返した。その赤は過ぎ去った日々の名残のように胸の奥でひそやかに滲んでいった。
私はもう一度自分に問いかける。理屈では割り切れない選択を、私はしたことがあるだろうか。それはいつだった?誰のために?どんな気持ちがそこにはあった?
彼が私に別れを告げたように、誰に何を言われようと自分の感情を信じて行動する瞬間。それはきっと理性では説明できないけれど、自分を自分らしくしてくれる、何かだったのだと思う。彼の選択にも、きっと理屈を超えた何かがあった。
「あ、ベストジーニスト。それもう食べないならもらっていいですか?」
「驚きだ……君のような女性がそんなことを言うとは、思っていなかったよ」
「え? そうですか? 私、案外卑しいですよ」
「どうかな。どうぞ——私はもう堪能したので」
「ありがとうございます。私、もう、我慢するのはやめたんです」
「なるほど……いいことだと思うよ」
理屈を超えるもの——感情。それが人間という存在の証なのだ。感情と理性が食い違ってもいい。矛盾していても頭の中がぐちゃぐちゃでも。それでも、人は人らしくいられる。いや、むしろその矛盾こそが人間らしさなのかもしれない。
これでいいんだ。これで、よかったんだ。そう素直に言える勇気を私もいつか持てるようになりたいと思った。
店を出ると夜風が頬を撫でた。ワインの余韻がまだ喉の奥に残っている。街は静かで、どこか、湿った潮のような香りがした。
「今日はご馳走さまでした。こんな遅い時間まですみません」
「いや、こちらこそ。話せてよかった」
別れ際、彼はコートの内ポケットに手を入れ、何かを取り出した。手渡されたのは、まさかの、水族館のチケットだった。濃いブルーの光が印刷された一枚の紙が私の手の中でかすかに揺れる。街灯の下、その光沢が夜気を受けて、淡く滲んでいた。
「次の金曜日、そこに来るよう伝えてある」
私は言葉を失った。胸の奥で何かがゆっくりとしかし確実に歯車の如く動き始めるのを感じた。
空気の密度が変わる。街の喧噪が遠のき世界の音がひとつずつ消えていくような感覚の中でただその一言の意味を必死に掴もうとしていた。
チケットを握る手が、わずかに震える。指先に紙の冷たさが伝わるたび、どうしようもなく胸がざわめいた。
「え…………誰、に?」
声が自分のものではないみたいに掠れていた。彼はそんな私の様子を静かに見つめ少しだけ唇の端を穏やかに持ち上げて言った。
「それは——行ってからのお楽しみということにしておこう」
「……」
「残念だが、私は行けなくなってしまったので」
その声が夜風に混ざって消えていく。その一瞬だけ、過去と未来の境目が、ふっと揺らいだ気がした。ベストジーニストは微笑んで私に背を向け歩き出す。黒いコートの裾が風に揺れて、彼の姿はゆっくりと街の明かりの中へ溶けていく。
手の中のチケットが、静かに鳴った。紙のざらつきがまるで未来の扉を叩く音のように思えた。そこに印字された日付を見つめながら、私は胸の奥がじんわりと疼くのを感じていた。
——金曜日。その日付がどんな意味を持つのかまだ、知らないままで。
光に生かされる光だということ
(この胸の高鳴りは、ただのアラート。)
※image song『 366日/HY(feat.川崎鷹也) 』