ベストジーニスト事務所、仮休憩フロア──。陽の差し込む室内には観葉植物とガラスの小卓が並ぶ。その一角には、いつものメンバーが揃っていた。出動帰りの汗を拭きながらホークスは一枚だけ残していた羽根をそっと指で弾いてみせる。
「結局……なぁーんも伝えとらんし、俺。」
誰に向けるでもなくぽつりとこぼしたその声に隣から豪快な笑い声が返ってきた。振り向くより早く、その主がだれかは分かっていたホークス。あの底抜けに明るい声の持ち主ファットガムだ。
「──あれから、彼女と連絡は?」
静かに紅茶を啜りながらそう尋ねたのはベストジーニスト。相変わらず整然とした姿勢のまま、ホークスの横顔を、横目でそっと覗き込む。
「……いや、それが……ちょっと難しくて。」
俯いたホークスの目の下にはうっすらとクマができている。それを横目に見ていたファットガムが焼きそばパンを頬張りながらニヤリと笑った。
「ホークス、お前……顔、死んどるやん。さては寝れてないんちゃうか〜?」
「寝てたんですよ、逆に。……がっつり、寝て、んで……。」
「んで? なんだよ」
そこでミルコが口を挟んだ。椅子の背にもたれ爪をいじりながら興味ありげに顔を向けてくる。
「ハメたらしいでぇ?夢ん中で、女神さまと」
「はぁ!?夢ん中でか!? おまえマジかよ!」
バンッ!とミルコがテーブルを叩いて身を乗り出した。それに驚いたファットガムが口にしていた焼きそばパンをこぼれ落としたのもお構いなしに、ミルコは大声で続ける。
「お前ら、会ってなかったんだろ?なのに許可もなしにお前、彼女を抱いたのかよ、夢ん中で!」
「しっ、声っ!! 声、デカいですって!」
慌ててホークスが両手で制すがミルコは笑いを噛み殺すように肩を揺らしていた。
「へぇ……それで? リアルだったか?」
「……はい?」
「だーかーらぁー、どのへんが一番リアリティに富んだ内容だったんだよ?あん?」
「どのへんが、とかじゃなくて、……全体的に、です」
「やっべぇ〜。欲が溢れ出してたんだな!夢でも
からかいながらもどこか楽しげなミルコの声にホークスは「ほんと最悪ですって……」と両手で頭を抱える。そんな様子を見ていたジーニストがカップを置きながら一言。
「その欲望が幻に終わるかそれともきちんと形にしていけるかは君次第だ、ホークス」
「……俺、あんな夢で終わりたくないんすよぉ」
ぽつりと落ちた本音に三人はふと静かになる。その一瞬の間を破るようにミルコが片眉をあげて言った。
「なら、言えばいいだろ?どんだけ自分が相手を想ってるのかって」
「……むぅ、そーですけどぉ……」
「夢ん中でもバコスカやれる度胸があんなら現実でも言えんだろ」
その言葉はあまりにも軽くて、下品で、それでいて、どうしようもなく、真っ直ぐだった。ホークスはしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと肺の奥に溜まっていた空気を長く、静かに、吐き出す。
「……わかってるんですけどねぇ、自分が一番」
そう呟いたホークスの背中は、いつになく頼りなく見えた。あれほど自由に空を飛ぶ羽根の持ち主が地上では、こんなにも��言葉�≠ノ、縛られていた。
「おまえが��レイプ魔予備軍�≠ナ、しかも、幻を抱く趣味があったなんて思わんかったでぇ」
ファットガムが、どこか楽しげに肩を揺らしながら言い放つ。ホークスは眉をひくつかせて身を引いた。
「いやいや人聞きの悪い……やめてくれます?」
「だいたいやなぁ、ケンカ腰でホテル連れ込んだって話だけ聞いたらやで?お前ヒーローやなんて胸張って名乗れんようになるで?」
「うっ……」
事実を妙に誇張されると、否定するにも勢いを失ってしまう。ホークスは頭をかきながら、心底やめてほしいという顔でため息を吐いた。しかしファットガムは手にしていた甘そうなドリンクを一気に煽ると「ヒーロー失格やな」と、容赦なくホークスの心を抉ってくる。ジーニストは、やや呆れ顔で手に持っていた資料をめくりながらも、静かに口を開いた。
「そういう行動は君らしくないな。��誠実さ�≠ェ持ち味のはずだと認識していたのだが?」
「わ……、わかってますって……」
わかってる。あの夜、彼女の手首を掴んだ時の自分の指の震えも、彼女がこぼした涙の意味も。あの日は──好きなひとを傷つけるための夜じゃなかったはずだ。それでも、言葉にできなかった自分の幼稚さが、臆病さが、なにもかもを一瞬で壊したのだ。
「もう、連絡、してないんす……こっちからは。向こうも、してこないですけど」
「ほう。まるで、テレフォンセックスフレンドの終焉みたいやなぁ」
ファットガムがポンとホークスの背を軽く叩く。ホークスはもう突っ込むことすら躊躇われて、目を細めてため息を吐き散らした。
「声だけの関係ってのはな、ラクやけど続かんのや。まあ、遠距離してる人らには悪いけども」
「はい」
「触れられへんぶん、すれ違ったとき、取り返しつかんくなる」
「はい……」
「ただでさえ、そのうち福岡戻るんやろ?黙ってたら、そら距離もできてまうやんか。それをまたこんなくだらんことで時間無駄にしてるとはな」
「返す言葉も……ございません……」
「ホークス、お前、破滅願望でもあるんとちゃうかー?」
その問いにホークスは何も答えられなかった。けれどジーニストが一度だけ資料を閉じて、ホークスに視線を向ける。
「彼女の��沈黙�≠�ただの距離だと思わないことだよ」
「え……?」
「傷ついたひとの静けさは、深いからね」
「じゃあ……どうすりゃいいんです?俺、どんな顔して会えば……」
「会って素直に言えばええねん。泣かせたことも弱かったことも、夢ん中でハメたこともぜ〜んぶなっ?」
ファットガムの声には揶揄うような軽やかさがあった。けれどその明るさの奥に、押し隠せないほどの芯が通っているのがわかる。すると、突如隣にいたジーニストが脇に抱えていたタブレット端末を、すっとホークスに差し出してくる。
「彼女は今日、もう上がっている頃だろう」
「……え。なんすか、これ」
「今日、私たちの通信を彼女が取ったんだよ」
ホークスが訝しみながら画面を覗くと再生されたのはジーニストが任務中に彼女とやり取りしていたらしい映像と音声。
『──ベストジーニスト、サイドキックの皆さんお疲れ様でした』
『ああ、お疲れ様。それで……すこし、世間話をしてもいいかな?』
『え?ベストジーニストが?珍しいですね……。ええ、どうぞ?」
『今日の勤務は、何時までの予定ですか?』
『えっ……?あ、えっと……今日は夕方で上がりますが』
『そうですか……わかりました。ありがとう』
──カチ、と音を立ててジーニストが画面をロックした。突然、微妙な沈黙が落ちる。空気が少しだけ変わった。そして耐えきれなくなったようにホークスが声を漏らした。
「……か、」
反応したのはジーニストではなくファットガムだった。「ん?」とホークスに顔を向けて返す。
「──なんっでジーニストさんが易々と、彼女に粉かけてんすかぁ!?」
それは誰が聞いても情けないほど本気のトーンだった。ミルコとファットガムは思いがけず、「え?そっち?」といった顔で目をぱちくりと瞬かせている。ジーニストは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を崩してふっと目を伏せてみせた。
「ホークス。君なら、わかるね?」
その言葉は静かだった。けれどどこか試すようでもあり、託すようでもあった。
──さあ、ヒーロー、お前ならどうする。と、誰かにそう問われている気がして、ホークスは、素直に黙って頷いた。そして胸ポケットの内側に指を差し入れて何かをそっと取り出す。それは小さな羽根の欠片。彼女があの夜落としていったピアス。ひとつだけの片割れ。その縁を指先でそっと撫でながらホークスは静かに立ち上がる。
「俺……行ってきます。」
「おーおー、早く行ってこい。遅せーんだよ」
「せや。ぜ〜んぶ言葉にして、取り戻してくるんやで」
ミルコとファットガムの笑い声とジーニストの優しげな目線を背中に受けてホークスは夜の風を裂いて飛び出した。
──もう一度、彼女に会いに行く。今度こそ、素直にぜんぶを伝えるために。もう黙ってなんていたくない。
*
風が強い夜だった。職場を出て、スマホを鞄にしまい込んだままゆっくりと歩く。
コンクリートに響くヒールの音さえどこか遠く感じられるほど、身体のどこかがまだ今夜の残り火を抱えたままだった。
あの夜から、一週間。意地のように彼と距離を置いたけれど本当は毎晩、画面の向こうの通知に目が馴染んでいた。でも連絡はなかった。だから私もしなかった。そう決めたのは他でもない、私自身だった。けれど今夜、帰り道の静けさの中で不意に鞄の中のスマホが震えた。──ホークス。その文字を見て私は数秒だけ立ち止まる。電車の高架下で、潮風と排気と夜のざわめきが交差する場所。喉が少しだけ渇いた気がした。出るべきか出ないべきか。この一週間、何度も考えた問いが今、こんなかたちでまた、投げかけられるとは。それでも私は、その着信を取る決意をした。
「…………はい、」
『……あ、もしもし。』
しばしの沈黙。風の音がスピーカー越しにまで入り込んでくる。久しぶりに聞く声は少し疲れているようにも思えて、それでも私はちゃんと彼の声を覚えていた。
『……あの、その、びっくりしたかもしれないんですけど』
「ううん……びっくりは、した。けど……」
『……けど?』
「……声が聞けて、よかった。」
言葉にすると、やっぱり少し苦しくなる。彼も同じだったのか小さく笑うような息が聞こえた。
『あれから、何回もかけようとして、何回もやめて……ようやく、今になって、かけてます』
「……うん」
『声だけじゃ、マジでもう、足りなくて──』
その一言で足元がぐらりと揺れるような錯覚に陥った。私はすでに自宅近くのマンションの角を曲がり、階段の下にいた。手すりに触れた手が、かすかに汗ばんでいる。
『名前さん。』
「……はい。」
『……いま、会いに行っても、いいですか?』
言葉が、時を止めた。私は返事をしないまま、マンションの階段を上り始めていた。一段ずつ、吸い寄せられるようにして。その先にもう答えがあるような気がして──。
踊り場を過ぎ、ふたつめの角を曲がった瞬間、そこにいた。ヒーロースーツのまま、少しだけ、うつむきながら彼は私の部屋の前に立っていた。夜風で、前髪が揺れている。私の気配に気づいたのか、彼がはっとして、顔を上げた。目が合う。何かを言おうとして向こうが一歩だけ前に出た。でも私は、その前に口を開いた。
「……もう、来てるじゃん──」
「ごめんなさい……」
彼がもう一歩、私の方へ近づく。私もわずかに一歩、前に踏み込む。
「……会いたかったです、名前さん──」
その言葉が胸の奥にぽとりと落ちた。私は鞄を抱きしめるようにしながら、ふっ、と笑った。
「中……入れてもらっても、いいですか」
「じゃあ……どうぞ、なか──入って。」
「……」
「今夜はもう、逃げないから。」
彼の目が大きく揺れて、でもすぐに、穏やかな灯に変わった。ガチャリ、と鍵を開ける。静かな扉の向こう、二人だけの夜がようやく動き出そうとしていた。
扉が閉まった瞬間、ふたりを包む空気が、外の夜とはまるで違っていた。音ひとつなく、ただ、互いの呼吸が互いの存在を確かめるように小さく揺れていた。再びふたりきりになった空間に夜の静けさが戻ってくる。
「え、っと……飲み物、なにか──」
振り返るまえに、彼の気配がわずかに揺れた。そして静かに手を振る気配が伝わってくる。
「あ、すみません……お構いなく」
彼はソファの前のカーペットに膝を折って腰を下ろした。まるで床の温度で地に足をつけようとするみたいにして。
私は彼の正面、テーブルをはさんで座ると何も言わずに彼の様子を見つめた。彼はしばらく無言だった。丁寧に整えられていた髪も急いで飛んで来たのか少しだけ乱れていて、あのレストランの煌めく照明の下で見た、完璧すぎる彼の姿とは、すこし違って見えた。でもそのどれよりも、目がひどく、苦しそうだった。私が何か言う前に彼はそっと目を伏せて、先に口火を切った。
「……この一週間、俺、何してたと思います?」
「……さあ。」
「仕事はしてました。任務も人助けもちゃんと」
彼は笑おうとしていた。けれど、その口元は、どこか、泣きそうだった。
「でも、全部うわの空で。ああ、もうダメだって何度も思って」
ふと、彼の手がソファの縁を握りしめる。
「押し倒したことも急にホテルに連れてったことも……ほんと、最低だったと思います。あんなの普通、怒られます、嫌われます……」
「……」
「ほんと、引かれて幻滅されて当然なのに……」
私の胸がすこしだけ痛んだ。言葉を探しているあいだに彼はもう一段、声を低くして、ぽつりと続けた。
「……でも、あのとき、怖かったんですよ」
私の目をまっすぐ見る。その琥珀色に輝く光が夜の底からじわりと滲むように揺れていた。
「名前さん……あなたを──失うのが。」
その一言があまりに脆く、幼く聞こえて。私はただ黙って、彼の言葉を受け止めるしかできなかった。彼はそのまま言葉を選ぶようにゆっくりと喉を鳴らす。
「俺……好きなんです。……どうしようもなく」
掠れるような声だった。いつもの軽やかさも、飄々とした余裕もなかった。
「好きになっちゃって。ずっと前から。でも言えなくて、伝え方もわかんなくて……」
「……」
「それで焦って……間違えて。……でも、今言わなかったらたぶん、もう一生言えないと思った」
彼は顔を伏せたまま唇をかすかに噛んでいた。私の視界がゆらりと滲む。たぶんそれは彼のせいじゃなくて、私自身の奥に溜まっていた感情が、ようやく輪郭を得たせいだった。
「……ほんとはね。」
ようやく私は、小さな声で言った。
「ちゃんと、うれしかったよ。あの夜も。」
「……」
「怖かったけど、でも……私も好きだったから」
その瞬間、彼が顔を上げて私を見張る。
「え……」
「うん……好きだよ、ホークスのこと。ずっと」
言ってしまった。言ってしまってから胸の奥が震えた。でもそれと同時に少しだけ息がしやすくなった気がした。たぶん、彼も同じだったのだろう。彼は私の手をそっと取り、何も言わずそれを自分の額に押し当てた。静かだった。満月の夜のざわめきが嘘のように、この部屋は、しんとしていた。それでも、二人の間に生まれた言葉の粒はやわらかく、やさしく、空気を染めていった。
「……俺、かっこわるか……」
ぽつりと呟かれたその声は、あまりに本音で、あまりに、若かった。私は息を呑んだ。
「いろいろ頑張ったのに。背伸びして服も選んでお店の予約もして……」
「……」
「でも、肝心なところで、なんか全部……うまく言えなくて。怒らせて、拗れさせて……最終的にホテル連れ込むとか。」
「……」
「ほんと、俺……最低最悪たい……」
彼はソファのフレーム部分に背を預けながら、自嘲気味に笑って天井を見上げた。その横顔が、いつもとちがう。強がりでも冗談でもない。ただただ不器用に、本当の自分をさらけ出している、そんな表情だった。
「……私、ほんと、嬉しかったよ。嬉しかった」
ぽろりと落としたその言葉に、彼の肩が微かに揺れた。
「うまく言えなくても言葉足らずでも。ちゃんと伝わってきたから」
「……」
「ホークスの私への気持ち……私、ちゃんと受け取ってるよ」
そう言い切ってから、私は彼の隣に移動した。距離はたったの数十センチ。それでもその一歩がお互いにとって、どれほど勇気の要るものだったか。彼は黙ったまま視線を伏せた。けれど、その目の奥には安堵とどこか、ほっとした色が滲んでいた。
「それに……」
言ってから私は、少しだけ、くすっと笑った。
「レストランの時のホークス、すごく素敵だったし。似合ってた、あのスーツもネクタイも全部」
「……ほんと、ですか?」
「うん。すごく、かっこよかったよ。」
言葉にすると胸がふわりと熱くなる。でもそれは、恥ずかしさじゃなかった。どこか愛おしさに近いものだった。
彼がそっと私を見る。その視線が、ほんの少しだけ強くなる。私はそっと唇を結んだ。そのときなにかが静かに流れた気がした。時間とも音とも言えないけれど確かにそこにあった気配。そして彼が、ほんの少しだけ身を寄せてきた。動作は、驚くほど慎重で、臆病なくらいゆっくりだった。
「──触れて……も、よか、ですか」
囁くような声。それは、私の胸の奥に小さく、震える波紋を落とした。私は、頷いた。たぶん、その頷きはきっと──彼にとっての救いだったと思う。
触れるか触れないかの距離まで近づいてきた、彼の顔。夜の静けさがふたりを包み込んでいく。そしてやがて唇がそっと重なった。浅くためらいがちで、あまりに繊細なキスだった。
触れて離れて、また、そっと重なって。それはまるで、「ごめんね」と「ありがとう」と「だいすき」が全部混ざったような静かな願いだった。くちびるが離れたあと、彼は少しだけ目を細めて私を見つめた。
「……なんか、夢みたいです」
「そう、だね……。」
そう言って私はもう一度だけ、彼のくちびるに自分の唇を寄せた。唇が離れると彼がふぅと息を吐く。その吐息はほんのり甘くて、夜の空気より少しだけ熱を帯びていた。私はうつむいて、胸の奥に広がっていく不思議なぬくもりに、ただ身を委ねていた。
「……変なこと言っても、いいです?」
彼がやや掠れた声でそう言った。私は不思議に思いながらも、静かに頷いた。
「俺、いま、めちゃくちゃ安心してるのに……、なんか、ちょっと泣きそうです」
その言葉に、心がきゅうっと締めつけられる。そして、そっと彼の手をとった。彼の指はほんの少しだけ震えていた。
「好きだって言えて、触れても逃げられなくて。それなのに今にも全部、夢だったって消えてしまいそうで、こわくて……」
「……大丈夫、夢じゃないよ?」
私は囁くように言って、彼の手を両手でそっと包みこんだ。
「これは現実。……ねぇ、こうやって、ちゃんと触れてるでしょ?」
言いながら私は彼の手の甲にそっとくちびるを寄せた。たったそれだけのことなのに、彼の肩が小さく震えて、目を伏せる。
「……やばい。今夜、寝られないかも、です」
「……私も。」
そうしてふたりで、静かに笑い合った。ぬるくなった紅茶、薄明かりの間接照明、少しだけよれてしまった私のブラウスの襟元。それら全部が、なぜかひどく愛おしくて私はそっと彼の肩に額を預けた。鼓動がそっと重なる。何も言わなくてもたしかな『好き』が、そこにはあった。
恋人だなんて言葉、今は使わなくていい。それよりもっと深く、もっと確かなものが今ここに、ちゃんと芽吹いていたから。しばらくして、彼がぽつりと呟いた。
「……ずっと、こうしてたくなりそうです」
「じゃあ、そうしてていいよ?」
そう返すと彼はそっと私の髪を撫でた。不器用に、でも、どこまでも優しく。
その夜、私たちはキス以上のことを望まなかった。ただ触れて寄り添って、少しずつ心の距離を埋めていくように──。
ふたりで長い時間、静かな夜に包まれていた。キスのあと二人ともすぐには言葉を交わせなかった。沈黙は不安ではなくどこか、祈るような時間だった。彼は私の髪にそっと指先を絡める。乱さぬように、怖がるように。その優しさが、くすぐったくて、苦しかった。
一度、肩から額を離して、彼を真っ直ぐに見つめてみれば、彼は驚いたように少し息を吸って、それから胸元に私を引き寄せた。鼓動が耳に当たる。少し速くて、でもそれは、私も同じだった。
「名前さん……ありがとう。」
彼の声がまるで懺悔のように、小さく私の耳に落ちてくる。
「ありがとう……好きです。どうしようもなく」
その言葉が、胸の奥に深く染みた。嬉しくて、どこか切なくて、ふいに泣きそうになる。でも、泣かない。今はただこのぬくもりを静かに感じていたいから。
「……こっちこそ、ありがとう。」
それだけを囁いて私は指先を彼の胸元にそっと添えた。熱を帯びたその場所が、たしかに生きていると伝えている。彼がふと動いてソファに座るように導いてくれる。私もその肩に身を寄せて、一緒にソファに座った。テレビもつけず音楽も流さず、ただ、部屋の小さな灯りだけが私たちの輪郭を柔らかくなぞっていた。
「──そろそろ、帰らないと……ですね」
「うん……」
「……ほんとは、もう少しだけ、こうしていたいですけど」
「うん……私も。」
時間が溶けていく。静かで深くて、あたたかい夜。それは、たとえば誰もいない真夜中の海に、ふたりでぽつんと浮かんでいるような、ちょっとした孤独と、満たされた孤独が、隣り合っているような、そんな、不思議な心地だった。
彼が不意に私の手を握る。やさしく、指と指を絡めてくる。その握り方が、まるで約束のように感じられて私はそっと目を閉じた。キスの余韻がふたりのあいだに残るまま、私はまた、彼の肩にそっと額を預けた。彼の手はそのまま、私の背を撫でるように置かれていて、それは、何かを確認するように、その動きは止まらなかった。
「……ちょっと、なんか。信じられない」
ぽつりと私が言うと、彼はくすりと笑った。
「俺もです。こんなふうに隣であなたの息を感じられてるなんて」
「……」
「……これ、マジで夢じゃないですよね?」
「さぁ。実はどうだろう」
わざとそう返すと彼が少しだけ身を引いて私の顔を覗き込んできた。驚いたように目を見開いた彼が、すぐに目元を緩めて慈しむような眼差しを向けてくる。
「だったら……夢でもいい。でも、朝が来ても、これ、覚えてる夢にしてくださいね」
そう言った彼の声には、ほんの少しだけ震えがあった。冗談にまぎらせようとするいつもの調子じゃない、奥にあるものを掬い上げるような……素直な、響き。
「……夢じゃないよ。ほら」
私は、彼の手をそっと握った。そのぬくもりに彼がほっとしたように息をついたのがわかった。
「……よかった。なんか、あんまり自信なくて」
「なにが?」
「いや、その、俺……こういうの、上手く言える自信が。なにせ人生初の、ちゃんと��好き�≠チて言った相手なんで。」
「え……ほんとに?」
「ほんとに。だから、なんかもう、かっこ悪かったら、ごめんなさい」
「かっこよかったよ。人生初……いちばん。」
その言葉に、彼は目を伏せて笑った。そして、またそっと額を寄せ合い、ふたりで小さな呼吸を重ねる。
「じゃあ……これからも、言ってもいいです?」
「うん、何度でも」
「……好きです。」
「私も。好きだよ」
言葉のあと、ふたりはしばらく黙った。だけどそれは、沈黙ではなかった。繋がったままの手がもう十分すぎるほどの会話を交わしていたから。
今、この夜の続きを、明日に繋げていいのだと思えた。たとえまた、すれ違うことがあっても、たとえ言葉がうまく届かない日があっても、こうして『好き』が、二人を結ぶ夜が確かにあったのだから。
カーテンの隙間から、満ちた月の光がこぼれていた。まるでそれがふたりを照らす静かな灯台のように──。
彼の指先がまだ私の指をゆるく握っている事に気づき、胸の奥で何かが優しくほどけていく音が聞こえた気がした。
時計の針が、ほんのわずかに深夜をまたいだ頃だった。窓の向こうにはまだ満月の名残が浮かび街の灯が遠くに滲んでいた。それでも部屋の中はもう柔らかな夜の静けさに包まれていて私たちはいつのまにか言葉を交わさなくても平気な距離にいた。
ソファの隅に並んで座り、肩と肩を寄せ合ってただ呼吸だけを聴いていた。彼の指先がときおり私の手の甲をなぞるように触れ、そのたびに小さなぬくもりが、胸の奥に灯っていく。しかし彼がそっと腕時計を見た。私は、それだけで悟った。
「……もう、行くの?」
問いかける声が、自分でも驚くほど小さくて、まるで、答えなんて望んでいないようだった。
「……うん。そうしないと、たぶん……帰れなくなっちゃいますんで」
彼は静かに言って、けれど名残惜しさを隠そうとはしなかった。私の髪に一つ口づけを落とすとそのままゆっくりと立ち上がった。私は、黙ったまま玄関までの数歩を、彼の背を見送る。灯りをつけたくなかった。明るくしてしまえば、現実が急に輪郭を持ってしまいそうで。
「……じゃあ、また。」
靴を履きながら、彼は振り返って言った。その声には「また」という言葉にすがるようなほんの少しの不安がにじんで見えた気がした。
「……うん、またね。」
私もそれに応えたけれど今にも泣き出しそうな自分の顔をごまかすために、無理やり笑みを浮かべた。
ドアが開いて、夜の空気がわずかに入り込む。その一瞬だけ、彼がくるりと振り返って言った。
「……俺、かっこ悪くても、またここに、来てもいいですか?」
「うん……来て。かっこ悪くても、待ってるよ」
それだけで彼は満足そうに微笑んで、夜の街へ消えていった。私はそっとドアを閉める。けれどその木の向こうにまだ彼の気配が残っているような気がして、しばらくその場を動けずにいた。
あたたかかったはずの部屋が、どこか少しだけ肌寒く感じたのは、きっと彼の背中にくっついて夜の風までも一緒に連れ出してしまったからだ。それでも胸の真ん中に残された彼の声と手のひらの熱だけは、どれほど時間が経っても静かに灯り続けていた。
まるで、消え方を知らない灯火のように……。いつまでも私の中に、在り続けていたのだった。