夜勤明けの帰り道──高層ビルの隙間から覗く空が、どこか、春めいている気がした。まだまだ風は冷たいのに、それでも、心のどこかがあたたかく緩んでいるのはきっと、彼のせいだと思う。

 最近のホークスは少しだけ変わった。変わったというよりも、素直になったと言ったほうが近いかもしれない。例えば私が職場から出てくるのをなぜか無言で待っていたり。何気なく届くメッセージが『今日は寒くないです?』『上着は持ってますか』みたいな保護者めいた気遣いだったり。このあいだなんて朝から出動要請でバタバタしていたはずの彼が昼休憩中の私のもとへコンビニのおにぎりとお茶を「ついでなんで!」と、笑って差し入れてきた。一体どこがついでなんだろう。
 けれど、そういう一つひとつの気持ちが、手のひらの上にそっと置かれていくようで私は最近、気づくと微笑んでいる始末である。

 ただ、そんなホークスがいまだに��その先�≠フ誘いを口にしないことに私はすこしだけ不思議な気持ちを抱いていた。だって、たぶん、彼のことだから。それこそあの夜、あのホテルの件があった頃の彼ならもっと強引に距離を縮めようとしてもおかしくなかった。なのに今は手すら繋ごうとしない。あんなに浮かれた顔で笑って私の前では安心しきったような態度を見せながら。
 ……あれは、きっと、自制なんだ。彼が、ちゃんと��恋人�≠ニしての時間を大切にしようとしてくれている証なのかもしれない。けれどもう少しくらい踏み込んでくれてもいいのでは?とは思っている。たとえば「今日、うち来ますか?」とか「明日の夜は予定、空けておいて」とか……そういう、いわゆる��夜�≠フお誘い文句を、期待していないわけじゃないのに。先日なんて彼がぽつり「今度、うちに来ます?」と何気なく言ってきたとき「うん」と返したら、彼の顔がみるみる赤くなって「や、でも、無理にとかじゃなくて!そ、その、掃除とか全然で!」と明らかに、しどろもどろだった。ホテルでオスの顔全開で押し倒してきた人とはまったくの別人である。

 ああもう……かわいいなぁ、この人。とか思いながらも私はそこでそれ以上何も言わなかった。たぶん今の私たちは「好き」と言えるようになったばかりのまだまだ未完成な恋人たち。手を伸ばすのも抱きしめるのもちょっとした勇気が要る。だから彼の浮かれたような、でも臆病な瞳を見るたびに私は心のどこかで『はやく襲ってくれればいいのに』なんて、そんなことを思ってしまうのだ。次に彼に会ったら、言ってみようか。ほんの少しだけこちらからお誘いしてみてもいいのかもしれない。だってもう、ちゃんと好きな気持ちは言葉にしなくても、伝わってると思うから。


 *


 金曜日の夜。久しぶりに仕事が重ならなかった夜に、二人で食事をしようということになった。場所は、以前ふたりで喧嘩になりかけたあのレストラン──ではなく、街の喧騒から少し外れた、小さなビストロ。私が選んだ静かな場所だった。メニューを眺める彼の横顔を見ながら私は密かに思っていた。今夜こそは彼からちゃんと誘わせてみよう、と。
 前回のあの夜。彼の瞳に宿っていた感情を私はたぶん、正確に理解している。それは衝動でも、焦燥でもなく、きっとただの��恋しさ�≠セった。それをわかっているからこそ、今回は、もう少し穏やかに。少しだけこちらから隙を作ってあげてもいいと思ったのだ。

「ねえホークスってさ、好きな香りとかある?」
「え? 急に?」
「別に急じゃないけど。今夜の私、なんの香りがするでしょーかっ?」
「え、えーと……なんだろ。ちょっとだけ甘くてでも……ああ、ちょっと鼻くすぐる感じ……?」

 彼が真面目に嗅ぎ取ろうとしているのが、なんだか可笑しくて、笑ってしまう。ああ、もう……ほんとに、かわいいなあ。

「ね、当てたら教えてあげる」
「なんすか、そのゲーム……」
「ほら、ヒーローなら嗅覚も研ぎ澄ませて。じゃないと、敵に香水爆弾とか投げられちゃうかも」

 肩をすくめて言うと彼は「うわ、超現場的」と笑って箸を置いた。そしてそのあとも私は自然なふうを装いながらいくつかの布石を打ってみた。

「今夜は、帰っても特に予定ないんだよね?」
「え? あ、まあ……って、なんです?なにか、良からぬことでも、企んでる?」
「さあ、どうでしょう?」

 わざと口元だけで笑ってみせると、彼はハッとして一瞬だけ目を泳がせた。どうやら私の思惑に気付いたようだ。よし、効果あり。

「誘ってるんだよ、私。ホークスを誘ってるの」

 そのときの、彼の顔。えっ?と真顔でフリーズするその表情に、内心ガッツポーズを決めたのは言うまでもない。

「──ちょ、待っ、……て。」
「んー?」
「え?え……、じょう、だん? ですよ、ね?」
「さて、どうでしょう。」

 お互いの気持ちは打ち明けたのだからこうして少しずつ距離を詰めていくのも悪くない。焦らず急かさず、でも逃さず。私の中で、密かにそんな戦略が生まれつつあった。
 帰り道、タクシーに乗り込む直前。彼の指先がそっと、私の手に触れてきた。握るのではなく、ただ、その体温を分け合うようにして。

「……今日は、なんか、ドキドキしました」
「ふふ。私も。」

 そのまま乗り込むドアの前で、もう一度だけ、彼の目を見上げた。

「ホークス。」
「はい……?」
「次は、誘ってね。ちゃんと、あなたの言葉で」

 そう言った私に彼はしばし言葉を失ったまま、けれど明らかに、耳まで赤くして──

「ぜっ、……善処しますっ!」

 と、訳のわからない敬語で答えた。ああもう。ほんとうにどうしてこんなに、愛しいんだろう。
 タクシーの窓から見上げた夜空は、どこまでも澄んでいた。まるでいつかふたりがちゃんと結ばれるその夜を、約束するかのように。


 *


 その夜、エンデヴァー事務所の小会議室。作戦会議が終わったあともなぜかジーニストとファットガムの二人はそのまま長机を囲むように残っていた。そしてその中央、所在なさげに椅子の背にもたれ腕を組んで座る男がひとり。ホークスだ。彼は落ち着きのない視線を宙に彷徨わせていた。まるで今すぐにでも窓の外へ逃げ出したそうに。

「──で、なんや?」

 ファットガムが口火を切る。声に笑いを含ませながら、わざとらしく机の上に両肘をついた。

「今夜の相談内容は��紳士的な夜のお誘い方�≠ノついて、って聞いとるけど?」
「は?……もう。誰から聞いたんすか、それ」

 ホークスは「げっ」と声には出さず顔だけで叫んだ。そうして、肩をすくめて唇を歪める。

「ミルコ」
「……まった、あの……おしゃべりウサギ……」

 毒づいたちょうどその瞬間、タイミングを見計らったかのように会議室の扉が勢いよく開いた。

「ん、呼んだかァ?」

 話題の中心人物、ミルコが長い耳を揺らしながら中へと入ってくる。軽く汗をかいたままの姿でどうやら通りがかりに冷やかしに寄ったらしい。

「……いや、呼んでないっすけど」
「ほんとかよ?私の耳が��いつまでも本番に挑めねェんだ、助けてくれ�≠チて拾ったけどな?」
「……俺の声じゃないんで、それ!」

 ジト目を向けるホークスにミルコは「あ?」と目を見開く。だが、その顔に怒気はない。むしろどこか弟分を見るような茶目っ気が漂っていた。そんなヒーローたちのやりとりを、ジーニストは無言で眺めていた。手元のタブレットを閉じて、視線をふと緩ませる。まるで弟が背伸びをしようとしている姿を、兄が見守るような目つきで。

「他人には容易く相談できるわりに、なかなか、動かないタイプなんだね、君は」
「う、うるさいっすよ……こっちにもいろいろとタイミングってもんが……」

 ホークスは視線を逸らし、組んでいた腕をほどいた。その仕草に、ファットガムがふっと笑う。

「ホークス。空は簡単に飛べても、こういうのは飛び込むのが、怖いんやろ?」
「う……うるさいです……ほんと、うるさい!」

 笑われて少しだけ照れて、それでもどこか救われて。そんな温かさの中にいたからかホークスはようやく素直に口を開いた。

「今度こそ、ちゃんと……って、思ってて。でも、前科あるんで。なんか、あと一歩が、ね……」

 それはまるで、自分自身に向けた罰のように。ジーニストもファットガムも、言葉では何も返さなかった。ただ、頷いただけ。しかしミルコは、「しゃーないなぁ」とだけ呟いて彼の背を、軽く一度だけ叩いた。

「痛っ……。俺、最近ほんとに悩んでるんすよ」

 ホークスは肩を落とし、いつになく真剣な顔をして、ため息を吐く。

「前に、ほら。レストランでちょっと拗れたじゃないすか。んで、それ以来なんか慎重になりすぎてて……」
「まあ、慎重になりすぎくらいやないとあの子に失礼やしな?」
「はい。でもこのままじゃいつまで経っても次に進めない気がして。で、俺、できればちゃんと、紳士っぽく、今度こそ──」
「ヤリてェってことだろ?」

 ミルコが飄々とした様子で、オブラートという言葉を欠落したみたいに即答した。

「ぶはっ!」

 ファットガムが飲み物を吹き出しジーニストが喉の奥で咳払いだけをして、口元を覆った。ホークスは顔を赤らめて、ばっ!とミルコを見る。

「いや!ほんと、あなたたち、そういう、直球な言い方さ、ほんと……やめれます?」
「なんだよ。めんどくせー男だな、お前って」
「や、せめて……好きな人とちゃんと結ばれたいとか、そういう……!」
「ほう。で?どんなふうに誘うつもりなんや?」

 ファットガムがコーヒーのカップを手にして、首をかしげる。

「い、や……まだ、考えてなくて。だから……そこを、相談に……」
「『今夜、一緒にいてくれませんか』」

 ジーニストがやたらといい声でぽつりと静かに呟いた。

「……は、はい?」
「最も自然で相手に想像の余地を与える。拒否もしやすく、応じればお互いの意思にもなる」
「は、はぁ……。なるほど……」
「言葉の選び方というのは繊細な繊維の紡ぎ方と同じなのだよ」
「……? ふむ、ふむ……?さっすがジーニストさん、言葉の達人すね」
「……いや、待て待て。言い回しが上品すぎやて。初回の夜の誘いにしては、ハードル高いやろ」

 ファットガムがあきれたように言うと、今度はミルコが身を乗り出す。

「だったらよ、今日もう少し一緒にいてェなって素直に言えばいいじゃねーか」
「うわ、ミルコさん……ストレートすぎ」
「うむ。まさにストレートデニムのようだな」
「帰り際にそれっぽく言えば相手が部屋に誘ってくるかもしんねーだろぉ?逆に」
「それ、逆に誘わせる作戦じゃないっすか……!失礼すぎます、それはダメ! ぜったいダメ!」
「あん? 失礼?なんで。」
「実はこの前……そんな雰囲気で。だから、俺、今度こそは、ちゃんと、誘う側でいたいんですってば……!」
「……くだらん。」

 隅の席で書類を読んでいたエンデヴァーが低くつぶやいた。全員がそちらに注目すると、彼は、ため息まじりに言い捨てた。

「好きなら迷わず言え。今夜は帰したくない──とでもな」
「え……」
「それで振られるなら、それまでの関係だったということだろう」

 静寂が流れる。ホークスは口を開きかけてまた閉じた。ジーニストとミルコは、納得したように目を宙にやや泳がせて、ファットガムは、小さく笑って肩をすくめる。

「いや〜、それ言える勇気があるなら、最初から悩んでへんて」
「だが気持ちはわかる。要は覚悟というやつだ」

 ファットガムのあとに続いて、ジーニストが、ぽつりと呟いた。

「ま、最終的にはよ、愛があるかどうかだろ。」

 ミルコがもうこの話は飽きたとでも言いたげに立ち上がりながら豪快に笑う。

「それがあればどんな不器用な言葉でも、たぶん伝わんだろ。……頑張れよ、焼き鳥童貞男♪」
「……! 童貞、って、なんなんすか……もう」

 肩を落とすホークスを見て、ファットガムが、ぽんと背中を叩いた。

「ほんま、可愛いなぁ。青い! 青春か!」

 夜の作戦会議は結局まとまりもせず、いつの間にか雑談に変わっていった。けれどその夜ホークスの心の中にはジーニストの言葉とエンデヴァーの不器用な忠告が、確かに残っていた。


 『──今夜は、帰したくない』


 それは、簡単なようで最も誠実な告白だった。


 *


 その夜、彼女は少し遅れてやってきた。駅まで迎えに出ていた俺は、改札の先で、人波を分けるように現れた彼女の姿を見つけて胸の奥がふっと浮いた気がした。艶のある髪の毛先が、軽やかに揺れている。だけどそれ以上に視線が合った瞬間はにかむように笑ったその顔に俺はまた一段深く落ちた気がした。

「遅くなってごめん。バタバタしちゃって」
「いえいえ、むしろちょうど良かったです」
「……どうしたの? じーっと見つめちゃって」「あ、いや……。今日も、すっごく綺麗ですね」

 言ってからすこし照れて目を逸らした。だけど彼女は「ありがとう」と、いつもの声で、笑ってくれた。その声がたまらなく好きだなと思った。
 タクシーに乗って、予約していた店へ向かう。車内ではいつものようにたわいない話。職場でのちょっとした出来事や今夜の月の話を交わした。気づけば二人きりの時間が自然に馴染んでいる。これまでのぎこちなさが嘘みたいだった。それがきっと……油断だったんだと思う。
 席に通されて、料理が運ばれてくるころには、俺の中で��あの言葉�≠ェ、ずっと渦巻いていた。ジーニストさんの言葉。ファットさんのあいかわらずなからかい。ミルコさんの突き抜けた一言。そして──エンデヴァーさんの、あれだ。

 『好きなら迷わず言え。
  今夜は帰したくない──とでもな』

 背筋がひやりとする。できるか?本当にそんなことが、この俺に。でも、今夜こそ、そう言うと決めたんだ。男を見せるったい、ガンバレ、俺。
 食後、ふたり並んで歩きながら、ふと横にいた彼女が空を見上げた。

「今日は満月じゃないけど……あったかいねぇ、夜風が」
「……ですね。こうして一緒に歩けて、すごく、嬉しいです」

 そのとき、視線がかち合った。バチンっ!と、まるで、弾かれたみたいにして。──今だ。言うならきっと、いま、このタイミングだ……!ここしか、ない! ガンバレ、俺!(part.2)

「……あの、」
「うん?」
「えっと……今夜、もし、予定なければ……」

 声が震えそうになる。格好、つかんでもいい。それでも、目を逸らさずに続けた。

「……このまま、もう少し一緒にいられたらな、って……。」

 沈黙が落ちた。彼女は一瞬だけ目を見開いて、何かを言いかけた。その唇が、何かを探すように開いて、そして……。

「い──っ、痛い、いたたたたたた……っ!」
「え」
「ご、ごめん……!」
「え、……えっ?」
「なんか、朝から何も食べてなかったから、急に胃が……イタタ、ちょっと、気分悪いかも……」

 ──え?

「ちょ……っ、だっ、大丈夫ですか!?」
「うん……すこし休めば、平気かも……」

 慌てて近くのベンチに座ってもらい自販機から水を買ってきて手渡す。さっきまでの自分の鼓動がすっと遠ざかっていく。彼女は顔色こそそこまで悪くなかったが心配そうに眉を寄せていた。

「ごめんね。せっかく、久しぶりのデートだったのに……変な感じに、なっちゃって」
「いえ、ぜんっぜん、全然いいんすよっ。体調のほうが、大事ですからね……!」

 だけど俺の心のどこかがそっと折れていった。タイミングなんてものがあるのなら今夜は俺には与えられなかったんだ。そう思うしかない。それしか自分を慰められる要素が見つからなかった。
 タクシーで彼女を送り届けたあと、運転手に、「近くの公園で下ろしてください」と頼んで一人ベンチに腰を下ろした。夜風が容赦なく無情にも頬を撫でる。

「……やっぱ、俺。かっこつかんね……」

 声に出すと少しだけ楽になった。スマホを取り出して、既読のままのトーク画面を開いてみる。


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名前

今日はありがとう。
とっても楽しかった。
またね、おやすみ。



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 その言葉が今夜のすべてのような気がして俺はそのままスマホを伏せた。
 ──また。そう、またきっと今度こそは彼女が振り向いてくれるような自分になりたい。言葉が届くように。ちゃんと『好きです』と『あなたと今夜は一緒にいたい』と、伝えられるように。
 星のない夜空に、小さく吐き出したため息が、じんわりと冷えて胸の中でまだ温度を持ったまましずかに残っていた。


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