数週間ぶりの再会の夜は、それまでの日々が、嘘みたいに静かだった。その沈黙の深さそのものが遠距離という現実を可視化しているようで私はソファに沈む彼の体温に触れながらほんの微かな羽ばたき——彼の左肩のあたりで一本だけ意思を持つように震える羽根の気配に長い不在で溶けてしまったはずの鼓動が、急に形を取り戻して胸の奥をゆっくりと押し広げていくのを感じていた。

 映画を観ているふりをして隣に並んだまま私はほとんど画面の内容を理解できずにいた。ただ、時おり、くすぐったいほどの緊張に満ちた沈黙が彼から滲み出るたび、ほんの少し肩を寄せると、彼の翼がそれに呼応するみたいに小さく音を立てて震え、その羽根の揺れが窓の外に散った都会の光の粒よりも、なぜだかずっと私の胸を熱くしていくのだった。

「名前さん……最近ちょっと綺麗すぎません?」

 エンドロールが流れ始めたところでホークスが不意に息を吐くようにして呟く。それは、映画の余韻だと言い張れば誤魔化せそうな、けれどその実、冗談に仕立てた本音がほとんど隠れていないような声だった。

「……え、なにそれ。褒めてる?」
「もちろん褒めてます。でも同時に警告してます。俺、今日たぶん、ヤバいです」

 その「ヤバい」という言葉が、どういう意味を内包しているか、私自身すでに知っていた。遠く離れたまま積み重なった日常の空白が再会と同時に一気にほどけて、触れあった一夜の記憶が彼の中でとても素直に息を吹き返し、同時に、私の中でもそれは消えない余熱として沈んでいたから、彼の肩越しに感じる体温のわずかな高まりがいつもの軽口とは異なる気配を孕んでいることがもう触れなくても分かってしまっていた。

「……ねえ、ホークス」

 私はそっと彼の頬に手を添えて軽く指先で方向を導くように、彼の視線をこちらへ向けさせる。その瞳の奥に宿っていた揺らぎは、飢えるような切実さと触れたいという欲求をどうにか押しとどめる努力とのあいだで震えていて、そのふたつが混ざり合うせいで彼の表情には普段は絶対に浮かばない影のようなものが落ちていた。

「こうして隣のにいるだけじゃまだ足りないって思ってる?」

 自分の声が、自分ではない誰かの声音のように穏やかで冷静で、それなのに胸の奥では波が打つようにざわめいていた。彼は目を逸らさず静かにけれど確かな速度で頷いた。

「……思ってます。」
「……」
「思って、しまってますね。ずっと——」

 喉の奥で震えるような低さで紡がれた言葉は、会えなかったこの数週間が彼の中でどんな密度を持っていたのかを、そのまま伝えてくるようだった。

「このあいだ、たくさん触れたでしょ?」
「触れたからこそ知ってしまったと言いますか」
「……」
「この人は俺を受け入れてくれたんだって。でもだからこそもっと奥まで行きたくなるんですよ」
「……」
「気持ちも、身体も……境目が、わからなくなるくらいまで——」

 彼の手が、ついっと私の指をなぞった。羽ではなく、人間の温度を持つ掌で。すこし冷たくて、しかしその奥に熱がある、不思議な矛盾を抱えた温度で私の手に重なりその瞬間、胸の奥で何かがひっそりと震えた。

「……でも、それを言うと、名前さんが困る気がして。ぐっと飲み込むのが、最近ちょっとキツいです」
「……」
「だって、言ってたじゃないですか。こうして、くっついてるだけで、幸せなんだよ?……って」
「う、うん……」
「だから俺も、そうあるべきだって」

 彼の言葉は、決してわがままではなく、むしろ誠実さがそのまま形になったようで、私は、その重さに触れるたび胸の奥が痛いほどやさしくなっていくのを感じていた。

「ごめんね、そんなふうにさせてたの気づいてたのに」

 謝る私にホークスは、すぐに首を振った。

「謝ってほしいわけじゃなくて。ただ……これから先、俺、どんどん好きが溢れていくと思うんですよね」
「……」
「そのたびに触れたくなって、甘えたくなって、抱きしめたくなって、たぶん、止まんないです」

 私は静かに深く息を吸い込んだ。愛されるってこういうことなのだと理解した。信頼という名の勇気を躊躇いなく差し出してくれる人の腕の中で自分自身がどこまでほどけてしまうのかを試されているような気がして、怖いのではなく、ただ、揺さぶられる。

「ねぇ……今日は、一緒に寝よっか」

 そう告げた瞬間、彼の肩の強張りがほんのわずかに抜けて、ずっと張りつめていた剛翼の震えが静かに呼吸を取り戻したように見えた。

「……いいんですか?ほんとに」
「え……?」
「俺、たぶん。ギリギリまで触れちゃうかもしれませんけど」
「……」
「うそです、うそ。寝るだけですよね、一緒に」
「…………、いいよ……」
「へ?」

 まるで、豆鉄砲を食らった鳩みたいにぽかんと口を開けるホークスがあまりに素直で、あまりに可愛くて私は息をこぼすように笑ってしまった。そうして息を整えてから、彼の目を見て告げる。

「わたしも、ホークスに、触れたい——。」

 その言葉を落とした瞬間、彼の翼が、ふわりと動いた。安堵にも、期待にも似た、夜気を優しく揺らす羽ばたきで。
 そして、その羽音が沈黙に溶けていく頃、私の胸のなかでも彼の��もっと�≠ノ呼応するように、静かで確かな熱がゆっくりと育ちはじめていた。焦らず、でも止まらず。ふたりで重ねる夜の、その先へ。きっと今夜はやさしくて、そして少しだけ危うい揺れを孕んだ夜になるのだと思った。


 *


 眠りへと堕ちていくまでのたった数十分ほどの時間が、こんなにも優しい熱を孕むものだっただろうかと、自分でも不思議に思うほどの静けさが寝室に満ちていて、明かりを落とすと、カーテン越しに滲む街の光がまるで水面に映る月の残滓のように天井をほのかに揺らしていた。
 光は一定ではなく車の通過とともにゆっくりと位置を移し、それが、この部屋と外の世界をゆるやかにつなぎながら、遠距離であることさえひととき忘れさせるような柔らかさで、室内を染めていた。
 ベッドはまだ整ったまま緊張と期待のあいだにある白い布のように重心を持たずに静かに横たわっていて、どちらからともなく、布団の端に手をかけたタイミングが重なったときふたりの指先は触れもせず、しかし、気配だけが重なるようにして揺れ合い、思わず小さく笑ってしまった。
 同じベッドに入るのが思えばどれほど久しぶりだったか。東京と福岡のあいだに横たわる距離がその一度の再会を必要以上に特別なものへと変えてしまうことにまだうまく慣れないでいる自分がいた。

「ちょっと暑いんで、脱いじゃっていいです?」

 そう彼が言った声には軽さがあるようでいて、わずかにためらいのような照れ隠しのような普段なら絶対に見せない戸惑いの色が混ざっていて、その細やかな揺れを耳で受け取った瞬間、胸の奥が緩くほどけた。私は「うん」と短く返し、彼が指先でインナーをつまみ上げて脱ぐ仕草をあえて見ないようにして、視線をそっと外した。脱いだインナーを受け取ると私はベッド脇の椅子の上に丁寧に畳んで置いた。その行為自体は何の変哲もないのに、遠距離で触れられなかった時間がその布地さえ特別なものへと変えてしまい私は��見ないようにする�≠ニいう選択肢の裏側に見ればきっと心臓がうるさくなるという確信を抱えていた。

「あ、そんなに丁寧に扱わんでも……」
「……だめだよ。ヒーロースーツでしょ、これ」

 露わになった肉体美。日々の鍛錬とヒーローとしての宿命をまとった身体が視界の端をかすめるだけで、胸の奥に温度が生まれるのを自覚してしまい、それをごまかすように私は先にベッドへと横たわった。ひんやりとしたシーツがまるで私の心の奥を測るような静けさで背中を受け止めて、シーツに刻まれた微かな皺が二人の距離を暗黙に測る小さな境界線のように波打って、その揺れが彼が隣に来る前からすでに私の鼓動をやわらかく震わせていた。

「……大丈夫です?」

 その声音は、いつもの軽やかさをすっかり脱ぎ捨てた、夜の気配に染み込むような低さを帯びていて、私の名を呼ぶよりもずっと静かに、しかしそれ以上に真剣に胸の奥へ届いた。私は頷いた。ただそれだけの合図で彼は迷いを断ち切るように布団の端を少しだけ持ち上げ、柔らかい夜気のすき間へその身体を滑り込ませ私の背後からそっと、けれど確かな意志を持って腕を回してきた。
 私はもちろん、裸ではない。けれど、布一枚のその内側にあるのはお互いの熱がじかに触れ合う限りなく無防備な夜だった。彼の胸に預けた背中と彼が回した腕のあいだに生まれる温度が眠りに落ちる前の現実と夢の境界を曖昧にしながら私をそっと包み込んでいく。

「名前さんの背中……あったかいですね。」

 耳もとに落ちてきたその声は、音というよりもほとんど肌に触れる気配のようで、吐息混じりの温度がうなじから背筋へとかすかに伝い、それだけで、体内の深いところにある鼓動を静かに掬い上げられたような感覚に陥った。
 彼の指先が、私の腕の内側をそっと、羽根でも指でもないただの手のひらでなぞるように滑り、それは単なる接触のための動きではなく、触れる前から求めていることを隠せない者の静かで切実な触れ方だった。その指先が私の皮膚の上で描く軌跡は、たったそれだけなのに、彼が何を欲し、何を抑えているかを雄弁に物語り、背中に感じる彼の呼吸が私たちの間に残された��距離�≠ニいう言葉を、すでに存在しないものとして、溶かしていくのが分かった。

「こらこら。今日は一緒に寝るだけって、言ったでしょ」

 そう言いながら私は自分の声が少し掠れているのを知っていた。もう十分すぎるほど知っている彼の体温が、呼吸一つごとに私をくるんでいく。ふう、とひとつ溜め息を吐いた彼の唇が、そっと私の首すじに触れた。キスとは呼べないほどやわらかく、迷いを残した熱。

「すみません。でも、寝る前に、少しだけ……」

 その囁きは夜の温度よりも低く羽ばたきよりも柔らかく、私の抵抗という名の薄い膜を、そっとなぞって通り抜け、気づいたときにはもう、拒む理由も、拒む気持ちも、どこか遠いところに置き忘れてしまっていた。
 彼の手が、肋骨の下へとゆっくりまわり込み、骨と骨のあいだに、彼の指先の輪郭が沈んでいくような錯覚さえ覚えるほどに動きは慎重で丁寧でそれなのに、確固とした意思を秘めた��抱く�≠ニいう行為そのものだった。腕の輪郭が私の身体の前で静かに重なり、その重さが触れている以上に��受け入れてくれる存在を確かめたい�≠ニいう、切実さに見えて、私は自然と彼の手のひらに身を委ねた。彼の逞しい腕が私という存在を包み込み羽根が、背中の布越しにゆるやかに撫でてくる。
 熱くはない、けれど確かに淡く火照る。直接的ではない、なのに、ほんのわずかな動きごとに、��求められて欲されている�≠ニいう事実が、驚くほど静かに、しかし、深い場所で脈打っていた。
 彼の手がそこにあるだけで、羽根が、かすかに触れるだけで、遠距離で固く閉じていた扉の鍵がひとつ、またひとつと音を立てずに外れていく。

「……好き。」

 ふいにこぼれた私の声は夜の底に沈んだ灯りがそっと揺れるように小さく、それなのに胸の奥の芯を震わせるほど確かな温度を帯びていて返事を待つまでもないのに、それでも今、彼の声が必要だった。

「俺も……好きです、ほんとに。」

 その言葉が落ちてきた瞬間、唇の柔らかい感触が後頭部を掠め、次いで耳の裏へと静かに触れ、首筋をなぞる指先が、触れたところから少しずつ眠りではなく愛そのものへと近づいていくような溶けるような熱を描いていく。それは決して眠るための抱擁ではなかった。眠りに辿りつくまでのあいだにお互いが遠距離という名の空白の向こう側でどれほど愛を溜めてきたかを確かめ合うための、静かな、そして限りなく深い抱擁だった。
 彼がそっと、自分の脚を私の脚に絡めてくる。脚先がかかとに触れ、太ももが太ももに寄り添いそのわずかな体温の交換が心臓が触れ合っているような近さに変わっていく。
 うなじをくすぐる吐息が息というよりも、私の名前を呼ぶ声をぎりぎりまで飲み込んだ想いそのものみたいで彼は何度も私の名を口にしないまま呼び続けていた。言葉より深く沈黙より雄弁に。

「名前さん……俺、今、すごくしあわせです」

 あまりに真っ直ぐで、あまりに、温度を帯びたその言葉に私は無意識のうちに後ろへ手を伸ばしそっと彼の指先へ触れた。それは呼び水ではなかった。誘いでもない。ただ触れたいという気持ちが、触れられたいという気持ちと、等しい密度で満ちていて、けれども、行為へと踏み込まなくてもいい、この静かなやすらぎを壊す必要はないと、ふたりとも自然に理解していた。
 何も起きなくていい。ただ、このままがいい。触れることのすべてがもう、行為に近づいていたから。

「……わたしも、しあわせ。」

 言葉にしてもすぐには信じてもらえないくらい彼の腕のなかは温もりにあふれていた。不思議なくらい、温もりにあふれたその腕の内側で、私のまぶたは静かに重くなり眠りがひらいていく扉の前で、私は自分が今どれほど愛され、そしてどれほど愛しているのかを、ようやく深いところで、理解した気がした。
 眠るという行為がこんなにも官能的で、こんなにも静かで、そして、こんなにも愛おしいものになるなんて、想像したこともなかった。

 背中をゆるやかに撫でる彼の羽根が、風をつくらず、ただ、温度だけを残すようにして、まるで、子守唄の代わりに私を眠りへ導いていく。遠くへ飛んでいくための羽根が、今夜だけは私を抱きしめるために使われているのだと思うと、胸の奥があたたかく滲んだ。
 このまま夢の中でも、彼の腕のなかにいたい。抱きしめられていたい。そんな幼い願いを誰にも聞かれないよう心の奥でそっと呟きながら、私は静かにゆっくりと、彼の温度に溶けるようにして眠りへと落ちていったのだった。


 *


 ふわりと髪を撫でるような感触がまだ夢の奥に漂っていた意識をそっと浮かび上がらせまぶたの裏に薄く朝の光が染み渡ってくるのを感じながら私はそれが現実なのか夢の続きなのか判断できず呼吸だけがゆるやかに胸の奥へと満ちていくような、そんな曖昧で幸福なまどろみの中にいた。
 ゆっくりと目を開けると、視界の端でひとつ、赤いものが揺れた。羽根——。まだ醒めきらない意識のまま、私は無意識に手を伸ばし、その赤い羽根をそっと指先でつまんだ。羽根は細く震え、私の指を確かに感じ取った。

「剛翼……あんまりいじっちゃだめですよ」

 背後から落ちてきたやわらかい声が昨日の夜のすべてを一気に思い起こさせ胸の奥が静かに熱を帯びていく。

「おはようございます、名前さん」
「……ん、おはよう。」

 彼に背を預けたまま小さく身じろぎをすると、シーツの中で肌が擦れ、まだ夜の名残がまとわりついているような温かさに包まれた。同時に赤い羽根が今度は、額へそっと触れて、朝の光よりも優しい温度でそこを撫でてくる。先よりも意図のある触れたくて触れている動き。私は目を細め、くすくすと笑った。

「ねえ、ホークス」
「はい」
「……昨日の夜、ほんとは起きてたでしょ?」

 その瞬間、羽根の動きがぴたりと止まり、背中越しに伝わる彼の鼓動が一拍、跳ねたように思えた。
 
「……え、なんのことです?」
「とぼけないで。私が寝たふりしてたの気づいてたでしょ?」

 ほんの一瞬だけの沈黙のあと彼は堪えきれなくなったように、くつっと笑い声を漏らした。

「名前さんの肩が、すごい緊張してたんですよ。寝てるのに呼吸が全部、構えてる感じだった」
「えっ、ばれてた……の。」
「可愛すぎました、あれ。必死に寝たふりしてるの、もうずっと抱きしめてたくなった」
「……ひどい。起こしてよ」
「いや……俺も、正直ドキドキしてたんで。次に動いたら、自分が止まらなくなるって思って」

 言いながら彼の手がそっと私の髪へ触れ、羽根ではなく指で一本一本を梳くように根元からゆっくり撫でていく。そのたびに、頭皮の奥から体の深い場所へ、声にできないほど静かな余韻が広がっていく。

「触れてるだけで満たされてるのに……どんどん欲しくなるんです。ずるいですよね、人間って」

 その言葉があまりにも真っ直ぐで胸の奥がじんわり温かくしびれ、私は何も返せないまま、ただ彼の手のひらの温度の中で、微笑むことしかできなかった。

「じゃあ、次は……起きてても起こしてね」
「了解です。じゃあ次は起きてるふりで誘導してもいいですか?」
「……ちょっとそれは、高度すぎるかも」
「でも、俺が限界ですってとこまでは、誘導していいんですよね?」

 彼の唇が、私の髪へそっと落ちた。そのほんのわずかな温度に、胸の奥がふるりと震え、夜とは違う朝の静けさの中で身体の奥にじわりと愛情が広がっていく。

「ねえ。ヒーローからの朝イチのぎゅー、欲しくないです?」
「……間に合ってるよ、大丈夫。」
「またまたぁ〜、素直になりましょ?」
「……」
「間に合ってても、抱きしめます」

 ああ、こういう朝が、いちばん��好き�≠�実感するのだと思った。夜の熱ではなく朝の光の中にある穏やかなぬくもり。それはもう恋という言葉では足りない。たぶん、愛と呼んでしまっていいものなのだろう。

「あー、このまま、銅像になってもいいすね」
「えっ、オールマイト像みたいに?」
「そーそー、俺が記念碑として立てますよ」
「あっ……大丈夫、間に合ってます。」
「ははっ、間に合ってるかー」

 彼に抱きしめられたまま迎える朝の幸福が私の胸の奥にゆっくりと満ちていき遠距離であることさえ今だけは霞んで消えてしまうような、そんな静かで、平和の象徴みたいな朝だった。


 *


 最近の彼とのやりとりはほとんどがスタンプと短い『会いたいです』という言葉ばかりで文章という形の温度があまりにも少なくまるで遠距離という現実が、そのまま文字数へと反映されているようで彼が今どれほど仕事の山に埋もれ、呼吸を整える暇もないのだろうということが返信の間隔から滲み出ていた。
 気づけばこの一ヶ月、会っていなかった。会えないという事実は日常に紛れれば、痛みではなく鈍さとなって、逆にじわじわと胸を締めつける。

 『また落ち着いたらね』

 その定型句のような返事を何度送ったかさえ、もう思い出せなくなっていた。
 今日も同じように仕事帰りの夕方の電車で揺られながら、習慣のようにスマホを開いた。視界の端を流れていく窓外の街の灯りを見送りながら、疲れの底に沈む自分自身を確認するようにSNSの画面をスクロールしたとき不意にひとつの通知が画面に浮かび上がった。


【闇の支配者さんがあなたをフォローしました】


 ……えーと、誰?闇の支配者?これまた随分と強めのアカウント名だ。��厨二病�≠ニいう言葉がぴたりと貼りつくほどの濃度で。
 共通フォロワーを確認すると大学の友人のタグから辿ったらしく、昔、飲み会か何かで関わったことがあったのかもしれないと、特に嫌な記憶で身に覚えのある関係でもなさそうだし、まあいいかと軽くフォローバックだけを済ませた。しかしこれがすべての引き金だったのだとはこのときの私は、思いもしなかった。


 ——夜。帰宅をして靴を脱ごうとしたちょうどその瞬間、鞄の中でスマホが震えた。その振動はいつもより重く、胸の奥へ妙に鋭く落ちてくる。
 画面を開く。そして目に飛び込んできた数字に冗談抜きに、呼吸が止まりそうになった。

【22件の通知】
【ホークス:新着メッセージがあります(20)】

 ……え?なに?え、ちょっと待って。新着メッセージ22件のうち、20件がホークスってこと?
 胸の奥で何かが急に落ちるような息が逆流するような、言葉にできないざわつきが走ったのに、それでも指だけは私の意志を置き去りにしたまま勝手に画面を開いてしまい、気づいたときには、もう取り返しのつかない現実が目の前に広がっていた。そして、その先にあったのは、ひとことでいえば——地獄だった。


ホークス

ねえ、名前さん
誰です?この人


ホークス

【スクリーンショットを送信しました】


ホークス

ねえ、本気で誰ね?
知り合い?


ホークス

ていうか
なんでフォロー返したんですか


ホークス

ヒーローホークスと
付き合ってるって
知ってます?その人


ホークス

いや知らんよな
俺が公にできてないから


ホークス

それ俺のせいじゃん


ホークス

名前さんのフォロー欄見るたび
心臓削れてるんですけど


ホークス

今俺がどれだけ名前さんのことで
頭いっぱいか知ってます?


ホークス

ていうか今も任務中ですけど
手、震えてるんですけど


ホークス

しんどい


ホークス

しんどかーです


ホークス

息できない


ホークス

これじゃ飛べん


ホークス

は?好きすぎるっちゃけど


ホークス

好きなのになんで
俺だけじゃだめなのかなって
不安になるの嫌なんですけど


ホークス

好きです


ホークス

羽根ばら撒きます


ホークス

ちょっと泣きそうなんで
剛翼で顔おさえてます


ホークス

やっぱり好きです






 私はスマホを握ったまま力が抜けたようにその場にぺたんと座り込んでしまった。床の冷たさが膝を通してじわりと伝わってくるのに胸の奥だけは逆に熱くて息が整わない。この人、ほんとに。
 きっと、いろんなものが限界だったのだろう。仕事でギリギリまで追い詰められて、会えなくて苦しくて、それでも��ヒーロー�≠ニいう肩書きの向こう側にいる、私の存在だけは手放せなくて。けれど、自分が守るべき相手を一番近くで見られないという現実だけは、どうやら、彼の理性でも抱えきれなくなっていたらしい。
 でも正直に言えば、軽く引いた。いや、だってこれ……仕事中に打ってるよね?何羽分の打鍵で送ってきたんだ、この怒涛のメッセージは。そもそも『羽根ばら撒きます』ってナニゴト?抗議?威嚇?それとも、祈りみたいなもの?
 愛情の暴走なのはわかっている。けれど、その暴走の仕方があまりにもホークスすぎて、あまりにも彼らしくて、笑うべきか胸を締めつけられるべきか分からないまま私は胸の奥に渦巻く動揺を押しつけるようにして深呼吸をひとつ落とした。そして、揺れる親指で画面をなぞりながら、ゆっくりと返信を打ち始めた。


名前

お疲れさま


名前

闇の支配者さんは
友達の知り合いだと思う
心配かけてごめんね


名前

でも、その量はやばい
ちょっと怖かった(笑)


名前

あと羽根は
ばら撒かないで


名前

私も好きだよ
お馬鹿さんヒーロー






 送信ボタンを押した指先は自分のものではないみたいにかすかに震えていて、その震えの余韻がまだ残るうちに、画面の右下に小さく��既読�≠ニいう文字が灯りそれがまるで深い夜の底で小さな火が、ぱちりと弾けるように静かに広がっていき息を整える間もないほどの速さでそのすぐあとに返事が落ちてきた。


ホークス

お馬鹿さんって言った……
泣きます


ホークス

でも好きって言われた……
回復しました


ホークス

羽根のばら撒き中止します


ホークス

あの今夜
寝る前に電話してもいいですか?






 その、子どもみたいに甘える最後の一行に私は思わずスマホを額に当てて噴き出す寸前の笑いを押し殺すように、くすくすと、笑ってしまった。『好き』という感情が暴走する日もきっとある。不安が胸の底をくすぐって心の支えをほんの少しだけぐらつかせる夜もあるだろう。だけどそんな乱れやめんどくささごと、この人は本気で、私を想ってくれているのだと痛いほど分かるからこそ私はその全部が、どれだけ騒がしくてもどうにもこうにも、愛おしかった。 
 ——さてと。この鬼メッセージの代償として、次に会えたときには一回くらい、お説教を入れておこう。でもその後でちゃんと言ってやるのだ。

 「私のこと、ものすごく大好きなんだね」

 って。きっと彼は、あの困ったような、優しい表情で否定も肯定もできずに一瞬だけ言葉を失いその沈黙を埋めるみたいに、最後は、あの眩しいくらいの笑顔をこちらへ向けてくれるのだろう。まるで、照れも不安も全部まとめて、羽根の奥に隠してしまうみたいに。

 夜が深まりきって音を手放した頃、時計の針が静かに、午前一時半を指していた。さすがにそろそろ寝ようとスマホを伏せ、シーツの皺を指先でならすように、ひと息ついた、その直後だった。枕元でバイブレーションが震え、その震動が夜の静けさを、小さく乱す。画面にはホークスの名前。いや、彼氏からの着信が光っていた。いやいや、着信なんてもんじゃない。これはもう、ほとんど��警告�≠セった。

「も……もしもし? お疲れさま。」

 すでに眠りかけていた声をどうにか整えながら応じると、受話器の向こうからは、疲労と安心が混ざり合ったような低く掠れた声が落ちてきた。

『うわぁ……声、聞いたら安心しました。あっ、今、大丈夫でした?』

 その一言に私は思わずまぶたを閉じた。ああ、まただ。彼はいつもこうして、私のたった一声に自分の呼吸ぜんぶを預けてしまう。

「うん、大丈夫……てか、そんなに?」
『そんなに、です。もう限界です。会いたいです。ほんとに』

 言葉はやさしく軟らかいのに胸の奥に刺さると鋭くて、羽根の先端みたいに、細い痛みが走る。遠距離の「会いたい」は、ときに甘さではなく、刃になるのだ。

「私も会いたいよ。でも、当分は無理でしょ?」
『無理ですね。でも、気持ちは会ってます。今すぐ飛びたい』
「だめです。夜間飛行禁止です」

 そんな他愛ないやりとりに、ようやく、小さく笑いが混じり、このまま「おやすみ」を言って、再び眠りへ落ちようとした、そのときだった。

『——で、あの闇の支配者、なんでフォローしてきたんですかね?』
「……はい?」
『常闇くんかと思って、わざわざ本人に確認しましたからねー、俺。やれやれっすよ』
「え……。と、こ、…………それ、誰?」
『常闇くんは常闇くんですよ。いや、もうね安心してたんですけど、でも気になって仕方なくて』
「は、はぁ……そっか」
『んで、何がきっかけだったんです?名前さんが写ってる投稿とか?ストーリーで何か匂わせありました?共通のタグ?リール?それとも��前から見てました�′nのやつですか?』

 ああ、始まった。始まってしまった……。このヒーローは、こういうときだけ妙に、息が長い。もはや、息継ぎなんて概念がないのだろうとさえ思う。そう、ここからが��本編�≠セった。どうぞ皆様、ノーカットでお楽しみください。

「……もう、夜中だから、さ。……寝よ?」
『寝れません、はい。さっき会いたいって言ったあとに思い出して、また胸がぎゅうってなってるんで。心臓の羽根がバサバサしてて』
「いやいや。羽根だって、お疲れでしょ?しかも、心臓の羽根ってなに。ないでしょ、そんなの」
『あります。俺の中ではあるんです。嫉妬羽根』
「なにそれ……怖いってば」
『もう一回、あの人のアカウント覗いて確認していい人そうって思ったら、逆に、辛かったんですけど?』

 私はスマホを胸の上に仰向けにしたまま、アーメンみたいにその上に手を組んで、天井の白さをじっと見つめて、深く長い息を吐いた。胸の奥に溜まるのは呆れでも怒りでもなくただ、やっぱりこのヒーローはホークスだな、という救いようのないほどの、甘い実感だった。

「相手もびっくりだよ……プロヒーローホークスからの足あとついてたら。もう、やめな……?」
『足あとなんて知らんですよ。許可なく、勝手に俺の彼女をフォローした人が悪いでしょ』
「……わかったから、ね? 落ち着いて」

 できるだけ声の温度を低くして、宥めるように言ったつもりなのに、向こうの彼はまったくブレーキを踏む気配を見せなかった。

『落ち着いてます。でも、聞いてください。あの人なんの意図でフォローしてきたんです?どういう経緯で?何時間前?どのタイミング?あと、名前さん、返信とかしてないですよね?』
「してません。フォロー返しただけ。ていうか、返信してたら、どうするの?」
『羽根ぜんぶ白く染まります』
「ははっ、すごいねー。意味はわからないけど」

 笑いながら言ったものの、その笑いは疲労でも皮肉でもなく、もう、本格的に手遅れなのだなという、諦めにも近い甘さだった。
 時刻は深夜、午前2時25分。都会のどこかでまだ灯り続けるネオンの光とは裏腹に寝室の光は完全に落ちていて暗闇の中で響く彼の声は距離のぶんだけ濃度が増して耳に沈んでくる。
 トーンを変えても、話題をそらしても、沈黙で返してもこの人の��執着回路�≠ヘ一度火がつくと止まらない。羽根をバサバサさせながらこちらへ向かって突っ込んでくるときの、あのスピードのまま感情まで飛んでくる。なので私は仕方なく、そして深夜の安息のためにも無理矢理に、電話を終話することにした。「じゃあね、おやすみ」と告げ、通話終了の赤いボタンを押した、その直後。ほんの一秒の静寂を置く間もなく、画面が激しく明滅した。



ホークス

大変です!!!!!


ホークス

俺の商売道具
個性の剛翼が
白くなりかけてます!


ホークス

会いたくて
剛翼が震えてます


ホークス

今すぐ会いに飛んで行ったら


ホークス

息が止まるほど


ホークス

抱きしめてくれますか?






「………。」

 ……平成のラブソングかっ!!西○カナなの?画面を見た瞬間、心の中で思わず全力のノリツッコミが炸裂し、でも声には出さずに、ただ静かに深く深く、ため息だけが落ちていった。
 ああ、もう本当に疲れた。そして本当に眠い。眠いよ、私は……。まぶたの裏では街灯の残光がまだかすかに揺れているのに、彼の全力で愛してますみたいなメッセージの洪水に押し流されて、脳の処理能力はとっくに限界を迎えていた。
 明日の朝は早いのに。早いのに、どうして私は今、深夜の三時に剛翼の色変化報告を受けているのだろう……。
 でも、このどうしようもない可笑しさと呆れと愛しさが混ざった疲労感も含めて、私はやっぱりあのヒーローが好きなのだと思ってしまうから、余計に眠れなくなるのだった。


ホークス

既読ついたのに
なんで返信こんと?


ホークス

あ。もしや……
闇の支配者と話してます?


ホークス

いや冗談っすけど


ホークス

でも冗談じゃなくなったら
どうしようって
一人でぐるぐるしてます


ホークス

好きです


ホークス

怖いです


ホークス

でも好きです


ホークス

一生好きです


ホークス

いつ寝たらいいですか?


ホークス

起きたら名前さんが
隣にいる世界がいい






 只今の時刻、午前3時14分——。
 画面の光だけが寝室の天井を淡く照らしていて私は、布団の中でスマホを胸に抱きしめたまま、眠れない瞳を静かに閉じた。
 ブロックしようかな……と一瞬だけ本気で頭に浮かんだ。いや、もちろん冗談だけど。

 彼の声が文字の向こう側で生々しく鳴り響く。��会いたい�∞�限界�∞�好き�∞�怖い�≠サの全部が深夜に触れるとやけに重くやけに甘く、やけにめんどくさかった。けれど私は同時に、そのめんどくささが、ホークスという人間の根底にある、誠実さや不器用さや真っ直ぐさの証明でもあるのだと思っていて、こんなふうに一途で狂気じみたほどに私を欲しがって、遠距離の闇の中でひとり胸を掻きむしっている彼を、私はやっぱり、どうしようもなく好きで、仕方がなかった。
 めんどくさいけれど、愛されてるって、きっと、こういうことなんだろうと再確認した深夜三時。自分でも驚くほど静かに、そう納得していた。

「……おやすみ。マイヒーロー。」

 誰にも届かない小さな呟きが暗い部屋の空気へそっと溶けていき画面の向こうで暴れていた彼の羽根が、そのまま夢の中へ落ちてきそうな気配を残したまま私はゆっくりゆっくりと、まどろみの底へ沈んでいった。
 愛される苦しさも、愛する幸せも、ぜんぶ胸の奥で静かに折り重なって夜の深さが私を眠りへと許してくれた。こうして今日も長い夜がようやくやわらかい余韻を残して終わった。


 *


 目覚ましが鳴ったのは、たった三時間後のことだった。寝起きの視界にじんわりと白い靄が立ちのぼり、まだ夢と現実の境い目がほどけきらないまま手探りでスマホを開けば、未読メッセージの数字が容赦なく画面中央に突き刺さるように表示されていて、その数、なんと、55件……。
 ああ、今日も変わらず彼は私に、恋をしているらしい。夜通し、ずっと——。その事実に、胸が温かくなるのと同時に、深夜の攻撃を思い出して頭がじんわりと痛くもなる。私はとりあえず無言で既読だけをつけた。内容は見ない。そんな余裕はまだなかったから。
 スマホの画面をそっと消すと、胸の奥で小さく波立つ疲労と愛しさが、どちらも根を張るように静かに沈んでいった。

「ああ、頭痛い……頭痛薬、あったっけ……」

 朝の光がやけに遠く感じられたのは、単純に、睡眠時間が三時間を切っていたせいで、洗面台で冷たい水を顔にあてると、その冷たさがようやく意識の輪郭をはっきりさせてくれた。
 鏡に映る自分の目元に薄い影が落ちているのを見つけたとき、その影の理由が、手のひらに残るスマホの重みとそこへ溜め込まれた彼の一晩分の愛情であることは言うまでもなかった。
 支度を進めるうちに、ようやく身体が朝を受け入れはじめ、通勤バッグに化粧ポーチと、財布を放り込み、仕事へ向かうための��いつもの形�≠�淡々と整えているとふと部屋の静けさを破るようにして小さな振動が机の上で連続して跳ね、そのわずかな震えが、寝不足で鈍った神経に妙にはっきりと染み込むように伝わってきた。
 画面をのぞくと、そこにはまた新しい数字が、灯っていた。

【ホークス:新着メッセージがあります(3)】


ホークス

おはようございます


ホークス

今日の夢
名前さんに謝ってました
正座で


ホークス

夢の中でも俺って
めんどくさいんですねぇ……
精進します






 スクロールする指が、ほんの一瞬止まる。あれだけ深夜に狂ったようにメッセージを送りつけてきた人間が夢の中で正座して反省とは、ずるい。可愛すぎて、簡単に許してしまいそう。ああ……チョロいな、私も。
 まだ髪も整えないまま私はソファに腰を下ろしぼんやりした頭で返信を打った。


名前

おはよ


名前

正座してたんだ(笑)
えらいね


名前

でも現実でも
反省してください


名前

あと今日はちゃんと
寝てください






 送信してスマホを置いた瞬間、画面右上のSNSアイコンがふと視界に入り開いてしまったことがこの日を地獄へと傾けた、最初の一押しだった。
 そして、通勤時の電車の揺れの中、次に職場のエレベーター前。あとは、休憩中の自販機の前。そのどれかのタイミングでスマホが小刻みに震え続けていた。

【ホークス:新着メッセージがあります(16)】



ホークス

ログインしてましたね


ホークス

夜中の2:53


ホークス

あと俺が夢で
謝ってたって送った10分後


ホークス

しかも既読ついてたのに
返信遅くなかったです?


ホークス

というか
誰の投稿見てたんですか


ホークス

あの人ですか
闇の支配者


ホークス

相手のストーリーとか
見てないですよね?


ホークス

ミュートしてます?


ホークス

いやミュートしたってことは
逆に気にしてるってこと?


ホークス

俺の羽根でスマホ包んで
おきたいんですけど


ホークス

剛翼スマホケース作ります


ホークス

ロック解除も羽根認証にしたい


ホークス

それでも足りない……


ホークス

好きです


ホークス

でも怒ってないです
(嘘です、少しだけ怒ってます)


ホークス

でも好きです(圧の2回目)






 ……なんなの、この人。私とのメッセージ欄を投稿画面と間違えてツイートしてるわけじゃないよね?私の表情は苦笑いを疾うに超えて無表情になっていた。これが、我が国のトップヒーロー。思わず無表情から笑いそうになったけれど昼休みに入ったカフェの中で吹き出すわけにもいかず、私はそっとスマホを伏せた。
 SNSにログインしただけでこの騒ぎ。しかも、深夜に見ていたのは、ただの猫のリールと知人の旅行写真だけだ。彼はここまで騒ぎ散らかす割に私をフォローしているわけでもなく。そういえば彼のフォロー欄をまじまじと見たことがないな。今度、覗きに行ってみようかな。でも、足あとをつける方がもっとめんどうなことになりそうでもある。私はひとつ深呼吸をして、返信を打った。


名前

昨日の夢、謝ってた割に
また騒いでるね


名前

2:53にログインしたのは
寝れなさすぎて猫見てただけ


名前

ていうか見てたの、猫😺


名前

ね・こ🐈😺


名前

剛翼ケースはやめてください?


名前

好きだよ、わたしも(たぶん)


名前

でもちょっと引いてます(本音)






 送信した途端、返ってくる通知の速さとこちらの返事の温度をそのまま読み取って反応してくるその即応性に、私はまた小さく笑った。
 めんどくさい——そう強く思う。執着も束縛もちょっと重い。彼は私の世界に、あまりにも真剣すぎて踏み込み方が時々、本当に息苦しい。でも本当の『好き』ってたぶんこういう温度なんだと思う。息の詰まるような衝動や深夜の嫉妬のバタつきや夢にまで滲む不器用な反省やスマホを羽根で包みたくなるほどの所有欲や。そういう面倒さ全部をひっくるめて彼は私を好きでいてくれる。めんどくさい。本当に。でも……

「……愛されてるなぁ、わたし。」

 自分の声が思いのほか柔らかくて少しだけ照れくさかった。次に会えるときは、彼の好きなコーヒーを買って帰ろう。剛翼スマホケースよりも、ずっとまっすぐに応える方法はたぶん、そういうやわらかな気遣いなのだとふと思ったのだった。


 *


 再会は東京——。センターの屋上だった。日が落ちきる手前のあの一瞬だけ世界が金色に止まるような時間帯でビルとビルの狭間から覗く夕日が空の端をかすかに染め、まるで空そのものがゆっくりと深呼吸しているように思えた。

「名前さん」

 背後から呼ばれた声に振り返ると、そこには、ヒーロースーツのジャケットの裾を夕風に揺らしながら、どこか、バツが悪そうに笑う彼が立っていた。

「お久しぶりです……。約ひと月ぶりの��本体�≠ナす」
「文字のゴーストには毎日、遭遇してたけどね」
「あ、それ俺っすね。たぶん三十二分身くらいで稼働してました」

 軽い調子で言いながら彼は数歩だけ距離を詰めてくる。その動きにはどこか照れとやっと会えたという安堵が混ざっていて、私は彼の好みのコーヒーを差し出した。彼はそれをまるで宝物みたいに両手で受け取ると、少し俯き気味に告げた。

「ほんとはさっきも名前さんが猫の投稿にいいねしてるの見て会う前からちょっと心がぐらついてました」
「え、なんで?」
「猫にも嫉妬しそうになってました。この生き物俺より名前さんの目ェ、引いとらん?って」

 私は吹き出しそうになるのをこらえて、指先で目元を押さえながら答えた。

「じゃあ猫じゃなくて鳥にしとけばよかった?」
「それはもっとだめです!鳥担当は俺だけばい!じぇったい俺以外ん鳥科は、見らんとって!」
「それはやばいよ。嫉妬ラインの赤信号を、通り越してる」
「ですよね……でもそれくらい名前さんのことが好きなんですよ」

 淡々と、まるで天気の話でもするみたいに言うのが、本当にずるいと思う。しかし、その言葉の奥には、溶けそうなほどの本音が、静かに染みていた。

「名前さん、大丈夫でした?」
「ん? なにが?」
「俺と会えなくて、寂しくなかったと?」
「……大丈夫だよ」

 そう答えた瞬間、自分の声にわずかに含まれた��嘘ではないけれど本音でもない温度�≠�、彼が気づくかどうか私はほんの一瞬だけ息を潜めた。夕日の名残が薄く残る屋上の風はひんやりとしてでも胸の奥に広がる空白だけはどうしても隠しきれなくて彼に会えなかった夜の重さがほんの少しだけ指先に滲み出る。
 そのささやかな震えを悟られないように私は、笑みの形だけを整えた。

「ねぇ、それで……最近、ほんとにさあ?」
「はい、なんです?」
「剛翼スマホケース、作ろうとしてない?」

 彼は一瞬だけわかりやすく目を逸らした。私はその小さな反応を取りこぼさぬよう、じいっと、彼を見つめ続けていた。

「……え、してないっすよ」
「嘘だ。さっき革製にしたら耐久性増すかもって送ってきてたじゃん」
「それはぁ……あれです!妄想を共有しただけであって、まだ、実行には——」
「まだ? やめて?実用段階まで行かないで?」

 私が念押しすると彼は苦笑しながらも、すぐに真剣な眼差しへと戻った。

「ほんとは剛翼じゃなくて手で包んでおきたいんですよ」
「……手? ホークスの?」
「そう。でも、距離とか時間とか、俺の立場とかいろんなもので、それができないんで……」
「うん……」
「だからせめて、少しでも、俺の存在を感じててほしいって思っちゃうんです」

 その言葉に、私の胸の奥はきゅうっと痛むほど強く鳴った。
 この人(ヒーロー)は、私が思う以上に不安になりやすく私以上に私を大切にしていて、そして何より——ほんとうに、まるごと、私を愛してくれている。

「好きでいてくれてるの、わかってるよ?」
「でも、足りない。足りてても、伝えたい。何度でも。」

 そう言って、彼はそっと、手を伸ばしてきた。指先が私の頬をすくい、羽根ではなく人としてのあたたかい手のひらで、私の顔をそっと包み込む。

「会えてよかったです」
「……」
「嫉妬して剛翼ケース妄想してた俺も、今ここにいる俺もぜんぶ、あなたが好きなままです」

 その真っすぐすぎる言葉に、思わず私は笑ってしまった。でも、胸の奥がじんと熱くなるのを、どうしても隠しきれなかった。

「……ほんと、めんどくさいくらいに好きでいてくれて、ありがとう」
「はは……。どういたしまして」
「じゃあこのあとは、ちゃんと、その手で包んでください。剛翼じゃなくてね」
「——はい、喜んで。」
 
 そう言った瞬間、彼の背後で、剛翼がふわりと揺れた。それは風のせいではなく彼自身の感情の動きがそのまま形になったような、静かで幸福な振動だった。その揺れに気づいた私が、一瞬だけ瞬きをすると、彼はまるで何かを決意するように息をひとつ吸い、次の瞬間、私の手をそっと握り返してきた。強くも弱くもない、でも絶対に離す気はないという意志だけがその手のひらの温度と指の絡み方に滲んでいて私はそれだけで胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。けれどそれで終わりではなかった。ほんの一拍の間、彼は何かを迷うように目を伏せ、それから、ゆっくりゆっくりと我慢という名の理性をそっと脱ぎ捨てるように、私の身体を腕ごと抱き寄せた。
 まず指先が私の背中へ滑り、次いで、腕が私を包む形に回り、最後に、彼の胸が静かに触れた。

「……すみません。手だけじゃ全然、足りませんでした」

 耳元でこぼれたその声は羽根よりも柔らかくて夕日の残光みたいに切なくて、触れられた温度がそのまま心臓の奥まで落ちてくるようだった。
 私は驚いたまま息を呑んで、でも、逃げる理由なんてどこにもなくて、彼の腕の中でゆっくりと瞬きをした。

「……うん。いいよ」

 私がそう答えると、彼は解けるように息を吐き腕にほんの少しだけ力を込めた。羽根は揺れるのではなく静かに落ち着き、そのかわりに抱擁だけが確かな重みを持った。
 ヒーローとしては百戦錬磨。けれど恋にはとことん不器用で一途で、めんどくさくて、可愛くてどうしようもなく、私のことが好きな人。そんな相手と今日また再会できたことを、夕日の余熱のように胸に抱きしめながら、私は心から、嬉しく思っていた。

「……ホークス、あったかいね」
「名前さんが近くにいると勝手にあったまる仕様なんですよ。……バレてます?」
「うん。ぜんぶバレてる」
「やっぱり……隠せないですよねー。好きって」
「うん、隠せないよね」

 夕風がふたりの間を抜け、彼の羽根がかすかに揺れた。その揺れを見て、私はそっと微笑んだ。そして、この瞬間だけは遠距離という現実の間にあった距離全部がふわりとどこかへ消えていってくれた気がした。

 ──追伸。
 この一件のおかげで私は投稿系SNSから静かに距離を置き、気づけば最終的にはそのアカウントごと全て、抹消してやった。
 理由?��闇の支配者�≠ノフォローされただけで夜通し荒ぶるヒーローがいる世界で、心臓を守るには、それが一番の最善策だったから。





羽根の届く距離で恋をしている



(ねえ……隠さなくていいよ。今日くらいは)
(……じゃあ、調子乗っていいですか?)
(うん。すこしだけなら)
(すこしだけって言われるとぜんぶ欲しくなる)
(だから��すこしだけ�≠チて言ったの)
(じゃあ今日は、すこしだけの全部で我慢しときます)
(……ホークス?)
(はいはい?ホークスですよ)
(ほんとは、寂しかった……会えてよかった)
(……俺もです。ほんとに)

※image song『 想うた〜愛する人を想う〜/キヨサク 』


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