��鷹�≠ニいう生き物は、鋭く、湾曲した鉤爪と頑丈な嘴をもち、遥か上空から地上の些細な動きをも見逃さない視力を携えている。風を切り裂くように羽ばたけば、その身は一気に高みへ昇り、広大な空域を縦横に巡る。
昼の光の下を自在に舞い獲物を瞬時に仕留めるその生態は、猛禽としての厳しさと孤高を映し出しているようでいて実はもう一つ、彼らの本質を示す特徴がある。多くの鷹は、生涯でただ一羽の伴侶と『つがい』を結び、互いを支えあいながら子を育て続けるのだ。
空を自由に飛び回る存在でありながら一度選んだ相手を決して手放さないその習性は、強さと、孤独と、それ以上の忠誠が同居する彼らの本性を象徴しているように思える。
まるでひとつの空を共有するために生まれた、ふたつの影のように——。
*
朝、目が覚めて、最初に見たのは、彼女の寝顔だった。夜の余熱を残して頬を赤く染めたまま、安心したように眠っている。その姿を見て、どうしても、ベッドから抜け出す気にはなれず、ただ、個性の羽根で、包み込むように抱き寄せていた。けれどヒーローである以上、時間は残酷に流れていく。スマホにはすでに任務の連絡が入り渋々と彼女の髪に口づけを落とし、メモを残して仕事へ向かった。
空を飛ぶ風は冷たく、街の喧噪は、いつも通りだったのに胸の奥ではいつまでも彼女の温もりが消えず、任務の合間にも、何度も思い出してしまう始末。笑った顔、照れた顔、涙を滲ませた、夜の横顔。その全部が胸に焼き付いていて視界が曇るほどだった。
敵を追い救助に走り、ヒーローとしての自分をこなしていく。それでもふとした瞬間にあの人がようやく俺の恋人になってくれたんだな、という言葉が浮かんできて顔が緩むのを止められない。事務所の女の子に怪訝そうな視線を向けられても、ごまかすように笑うしかなかった。
「——俺、やばかね……」
飛行中、ほんの一瞬だけ、風の流れを外した。いつもの滑空とはどこか違う。胸の真ん中がふわふわしていて、着地の感覚すら定まらない。
一夜を共にした。たったそれだけのことなのにたったそれだけだったのに。もう彼女のすべてが俺の日常の一部になってしまった。
ベッドに残っていた体温。指に残っていた柔らかさ。耳元で名前を呼ばれたときの、あの甘さ。全部、頭から離れない。ヒーロー活動中だって、耳に小さなノイズが入るたびに「いま、俺以外の誰かのことを考えているんじゃないか」と考えてしまう。SNSで彼女のいいね欄を見るたびに誰の投稿に反応してるんだろう、なんて、くだらないことばかり気になってしまう。
こんな自分、らしくない。いつも軽く、いつも自由で、だれかを縛るようなことはしたくないと思っていた。『愛してる』ってきっと、そういうことじゃないだろう、って。でも今はもう少し、いや、ずっと近くにいてほしいと思ってしまう。
膝をよけられた今朝の感触が、まだ消えない。あれはたぶん正しい反応だ。彼女がちゃんと俺の背中を押してくれたから、俺は今日もヒーローでいられる。——なのに。頭ではわかっていても、剛翼の一枚一枚が、彼女の名を探してしまう。
「……まずかねぇ、ほんなこつ」
束縛したくないのに『守りたい』が過ぎて心が追い越していく。夜をひとつ超えただけで、どうしてこんなにも、溺れてしまうんだろう。好きという感情がこんなにも危ういものだったなんて。
次に会ったとき、どうしよう……。また彼女が笑ってくれたら、それだけで、たぶん俺はもう、待てないかもしれない。
夕方、任務を終えて空に沈む夕陽を見たとき、胸に込み上げたのは疲労ではなく、ただ、「早く会いたい」という想いだった。彼女の待つ場所へ羽根をたたんで降り立つことが、これほどまでに嬉しいことだったなんて、自分でも信じられなかった。彼女は小さな灯りの下で待っていてくれて食卓に並ぶ料理は拙くても心のこもったもので、言葉以上に温かく感じられる、あの瞬間。
『おかえりなさい、ホークス。』
その一言を聞くだけで世界中のどんな称賛よりも満たされる。ヒーローである前に彼女にとっての帰る場所でありたい。そう心から思いながら、俺はまた、彼女を抱き締めるのだ。
風を切って飛ぶ空の感触はいつもと変わらないはずなのに、胸の奥に残る高揚で、景色がやけに鮮やかに見えた。ビルの屋上をかすめるたびに、頬が勝手に緩む。サイドキックたちに見られても困るから必死に引き締めようとするけれど、どうにも、口元が笑ってしまう。
「ホークス、今日なんかテンション高うなか?」
「え?うそ、バレました?いやぁ、なんていうか空気が美味しくて……」
適当にごまかしながらも心の中では別の言葉が浮かんでいた。
彼女に会いたい——ヴィランを捕らえる動きもどこか軽やかになるし、普段なら淡々と処理する場面でも今日は妙に羽根の動きまで冴えていて、相手を捕縛する瞬間に、思わず口笛を吹きそうになる。『今日のホークス、なんか楽しそうだな』なんて記者たちに言われても「いやいや、任務が順調なだけですよ?」と笑って返す。けれど胸の奥では別の理由を知っている。順調なのは仕事じゃない。俺の恋のほう。
街の人々に手を振れば、いつもより自然に声が弾む。雛鳥ちゃんや子供にサインを求められればいつも以上に優しくしゃがみ込んで目を合わせて笑いかける。彼女がこんな俺の姿を見たら、どう思うだろう、なんて想像するだけで、体温がまた上がってしまう。
事務所での、わずかな休憩時間。ビルの屋上でひと息つくときについスマホを取り出して彼女の名前を眺めてしまう。一応まだ仕事中の身だし、相手も仕事中だろうから、連絡は控えようと思うのに画面に浮かぶ文字を見ただけで自然と口元が緩む。
「あーあ。俺、完全に浮かれとーわ……」
自覚しても止まらない。空を飛ぶたび、彼女に見せたい風景ばかりが目に入る。戦うたび、早く会って報告したいことばかりが増えていく。
ヒーローとして空を舞う日々は、いつだって、孤独と隣り合わせだった。だが、今は違う。帰る場所がある、待っていてくれる人がいる。それだけで、世界がこんなにも軽くなるなんて、知らなかった。
*
夜というのはどうしてこんなにも相手の呼吸の揺れひとつで胸の奥がざわつくのだろうと、私はスマホを耳に当てたまま部屋の灯りをひとつだけ残した暗がりの中、窓の外をよぎる街灯の反射をぼんやりと眺めながら思っていた。けれど返ってくるはずの彼の声が、いつもより半拍ほど遅く、まるで言葉の淵で立ち止まっているようで、その沈黙の重さに気づいた瞬間、私は彼が息を潜めている理由を直感してしまい、胸の奥にひどく細い棘が刺さるような痛みを覚えた。
『あー、てか……寝てました?』
と、彼はおどけた調子を装うみたいに軽く訊ねてくるのに、その裏側で羽の先がかすかに震えた気配が伝わってくるようで私は「起きてたよ」と返したものの、その言葉が届くまでの間に流れた沈黙の長さを忘れられずにいた。
『そっか。なら……よかった』
彼は、ほっとしたように息を漏らしたけれど、その声音の奥に、胸の裏側でゆっくりと堆積して固まってしまった不安の影がちらりと見えた気がして私は目を閉じたまま、スマホの向こうで彼がどんな顔をしているのかを、指先でそっと撫でるように想像してしまう。
街を四六時中飛び回って、ニュースになるほど忙しくて、昼と夜の境目さえ曖昧になってしまう彼が——そんな彼が、私のようなどこにでもいるような人間の心が、いつのまにか、離れてしまう未来をほんの少しだけ、本気で恐れているなんて信じ難いことのようで、それでいて妙な説得力をもって胸に迫ってくる。
『なんか最近、あんまり会えてないっすよね』
「うん、……だね」
『その……飽きてないです?俺のこと』
と、彼は言葉を選びながらつぶやいた。それは責めるでも嘆くでもなく、ただ、自分一人で抱え込んでいた重さの端っこを、そっと私の手の上に置くような声音で、私は胸が締めつけられるほど痛くなって、どうして彼ほど器用な人が、こんな不器用な伝え方しかできないのだろうと愛おしさと切なさがないまぜになって、息を吸い込むしかできなかった。
「飽きたりなんて、してないよ」
私は強がるように言ったつもりだったけれど、言い終えた瞬間、電話の向こうの彼がすぐに反応しなかったので、たぶん私の声が少し震えていたのだと気づいた。そして次の瞬間、スマホ越しにかすれた息が触れるように届く。
『……そか。うん、そっか……よかったです』
その『よかったです』が、いつもの軽口よりもどこまでも柔らかくどこかで必死に羽をたたんで傍にいたいと願う誰かの声のようで私は胸の奥に溶けていく温度を確かに感じた。たった一言で、彼はこんなふうにほどけてしまう。たった一言で安心してしまう。そんな当たり前みたいな事実がこの夜の静けさの中でひどく切実でどうしようもなく愛しかった。
「……ねぇ、」
私は囁くように声を出した。スマホの向こう、わずかに彼が、息を呑む気配がした。
「私、飽きたりしないよ。忙しいの知ってるし。あなたがあなたでいることが、好きなんだから」
たぶん彼は今、目を伏せている。たぶん彼は、私の言葉の重さを真正面から受け取ってしまっている。そして——
『……ありがと。俺、ほんとに助かってます』
普段決して言わない種類の本音を夜更けの闇にそっと零した。その声を聞いた瞬間ようやく私は理解したのだ。彼が忙しさを飛び越えて私の隣に戻ってくるたび、何気ない笑みの奥で、私に飽きられてしまう未来を小さな影のように恐れ続けていたことを。だから私は、静かに言った。
「大丈夫。私は、ちゃんとここにいるよ」
電話の向こうで、ほんの少し、羽が揺れた気がした。その微かな気配だけで、夜がやさしく塗り替えられていくようだった。
*
その日は出張で東京に来ていて昼下がりの街を旋回していた。あえてこっちに来ていることは、彼女には伝えなかった。驚かせたかったから。
そんな事を考えながら任務の合間にふと視線を下ろすと、雑踏の中に見慣れた後ろ姿があった。艶のある髪、仕草、歩調——間違えようがない、彼女だ。けれど隣には知らない男。彼女と並んで歩き、笑みを交わして、時折肩が触れ合うほどの距離で。その光景が胸を鋭く抉った。さっきまで浮かれていた心が冷水を浴びせられたように一瞬で凍りつく。背中の羽根が強張り、風を切る音が荒くなる。
なんで?誰?あの男……思考が追いつかない。任務中であることも、ヒーローとしての冷静さも全部が遠のいていく。ただ視線が彼女に縫いつけられ、隣の男に向けられる感情が嫉妬という名の熱で煮え立つ。
「俺以外に……そげん顔せんで」
喉奥から漏れた声は、風にかき消されて自分にしか届かない。だが胸の奥で膨れ上がった独占欲はもう隠しきれず、強く羽ばたくたびに街の喧噪がやけに、遠ざかっていった。喜びに浮かれていた一日が一瞬で揺らぐ。俺の恋人であるはずの彼女が、他の男と笑っている。その事実が心臓を焼き尽くすように痛かった。
この瞬間、理性なんてものは吹き飛んでいた。任務の途中だというのに、気づけば剛翼が勝手に羽ばたいていた。街の人混みがざわめく中、俺は彼女の目の前に降り立ち、風圧を巻き起こす。
「ど〜も〜。」
口元は笑っていても視線は笑えていなかったと思う。彼女が驚いたように目を見開き、隣の男が立ち止まって、彼女を振り返る。その瞬間、胸の奥に鋭い棘が刺さるような痛みが走った。
「こんにちはー。……お知り合いですか?」
中腰でわざと穏やかに言葉を選ぶ。けれど声は低く嫉妬が滲んで隠しきれない。男は面食らったように目を瞬かせ「え?ホ、ホークス!?」と、彼女と俺を交互に見やる。彼女は慌てて、否定の言葉を探している。俺はそれでも彼女から視線を外さない。笑顔の裏に、どうしようもなく渦巻く独占欲を隠す気はなかったから。
「どういう関係なのか、教えてもらえます?」
周囲の人々は、プロヒーローが��ヒーローではない誰か�≠ニ話しているというだけで騒ぎ始めていた。それでも構わない。彼女が俺以外の男と、並んでいる、その事実が耐えられなかったから。
——俺はヒーローだ。でもそれ以上に、彼女の恋人だ。そのことを今この場で示さずにはいられなかった。彼女は顔を真っ赤にして慌てたように手を振る。
「ち、違うの! いや、違うんです、ホークス」
「ん?なにが? なにがどう違うんです?」
「えっと、この人は……ただの後輩!……です」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていた氷がほんの少しだけ溶けた気がした。だが同時に、釈然としない熱が渦を巻く。
ただの後輩なら、なんで、二人きりで横並びに一緒に歩いてたと?なんで、あんな楽しそうに、笑ってたと——?
「……へぇ、後輩ねぇ。」
笑顔のまま口にした言葉は自分でもわかるほど低く濁っていた。男は、居心地悪そうに咳払いをして「そ、そうなんです」と言葉を濁す。俺はその姿をじっと見下ろし、わざとゆっくり瞬きをしてから、彼女の腕を取った。
「なら問題ないですねー」
「えっ?」
「へっ?」
「……すみません、この人、俺が連れて行きますんで」
周囲に集まりはじめた視線を意識しながら羽を広げる。彼女が小さく「ちょっと……」と、抵抗する声を上げても、俺は聞こえないふりをした。風が巻き起こり、地面が遠ざかる。驚いた人々のざわめきの中で、彼女を腕に抱えたまま空へ舞い上がる。
しばらく人のいない場所を飛んで、そろそろ、地面のあるところへ降ろしてあげないと、なんて思っていると、腕の中で彼女が、抗議するように見上げてきた。
「……ホークス、ちょっと強引すぎだよ」
「えー?だって、俺……拗ねてますからねぇ」
軽口の調子を装いながらも、胸の奥では嫉妬の余熱がまだ燻っている。彼女の笑顔が、俺以外の誰かに向けられるのを見た瞬間に、自分がこんなにも小さく、醜くなるとは思わなかった。
「……帰ったら、ちゃんと説明してくださいね」
低い声で囁きながら彼女をさらに抱き寄せる。その強引さに、呆れた顔をされても構わない。
彼女は、誰にも渡さない——。それだけが今の俺の、
*
しかし、時間が経って夜になっても、胸のざわめきは収まらなかった。灯りを少し絞ったセーフハウスの一室で、彼女をソファに座らせたまま、俺はずっと、その顔を見つめていた。いつもするように笑ってごまかすこともできたはずなのに、どうしても、さっき見た光景が頭から離れない。
「今日——お休みだったんですね、仕事」
「……うん」
「なんで、教えてくれなかったんですか?」
「……ホークスだって、こっちに来るって連絡、くれなかったでしょ」
「まぁ……。ねえ、あの男、誰なんです?」
声は思ったより低く、語気も強かった。彼女が少し肩を揺らして、気まずそうに、視線を逸らす。その仕草がまた胸に刺さり、俺は一歩近づいて、彼女の膝に手を置いた。
「後輩って言いましたよね。でも……どんな後輩ですか?どんな関係?どこで知り合ったんです?なんで、一緒に歩いてたんですか?」
次々に、言葉が零れる。問い詰めている自覚はある。彼女の眉が、困ったように寄るのも見えている。それでも、止められなかった。
「……俺、すごく嫌だったんです。傷ついた」
「……」
「街で見つけた瞬間、胸が痛くなって……任務中だったのに、全部、忘れてしまうくらいに」
息が詰まりそうだった。嫉妬で胸が焼ける感覚を押し殺せずただ正直に吐き出すしかなかった。
「ねぇ、名前さんは、俺の彼女なんですよね?」
「……うん、」
「だったら……俺に全部、教えてください。隠さんでほしい」
彼女の手を掴み、指を絡める。彼女は力を入れない。ただ、されるがままに指を預けているだけだった。拒まれたらどうしようと、頭の隅で思いながらも、離すほうがよほど怖くて、力を緩めることができなかった。
「俺、しつこかし、嫉妬深いです。自覚はある」
「……」
「でも……どうしようもないくらい、あなたに、夢中なんです」
吐息に混ざる告白はもはや嫉妬と愛情の区別がつかないほど熱を帯びていた。彼女は、少し唇を噛み、曖昧に笑った。
「——そんなことより、私からの質問は?」
「え?」
「こっちに来るって連絡、なかったけど」
「してないっすね。驚かせたかったんで」
「……」
「じゃあ次は俺からの質問の方。——で、誰なんです?あの男」
「……たいしたことない。ただの、大学時代の」
その言葉は説明のようでいて、何も答えていなかった。わざと濁したのだとすぐにわかる。胸がざわめき、脈打つ音が耳の奥でうるさく響いた。
「……なんで、隠すんですか」
掠れた声で問うと彼女はさらに視線を伏せた。言い淀み目を合わせない。その仕草が何より俺を苛立たせる。
「俺のこと信じてくれてないんですか。何も言わなくても安心してくれるって、そう、思ってるんですか……?」
気づけば腕を伸ばし、彼女を胸に、引き寄せていた。抵抗する間も与えず背中に手を回して強く抱きしめる。彼女の体温が直に触れると怒りよりも愛しさが勝ってしまう。
「……俺、怖いくらいに嫉妬してます」
「……」
「たとえ本当にただの後輩だとしても、あなたが他の誰かと歩いて笑ってたことが嫌で仕方ない」
額を彼女の肩に押し当てる。声は震え、吐息は熱を帯びていた。
「俺の彼女なんでしょ?だったらさ……俺だけに笑ってほしか。笑う相手、俺以外いらん」
囁きは懇願というよりも、もはや宣言だった。抱きしめる腕に込めた力は、彼女を安心させたい気持ちと決して手放したくない独占欲がないまぜになっていた。抱きしめた腕の中で、彼女が何も答えないまま、震えているのを感じた。やがて、肩口に温かなものが落ちる。——涙だった。胸が痛み、すぐに腕の力を緩める。
「え、ごめんなさいっ!泣かせるつもりじゃ、」
そう言葉を継ごうとした矢先、彼女は小さく、首を振り、震える声で呟いた。
「……やっぱり、無理かもしれない」
その一言は、刃物のように鋭く、俺の胸を切り裂いた。思わず彼女の手を掴もうとする。けれど彼女は俯いたままそっと俺から距離を置き、立ち上がって玄関へと歩き出してしまう。
「……待って。無理って、どういう意味ですか」
声は震えていた。必死に呼び止めたのに彼女は振り返らない。玄関の扉を開く音、外の夜風が、一瞬だけ吹き込み、そして、閉ざされる。静寂が訪れた。部屋にはまだ、彼女の体温が残っているのに腕の中は空虚で、心臓の奥にぽっかりと穴が空いたようだった。
扉が閉じられたあともしばらく動けなかった。ほんの数秒前まで腕の中にいたはずの温もりが、嘘みたいに跡形もなく消えてしまって、胸の奥に空いた穴へ冷たい空気が流れ込んでくるのがわかる。羽根がわずかに震えた。自分の意思じゃなく身体が勝手に反応していた。指先をゆっくり握ったり開いたりしてみる。けれど触れていたはずの感触は何ひとつ戻ってこない。彼女の体温も息づかいも名前を呼ぶ声も。さっきまでそこにあったものが一瞬で消えて、部屋の静けさだけがやけに際立つ。自分の胸の内側に吹き抜ける風は、夜気よりもずっと冷たかった。
「え……?俺、どげんしたらよかったと……?」
掠れた独り言が、夜の闇に溶けて消える。強く抱きしめなければ失ってしまうと信じていたのにその腕の力こそが彼女を遠ざけてしまったのかもしれない。
——追いかけなきゃ。そう思う。けれど同時に頭の片隅で、別の声が囁く。強く抱きしめすぎたせいで泣かせた。これ以上縛れば余計に嫌われると。胸の奥でふたつの声がせめぎ合い、息苦しくなる。翼は飛び立とうと震えているのに足が床に縫いつけられたように動かない。でも脳裏に浮かんでしまう。涙を滲ませて、俯いた彼女の横顔。掠れた声で「無理かもしれない」と告げた震え。その痛みを残したまま彼女がひとり夜道を歩いている光景。
「いや……俺が守らんで、どげんする」
思わず声に出していた。喉が掠れ震えている。失うのが怖い——嫌われるのも、怖い。けれど、それ以上に彼女をこのまま放っておくほうが怖かった。決意と同時に、身体は勝手に動いていた。窓を開けて、冷たい夜気を吸い込む。広げた翼が月明かりを浴びて光り、床に長い影を落とす。
——逃がさない。何度嫌われても追いかける。そう心に刻み、俺は夜空へと羽ばたいた。彼女の背を追って、ただ、そのためだけに。
*
夜の街は昼間の喧噪が嘘のように静かだった。ネオンがまばらに瞬く路地の先に、彼女の背中を見つけた。肩を小さく落とし俯いたまま歩く姿。すぐにでも名前を呼んで駆け寄りたいのに、喉が詰まって声にならなかった。翼は風を切る準備をしているのに、足は地面に貼りついたように動かない。
もし声をかけたら振り返った彼女の瞳に拒絶が浮かぶかもしれない。その想像だけで心臓が痛んで、ただ遠くから見守ることしかできなかった。街灯に照らされるたびに揺れる髪の色、影の中で震える肩、そのすべてを目に焼き付ける。
守りたいのに手を伸ばせない自分が情けなくて仕方がなかった。
「……ごめんなさい。」
誰に向けたのかもわからない謝罪が掠れた吐息とともに夜に溶ける。それでも、視線だけは外せなかった。彼女が無事に家に辿り着くまで何歩も後ろからついていく。見つからないように羽根を畳み、ただ影のように付き従う。
ヒーローとして数えきれない人々を守ってきたはずなのに、いちばん大切にしたい人に手を伸ばせない。その矛盾が胸を焼く。けれど、この距離でもいい。今夜だけは。彼女がひとりきりで夜を歩いても決して孤独にはさせない。そんな、声にできない想いをただ背中に重ねながら俺は彼女を追い続けた。
暗い歩道に靴音が小さく響く。俺は距離を測るように羽根をたたみ、影に身を隠しながら、ただ彼女の背を追う。
気づかれなければ、このまま家まで送り届けて灯りがともるのを見て帰ろう。そう、自分に言い聞かせていた。だが不意に彼女の足が止まった。肩がかすかに揺れ静寂の中で振り返る気配。街灯の下、潤んだ瞳がまっすぐこちらを捉えた。目が合った瞬間、心臓が跳ねて息が詰まる。
——見つかった。喉が渇き言葉が出てこない。笑顔を作ろうとしたのに頬は強張り視線を逸らすこともできなかった。彼女は数秒の沈黙のあと、小さく震える声を洩らした。
「……どうして、ついてくるの」
その問いは非難よりも微かな戸惑いに聞こえた。けれど俺の胸には鋭い痛みとして突き刺さり答えを探そうとしても出てくるのは、ひとつだけだった。
「……心配で。放っておけなくて」
掠れた声は情けなく震えていた。独占欲と愛情の狭間で揺れながらそれでも彼女を失いたくない想いだけが裸のまま零れ落ちていく。彼女は視線を逸らし、唇を震わせながら呟いた。
「もう……、一人にして」
その言葉は刃のように鋭く、胸を深く切り裂いた。目の前が暗くなり息が止まる。けれど彼女は涙をこぼしながら背を向けて歩き出そうとする。その細い背中が遠ざかるのを見た瞬間、理性より先に、身体が動いていた。
「無理です。」
気づけば、言葉が飛び出していた。声は低く、震えていた。けれど一歩踏み出し彼女の肩に手を伸ばす。
「あなたを一人になんて、できない。」
彼女は振り払おうとしたが俺は腕に力を込めてしまう。強引だとわかっている、それでまた嫌われるかもしれない。それでも、手放せなかった。
「俺、しつこいって言ったでしょう。何度拒まれても、追いかけますよ」
「……」
「だって……俺には、あなたしかいないんです」
それでも彼女は言葉を返さずに俺に背を向けてまた歩き出してしまう。涙に濡れた彼女の横顔が街灯に照らされる。その表情を見ただけで、胸が痛み、けれど同時に強く惹きつけられてしまう。
「……俺を嫌いになっても構わない。けど、どうしても、置いていかれたくない」
声が震え、吐息が滲む。夜の空気は冷たいのに胸の奥は焼けるように熱い。彼女が足を止めるかどうかもわからない。それでも俺は背中に向かって必死に縋りつくように言葉を投げかけ続けた。すると彼女が足を止めて振り返ってくれた。頬を涙で濡らし、震える声で吐き出す。
「……ホークス、……ごめん。」
「……」
「ごめんね。わたしには——重い。」
その言葉は痛烈だった。胸の奥に突き刺さり、呼吸が詰まる。重い——そんなの、わかってる。彼女を縛ってしまっている。わかっているのに、どうしても、抑えられなかった。
「……重い、ですよね。はい、わかってます」
声が掠れる。苦笑を浮かべようとしたがうまく形にならない。それでも必死に、言葉を重ねる。
「でも、それくらいじゃないと……俺の気持ち、伝わらないと思ったんです」
「……」
「俺、軽く見られとうなか。ヒーローだからって誰にでも簡単に飛んでいけるって思われるのは、嫌なんです」
彼女が俯き、唇を噛む。俺はさらに一歩近づき懇願するように声を落とす。
「俺は……あなたにだけは、重くありたいんです。重すぎて、逃げられそうになるくらいに」
「……」
「それでも——あなたがいないと駄目なんです」
自分でも情けないと思う。けれど、偽れない。彼女が涙を流す姿を見るのは苦しいのに、その涙ごと抱きしめたいと思ってしまう。
「俺は不器用で、怖がりで、嫉妬深い。」
「……」
「でも、そんな俺でも、隣にいてほしいんです」
夜風が二人の間を吹き抜ける。彼女の瞳が揺れるのを見つめながら、ただ必死に弁解を繰り返すことしかできなかった。彼女は長く息を吐いた。吐息が夜気に溶け、白く霞んで消える。その肩の震えがようやく収まり彼女は小さく視線を逸らしながら、ぽつりと呟いた。
「結構、歩いてきちゃったね」
「……え?」
「……家、着くから。暖かい飲み物でも、飲んでいく?」
一瞬、耳を疑った。拒絶では、なかった。突き放されてもおかしくない場面で、彼女は、逃げる代わりに、居場所を差し出してくれたのだ。胸の奥が熱く締め付けられ言葉がうまく出てこない。
「……いいん、ですか」
声が震えた。彼女は小さく頷き俯いたまま歩き出す。その背を追いながら俺は心の奥で何度も同じ言葉を繰り返していた。
まだ嫌われてない。まだ隣にいられる。足音を合わせながら歩く。街灯に照らされる横顔はまだ赤く涙の跡が消えていなかった。それでも「ここから締め出さない」と示してくれたその優しさが胸に深く刺さる。
「名前さん、あの……」
「……ん。」
「……ありがとうございます。俺、あの、ほんとにしつこくて、駄目な男かもですけど」
「……」
「それでも……あなたの隣にいても、いいんですよね……?」
返事はなかった。けれど彼女の歩調が速くならなかった事が今の俺には十分すぎる答えだった。
少し歩いて、彼女の部屋に足を踏み入れると、ほのかに香る彼女の気配と、温かな空気が迎えてくれた。カップに注がれた飲み物を、両手で包み込むと冷え切った指先に、じんわりと熱が戻る。テーブルを挟んで座る彼女は、まだどこか緊張を残した顔で視線を落としたままだった。
「今日は……ありがと。暗い道だったから着いてきてくれたことも、正直……心強かった」
その声に胸が温かくなる。だが、次の言葉は、俺を地獄に突き落とすように重く、鋭く響いた。
「でもやっぱり。元に戻れないかなって思うの」
「……はい?」
「気持ちはすごく嬉しい。誰かに、こんなふうに想われるなんて、私にはもったいないくらい」
「……」
「でも私、ヒーローの彼女になる、自信がない」
カップを見つめる彼女の睫毛が震え、白い息が小さく漏れる。脈が速くなる。胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「……元に、ですか」
自分の声が、震えているのがわかった。笑ってみせようとしても、口元はうまく動かない。喉の奥が、嫌なふうに詰まる。
「きっとこれからも、仕事で関わることはあると思うから、今まで通り、普通にやっていこうよ」
「は?……普通? え、待って。」
「普通だよ。ヒーローと、オペレーターの関係」
彼女の��普通�≠ニいう一言で、心臓が掴まれたように潰れた。彼女が続けるたび胸の内側がじりじり焼けるみたいに痛む。普通ってなんだ。他の人たちと、同じ距離に俺を押し込めるつもりで?そんなはずない。違うと、そう思っていたのに。
「私、別れた人とお友達になんて、なれるタイプではないけど、ホークスとなら大丈夫かなって」
「なんそれ、俺とならって……え、ちょ、待っ」
頭に血が上る。羽根の根元がざわっと逆立つ。彼女の��ホークスとなら大丈夫�≠ニいう言葉ほど今の俺を刺すものはなかった。
「相談とか全然、私でよければ乗るし」
「いや、だから、待っ、」
「気軽に、これからも声かけてくれれば、普通に接するし」
「ちょっと待ってって!」
息が上がる。思わず遮っていた。みっともなくてもいい、止めなきゃと思ったから。彼女の言葉ひとつひとつがまるで俺から何かを引き剥がしていくみたいで。
「勝手に話進めないでください。普通ってなん?俺とならって、どういうことすか」
気づけば声が泣き出しそうなほど震えていた。羽根も、手も、胸も、全部。
「逆撫でしないように? 刺激、せんように?」
「……」
「他人みたいになったら非行に走りそうです?」
「……、」
「そんな、俺って……やばいヤツ認定、されてる感じで?」
笑ってごまかしたいのに、できない。自嘲よりも、悔しさのほうが勝ってしまって、情けない。
「馬鹿にしてます? はっ、見下さんでほしか」
そう言った瞬間、胸に刺さる痛みがさらに深くなる。ほんとは怒ってるんじゃない。ただ、怖いのだ。このまま彼女が本当に離れてしまうのが。それでも、しがみつくしかなかった。
「俺は、もう……戻れそうに、ありません」
絞り出すような声だった。戻れるわけがない。彼女を愛してしまった心をどうやって��普通�≠ノ戻せるというのか。馬鹿にしてるなんて、思っていない。見下してなんていないことも知ってる。本当はまだ、羽根の奥の奥まで彼女でいっぱいのままなのに。
「……できるよ。だって、ヒーローでしょ」
「いや、ちょっと待ってくださいよ」
「……」
「今までみたいに接しても俺たぶんまた同じで。あなたを見たら胸あつくなるし、結局ちゃんと、嫉妬もしますし」
「……」
「……だから、元に戻るなんて、できない」
彼女が顔を上げた。揺れる瞳に映るのはきっと困惑だろう。それでも俺は、彼女から視線を逸らさなかった。
「でも……あなたが望むなら受け入れはします」
「……」
「ただ、俺は何度でも隣に座りますよ。たとえ、元の関係——仕事上の関係に、戻ったとしても」
「……」
「だって、離れることの方がもっと無理なんで」
震える声で吐き出すとカップの中の湯気が滲んで見えた。胸を締め付ける痛みの中で、それでも彼女を失うよりはと願う自分の執着があまりにも情けなく、惨めに思えた。
カップのなかの湯気が、静かに揺れる。彼女はそれを見つめたまま長い沈黙のあとで、かすれた声を落とした。
「元の関係に戻れないなら……もう、会うこともやめたほうが、いいと思う」
その瞬間、心臓が鋭く軋んだ。言葉の意味は、理解できた。だが頭が拒み、耳が受け入れようとしない。
「……会うのやめるって、俺と? うそでしょ」
声が震える。思考がまったく、追いつかない。しかし彼女は苦しげに目を伏せて微かに頷いた。
「だって、あなたの想いが変わらないのも、私の気持ちが揺れるのも、わかってるから」
「……」
「どちらにしても……あなたを傷つけてしまう」
その言葉が刃となり胸を斬り裂く。彼女を抱きしめたい衝動が込み上げるのに腕は動かず、ただ、空気の冷たさに取り残される。
「そんなの……無理ですって。耐えられません」
ようやく声を絞り出した。正座をしたまま膝の上に乗せていた拳が震えている。
「会えないなんて、想像するだけで息が苦しい」
「……」
「俺は今まで何を失っても生きていけるつもりでいましたけど、あなたを失うことだけは……無理なんです」
彼女の瞳が揺れて潤む。その一滴がこぼれ落ちる前に掴み取りたくて、俺はテーブル越しに手を伸ばした。どうか掴んでほしい。握って欲しい。
「……もう会わんなんて、言わないでください。無視されてもいい、どんなに冷たくされても俺は構いませんから」
「……」
「あなたを見られない日々なんて、俺には考えられない」
必死の言葉が掠れ、静かな部屋に滲む。今にも消えてしまいそうな彼女の気配を繋ぎとめようと声だけが、必死に響いていた。彼女は唇を噛み、揺れる瞳を伏せたまま、声を震わせた。
「……少しだけ、考える時間がほしい」
その言葉は拒絶でも受諾でもなく宙ぶらりんの刃だった。胸を裂く痛みと同時にかすかな光をも残している。完全に終わりではない。その一点にすがりつこうとする自分の浅ましさを噛みしめながらも、どうしても、安堵を覚えてしまった。
「考える時間……ですね」
掠れた声で繰り返す。震える指先を彼女に伸ばしかけ、けれども触れることはできずに、膝の上に戻した。
「わかりました……どれだけ待ってもいいです」
「……」
「答えを聞かせてもらえるまで俺は、何度でも、ここに来ますから」
彼女の肩が、かすかに揺れた。涙が頬を伝い、湯気に滲んで消える。
「……でも、もし私がそれでもやっぱり、無理だって言ったら?」
その問いは残酷だった。けれど俺は、わずかな沈黙のあと、かすかに笑って答えた。
「それでも……諦めないと思います。俺、しつこいうえに、強欲なんで。」
彼女の瞳に戸惑いと涙が同時に揺れる。沈黙の中、温かい飲み物の香りだけが漂い、夜は静かに時を進めていた。
しばらくの沈黙ののち、彼女は深く息を吐いて消え入るような声で言った。
「わかった。とりあえず……今日は、帰って」
その言葉は優しさを装っていても確かな線引きだった。胸が鋭く締めつけられる。けれど彼女の瞳に疲れと迷いが滲んでいるのを見て、これ以上居座れば、本当に嫌われてしまうと悟った。
「……わかりました」
声がかすれる。笑みを作ろうとしたが、口元は歪むだけだった。立ち上がり、羽根を畳みながら玄関へ向かう。足取りは重く、ひとつ進むごとに胸の奥に痛みが広がる。ドアの前で、振り返る。テーブルの上にはまだ、湯気の残るカップ。彼女は視線を落としたまま動かず、ただ、背中が小さく、震えていた。
「……俺、諦めませんから」
扉を開ける直前そう告げる。返事はなかった。けれど、それでいい。今は、答えを求める時じゃない。夜風が冷たく頬を撫でる。扉が閉じる音が背後に響き胸の奥に空虚が広がる。けれど、その空虚の底に残った熱が告げていた。彼女を諦めることだけは絶対にできない、と。
羽根を広げて、暗い空へ舞い上がる。後ろ髪を引かれる痛みを抱いたまま、それでも彼女の灯りを振り返りながら、冷たい夜気を切り裂いて高く舞い上がる。
街の灯りが点々と瞬く真下を見下ろせば彼女の部屋の窓が小さく光を宿していた。ほんの数分前までその光の中にいたのだと思うと、胸がきしむように痛む。
「……怖。」
誰にも聞かれない夜空に向かって零す。ヴィランと対峙したときでさえ口にしなかった言葉が今は簡単に洩れた。彼女を失うことが何よりも怖い。重いと言われ、帰ってと言われても、それでも、諦められない。しつこく縋りついて嫌われて最終的に遠ざけられる未来が待っているかもしれないのに、それでも——。
「やっぱり無理だ。手放すなんて、できん」
風に攫われる声はかすれて、夜の空気に溶けて消える。羽根を広げたまま、俺はただ月を見上げた。ヒーローとしての俺は誰にでも笑顔を見せられる。だが、ひとりの男としては、あの人にしか全てを曝け出せない。彼女に拒まれても突き放されても、それでも、追いかけずにはいられない。
「待ちますよ、何年でも……でも、諦めない。」
掠れた独白が夜空に溶けて、街の光が、滲んで見えた。孤独を知っているからこそ、愛を知ってしまったからこそもう、後戻りはできなかった。