福岡の朝は、いつも通り忙しい。なのに今日は個性の剛翼よりも、胸の内がざわざわしていた。
原因は、明らかに彼女である。遠距離。東京と福岡。ヒーロー緊急支援センターというヒーローと近しい職に就いているとはいえ立派な社会人とプロヒーロー。そして、ついこのあいだ、やっと想いを重ねたばかりの恋人同士。
にも、かかわらず。俺は最近気づいてしまった。彼女が全然、性欲がなさそうだということに……
いや、もちろん愛情はある。めちゃくちゃ大切にしてくれる。甘えてもくれるし、手も繋ぐし、抱きしめたら抱きしめ返してくれる。でも、その先に行くのはいつも、俺だけが全力疾走気味。
「好きです、触れたい」
「うん、落ち着いて?」
「好きです、ヤリとー」
「ふふっ……」
ふふ、て…………はい?いやいやいやいや!!こんなんばっかやん!なんで、そこで落ち着かせようとするんですか!?今、この瞬間!俺の心の羽根!バッッサバサですけど!?バッッサバサ!(※羽根、限界突破中※)
そもそも、落ち着いてってなん?落ち着いたら負けなのでは?落ち着いたらただの優しい小鳥になってしまう。……そうじゃなくて。俺は、今!会いたくて羽ばたきすぎて震えて羽根全部ふわふわにするタイプの鳥でして!落ち着いたら羽根、へしゃげるんよ!?乾くんよ!?朝になったら、床に落ちとーやつよ!?なんなら、換羽期、到来やけん!(※情緒も換羽する系ヒーロー※)
って、いうか!俺を暴走状態にしたの、誰やと思っとると!!!???あんたやけんね!?!?責任取って?……あ、でも優しくしてください。ここだけは、慎ましくいくけん。
はっ?なん?恋愛って、スポーツなん??今、俺ファール取られた!?オフェンス?ディフェンス?なん、それ!?ていうか、俺を落ち着かせん気持ちにしとるの、誰やと思っとーと!?あんたやろーが!!!?(あー、好きばい。)
そんなことを、悶々を抱えていた頃。ホークス事務所の午後。羽織の背で外気が揺れるのを感じながら俺は内心のざわつきを抑えきれずにいた。遠距離という現実に慣れたつもりなのに会えない日々が続くと、勝手に募ってしまう想いがある。触れたい話したい抱きしめたい、笑ってほしい。そして、できればもっと近づきたい。それが全部叶わない距離があるからこそ俺の胸の奥はやけに暴れっぽくなってしまう。
そんな中で偶然、ジーニストさんと、ファットさんが、別件で立ち寄ってきたのは、運命の悪戯かもしれなかった。
「……あの、自分、質問いいですか」
ホークス事務所の入っているビルの中にある、リフレッシュルーム。ふたりが同時に顔をあげて、こちらを見る。それだけでもう引き返せない気がした。
「あ?なんやホークス、いたんか。真顔やんけ」
「珍しく深刻そうだな……聞こうか」
ふたりの座っていたスペースの真ん中に、俺はずいっと割って入り込むように、腰を下ろした。そりゃ、怪訝な顔もされる。
「……あの、好きな人と、距離があるって、どう克服すればいいと思います?」
「なんや、色恋沙汰の話かいな?」
「ある意味で衣装のほつれと同じだろう。丁寧が基本だ」
「��丁寧�≠ヘ、やってます!やってる、たぶん」
そのときタイミングよく休憩に入って自販機に飲み物を買いに来たらしい事務員の女の子もこの会話に巻き込まれることになる。
「あ、ホークスさん。また、恋の相談ですか?」
「ぐぬっ……」
「でも、一途なんですね〜、ほんとに。羨ましいなぁー、彼女さん」
「そ、そうすかね……?」
「で、なんの距離なん?」
「あ、えっと。こう、あの……夜の、営み的な」
当たり前に訪れる沈黙。ジーニストさんの眉が微妙に動き、低くひとこと落とされた。
「素肌の距離、か。」
それを横目に見ていたファットさんは、豪快に「ぶっはっ!」と、コーヒー吹いた。俺は思わず、オーバーリアクションを取る。
「うわ、ファットさん、汚っ」
「おまっ、職場で何の相談しとんねん!」
見れば、その場に立って、会話に参加していた事務の子まで、耳が真っ赤になっている。彼女は信頼できるため暇があれば色々と互いの恋バナをしてきたが、さすがにこれは刺激が強すぎたかもしれない。
「いやほんとすみません!違うんですよ!深刻というか……恋の訓練というか……あの、距離が、離れてて、だから、あの……」
そんな俺を見かねてひと呼吸置いた事務の子が呆れながら言った。
「ホークスさん、性欲強いってバレてますよ」
「えっ!?うそ」
「鳥類って求愛行動、激しいですもんねー」
「いや、今それ関係ないでしょ。……え、てか。そんな、出ちゃってます?」
「おぅ、誰でもわかるやん」
「ふむ。背中の剛翼がうずうずしているしな」
え、羽根まで!?そんな露骨に!?気を遣って抑えてるつもりだったのに!?と、俺は振り返り羽根の様子を伺ってみたりする。やっぱ剛翼ってこんな感情にも比例するんだ……?
「いや違うんです!否定はしないですけども!」
「若い証拠だ。羨ましい限りだよ。」
「まぁ〜、ハタチそこそこやもんなァ」
「……、はい……」
「でもやな、大人の恋愛っちゅーんは、カラダのお付き合いばっかやないんやでー?」
「そう。距離があるからこそ、なおさらだな」
「……距離が、あるからこそ……?」
俺が「うーん」と唸りながら腕を組む姿を見たジーニストさんは、穏やかな声で続けた。
「繋がるときは、焦らずに待つ。それが、大人の恋というものだよ」
ジーニストさんの静かな声が、どこか遠くの、波音のように胸に沁みた。ファットさんもそれに頷いていた。そして、諭すように続ける。
「ほんでやなァ、ホークス、」
「はい」
「��夜の営み�≠セけが距離を埋める策ちゃうってことや」
「うーん……」
「なんや、おまえ。ずーっとそないな付き合い方してきたんか?もしかして」
「………、喜んでくれましたね、今までの人は」
「なんやねん、その間は。どーせ全部ワンナイトやろーが」
「うわ、目敏いっ、おっしゃる通りっすねー!」
そこでファットさんが、コーヒーの紙カップを指でくるりと回しながら、やわらかい関西訛りで言った。
「ホークス。何でそないに、ヤることばーっかにこだわんねん」
「え?」
「お前さんが若い盛りだからっちゅー理由だけやないやろ、実際。」
ふいを突かれたみたいに、思わずまばたきしてしまった。夜の営み——謂わばセックスばかりにこだわる理由。言葉にならない気持ちが喉の奥で少しだけ、渦を巻いた。
「……なんで、って言われると……」
背中を撫でる羽根が、意思とは関わらずそっと震えた気配がした。
「距離があると、その、触れられない時間が……多いから、なのかもしれませんね……」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「夜って……会えないことを、一番思い知る時間なんです。だから……埋めたくなるんですよねぇ、会ったときに。たとえ、焦ってなくても」
独りになる夜の空気。会いたいのに、会えない胸の痛み。画面越しの声さえ、届かない時間帯。夜は距離がいちばん深く見える。ファットさんは笑うでもなく、ただ、うんうんと頷いた。
「なるほどなぁ。夜いうんは、えぐいよなぁー。人寂しぃし、考えこんでもうし」
「……っすね」
「ただでさえ俺たちヒーローは、定時なんてあらへんし、深夜帰りも多いしなぁ」
俺とファットさんの会話を、黙って聞いていたジーニストさんが、穏やかに補足した。
「だからこそ、夜に焦らずに済むくらいには昼を積むことだよ」
不意にまた沈黙が落ちる。すると、その沈黙を破るようにして事務員の子が、小さく笑った。
「それ聞いて思いました。やっぱりホークスさん身体じゃなくて、日常で寄り添う人ですよ」
その一言が胸にゆっくりと落ちていく。ああ、そうなのかもしれない。俺が本当に欲しいのは、きっと��夜の営み�≠カゃなくて、彼女の��日々�≠ネのだと。だからこそ夜に苦しくなる。それだけ彼女のことが、好きだから。
「わたし思うんですけど……ホークスさん、好きって言葉で距離を詰めるのめちゃくちゃ得意じゃないですか?」
「え。そ、そう……?」
「たぶん、夜の営みなんかより、なーんでもない平和な日常で、寄り添える人ですよ、絶対に」
「……」
「女子は意外と、そういう愛情を好みますよ!」
その一言が、妙に胸に刺さった。……そうか。俺はつい、夜の温度だけで、この距離が埋まると思い込んでいた。違うのかもしれない。寂しさや嬉しさや、見えない不安や触れたいと願う想い。それら全部の日々を重ねることでしか埋まらない距離がある。そして、ふたりのプロヒーローと、事務の子に見守られながら、俺は深く、息を吸い込んだ。
「——ありがとうございます。」
「ん?えらい真面目に礼するやん。そないに伸び悩む羽根でもあるまいし」
「いや、ほんと助かりました」
笑い声がふっと溶けて空気は夜に向かう準備を始めていた。窓辺の夕暮れが羽根を褪せた朱色に沈めていく。ジーニストさんと、ファットさんの背を見送り事務員の子が片づけをしはじめたころ俺は気づけば、胸の奥で、言葉にならない余韻が静かに揺れているのを感じていた。
��平和な日常で寄り添える人ですよ、絶対に��
その言葉が思いのほか深く突き刺さっていたのだと思う。夕暮れが完全に夜へ変わるころ、俺は一人で事務所を出た。夜風がまだほんの少しだけ湿り気を帯びていて、背中の羽根が、ゆっくりと膨らむ。仕事帰りの雑踏の気配が遠ざかるにつれ彼女の街との距離がもの凄く現実のものとなって迫り上がってくる。
自宅に戻り、玄関の鍵を閉める。靴を脱いで、ジャケットを掛け、シャワーを浴びる。いつもと同じ律儀に積み重なる帰宅の手順。しかし湯気の向こうで、心だけがずっと落ち着かない。
夜の福岡は、思っているより静かだ。部屋の奥まで沁み込んでくるような静けさ。ソファに腰を落としタオルが乾く前の生温かい頭でぼんやりと天井を仰ぐ。その静けさの中に、彼女の声の残響がある。
昼間に受け取った、あの、短いメッセージ。あの優しい文面。そして彼女が過ごしている遠い地の空気。光景だけが鮮やかで、でも、触れられない現実。
「……会いたか。」
ただその一言が、胸の奥から零れてきた。窓の外では、街灯だけが、眠らないふりをしていた。夜が深まるほどに、心だけが騒がしくなる。

ちゃんとご飯食べたてる?
ただそれだけだったのに、胸の奥があたたかくなった。あたたかくて、心臓のまわりが少しずつ甘く痛くなって、気づけば深呼吸までしてしまった。……が。そのあとがまずかった。今夜の俺はちょっと、冷静じゃない。疲れている。遠距離。会えない。会いたい。触れたい。あの笑顔、あの声、あの手——それが全部遠いとき決まって心は勝手に暴走する。そしてなぜか剛翼も暴走する。何枚か、勝手に宙を滑空して、床に落ちた。
「あ、だめだ……こじらせ始めとー、俺……」
ソファに倒れこみ、顔を覆う。寝たい。寝たいのに、眠れない。会いたいのに、会えない。
会いたいと言えば言うほど、会えない現実が、濃くなっていく。そして気づけば、過去のトーク履歴を遡ってしまうのである。危険行為だ。でもやりはじめたら止まらない。夜の闇は人間を弱くしてくる。
くだらない報告だけの日もある。『ひじょーにねむいです』とか『ラーメン食べてたと?』とか『今、寝落ち仕掛けました』とか。その一個一個が、まるで、記念品のように胸に積もっていく。そして、思う。彼女は、俺が好きなんだろうか。本心で好きなんだろうかと。いや好きだと言ってくれた。でも足りない。足りない気がするのは、俺の性格が悪いからかもしれない。深夜は、自己反省会に最適な、たそがれタイムだ。だがしかし方向性を誤ると危険極まりない。
だんだん気持ちが膨らんでいく。寂しさなのか欲なのか恋なのか、全部が混ざっている。そして距離を憎む気持ちすら生まれてくる。しかしその暴走を止めてくれるのは、案外、些細なことだったりする。
ふと籠に収納したままの羽根が視界に入った。赤く柔らかい、何でもない自身の羽根。遠距離であっても、時間が合わなくても、夜の営みだけが手段じゃなくても。彼女の一言で、救われる夜がある。それは、紛れもない事実だった。
「……あぁもう、ほんと……好きだわ……」
天井を見上げて言葉に出すと少しだけ胸のざわつきが静かになった。会えない夜は長い。けれどそれでも、彼女と続いていく夜は、悪くない。
だが、しかし。夜は長いと思っていたが深夜はもっと長い。静けさは味方のふりをしながら容赦なく心をむき出しにしてくる。眠ることを諦めてソファに体を沈めていると、遠くで救急車の音が小さく伸びては、消えていった。こんな夜はよくない。冷静じゃなくなる。思考のリミッターが、甘くなる。羽根の本音が、変な方向へと暴れだす。そしてスマホが手元にある限り必ず人は、過ちを犯すものである——。
「あ〜……やめよ。さすがに、夜中やし……」
口では言う。でも指はゆっくりと動き始める。気づけば画面を開いていた。トークルームには、彼女との温度が残っている。たった、一言だけのメッセージが、胸に優しく響いたままだ。

ちゃんとご飯食べたてる?
たったそれだけ。いや、食べてますよ。てか俺は今すぐ、あなたのことを食べたいんですよ。
こういう気遣いが嬉しい。愛されてるなあ、と思う。なのに。なのに俺の胸にはまだ、届かない言葉がある。届いてほしいのに、届かない言葉がある。そう、好きだと、言ってほしいのだ。俺のことが、好きだって。
「だーっ……くそ、これダメなやつだ……」
止まれ、ヒーロー。やめておけヒーロー。朝の自分に怒られるぞヒーロー。そう思ってスマホを伏せる。——が、三秒後には、裏返していた。
「あああああ、絶対、後悔するのにぃ〜……!」
でも、もう遅い。指が、勝手に。彼女の名前の横にある吹き出しが……やけにあたたかく見えてしまう。そうして俺は——深夜の罪を犯したのであった。

起きてますか?

寝てますよね、わかります

でも もし起きてたら
なんか言ってください

会いたいです

あとなんか寂しいです

いやでも気にしないで
寝ててください

いや気にしてほしいです

いや寝てください

もうどっちでもいいです

好きです

深夜テンションなんで気にせんで
送ってしまった。深夜の部屋に虚無が訪れた。思わず舌打ちがこぼれる。羽根が一枚、音もなく床に落ちて時計の針が静かに淡々と進んでいく。送った瞬間、胸に湧き上がる情けなさと愛しさと後悔と期待と、不安と全部。
遠距離は難しい。でも、だからこそ。こうして深夜に心が暴走するほどの恋が胸の奥で息づいているのだろう。
*
眠った記憶がないまま、朝が来た。薄い光が、カーテンの布を透かして部屋に染みこんでくる。
こうした静かな朝ほど胸の奥のざわつきは隠しようがない。俺はスマホの画面をゆっくり横目で見た。未読のまま。深夜の無謀なメッセージは、どれもそのまま、暗闇に置き去りにされていた。
「……ああ〜……また、やったわ……」
声にならない声が喉の奥で崩れた。よりによって、あれを。あんな真夜中の暴走を。よりによって、彼女に。反省と後悔は、朝の光より冷たい。それでも寂しさは変わらない。
何も返ってきていない画面を見ていられなくて一度伏せたスマホをまた裏返し、さらに伏せて、また、裏返す。羽根が落ち着かない。背中の根元がずっとそわそわしている。
「もー、なんであんな送信ボタン軽かと……?」
自分で言って自分で苦しくなる。深夜は悪だ。
恋の防災意識が落ちる。判断能力も、落ちる。そして、羽根が暴走する。それでも、あんなメッセージを送ってしまうほど彼女に触れたかった。会いたかった。距離がつらかった。胸の奥に残るその気持ちは、深夜の勢いとは関係なく確かに、本物だった。それが、余計に苦しかった。
「……寝てるよなぁ。寝ててくれた方が、いいんだけどさぁ……」
世の中の男女たちは皆、こんな想いをしているのだろうか。願いと後悔が入り混じって溜め息が勝手に出る。時計の針の音がやけに耳についた。救急車でも戦闘音でもなく、ただ静かな朝の音。こんなに静かなのに、胸だけが騒がしい。返信がないってだけで苦しすぎる。でも。それでも——
「……好きなんっちゃんねぇ、ほんっと……」
掠れた声が誰にも届かないまま消えていった。その一言だけは深夜じゃなくても、勢いじゃなくても、偽りではなかった。
朝の光がようやく部屋に馴染んできた頃、俺はじーっと、スマホの画面だけを見ていた。
未読だった深夜の暴走メッセージの列。無言で積まれた後悔。見返す勇気なんて、ない。頼む、怒ってませんように、そう祈っていた時だった。ピッと通知が震えた。画面に表示されたのは——

おはよう
寝落ちしてごめんね

今日もお互い頑張ろうね
……終わった。いや、終わってない。むしろ、始まったのだ。胸の奥にあった重石が、ぱん、と弾け飛んだようだった。空気が一気に軽くなる。
「うわぁ、好きぃ……」
声に出た。思わず手で口元を押さえたが、無駄だった。羽根が勝手に震えた。理性が、負けた。気づいたときには、通話ボタンを押す指が完全に勝手に動いていた。無機質なコール音が鳴るたび心臓も合わせて一緒に跳ねる。羽根の根元がじんじんする。深夜の後悔と朝の幸福感が、混ざって胸の奥で渦巻いていた。
『……もしもし?』
彼女の声は、眠気が少し残ったままで、朝の光みたいに柔らかかった。もう、太陽なのだろう。
「あっ……おはようございます」
できる限り、冷静に。大人っぽく。仕事モード且つヒーローモードで。スマートに。そう思ったはずだった、が……。
「いやほんと、寝落ちなんでしょ? え?寝落ちですよね?寝れてよかったっていうか寝てくれて本当によかったっていうか……その。今ちょっと涙が出そうなんすけど」
冷静はずぐにどこかへ飛んでいった。彼女が、俺の想いに既読をつけてくれたこと。彼女の声が聞けたこと、もうその全てで、いっぱいだった。
『え……なんで、泣くの』
「いや、あの、健康が……尊くて」
『健康が……尊い?』
「あなたが寝たって事実が、あまりにも……っ」
背中の羽根の震えが止まらなかった。深呼吸。深呼吸。一回じゃ、無理だ。百回でも足りない。
「寝落ちしてくれて……本当、ありがとうございます……」
『え。なんで感謝されてるの、わたし』
「いやそれはですね、俺の暴走が夜に向かって、疾走してたので……」
『暴走……まぁ、してたね』
「でも返信、嬉しかったです。本当に」
そこで一瞬、言葉が途切れた。その沈黙の間に胸の奥に込み上げるものがじわじわ溢れてきた。
「……好きっす、名前さん」
『うん』
「めっちゃ好きっす、ばり好き。」
『はい』
「……え、聞こえてます?」
『うん、聞こえてるよ』
「じゃあ、言います。好きです。朝から全力で好きです」
『ふふ……朝から元気だねぇ』
彼女が笑う。それだけで胸がいっぱいになる。きゅっと苦しくなるほど、好きだった。しかし、その柔らかな笑い声に満たされた瞬間、俺はふと自分でも止め方がわからない質問を投げはじめていた。
「あの……最近、どうです?」
『普通だよ』
「寝れてます?」
『まあ、普通に』
「仕事は?」
『今日は会議が二本と午後は珍しく外回りかな』
「外回り!?どこに?」
『いや、そんな気にするほどの場所じゃないよ』
「いや、気になりますよ。全力で気になってますよ。徒歩ですか?電車ですか?え、何時頃に移動します?」
『……普通に、昼くらいかな』
「昼!?」
『昼』
彼女の声は、落ち着いている。静かで、淡々としていて、まるで忙しない俺を逆説的に抱きしめるかのように一定だった。その余裕と温度が胸にしみて、余計に焦燥を煽られる。
「昼は危ないですよ!人が多い。あと、外。あと太陽、眩しい。紫外線強い。暑い。疲れます」
『ホークス……』
「あ、すみません。でも、心配なんです」
『ありがとう。大丈夫だから』
「大丈夫って……えっと、誰と?」
『職場の人と』
「職場の……男、います?」
『いるよ。普通に』
彼女は可愛く呑気に笑っているが、こちとら、心臓の羽根が、ざわざわと落ち着かない。
「……最近さ。どうなんすか、俺のこと?」
『え? どうって?』
「ちゃんと、好きでいてもらえてます?」
『うん。好きだよ』
「え、ほんとです?」
『ほんとだよ』
「最近、会えてないじゃないですか。距離、あるじゃないすか。なんか……こう、俺以外に、気がいったらとか」
『そんな暇ないよ』
彼女は淡々と言う。事実をまっすぐに。余計な飾りをつけず、でも、揺らぎのない声音で。
「でも、日々が忙しいと気持ちも変わるじゃないですか。人って」
『変わらないよ』
「いや、でも——」
『ホークス』
その声がすっと俺の言葉を断ち切った。静かでやさしくて、やっぱり、落ち着いていて揺らぎがない。
『好きだよ。でも私の「好き」は普通なんだよ』
「普通……」
『あなたの全力の好きとは、ちょっと違うだけ』
「……違う」
『形が違うって話。好きの気持ちは一緒だよ?』
胸の奥が少しだけ、切ない方の要因できゅっと鳴った。嬉しくて、切なくて、苦しい。
「普通でも、好きって、言ってくれるんですね」
『言うよ。だってそうだもん』
静寂が落ちた。だけど、その静けさはなぜだか嫌じゃなかった。確かに心に触れてくる穏やかな距離だったから。
「……俺の��好き�≠ヘ、ちょっと怖いですか?」
『ううん。すごく可愛いよ』
その一言が、胸の奥の何かをほどくみたいに、強く響いた。通話を終了した途端、耳元に残っていた彼女の声がすっと空気の中へほどけていく。スマホを手の中でゆっくり伏せた瞬間、胸の奥がふいにじんわりと温まり、そして同時に少しだけ冷えた。話せて嬉しかった。声を聞けて救われた。けれど、通話が切れたという現実のほうは、あまりに静かで、あっけなかった。ああ、好きな人って、こんなにも、いとも簡単に日常へ還っていくのかと、今さらながら痛感する。
部屋には、風もないのに羽根が落ち着かない。俺の感情が、まだ帰りきれていない。ひとり分の沈黙は、思っていたより大きかった。
会えない距離は、思っていたよりも重かった。さっきまで同じ空気を吸っていた気でいたのに、電話が切れた途端に彼女はまた自分の朝に戻っていく。俺はこの部屋にただ呼吸だけを残されて。だけど、胸の奥は不思議と満たされていた。
普通、という言葉。普通の好き。普通に好き。普通って簡単なようで、実はいちばん難しくて、いちばん尊い。その儚くて尊い普通を差し出してくれた。特別じゃなくても、劇的じゃなくても、派手じゃなくても、ちゃんと、好きだって言ってくれる声を聞けた瞬間、俺の中の何かが、ふっと落ち着いた。大げさな羽ばたきじゃなくていい。夜の焦りじゃなくていい。静かに寄り添うという愛し方が、たしかにあるんだと、ほんの少しだけ信じられた。
でも、正直に言えば、胸の底ではまだ、もっと聞きたかった。もっと、彼女の声を感じていたかった。もっと好きだと言ってほしかった。欲張りだな、俺は。ほんと、強欲。そう思いながらも、どこかで苦笑しつつ、ソファに身体を沈めて目を閉じる。
二人の朝。好きの温度差。遠距離という現実。それら全部まとめて、愛おしい。彼女の声はもう電話越しにしか触れられないのに、なぜだろう、心の奥ではまだ、優しく響いている気がする。
ああ、好きだな。とにかく好き。心底、好き。そう呟きたくなるような、しずかな余韻だった。
*
午後十二時。福岡の空は今日に限ってやたらと穏やかだった。にもかかわらず俺の胸の中だけが嫌なほどざわついていた。さっきまで普通だったのに。さっきまで、落ち着けたはずだったのに。なぜなら。俺は聞いてしまったのだ。事務の子がうっかり漏らした、あの一言を。
「——あ、今日ってヒーロー緊急支援センターの例の��アセスメント巡回�≠フ日ですよね?」
「…………はい? なんすか、それ」
「え、知らないんですか?表向きは、協力校訪問なんですけど実質は優秀候補の水脈を見極める日っていうか。まぁ、業界ではそう呼ばれてます」
「す……水脈?」
「はい。雄英とか士傑とか名門校に出向いて次の年度の採用候補を把握しておく流れです」
「……へえ、」
「本来は非公開なんで生徒には口外しないんですけど、毎年バレてますね、普通に。私の通ってた学校にも来てましたし」
思考が真っ白になる。いや一瞬で赤黒かったと言ったほうが正しいかもしれない。雄英高校……よりにもよって雄英?いや、雄英高校?しかも、視察?センターの採用枠的な?なんか、未来への関係やら可能性やら交流やらがいっぱい詰まっている、あの雄英?そして、そうだ。彼女は過去に言っていた。
『イレイザーヘッドとかよく対応、受けてたよ』
『彼の教え子だった子がね、うちの会社で何人か働いてたりするんだよ』
…………いや。いやいやいやいやいやいやいやいや!なんそれ。な・ん・そ・れっ!?
『あのヒーローも、連携が本当にスマートでね』
『むしろ私たちの方があまり役に立ててなかったんじゃないかなーと思うくらい』
って……は!?それ、言った!?気のせいじゃなかったと!?ほんとに言ってたっけ!?羽根がざわつく、という表現があるなら、今がまさに、それだ。背中から全部飛んでいきそうな勢いだ。
「……ちょっとだけ、外の風、吸ってきます」
そう言った瞬間、事務の子が困惑した顔で俺を見上げる。
「あ、ホークスさん、それは……ひょっとして、��嫉妬羽根�≠ナすか」
「やめてっ!名称つけんでっ!」
だが止まらない。理性も、羽根も。何もかも。
俺はビルの屋上に出て、スマホを握りしめた。いつのまにか手のひらが熱い。最初は落ち着いていた。距離だってゆっくり埋めていけばいいって思えていた。でも彼女のその『任務』が。そこが��雄英高校�≠セって事実が。そして、何より——
「……イレイザー……ヘッド……」
なんなん。ヒーロー名、ばりカッコよかし……おっと、胸の中でつい呼び捨てにしてしまった。しつれい極まりない。でも今は、それどころじゃなかった。だって、彼女が今日、あのヒーローの職場にいる。挨拶もするだろうしもちろん会話もあるだろうし、お礼の言葉だって、控えているに違いない。そこで脳内は、勝手に再生を始める。
『いつも助けられてます!』
『ありがとうございます!』
『ほんとに頼りになってます♡』
『もしよかったら今夜、お食事でも——』
え……いや、待って??????無理なんですけど?????
そんな、まだ存在しない未来の幻の会話に胸の奥のどこかが、ぎゅうっと縮んだ。いや、ぎゅうじゃ足りない。ぎゅうぎゅうぎゅう。圧搾。真空パック。勝ち目が……ない……???いやいやっ!そんなことはない!俺には飛行能力という個性があるしこんな立派な赤い剛翼という羽根もあるしスピードも——いや、ぜんぜん関係ないか。落ち着け。落ち着け俺。これはただの業務だ。普通の視察。あくまで、仕事。こっちは恋人。向こうは教師。大丈夫、大丈夫、大丈夫……って言い聞かせれば言い聞かせるほど、ぜんぜん、大丈夫じゃなかった。一瞬でも油断したら、胸の奥が崩落しそうだった。心のなかの剛翼が、ばらばらに抜け落ちる前に、俺はスマホを掴み震える指で即座にロックを解除した。そして送った。最速で。深夜の暴走より速く。——願わくば、この焦燥が羽根ごと届きますようにと、祈りながら。

今なにしてますか?
無事ですか?
——しかし。返ってこない。一分経過。二分。三分。その沈黙に、胸が急速に、締め付けられていく。仕事中なのだろう……忙しいだけだろう。返信できないのも仕事だから。ちゃんと、頭では理解してるのに胸は。羽根は。ぐちゃぐちゃだ。
……なんで、雄英。なんで、今日……。よりにもよって、イレイザーヘッドのいる、雄英に……!
気づけば、空の青だけがやたら澄んで見えた。俺の胸の曇りと対照的に。
「……好きって、凶器だなぁ……」
ぽつりと漏れた声は、風にさらわれて消えた。背中の羽根は、静かに震えている。
胸の奥に渦を巻く不安を抑えるために、意味を忘れそうになるほど深い呼吸をひとつして俺は、スマホをもう一度、握り直した。……落ち着け。彼女は仕事だ。視察だ。ただの業務だ。それでも胸の奥の羽根が、どうしてもざわつく。
(……常闇くんなら)
そう思った瞬間、気づいたら親指が発信ボタンを押していた。鳴り響くコール音が、やけに長く感じられた。
——雄英高校・常闇 side
学食横の吹き抜け廊下で俺は、クラスメイトと共に昼休みを過ごしていた。緑谷が自身のメモ帳をめくり、轟は黙ってサンドイッチを口に運び、葉隠や芦戸は明るく談笑し窓のむこうでは初夏の風が梢を揺らしている——そんな、いつもと変わらぬ昼の光景だった。その時だ。ポケットの中で控えめな、マナーモードの着信が震えたのは。
スマホの画面に浮かんだ名前を見た瞬間、思わず背筋が伸び俺は立ち上がった。
「……ホークス?」
「え!?!?!?!?」
緑谷の声が裏返り「ホ、ホホホホホークス!?常闇くんすごいね!ホークスとプライベートでも連絡取る仲なの!?」と興奮気味に立ち上がり、葉隠はなぜか音符が浮いているような陽気な声で「すご〜い」と弾んでいる。轟と芦戸に至ってはなぜだか姿勢を正した。なぜ、構える?待て、どうしてホークスから着信など。いや、落ち着け。俺は一度深呼吸をして、通話ボタンを押した。
「……ホークス、何用だ。」
『常闇くん!?』
鼓膜が破けそうなほどの声量に思わず目を見開いて一度スマホを耳から離してしまった。やけに食い気味だ。いや、食い気味すぎるほどだ。
『今どこ!?雄英!?授業中だよね!?』
「あ、いや……昼休みに入ったところだ」
『バード視点で確認したいことあります!!』
「バ……バード視点、とは?」
緑谷はしばし絶句した。だが次の瞬間、はっと我に返り、手にしていたメモ帳をぱっと開いて、勢いよく何かを書き留めはじめる。その真面目さ勤勉さ、向上心は、さすがと言うほかない。ただ残念ながら焦燥にまみれたバード視点の研究が、ヒーロー成長に役立つ未来は、こない気がした。一方その横で、��バード視点�≠ニいう言葉に反応した轟は氷のような声で淡々とひとこと「まあ、鳥だな」と、まったくブレない評価軸に俺は逆に救われた気分になった。
『名前さん——いや、えっと……、ヒーロー緊急支援センターの方、来てますよね!?!?』
スピーカーにせずともだだ漏れであるホークスのその声と言葉に、俺の背後で全員が固まった。
「誰の話をしてるんだろ、ホークス」と、緑谷が轟の耳元で囁く。女子ふたりも、ヒソヒソと声を顰める。
「名前さん……?って、誰?」
「ホークスの、彼女……?え、ホークスって彼女いるの?」
背後でざわりと小声が揺れる。俺はその全てを受け流すように、最低限の冷静さで答えた。
「来ているようだ。A組も挨拶を交わした」
電話口のホークスは一瞬の沈黙のあと、なぜか小声になった。
『……常闇くん』
「む?」
『……イレイザーヘッドと、喋ってました?』
俺は突然の登場人物に少し困惑しつつも、なんとか口元を引き締めたまま言う。
「ええと……若干、挨拶を」
『内容は!?』
「……内容?」
『どんな雰囲気でした!?穏やか!?優しい!?渋い!?照明の角度とか!!距離とか!!』
「照明……とは?」
穏やか、優しい、渋い……までは、なんとなく理解ができた。だがしかしなぜ照明が絡むのかは謎だ。緑谷と轟は頭の上に、クエスチョンをたくさん浮かべ真剣に考察しているが何を悟したのか葉隠と芦戸の女子二人は口元を押えてくすくすと肩を震わせ、笑いを堪えている。俺はコホンと、小さく咳払いし、静かに言った。
「とりあえず……問題なさそうだったと思うが。基本、校長と共に行動していたので」
電話の向こうで息が落ちた。それはほっと力が抜けるような、安堵にも似た深いため息だった。
『…………よかった……まじでよかった……』
その声が、胸に響くほど切実だったゆえ俺は、ほんの少しだけ、言葉を足した。
「安心しろ、ホークス。ホークスの言っている、その女性は、真面目な人のようだ」
そう言った瞬間、なぜか妙な沈黙が落ち、直後スマホを落としたらしい鼓動の音が響いたあと、すぐに声が戻ってくる。
『常闇くん……俺、君のこと大好きっ!!』
緑谷が「うわぁ……いいなぁ、常闇くん」と、感動で震え、熱い尊敬の眼差しを、こちらに投げつけてきた。葉隠は「愛の告白だっ☆」と言い、芦戸は親指を立てて「これ、他言無用案件だね、絶対」とウインクしていた。轟はやはり首を傾げ続けてはいたが俺はひとまず静かにスマホを耳から離し、そっと通話を終えた。昼の校舎に戻る風の音が、やけに心地よかった。
——プロのヒーローたちはきっと皆こうやって不器用に平和と愛を守っているのだろう。まさにラブアンドピース。そう思ったら少しだけ、胸が熱くなった。
*
常闇くんとの通話が切れたあと、胸の奥にゆっくりと、温度を帯びた安心が、広がっていった。
大げさかもしれない。笑われるかもしれない。でも、たった一言の「安心しろ」で救われる日があるなんて思ってもみなかった。彼の声はどこか澄んだ水みたいに心に沁みて羽根のざわつきまで静かに沈めてくれた気がした。
本当に、ありがとう……未来のヒーロー。そう思いながらスマホを伏せたとき、ふと、気づく。空気が、変わっていることに。焦らなくていい。ゆっくり愛を育んでいけばいいんだ。
それでも夜はやっぱり良くない。静かすぎる。福岡の空は昼間、あんなにも人の声と羽根の音とサイレンで満ちているくせに深夜になると一気に心の奥だけが、鮮明になる。彼女の声がもう聞けない時間、という事実がひどく、胸を締めつけてくる。コンビニで買ったエナジードリンクの缶を指先で弄びながら、俺は、ベランダに座り込んでいた。吹き抜けの風が皮膚を掠めるたび、羽根の根元がひりひりと疼くようで、ああ、距離って、こういうことなんだなぁ、と。今日の昼間、常闇くんの声に救われたというのに、夜になるとまた心の底から何かが滲み出してくる。
眠れない。眠れない理由は、たったひとつだ。会いたい。それを認めた瞬間、もう抑えは利かなかった。スマホを握りしめホーム画面の明かりが夜色の部屋を白く染める。
時刻は深夜の2:21。ためらいなんて、もうどこにもなかった。

会いたいです
たった六文字。けれどそれでは足りなかった。送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が波立つ。
同時に、なにかが、崩れていくのがわかった。これだから、夜は恐ろしい。

今すぐは無理って
わかってるんですけど

でも気持ちだけは
会いに行っていいですか
迷っている暇なんてなくて、指先が、心が先に彼女に向かって飛んでしまう。止められない——

正直言うと

声が聞きたいです

ちょっとだけでいいんです

5秒でもいいんで
怖かった。
けれど、どうしても止められない。
会いたい、苦しい、好き——会いたい。

さみしいです
——送信。胸が、ぎゅっと鳴った。
その瞬間ベランダの風がすこし冷たく感じた。やばい。俺がやってること全部ダサか。全部バレたら絶対笑われる。でも苦しい。会いたい。気持ちが夜になると全部、溢れてしまう。理性より、愛情が前に出てしまう。もしかしてこれが遠距離の夜の正体なのだろうか。
画面には既読がつかない。当たり前だ。彼女はきっともう眠っている。わかっている。本当は俺だって、わかってる。それでも気持ちが止まってくれない。夜空へと視線を上げれば、何も返ってこない。代わりに胸の奥だけが、騒いでいる。

明日の朝でもいいんで

受け止めてください
送信後、ふっと笑ってしまった。眠れるわけがない。けれどそれでも、救われたいと願っている自分がたしかに、そこにいた。
*
目が覚めた瞬間、胸の奥が、重かった。深夜の空気の中に放り投げた、あのメッセージたちが、まだベッド脇のスマホの中で呼吸をしている気がした。寝起きの視界がぼやけているのは寝不足のせいだ。いや、違う。自覚している。
昨夜、気持ちを抑えきれなかった。乱れたシーツに片腕を置き天井を仰ぐ。羽根の根元がかすかに重く疼いた。枕元のスマホを開く。通知は、来ていない。当たり前だ。彼女は寝たのだ。俺が眠れなかっただけで。
重苦しい溜め息を吐き散らしメッセージアプリを開いてみれば昨夜のメッセージが画面に並ぶ。

正直言うと

声が聞きたいです

ちょっとだけでいいんです

5秒でもいいんで

さみしいです

明日の朝でもいいんで

受け止めてください
読み返すほど、自分の弱さと愛が滲む。やば。重たかね俺。なのに消せない。後悔しているのに消せなかった。あの瞬間は、それが自分のすべてだったから。
深く息を吸う。明け方の冷たい空気が喉を通り胸の奥で静かに膨らむ。これ、起きたら見てしまうんっちゃんね。恥ずかしさ。申し訳なさ。それでも、それすら上回る愛しさ。そのすべてに胸が揺れた。
羽根をそっと伸ばして、ベランダの隙間から、静かな街を見下ろした。夜の孤独に、置き去りにされた愛情が、朝の光にすこしだけ薄れていく。それでも思ったのはたったひとつ。どうか無事に届きますように——。
スマホに光が差したのは、寝ているのか起きているのかわからないままソファで迎えた二度寝のあとだった。うつ伏せになったまま手を伸ばすと画面にはたったひとつだけ、通知がついていた。

おはよう
ちゃんと寝れた?
それだけ。たったそれだけの言葉なのに全身の力が抜けていった。……優しいなぁ。昨夜の暴走メッセージを全部読んだはずなのに。何も責めずただ、当たり前みたいに朝の挨拶をくれる。
ほんと、優しい。胸の奥がふっと熱くなった。罪悪感と、愛しさと、安堵がごちゃ混ぜになって涙が出そうになるが、震える指先で返信を打つ。

おはようございます
昨日の夜はごめんなさい
送信ボタンを押した瞬間、心臓が跳ねる。既読マークがついたからだ。そして、ほんの数秒後にスマホが震えた。着信——名前さん。
「……っ!」
慌てて体を起こし「あー」とか「うー」とか、極めつけには「ん"、んん"っ」と、喉を整える。
「も、もしもしっ……!」
『お、おはよ。びっくりして起きちゃった?』
眠そうで、でも柔らかい声だった。それだけで胸の奥のぎゅうっとした塊がほどけていく。
「昨日の夜……すみません。本当に。暴走して」
『ふふ、知ってるよ』
「ほんと、反省してます。めちゃくちゃ」
『でも、うれしかったよ』
「……え?」
『会いたいって、あんなに素直に言ってくれて』
呼吸が止まった。朝の光のなかで、自分の弱さごと抱きしめてもらえた気がして。
「俺……好きです。朝から、全力で、好きです」
『ふふ……ほんと、朝から元気だねぇ』
その声だけで胸がいっぱいで、きゅっと苦しくなるほど、大好きだった。
「……今日の、予定は?」
『普通に仕事だよ』
「あの、昼は……食べられそうですか?」
『うん。食べるよ』
「美味しいもの、食べてくださいね」
『うん、ありがと。ホークスもね』
「あの、俺……ずっと考えてました」
『ん? なにを?』
「距離とか想いとか。ちゃんと……大事にしたいです」
電話の向こう側で短い沈黙が落ちた。息が震える。胸の中心がじわりと熱を持つ。でもそれは、もう、隠しきれない本音だった。
『……だいじょうぶ。ちゃんと、伝わってるよ』
「ほんとですか」
『ほんと』
「ほんと、に……?」
「ふふ、ほんとー。だから、安心して?」
その笑い声が、遠くの空気を一気に、近づけてくれた気がした。冗談でも気休めでもなく、その声を聞くためだけに俺は、この長い夜を超えたのだと思った。
「……早く、会いに行きますね」
『ん。待ってる』
たったそれだけで、胸の奥に、明かりが灯る。それだけで、救われた朝。たくさんの言葉よりもずっと深く、ずっと静かに真っ直ぐに。
「……大好きです。ほんとに。」
『うん。わたしも、大好きだよ』
通話が切れたあと耳の奥に残る声がじんわりと溶けていく。夜の冷たさが、少しずつ薄らいで、遠くの空が、かすかに白みはじめる。
夜を越えるたびにきっとまた少しずつ、互いの距離は近づいていく。そう思えたことが何よりの救いで、その瞬間、夜の孤独が全部、朝に溶けたようだった。そして胸の奥には確かに、ふたりで歩む明日が、灯っていた。