福岡にある彼の自宅には、まだ一度も足を踏み入れたことがない。けれどここ公安が貸し出しているらしい、いわば、セーフハウスと名のついたこの場所には、今日、初めて招かれた。外観こそ無機質なのにエレベーターの扉が開いた瞬間から漂う静謐さは、まるで誰かの秘密の巣箱のようで私はバッグの肩紐を握りしめる指先に、かすかな緊張が宿っていくのを感じていた。

「ただいま——じゃなくて、お邪魔します……」

 思わず口をついて出た言葉に、自分で苦笑しかけた瞬間、彼がすかさず返してくる。

「ただいまでいいですよー。もう、住んじゃいましょー!」
「その話は一旦スルーで。あまりに家感があって思わず、ただいまって言っちゃっただけだから」
「またまたぁ〜、照れちゃって可愛いっ♡」
「照れてないから!ほんと間違えただけ!」

 そんな応酬の末、玄関に足を踏み入れた瞬間、ふわりと甘く、湿ったような香りが鼻先をくすぐった。深夜のホテルのロビーを思わせるような、どこか大人びた、落ち着いた香りが漂っている。

「ねえ……もしかして、アロマ、焚いてる?」
「はい!ちょっと前からハマってるんすよぉ〜。これ、リラックス効果すごくて」

 そんなはず、ある? いや、あるんだろうけど、いや……ないでしょ。だって、この香り、よりによって��そういう気分�≠フときに、部屋中で焚きしめるやつじゃないの……?YouTubeで深夜帯に流れてくるあの怪しい広告のやつ。彼の好みとは到底思えなくて、思わず心のなかで頭を抱える。なんて言うか、ほんと、わかりやすい……。
 私は気持ちを切り替えて、キッチンへ移動し、持参したエプロンを素早く結んで食材を並べた。けれど手元に意識を落とそうとしてもどうしても背中に注がれる気配が、消えてくれない。部屋の照明もいつの間にか柔らかい間接光だけになっていて、影がなめらかに壁を流れている。

「ねえ……この照明、いつもこんな感じなの?」
「え、やっぱ暗かったです?雰囲気出るかなって思ったんですけど」

 雰囲気、出るかな、とは?いや、出るけどさ?今それを言えるあなたは、何者なの。あの秒速で既読をつける人と同じ人物なの……?なんだか、語彙のすべてが、いちいち気になってしまう。 

「……普通の、LEDとかは?」
「えー?無粋でしょー?せっかく名前さんが来てくれてるのにぃ」

 部屋中に流れている音楽も、やたらと穏やかな低音で、夜の深さを撫でるみたいなアンビエント系だ。絶対に普段、こんなの聴かない。この人はもっとこうやかましいビートに乗って空を飛んでいるイメージなのに。いや、実際の好みなんかは詳しく知らないけれど、あくまでイメージの話。
 アロマ、照明、音楽……。全部が無駄に(いや有効的に?)色気を纏っていて、もはや水面下の努力では済まされないほどの準備が見え隠れしている。この男——本気で、仕掛けてきてる……。そんな心の声をなんとか飲み込みながら、包丁を動かして、私は、ぼそりと呟いた。

「なんか、さぁ……悪いことしてる気分」

 ふいにこぼれた言葉に背後から覗きこんできた彼の影が揺れた。

「悪いこと?」

 その問い返しが、とんでもなく近い。距離が、ほとんどゼロに等しい。というか──いや、絶対そうだ。今日のホークス、いつもよりも明らかに香水が強めじゃない?甘すぎないのに体温みたいに残るあの香りが、彼自身の匂いと混ざり合って胸の奥をふわりと掻き乱してくる。私がこの匂いに弱いのをもしかして知ってるんじゃないかって思うほど、呼吸のたびに彼が近づいてくる錯覚に陥って危うくそのまま意識がふわっと浮き上がりそうになった。
 くらくらする……落ち着け、と思っても、落ち着けるはずがない。必死で、頭の内側を振り払うようにして、やっとの思いで言葉をつむいだ。

「な、なんていうかこう……強豪校の寮に無断で入り込んでコソコソしてる、みたいな……さ?」
「え、学生時代そんな事してたんすか?男と?」
「いや、違うくて!例えだよ、例え!」
「いや〜、よかったです。本当だったらその学校、廃校にしてたところですよ。大人の力で」
「怖いってば。それ大人の力じゃなくて良くないヒーローの力でしょうが」

 そう言い返して、盛り付けを終えて振り返った瞬間、息が止まる。すぐそこに、彼の肩。そして照明に照らされて微笑む至近距離の瞳——。私は咄嗟に姿勢を戻した。お泊まりの夜が静かに動き出したとわかるにはその気配だけで十分だった。

「なんか俺、嬉しいんすよねぇー」

 背後から降ってきたその声は照明の熱をほんの少し含んでいて、まるで、深夜のラジオのパーソナリティが気を抜いたときだけ見せる、素の温度みたいで、私は思わずまな板の上の野菜に視線を落とした。キッチンの壁に映る彼の影が、さっきよりもさらに、少しだけ近い。

「こうやって名前さんがうちでご飯作ってくれてるの、たぶんすっごく求めてたんだなーって実感してます」
「わ、わかったから!てかここ、あなたの家ではないでしょーが」
「なんでもいいんです、名前さんが一緒なら」
「〜〜〜っ、あー、もうっ!ちょっと離れてっ」

 そう言って半ば逃げるように皿をダイニングへ運んだ。その小さな逃避行を眺めていた彼は何も言わずにふわりと笑って、まるで、追いかけない優しさを選んだ人のように、その場で動きを止めた。私は食卓にスープを置きながら、自分の胸の内に湧き上がる熱の正体を掴めずにいた。
 彼氏の家……いや、正確には彼氏がここで寝泊まりしている空間であり、本来は、公安の所有物だけれど、そんなラベルは今はどうでもよくて。ただ、こうして彼の生活の気配が詰まった部屋に自分が泊まるということが、こんなにも、意味を帯びて胸に迫ってくるものだったかとあらためて思い知っていた。

 なんとか食卓に二人で付きスプーンを手に取りスープを啜るふりをしながら、私はこっそり彼の表情を盗み見る。テーブル越しの彼は、カレーを頬張りながら、まるでさっきの続きですよとでも言いたげに、自然に目を合わせてきた。

「今日、ベッド使うのは禁止で。」

 その宣言は、やけに真面目で、やけに即答で、
私は思わず口に運んでいた最中のスプーンの手を止めた。

「……え? どうして……」
「いやぁ、シーツとかは変えてるでしょうけど、どのヒーローがどんなふうに使ったかなんて知らないじゃないですかぁ」
「は、はぁ……」

 なんだその発想は、ここはラブホか!と心の中で両手を広げたくなる一方で、しかし彼の言う、『どんなふうに』の部分が想像力に勝手な余白をつくってしまい、私は一瞬だけ、視線のやり場を失った。
 このマンションにはさまざまなプロヒーローが出入りしているのだと確か以前、彼が笑いながら話していた気がして急にベッドの純潔とか空気の匂いとか、そういったものが妙にリアルになってしまう。
 ここは彼の私物ではなく、公のための無機質な空間──そのはずなのに彼が私を寝かせる場所を本気で選んでいるのだと気づいた瞬間、胸の奥がふわりと熱を帯びた。

「でも安心してください。ちゃーんと布団、用意してありますからねー」

 彼はそう言って綺麗に畳まれて部屋の隅に寄せられていた布団の山を、誇らしげに指差す。新品の肌触りがそのまま残っていそうな白い布団。彼がいつ準備したのかわからないけれど、私が玄関を開けたときにはもうそこにあったのだと思うと、胸の奥にひっそりとした灯りが灯る。

「名前さんは新品の布団。寝室の床に敷きます」
「……あ、はい。」
「俺はこの部屋のソファに。そこで寝ます」
「あ、そう……それは、よかった、です……」

 口ではそう言いながらも心のどこかでは安心と物足りなさが複雑に絡み合い、それらはまるで、同じ温度の霧みたいにゆっくりと胸の内側に広がっていった。だが、しかし……。

「大丈夫ですよ。襲わないんで。——たぶん」
「あ! たぶん、って言った今!」
「いやぁ〜、保証はできないですって……。ボク、男の子ですよ?」
「ボクぅ?」
「本気で名前さんのこと好きなんで、常に触れていたいんすよ、本音のところは」

 その一言はあまりにも静かであまりにも素直で私は胸の奥をひと突きにされたような気がした。ふざけているようでいて、実際にはほとんどふざけていない。その目は、確かに私を尊重しようとしていて、同時にどうしようもないほど求めてもいて、その両方が、ひとつの視線に溶けて宿っていた。だけど、それでも——この部屋には確かに柔らかいアロマと低い照明と夜の深まりが混じり合った��そういう空気�≠ェ漂っていてそれは私の心の輪郭をゆっくりと溶かしていくような静かな熱を帯びていた。

「ほんと、名前さんの手料理、美味しいです!」
「……う、うん。ありがと。」

 …………どうしよう。
 そんな言葉を胸の内で呟いてしまうほど、私はたぶんもう、この夜に、飲み込まれ始めていたのだった。彼はきっと本気で気遣ってくれている。けれどこの空間の照明とアロマとさっきから少しずつ近づいてくる体温のような彼の気配が、その彼が用意してくれた布団の境界線を、曖昧にしてしまう未来を、静かに甘く予感させていた。


 *


 晩ご飯が終わっても、その夜、私はずっと迷い続けていた。本当に、この部屋に泊まっていいんだろうかと。そんな問いが、食器を片づけ終えたあとも、アロマの煙のように胸の奥でゆらゆらと揺れていた。
 この照明の色も甘すぎるほどの香りも、やたら静かな温度も、どうしたって『何かが起こりうる夜』の気配を孕んでいて、それなのに何も起こらずに朝を迎えるなんてそんな芸当が本当にできるのだろうか、私たちに。
 答えが出ないまま、彼がそっとブランケットを差し出してきた。その手つきが、子どもが好きな人へ花を差し出すときと同じくらい、不器用で、真っ直ぐで、胸を少しだけきゅっと締めつけた。

「ほら。落ち着いてからお風呂入ってください。俺は何も……たぶん、しませんから」
「……っ、」
「はははっ」

 完全に、からかっている……でも「たぶん」のそのひと言は、からかいを装った甘い刃のようで刺さらないふりをしても心の奥でふるっと震えてしまう。それでもその��逃げ道�≠�彼が用意してくれていることが私をこの場所に少しだけ留めてくれる。私はふうっと息をつき、ブランケットを受け取った。
 ——たぶん大丈夫。今日、私はこの夜を選ぶ。彼がほんとうに我慢してくれるなら私はもう少しだけ、心の重さを彼のその羽根に預けてみようと思った。

 無事(?)にお風呂から上がり、肩にふわりとブランケットをかけて廊下を歩く。乾ききらない髪の先端がまだ湿り気を含んでいてその冷たさと先の湯の余熱が混ざりあう不思議な感覚に包まれながら、私はゆっくりと寝室へ向かった。
 その前に、リビングの灯りの下、ソファの端に座ったまま羽根を小さく畳んでいる彼の姿が目に入った。明るいところにいるのに彼の輪郭だけがどこかぼんやりと影をまとって見えるのはきっと今夜、同じ温度で眠れない寂しさが、彼の背中にそっと落ちていたからだと思う。

「……ホークス」

 そっと声をかけると、彼は、顔だけをこちらに向けた。やけに素直で、弱いところを隠そうともせずに。

「……おやすみ、ね。ゆっくり寝て」

 微笑みながらそう言うと、彼はほんの一瞬だけ困ったように口角を揺らし、けれどすぐに優しい声で返してきた。

「……おやすみです、名前さん。ちゃんと、いい夢見てくださいね」
「うん。羽根、冷やしちゃだめだよ」
「はい。温めて……待って——あ、なんでもないです」

 途中で言いかけて止めた、その小さな言葉が、やけに胸に沁みる。ソファに身を預けた彼の背中にほんのわずか影が揺れていて、それが私の心の奥にも同じ形で落ちてきた。私はブランケットを握り直し、小さく息を吸った。

「……おやすみ、ホークス」
「……おやすみなさい、名前さん」

 声が重なった瞬間、たった数歩の距離がひどく名残惜しく感じた。それでも私は寝室へ向かう。
 床には、彼が丁寧に敷いてくれていた真新しい布団があり、触れた瞬間、まだ誰の熱も知らない生まれたての空気が、ふわりと跳ね返ってきた。
その淡い反発だけで胸の奥がゆっくりと温まっていくのを、私は確かに感じていた。
 布団に身を沈めると、ふわりと甘い、アロマの香りが、漂ってきた。眠れるはずがない。眠りを誘うどころか、意識ばかりを冴えさせる香りだ。時計の秒針がやけにくっきりと耳に届く。夢にも眠れそうにない夜だった。さっき彼が冗談めかして言った言葉が、頭の奥でひたひたと反響する。
 
 『俺はソファに。そこで寝ます。』
 『大丈夫です。襲わないんで──たぶん』

 その「たぶん」の部分ばかりがまるで赤文字で表示されているみたいに浮かんで消えない。

 彼はソファで、ちゃんと寝ているんだろうか。もう寝たのか、まだ起きているのか。こっそり、見に行っても、怒られないよね?
 泊まると決めたはずなのに私はまだ夜の入口で足踏みをしていた。それでも迷いながらゆっくり立ち上がる。寝室のドアを開けて、廊下へ出る。そして、リビングの前で立ち止まった。扉の向こうは息をひそめたように静かだった。ノックする勇気が出ず、私は指先で小さく、コン、コン、と、二度だけ叩いた。返事はない。そっと扉を開けてみるとソファの上で整った寝息を立てるヒーローがいた。目を閉じて無防備な横顔。胸が上下するたびにライトの薄明かりが羽根の影を揺らした。

「……、」

 ——寝ちゃったんだ。ちくり、と胸が刺さる。どこかで「起きてますよ」なんて微笑んでくれる未来を勝手に期待してしまっていた。

「……おやすみ、マイヒーロー。」

 そう囁いて、扉をそっと閉めようとした、その瞬間——。すっと手首に柔らかい感触が触れた。驚いて振り返ると、一枚の赤い羽根が私の手首をつまむようにそっと引き留めていた。

「……ホー、クス……?」

 目を瞬かせる私。暗がりでもわかる。なんと、彼の目が、薄く開いていたのだ。

「あなたのマイヒーロー、起きてますよ」
「……、」
「寝たふり、してました」
「……もぉ、意地悪。」

 羽根はそのまま私の手を引き、ゆっくりと彼のいるソファへと導いていく。その動きは強くなく拒めば、簡単にほどけてしまうほどの優しさで。だからこそ、逆らえなかった。

「こっち、来ません?」

 低く、くぐもった声。何かを求めているというより私の迷いごと包み込もうとするような静かな温度。私は小さく頷き、ソファの端に腰を下ろした。もし彼が羽根でそっと引いてくれなかったらきっと私はまた、寝室の布団に、戻ってしまっていたと思う。
 彼が、ブランケットの端をそっと持ち上げる。私はそこに滑り込むように、身を沈めた。身体が触れるか触れないかの距離。けれど、心はもう、とっくに、あたたかな彼の羽根に包まれていた。

「……ちゃんと、寝てた方が、よかった?」
「よくないです、全然。寝たふりなんて、ほんとはすぐ、バレてほしかったです」

 私が思わず笑うと彼も静かに笑った。それから何も言わずに私の背中へ羽根を、ふわりとかけてくれた。

「デザートは最後に取っておけって言うでしょ」
「え……」
「うそうそ。安心して寝てください。今日は何もない夜にします」

 その言葉の優しさに、私はようやく目を閉じることができた。彼の腕も、唇も、今はまだ触れてこない。でもその距離が愛しくてしかたなくて。彼の羽根にそっと包まれるようにして身を沈めた瞬間、胸の奥につっかえていた緊張が、ようやく深く静かにほどけていった。夜のしじまの中で、隣からこぼれる彼の呼吸だけが、やけに鮮やかに耳へと触れて、その音を追うように私の呼吸まで落ち着きを取り戻していくのがわかった。

 この夜は��まだ�≠フ夜。けれど、同じソファで同じブランケットを分け合って眠るという、それだけのことで、すでに心は静かに、重なり始めていた。距離なんて、ほんの指先ひとつ分なのに、触れていないぬくもりが、どこまでも熱を帯びていて、その熱の境界線を越えることがたまらなくこわくて、でも同じくらい愛おしかった。
 すると、ふいに、背中に添えられていた羽根がひときわ優しく、それでいて明確に、こちら側へ押し寄せてきた。その動きは導くというよりも、包みこむようでまるで「迷うな」と言われているような気がして、私は思わず息を吞む。
 そのタイミングを見計らったかのように、彼の腕が私の肩へと回り、ためらいがちに、それでもはっきりと、私を引き寄せた。

「……名前さん」

 低く落とされた声が、肌をなぞる。喉が小さく鳴る。

「ごめんなさい……もうちょっとだけ、こうしていたいです」

 言葉よりも先に彼の額がそっと私のこめかみに触れた。唇ではない。なのにその呼吸が肌をかすめるたび、全身がゆっくりと緩んでいくようで、胸の奥で火が燻り、静かに広がっていく。やがて彼の唇が頬に落ちた。一度、二度。探るように、撫でるように。そしてそっと顔を向けさせられると不意打ちのように唇が重ねられた。優しすぎて反対にすこしだけ怖くなるほどのキス。舌は触れない。奪うこともしない。ただ唇だけを合わせて名残惜しげに、何度も、何度も重ねてくる。

「好きです……名前さん、好きで……たまらん」

 囁きの熱がキスの隙間からこぼれてきて、その音ひとつですら胸の奥をきゅうっと締め付けた。

「わ、わたしも……」

 声にすると、もっと崩れてしまいそうで。でも返さずにいられなかった。その言葉の直後、彼の手がゆっくりと背中へ回る。肌と肌のあいだに、熱が通っていくのがわかった。服越しですら熱が伝わる。触れられるたび胸の奥がひらかれていくような甘い疼きが走った。唇の角度がすこしずつ変わり、呼吸が混ざり、静まり返った室内には、ふたりの濡れたリップ音だけが淡く響いて舌先がふいに触れ、なぞるように押しひらかれていく。キスが深くなる。息がふたりぶん混ざって世界がこの狭いソファの中だけに収束していく錯覚さえ覚える。
 いつの間にか私は、彼の胸に爪を立てていた。もっと近くへ。もっと深くへ。けれど、その一歩先に踏み込む寸前で私は震える声を吐き出した。

「——ま……まって、」

 たったそれだけの一言で、彼の動きはぴたりと止まる。瞬間、二人の荒い息遣いだけがその場に立ち込めた。

「……ごめん、ホークス。……今日は、その。」

 その声は、あまりに小さかったかもしれない。それでも彼は、すぐに身体を離すことはしなかった。むしろ私の顔を覗き込み、まるで捨て犬——いや、捨て鳥……?と、いうのだろうか。
 とりあえず、そんな感じのキュルンとした瞳で、上目遣いをした。

「だめ?」

 その表情があまりにずるくて私は気まずく頷くことしかできなかった。すると彼はなぜか、ニンマリと笑った。そしてなんと、その笑顔のまま、「チッ」と、抑揚つけて舌打ちをかましやがったのだ。反射的に私は彼のおでこをペチンと叩く。

「——痛っ、なんですかぁ?」

 なんて言いつつ、こちらが手加減したおかげか特におでこを押さえることもなく表情のひとつも変えずに、ヘラヘラと笑いながら言う彼に私は、唇をやや尖らせて言い返す。

「痛くないでしょ。今確実に舌打ちしたよね?」
「してませんよ」
「してたよ、笑顔で。あなたがホークスって人気ヒーローじゃなかったらただのクズ男だからね」
「クズ男て。名前さんはそんな汚い言葉使わん」
「使うよ、クズ男撲滅委員会の会長だから、私」
「そんなにクズ男ばっかと出会ってたんです?」

 ムッとした私は、さっきよりも少し強めに彼のおでこをペチンと叩く。すると今度こそ情けない顔で彼は、おでこを押さえながら眉をひそめた。

「なんでっ、おでこばっかり叩くんですかっ」
「広くて、叩きやすいおでこだからだよ。将来、禿げてしまえ」
「ひどか〜。ちょっと寂しくて舌打ち出ちゃっただけじゃないすかー」
「ほんと今日からヤリチン鳥って呼ぶからね」
「っ!?名前さんはそげな下品な言葉使わんて!やめてください!俺の心の聖地、汚さんで!」

 そして彼はそのままおでこを私の肩にぽすりと落とし、深く、そして長く、息を吐いた。まるでそこが自分の帰る場所だとでもいうように。
 突如として静まり返った部屋の中で彼の吐息が夜のやわらかな温度に溶けていく。

「……そっか。はい……いや、そうですよねぇ。わかってます。わかってますけど……」
「……」
「ヤリチンなんて呼ばれとーなかし。それだけは絶対に嫌です、心外すぎます……」

 ソファのうえで交わされたその声は、ため息に溶けきらない甘さと諦めの中間みたいな温度で、どうしてか胸の奥をくすぐった。彼の手が、私の背中をゆっくりと撫でている。慰めているのか、それとも、自分自身の昂ぶりを落ち着けるためなのか判別がつかないけれど、そのゆるやかな円を描く動きだけが、やけに鮮明に皮膚に残った。

「あのね。こうしてくっついてるだけで私は幸せなんだよ?」
「なんです?その、エッチ断るときの常套句」
「こら。はっきり言うんじゃありません」
「名前さんに断られると、俺……ほんとダメージでかいんですってばぁー」
「……わたしだって、つらいよ?」
「つらいなら許してくださいよ、せめてキスは」

 そう言って、彼はまたそっと唇を重ねてきた。ただの我慢ではない、むしろここで止めることにちゃんと意味を持たせるような、静かで、そして切ないキスだった。奪うでも、求め急ぐでもなく触れたあとに少しだけ余韻を残して離れていく、そのやさしい温度が、逆にどうしようもなく心を軋ませてくる。

「はぁ……だいすきです。」

 それが溜め息なのか吐息なのか判断がつかないほどの深い声で、耳のすぐそばに落ちた。熱でも圧でもなく、もっと底のほう——抗いようのない重みだけが、私のなかへ静かに沈んでいった。

「大人になりますよ、ヒーローホークス。」
「よしよし、いい子いい子。」
「そのうち俺のチビホークスが暴走して制御できなくなっても、知らんですからね?」
「はいはい」
「名前さんに、責任とってもらいますんで。そんときは倍返しで。覚悟しといてくださいよ?」
「……はいはい。」

 くだらない冗談のはずなのに胸の奥がじんわり痛くなる。
 別に身体を重ねるのが怖いわけじゃなかった。むしろそうしたいと思ってしまう自分が怖かったのだ。こんなにも、どうしようもなく彼を好きになってしまって。一度、彼に抱かれて、わかってしまった。一線を越えることで、もう元には戻れなくなる予感があって、それが、恐ろしかった。その予感は甘いのに、なぜかひどく怖い。だから今はまだ、この気持ちを、胸の底へそっと沈めておく。

「名前さん、好きです、触れたい」
「うん、落ち着いて?」
「好きです、ヤリとー、名前さん」
「ヤリチン鳥」
「〜〜っ、もう寝ましょう!」
「ふふっ……」

 この気持ちをいつかちゃんと彼に伝えられたらいい。ちゃんと伝えられる日が来るのなら、その瞬間を焦らずに迎えたい。彼のなかにある、真っ直ぐな想いに、私も、まっすぐ、向き合えるようになるまで。
 この夜は、まだふたりにとって完成ではない。けれど、愛しさだけはきっとすでに、いくつもの境界線を越えて、どこにも逃げ場のない場所まで静かにたどり着いてしまっていた。夜の気配が、そっと二人を包み込む。まだ触れきらない未来をやわらかく照らしながら——。


 *


 朝は、思っていたより静かで、思っていたより容赦がなかった。あれほどまでに心をかき乱した夜のつづきとは信じがたいほど、鳥の声も、薄い陽射しも、どこか現実味を失っていて、まるで、世界がひと晩のあいだに私達をそっと包み直してくれているかのようだった。
 私はそんな中、ソファの上で温もりの名残りに半ば抱かれながら目を覚ました。ほんのすこしの寝不足と、ほんの少しの罪悪感が胸の底に沈んでいてそれがゆっくりと呼吸に混ざる。隣では彼がすでに起きていた。けれど起きているくせに息をひそめるように私の方へ身体を向けていてそれに気づいた瞬間、胸の奥がまた、弱い熱を拾った。

「気持ちよさそうに眠ってましたねー」

 柔らかく落ちてきた声は昨日の夜の熱の名残をほんのり含んでいた。続けて私の額にそっと羽根が触れた。冷たくも熱くもない、けれど、確実に心臓の音だけを拾ってくるような感触とともに、「おはようございます」と、彼は囁く。

「お……おはよう……」

 かすれた声になったのは、眠気だけじゃない。あんなにやさしく求められてそれでもぎりぎりのところで止めさせてしまった夜を思い出すだけで申し訳なくて胸の奥が縮むように痛んだからだ。どう顔を合わせればいいんだろう、なんて思っていたのに、彼はまるで、それを読んだみたいに、ふわっと笑った。

「ははっ。大丈夫ですよー。俺、いつまででも、待ちますから」

 その目の奥に言葉とはぜんぜん違う赤信号が、チカチカしているのを見てしまって、思わず息が詰まった。余裕そうに笑ってるけれど、内心は、とんでもなくギリギリなんだろうな、と。だから案の定——。

「——いや、でも。とはいえ……名前さん、」
「は……はい、」
「ほんと、あなたって人は罪深い人ですよね?」

 その言い方が、あまりにも甘くて、あまりにもくすぐったくて、私はそっとブランケットを引き上げて、顔の半分を隠した。すると彼は、笑いを噛み殺しながらキッチンに向かい、いつのまにか慣れた手つきでトーストを焼き始めていた。ジーという機械的な音とバターが熱で溶ける匂いが、静かな朝にゆっくりと広がっていく。夜の余韻もまだ言えない言葉も、ほんの少しの照れくささも全部まとめて、やさしい朝に溶かされていくようだった。

「ちょっと触れるだけで全部持ってかれるくらい可愛いのに、おあずけーなんて言われたらねぇ」
「……っ、」
「こっちは、どこにこの気持ちぶつけりゃいいんすかー、ってね」
「……トーストには、ぶつけないであげてね」
「夜中、天井見ながら耐えた俺に優勝トロフィーとかないんです?せめて、金メダル型のクッキーとか」

 だらだらと、情けないけれど、ちょっと可愛い我慢レポートが続く。
 私は笑いながらキッチンへ向かい出来上がったトーストを受け取った。その時の彼の頬は子どもみたいに不満そうにふくらんだまま、それでも、確かに嬉しさの色がにじんでいて、その幼い影が胸の奥底で、切なく響いた。
 パンの香りと朝の光のあいだに少しだけ沈黙があった。けれどそれは気まずさではなくて二人の間に残った夜の熱がゆっくりと冷まされていく、そんな、やさしい沈黙だった。

 トーストを食べ終えると、いつのまにか時計の針が思いのほか進んでいて私たちは同時に「そろそろ準備しなきゃ」と呟くように立ち上がった。
 洗面所に向かう私の背中に、彼の視線がそっとついてくる気配がした。寝癖を整える水の音、鏡越しに交差する視線、シャツの袖を通すたび漂うアロマの残り香。そのすべてが同じ夜を過ごした証のようで胸の奥がゆっくりとあたたまっていった。彼は羽根をひとつひとつ整えながらいつものヒーローの顔に戻っていく。私はメイクポーチを開きながら、いつもの私を取り戻していく。その並行する動作が恋人という関係の中でこんなにもやわらかい旋律を奏でるものなのかと、はじめて知った朝だった。

「朝は人目もあるし出るときは別々に出ようね」
「……はい。ですよねぇ〜。……まあ、俺は全然堂々と、出たいですけど」

 言葉では素直に従っているくせに着替え終えてからの彼は完全に��出発前のダダっ子�≠セった。出るぎりぎりの時間まで、わざと、距離を詰めてきては、羽根が手首をくすぐるように触れたり、背中にぴとっと寄ってきたり、耳元でこっそり、「今ならキスしても誰にもバレないですよね?」なんて、甘えるどころか、誘惑に近い囁きをしてくる。
 ……わかったよ。はいはい、限界なんですね、ヒーロー、ホークスさん。そう心のなかで白旗を上げながらも私は結局、彼の額を軽く押し返して「ダメ」とだけ言い残し、先にマンションの扉を出た。
 エントランスの自動ドアが閉まる音が、やけに名残惜しく耳に残った。角を曲がりながら、駅へ向かう途中、歩きスマホはダメだと思いながらも誘惑に負けて画面を開くと、もうすでに、通知が10件。たった数十秒前に別れたばかりの人から届いた堰を切ったみたいな連続メッセージ。画面の光が、朝の冷たい空気のなかでやけにあたたかく見えた。


ホークス

いや、ほんとムリな話で!


ホークス

もう我慢ムリです!!


ホークス

嘘ですムリじゃないです
耐えます


ホークス

でも名前さんの背中見るたび
俺、抱きしめたくなってるんで


ホークス

なんかの修行ですかね、これ


ホークス

あのソファもう何も起きない
呪いかかってました?


ホークス

キスだけじゃ足りないって
どうすれば伝わりますか


ホークス

キスから始まるミステリーですよ
これはもはや


ホークス

でも待ちます


ホークス

待ちますよ、俺は……
でも……!!






 そのあと通知はさらに続いた。短いメッセージの合間にぴこぴこと連打されるスタンプ。『耐える男』『涙をぬぐう羽根』『地面にめり込む鳥』
 ……いったい、どこで見つけてくるんだろう、この状況のために作られたみたいなこんなタイムリーすぎるスタンプを。駅へ向かう足どりの下でアスファルトが朝陽をうっすらと返していてその光の上を歩きながら、スマホの画面に広がる彼の不器用すぎる好きの気持ちを、ひとつひとつ胸の奥で受けとめていた。

 電車のホームでスマホを伏せて深く息を吐く。やってしまった……。あれだけ甘くて優しくて、待ってくれると言ってくれたのに——「今日は、その」なんて、言い訳にもならない言葉で止めてしまった。ソファのぬくもりも、彼の唇の余韻も残っていたのにあの瞬間、私が言った「待って」という言葉がどれだけ彼を苦しめてるかようやく今、実感している。反省。大反省。激反省。言い訳もしたくない。でも、ほんの少しだけ、時間が欲しい。心も体もちゃんと受け入れられる準備をしてから、ちゃんと彼に触れたいと思っている。

「……好きだからこそ、こわいんだよ。」

 電車の風に紛れてそう呟いた声は誰にも聞こえないまま、朝の空気に流れていった。
 次に会う時はちゃんと、もう少し素直な言葉を準備しようと思う。それが彼に対するせめてもの誠意であり、好きの続きを信じる覚悟でもあるのだから。


 *


 ——もう、無理だな。限界ですわ。

 彼女が玄関で「お邪魔します」と、言った瞬間から、胸の奥でひっそりとくすぶっていた火種が消えるどころか時間とともにふくらんでどうにもならない熱に変わっていくのがわかった。
 いつもより低めに落とした照明も、少し背伸びして買ったアロマも、全部わざとじゃないと言ったら、嘘になる。けれど、いざ彼女がこの空間に馴染んでスニーカーを脱いでほんのり甘い匂いをまとって、キッチンに立つ姿を見てしまったら、そんな策めいた感情なんてどうでもよくなった。ただ、ひたすらに愛しかった。

「なんか俺、嬉しいんすよねぇー」

 気づけば、そんなことを口にしていた。本当はもっと、かっこいい言葉を考えていたのに思ったよりはるかに素直な言葉だけが先に出た。だって嬉しかった。本当に嬉しかったのだ。彼女が俺のテリトリーで、俺のために料理をしてくれてキッチンの明かりの下で、包丁を握る横顔のすべてが『日常』そのもので、その日常を俺が今独り占めしていることが、どうしようもなく胸にしみた。カレーの匂いが広がるたび、彼女が振り返るたびああ、こんなふうに人を好きになるんだ……と、何度も自分で驚いていた。

 そして夜になって、ブランケットを渡したとき手が触れただけで心臓が跳ねた。「襲わないんで——たぶん」なんて冗談を言ったくせに、本当はひどく緊張していて彼女が寝室へ向かう後ろ姿を見送ったあと、ソファに倒れ込んでしばらく動けなかった。この先にあるかもしれない��もしも�≠�想像した途端、羽根の一枚一枚が熱くなって、呼吸がうまくできなくなる。でも、急いではいけない。焦って、壊してはいけない。大事にする。それだけは、ずっと決めていた。
 ソファで目を閉じたふりをしながら、防衛線を張っていた自分に気づく。寝室から足音がして、扉の前で立ち止まる気配がしたとき胸が痛いほど嬉しかった。来てほしい。でも無理強いはしたくない。どっちの想いも同時にあってどうにもできなかった。
 コンコン、と控えめな音。返事をしなかったのはもっと近づいてきてほしかったから。浅い眠りのふりをしていたが、彼女の気配は細部まで拾えるほど研ぎ澄まされていて、ドアがきしむ音がした瞬間、剛翼は、勝手に動いていた。そっと手首に触れるようにして。
 ——ああ、来てくれた。そのだけで胸がほどけそうになった。

「寝たふり、してました」

 振り返った彼女の驚いた顔すら可愛くて、どうしようもなかった。羽根はそのまま、彼女の手を引いて、ソファへ導く。どこか他人行儀な距離で腰を下ろす彼女の温度がふつふつと俺を狂わせていく。

「こっち、来ません?」

 言葉にしなければ壊れてしまいそうで、でも、口にした瞬間に救われたのはむしろ俺のほうだった。彼女がすべり込んでくる。距離がゼロになるわけではない。それでも、こんなにも胸が苦しいなんて——。
 背中に羽根を一枚かけたのは抱きしめたかったけれど、それはまだ早いから。彼女の震える呼吸ごと包み込むように、そっと触れただけだった。

「今日は、何もない夜にします」

 言った瞬間、自分でも情けないほどの葛藤が、胸に渦巻く。本当は、触れたい。抱きしめたい。名前を呼びながら、全部確かめたい。でも、その欲を押し込めて彼女の隣でただ呼吸を重ねていることも、それはそれで美しくて、胸が締めつけられるほど愛しかった。それなのに。ブランケットの中で彼女がそっと身体を向けて来たとき、背に添えていたはずの羽根が勝手に彼女を抱き寄せてしまったのだ。

「……名前さん」

 自分でも驚くほど低く、苦しい声がこぼれた。

「ごめんなさい……もうちょっとだけ、こうしていたいです」

 本音だった。彼女を抱くことより、触れることより、ただ、この距離にいられる権利がいちばん欲しかった。頬に唇を落とすたび、彼女が小さく息を飲む。顔を向けてくれた瞬間に、理性が薄く揺れた。触れた唇は甘くて、柔らかくて、何度も離れたくなくなった。

「好きです……名前さん、好きで……たまらん」

 そう言ったときの自分はヒーローでも大人でもなくて、ただ、彼女を求める一人の男だった。
 そして「……まって」と震える声で止められた瞬間、胸に走った痛みより彼女が頑張って言葉を選んだその勇気のほうが、胸を刺した。だから、舌打ちなんてのは、八割が照れ、二割が拗ねだ。怒られたいんじゃなく、笑ってほしかっただけ。叩かれれば嬉しいわけじゃないけど、その小さな接触さえ愛おしかった。彼女の肩に額を落とすと彼女の香りが胸いっぱいに満ちた。

 俺は、こんなにも、あなたが好きなんです……言えなかった言葉が、喉の奥であたたかく溶けていく。今はただこの夜を��まだ�≠フ夜として彼女と同じリズムで、呼吸できるだけで十分だった。

 あの夜は終わらせたくないくらい優しかった。触れない手が、触れてしまいそうなほど近くで、けれど、まだ踏み込まないと決めたふたりの想いだけが静かに、確実に、重なっていた。


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