疲れていたのだ。ひどく、心も、身体も——。まるで自分という器のどこかに小さな亀裂が入りそのひびからじわじわと何か大事なものが漏れていっているのを見て見ぬふりでやり過ごしてきたような、そんな疲労感だった。
仕事は、慢性的な人手不足で、新人が入ってはすぐに辞め、入っては辞めるを繰り返す。教育係を割かれた上に、通常業務も容赦なく降り積もり、悪意を持つ人間のすることは日ごとに増えていくばかりでその報告書を業務外の時間に書き終える頃には、もう何も考えられないほどに気力が摩耗していた。夜遅くまで残ることが当たり前になり帰宅途中の電車でぼんやり窓に映る自分がひどく遠く感じられる夜が増えた。
ふと以前に、ホークスが言っていた言葉が胸の裏で鈍く反響した。
『日々が忙しいと気持ちも変わるじゃないですか人って』
あのとき何も考えずに「変わらないよ」と言い切った自分を思い返すだけで、胸の奥がじわりと痛んだ。あれは、強がりだったのかもしれない。強くありたい、そう見せたかった。そうでなければ、崩れてしまう気がしていたから。
もともと、束縛には慣れていなかった。誰かの気持ちを預かる責任にも、預けられることの重さにもまだ、不器用だった。プロヒーローとの恋は初めてで彼を負担に思ったことは一度もないのにそれでも『縛られている』と感じる瞬間が自分の中にふいに芽生えると、情けなさと戸惑いで胸がかき乱された。だからといって浮気をする気なんてまったくなかった。ただただ自由になりたかったのだ。呼吸を深くできる場所が日常のどこかに欲しかった、それだけ。
そんな折、大学時代の後輩から、連絡が来た。久しぶりに会おうと誘われ、ランチをした。それだけのこと。罪悪感が、なかったわけではない。むしろ、胸のどこかがざわついた。でも本当に、やましい気持ちは何ひとつなかった。彼に言った通り浮気する暇なんてない。ただ疲れ果てていただけなのだ。ほんと、それだけの話。
「——で? 何をそんなに悩んでるわけ?」
しかし、数日が経っても胸のざわめきは消えず、あの夜の熱も彼のしつこいほどの想いも思い出すたびに息が詰まる。それでも日常は待ってくれず私は友人に誘われるまま、街角の小さなカフェでランチをとっていた。
目の前でフォークを器用に回しながら友人が、軽い調子で問いかける。私はスープを掬うふりをして視線を落とし、曖昧に笑った。
「……ちょっとね。すごく……しつこいくらいに想ってくれる人がいてさ。」
「へぇ、いいじゃん。イケメン?」
「……まぁ、一般的にはそうかも」
「え?なに、彼氏?できたなんて聞いてない!」
「あー、言ってなかったね……ごめん。」
その彼氏の本当の正体を、言えるはずもない。プロヒーローで、しかも、あのホークスだなんて知られたらきっと冗談半分に茶化されて終わってしまうだろう。仮にも、「虚言癖がある」なんて噂を流されでもしたら、たまったもんじゃない。すると友人はパンをちぎりながらあっけらかんと言った。
「イケメンと寝れたなら、ワンナイトカーニバルってことで、なかったことにすれば?」
「ワンナイト、カーニバル……?」
「そうそう!むしろ、お得じゃん♪」
軽い調子の笑い声が響く。けれども、胸の奥はもやもやと、霧のようなものが立ち込める。
なかったことにする?そんなふうに簡単に片づけられるものじゃない。あの夜に交わした言葉も涙も熱も、全部が私の中でまだ、生々しく疼いているのに。
「そんなふうに、割り切れたらいいんだけどね」
口ではそう返したけれど心は深く迷っていた。彼の愛を受け止める覚悟もできない。でも「なかったこと」になど、できるはずがない。ランチのテーブルに広がる温かな香りとは裏腹に胸の奥は冷たく重く沈んでいた。
友人とカフェの前で別れて、ひとり街を歩く。昼下がりの陽射しはやわらかく、行き交う人々の笑い声が遠くから響いてくるのに、私の胸の奥はどうしようもなく冷たかった。
ワンナイトカーニバル——友人の軽い言葉が、耳の奥に残っている。笑い飛ばせればよかったのに、心には深い傷のように突き刺さったままだ。だってあの夜は……。彼の声は掠れていて必死で「あなたにだけは重くありたいんです」と「あなたがいないと駄目なんです」と何度も繰り返し、まるで命を差し出すように私へ手を差し出した。それを私は掴まなかった。その重さを、どうして��なかったこと�≠ノ、できるだろう。
『元に戻れないかなって思うの』
どうしてあんな言葉が口をついて出てしまったのか。言った瞬間、自分の声が、自分のものとは思えないほど遠く響いた。あれはきっとひとつの理由ではなかった。彼の深い愛情と自分の愛情とをどこかで天秤にかけてしまった気まずさ。その重さに私は最後まで応えきれないかもしれないという怖れ。そして罪悪感。他の異性と会ったこと自体にやましいことはなくても彼にだけは言えなかったという、その一点が胸に重く沈んでいた。
「はぁ……」
懺悔にも似た気持ちが喉の奥で形を持ち始めていた。でも、本当の理由はもっと、別のところにあったのかもしれない。私なんかよりも、ずっと大きな空を飛ぶ彼ならば、時間が経てば私の名前なんて、ふっと風に紛れてしまうだろう。
トップヒーローの日々は、常に前へ進む。私はその速度に、とてもじゃないけど追いつけない。失恋の傷なんて、いつかは消えていくもの。貫くより諦めるほうが楽だと知っている。生きてきた人生の中でそういう瞬間を何度も味わってきた。どうせ私は選ばれる側じゃなくて、残される側で終わるのだと。そういう運、そういう運命。きっと、未来のどこかで彼の記憶からも静かに薄れていくのだと。あの言葉は、そんな自分の弱さと、諦めと続いていた多忙のせいで少しずつ磨耗していった心が、たまたまその瞬間だけ隙をつくり、こぼれ落ちた音にすぎなかった。
「はぁぁ……」
無意識に出た何度目かわからない溜め息。私は人混みを避けて小さな公園に入る。ベンチに腰を下ろすと風に揺れる木々の音が、彼の囁きと重なって聞こえた。
『……俺には、あなたしかいないんです』
思い出すだけで、胸が痛む。あのときの真剣な瞳、震える吐息、翼で覆うようにして、守ろうとする熱。全部が私の中に残っていて、簡単に切り離せるはずもない。気づけば視界が滲んでいた。涙がひと筋、頬を伝い落ちる。
「もぅ……どうしたらいいんだろ。」
声に出した途端、嗚咽がこぼれそうになって、慌てて口元を手で押さえる。笑い声で満ちる昼の街にあって、私ひとりだけが、取り残されたようだった。それでも、胸の奥のどこかで微かな声が囁いていた。本当は、彼を手放したくないのではないか、と——。
*
——東京。公安から呼び出された帰り、駅前の喧騒の中、サインを求める声や、シャッター音に囲まれながらも俺の視線は、一瞬で凍りついた。群衆の向こうに、彼女がいた。その顔がこちらを見た刹那、心臓が強く跳ねた。けれど彼女は視線を逸らし、背を向けて歩き出してしまう。俺は、笑顔を浮かべたまま雛鳥ちゃん達の声に応じる。だが、胸の奥はざわつき、羽根が落ち着かない。
待って……行かないで。喉まで出かかる言葉を必死に飲み込み、最後のサインを書き終える。
「……ごめんねっ、今日はここまで!」
人々の落胆した声を背に俺は群衆をかき分け、羽根を広げた。風を切り裂いて、飛び出す。視線はただ、彼女の背を探していた。そして、人混みに紛れる小さな影を見つけると胸に込み上げるものを抑えきれず、地面すれすれに舞い降りる。
「……待ってください!」
掠れた声がようやく空気に混じる。息は荒く、心臓が壊れそうに打ち続ける。彼女が立ち止まり振り返るかどうか。その一瞬に、すべてを賭けていた。でも、呼びかけても彼女は振り返らない。歩調はやや速く、むしろ俺の声から逃げるように見えた。胸が焼けるように痛み、羽ばたく風さえ乱れていく。
「——待ってってば!」
掠れた声を押し出しながら翼を強く打ち低空のまま彼女の前へと回り込む。駅前の雑踏がざわめき、通行人が足を止める視線の中で、俺は地面に降り立ち、彼女の進路を塞ぐ。しかし彼女は驚きも見せずただ困惑と疲労の混ざった目で俺を見た。その瞳に拒絶が潜んでいるのを感じ、喉が乾く。けれど、引き下がることはできなかった。
「お願いだから、逃げんで……」
「……」
「俺から目を……逸らさんで——」
声が震える。ヒーローとしての余裕なんてもうどこにもなかった。ただひとりの男として愛する人に置いていかれたくない、その一心で立ち塞がる。周囲のざわめきもカメラを向けられる視線もすべてどうでもよかった。彼女の瞳が再び、俺を見てくれるかどうか。それだけが、世界のすべてだった。彼女は、涙を溜めた瞳のまま震える声で吐き出す。
「……やっぱり、私には……無理だよ……」
「名前さん……」
「……、なさい……」
「え……?」
「……ごめんなさい——。」
言葉は鋭い刃のように胸を斬り裂き世界が一瞬にして静まり返った。風の音も、街のざわめきもすべてが遠のいていく。目の前の彼女だけが鮮明で、けれど、その瞳はもう、俺を見ていなかった。呼び止めようとして言葉が喉で止まる。伸ばそうとした指先も空気をつかむように宙で彷徨うだけだった。
次の瞬間、彼女は振り返らずに群衆の間を駆け出した。街灯の光が途切れ途切れに彼女に背中を照らし、そのシルエットはあっという間に人波に紛れていく。
「あ、待っ……!」
声を張り上げたが喉は掠れて音にならなかった。足を踏み出そうとしても周囲を取り囲む人々の視線とざわめきに阻まれた。スマホを掲げる手、驚きと好奇心に満ちた目、囁き合う声、それらがすべて重くのしかかり、翼が広げられない。彼女の背中は群衆の向こうで小さくなり、やがて街に溶けていく。胸の奥が空洞になり追えなかったことが悔しくて、その場に立ち尽くしたまま、拳を震わせる。
ヒーローとしてなら誰よりも速く追いつけた。きっと一瞬で。どんなヒーローよりも先に誰より速く。なのに、愛する人ひとりの背中に、どうしても、手が届かなかった。
待って……ねえ、待ってって。行かないで……胸の内で何度叫んでも声にならない。伸ばしたい腕はなぜか重く、足は地面に縫いとめられたみたいに、動かなかった。『やっぱり無理』なんて、『ごめんなさい』なんて、そんな——。
「……人ん
零れた呟きは、夜風にさらわれて、跡形もなく消えた。人の流れに紛れていく彼女の影はもう、見えない。空を飛べるくせに。世界のどこへでもひとっ飛びできるくせに。自分の心だけはまるで追いつけない。
街灯の下に残されたのは、飛ぶ力を持ちながら地に縫いつけられたまま動けない、ひとりのヒーローの、惨めな影。その影がこんなにも小さく、惨めに見えた夜はなかった。
人混みをかき分け、ただ夢中で走った。視界は涙で滲み、夜の街灯が滲む光の輪になって散っていく。呼吸は苦しく、足はもつれそうになっても止まれなかった。
「無理……私には、無理……っ、」
自分で口にした言葉が耳の奥で反響し胸を締めつける。あんなに、必死な目を向けられて、それでも背を向けた。彼の声がまだ耳に残っている。
『お願いだから、逃げんで』
『俺から目を……逸らさんで——』
繰り返し思い出すたび足が止まりそうになる。けれど振り返ることはできなかった。彼の愛は、私には重すぎた。温かさも切実さも、幸せなはずなのに、息苦しくて、壊れてしまいそうだった。
あの人は、ヒーローで、空を自由に飛べる人で、私はただの地上で迷ってばかりの人間。釣り合うはずがない。だから逃げた。拒絶の言葉を告げてまで。けれど、走り続けるうちに、胸の奥では別の声が囁く。
��本当は、手放したくなかったんじゃないの?��
涙が頬を伝い夜風に触れた途端、すぐに冷たく乾いていく。呼吸を整えようと、何度も胸に手を当てたけれど、痛みはひとつも薄れず、喉の奥までせり上がってくる嗚咽は、もう、どうしても押し戻せなかった。
「……ごめんなさい……ごめん、なさい——」
両手で顔を覆って震える声を洩らす。誰に向けた言葉なのか自分でもわからない。ただ、胸の奥の裂け目から溢れたその謝罪だけが夜の街の暗がりへ、そっと沈んでいった。
ああ、どうして私は毎回、こんなふうにしか、できないんだろう。
その思いだけが最後まで温度を失わず、胸の底に残った夜だった。
*
テーブルに置いたままのスマホが震え、小さな通知音が部屋に響く。私は反射的に、手を伸ばす。画面に浮かんだ名前を見た瞬間、胸が、ぎゅっと掴まれる。——ホークス。震える指先で、画面を長押しすればそこには、短いメッセージが並んでいた。

元気ですか

無理してませんか

ごめんなさい

会いたいです
既読をつける勇気はなかった。ただ光る文字を見つめているだけで涙がまた頬を伝う。どうして彼はこんなにも優しいのだろう。あれほど拒んで突き放したのに、それでも彼は、こうして、私を気遣う。重いと告げても、やめてと泣いてもなお「会いたい」と言ってしまう。
胸の奥で必死に押し込めてきた気持ちが一瞬で揺さぶられる。やっぱり私も彼を手放したくなかったのではないか、と——。スマホを握りしめ、言葉にならない吐息をこぼす。既読をつければ彼はすぐに飛んでくるだろう。けれど、返せば最後、もう以前のようには戻れない。
「はぁ……、どうしよ……」
掠れた声が静まり返った部屋の空気にじわりと滲んでいく。明かりを落とした室内は泣き疲れた私を抱きしめることも、慰めることもせず、ただ、冷たく沈黙していた。
床に落ちた涙の痕が乾くころ、ようやく身体を動かしてベッドに横になる。けれど瞼を閉じても胸の奥に重く残った未読のままのメッセージが、何度も呼吸を乱した。時間の感覚が曖昧になっていく。外では遠くの車の音だけが夜をゆっくりと押し進めていた。
「………。」
眠れそうにない。そう悟った瞬間、枕元に置いたスマホへ、指先が自然に伸びていた。点灯した画面の光が暗闇に少しだけ痛い。何を求めているのか自分でもわからないまま、検索窓には『ホークス』の名前を打ち込んでしまう。すると、瞬く間に、いくつもの記事や画像が並んだ。ヒーロービルボードチャートJPの記事、街で撮られた軽やかな笑顔。その明るさが、今の自分には、どこか遠い。
そのときスクロールしていく指がふと止まる。匿名の書き込み——その一行が夜の静けさの中でやけに大きく響いた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━
名前:匿名
ホークスって
意外と誰とでも寝てくれるらしい
━━━━━━━━━━━━━━━━━
瞬間、心臓がどくんと音を立てる。同時にあの夜、彼から言われた言葉が、鮮明によみがえってくる。
『俺、軽く見られとうなか。ヒーローだからって誰にでも簡単に飛んでいけるって思われるのは、嫌なんです』
こんな、どこの誰が書いたのかもわからない、信ぴょう性のかけらもない言葉なんて信じる必要などない。ただの噂だと、頭ではわかっている。それでも目を離せず、指先が震えた。
「……そんなはず、ない」
呟いた声は弱々しく、誰に向けたのかわからなかった。彼の必死な瞳、震える吐息、抱きしめる腕の力。あの夜のすべてが嘘であるはずがないと知っている。けれどたった一行の無責任な文字が胸の奥をざらつかせ、愛されたはずの記憶に影を落とした。
だって、もし、本当にそうだったら?もしも、私だけじゃなく誰にでもあんな熱を向けていたのだとしたら?
考えた途端に胸が苦しくなり、画面を閉じて、スマホを伏せた。瞼を押しつけても涙が溢れて、枕に染みていく。信じたいのに、信じる力が足りない。その弱さが彼を拒んだあの日と同じように自分を追い詰めていた。
*
あの書き込みを見てから、数日後の仕事帰り。駅から家までの道を重い足取りで歩いていたときだった。
あの日に見てしまった噂は胸に棘のように残り続け眠れぬ夜をいくつも過ごした。信じたいのに信じる術がなく、ただ、疲れだけが積み重なっていった。夜風に肩をすくめながら空を見上げると赤い影がふっと横切った。心臓が跳ねる。ほんの数秒後、前方に人影が降り立つ。羽根をたたみ、街灯の下に姿を現したのは間違いなく、あのヒーローだった。
「……偶然ですね」
彼はいつもの軽やかな声でそう言った。けれど笑みはどこかぎこちなく瞳の奥に張りつめたものが見えた。胸が痛む。逃げたい衝動ともう二度と会えないかもしれない恐怖が、せめぎ合う。数日ぶりに見る彼は、やっぱりどこまでも鮮やかで、群衆の噂や不安なんて霞んでしまうほどだった。それでも私は立ち止まり、声を失ったまま、その姿をただ見つめてしまった。
偶然なのか、それとも、私を探していたのか。その答えを確かめるのが怖くて喉が震えた。胸の奥で音を立てて脈打つ鼓動を抑えられず気づけば言葉が先に、こぼれていた。
「……どうして、ここに」
声は自分でも驚くほど掠れていて震えていた。彼は街灯の下で立ち止まり少しだけ目を細めた。夜風に揺れる金の髪が光を拾い、その影の奥で、赤い羽が微かに震えている。
「……あなたの帰り道だから、つい」
軽やかに返されたその言葉の裏に、どれほどの焦燥が隠れているのか。わかってしまうからこそ胸がまた痛む。ほんとうは偶然なんかじゃない。ずっと見ていたのだろう。探していたのだろう。それを知らないふりをするには胸が痛みすぎた。
夜風が二人の間を抜けていく。その冷たさが、彼との距離をはっきり示すようで私はほんの少しだけ自分の肩を抱いた。
「お仕事の帰りですか?」
「うん……」
その一言だけなのに彼はなぜか安堵したように笑った。その笑みが、相変わらずあたたかくて、そして、やっぱり、ずるかった。
「そっか……よかった」
どう��よかった�≠フかを訊ねる勇気はなくて。訊いたらきっと、彼は本音を言う。その本音を、今の私は、まっすぐに受け止められない。だから沈黙した。その沈黙を破ったのは、いつだって、彼からだった。
「名前さん」
「……なに?」
呼ばれた名前は、息を潜めたみたいに夜の空へ攫われる。彼は少しだけ視線を落として、言葉を選ぶように舌で唇を湿らせた。癖の仕草だ。緊張している証。
「明後日の、夜……空いてます?」
「……明後日の、夜?」
「はい。えっと……」
彼は一度、空を見上げて、大きく息を吸った。まるで覚悟のように、羽根がふわりと震えた。
「あの。もしよかったら、ですけど……」
静かな夜に彼の声だけが少しあたたかく灯る。
「遊園地、行きません? 明後日の夜、十九時」
遊園地——。無邪気で無防備な響き。胸の奥がきゅうっと縮んだ。だって私は、時間が欲しいと言ったのだ。なのに彼は……彼はまだ私に、手を伸ばそうとしてくれている。
「……どうして、遊園地……?」
か細い声で訊くと、彼は照れ隠しのように頬をかいた。
「なんか……俺たち最近、ぜんぜん笑ってないなって、思って」
「……」
「ああいう場所に行けば……少しくらい、楽しくなるかなーって」
あまりに不器用な理由だった。胸が痛いのに、同時に笑いたくなるほど愛おしかった。バカだ。私は大馬鹿野郎だ。距離を置きたいと、あんなに彼を拒んだのに、愛おしい——だなんて。
「……でも、」
言葉が喉で詰まる。「ごめん、行けない」と、続けなければならないはずなのに、声が震えて、うまく出てこない。それでも、必死に声を出す。
「……今の、私じゃ……行けないよ」
その瞬間、彼の表情がふっと曇った。けれど、取り繕うように笑みを作る。その笑みがあまりにも弱くて、見ているだけで胸がじんじん痛んだ。
「……ですよね。うん、そうっすよね」
彼の声は強がるために、少しだけ明るくなる。我が国のトップヒーローをこんなふうにしているのは、紛れもなく私自身なのに、謝罪をするのも躊躇われた。だってこれ以上、彼を無下になど、できないと思ったから。
「誘ってみよっかなって思っただけなんで。断られても、全然……」
——うそだ。うそつき。��全然�≠ネんかじゃ、ないくせに。その声が震えていることに彼自身は気づいているのだろうか。私は、何も言い返せず俯いた。それでも彼は、その沈黙ごと受け止めていつもみたいに、軽やかに笑い直した。
「じゃあ……」
本当にただそれだけを言って、彼は羽根を少しだけ開き夜空へ向けて身を浮かせる。けれど飛び立つ前、ふとこちらを振り返り、静かに続けた。
「——俺、待ってるんで。」
その言葉だけが、夜気を震わせた。返事を探しても、声にならなかった。彼は、それでも責めることなく、ただ、静かに微笑んだ。
「あなたの「行きたい」が、戻ってくるまで……ずっと。」
次の瞬間、赤い羽根がふわりと揺れ、彼の影は夜空へ溶けるように浮かび上がり、音もなく遠ざかっていった。見上げた空にはもう彼の姿はなくその残像だけが胸の奥でずっと熱を残していた。
明後日の夜——十九時。ただの数字だったはずなのに、その響きがひどく甘くて痛い。触れれば崩れてしまいそうなほど脆くて、それでも、どうしようもなく美しい希望のように胸に焼きついてしまった。
*
約束の日。そのことが頭のどこかでずっと熱を帯びたまま、気づけば当日を迎えていた。
デートである。胸の奥がざわつく。落ち着け、と、何度言い聞かせても、自然と背中の羽までも反応してしまう。
今日、彼女が来るかどうかもわからない。それでも、もし来てくれたら。その��もし�≠ミとつのために俺は昼過ぎのスケジュールをこじ開けて、とある場所へ向かった。ドアを開けた瞬間、空気の密度が変わった。糸と布の、張りつめたような匂いが漂う事務所には、ジーニストさんとなぜかファットさんまで揃っていた。予想外の顔ぶれに胸の奥が、いやなふうにざわつく。
「連絡は受けていないが、何か特別任務かな?」
ジーニストさんの鋭い視線が胸の内側まで縫い止めるように刺さってきて喉の奥がひゅ、と震えた。任務のブリーフィングより緊張するなんて、不本意すぎる。けれど、こればかりは、誤魔化しようがない。
「いえ。今日はその……スーツの見立てをお願いしたくて」
言った瞬間、二人の動きがぴたりと止まった。空気まで糸で張り詰められたように静まり返る。その沈黙が妙に深くて、胸の奥がまたざわつく。
「……ほぉ」
「……ふぅん?」
針の先でじわりと圧をかけられているみたいに視線が刺さる。戦場で、ヴィランに囲まれたときよりも心臓に悪い。どうして俺はいま、こんなに追い詰められているのだろうか。
「ホークス。デートやろ?」
ファットさんのにやにや笑いが決定打のように落ちてきた。耳のあたりがみるみる熱くなるのがわかった。俺はヒーローだ。なのに、たったひとつの単語で、こんなに動揺して、どげんすると。
「い、いや、そんな大層な……まぁ、その……」
「——デートか。」
「ジーニストさん、今のどこに確証が!」
目を伏せたジーニストさんは糸を繊細に指先で揺らしながら、淡々と言い切った。
「ヒーローとは、空気を読む存在だからね。恋の匂いも含めて」
読まんでいい、読まんでいい。その、空気まで読み抜いてくるの、本当にやめてほしい。
胸の内側まで、全部を見透かされているようでどうも落ち着かない。
「——で、いつなん? 今週末か?」
ファットさんからの問いかけに、一瞬だけ息を吸い、彼女の顔が心の奥に浮かぶのを感じながら俺は覚悟を決めた。
「……今日です。夜、十九時に。」
口にした瞬間、どん、と、肩に重みが落ちた。ファットさんの豪快な手だ。
「今日の十九時ィ!? 今まだ、十四時やで?」
「男子は早めに行くべしって鉄則があるんすよ」
「そんな鉄則、聞いたことあらへん」
「俺の中には存在するんですって!」
情けなく聞こえるのはわかってる。でも、待たせるほうが、落ち着かないのだ。彼女が来るのか来ないのか。それだけで胸がざわめいて、じっとしていられなかった。ただ、約束の場所に立っていたいだけなのに、その気持ちが、どうしようもなく逸ってしまう。
「青いわぁ……しゃあない、俺も選んだる」
「いや、俺はジーニストさんに——」
「もちろん私が見立てるよ。ファットガム、手を貸してくれ」
「任せとき!」
二人が勝手に息を合わせ、糸とメジャーを手に進んでくる。その瞬間、覚悟した。これはもう、逃げられない。……いや、そもそも逃げる気なんて、最初からなかったけど。
ジーニストさんの糸がふわりと空気を揺らし、俺の体のラインを正確に測り始める。その動きはヒーローというより職人そのもので、無駄がなく迷いがない。俺はわずかに息をついた。ふたりのヒーロー前で、動揺を隠すのは難しい。けれど、それでもいいと思えた。だってこれは任務じゃない。彼女の『行きたい』に、もう一度触れたいだけの彼女に会うためのドレスコードなのだから。絶対に、適当にはできない。
俺の胸にはこれから向かう��十九時�≠フ数字がずっと、こだましている。焦っていないと言えば嘘になるけれど、でも、逃げたいわけでもない。むしろいま逃げたら一生後悔する。そんな気配が羽根の奥で、そわそわと広がっていく。
「……ホークス」
ジーニストさんの声は静かで、落ち着きすぎていて、逆に心をざわつかせた。計測糸が肌のすぐそばを滑っていく。そのわずかなひんやりとした感触の向こうでジーニストさんとファットさんがなぜかやたらと厳粛な空気をまとっていた。
「最善を尽くせそうか」
まるで出撃前の声だ。俺は思わず眉を顰める。
「それ、なんか……縁起悪くないすか?」
「ヒーロー同士、戦地に向かう前の一言みたいなものだよ」
いやいや、とんでもない比喩を、さら〜っと差し込んでくるな、ジーニストさん。
「ははっ。遊園地を戦地扱いしたの、ジーニストさんが初めてですよ」
軽口を返しても胸の内の緊張までは消せない。そのときファットさんが俺の肩をどん、と叩く。その手の重さは、いつもの冗談じゃない。
「いやいや、戦いやろ?心理戦やろ?気張れよ、ホークス。これは、任務以上に大事やで!」
声は楽しげなのに目は、やたらと真剣だった。ここって、裁縫アトリエ……いや、違った。ジーニアスオフィスですよね?何かの、作戦会議室じゃなくて?
ジーニストさんは俺たちの会話を気にすることなく、また糸を操り俺の寸法を正確に読み取る。腕の長さ、肩幅、胸の張り具合。ヒーロースーツとは違う正装としての彼女の前に立つための体を細部まで見抜かれていくのがなんだか妙に気恥ずかしかった。
「ふむ……細身のラインが似合う。だが今日は、親しみやすさと��計算高さ�≠ェ優先だろう」
的確すぎて、まるで逃げ道がない。俺は必死に抗弁する。
「あの、ほんとにデートって言ってませんよ?」
「言っていないだけで雰囲気がそう言っている」
……だからその��雰囲気読み取り能力�≠ニいう名の個性をもう少し下げてほしいって毎回思うんだけど。続けざまに、ファットさんが横目で、俺を覗き込む。
「どうせ、あの子なんやろ?相手は。せやから、気合い入れとるんやろぉ〜?」
言葉が喉に詰まり、うまく返せない。否定しようとしても、胸の奥の温度が、すぐ答えを出してしまう。
「……ま、まあ……はい。ちょっと、頑張りたいっすね」
その一言が��ジーニアスオフィス�≠フ空気を、わずかに、和らげた。ジーニストさんが糸を指で弾きながら、ほんの少し口元をゆるめる。
「なら任せろ。最高の勝負服を仕立てよう」
「いや、別に勝負しに行くわけじゃ——」
「ウィングヒーロー、ホークス。」
俺のヒーロー名を呼んだジーニストさんの声は切るような鋭さではなく、深い糸を結ぶみたいな繊細な声だった。
「最愛の人を前に、ヒーローは皆、戦場に立つ。その緊張は誇っていい」
「……」
「君は、臆していない。素晴らしいことだよ」
胸の奥が、じわりと熱を帯びた。戦いに向かうわけでもない。ただ、誰かのために服を整える。それだけのはずなのに、どうしてこんなにも心が揺れるのだろう。ヒーロー活動前でさえここまで息が乱れることはないのに、ネクタイを締める、ただそれだけの行為が、胸の奥のどこか柔らかい場所をそっと押してくる。
あぁ、きっと俺はもう、ずっと前から、彼女に負けているのだ。自覚したくなくて、誤魔化してきたけれど、今日の胸の鼓動は抗えないほどはっきりと、それを告げていた。
仕立て上がったスーツに袖を通し鏡の前で軽く姿勢を整える。
「男前だ」
「せやな」
「……あざす。」
ジーニストさんに見立ててもらったスーツは、俺が普段選ぶものよりずっと大人びていてやけに整った感じがした。黒シャツに同色のスラックスその上から、剛翼の赤を拾った細身のネクタイ。腰のベルトも同じ赤で揃えられていて色の配置が計算的に主張してくるようで、しかし、そこまで攻めていない。肩まわりも動きやすいように調整されていて、羽根を広げても、邪魔にならない。
さすがジーニストさん。布ひとつで俺の見せ方まで変えてくる。……正直、ちょっとだけ気恥ずかしいくらい似合ってると自分でも思ってしまう完璧な仕立てだ。糸も布も、すべてが俺の動きに合わせて呼吸しているみたいで。けれど、そのどれよりも鮮やかに脳裏に浮かぶのは彼女がこの服を見たときにどんな顔をしてくれるのかというありふれた、だけど、どうしようもなく切実な、想像だった。
「………、」
扉に手をかける前、ひとつ深く息を吸う。薄い布越しでも肌の下から彼女の名が立ち上るようで喉の奥がじわりと熱くなり、羽根の付け根が落ち着かなくて、思わず肩をすくめてしまう。
「じゃあ——」
今日の十九時。たったそれだけの約束が、どうしてこんなにも重く愛しくそして怖いのだろう。彼女が来るかどうかはわからない。むしろ来ない可能性のほうが、高いかもしれない。けれど——それでもいい。彼女が来なかったとしても、俺は待つ。その間の全ての時間を彼女のために使えるなら、それだけで十分だった。そう思った瞬間、胸の奥で何かが、静かに形を変えた。覚悟というより祈りに近い。願うことさえ許されるのかわからないくせに、それでも願わずにはいられない。
俺は扉を押し開けた。風がスーツの裾を揺らす。どんな夜になろうと俺はもう、逃げない。
「いってきます……」
俺がそう言うとファットさんが待ってましたとばかりに、満面の笑みを浮かべた。
「待て待て、何年プロヒーローやっとんねん!」
「はい……?」
「そこは『ヒーローホークスいってまいります』やろ〜?」
「いや、勝手に俺の出陣式つくらんで……」
そう言いながら、なぜか自然と背筋が伸びる。言葉にすると決意が形を持つ。そんな予感が胸の奥で羽ばたいた。
「じゃ……じゃあ。ヒーローホークス……いってまいりまぁす……」
「おぅ! まぁ、まだ午後二時やけどなぁー!」
ファットさんの野太い笑い声が背中を押すように響いた。続いて、ジーニストさんの静かで深い声が、空気を撫でる。
「幸運を。」
その一言は、たった五文字なのに胸の真ん中に静かに灯をともした。振り返らなかったのは照れくささのせいじゃない。ただ、今の自分の表情を誰にも見られたくなかったから。
彼女が来るかどうかもわからない。けれど来てくれるかもしれないその瞬間に遅れるなんて俺の辞書には存在しない。だって、たとえ一秒でも、彼女を待つ時間を削るなんて、できるわけがなかったから。
気づけば、羽根がそっと震えていた。胸の奥がきゅっと締まり鼓動が少しだけ速くなる。空気に勢いよく踏み切るように、翼が開く。
『今の、私じゃ……行けないよ』
『——俺、待ってるんで。』
信じている。彼女の『行きたい』が再び俺に、向けられることを——。
約束の時間まで、あと五時間。長すぎるようであっという間に消えてしまう気もした。でもそのすべてを彼女を想って過ごせるならそれでいい。いや、むしろ——その時間ごと、愛しくてたまらなかった。
空へ飛び立つ瞬間、胸の奥でひとつ確かな声がした。どうか、来てくれますように。でも、もし来なくても俺は、ちゃんとあなたを、待ってます。
夕暮れの風が、頬を撫でる。真新しいスーツの布がわずかに鳴り、赤い羽根が、ひるがえった。世界のどこよりも彼女に近い未来へ向かって俺はただまっすぐ飛んでいった。