時計の針が午後11時を指した頃。あの日からもう六日。福岡の方はどうやら雨らしい。通話の向こうから聞こえる雨音が、ノイズのように耳に優しく溶けてくる。
『でさ──今日、屋根から落ちそうになった人、俺が剛翼で救ったんですけどぉ』
「ふふ、また誰かに惚れられたりしてない?」
『それがまぁ、五十代のおじさんで……しかも、一生ついて行く!って、言われちゃって』
「それは……どうしようもないなぁ」
思わず笑ってしまった。画面はない。姿も見えない。だけど声だけでこんなにも胸があたたかくなるなんて、ついこの前までは知らなかった。
ベッドの上、カーテンの隙間から漏れる街灯の光。そこに横たわる私の手元には、スピーカーにしたスマートフォン。
『ねえ……名前さんの今日のことも、教えてくださいよ』
静かに落とされた声。私はふっと目を伏せる。
「私?そうだなぁ……今日はね、昼間、ふと目が覚めたら、ベランダに鳥が来てたの」
『とり……』
「そう。で、ちょっと驚いて、でも……なんか、それだけで嬉しかった」
『え、俺じゃないですか。それ、ほぼ』
「じゃあ、今度から餌まいておこうかな」
『あはは。おびき寄せられるかも……いや、それストーカーの扱いじゃないです〜?』
「ううん、招かれざる訪問者じゃないからねー、大丈夫」
たわいない会話。けれど、それがどれほど心の支えになっているかは、お互いに言わずともわかっていた。会えない日々がこんなにも柔らかく、そして切なく染まるのは、きっと声のせいだ。
「ねぇ……さみしい?」
ふと、聞いてみた。沈黙。数秒の間が、やけに長く感じられた。
『……はい。さみしいです。めちゃくちゃ。』
「私も」
『だけど今こうして声が聞けるだけで……うん、救われてます』
電話越しの吐息が、微かに熱を帯びて、まるで頬に触れる風のように感じられた。
『──名前さんは、今どんな顔して聞いてます?』
「ふふ。たぶんちょっと……泣きそうな顔。でも笑ってる」
『ああ、それ……めっちゃ想像つきます。会いたくなってきた。ていうか、ずっと会いたいです』
「またすぐ、会えるよね……?」
『うん。絶対、会いに行きますから。必ず、行きますから』
通話はやがて夜の静けさに吸い込まれていく。声が途切れても彼の言葉は、胸の奥に灯るように残り続ける。
遠くても、会えなくても。ふたりは、こうして声で繋がる夜を選んだのだ。寂しさを分け合って少しずつ、未来へと積み重ねていく夜を──。
*
あの夜から、幾つ目の月が満ちたのだろう。
ベッドサイドの小さな卓上カレンダーには、彼が福岡へ発ってからの日々がひとつずつ丁寧に塗り潰されていた。わざわざ赤ペンを使って、まるで子供の頃に遠足を心待ちにしていた時のように。
その夜も私はスマートフォンを手に持ったまま深くため息を吐いていた。
「……今日は、連絡ないのかな」
毎晩の通話がいつしか当たり前になっていた。けれど彼の任務は不規則だ。今日のように時間が読めないことだって、当然ある。そう、わかっているはずなのに。わかっているのに──。たったひとつの声が届かないだけでどうしてこんなにも心が沈んでしまうのだろう。
着信音も通知も鳴らない画面を見つめながら、私は、指先でディスプレイをそっと撫でた。
──会いたい。
それだけの想いが胸の奥でじわじわと膨らんでいく。二人で過ごしたあの夜のぬくもり。背中に回された腕の感触。彼の唇が、言葉よりも雄弁に語ってくれた、あの夜の記憶。
『もう、声だけじゃ足りないんで──』
と、言ったあの日の彼は、どれほどの決意で、あの言葉を口にしたのだろう。今、私のなかにもその言葉が根を張っている。声も、文字も、記録にも残せない距離の中で、どうしようもなく彼に触れたいと願ってしまっている自分がいる。
そのとき。ふいに、スマートフォンが震えた。小さく、一度。遠くの窓がノックされたように、そっと。画面には『ホークス』の名前。心臓が、一気に跳ね上がる。指先が震えてすぐにはタップできなかった。ようやく届いた、その声は──。
『……名前さん? 今、大丈夫ですか?』
「……うん。ずっと、待ってた」
その一言だけで沈んでいた夜がいっぺんに明るくなっていく気がした。彼の声が耳を通して胸の奥に届く。
『会いたいです』
「うん……私も。……とても。」
遠くにいる彼の姿を思い浮かべる。ひとりきりの部屋のなか、まるで彼のぬくもりがそこにあるかのように。
ふたりの距離は、画面の向こう側とこちら側。でもその隙間を想いが埋めてくれる。たまらなく苦しく、愛おしく。それでも明日を信じて、私はこんな夜をこれから先、彼と過ごしていくのだ。
*
──今日もまた、寝落ちしてしまったのかな。そう思いながら私は真夜中のリビングで、ぬるくなったミルクティーを、両手で包んでいた。カーテンの隙間からのぞく月は、どこか形のくずれた欠け月で、まるで私の中の満ち足りなさをそっと象っているかのようだった。この数日間、私たちは通話ができていなかった。タイミングが合わなかったとか仕事が立て込んでいたとか、言い訳はいくらでも並べられる。でも、そのどれもが本当でもあり、違う気もしていた。
会えない距離にある私たちにとって��声�≠ヘ、唯一の接点だった。その細い糸さえ掴めずにいる夜はこんなにも寒くて頼りない。……そのとき。スマートフォンが震えた。
「……!」
表示された名前に小さく息を呑む。迷わず応答ボタンを押す。耳に触れた瞬間、静かな呼吸音が聞こえた。ふたりの距離を越えて確かに彼がそこにいた。
『……名前さん』
「……久しぶり、だね」
数日ぶりの言葉は、少し掠れて、でも変わらず優しかった。私は胸の奥が音もなくほどけていくのを感じた。
『ごめんなさい。全然連絡できなくて……忙しかった、ってのもあるけど、なんか……怖かったんです』
「怖かった……? なにが?」
『たった数日でも……こんなに会いたくなるんだって、気づくのが、です』
その言葉に喉の奥がじんと熱くなる。声に出すには、少しだけ時間がかかった。
「……私、も。すごく、寂しかった……」
そのあとふたりとも、しばらく言葉を失った。ただ、マイク越しに伝わる吐息と、寝室の静けさだけが満ちていく。
『ねぇ……今、ベッドですか?』
「……うん。もう横になってたけど、起きちゃった」
『そうですか。……じゃあ、』
彼の声が、少しだけ低く、甘くなる。
『耳、近づけてもらってもいいです?』
私は何も言わず、ただそっとスマートフォンを耳に押し当てた。その先で彼の声がゆっくりと熱を帯びていく。
『ねぇ……今どんな服、着てるんですか。教えてもらっても?』
「え?……大きめのシャツ。白いやつ」
『……あぁ、あれ。……じゃあ、下は……?』
「え……、なに、この会話」
『いいから。ほら、早く。答えて』
「……、穿いてない、かな……」
ふっと、彼の呼吸が乱れる音が聞こえた。その音ひとつで、体の奥がじんと熱くなる。
『触って……もらって、いいです?』
「ホークス、」
『ね、お願い……。名前さんの手で……どこでもいい。気持ちよくなるとこ、俺も一緒に、感じていたい』
静かな夜、二人を隔てるのは数百キロの距離。それでも通話の向こうから聞こえる彼の声だけで体の芯が熱くなる。
「……そんなの、もう……声、聞いてるだけで、なんか、熱いのに……」
『俺も、です。ほんと……何もしてないのに、息が上がってきてる……声だけで、熱い』
「わたし、も……」
『……じゃあ、教えて。どこが、熱くなってきました?』
「……ぜんぶ」
『はは、雑……。でも一番、触れたいのは……』
「……」
『今すぐ、名前さんの声に、触れたい──』
二人の会話は、まるで身体に触れる以上に深く呼吸のリズム、途切れがちな言葉、そして言葉の��間�≠ウえも余韻となって、この夜の沈黙をゆっくりと満たしていく。
声だけ。触れられない。見えない。けれどそのぶんだけ想像がすべてを凌駕していた。彼の甘く乱れる吐息。とぎれとぎれの言葉。それらがイヤホンを通じて、鼓膜の奥に、感覚のすべてに降り積もっていく。
『ねぇ……名前さん──』
「ん、」
『もっと感じてる声、俺にだけ聞かせて……』
頬を伝う汗と熱くなる身体。夜の闇は、二人の声でゆっくりと満ちていった。
すべてが終わったあと、ただ静かに、息を整えながら、お互い、なにも言わなかった。けれど、なにも言わないことが、こんなにもやさしい夜もあるのだと、静かに思った。
*
朝。カーテン越しに淡く射し込む光がまぶたの裏をそっと撫でた。
眠りからゆっくりと浮上して、ぼんやりとしたままスマートフォンを手に取ると、すでに届いていたメッセージの通知に気づく。
――――――――――――――――

おはようございます。
昨日の全部、覚えてます?
――――――――――――――――
瞬間──全身の血が、どばっと逆流するような感覚が走った。ひと晩越しの記憶は曖昧で、それでいて、鮮やかだった。
私は、ベッドの上で身体を小さく丸めるようにしてから、恐る恐る返信した。
――――――――――――――――

……覚えてるよ。全部
――――――――――――――――
送信を終えるや否や、すぐに着信音が鳴った。慌てて画面をタップする。
『あ……、おはよう、ございます……』
「……おはよう、ございます……」
私の声もずいぶんと掠れてはいたが、彼の声も少しだけ掠れていた。昨夜の余韻が、まだ残っているような、そんな声音。
『なんか……すごく変な夢、見てた気がします』
「……変な夢?」
『はい。名前さんと電話してて、声だけでめちゃくちゃ気持ちよくなって……で、目が覚めたら、現実だったっていう』
「……夢じゃなかったから、じゃない?」
『……ほんと、ですか? じゃあ、あれって……やっぱり……』
ふたりして黙り込む。けれど、不思議と嫌じゃなかった。この沈黙さえ二人で分け合えるもののように感じられて、胸の奥がふわりとあたたかくなる。
「……恥ずかしくて、顔、見せられないね」
『え、でも……初めてじゃ、ないですよ、ね?』
「こら」
『へへっ。じゃあ今日の夜──顔、見に行ってもいいですか?』
「えっ……?」
『って──言ってみただけです。いや、冗談じゃなくて……』
「……」
『うーん……すみません、やっぱり恥ずかしくて変なことしか言えないっす、ね』
私は、小さく笑った。画面の向こうで彼も同じように照れている気がして胸の奥がくすぐったくなる。
「……うれしかったよ、昨日。なんだか、遠くにいても、すごく近く感じられたから」
『……俺も。声だけで、こんなに繋がってられるんだって思いました。……でも、』
「……ん?」
『やっぱり……ちゃんと、会いたいです。触れられない夜は──足らん、です』
その言葉に私の心がぎゅっとなった。切なさと愛しさが入り混じった朝。まだ眠たいはずの頭が彼の声でゆっくりと目を覚ましていく。
「……今度、会える日、決めようね」
『はい。絶対、すぐ会いましょう。……次は直接好きって、言いますから』
そう宣言するように言う彼の声は、昨夜よりも少しだけ凛としていて、私はスマホを耳に当てたまま、もうしばらくそのままの姿勢で、彼の声を聴いていた。目を閉じると、まるで、そばにいるみたいだった。声だけでどうしてこんなに満たされて、それでも、どうしてこんなに、足りないんだろう。
夜が明けて、窓の外には鈍い朝日が差し込んでいた。羽根はベッドの上に散らばったまま昨夜の通話の名残がまだ肌の奥に残っている気がする。
彼女の声が耳に届くたび、何かが確かに震えていた。想像のなかで輪郭をなぞりながら、画面の向こうにいる彼女を、何度、抱きしめたくなったことだろう。けれど、触れられない。ただ、好きだと言えれば、それでいいと思っていた。言葉で通じ合えれば距離なんてどうとでもなる。本気でそう思っていたんだ。でもそれはきっと、強がりだった。
聞こえる声、感じる気配。それなのに、指先が空を切るたび心のどこかがヒュッと冷えていく。温度も手触りも交わせる視線もない。
俺の『好き』は──こんなにも脆く、届ききらないものなんだろうかと、ふと、怖くなる。そう思ったときにはもう、スマホを握った手に、力が入っていた。再び彼女の声を確かめたくて、朝が来たばかりだというのに光の速度でメッセージを送っていた。我ながら、速すぎる男……。
――――――――――――――――

おはようございます。
昨日の全部、覚えてます?
――――――――――――――――
送って、少ししてから返ってきた返事に思わず笑ってしまった。
――――――――――――――――

……覚えてるよ。全部
――――――――――――――――
……そっか。俺だけじゃなかったんだ。彼女の中にもちゃんと昨日の夜は残ってる。けれどそれでも、欲が出てくる。声じゃなくて、ぬくもりが欲しい。電話じゃなくて抱きしめて、息を感じて『好き』って、直接伝えたい。目が合う距離で、手が触れ合える場所で。
ああ、そうか……。きっとこれが『会いたい』って、気持ちなんだ。ただ会いたい。ただ、それだけのことが、なんでこんなにも切なくて──、愛しいんだろう。