昼過ぎの空は薄く曇っていた。太陽はあるのにどうにも影の輪郭がぼやけるような天気だった。まるで自分の心みたいだな、と、無意味なことを考える。
 午前中のパトロールを終えたあと、事務所には戻らなかった。戻れなかった、が正しいかもしれない。剛翼は、無意識のうちに街の西側、彼女のいるエリアへと向かっていた。

「──俺、なんしよーっちゃろう……。」

 自分の行動が、どこか滑稽だった。仕事でも、任務でもない、呼ばれたわけでもない。ただ会いたくなった。それだけで、飛んできた。
 けど──それってこんなにも苦しいことだったっけ?
 触れたい、って感情は、ただ、温かいもんだと思ってた。けれどこんなに胸を締めつけて、息を浅くして、羽ばたきすら乱すものだったとは。

 ビルの影を縫って飛び、彼女の勤務先に近い、緊急支援センターがある隣の屋上に降り立った。彼女と同じ制服を着た誰かが見上げてくる気配がしたので、キャップを深く被ったまま歩く。少しだけ、顔を隠すようにして。まるで不審者だ。
 入り口の自動ドアには近づかず、脇にある職員通用口の非常階段に、腰を下ろした。昼時だし外に買いに出た彼女の姿が見えるかもしれない。ただの賭けだ。でも、それでもよかった。少しの間だけでも、彼女の近くにいたかったから。
 ポケットから、スマホを取り出す。彼女の名前をタップする指が、なぜか震えていた。


 ――――――――――――――――

ホークス

いま、昼休憩中ですか?



 ――――――――――――――――


 それだけの文を打っては送らずに消す。打ってはまた消す。まるで初恋のようだった。いや、実際には初恋なのだけれども。
 深夜に電話エッチまでしておいていまさら何を躊躇ってるんだ、と自分でも思う。でもそういうことじゃない。声だけじゃなくちゃんと目を見て『会いたかった』と言いたかった。あの夜の熱が本物だったって、ちゃんと、伝えたかった。ただそれだけのこと。
 そのとき、通用口のドアがひらく音がした。
階段に、誰かの靴音。思わず顔を上げた。彼女、だった。彼女もまた、驚いたように立ち止まり、そして、目を見開いた。小さく唇が震えている。何かを言いかけたみたいにして。でもその綺麗な唇から、言葉は出てこなかった。

「あ、の……ごめんなさい、突然。」
「……」
「──いますぐ、会いたくなっちゃって」

 たったそれだけを言うのに、こんなにも時間がかかった。けれど彼女はなにも言わず、そっと、そばに腰を下ろしてくれた。ほんのすこしだけ肩が触れた。それだけで背中の羽根の奥の感覚がじんわりと温まっていくのを感じた。ああ、やっぱり──会えて、よかった。
 彼女が隣に腰を下ろした音は、ほんとうにかすかなものだった。けれど鼓膜よりも胸の奥に先に響いた。制服の襟にかかる髪が揺れている。うなじのあたりに薄く汗が滲んでいて、今日が暑い日だったことを思い出す。

「……忙しかった、ですか?」

 絞るように出た言葉に、彼女は少しだけ笑った気がした。ううん、とか、うん、とか。そんな、簡単な返事すらないまま、ただ気配だけが返ってくる。でも、それでもよかった。黙っていてくれるってこんなにやさしいことなんだって、思う。俺は言葉が多いくせに大事なことになるといつも黙り込む。そういうところがある。彼女はきっともう、とっくに気づいてるんだろうけど。

「このあいだの夜……その、電話のあと……俺、なんか、ずっと考えてて」

 言いながら自分の指先をじっと見つめていた。なんでこんなに震えてるんだろう。ヒーローなのに。鍛えてきたのに。たかが、想いのひとつを、伝えるのだけなのに。

「俺……やっぱり、ちゃんと、触れたくなっちゃったんです」
「……」
「声だけじゃ、たりないって。気持ちだけじゃ、届かないって……」

 そこで、ようやく彼女が顔を上げた。その目が驚くほどまっすぐで俺のなかの不安を射抜いた。

「──ホークスの声、私、好きだよ」

 唐突なひとことに、一瞬だけ、息が詰まった。

「その声だけで、どれだけ救われてきたか」
「……」
「夜に泣きそうなときも寂しいときも、あなたの声があるだけで……」

 そこで言葉が切れて、彼女は視線を逸らした。ほんのすこし、肩が震えていた。

「……でも、大丈夫。私も、おなじ気持ち。」
「……」
「やっぱり……もう、声だけじゃ、足りない」

 その言葉はそっと重なって、深く沈んで、俺の胸に届いた。何も言えなくなって、ただ隣にいる彼女の手を、そっと取った。手のひらは少しだけひんやりしていたけど、指先はしっかりと絡んできた。それだけで世界が少し変わった気がした。

「じゃあ、今日みたいに、また……会いにきてもいいですか」
「……」
「迷惑じゃ、ない……?」

 俺のやや不安げな問いに彼女はそっと頷いた。ああ、やっと……やっと届いた気がした。これが想いが通じるということなら、こんなに静かで、こんなにあたたかいんだなって。


 午後の陽射しが、曇り空のすき間から少しだけ差し込んで階段のコンクリートにやわらかな光を落としていた。ふたりの指先だけがそれを確かに受け止めている。
 階段の上では、まだ、蝉が鳴いていた。けれどそれよりも静かな風が吹いていて、私の手は彼の手に、ずっと握られたままだった。

「……このまま、少しだけ歩きません?」

 彼がそう言ってくれたとき、私の足元にあった影がすっと伸びて、ふたりの影が交わった。
 職場のすぐ裏には、小さな公園がある。平日の昼下がりでも人の気配はほとんどなくて蝉の声と風に揺れる木の葉のざわめきだけが二人の周囲を静かに包んでいた。
 彼は私より少し先を歩きながらも、ずっと手を離さなかった。汗ばんだ指先がそれでも離れようとせずに、ぎゅっと私の存在を確かめているようで。まるで、迷子にならないように、という、合図みたいだった。

「昼、抜いてきたんで。……これ、どうぞ」

 彼がふいに取り出したのは小さな紙袋。中には駅前のベーカリーで売っている、焼きたてのクロワッサンと、オレンジジュースのパックが一つ。

「……えっ、なんで」
「なんか、こういうのって……OLの昼休憩っぽいでしょ」

 子どもみたいな口ぶりで、でもどこか、照れている彼が可笑しくて私はふっと笑った。ベンチに並んで腰かけ紙袋からひとつずつクロワッサンを取り出す。バターの香りがふわりと立ちのぼって、さっきまでのざわめいた心が、少しずつほどけていく。

「……ちゃんと、会いにきてくれたんだね」

 呟いた声が、風にさらわれる前に、彼の耳へと届いた。

「はい。ほんとは昨日も、来ようか、悩んでたんですけどね」
「……便利な個性ですこと」
「まあ、商売道具なんで?で……仕事終わって、シャワー浴びて、羽根乾かしてたら夜中になってました」

 彼のその何気ない言葉に私はどうしようもなく胸があたたかくなるのを感じた。

「……ありがと。」

 それしか言えなかった。けれどその感謝の言葉には、きっと今まで言えなかった想いの欠片が、すこしずつ滲んでいた気がする。
 二人はそのままベンチでクロワッサンを半分こした。彼は手の甲で口元をぬぐいながら、私の髪にとまった葉っぱを、そっと取ってくれた。

「……次に会えるのは、いつになりますかね」
「それは、あなた次第じゃない?」
「え?」
「大変お忙しい、人気ヒーローさん」

 私がからかうようにそう返すと彼は目を細めて笑った。その笑みがあまりにやさしくて私は胸の奥がぎゅうっとなるのをどうにもできなかった。
 時間はあと十五分。それだけしかない、けれどとても長く、とてもやさしい、十五分だった。

 駅へとつづく細い道の入り口で、彼の足がふと止まった。その視線の先、改札へと伸びる階段はまるで二人のために用意されたタイムリミットのように静かにその輪郭を浮かび上がらせている。
どうやら、飛んで帰るつもりはないらしい。どういうときに羽根を使いどういうときに地上を選ぶのか、その基準は、いまだにわからないけれど、少なくとも今の彼は、この場所を離れる時間を、少しでも引き延ばそうとしているように見えた。

「……そろそろ戻らないと、だよね。」

 私がそう言うと彼はふっと息をついた。名残り惜しそうに、でもどこか、諦めたように笑った。

「……うん。でも、またすぐに来ますよ」

 言いながら、彼は私の手をそっと握った。昼の光が柔らかく降り注いでふたりの影が足元で少しだけ重なる。

「じゃあ……気をつけてね。」

 そのまま手を離そうとした私に、彼が少しだけ身を寄せてきた。思いがけず引かれた腕に、ややバランスを崩しかける。そして、囁くような声で彼が耳元で言った。

「浮気、しないでくださいね?」

 その声音は穏やかで軽口めいた響きさえあったけれど、その奥に潜む感情は私にだけはちゃんと伝わっていた。ああ、この人はきっと私のことをいま本当に大切に思ってくれているんだなって。

「……しないよ。たぶん……」
「えー? たぶんなんです?」
「っていうか、する暇もないし」

 そう返しながらも私はふいに胸の奥がチクリと痛んだ。もしかして、そう思わせる隙が、私にはあるのかもしれないって。彼が不安になるような一瞬を、与えてしまったのかもしれない、って。

「……でも、そう思われたってことは、きっと、私のせい、なんだよね……」

 しかし彼は、私の不安をものともせず、首を横に振った。

「違います。ただ……ただの俺の自信のなさ、かもです」
「じゃあ……」
「……じゃあ?」
「今度会えたときも、ちゃんと、安心させてね?ちゃんと��私だけだよ�≠チて、わかるように」

 私のその言葉に、彼は少しだけ目を見開いて、それから、ふっと小さく笑った。ほんの一瞬の、けれど、私の胸を、そっと撫でていくような微笑だった。

「わかりました。……全力で、そうします。」

 彼が去ってゆく背中を、私はしばらく見つめていた。振り返らずに真っ直ぐ歩いていくくせに、最後の最後で羽根だけがひとつ私のほうへと風を切るように揺れたのが見えて、私は、すこしだけ笑った。
 少しずつ、私たちは離れていく──けれど、そのたびにもっと深く結び直していけるような、そんな気もしていた。


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