スマートフォンの画面には、すでに、見慣れてしまった名前が、そっと残されていた。開封すらしていなかった着信履歴も、未読のメッセージも通知も、すべてを閉ざしていたのにどうして今日だけは指先が、画面に触れてしまったのだろう。再生ボタンに触れた瞬間、小さなノイズのあとに彼の声が、静かに流れ出す。その声は、思いのほか落ち着いていて、それでいてどこか不安そうに、揺れていた。
私は画面を伏せたままでその声だけを聞いた。画面越しに見える彼の顔は今はもう、何も意味を持たない。ただ、その声だけが、空気を震わせて届いてくる。息を吐く音。小さな沈黙。けれど、それは奇妙にあたたかくて、傷の上にそっと布をかけるような、そんな響きだった。
私って馬鹿だな……あんなに怒って、あんなに泣いたのに。それなのに声を聞いた途端に、またほんの少しだけ、心がふやけてしまうなんて。
胸の奥に、小さく波紋が広がっていた。それは決して彼をすぐに赦す気持ちじゃない。ただ彼の真ん中に触れてしまった気がしただけだった。
私はスマートフォンの画面を閉じて、机の上にそっと伏せる。けれどさっきまで冷たかった指先だけが、なぜだか少しだけ、熱を帯びていた。
今日は、久しぶりの休みだった。といっても、緊急支援センターの音がしみついた耳はなかなか静寂の中に身を置けずにいた。だから私はほんの気まぐれで外に出ることにした。昼過ぎの駅前。そこには時折顔なじみのヒーローたちが現れる。皆、黙々と汗を流し、目的のない動きひとつせずただ凛と警備態勢で立っている。そしてそこに、彼がいた。斜め上から照りつける午後の陽に照らされて彼の剛翼の羽根が、空気の中、赤く浮いていた。いつものように、軽口を飛ばすでもない。私服姿の彼が、ただそこに立ち、無言でなにかを確認している。
まさか……会うなんて、思ってもいなかった。私が彼を見つけるより先に、彼はすでにこちらを見ていた。目が、合う。わずかに、眉が動いた。おそらく、声をかけるタイミングを探していたのだろう。私は息を呑んだままその場から動けなくなっていた。
「……こんにちは。偶然ですね」
その声は、思ったよりも低く静かだった。私はようやく微かに会釈を返す。顔は、笑っていたかもしれない。けれど自分の声は出なかった。二人のあいだに、陽だまりのような沈黙が落ちる。
「えっと……」
彼が、被っていたキャップの端を一度つまんで視線を逸らした。
「ほんとは、もう少し時間をおいてから……って思ってたんですけど」
「……」
「今みたいな偶然が、あるなら──俺、逃したくないなって思って。それで声、かけました。」
そこで彼は一歩、私の方へと近づいた。そして深く、ほんの一瞬だけ頭を下げた。彼が謝罪ではなく誠意のためだけに頭を下げることができる人なのだと、私はそのとき改めて知った。
「ちゃんと……ちゃんと話せる時間を──もらえませんか?」
懇願ではない。押しつけでもない。ただそれは彼自身の選んだ手段。私は、口元に指を添えて、ほんのすこしだけ呼吸を整えた。
「また……連絡します。ヒーロー活動、頑張ってください」
それだけが、今の私にできる、いちばん正直な返事だった。彼の羽根が静かに風を受けて揺れていた。その赤が今日の空には少しだけ眩しすぎた気がした。
*
数日後──。お店の窓際の席に座っていると、ガラス越しに見える通りを、赤い光が、かすめていった。思わずその色を追って目をやると、ほどなくしてドアが開き、小さなベルの音が鳴った。
「こんばんは、……ごめんなさい、遅れました」
「……ううん」
「連絡もらえて、嬉しかったです。」
彼は、思ったより落ち着いた声でそう言った。ヒーロースーツではなかった。革のジャケットに素朴な白いインナー。あの赤い剛翼は、折りたたまれて背に隠れ、まるでひとりの青年が、日常の中から抜け出してきたかのような佇まいだった。
「待たせ、ましたよね……?」
「大丈夫。私もさっき来たとこ。」
そんな嘘をついた。ほんとは二杯目のカフェオレを飲み終えるところだった。けれど彼がそれを咎めることはなく「そっか。」とだけ、柔らかく頷いて、私の目の前の席についた。
沈黙がひとつ二人の間に落ちる。けれど以前のような張りつめた空気ではなかった。お互いに、話し方を思い出すようにして呼吸を探っていた。
「最近、映画とか観ました?」
彼が、ふいにそう口にしたとき、私は少しだけ驚いた。てっきり、何を言われるのかと身構えていたからだ。
「……え?」
「いや、ほんとに。最近って、何が流行ってんのかなって。俺、ずっと福岡やったし。情報が追いついてなくて」
少しだけおどけるように彼は笑った。その笑顔に私は、ほんの少しだけ、気が緩んでしまう。
「観たよ『マイフレンドフォーエバー』っていう映画……知ってるかな?」
「えっ? 知らん、かも……洋画です?」
「うん。静かな映画で。喋らない時間が多くて。でも、最後の場面だけ、言葉があふれる展開?」
「へえ。どんなふうに?」
「言葉を探して黙っていた時間も、愛の、ひとつだった──って、ヒロインが……」
言いかけて、言葉が詰まった。思わず目を伏せる。彼は何も言わず、ただ目をそらさずに、聞いていた。
その眼差しの中に、かつての��恋人�≠ニしての色はなかった。ただ今ここにいるひとりの自分として、向き合っていた感じがした。
「俺……もう、彼氏としてじゃなくても、いいんです」
ふいに、彼が言った。声音は優しくても、その言葉が重みを持って私の身に降りかかってくる。
「ただ、あなたと話したい。声を聞きたい。笑ってる顔を見て、ちゃんと、あなたの時間に触れていたい」
だが、その言葉は、不思議と重くはなかった。謝罪でもなければ恋のやり直しの口火でもない。もっとずっと根の深い──��願い�≠セった。
「……わかった。じゃあ次は何、話そうかな」
私はふとそんなふうに答えていた。この関係に名前をつけるには、まだ早すぎるけれど、何かが少しずつまた、動きはじめていることだけは確かだった。
帰り道の風は、まだ冷たかったけれど、指先に残るカフェオレの温度が少しだけあたたかかったことが、唯一の救いだったかもしれない。
*
その夜は、なぜか少しだけ冷えていた。気圧が下がっているせいか、あるいは、心の奥の湿ったところがふいに空気を吸い込んでしまったのか、どちらかはわからない。
寝る前、何の気なしに、スマートフォンを手に取る。通知は切っていたはずなのに、彼の名前はすぐそこにあった。いつも同じ位置にじっとしたまま、動かないまま、それでも消えてなどはいなかった。
ため息と共にベッドのシーツの柔らかさに体を預けながら私はほんの無意識のようにその名前をタップした。着信ではない、音声──。あのとき彼が送ってきてくれたように。
手は震えていなかった。ただ、心のどこかが、じんと鈍く、熱を帯びていた。マイクのボタンを押す。音は鳴らなかった。画面の下にカウントダウンの秒針が静かに進んでいくだけ。何か言うべきことなんてひとつもなかったはずだった。けれどなぜかふいに、唇が勝手に動いていた。
「東京、だよね?ちゃんとごはん、食べてる?」
それだけだった。ただの何気ない一言。けれどそれは、自分でも思ってもいなかったほど、まっすぐに彼へ向かって落ちていった。
もうすぐ三十秒という表示が点滅し私は慌てて画面をタップして録音を送信した。取り消す暇もためらう余白もなかった。送ってしまった……と思った。けれどそれは後悔とは違った。深呼吸をしたあとの肺が少し軽くなるような、そんな感覚だけが、部屋のなかに残った。
彼の返事は、すぐには来なかった。けれどふと窓の外に目を向けると夜の向こうに、月が滲んで浮かんでいた。
なんの約束もない、それでも確かに巡ってくる光。ああ、たぶん私は、もう一度あのヒーローに��声�≠�、返して欲しかったんだな──。
夜風が遠くで、花の匂いを、運んできていた。東京のホテルの窓は、うっすらと開けてあって、カーテンが夜の呼吸に、かすかに揺れていた。
ベッドの脇に置いたスマートフォンが、ひとつだけ震えた。その一瞬の振動が胸の奥まで響く。風鈴が風を孕んだときの、あの一音のように──音ではなく、気配として、確かに届いたのだ。
画面にはたった一行。彼女の名前と、音声メッセージの通知。目の前の空間がにわかに揺らいだように感じた。嘘だ、と思った。今……?なぜ。
指先でタップする。その動作がもどかしくて、いつになく手元が不器用になる。小さくノイズが走り、そして、そのあと──。
『東京、だよね?ちゃんとごはん、食べてる?』
たったそれだけだった。彼女の声は少し掠れていた。ほんのわずか、間が空いて、言葉がふっと途切れた。何も言えなかった。ただ、右手で額を覆い、指を深く髪に差し込んだままその場に立ち尽くした。
安心──という感情とも違った。救われた、というのも違う。それはきっと赦しと距離が同時に押し寄せてくるような、そんなどうしようもなく複雑で、美しい痛み。
「やば……。バカみたいに、嬉しいっちゃけど」
その言葉がこぼれてしまうのを止められなかった。画面を見つめたまま、小さく笑った。笑ったあと、ふいに目頭が熱くなるのを感じた。
彼女は、また会いたいとは言わなかった。許すとも、戻ってくるとも、言わなかった。けれど、それでも声を返してくれた。そのたったひとつの事実が今夜、心に灯る小さな光になった。
音声を聞き終わってから、スマホを持ったまま随分と長い時間、動けなかった。あのひとことがどうして今、届いたのか。どうして、そんな言い方だったのか。どうしてたったそれだけなのか。
わかるようで……わからなかった。わからないようで、けれど、胸の奥ではたしかに、生き返ったみたいな音がした。
……返したい。今すぐに。けれど何をどう返したらいいのか、まったくわからない。あまりにも長く沈黙が続いていたから言葉の選び方を忘れてしまっていた。
スマホが震えたのはそのあとだった。通知音も振動も何もなかったのに、まるで脈が弾むように画面が、光った気がした。彼女からだ。文字は、たった一行。
――――――――――――――――

私たちって、別れちゃったの?
――――――――――――――――
一瞬で頭が真っ白になった。指先の感覚がなくなって手に持っていた水の入ったペットボトルがかすかに揺れた。
何度も何度も読み返す。別れようとも戻ろうとも書かれていない、たった、それだけの問い。でもそれがどれほどの想いを引きずって生まれた言葉なのかは、痛いほどわかった。
何を言えばいい……。こんなメッセージを受け取ったのあとで、何を一番に伝えればいい。
「好きだ」……?
「違う」……?
「ごめん」……?
いや、全部違う気がした。文字にしてしまってから、ほんの一瞬だけ迷って消した。でも、送信ボタンを押すのは、たやすかった。まるで呼吸のように、痛みと一緒に押し出される。また既読はつかないかもしれない。それでも、どうしても、止められなかった。
――――――――――――――――

俺たちまだ終わってないって
思ってて、いいですか?

彼氏じゃなくてもいいって言ったけど、やっぱり俺はあなたが好きなんです

何から話せばいいかわかんないけどちゃんと話したい。いつかじゃなくて、なるべくはやく
――――――――――――――――
夜の中に次々と送り出された言葉たち。まるでずっと塞き止めていた川の堤が決壊するみたいに手元からあふれていった。
……既読は、まだつかない。けれどその画面を握りしめたまま、ただ祈るように俺は目を伏せていた。この問いが、いつかきちんと会話になって返ってきますように……。それを信じることしか今の俺にはできなかった。
でも、たぶん今、彼女に一番伝えたいのは──俺はまだあなたを手放せない。それだけだった。
俺は思考の前に動いていた。言葉を探すよりも早く、画面の通話ボタンをタップしていた。呼び出し音が鳴る。たった数秒のはずなのに、永遠のように長く感じる。喉が渇いて、けれど声はもう張りつめたままで。
呼び出し音はまだ続いている。胸の奥で不安と願いが交錯する。このまま、出なかったら──。
けど、今、彼女が受話器を取ってくれたら、俺はきっと……
「……頼むけん、出て……っ」
その呟きは、誰にも届かない。それでも俺は、祈るように呼び出し音の向こうを見つめていた。
*
夜の部屋は、息を呑むほど静かだった。照明を落としたままベッドの上に膝を抱えていた。音もなく、ただスマートフォンの明かりだけが天井を照らしている。
──眠れなかった。いや、眠る前に、あの夜に届いた、あの声を聞いてしまったから。
『東京、だよね?ちゃんとごはん、食べてる?』
吹き込んだ自分の声がどんなふうに彼のもとへ届いたかは、わからない。そして──そのあとになぜか送ってしまった、一通のメッセージ。
――――――――――――――――

私たちって、別れちゃったの?
――――――――――――――――
書いたあと少しだけ指が止まる。送信ボタンを押す直前の、一瞬の沈黙。でも、その時間が長くなればなるほど、きっと私は何も送れなくなると思った。だから送った。たった一行の、問いを。それは赦しでも告白でも、別れの言葉でもない。でも、それが今の私の、精一杯だったから。
だが、それが引き金だったのだろう。その後の彼はまるで沈黙に抗うように次々とメッセージを送って寄越した。画面をスクロールするたびに、喉が詰まっていく。言い訳じゃなくて、懇願でもなくて、それでも私と��繋がっていたい�≠ニいう温度が文字の間に、確かに息づいていた。
私はただ、それを読んでいた。一つ一つ、ゆっくりと、そして何度も。何も返せないまま、ただ黙って。ひとつずつ読むたびに胸の奥の鍵がまた少し、軋んで開いていく。だけど、時間がたつにつれて、胸の中にだけ言葉がふくらんでしまう。怒りでも悲しみでもない。もっとやるせなくて、もっと情けなくて。
指が勝手に動いてしまった。��既読�≠�つけてしまった。それだけ。たった、それだけなのに、こんなにも身体が震えるなんて。
既読の文字が、すべてのメッセージに灯った、その瞬間──私は堪えきれなくなっていた。涙が頬を伝っていた。声を殺して、唇を噛んで、それでも、止まらなかった。
バカみたいだ、と思った。あんなふうに泣いて見えない形で突き放して、それなのに、たった、数行の言葉で、揺れてしまっている。
彼は、私のすべてを知っているわけじゃない。でも、私の沈黙の中に何があるかを、ちゃんと、感じていた。だからこそ、私は今、泣いている。
──ごめんね、って。ごめん、私は、別れたくないよって言いたい。文字入力の画面に指を滑らせる。書けない。今はまだ、それさえも、言葉にできない。
ごめんねも別れたくないも、好きだよも──。そのどれもが、まだあまりに不確かで、怖かったから。
既読をつけたあと返信ボックスは白紙のまま。私はスマホを胸に抱いて、ただ、涙の熱を、噛みしめていた。きっとこの夜は、また返事をしないまま、泣くための夜になるのだろう。
私は、自分の鼓動が静かに跳ね返ってくるのを感じながら、ただ深く、呼吸をした。そのとき、呼び出し音が鳴った。まるで焦りや願いが滲んだみたいに鳴り続けている着信音。画面には、彼の名前。
「え……?」
鳴らしっぱなしの着信音には、執着と、祈りと弱さがあった。無視できなかった。というより、気づいたときにはもう指先が画面を滑っていた。そして、通話が──繋がった。
「……」
『……』
私も彼も、すぐには何も言わなかった。ただ、お互いがどこか遠くで呼吸をしている音だけが、薄い膜の向こうでふるえていただけ。
沈黙──。でも、それは決して、嫌なものではなかった。むしろ、ひどく切なくて、だからこそ壊せなかった。それでもなにか、話さなければと思った刹那、ふいに、彼の声が落ちてきた。
『……出てくれて、ありがと。』
それは言葉にならないほど、優しい声だった。それだけで、また涙腺が、ふわりと緩んでしまいそうになる。
声が聞きたかった。そう思っていたのはたぶん私のほうも、同じだったのだ。
『……ちゃんと、話したい。すぐにでも。でも、タイミングが、怖くて……』
「……うん」
私はただ、それだけ答えた。怒ることも責めることも全部、今この声を聞いた瞬間に、少しだけ遠のいた。
『名前さん──』
「……ん?」
『本当に、聞きたいことがあるなら、聞いて』
「……」
『俺、ちゃんと答えます。逃げない、約束する。
信じてほしい。だから……』
「……じゃあ、」
喉が、震えていた。でも、言葉にしなきゃと、思ったから。
「……私たちってさぁ、」
『はい』
「ほんとに……もう、終わっちゃったの?」
一瞬、電話の向こうの空気が止まった。たぶん彼は、深く息を吸ったのだろう。そして、震えるように、答えた。
『終わってない。終わってないです……。俺は、
そう思ってます。今も、ずっと』
声が、ゆっくりと心に染み込んでくる。どこか泣きそうな声。たぶん、私も同じ声をしていた。
私は何も言えないまま、スマートフォンを耳に当てて、そっと目を閉じた。終わっていない──なんて言葉、信じられないはずなのに。なのに、それでも、こんなに涙が出てくるのは、どうしてだろう。