チャイムが鳴った。不在票も入っていなかったから、たぶん指定の時間にきっちり届けられたのだろう。宅配便の段ボール──。差出人欄には、彼の本名、フルネームで鷹見啓悟の名があった。
開けると、中から出てきたのは思わず唇が緩みそうになるほどのいろいろなもの。有名店の冷凍グラタン、クール便で届いた高級フルーツたち、
夜中に一人で食べるには眩しすぎるスイーツ詰め合わせ。そして、小さな手書きのメモ。
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食べ物でご機嫌とろうとしてるって
思われても仕方ないですけど……
でも、食べてほしかったんです。
あなたに、笑ってほしくて。
きっと、おいしいですよ。
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文字は走り書きで、不器用で、彼らしかった。
「ごめんなさい」も「好きです」も書いていないのに、どこよりも、彼の気持ちが詰まっていた。可愛い人だなと思った。けれど、すぐにその箱を閉じた。想い全ての蓋をしめるように、そっと。返事をしたい自分と、まだ応えられない自分とが胸の中で、押し合っている。どちらが本音なのかわからなくなってしまいそうで今はまだ、言葉にするのが怖かった。
私はスマホを取り出し、ほんの数秒だけためらったのち、彼ではない、別の名前をタップした。
イレイザーヘッド──。彼とはあの夜、番号を交換したきり、一度も連絡を取っていなかった。
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名前
こんばんは。ご都合がよければ
どこかで食事でもしませんか?
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送ってすぐに、既読がついた。意外と、マメなタイプなのかもしれない。そして──返ってきた返信は、ずいぶんと簡潔だった。そこは、あの人らしいなと思う。
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相澤消太
いいですよ。今夜でも
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静かな居酒屋。喧騒からすこし離れた裏路地にある、落ち着いた照明の店。壁際のテーブル席で彼は、変わらず水のような雰囲気で座っていた。
私は、誘った分際で、何を話せばいいのかわからなかった。けれども彼は、最初からそれを期待していなかったように、黙って、お茶をすすっている。
「……荷物が、届いて。」
「……はぁ。」
「彼氏から、たくさん。食べきれないくらい」
「……食べたんですか?」
「……蓋、閉じました。」
それだけで彼はすべてを理解したように小さく息を吐いた。テーブルの上で、私のスマホがまた震える。画面には『ホークス』の文字。ラインと着信履歴が交互に並んでいく。音を切っていてもその名前が灯るだけで、心が無意識に揺れた。
「──連絡が止まないのが、いちばん……苦しいですね」
そう言った私に彼は箸を置いたまま静かに目を細めた。
「止まったら止まったでたぶん、もっと苦しむんじゃないですか」
「え……?」
「女性って、そういうものなんじゃないかと」
「……うん」
「だから今は、食ってください。味のするうちに口に入れときましょう」
そう言って彼は、私の分のおかずを取り分けてくれる。まるで父親のような仕草で。でも、その手つきにどこか、ヒーロー特有の��守る�≠ニいう意味が込められている気がして、私は素直に箸を持った。
「え……、美味しい」
「それはよかったです」
彼に──返事はできない。でも今夜だけはこの静けさがありがたかった。
口にした湯豆腐の出汁が、ほんの少し、温かく感じたのは、料理のせいだけではなかったのかもしれない。
*
福岡の任務を終え東京でのヒーロー活動がようやく許された夜だった。けれど彼女に会う予定は立っていなかった。まだ��返事�≠キら、もらっていなかったから。
それでも背中の羽根が勝手に向かってしまう。滞空しながら、彼女の家の近くを飛んでしまう。まるで無意識に風に流されたようなふりをして。ダメだとわかっていた。自分がこんな風に見張るような真似をすることが、彼女の信頼を遠ざけてしまうと。それでも、彼女の気配をどうしても、確かめたかった。
そのときだった。夜の道。人気のない、小さな裏通り。マンションの前の明かりの下に彼女の姿が見えた。そしてその隣には、長身で黒ずくめの男。気配と背格好で、すぐに、わかった。背中の剛翼が感知したからだ。
──イレイザーヘッド。ふたりは特に親密な距離でもなく、けれど、気を遣う様子もない自然さで並んで歩いていた。会話までは聞こえない。聞く気になれば剛翼で、なんとでもできた。でもそれをしなかった。ただ、聞きたくなかっただけなのかもしれない。それでも彼女の笑顔は確かにそこに、ちゃんとあった。
笑っていた。自分には、まだもらえていない、見たこともない表情で。その瞬間、胸のどこかで風が止んだ。羽ばたく感覚が一気に鈍ってビルの屋上に不時着するように、俺は身を落とした。
思い出す──既読だけで、泣くほど喜んだ夜を。返事がなくても、声が届いていると信じた夜を。声の代わりに送った、食品やら果物やらスイーツたちの山。どれも返事はなかった。でも、それでよかったと思っていた。自分にしか触れられない彼女の心がまだどこかにあると思っていたから。
俺はスマホを握りしめラインの画面を開いた。数秒指が迷って、けれど結局何も送れなかった。
「……なんで、よりによって……」
呟いた声が掠れて夜の風にさらわれる。彼女が選んだ人間が、ヒーローであること。冷静で信頼されていて、ちゃんと人として筋の通った人間であること。それが自分にはいちばんきつかった。だからと言って、彼女を問い詰める資格なんて、今の俺にはない。彼女は恋人だと、正式に言ったわけではなかったし、彼女の不安を完全に拭えたわけでもなかったから。でも──それでも。
「俺んほうが、誰よりも、ずっと、ずっと……」
唇が震えた。言い切ることができなかったのは距離が離れていたから。それでも好きだと、まだ口にできていない自分への、怒りがあったから。
俺は、ただそのまま屋上の端に腰を下ろした。人知れず膝を抱え、夜の冷たいビル風にさらされながら、自分の鼓動の音だけを聞いていた。
*
「──で、あの子が、男と一緒に歩いとったわけやな?」
ファットガムが大ジョッキを傾けながらひとつ溜息をつく。向かいのテーブルではホークスが、手元の枝豆を持ったまま、うなだれていた。その隣ではジーニストが水だけを注文し静かに様子を見ている。
「ねえねえファットさん、俺って最低すかぁ?」
すでにグラス三杯目のホークスがカウンターに頬をつけるようにして弱々しく呟いた。目の端はやや赤く、唇はわずかにへらりと笑っているが、その表情に余裕はない。
「酔うとすぐそれ言うなあ〜。毎度の、恒例行事やんけ」
「いや……もう、あの記者……マジで刺し殺してやりたい……撮影センス微塵もなか。」
「おいおい、物騒すぎるやろ。まあ、しゃあないけどなぁ〜。あのセクシー女優とあんな撮られ方してもうたら。しかもホテル街」
「うぅ……やめてください……」
「そら世間的には、お持ち帰りやと思われても、しゃーないわなぁ」
ファットガムが呆れたように笑いながら、ジョッキを傾ける。隣の席には、もはや子供のような情けなさ全開のトップヒーロー、ホークス。
「だって、だって、すよぉ……!」
ホークスが無駄に力を込めて言いかけたところでファットガムが「まあ聞け」と言わんばかりに手で制す。
「そもそもやな、せっかく久々に、チームアップって集められて、な〜んで俺らが、こないな飲み会に付き合わされとんねん」
「付き合ってくれて、感謝してます……! 感謝してますけどぉ〜……!」
テーブルに額をつけそうなほど前屈みになってホークスは声を震わせる。そうして、思い出したように、その口が動いた。
「俺、ちゃんと好きって言ってないんすよ……!報道出てから一回も……!ずっと距離あっても、それでも俺、健気に彼氏ヅラして!」
「はいはい、はいはい」
ファットガムが手をぱたぱた振ってなだめるがホークスの勢いは止まらない。
「で、向こうが……他の男と並んで歩いてるとこ見ちゃって。なんか……なんかもう、泣きそうになって……」
言い終えたとたん喉の奥でしゃくりあげる音がして、それから今度は、声が詰まったホークス。
「……もう、泣いとるやないかい」
ファットガムは呆れたように笑いながら、ホークスの頭をくしゃっと撫でた。ホークスは抵抗もせず黙ったまま、その手の中で額を預けるようにじっとしていた。
「ほんまに好きやねんな」
「……うん……。」
そのうなだれた頭を、ジーニストは、ちらりと横目で見やりながら、ひとつだけ呟いた。
「君の最大の問題は想いを語るより背中で語るを信じすぎているところだよ」
「……ですね。俺、せっかくこーんな立派な羽根あるのに、ちゃんと飛べてないっすよね……」
「それで実質ナンバーワンとは世も末な気が」
「えー、それ言っちゃうんだ……ジーニストさんたまには優しくしてくださいよぉ……!」
「優しさというのは、甘さとは違うよ」
ジーニストはそう言って、机の上の水を、ひと口だけ飲む。その仕草すら、今のホークスには、眩しかった。
「……ヒーロー、だったんですよね。相手……」
ぼそりと呟いたその言葉にふたりが揃って目を見開いた。
「ヒーロー? 誰や?有名なヒーローやった?」
「……相澤先生、でしたね。雄英高校の」
「イレイザーヘッドかいな!あーん……それは、ちょっと……」
ファットガムが、顎をさすりながら濁す。それをチラッと横目で見たホークスが「え、なん?」と声に出し、顔を青ざめさせて、この世の終わりのような顔をする。
「相手が悪いよ」
言い淀むファットガムなど意に介さず、冷静な
ジーニストは即答だった。
「なんでですか!?あの人、なんも言わんくせに聞く姿勢だけは一級品で……!」
「なんやそれ。それ、どこ情報なん……?つか、頭上から見てたんとちゃうやろな?」
「なんなんすか!?俺があんなに毎晩、頑張ってライン送って!発着信履歴スクロールして、終わらんくらい残ってる自分の履歴見返して……!」
「ストーカー予備軍だよ、それは」
「うっ……それ、否定できないっす……」
ホークスは酔った勢いのままついに顔を両手で覆った。耳まで背中の剛翼の如く、赤く染まっている始末。恥ずかしさと、悔しさと、愛しさと。その全部がもはや、酒に溶けていた。
「……連絡、もう、止めたほうがいいんすかね」
「そういうことじゃないやろ」
ファットガムは呆れつつも、静かに言った。
「止めるんは簡単やで。でも、おまえがそのまま黙って終わることが、あの子にとって幸せなんかって、考えたことあるんか?」
「……」
「それとこれとは、別やで?」
ホークスは、目の奥がにじむのを感じながら、また小さく頭を項垂れさせた。
「……俺が、会いたいだけじゃ、ダメですかね」
「それを直接言えばいい。文章じゃなく声でね」
ジーニストが言った。いつもの調子ではない、静かで、真っすぐな語気だった。ホークスはうつむいたまま、鼻をすすった。
──会いたい。でも、まだ怖い。けれど、このまま何も言わずにいる方が、もっと、怖い。そう改めて思わされる、夜だった。
*
目が覚めたのはいつもより少し遅い朝だった。外はすでにしっかりと明るくカーテンの隙間から差し込む光が、部屋の空気を淡く照らしていた。
キッチンに立つ気力も湧かずそのままソファに腰を下ろして、スマホを手に取る。通知欄には、いくつかのメッセージと、一通の音声メッセージ。差出人は言わずもがな、ホークス。送られてきた時間は、深夜1時43分。
押さなければ、何も変わらない。でも、押してしまえば、何かが戻れなくなる気がして少しだけ息を止めてから、私は画面の再生ボタンにそっと指を滑らせた。
『あー……えっと、これ録音できてるのかな……あー、してるか』
いつもの軽さとは少し違う掠れた切なげな声。深く息を吐いて、彼は続けた。
『いや……こんな夜中に、ほんとごめんなさい。寝てますよね。寝てていいです、ほんとに。いや、むしろ寝ててほしい。……俺は、寝れなくて……ちょっと、飲みすぎてます……』
一拍。水を飲むような間。画面の中の音に私の胸の奥も、きゅうと、誰かに掴まれたように締めつけられた。
『なんかね、今すげぇ、会いたいなぁって思ってます。いや、毎日思ってるんですけど……今日は、とくに……たぶん、情けなくなるくらい。かっこ悪いくらいに……』
彼は笑った。けれどそれはどこか自分に呆れているような笑い方だった。
『……相澤先生と会ってたんですね。でも、そのことは、なんも言いません。でもなんか、俺……あの人よりもあなたの声、いっぱい聞いてるはずなのにな。なんで、こんなに遠いんですかね……俺だけ』
少し、言葉を探すように間が空く。その間にも背後で『ホークス!?』などという一般人の声が混じる。それに対して彼は珍しく『あー、いま、忙しいけん』とやや冷たくあしらっていた。でもやがて、ぽつりと声が続いた。
『……返事、なくてもいいです。ほんとは、欲しいけど。……でも、これだけは言いたかった』
録音の最後に、彼は短く息を吸って、そして、静かに言った。
『好きですよ……。ちゃんと、言いますね。遅くなって、すみません』
ピッという再生終了の音が静かに室内に響く。私は、スマホを見つめたまま、しばらく動けなかった。画面にはもう何の変化もない。でも耳には彼の声が残っていて胸の奥がずっと揺れていた。
��言葉�≠ヘ届いた。でも、信じるには、まだ、時間が要る。その間で揺れている自分が苦しくもあり、少しだけ、ほっとしてもいた。
彼の声を嫌いにはなれなかった。私はスマホをそっと伏せ、カーテンを開けた。窓の外には風もなく、ただ、まっすぐな朝が、広がっていただけだった。