空の端が、ほんのすこしだけ薄くなっていた。まだ星は瞬いていたけれど、その背後にかすかに夜明けの気配が忍び込んできている。
 あのとき、熱でうまく立ち上がれなかった私を彼は何も言わずにそっと抱き上げて、ふわりと、ベッドへと運んでくれた。あたたかな胸元に顔を埋めたあの数秒だけが、やけに夢の中の出来事のようで、それでも確かに、今の身体の余韻にまだ残っている。
 彼の腕の中で、私はそっと息を吐いた。背中に感じる彼の体温は、もう何時間もずっと変わらずそこにあった。指先が、私の肩を撫でる。優しく確かめるように、名もなき旋律を描くように。

「……眠れないです?」

 囁く声が、首筋に触れた。温度を帯びた吐息がふっと肌にかかって、心が少しだけ疼いた。

「ううん。眠りたくなくてさ……このまま朝に、なってほしくない」

 そう言ったあと、胸の奥に沈んでいたものが、不意に浮かび上がってきた。夜のあいだは黙っていたのに。彼のぬくもりに包まれていたら、ふと言わずにはいられなくなった。

「……ねぇ」

 私はそっと言葉を探しながら、彼の腕のなかで小さく動いた。彼は応える代わりに私の額へと、小さなリップ音を立ててそっとキスを落とした。

「ホークスの周りには、きっと……きれいな人がたくさんいるんだろうなって……ふと思って」
「……」
「……それを考えたら、苦しくなった」

 声が、震えていた。強がりたかった。でも、今だけは素直でいたかった。彼の前だけは、つよくなんてなくてもよかった。背中にぴたりと触れている彼の胸がほんの少しだけ息を吸い込む動きをした。何も言わずただ腕の力をほんの少し強くして私を包むようにしてから──

「でも……今ここにいるのは、俺ですよ?」

 ぽつりと耳元で。その言葉はまるで夜明け前の空気よりもやさしかった。

「綺麗な人はたくさん見てきた。でも、こんなに会いたくなる人は……あなただけだったんです」

 私の頬が、そっと髪越しに撫でられた。くすぐったくて、でも、泣きたくなるほど安心した。

「報道がどうあれ、俺が誰といたって、あなたのことだけは、ずっと忘れたことなんてない」
「……」
「疑われるようなことした俺が悪い。でも、ほんとに、あなたじゃなきゃ、ダメだった」

 私が何も言わないままでいると、彼は少しだけ身を起こして、私の耳元に囁いた。

「……怖くてもいいですよ。不安でもいい。でも俺のそばに、いてくれませんか?」

 その声に、深いところで何かが解けていく音がした。ゆっくりと、ふわりと、ひとつずつ。張りつめていた糸がほどけていくように。私は、首をかすかに縦に振った。言葉にならない思いが喉の奥につかえて出てこなかった。けれど、彼の腕のなかに身をゆだねたままで、それで十分だった。
 東の空がほんのりと明るくなりはじめている。夜と朝のあわいで私は確かに一つの想いに触れた気がした。好きだということを言葉で伝えられる以上に、ただ一緒に夜を越えたというその事実がどんな証明よりも、私の心を救ってくれるものになるのだと──。


 *


 カーテンの隙間から差し込んだ光が、床の上に白く淡い模様を描いていた。私はその光をまるで水の中で眺めているような心地で見つめていた。
 時間が進んでいることは確かだった。けれど、胸の奥はまだ夜の温度を抱いたまま、ゆっくりと呼吸を繰り返していた。腕の中には変わらず彼のぬくもりがある。背後から回された腕は、少し前よりも力を抜いて、私の身体をやさしく包んでいる。その手のひらが、私の胸元あたりで、かすかに上下しているのを感じるたびに、まだ、ここにいてくれるんだと、少しだけ安心した。

「……もう、朝だね」

 私がそう言うと、彼は、頬を髪に預けたまま、小さく笑った。

「ですね。でも、もうちょっとだけ、このままがいい」

 その声は、夜のあいだに降り積もったものを、そっと撫でるような響きだった。
 言葉にしなくても分かり合えることがたしかにある。その証を、今、肌で感じている。

「……今日、帰るんだよね」

 思わず出てしまった言葉。問いかけというよりは、自分の心に向けた確認のようだった。

「はい。……午後の便で戻ります。でも。」

 彼の手が私の指先に触れてくる。絡めた指が、きゅっと、小さく力を込めた。

「……また来ますよ、必ず。」

 その言葉がゆっくりと胸に染み込んでいった。約束のようで、祈りのようで、でも、どんな台詞
よりも今なら、信じられる気がした。
 ベッドサイドの時計が朝の7時を指していた。カーテンの隙間から覗く空は、すっかり夜の色を失っていて、淡く、優しく、どこか切なかった。

「……朝って、やっぱり苦手かもしれない」

 私がぽつりと言うと彼は少しだけ目を細める。

「一緒に迎えたら、少しはマシになります?」

 その声に、私は微笑んだ。何もかもが解決したわけじゃない。信じることには、まだ怖さもあった。だけど、それでも今、こうして迎えた朝は、ひとりじゃなかった。だから、きっと、次も乗り越えられる。
 彼の指が静かに髪を梳いていた。細く優しく、まるで一枚一枚の羽根を撫でるような手つきで。額から耳の裏、首筋へとかすめていくその感触が心地よくて私は眠りに落ちる寸前のような意識のまま、何も言わずにまどろんでいた。

「……まだ、起きなくていいですよ」

 すぐ近くで彼の声がした。深くはない、けれど確かに甘い響きで、そのまま私の額にふっと息をかけるようなキスが落とされた。

「ずっと……こうしていたい。」

 その言葉は空気に溶けるようにして、私の耳の奥へと届いた。気のせいかもしれない。寝ぼけていたから、空耳だったのかもしれない。でも私はその声に、胸の奥が、きゅうっと締めつけられるような幸福を感じた。

「ねぇ……」

 私はぼそりと夢のような声でつぶやいた。そのあとの言葉は何も出てこなかったけれど彼の手がそっと私の背を撫でた。

「ん、なん?」
「……ううん」

 ただそれだけのやりとりが、朝の静けさをより深くした。時間は確かに進んでいるのに、二人の呼吸だけがその中心にあって、まるで──世界の終わりと始まりを、ひとつのベッドの中で迎えているようだった。
 私は彼の胸に顔を埋め直して、もう一度だけ深い眠りへと、落ちていった。彼の掌の温度と背中を包む呼吸のリズムに守られながら。


 *


 彼の剛翼の赤い背中を見つめながら私はふと、玄関先の壁に視線を移した。
 さっきまでいた寝室の空気とは打って変わってここは現実がきっちりと、姿を取り戻している。それがわかっていてもすぐにさよならを言いたくなかった。彼は、ブーツを履きながらも、ちらとこちらを見ては視線を外して、また靴を履くのに集中する。その指先の動きが、少しだけゆっくりなのが愛しかった。

「……あのさ、」

 不意に声が出た。出そうとしたわけじゃなく、胸の奥からほどけたように言葉が浮かんできた。

「こっちに来るとき……うちに泊まったら?」

 彼の手が止まった。そして、ゆっくりと、顔を上げる。

「え……?」
「毎回ホテル住まいも大変かなって思って……。それだけ、なんだけど……」

 言ってしまってから恥ずかしくなった。でも、伝えたかった。また来てほしいなんて素直に言えるわけもなくて私はその代わりに鍵のない提案を差し出したのだ。彼はしばらく黙って、それから笑った。ほんの少し安心したように、くしゃりと目尻を下げて。

「……はい。じゃあ──お言葉に甘えても、いいです?」
「うん。来るとき、ひとこと言ってくれたら……鍵、用意しとくよ」

 音も立てずに立ち上がった彼はゆっくりと私の頬に手を伸ばした。指先で、髪を耳にかける動作ひとつすら丁寧で、また胸がきゅう、と鳴った。

「じゃあ、俺も、ちゃんとひとつ約束します」
「……なに?」
「次に来るとき、ただ会いたくて来るんじゃなくて……ずっと一緒にいたいって、言えるように、なってる」

 私は、喉の奥がかすかに熱くなるのを感じた。やさしい言葉だった。でも、それ以上に、やっと彼が踏み出そうとしていることが嬉しかった。

「……待ってるね」
「うん。また来ます」

 短く交わされたその会話に、何度も約束という言葉を重ねなくても十分だった。それは、きっと信じてもいいと思えるやりとりだったから。
 玄関の扉が静かに開く。外の空気は真っ新で、澄んでいて、まるで二人の前に新しい朝が続いていることを教えてくれるようだった。
 彼が振り返って、いつもの笑顔で小さく右手を上げた。私はそれに、そっと頷き返した。

 今日が、またはじまる。そしてもう、昨日とは違う私たちの続きを創っていけるような、そんな気がしていた。


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