──福岡。

 資料の束に目を落としながら、俺はふっと息を吐いた。福岡の空は高い。東京の空とは、どこか空気の密度すら違うような気がする。いや、気のせいかもしれない。でも、彼女と数ヶ月、一緒の時間を共にして、改めて思ったのだ。この地にも��繋がる場所�≠�、つくろうと──。
 彼女が働く『ヒーロー緊急支援センター』は、東京の中枢に置かれた先進的な拠点だ。だが今や地方にも高度な緊急連携が求められる時代となった。とくにここ、福岡は、ヒーローの活動においても緊迫した現場が日々多く、オペレーションの中核を担うセンター機能がないというのはいつか限界が来る。それを言い訳にしている自分がいることもわかっていた。
 自分の未熟さが招いた彼女との距離。会えない時間、届かない言葉、削れていく信頼……でも、なにかを変えようとするなら自分がまず率先して行動するしかない。

「ホークス。昼休憩、とっくに過ぎとーよ?」

 不意に頭上から降ってきたサイドキックの声に思わず肩をすくめた。

「あっ、すんません。でも今ちょっと燃えてて」
「燃えてて? へぇ、女ん子絡みとか?」
「んー。ま、否定はしないすけどねぇー」

 笑いながら俺は、またペンを取る。ただの贖罪でもなくただの執着でもない。彼女の働く場所を福岡(こっち)にも築くことができたなら……。それが遠くからでも手を伸ばす理由になる気がしていた。


 ──東京。

 いつも通りの、ヘッドセット越しの声。流れていく通信ログとモニターに並ぶ数値の列。管制盤の向こうでは仲間たちやヒーローたちの声が交錯していた。けれど、今日の私はなぜだか、何度もデスクの片隅に置かれたスマートフォンに視線を向けていた。

『次に来る時、ただ会いたくて来るんじゃなくてずっと一緒にいたいって言えるようになってる』

 あの日、彼が最後にくれたその言葉を私は今もずっと頭の中で反芻している。それでも、彼から届くメッセージは、この数日、どこか落ち着いていた。私はまるで何も気にしていないような顔をしているその裏で気持ちはどこかでずっと構えていた。もしも突然また彼が現れたらどうしよう。もしもあのときよりも、もっと真っ直ぐな言葉ではっきりと気持ちを投げかけられたら——私は、すべてを捨ててでも彼のもとへと身を委ねてしまうんじゃないか……そんなことを、馬鹿みたいに考えていた。だから、これではいけないと思ったのだ。
 セクシー女優とのスキャンダル騒動に心をかき乱されていたあの騒々しい日々の末、どうにか、仲直りのような形には落ち着いた。けれど、心も身体もどこかに小さな疲弊を抱えていた私はある晩、彼にこんなふうに提案をしたのだった。

『しばらくは落ち着いた時間のなかで、ゆっくりお互いを見つめ直せたらって思う』

『焦らずに、ちょっとずつ歩幅を合わせて、心に余白を持てる距離で付き合っていけたら嬉しいなって、思ってる』

 今はほんの少しだけお互いの時間も大切にしながらゆるやかに関われたら——そんな想いが伝わればいいと願いながら口にしたはずだったのに、『それって、別れたいってことですか……?』とまるで、この世の終わりを告げられたかのような声音で電話越しに呟いた彼に、思わず慌てて言い直した。

『違う違う!ちょっと疲れちゃったから……もう少し穏やかな気持ちで関われる距離でいたいな、って』

『いまは、少しだけ静かな関係でいたい気持ちがあるの。ちゃんと、向き合いたいからこそ。』

 と──正直な気持ちを伝えた。最終的に彼は、その言葉をきちんと、受け止めてくれた。少なくともそう思えるような文面がその後のメッセージからは感じられた。
 以前のように鬼のようなペースで送られてくるラインはもうない。代わりに、少し拍子抜けするほど控えめな、けれど、不器用な優しさを感じるスタンプや『お疲れさま』の一言だけが、不意に届く。
 彼なりに、きっと、わかってくれているのだと思う。でも、そう思いたい気持ちと確信できない不安が胸の奥で、交互に波打っていた。なのに、どうしてこんなにも気になってしまうのだろう。彼の声も、彼の表情も、思い出そうとすればするほど遠ざかる気がしている。だからその代わりに浮かんできたのは彼が前に言っていた言葉——。

『ヒーロー緊急支援センター、こっちにもつくれたらなって。』

『ちゃんとしたヒーローの連携拠点です。あったらヒーローたちも助かるんで。もちろん俺自身も』

 あのときは、冗談かと思っていた。でも、最近九州支部からの照会がやけに多い気がしている。もしかして、本気で……?

「……ねえ、ちょっと聞いてもいい?」
「あ、名字さん。はい、どうしました?」
「あのさ、これ──福岡からの、調査依頼?」
「ええ。なんか、上から回ってきたんですって。センター機能の設立調査だとかなんとかで……」

 私はモニターに視線を落とす。そこに並ぶ署名の中に、ひときわ見慣れた名前があった。
 ──ホークス……息が詰まりそうになる。あの人はもう自分の言葉で、動こうとしているのだ。私がまだ心を置いたままでいる場所に、手を伸ばそうとしている。なんだか、涙が出そうだった。でも今は泣かないと決めていた。もう一人で泣くのは、いやだから。
 私は気持ちを切り替えもう一度ヘッドセットを耳にかけて、深く息を吸った。

 勤務開始から約三時間。ヘッドセットをかけたまま私は次々と入ってくる通信をさばいていた。
 目まぐるしい現場とのやり取り。地味で根気のいる仕事。でも、私はこの仕事が、好きだった。——と、普段ならセンター奥の室長席に腰掛けているはずの男性室長がなぜか今日は私のすぐ隣に座り、わざとらしく一つ咳払いをしたかと思えばちらりと視線をこちらに投げてよこした。

「……名字、ちょっといいか?」
「……? はい、大丈夫です。」
「上から九州のヒーロー緊急支援センター設立に関しての視察協力の打診が来ているんだが」
「は、はぁ……」

 話のあまりのスケールの大きさと唐突な内容に書類をまとめていた手が思わず止まった。室長はこちらの反応にはお構いなし、といったふうに、目の前のモニターを指でぽんと示しながら、ぶっきらぼうに言葉を継いだ。

「ほら、これ。派遣メンバーの、候補リストだ。お前の名前が入ってるぞ。しかも個人指名でな」
「……え?」

 一瞬、言葉の意味がのみ込めなかった。自分の耳を疑ったほどだ。室長は私の顔を一瞥しながら画面を覗き込もうとする私に見やすいようにパソコンをこちらに少しだけ寄せてくれた。たしかにそこには、自分の名前があった。そしてその横にずいぶんと見覚えのあるヒーロー名が──。

「どうやら、向こうを拠点に活動をしいてるヒーローの——って……ホークス? ああ、彼か。」
「……」
「ほら、あのぉ〜派手な……赤い羽根の個性の」
「知ってます、それくらいは」

 思わずやや強い口調で遮ってしまった。室長は少し目を細めたあとふっと笑いをこらえるような表情になりながら続ける。

「ま、やましい意味とかじゃあないと思うぞ?」
「……」
「彼がこっちにいたころ、お前よく、応対してただろ? その流れかもしれないな」

 ��やましい意味��——なんて。そんな風に言われてしまうと、逆になんだか意識してしまう。

「実務的な連携実績があるオペレーターを希望、って……向こうのコメントにも添えられてるな」
「……」
「トップヒーローからの推薦だ。ここは、ありがたく思って、引き受けてもいいんじゃないか?」
「い、いやぁー……それは、どうなんでしょう」

 ──実務的な連携、ね……。確かによく連携はしていた。救助現場、突発任務と、数えきれない通信の中でホークスと私はたくさんの言葉を交わしてきた。でもそれは、仕事上の話で。今はそういう、個人的な事情を思い出す余裕なんて……。

「え、ええと……もし他に適任がいれば、私じゃなくても──」
「なんだ……断るのか?」
「え。」

 その一言に私は、言葉を飲み込んだ。彼がわざわざ福岡の地からこの私を名指しで呼んでいる。あれほど近くにいたはずなのに、心の距離をなかなか埋められなかった日々。やっとの思いで想いが通じ合い、けれどそれからもすれ違いや痛みの連続で。言えなかったことも、離れていた時間もすべてを越えてようやく彼はまたこちらへと歩み出そうとしている。

「……いえ。行きます」
「そうか。じゃあ、上にはそう伝えておくよ」

 視線を画面に戻しながらも室長はどこか優しい目をしていた。

「まあ、なんにせよ。顔を合わせたくないなら、福岡行ってもマスクでもしとけよ。あっちは花粉ないらしいからな」
「……ひどいフォローですね、それ。それにいま花粉の季節じゃないですしね」

 そう言って笑ったけれど心臓がずっと落ち着かなかった。絶対の絶対に会うことになるだろう、その事実が、何より現実味を帯びていたから。


 *


 一泊二日の福岡出張の日——。福岡空港の到着ゲートを抜けた瞬間ぱっと視界がひらけた。東京とは違う、湿度を孕んだ匂い。季節の境目を少しだけ後押しするような、ぬるい風が頬を撫でた。

「ずいぶんと、空——ひらけてるのねぇ……」

 隣でそう呟いたのは支援センターの先輩である女性の室長だった。明るくてよく笑う、いかにも出来る女性(ひと)という風情の人だ。今回、私を含めた計五名で福岡の視察業務に派遣されている。もちろん��例のあの人�≠ェ直々に私を指名したなんてことは、誰にも話していない。というか、言えるわけがない。そんなことを言おうものなら、あの軽薄な羽音が頭上からつい聞こえてくる気がするから。

「──ん? あれ、もしかして……ホークス?」

 一人の先輩が到着ロビーの向こうを指差した。視線の先──ガラス張りの出口の前に、ひときわ目立つ赤い羽根。変装もせずあっけらかんとした笑みを浮かべてプロヒーローホークスがこちらに向かって手をブンブンと振っていた。

「えっ……、わざわざトップヒーロー直々のお出迎えってやつですかね?」
「え?まさか私たちの案内係って──あのトップヒーロー、ホークスなの!?」

 ……待て待て待て。なんですか、それは。その青春コメディみたいなノリ……勘弁してほしい。ここってテーマパークか何かじゃないですよね?私たちの目的は��九州の行政視察�≠ナすよねぇ?
 黄色い声を上げながら、浮き足立つ室長と同僚たちがまるでテレビのリポーターのように空港のゲートへとぐいぐい進んでいく。私はその背中を見送る間もなく半ば呆然としたまま、その勢いに巻き込まれていた。気づけば五人の視察チームの一員として、まるで磁石に引き寄せられるように否応なくホークスのもとへと足が向かっていた。

「どーもー! お忙しいとこ、わざわざ福岡までありがとうございますっ」

 あいかわらずの調子だ。敬語なのか砕けた口調なのかその絶妙なバランスの言葉が耳に馴染む。思わず笑いそうになってしまうのは悔しいけれどきっとこれは、慣れのせいだろう。

「いや〜、来てくれるって聞いて、つい空飛んできちゃいましたー」
「……それ、比喩じゃないんですよね」

 先輩が感心したように笑うのを聞きながら私は少しだけ、彼に目を向ける。すると、その視線がぴたりと、私にだけ絡んできた。

「あと——個人的にも、名字さんに会えて嬉しいですし」

 ──やめて。慣れない名字呼びが逆に匂わせている感じになっていて、大変いたたまれない。
 言外の意図をひた隠しにしていたはずの一文が地雷のように、目の前で点滅した。私はすかさず上司や同僚たちの目を気にしながら彼にだけ分かるような視線を送る。この場で私たちの個人的な関係性を匂わせるような真似をしたら、あなた、飛べる羽根があっても社会的に堕とすよ?という愛情と殺意を込めた眼差し。すると彼はまるで、「へへ、ごめんね♡」と言いたげに片目を瞑って小さく笑った。ああこれは絶対に懲りていない。
 ほんの一拍遅れて頬が火照るのを感じて、私は急いで顔をそらした。

「──では、ご案内しますねぇー。あっ、スーツケース、俺が持ちますよ」
「いえ、自分で──」

 思わず口をついて出たその言葉を、慌てて飲み込んだ。

「いいですってー。俺、荷物持ち、得意なんで」

 どこか誇らしげに言いながら彼は全員分のキャリーケースを剛翼一本ずつでひょいと持ち上げてみせる。けれど私のキャリーだけは当然のように自分の手で引いていた。何の迷いもなく、まるでそれが当たり前だというように。
 ほんと……やめてくれないかな。その��俺たち付き合ってます感�≠�出すの。もはや、これは、匂わせどころの騒ぎじゃない。ハッピーオーラがだだ漏れしている気がするんですが……?

「それじゃあ……出発しましょうか。」

 そんな一言がどこか小旅行の始まりのようで。けれど、これはあくまでも仕事。視察。職務上の連携。そう、あくまでも──。
 その道すがら私はずっと彼の後ろ姿を見ながら自分の歩幅を無意識に、彼に合わせていることに気づかぬふりをしていた。


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