平日の午後。通いなれたカフェのカウンターは午後の陽差しでほんのりと温まっていた。ドアのベルが鳴るたびに、ラテの香りが空気を揺らす。
私の立つこの場所は季節に関係なく、ほっとする空間だった。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
きょうも変わらず、同じフレーズを繰り返す。
けれどその午後ドアの向こうから入ってきたのは見慣れない影だった。
やや乱れた長い黒髪、だるそうに伏せた目元。首に巻かれたスカーフらしき布がゆるく揺れる。だが、どこか、見覚えのある顔だった。けれど、彼は私を見ても何も言わない。ただ無言でメニューを見上げて、ひとこと、こう呟いた。
「……ブレンド、ホットで」
どこか眠たげなその声に、胸の奥がきゅうっとなる。間違いない。この人は、あのときの──。
「……ご用意しますね。ごゆっくりどうぞ」
抑えた声で注文を受けながらも、内心は大きく揺れていた。相澤……先生。彼が『先生』になるずっと前。私がまだ無個性というだけで、世界に背を向けられていた頃。泣いていた私の前に彼は立っていた。
��君の全部が個性なんて一つで測れると思うな��
その言葉が世界でいちばん温かかった。けれど彼はもう覚えていないのだろう。私の顔にもあの言葉にも、記憶のかけらさえ残っていない。
でもそれから数日。彼はなぜか毎日同じ時間にカフェへやってくるようになった。
「また……いらしたんですね」
私がそう言うと彼はカップを持ったまま、少しだけ目線を上げた。
「……悪いですか」
「い、いえ……むしろ、嬉しいです」
「そうですか」
不器用な会話。だけどほんの少しだけ私の胸の奥が、ほぐれていく。
彼は気づいていない。私がどれだけ彼の言葉に救われて生きてきたかを。この世界でただ��無個性�≠ニして存在していた私が生きようとした理由の一つが彼だったことに。そして私は知らない。彼がなぜ突然、このカフェに通い始めたのかを。
けれども、ゆっくりと時間は動き出していた。止まっていた過去が二人の現在に繋がろうとしていた。
まばたきのあいだに、すれ違った記憶が、また出会うようにして──。
*
「──また来たんですか?って、顔ですね」
カウンター越しに、彼女が笑った。やわらかい目元。言葉は軽やかだが距離を保つように微かに揺れている。俺はそれを見て言い訳のようにコーヒーを口に運ぶ。
理由なんてはっきりしていない。ただ、なんとなくこの場所に引き寄せられた。最初はたまたまだった。深夜までヒーロー科の仕事に追われて、ようやく、人の少ない時間に立ち寄れる喫茶店を探していた。そこでこのカフェを見つけた。ただそれだけだったはずだ。けれど──初めてカウンターに座ったとき、彼女の声を聞いたとき何かが引っかかった。
『ようこそ』
『いらっしゃいませ』
それは日常のどこにでもある挨拶のはずだったのに胸の奥が妙にざわついた。
……どこかで、聞いたことがある。それも昔。ヒーローとしての道をまだ夢のひとつとしてしか見ていなかった頃の、ずっと遠い過去。なにかを守ろうと決めた頃の記憶に、かすかに触れた気がした。
……なんだ? いつの記憶だ……?覚えているようで、思い出せない。目の前にいる彼女を見ていると胸がチクリとする。懐かしい痛みのようでけれど、記憶には引っかからない。
──泣いていた、少女の顔……。手を差し伸べた記憶はある。だがその子がどんな声だったのかどんな表情だったのかまるで霞がかかっている。それでも今、目の前の彼女の瞳を見るとその曖昧な記憶が疼く。
「……ブレンド、ホットで」
今日も同じ注文を告げる。彼女は慣れた手つきでコーヒーを淹れながら、視線を合わせない。
俺のことをどこか知っているような目だった。最初に来た時からあの目だけは変わっていない。俺が気づいていないことに彼女は気づいている。そんな、沈黙の会話。
……もしも。もしも、彼女が��あの時の少女�≠ネら。俺は忘れてしまっていて、彼女はずっと、覚えていたとしたら。
「……悪い」
小さく呟いてみても届くはずはない。まだ何も確かじゃないのだから。ただ、目を閉じればあのときの声が、今の彼女の声と重なる気がした。
『ありがとう』
泣きながら言っていた、小さな声──。俺は、もう少しここに通い続けるだろう。思い出せないままでも。彼女が何者なのかを知るために……。まばたきのあいだに見失った面影が、もしここにあるのなら。
*
「……今日は、早いですね」
朝の空気がまだ澄みわたる時間。オープンしたばかりのカフェに、彼は現れた。いつものように黒い服をまとい静かに腰を下ろすと、差し出したコーヒーの湯気がその無口な横顔に、やわらかく溶けていった。
彼──相澤先生は相変わらず無愛想で、けれどどこか、このカフェの雰囲気に、馴染んでいた。
「仕事前にちょっとな。……眠気覚まし」
ぼそりと呟く声に、私は思わず笑みをこぼす。
「相澤先生でも授業前に、眠たくなるんですね」
彼の眉がぴくりと動いた。��先生�≠ニ呼ばれてわずかに反応したのがわかった。
「なんで俺が……教師だって、知ってる」
(あ……)
軽くなりすぎた舌が失敗を告げる。思わず作りかけだったラテのカップを持った手を止めた。
「……あの、ごめんなさい。雄英の生徒さんが、たまに来るので……名前を聞いたことがあって」
「ふぅん……」
彼はそれ以上、詮索しなかった。ただふっと、視線を落とす。沈黙。でもその沈黙は、不思議と心地悪くはなかった。まるでそこに、何か確かなものが横たわっているようで。
「……名前」
と、唐突に、彼が言った。私はわずかに、目を見開く。
「君の名前、聞いてなかったな」
胸の奥がきゅうと鳴る。どうしてそんな言葉がこんなに温かく感じるんだろう。
「……名前、です。名字、名前。」
思わず差し出した胸の名札のプレートを彼は、静かに見つめた。一瞬、なにかを思い出すようにまばたきをして、そして小さく呟く。
「……名前、か」
それは記憶の底に触れたような声だった。思い出しているのかいないのか。どちらとも言えないけれど、たしかに優しい声音。あの日、手を差し伸べてくれたときの声と、重なった気がした。
「……いい、名前だな」
「……あ、ありがとうございます」
それ以上、彼は何も言わなかった。けれどその日を境に彼がコーヒーを飲み終わるまでの時間がほんの少し長くなったことに私は気づいていた。
静かに流れていく朝。交わされる言葉は少なくとも、たしかに何かが、変わりはじめていた。
まばたきのあいだに時がゆっくりと巻き戻る。二人の過去と現在が静かに、確かに──重なっていく。