海辺をあとにした二人を乗せてホークスの車は夜の街を静かに走っていた。車内には、ラジオも音楽も流れていない。それでも、沈黙は気まずくなく、信号待ちのたびに交わす他愛もない会話やふと視線が合って笑い合う時間が、その静けさを心地よいものへ変えていた。
街の灯りは、窓ガラスを流れるように、後ろへ遠ざかり、やがて車は落ち着いた住宅街へ入る。高層マンションでも、豪邸でもない、ごく普通のマンション。その前の駐車場で、車がゆっくりと停まった。どうやらここがホークスの暮らす場所らしい。彼女にとっては、初めて訪れる部屋だ。
最終決戦の前も、面会を重ねていた頃も、この場所へ足を踏み入れる日は来ないものだと思っていた。それだけにエンジンが止まり静寂が車内を包んだ瞬間、小さく胸が高鳴る。ホークスはシートベルトを外すと、彼女へ目を向けて、柔らかく笑った。
「着きました」
二人で車を降り、エントランスへ向かう。彼はオートロックへカードキーをかざしながら、いたずらっぽく横目で彼女を見た。
「ただいま、って言ってくれても、よかですよ」
「いや、今日は初めてだから。心から、お邪魔します!」
彼女は首を大きく振ってそう言った。その律儀すぎる返事にホークスは思わず眉を下げて小さく吹き出す。
「そこは素直なんですね」
「騙されないよ?」
「何がです?」
「ホークスのペースに流されること」
くすりと笑いながら言われ、ホークスは、肩をすくめながら「何も騙してなかですけどねぇ」と独り言のように呟いた。
エレベーターを降りて、部屋の前へ辿り着く。カードキーを翳し、ゆっくりと扉を開けると人感センサーが反応して、リビングの照明がふわりと灯り、柔らかな光が室内を包み込んだ。生活感はあるのに、不思議なくらい、整った部屋だった。テーブルの上には余計な物ひとつ置かれておらずソファには、皺ひとつない。キッチンも、綺麗に片付き、流しには洗い物すら残っていなかった。彼女が部屋の中を見回していると、ふとキッチンカウンターの上に視線が止まった。そこには未開封の歯ブラシが二本、並ぶように置かれている。
「ねえ?」
振り返りもせずに声をかけると、背後でジャケットを脱いでいたらしい彼の動きがぴたりと止まった。肩がわずかに揺れて、視線が泳いでいる。その反応だけで、何か心当たりがあるのだとわかってしまった。
「……はい?」
「歯ブラシ、二本あるよね」
「あー......あれは、その......予備です」
「女の子を、ここにあげてたんだ?」
ホークスは「え」と一瞬だけ目を丸くしたかと思うとすぐに勢いよく「違います!」とぶんぶん首を横に振り、激しく抗議した。
「上げとらん!それは、名前さん用に——」
そこまで言って、ぴたりと固まる。しまった。はっきりと、そう顔に書いてあった。彼女は数秒ほど黙ったあと、じわじわと口元を緩める。ホークスはその表情を見て、静かに天井を仰いだ。
「……もう、今日は何言っても墓穴掘る気がしてきました」
「うん、そうだね」
くすくす笑う彼女に、ホークスは諦めたように息を吐き、観念したように肩を落とした。
「全部バレとるならもう隠す意味もなかですね。タオルも枕も、用意してあります」
「それで、よく私からの初エッチ断れたね?」
「……まだ引っ張るんですか、それ」
ぐさり。容赦なく急所へ刺さる。弱々しい反論だった。それでも彼女は楽しそうに笑うのだ。
たしかに、言われてみれば、その通りだった。彼女を新しい住処へと迎える準備は何ひとつ欠かさず整えていたくせに、肝心な一線だけは、踏み越えなかった。言い訳のしようもない。もはや、矛盾の塊である。ホークスは力なくソファへ倒れ込んだ。そして額に腕を乗せて、小さく唸る。
「あれは……その……だから、心の準備が……」
「……ふふ、ごめんごめん」
「……」
「ちょっと、意地悪しすぎたね」
彼女は笑いながらソファの前へしゃがみ込む。そのままそっと手を伸ばし、ホークスの柔らかな髪をくしゃくしゃと撫で回した。乱暴でも雑でもない。子どもをあやすようなどこか優しい手つきだった。ホークスは抵抗しない。避けることも、払いのけることもしなかった。されるがまま目を閉じて、その感触を静かに受け入れている。
「……猫、みたいじゃないですか」
「ふふ。気持ちいい?」
「……気持ちよかです」
小さく漏れた声に彼女は笑う。答えた彼の声はとろけるように力が抜けていた。撫でられているのは彼の方なのに不思議と彼女の表情まで穏やかになっていく。部屋を満たす静かな空気が、少しずつ、二人の呼吸を近づけていた。しばらくそのまま目を閉じていたホークスが、不意にぽつりと呟く。
「……ずっと、こうしてほしかったかもしれん」
「もう……また、そうやって」
照れ隠しに手を離そうとしたその瞬間だった。するりと、手首を掴まれる。逃がさないように、それでいて痛くない力で。彼は離れかけた手を、そのまま自分の頭へそっと戻して目を閉じたまま囁く。
「やめんでください」
呆れたように笑いながらも、彼女の指先は再び動き始める。今度は先ほどよりも、ゆっくりと。
髪を梳き、頭を撫でるたび、ホークスの肩から少しずつ力が抜けていく。翼を失ってから誰かへこんなふうに体重を預けたことはおそらく一度もなかった。守る側でいる事が当たり前だった男が何も構えず身を委ねている。その穏やかな横顔を見つめているうちに彼女の指先まで自然と優しくなっていた。彼の瞼は重たそうにゆっくりと伏せられ、やがて規則正しい呼吸が静かな部屋へ溶け込んでいく。
「私……帰るよ。ゆっくり休んでね」
その一言が耳に届いた途端だった。浅い眠りへ落ちかけていたホークスの瞼が、弾かれたように開く。焦点を結ぶより先に、「帰る」という言葉だけが頭へ飛び込んできて、眠気など跡形もなく吹き飛んだ。
「なんで。帰らんで」
勢いよく身を起こした拍子に、彼女の身体が、ふらりと後ろへ傾き「えっ、わっ」と小さな声が漏れた。考えるより先に、腕が動いていた。ぐらついた彼女の体を抱き留める。その一連の動作は翼を失った今でも、身体に染みついた癖のようなものだった。
「危なかぁ……」
胸の奥から零れた安堵の吐息が彼女の髪を微かに揺らす。腕を解こうとはしなかった。むしろ、逃がすまいとするようにほんの少しだけ抱く力が強まる。
「ここに、おってください」
静かな声だった。頼むでもなく命令でもなく。ただ、胸の内をそのまま言葉にしたような切実な響き。
「……うん」
小さく返ってきた頷きだけで十分だった。その返事ひとつで胸を締めつけていた不安がゆっくりほどけていく。抱き締める腕からも、張り詰めていた力だけが少しずつ抜けていった。それでも、離すことだけはできなかった。部屋には、静かな空気が流れている。エアコンの運転音と、遠くを走る車の音だけが夜が更けていくことを知らせていた。
「あ、あの……」
「はい」
「そろそろ、離してもらっても……?」
遠慮がちにそう言われても、ホークスの腕は、素直に従わない。逆に抱き締める力がさらに強くなる。そして返す答えは、拍子抜けするほど率直だった。
「……まだ嫌です」
「いや。これさ……心臓に悪いよ」
「心臓?」
不思議そうに首を傾げたホークスは、ためらいなく、耳を彼女の胸元へ寄せた。鼓動が忙しなく打っている。耳越しにもわかるほど速い。思わず目を丸くしたホークスの口元がゆるりと綻んだ。
「……ほんとだ。速すぎる男並に」
「もう……言わないで」
そう言って、恥ずかしそうに顔を逸らす彼女を見上げて、ホークスは少しだけ目尻を下げる。
「嬉しか……」
それは飾り気のない一言だった。彼女は一瞬、息を詰めて、それから呆れたように笑いながらもそっと手を伸ばして、彼の柔らかな髪へ指を差し入れる。ゆっくりと梳くように撫でられるたび、ふにゃりとホークスの表情が溶けていく。気持ちよさそうに細められた黄金色の瞳は仕事中に見せる鋭さとはまるで別人だった。公安委員長として人前に立つ男でも、かつて、日本中を飛び回ったトップヒーローでもない。好きな人に甘えることを覚えた、一人の青年だった。
彼女の指先は髪を撫で続ける。そのたびに彼は安心したように小さく息を漏らし、彼女へ体重を預けていく。翼を失ってから自分の重さを誰かへ委ねることは、ほとんどなかった。だからこそ、この何気ない温もりが胸の奥へ静かに染み込んでいく。
「名前さん」
「はい」
「今日は、泊まっていってください」
腕の中へ閉じ込めたまま、胸元へ落ちるような小さな声でそう告げた。時計の秒針が規則正しく時を刻む中、今、この瞬間、部屋を満たしているのはその音と、寄り添い合う二人の穏やかな呼吸だけだった。
「……えっと、お風呂」
その返事を聞いた瞬間、ホークスは、弾かれたように彼女を離す。そして、返事を待つ間もなく「沸かしてきますっ!」と、ぱたぱた足音を響かせてバスルームへ駆けていく。その背中を見送りながら、彼女は思わず吹き出した。
「……速すぎる男だ」
浴室の方からは、給湯器の操作音が続けざまに鳴る。棚を開け閉めする音からタオルを引っ張り出す音、何かを思い出して、また戻る足音。静かだった部屋が、急に生活の気配で満ちていく。
拒まれなかった。その事実だけで、彼の世界は十分すぎるほど明るくなってしまったのだろう。リビングに一人残された彼女はそんな慌ただしい物音へ小さく笑みを零しながらゆっくりと室内を見回した。改めて眺める部屋は、持ち主の性格を映したように、よく整えられている。必要以上に物は置かれていない。それでも、温度がある。
ソファには小さなクッションが一つ。ローテーブルの隅には読みかけらしい本が伏せられ、キッチンには洗い立てのグラスが逆さに並んでいた。その、何気ない生活の跡を目で追っていた彼女の視線が、ふと、テーブルの片隅で止まる。小さな写真立てだった。今まで気づかなかった。彼女はそれを、そっと手に取る。収められていたのは、一枚のスナップ写真だった。面会室で撮られた、ホークスと彼女の写真。まだ、彼女が収容施設にいた頃。差し入れのお菓子を前にホークスだけが無邪気にピースをしていて、隣の彼女は少しだけ困ったような顔をしている。それは特別な記念日でもなければ劇的な出来事があった日でもない。思い出そうとしなければきっと記憶の底へ沈んでしまうような、ありふれた一枚だった。それを、この人は飾っていた。彼女は、写真立てを両手で包み込むように持ち、しばらく静かに見つめ続ける。その横顔へ、廊下から、軽い足音が近づいてきた。ホークスが、ひょこりと顔を覗かせる。
「お風呂、あと五分くらいで——」
言葉は途中で止まった。彼女が写真立てを手にしていることへ気づいたからだ。一瞬だけ視線が泳ぐ。
「……見つかっちゃいました?」
そう言って照れ隠しのように頬を掻いて、彼はドアにもたれたまま、困ったように肩をすくめて小さく笑った。
「これ……撮られたことすら忘れてた」
「うそぉ? 俺は忘れとらんかったですよ?」
「......そもそも、こういう写真ってスマホの中で埋もれていくような一枚じゃない?」
「あー......」
「私も、全然笑えてないし」
彼女が手に持ったままの写真へ視線を落とす。ホークスはそんな彼女を見て、ゆっくり首を横へ振った。
「それがいいんですよ」
「……」
「俺は、この顔好きですけどね」
そう言って彼女の前まで歩み寄ると写真立てを壊れ物でも扱うような手つきで彼女の手の中からそっと受け取る。その小さなガラス越しの二人を見下ろしながら、ホークスは目を細めた。
「作り笑いより、こういう顔の方が本物なんで」
「……」
「この頃はまだ、名前さんが、俺のヒーロー名を呼んでくれるだけで、嬉しかったけん」
過去を愛おしむように浮かべた笑みの裏側で、その眼差しだけが、どこか遠く、戻らない時間を惜しむような寂しさを湛えていた。
「面会の日だけが、楽しみだったんですよ。今日何話せるかな、とか。今日は笑ってくれるかな、とか」
「……」
「帰る頃には、次の面会まで何日あるか無意識に数えとったし」
さらりと口にしたその言葉は、どれも飾り気がなかった。だからこそ、彼女の胸へ静かに落ちていく。
「写真って、不思議ですよね」
「……不思議?」
「ええ。その日その日は大したことないと思っとっても、あとから見返したらちゃんと幸せやった証拠になってる」
柔らかな声だった。相変わらず写真の中では、少し困った顔をした彼女と満面の笑みを浮かべた彼が並んでいる。あの頃はまだ、その先にこんな夜が待っていることなど二人とも知らなかった。
ホークスは写真から彼女へ視線を移すと、照れ隠しのように笑って、また肩を竦めてみせた。
「ねえ……せっかくやし」
「ん?」
「次からは、ちゃんと二人で笑っとる写真、増やしていきましょ」
ホークスはそのガラス越しに写っている彼女の横顔を指先で、そっとなぞった。
「この顔、俺しか知らないんですよ」
ホークスは、そのまま彼女の手の中にその写真立てを戻した。そして、視線を向けられた彼女は戻された写真を覗き込み、小さく息を吐いた。
「……確かに、この鬱陶しそうな顔はホークスにしかしないかも」
その一言にホークスの表情が目に見えて曇る。「鬱陶しそう……」と繰り返された声は情けないほど、傷心を抱えていた。
否定したいところだが、写真の中の彼女の顔を改めて見返してみれば、本人からのその言葉には反論のしようもない。それでも彼は小さく咳払いを一つして、気持ちを立て直した。
「……まあ、特別っちゅうことですね」
「うん。そういうことにしておこうかな」
ホークスは満足そうに目を細めると写真立てを彼女の手の中から引き抜いて、元の場所へ丁寧に戻した。そして、穏やかな口調のまま続ける。
「……よし。お風呂、沸きましたよ」
「あ、ごめん……。ありがとう。シャワーだけで十分だったのに」
「いえいえ。ちゃんと湯船に浸かってほしかったけん。海風、思ったより冷たかったでしょう」
「ほんと、優しいね」
彼女は少しだけ照れたように笑う。その言葉にホークスは視線を逸らして肩を竦めた。そして、もごもごと言葉を返す。
「そんなん、普通ですよ」
ホークスはそのまま彼女と目を合わせず、促すように廊下の奥へ手を向けた。しかし、耳だけがほんの少しだけ赤かった。彼女はあえてそこには触れずに立ち上がった。
「……じゃあ、お先にいただくね」
「突き当たり右です。バスタオルと着替え置いてあるんで」
「はーい」
軽い返事と共に彼女が廊下の奥へ消えていく。浴室の扉が閉まり、やがて、シャワーの音が流れ始めた。さっきまで、二人で笑っていた部屋が、不思議なくらい静かになる。ホークスはゆっくりとソファへ腰を下ろした。背もたれへ身体を預けても落ち着かない。両肘を膝へつき、組んだ手へ額を押し当てる。深く息を吸っても、肺の奥まで熱が残っていた。
今日一日の出来事が順番もなく頭の中を巡っていく。海辺で、彼女が流していた涙。震える声。「離れたくない」と、縋るように零したひと言。そして、不意打ちのように触れた唇の感触——。思い出すたび胸の鼓動だけが少しずつ速くなっていく。公安委員長として人前では崩さないはずの冷静さは、彼女の前では、あまりにも脆かった。
「やっば……参ったな」
ホークスは不意に天井を見上げ小さく笑った。掠れた声が、静かなリビングの中へ溶けていく。
「余裕あるふりなんか、もう無理ばい……」
その独り言は、誰にも届かないまま静かに消えた。しばらくして、水音が止まる。部屋の静寂が一段と濃くなり、ホークスは反射的に背筋を伸ばした。脱衣所の扉が開く気配がして、思わず視線だけがそちらへ向く。そこには、ホークスが用意していたぶかぶかのTシャツを身に纏った彼女が立っていた。肩口から覗く濡れた髪は、まだ雫を落とし、湯上がりの熱を残した頬は、ほんのりと桜色に染まっている。袖は肘が隠れるほどで丈も膝近くまであるせいで余計にその華奢さばかりが目についた。
その姿を目にした瞬間に、ホークスは弾かれたようにソファから立ち上がった。喉が焼けるように熱い。心臓は、さっきまで海辺を一緒に歩いていたときよりも速く脈打っていた。ゆっくりと、一歩、また一歩。吸い寄せられるように、距離を縮める。彼女が、小さく首を傾げる頃には、もう手を伸ばせば届く場所にいた。
「名前さん」
ひどく声が掠れていた。しかし、無防備な瞳で「ん?」と、返してきた彼女の声を聞いた途端、それまで張り詰めていた理性の糸が危うく軋む。
ホークスは、苦しげに目を伏せて、小さく息を吐いた。
「……俺、もう」
そこで、言葉を探すように唇が止まる。そして自嘲気味に笑った。
「『ちゃんとする』なんて、格好つけたことは、言えんかもしれんです」
「……」
「優しくできる自信も……正直、あんまりない」
その本音を口にした途端、彼は自分自身に呆れたように眉を下げた。そのまま彼女の細い首筋に顔を埋め、理性をかなぐり捨てた深い呼吸を吸い込む。震える指先がTシャツの裾に潜り込み風呂上がりの熱を持った彼女の柔らかな腹に触れた。
「……嫌なら、今、俺を突き飛ばしてください」
「……」
「逃げるなら今しかないですよ。一度触れたら、もう、死んでも離さんけん」
けれど、次の瞬間、彼女は抵抗するより先に、困ったように笑って、小さく首を傾げてみせた。
「えっと、ホークス……?」
「はい」
「その前に、ホークスもほら、お風呂……」
ぴたり、と動きが止まった。数秒。部屋の空気ごと静止したような沈黙が流れる。
やがてホークスの瞳がゆっくり見開かれ、耳の先まで、一気に赤く染まった。それは、自称——遺伝らしい赤面症などではなく、ただの純粋な、羞恥だった。
「……あ」
そこでようやく思い出したらしい。海風を浴び砂浜を歩き回り、彼女を抱き締めて、ここまで、帰ってきたことを。潮の匂いが、今さらになって自分から漂っている気がした。
ホークスは、後頭部をがしがしと掻きながら、一歩だけ、彼女から距離を取る。
「……すんません。浮かれすぎて、自分が海帰りやったこと、きれいさっぱり忘れてました」
それは、情けないほど素直な声だった。彼女は思わず堪えきれずに吹き出す。
「海帰りって……そんなに砂まみれじゃないよ」
「いや、十分です」
「そう?」
「これは普通に先、風呂ですね」
今度は、自分で自分に駄目出しするように肩を落とした。さっきまでの危うい熱はどこへ行ったのか。耳の先まで真っ赤にしたまま逃げるように浴室へ向かう背中はなんというか、ひどく滑稽でなんとも、締まらない。しかし彼女にとっては、その姿こそが、どうしようもなく愛おしかった。
バタン、と勢いよく扉が閉まる。その直後にはシャワーの水音が、リビングまで響き始めた。
「名前さーん!」
ほどなくして、浴室の向こうから、慌ただしい声が飛んでくる。彼女は、思わず振り返る。
「ドライヤー、洗面台の下です! あと冷凍庫にアイス入っとるけん、食べてよかですよー!」
どうにか平静を装おうとしているのが、その声だけで伝わってきた。先ほどまであれほど余裕を失っていた男と、本当に、同一人物なのかと思うほどだった。しかし、その直後。水音に紛れて、小さく何かを呟いている声が壁を伝って響いた。
「……何しよったん俺。とにかく落ち着け、落ち着け……」
声のボリュームが調整できていないのか、一人反省会が筒抜けである。彼女は思わず肩を震わせ小さく笑った。リビングには再び静けさが戻る。一人になった途端、先ほどまでのやり取りが少しずつ現実味を帯び始め、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなった。とりあえず、気持ちを紛らわせようと、洗面台からドライヤーを取り出して髪を乾かす。温かな風が耳元を撫で、少し湿っていた髪がさらりと肩へ落ちる。終わった後はそのまま何となく、窓辺へ歩み寄ってみた。ガラス越しに見える夜空は街明かりに霞み、満天の星とはいかなかった。それでも、雲ひとつない空にはかろうじて、オリオン座の並びが浮かんでいる。冷えた窓ガラスへ指先を添える。
静かな夜だった。浴室からは、まだシャワーの音が続いている。おそらく今ごろ彼は、熱くなりすぎた頭を冷やしながら、必死に、平常心を取り戻そうとしているのだろう。そんなことを考えているとふとベランダの隅が目に入った。室外機の横には、小さなプランターが一つ置かれている。植えられていたのは、ミントだった。葉先は少しだけ色を失いかけていて、それでも完全には枯れきってはいない。忙しさに手入れが追いつかなくても、捨てることだけはできなかったのだろう。どこか彼らしい不器用な優しさがそこにも残っている気がした。
そのときだった。浴室の方から、がたん!と、何かが倒れる音が響く。続いて「っ……痛っ!」と、情けない声が漏れた。彼女は、反射的に振り返る。開け放したままの脱衣所から白い湯気だけが、ゆっくりと流れ出してくる。何をやらかしたのかは見えない。けれど、慌てて足を滑らせたであろう、元ナンバーツーの姿だけは、不思議と、はっきり頭の中に浮かんでしまっていた。
「大丈夫ー?」
少しだけ声を張ってみる。浴室の向こうでは、数秒の間があってから、返事が返ってきた。
「だっ……大丈夫でーす。何もなかですよー!」
どう聞いても、「何もない」声ではなかった。彼女は思わず口元を緩める。それからさらに五分ほど経った頃、彼女はベランダに出ていた。シャワーの音は止み、今度はドライヤーの低い唸りが響き始める。あの黄土色の髪は短く見えて意外と量が多い。乾かすだけでも、それなりに時間は、かかるのだろう。その音さえ止むと部屋は一気に静寂を取り戻した。
やがて、廊下から足音が聞こえる。軽い足取りなのに、どこか慎重だった。一歩ずつ様子を窺うその歩き方は、敵地へ踏み込む前のヒーローそのものだ。部屋着の襟元を落ち着きなく整えながらまだ少し濡れた前髪の隙間から、リビングを覗き込むホークスが姿を現した。そして、ベランダへ立つ彼女を見つけた瞬間、一度、足が止まった。夜空を見上げる横顔。自分のTシャツを身に纏い乾いた髪を肩へ落として静かに柵へ寄り添うその姿は不思議なくらい自然だった。まるで、ずっと前から、この部屋で、暮らしていた人のように。あるいは、この場所が��帰る場所�=Aそのもののように——。
胸の奥が静かに熱を帯びる。何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。そしてようやく絞り出したのは、ひどく他愛ない一言だった。
「……星、見えます?」
隣に並ぶべきか、それともまだ距離を保つべきか。その判断がつかないまま、中途半端な位置で立ち止まっていた。しかし彼女は振り返り小さく笑う。
「うん。……見て。あれ、たぶんオリオン座」
細い指が夜空を指し示す。ホークスもつられて顔を上げた。そして、そっと目を細める。
「ああ……あれ? 街明かりで、ちょっと霞んでますけどね」
そう答えながらも彼の視線は夜空より目の前に立つ彼女へ吸い寄せられていた。星を探しているふりをして、その横顔ばかり見てしまう。そんな自分に気づいて、小さく苦笑する。そして、ゆっくりと、もう一歩、歩み寄った。
肩が触れるか、触れないか。そんな距離で立ち止まり、一緒に夜空を見上げたまま呟く。
「東京じゃ、福岡みたいにはいかんですね。冬の大三角とか、もっとよく見えたんですけど」
そのとき、ぽたり、と濡れた毛先から雫が一粒落ち、ベランダの床へ、小さな音を立てた。その音を聞き流しながらホークスは静かに横を向く。
「……さっきは、すみませんでした」
声は驚くほど穏やかだった。突然距離を詰めたことも理性を失いかけたことも、あえて言葉にはしなかったが、その一言へ全部を込めているのが伝わってくる。彼女は、困ったように笑った。
「う……ううん。急に猛獣になったのかな、とは思ったけど」
ホークスはその返しに同じく困ったように眉を下げ、苦笑いを浮かべた。
「否定できんのが、情けないですね」
ホークスはベランダの窓ガラスへ額を預ける。ひんやりした感触が熱を持った額へあたり、逆に心地よかった。それから長く息を吐いてぽつりと零す。
「……ずっと我慢しとったんですよ。面会してた頃から、ずっと」
ホークスの指先が、窓ガラスの曇りをなぞる。意味もなく引いた一本の線は、すぐに白く滲んで消えていった。しかしその視線は、夜空へ向いたままだ。
「触れたくても触れられんで。ガラス越しに笑うしかできない日が、ずっと続いて」
「……」
「……正直、気ぃおかしくなりそうでした」
苦く笑う。夜風が少しだけ吹き込み、レースのカーテンをふわりと揺らした。海辺の潮の香りがまだ微かに残っている。ホークスは、迷うように手を下ろし、ほんの少しだけ、指先を近づけた。小指がそっと彼女の小指へ触れる。重ねるというより、そこにあることを確かめるような、慎重な触れ方だった。
「もう……大袈裟だなぁ」
「……」
「そもそも、この前は拒否された側ですからね」
彼女が笑ってそんなことを言う。ずいぶんと、苦笑混じりの声だった。その言葉に、彼の指先がぴくりと震えて「あれは……」と、口ごもった。あの夜のことが、二人の間へ静かによみがえっていた。
収容施設を出て、初めて迎えた夜。同じ部屋にいながら、ホークスは彼女へ背を向けた。欲しくなかったわけではない。むしろ、その逆だった。大切にしたいと思えば思うほど壊してしまうことが怖かった。ホークスは、夜空を見つめたまま、小さく首を傾げる。
「あれ、多分……人生で一番、きつい我慢やったけん」
言い終えた声は少しかすれていた。彼女は吹き出すように笑う。
「……ほら、やっぱり大袈裟」
その笑顔につられるようにホークスも笑った。そのとき、ふと視線が重なる。自然と、どちらも逸らさなかった。彼女は一歩だけ近づき彼の瞳を覗き込む。
「……やっぱり、向日葵色だね」
その一言にホークスは息を呑んだ。こんなにも近くで見つめられるとは思っていなかった。互いの睫毛が数えられそうなほどの距離で、夜の色を映した彼女の瞳と、それを、真正面から受け止めきれず揺れる琥珀色の瞳が静かに重なっていた。
「向日葵色って……また、それですか」
照れ隠しのように笑う。そんなふうに、自分の瞳を形容された事はなかったと彼女にも、あの日伝えた。思い返せば、実はこれまでにもあったのかもしれない。けれど彼女の口から聞くその一言だけは、どんな言葉とも違っていて特別だった。
向日葵色。それは、色の名前ではなく、自分という存在を、丸ごと受け止めてくれたような響きだった。胸の奥で、張り詰めていた最後の糸が、静かにほどけていく。もう、自分を止める理由はなかった。ホークスの大きな掌が彼女の後頭部へそっと、添えられた。逃がさないためではない。けれど、離したくもない。壊れ物へ触れるようにあの夜とは、まるで違う慎重さで、その温もりを包み込む。
「……今度は、逃げません」
吐息混じりの声が落ちる。彼女は何も答えなかった。代わりにただ静かに瞳を閉じた。その仕草だけで十分だった。ホークスは少しだけ身を屈め唇を重ねる。海辺で交わしたような勢いに任せた口づけとは違う。互いの存在を確かめ合うようにゆっくりと。失いたくない時間を惜しむように。冷えた夜気へさらされていた肌が触れ合うたび、その温度だけが不思議なくらい熱を帯びていた。
唇が離れると静かな余韻が二人の間へ落ちた。だが、次の瞬間——。
「エッチはしません、って宣言したよ?」
止まった。いや、正確には固まってしまった。今日、何度目かわからない静止である。さきほどまでの甘い空気が、見事なまでに切り替わった。ホークスは、ぱちぱちと瞬きを繰り返して、その目を泳がせる。そして「え、いや……」と言葉を探した。
「今の流れって……そういう空気じゃ、なかったですか……?」
恐る恐る尋ねる。それに対して、彼女は小さく首を横へ振った。どうやら、違ったらしい。ホークスは肩から力が抜け、その場で、がくりとうなだれる。「嘘でしょ……」と情けない声が漏れて彼女は、肩を揺らして笑いながら続けた。
「ごめんごめん。これじゃあ、ホークスと同罪になっちゃうね」
「同罪……」
その一言が妙に胸へ刺さる。つまり、あの夜の��前科�≠ヘ、しっかり記憶されているということだ。ホークスは片手で顔を覆い、指の隙間から、恨めしそうな視線だけを向けた。
「……俺、まだ擦られるんですね」
「もちろん」
にっこりと返される。その笑顔が眩しすぎて、ホークスは、まるで勝てる気がしなかった。仕方なく観念したように息を吐くと少しだけ真面目な顔へ戻った。
「じゃあ、一つだけ聞いてもいいですか」
「ん?」
素直に首を傾げる彼女に対して、ホークスは、困ったように笑った。
「……俺、今日どこで寝ればよかと」
切実な問題だった。寝室にあるベッドは一つ。リビングにはソファもあるにはあるが今夜そこへ転がる気など最初からない。彼女は、そんな彼の表情を見つめ、小さく笑みを深める。
「一緒に寝よう、って言ってほしいんでしょ?」
図星を突かれてホークスは思わず目を逸らす。しかし赤くなる耳までは誤魔化せない。それでもできるだけ平静を装った声で言い返す。
「……言って、くれるんですか」
けれど、その奥に滲む期待までは、やはり隠しきれていなかった。人の機微には、誰よりも敏いはずの男が自分の願いだけは隠そうともせずに、こうして素直に待っている。彼女からの一言を。ただ、それだけを——。
街の灯りが夜へ溶け込み薄い月明かりが静かに二人の影を、重ねていた。冬の空気は、少しずつ冷たさを増していく。風呂上がりの湯気もとうに消え、窓ガラスには、再び夜の冷えが戻り始めていた。それでも、二人の間だけは不思議なくらい穏やかな温度が残り続けている。
「啓悟、一緒に寝よう」
不意に、その名前で呼ばれた。初めてだった。その文字が胸の奥へと真っ直ぐ落ちてきた瞬間、ホークスは、思わず息を呑んだ。今まで何度も、「ホークス」と呼ばれてきた。ヒーローとして、公安委員長として、その名はもう自分自身よりも長く纏ってきた仮面のようなものだった。だからこそ、その名前だけは違う。彼女の声で呼ばれたその瞬間、肩から力が抜けて、膝が、崩れそうになる。呼び方が変わっただけなのに、それだけで胸の奥に張っていたものが、一気にほどけてしまった。
彼は、口元を拳で覆い、小さく視線を伏せる。耳の先まで熱い。誤魔化そうにも、もう、誤魔化せる段階ではなかった。
「……ダメでしょ、それは」
取り繕う余裕すら残っていなかった。笑うしかなかった。こんな顔を部下に見られたら、間違いなく噂になる。公安委員長として積み上げてきた威厳など、一瞬で崩れ去るだろう。それでも今はそんなことはどうでもよかった。ホークスは長く息を吐く。胸いっぱいに満ちていた緊張を、ゆっくり逃がしてから、静かに彼女を見つめ返した。向日葵色の瞳が、柔らかく細まる。
「……はい。一緒に寝ましょう」
その返事にはもう、肩書きも建前もなかった。ベランダを吹き抜ける夜風をあとに、二人は吸い寄せられるようにして部屋の中へと足を進める。
サッシを閉める静かな音とともに、外の喧騒は遠のき、促されるまま向かった寝室は思っていたより静かで、ベッドサイドの間接照明だけが淡く灯り、部屋全体を、柔らかな橙色で包んでいる。
カーテンの隙間から差し込む夜の明かりが床へ細く伸び、その静けさだけが、二人がここへ来るまでに積み重ねてきた時間をそっと見守っているようだった。
ダブルベッドの片側には彼女。もう片側には、ホークス。間には、拳ひとつ分ほどの距離。手を伸ばせば届く。けれど、そのわずかな隙間が妙に遠い。互いに仰向けのまま天井を見つめていた。横を向けば目が合う。目が合えばきっと触れたくなる。触れてしまえば、この距離を保つ自信は、どちらにもなかった。だから二人とも、妙に天井ばかり見つめている。静かな部屋には、時計の針だけが小さく時を刻んでいた。やがてホークスが苦笑混じりに息を漏らす。
「……眠れん」
その声に、布団の向こうが小さく揺れた。どうやら彼女も同じように眠れずにいたらしい。ほどなくして寝返りを打つ気配がして、静かな寝室にくすりと控えめな笑い声が溶ける。そのわずかな音だけで、張り詰めていた胸の奥が、じんわりとほどけていくのがわかった。
ホークスはそっと顔だけを横へ向ける。暗闇に目が慣れるにつれ、彼女の輪郭が淡く浮かび上がった。こちらを向いている。ふと視線が重なる。言葉は交わさない。それでも、その沈黙は少しも気まずくなかった。ただ互いがそこにいることを確かめ合うような、穏やかで、静かな時間だけが二人の間を満たしていく。その温もりに気恥ずかしさが込み上げて、ホークスは照れ隠しのように小さく笑い、ゆっくりと視線を天井へ戻した。
「エッチはせんけど、手は繋いでいいですか」
そこまで言い切って、彼は情けなさそうに眉を下げた。彼女はそれを横目に吹き出すようにして布団の中で笑った。
「ふふ……うん、いいよ」
暗闇のなかで、それぞれが、おずおずと指先を伸ばす。探すように動いた手は、ほとんど同時に相手へ触れた。「あ」と小さく笑い合う。指先が重なり、そのまま自然に絡む。ホークスがそっと力を込めると彼女も同じだけ握り返してくれた。それだけだった。抱き締めるわけでもない。別に口づけを交わすわけでもない。ただ、手を繋ぐ。それだけのことなのに胸の奥を満たしていた空白が、ようやく静かに埋まっていく気がした。
ホークスは長く息を吐く。この温もりに触れたかった。ずっと、これがしたかった。面会室の、分厚いガラス越しでは叶わなかったこと。伸ばしても届かなかった距離。ようやく、繋がり合えた小さな手が、その何よりも愛おしかった。繋いだ手は、もう一度も、離したくなかった。
「……横、向いてくれないの?」
静かな寝室に、彼女の小さな声が溶けていく。ホークスは答えない。いや、答えられなかった。隣に彼女がいる。それだけで胸の内は十分すぎるほど騒がしく呼吸が浅くなる。視線を向けてしまえば、せっかく保っている理性まで崩れてしまいそうだったからだ。すると不意に、くすりと笑う気配がした。
「私、ずっとホークスを見てるのになぁ」
その一言で肩がぴくりと震えた。耐えきれず、ゆっくりと横を向いた。思っていたよりもずっと近くに彼女がいた。暗がりの中でもその瞳だけは不思議なくらい真っ直ぐこちらを見つめている。
目が合った瞬間、ホークスはもう一度浅く息を吸い込んだ。繋いだ手に、思わず力が入る。
「……ずっと、見よったんですか」
照れ隠しにもならない声音だった。彼女は少しだけ口元を緩めて「気づいてたくせに」と呟く。その通りだった。布団が擦れる微かな音も隣から向けられ続ける視線も呼吸の間さえも、最初から全部わかっていた。気づいていながら、自分から振り向く勇気だけが、なかっただけだ。
「……バレました?」
ホークスは、隠しもせず観念したように笑う。そんな彼を見て、彼女が小さく頬を膨らませた。
「意地悪」
その言葉に、ホークスは空いていた手をそっと持ち上げる。その指先が壊れものに触れるような慎重さで、彼女の頬へ触れた。温かい。その温度だけで、彼女は胸が締めつけられる。彼は困ったように笑って続けた。
「意地悪なんは、どっちですか」
「……」
「名前さんのほうでしょ」
「……」
「好きって言ってキスまでして、俺の名前呼んで一緒に寝よう、って誘って……」
その声には責める響きなどなく、ただ降参したような甘さだけが滲んでいた。ホークスは、少しだけ眉を下げる。
「それで『手ぇ繋ぐだけ』で終わらせられるのはなかなか酷ですよ」
ホークスは、ゆっくり額を寄せる。こつり、と軽く触れ合う。それだけの距離が、今はひどく、近かった気がした。
「……このまま、朝まで保てる気、しないんですけど」
「もう……危ない距離だもんね」
「ほんとにね」
吐息混じりに零れた本音に彼女も照れたように笑う。彼の声は、どこか力なく、それでいて幸せそうだった。
しばらく静かな時間が流れる。互いの呼吸だけが、夜の寝室にゆっくりと重なっていく。やがて彼女が、小さく呟いた。
「私は……もっと、触れていたい」
その言葉に、ホークスは一瞬だけ目を閉じた。もう我慢は十分だった。繋いでいた手を、そっと離す。その代わりに、ためらいながら腕を伸ばした。許しを確かめるような控えめな動きだった。彼女が拒まないことを確かめてから、そっと抱き寄せる。腕の中に収まる身体は思っていたよりも小さくて、壊してしまわないよう自然と力が抜ける。それでも、もう離したくないという想いだけは、どうしても隠せなかった。彼女の肩へと頬を寄せながら、首筋に鼻先を埋めて、ホークスは、掠れた声で小さく笑う。
「……俺もですよ。もっと、近くにおりたいってずっと思っとった」
「……」
「……全部、触りたい。名前さんの、全部」
抱き締める彼の腕が、ごくわずかに強くなる。胸越しに伝わる鼓動が、自分のものなのか彼女のものなのか、もう区別がつかなかった。それでもその温もりだけは確かで。長い時間をかけてようやく辿り着いた��隣�≠ニいう場所を、この男は、何よりも大切そうに抱きしめていた。
「……でも、決めるのは名前さんです」
触れれば壊れてしまうのではないかという躊躇いと今すぐにすべてを奪い去りたいという焦燥。
その二つの境界線で揺れる指先が、彼女の肌の輪郭を、そっとなぞる。呼吸が交差するわずかな隙間に、互いの鼓動だけが重く響いていた。まだ何一つ始まってはいないはずなのに肉体はすでに引き返せない深みへと落ち始めていた。
ホークスは額を彼女の肩へ預けたまま、小さく息を吐く。
「俺はもう……止まれる自信、なかけん」
その声には、もう余裕も取り繕いもなかった。これ以上踏み込めば戻れないことなど自分が一番よくわかっている。それでも腕をほどくことだけは、どうしてもできなかった。
彼女はしばらく黙っていた。やがてその沈黙をそっと破るように問いかける。
「ホークスの初めて……捧げちゃっていいの?」
ほんの短い静寂。それから肩を震わせるような小さな笑い声が漏れた。
「何、言いよると」
笑っている。けれど、抱き締める腕は、少しも緩まない。耳の先まで赤く染めたままホークスは彼女の髪へ顎を預けて、小さく目を伏せた。
「俺は、とっくに、全部を預けるつもりやったんですけど」
それは一種の告白であり、白旗でもあり、降伏宣言だった。新公安委員長、全面敗北。飾り気のない言葉だった。格好も駆け引きもない。好きになったあの日から自分の心だけは、とうに彼女へ明け渡してしまっていた。
「……啓悟、」
名前を呼ばれる。それだけで胸の奥がきゅっと締めつけられる。返事の代わりに、抱く腕へ少しだけ力がこもった。彼は耳元で照れ隠しも忘れたように、小さく笑う。
「……もう一回、呼んで」
「顔、見て……呼びたいな」
その一言に、ホークスはゆっくり身体を起こした。夜の淡い明かりが、互いの輪郭だけを浮かび上がらせる。
見下ろす形になった彼女と、目が合う。前髪が額へ落ちて、普段の飄々とした笑みは、どこにもなかった。そこにあるのは、恋をしてしまった、一人の男の顔だけだった。ホークスは、どうすることもできずに、困ったように笑う。
「……あんまり見んでください。恥ずかしか」
「だから、さっきから隠れてたんだ」
彼女は小さく笑みを零す。図星なので反論する余地もない。耳も首筋も、熱を持っているのが、自分でもわかる。抱き締めていたのも、半分は、彼女を離したくなかったからで、もう半分はその情けない顔を、見られたくなかったからだった。
「うわー、バレとったぁ……」
降参したように、肩を落とす。逃げ場は、もうどこにもなかった。彼女はそっと手を伸ばして、その頬へ触れる。包み込むような掌の温もりに、ホークスは自然と顔を預けた。
「啓悟。……すきだよ」
その呼び声ひとつで肺の空気が凍りついたかのように詰まるというのに追い打ちのように重ねられた「好き」という言葉が胸の奥へあまりに重く落ちてきた。
ホークスはゆっくり目を開く。向日葵色の瞳は揺れる夜の光を映しながらまっすぐに彼女だけを見つめていた。声が震える。困ったように笑って小さく息を吐く。
「……ずるか。そんな顔で言われたら——」
言葉が途切れた。続きは言葉にならなかった。自然と距離が縮まる。互いの額が触れそうになるほど近づいて静かに視線を重ね指先は彼女の手をそっと包み込み、その温もりを確かめるように、握り返した。
「止めるなら今ですよ……もう、戻れんくなる」
そう言いながら腰に回した手はもう離す気など微塵もなかった。矛盾だらけの警告。最後通牒はとっくの昔に過ぎていると、二人とも、わかっていた。それは脅しでも宣言でもない。ただ偽りのない本音。彼女は、小さく笑う。
「散々待たされたからね。止めないよ」
「後悔しても、知りませんよ」
ホークスもつられて笑った。しかしその表情はどこまでも柔らかい。彼女の髪へ触れる指先も、頬へ添える手も、壊れものを扱うような慎重さを失わなかった。
「それは、ホークスのほうじゃない?」
「……へえ。望むところです」
挑発するような声音に、ホークスは、喉の奥で小さく笑った。
鎖骨をなぞる指先、首筋への口づけを一つ一つ確かめながら進んでいく。まるで、焦らした分の利子でもつけるようにして——。そして少しだけ片眉を上げて続けた。
「名前さん相手に負ける気だけは、せんですね」
照れも緊張もその笑顔の奥にまだ残っている。戦いで刻まれた傷も、翼を失った痛みも、消えはしない。それでも今この瞬間だけはそのすべてを抱えたまま、彼はただ彼女の隣にいたいと願っていた。