翌朝。公安へ向かう前に、彼女のマンションへ立ち寄ったホークスは、ドアノブに掛けておいたコンビニ袋がなくなっていることを確かめ、胸の奥で小さく息をついた。それだけで十分だった。顔を合わせることはなくても受け取ってくれた。それが今の彼女なりの精一杯の返事なのかもしれないと、自分に言い聞かせる。
マンションを後にしたホークスは、そのまま、公安本庁へ向かった。昨夜ほとんど眠れなかったせいかエントランスを抜ける足取りはいつもより重い。それでも公安の委員長という立場はそんな事情を待ってはくれない。
朝の挨拶を返しながら執務室へ入り、デスクに腰を下ろすと、ようやくスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出した。
午前九時。ただ、それだけを送る。理由は問い詰めない。昨夜のことにも触れず、追いすがりもしない。ただ、いつも通りの朝を装った、たった数行のメッセージだけを残してホークスは画面を閉じた。
その日も、昼を過ぎても既読はつかなかった。仮釈放の日からまだ数日しか経っていない。ようやく、手を伸ばせる場所まで辿り着いたと思った途端、指の隙間から零れ落ちていくような感覚に深く息を吐く。
もしかしたら本当に夢だったのかもしれない。そんな考えさえ胸をよぎってしまい、思わず机に突っ伏す。黄土色の髪が書類の山へさらりと流れ落ちる。らしくない。誰よりも飄々として、どれだけ仕事を抱えても笑って片づけてしまう男が、勤務中に、机へ突っ伏しているのだ。その異様な光景に周囲の公安職員たちは、顔を見合わせた。
「……お前が声かけろよ」
「いや、あなたのほうが付き合い長いでしょう」
ひそひそと、押し付け合う声が聞こえてくる。やがて一人の職員が意を決したように近づいて、「い、委員長……?」と、そっと、声をかける。ホークスはその声にゆっくり顔を上げると、口元だけで笑った。
「……ああ、すんません。ちょっと寝不足で」
もちろん嘘だった。昨夜は彼女に会えなかったぶん、むしろ、早く帰宅している。睡眠時間だけ見れば、七時間近くは眠っていた。眠れたのではない。目を閉じていただけだった。
ホークスは、ペンを手に取った。書こうとして芯が出ない。カチ、カチ、と何度もノックする。焦るように指先へ力が入り次の瞬間小さく乾いた音を立てて芯が折れた。しばらくその折れた黒い欠片を見つめる。まるで自分の気持ちまで折れてしまったようで。
「夢やったんかなぁ……」
誰かに向けた言葉でもなかった。吐き出したというより、漏れてしまった独り言だった。けれど静まり返った執務室では、その小さな声さえ妙にはっきりと響き、近くの職員たちは思わず、顔を上げていた。
夕方になってもホークスは席を立たなかった。残業は珍しいことではない。けれど今日は仕事が残っているからではない。ただ、帰る理由が見つからなかった。
SNSに関する報告書へ目を落とす。発信者十二名。そのうち悪質と判断された五名については、すでに法的措置の準備が進められている。委員長としてやるべきことは、着実に進んでいた。だがそれを彼女へ伝えたところで何になる。
——会いたくない。あの短い一文が、何度読み返しても胸の奥へ沈んでいく。ホークスは報告書を閉じ、ゆっくりと天井を仰いだ。脳裏に浮かぶのは、ほんの数日前の彼女だった。「ホークスが好きです」と照れながら笑った顔。「ダーリン♡」と面白がって呼び、真っ赤になる自分を見て楽しそうに笑っていた声。どれも昨日までそこにあった温度なのに——。
ふと、机の引き出しへ手を伸ばす。奥から取り出したのは誰にも見せていない貝殻のストラップだった。彼女には黙ったまま、密かに、お揃いで買っていたもの。夕陽を受け、小さな貝殻が淡く光る。
「……俺の色、か。」
あるじゃないか、夢じゃない証拠が。夢なら、こんなものが手元に残るはずがない——。彼は、思わず苦く笑った。
そのときだった。机の上のスマートフォンが、静かに、光ったのは。メッセージではない。GPS共有アプリだった。彼女の位置情報がゆっくりと動き始めている。ホークスの表情が変わる。反射的に立ち上がった勢いで椅子が大きな音を立て、後ろへ滑った。執務室内にいた職員たちが一斉に肩を跳ねさせる。画面を凝視する。その軌跡は、海浜公園の方角へと伸びていた。人通りが少なくなる時間帯に一人で向かうような場所ではない。胸の奥で嫌な予感がざわりと広がる。ホークスはスマートフォンを握り締めたままコートを掴み、出口へ向かった。
「すんません! ちょっと出掛けてきます!」
返事を待つこともなく飛び出す。車へ乗り込みエンジンをかける。夕暮れへ染まり始めた街を、焦燥に背中を押されるまま走り抜けた。無個性になった今の身体が悲鳴を上げている。今はただ、アクセルを踏むことしかできない。それでも胸の鼓動だけは剛翼があった頃よりずっと速く鳴っていた。
海浜公園の駐車場へ着くなり車をほとんど飛び降りるようにして外へ出た。海風が容赦なく頬を打つ。防波堤の向こうには、夕焼けに染まる海。橙と紫がゆっくり溶け合う空の下、小さな人影が一つだけあった。彼女だった。フェンスを越えた先へ腰を下ろし、膝を抱えるようにして海を見つめている。風に乱れた髪が何度も頬へ貼り付き、そのたびに揺れる。それでも彼女は、それを払いのけようとはしなかった。ホークスは一度、足を止める。荒い呼吸だけが、耳の奥で響く。
——来てしまった。けれど、何を言えばいい。『会いたくない』と告げた相手へ、自分はまた、会いに来てしまったのだから。昨夜『顔を見せろとも言いません』と言ったのも、自分だった。
数メートルの距離が、ひどく遠く感じる。息を整えながらただ彼女の背中を見つめる。それでも帰ることだけは、もう選べなかった。喉の奥で、震える息を押し殺し、ホークスはようやく、声を絞り出した。
「こげんとこにおったら、危ないですよ」
不意に届いた声に、彼女の肩が小さく跳ねた。ゆっくりと振り返った顔には、乾ききらない涙の跡が、残っている。目元は赤く腫れ、泣き止んでからも長い時間ここにいたことが伝わってきた。ホークスは、それ以上近づこうとはしなかった。数歩先の距離を保ったまま立ち止まり、海風に揺れる前髪をそのままに、スーツのポケットへ手を差し入れる。潮の匂いが風に乗り、その中に彼女の髪から微かに漂うシャンプーの香りが混ざっていた。
「メッセージ返ってこんけん、ちょっと心配したと。……まぁ、完全に言い訳なんですけど」
彼なりに、いつもの調子で笑って、流すつもりだったのだろう。けれど、最後まで軽く言い切ることはできず、声だけが少し頼りなく落ちた。
返事はない。彼女は再び海へ視線を戻し、膝を抱えたまま顔を伏せる。波だけが絶え間なく岸へ寄せては返し、その音が二人の間に落ちた沈黙を埋めていく。ホークスは、しばらく立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと歩み寄り、フェンスを挟んだ彼女のすぐ後ろへと腰を下ろした。隣には座らない。肩が触れるほど近くもない。けれど、同じ夕暮れを見られる距離ではあった。
「……俺の、せいですか」
問い掛けに彼女は小さく首を横へ振る。嘘だ。その仕草だけで、本当は違うのだと分かってしまう。少なくとも、あの夜の出来事が、何一つ関係していないはずはない。それでも彼は、それ以上踏み込まなかった。膝の間へ落ちた溜め息だけが小さく風へ溶けていく。
「……SNS、見ました」
その一言で、彼女の肩が、わずかに強張った。もう、知っているの——そんな緊張が、背中越しにも伝わってきた。
「発信した十二人のうち、悪質だった五人はもう押さえてます。法的な手続きも進めます」
そこだけは公安委員長としての声だった。感情を切り離し事実だけを静かに積み重ねる話し方。けれど、続く言葉は違った。彼の仮面が少しだけ剥がれる。
「もっと早く気づけばよかった……すみません」
彼は、小さく息を吐く。彼女はまた力無く首を横に振る。違う、と伝えたいのだろう。それでも言葉にはならない。波がひとつ、大きく砕けた。飛沫がきらめいて消える。
夕陽はゆっくりと水平線へ沈み、海面を橙色に染めていた。その色も少しずつ薄れ、空は静かに群青へと溶け始めている。しばらく、互いに何も言わなかった。沈黙は気まずさではなく言葉より先に、寄り添おうとする時間になっていた。
「俺、二重スパイやってたでしょ」
唐突だった。いや、唐突では、なかったのかもしれない。静かな波音へ溶かすようにホークスが口を開く。
「あれが世間に知られた時も、結構きつかったんですよ。メディア出るたびに『裏切り者』やなんやって」
苦笑が漏れる。笑おうとしたのに、口元だけが形を作って、目だけは少しも笑えていなかった。そしてホークスは、肩をすくめる。
「正直、慣れるとかないですよ。何回言われても痛いもんは痛い」
「……」
「ここんとこ。ずっと、ちゃんと残る」
そう言ってホークスは、自分の胸を指先で軽くぽん、と叩いた。風が吹く。波頭が白く砕けて、その音だけが、二人の間をゆっくりと通り過ぎていく。
「……俺、あの日」
ぽつり。そこで言葉が途切れた。何をどう伝えれば届くのか、自分でも探しているようだった。
「ちゃんと大事にしたいって、言いましたけど」
組んだ指先へ視線を落とし、小さく笑う。その笑みは照れでも誤魔化しでもなく自分の不器用さを認めるしかない男の、静かな苦笑だった。
「あれ、逃げたんですよね」
「……」
「正直に言うと、かっこつけたかったんですよ」
「……」
「『初めては大切にしたい』なんて。……でも、あれ結局、俺の都合だった」
潮風が彼のスーツの裾を大きく揺らした。その冷たさが頬を撫でても胸の奥にこもった熱だけは少しも冷めない。
「名前さんの気持ち、ちゃんと、受け止めきれてなかった」
波が砕ける音だけが二人の間に残された言葉を静かに攫っていく。ホークスは、横目で海を見つめたまま、息を吸い込んだ。それからゆっくりと振り返って座り直す。不意に、小さく笑うような息が漏れた。きっと、彼のものだろう。
「……怖かったんですよ。俺も」
「……」
「あなたを……壊してしまいそうで」
ホークスは顔を上げることはしなかった。それでも視界の端で、彼女の指先がコートの裾を強くぎゅっと握り締めているのが分かる。
「だから、名前さんも怖かったんなら……それは俺が悪いです」
「……ごめん」
彼女が、ようやく口を開く。その一言だけで、胸の奥が少し緩んだ。話してくれる。そう思った次の瞬間だった。
「ごめん。……やっぱり、一緒にはいれない」
空気が止まった。世界から音だけが遠ざかった気がした。寄せて返す波も、風も、海辺を歩く、カップルの人影もそのまま動いている。止まったのは自分だけだ。胸のどこかで、何かが音もなく落ちる。ホークスは唇を結び、息を飲み込んだ。何か言わなければと思うほどその言葉は喉の奥で固まって、出てこない。ようやく、開いた口から零れた声は、自分でも驚くほどに、掠れていた。
「……理由、聞いてもいいですか」
「あの夜——断られたことは……全然、気にしてないの」
「……」
「あれは、ちょっとふざけただけ。私も初めては大事にした方がいいって、思ってるし」
その言葉に、ほんの少しだけ、ホークスの肩の力が抜ける。けれど、それが彼女の答えではないことも分かっていた。
「ただ——ホークスといると、時々忘れちゃう」
眉がわずかに動く。何を、と問い返すことは、できなかった。その続きを聞く前からホークスはその答えを、知ってしまっていたから。
「自分が、人を殺した側だってこと」
強い風が吹き抜ける。髪が頬へ張り付き、声の半分は風にさらわれた。それでもその言葉だけは不思議なほど、はっきりと耳に届いた。
「ホークスが、優しくしてくれればくれるほど、忘れそうになる。あの最後の夜のことも、全部」
脳裏を過ったのは、最後まで仲間を思ったあの男だった。
「良い奴だった」と口にした、あの日の自分。そして、自分自身の手に残った命の重さ。彼は、何も言わない。いや——言えなかった。「そんなことない」と否定できるほど自分の手も綺麗ではない。トゥワイスを殺した瞬間の感触は今もなお身体のどこかへ、残り続けている。あれもまた、自分が背負うと決めた罪だった。自分が、奪ってきた命の重さ。長い沈黙のあと、ようやく落ちた声は低く、それ以上、飾ることを知らなかった。彼は、静かに息を吐く。
「……俺も、忘れられませんよ。一生」
それだけだった。忘れなくていいとも、二人で背負おうとも言わない。そんな綺麗な言葉で軽くなる罪なら、とっくに、誰も苦しまないことを、彼自身がよく知っていたから。
ホークスは、ゆっくりと立ち上がる。フェンス越しに彼女を見下ろし、少しだけ視線を落としたあと、ためらいなく柵を乗り越えた。砂利を踏む小さな音がして、彼女のすぐ隣へ立つ。横顔は、静かだった。感情を、押し殺しているようにも、何かを決めたようにも見える。ただ、その目だけは少しも逸れなかった。彼女の抱え続けてきた罪ごと受け止めようとするように、まっすぐ、前を見据えていた。
「一緒におれんでも、俺はおっていいですか」
膝を抱えたまま彼女がゆっくりと顔を上げる。泣き腫らした目。赤く染まった鼻先。それでも、その奥には、折れ切らない何かが静かに、残っていた。彼女の唇が震える。何かを言おうとして、小さく息だけが漏れ、また、俯きかける。
ホークスは、その場に静かにしゃがみ込んだ。自分から目線を下げ、彼女と同じ高さへ降りる。手を伸ばせば触れられる距離。けれど、その手は動かさない。今、必要なのは触れることではなく逃げ場を塞がないことだと分かっていたから。
「名前さんの罪も、痛みも……俺には消せない。代わりに背負うこともできない」
ホークスは一度、そこで言葉を区切る。潮風が二人の間を抜け、彼女の前髪を揺らした。でも、その一言だけは、迷わなかった。
「でも……隣を歩くことなら、できます」
言い終えるとホークスは少しだけ困ったように眉を下げた。それから両手をゆっくり持ち上げ、彼女の耳を、そっと包み込んだ。男らしい大きな掌が、わずかに残っていた頬の熱を覆う。
「こうしたら、何も聞こえんでしょう」
「……」
「汚い言葉も、黒い気持ちも」
「……」
「そう……名前さんが、教えてくれたけん」
彼は柔らかく笑う。彼女の瞳が小さく揺れた。彼女がここでしたことを今度は彼が返している。あの日、自分を守ってくれた仕草を。その手には小さな傷がいくつも残っていて翼を失ったあとも誰かを守ろうとしてきた手だった。それでもその温もりだけは、少しも変わらない。彼女の瞼から堪え切れなかった涙が零れる。一粒。また一粒。頬を伝って落ちていく雫が、夕闇の名残を映して静かに光る。
ホークスは、目を逸らさなかった。泣く姿まで綺麗だ、などと思ったわけではない。ただこんなふうに涙を見せられるほど、自分の前では強がらなくなってくれたのだと、その事実だけが、胸を締めつけた。耳を覆ったまま、そっと額を彼女の額へ寄せる。触れたのは、それだけだった。それ以上は踏み込まない。踏み込まないこともまた、寄り添うことなのだと知っていた。
「泣いていいです」
囁くような声は波音に溶けるほど小さかった。寄せては返す波が、何度も岸を濡らしていく。
二人は動かなかった。夜空には、いつの間にか星がひとつ灯っている。
「……っ、離れ……たく、ない——っ」
震えながら零れたその言葉に、彼の胸が大きく揺れた。救われたと思った。そんなことを本人に知られたら困るほど簡単に。喉の奥が熱くなる。それでも、笑おうとして、少しだけ、掠れた声で返した。
「……なら、離れんでよかです。……離れんで」
「ごめん……っ、」
「謝らんでください」
「わたし——ホークスが……好きなの……っ、」
息が止まる。その言葉は、もう聞いていたはずだった。好きだと言われた夜も。「ダーリン」と茶化されて真っ赤になった朝もあった。それでも今この涙の中で零れた「好き」はどれとも違っていた。飾りも照れ隠しもない。彼女がようやく、自分の痛みごと差し出してくれた言葉だった。
ホークスはゆっくりと耳から手を離す。代わりに、その頬を両手で包み込んだ。涙に濡れた頬は少し冷たく、それでも、掌の中でちゃんと生きている熱を返してくる。黄金色の瞳には自分の姿が小さく映っていた。彼は慈しむように目を細め、少しだけ息を吐く。
「俺も好きです。ずっと」
それ以上、飾る言葉はなかった。彼女が、縋るように腕を伸ばす。ホークスは迷わずその身体を抱き寄せた。翼を失った腕が背中へ回る。羽根はもうなくても、その腕は誰かを守ることを覚えたままだった。力を込めるでもなく離れないように支えるように抱く。腕の中で、彼女が声を殺して泣くたび、その震えが胸に伝わってくる。
彼は髪をゆっくり撫で続けた。何も言わない。「大丈夫」も「頑張った」も今は違う気がした。言葉で慰めるより、この温もりだけは、嘘にならないと、思えたからだ。
空はゆっくりと群青へ沈み、星がひとつ、またひとつと増えていく。揺れる海面にも小さな光が散りばめられていた。どれほど時間が過ぎただろう。彼女の震えが、少しずつ穏やかになった頃、ホークスは胸元へ顔を預けたままの彼女へ小さく笑い混じりに呟いた。
「……帰りましょうか。冷えてきましたし」
「……うん。ごめんね」
腕の中から、そっと身体を離したホークスは、彼女の額を人差し指で軽くつついた。
「それ、禁止です」
柔らかく笑って告げると、彼女も、涙の名残を残したまま、小さく吹き出す。
「……はは。そうだった」
その返事にホークスもようやく肩の力を抜いてにっと笑う。口元に浮かんだその笑みはいつもの人を煙に巻くようなものでも、胡散臭い笑みでもなく、不格好なくらい素直で、安心した子どものような笑顔だった。
二人は立ち上がり、服についた砂を払い合う。冷えた風が頬を撫でる。さっきまで胸を締めつけていた痛みは消えていない。それでも肩を並べて歩き出せるくらいには夜が少しだけ優しくなっていた。どちらからともなく手を繋ぐ。指先が触れ合うと互いに何も言わないまま、そのまま自然に指が絡んだ。するとホークスが思い出したように「あ、そうだ」と、言った。
「せっかくだし、ちょっと海辺、歩きません?」
「え?」
「いいから、いいから」
「う、うん……」
彼に手を引かれるまま、波打ち際を歩く。寄せては返す波が足元近くまで伸びてきては、白い泡だけを残して、引いていく。西の空に残っていたはずの茜色はもうなくなり海は空の色をそのまま映したように静かだった。繋いだ手だけが夜風の中でも温かい。何かを話さなくても歩幅を合わせて歩く時間が心地よかった。
「そういえばさ、高級シュークリームもらったんですよ」
「へえ?」
「よかったら今日、俺んち来ません?」
「……いいの?」
「むしろ、来てほしかったけん。一人で食う甘いもんは、美味くなかです」
繋いだ手にほんの少しだけ力が加わる。彼女が肩を揺らして笑い、「ほんと、口が上手いね」と言うと、ホークスは眉毛を下げて肩をすくめた。
「商売道具なんで」
軽口が戻る。それだけで、さっきまで胸の奥に沈んでいた空気が、少しずつ、ほどけていく気がした。また、しばらく歩いてからホークスは少しだけ視線を逸らしたまま尋ねる。
「……あの夜のこと、まだ怒ってます?」
「ううん」
「……」
「気にしてないって、言ったでしょ」
胸の奥に張っていた糸が、ようやく一本ずつ、ほどける。打ち寄せる波を避けながらホークスは少し照れくさそうに笑った。
「……じゃあ、次はちゃんとするけん」
すると彼女は、何でもないことのように笑って「大丈夫」と答えた。それから一呼吸ほど置いて続ける。
「ホークスとは、しないって決めたから」
その、瞬間だった。波打ち際を歩いていた彼の足が、ぴたりと止まる。繋いでいた手が、不意に張る。「うわっ」と勢いにつられた彼女が小さく情けない声を漏らした。ホークスは、ゆっくりと彼女を見やる。目を丸くしたまま固まり口だけが何度か開いては閉じた。「え……」と思考が追いついていない。ようやく絞り出した声はいつもの余裕がどこかへ消えていた。
「ちょ、待ってください……それ、どういう意味ですか」
「え? 言葉のまんまだよ。しません」
彼女は、当たり前でしょ?という顔をして首を傾げたあとさらりと言い切った。ホークスの口がそのまま、ぱくりと開いた。そして閉じて、また開く。
完全に予想の外だった。自分では勇気を出して「次はちゃんとする」と言ったつもりだったのに返ってきたのは、「しません」という、まさかの宣言。会話の球が、とんでもない方向へと飛んでいった気分だった。
彼だけがその場に取り残されたような顔をしていて、彼女は、そんな様子を見上げながら、肩を震わせて笑いを堪えていた。
「いや、あの……ちゃんとっていうのは、その、優しくって意味で……」
言葉が珍しくもつれた。いつもなら相手の懐へ軽々と入り込む男が、今は自分の言葉に足を取られている。また、お決まりのように、耳の先までじわりと赤く染まり、その熱が、夜風にも冷ませないほど隠しきれていなかった。
「本当に気にしてないし、怒ってもいないけど」
「……」
「いいムードだったのに、断られたショックは、やっぱり大きかったのです。ちゃんちゃん」
「——いや、ちゃんちゃんで終わらせんで!?」
海辺にホークスの声が響く。住宅街なら間違いなく苦情が来る声量だったが、返事をするのは、波音だけだった。ホークスは、思わず繋いでいた手を離し、両手で顔を覆う。
「待って、待ってください。ちょっと整理させて……」
そのまま片方の手で額を押さえ、深く息を吐きそれから、指の隙間越しに、彼女のことを窺う。
「……俺のこと、好きなんですよね?」
「んーんん、ん!」
彼女が曖昧に首を揺らしながら言った返事に、ホークスは顔から手を下ろして、目を瞬かせる。
「どっちですか、それ!」
「さあ、どっちでしょう」
彼女のその表情はいたずらが成功した子どものような笑みを浮かべていた。ホークスは唸り声を上げながら、がくりと肩を落とす。
ついさっきまで、泣き崩れていた人物と本当に同一人物なのだろうかと思うほどに、切り替えが早い。人の心を揺さぶることにかけては、元・敵連合という肩書きは伊達ではないらしい。もはや天才だ。
「……名前さん、やっぱヴィランや」
ホークスはそう言って、恨めしそうな目だけを向ける。彼女は、わざとらしくハッとしてから、「……あ、傷ついた」と胸元を押さえ、大袈裟によろめいてみせた。
「もう、本当にダメかもしれない……さよなら、元ヒーロー」
彼女が、踵を返そうとした、その瞬間だった。ホークスは、半ば反射のように彼女の身体を抱え上げる。
「さよならさせませんけど!?」
「うぎゃ!」
彼女の視界が一気に高くなる。いわゆる��お姫様抱っこ�≠セ。翼を失った身体には、決して楽な重さではない。それでも腕を緩める気配はない。むしろ意地だけで支えているようで前腕は、ぷるぷると細かく震えていた。
「……降ろさんけん、絶対……っ」
「腕、しんどそう。筋トレさぼってるでしょー」
「翼に……頼りすぎとったツケが……来とるだけです……!」
彼女のその軽口にホークスは歯を食いしばったまま苦笑する。途切れ途切れの返事なのに彼女を抱える力だけは、少しも弱まらない。
「重くてごめんなさいね」
その瞬間だった。彼女を抱えたまま歩いていたホークスの足が止まる。さっきまで、苦しそうに笑っていた彼の表情から、すっと、色が消えた。そして、また歩き出すと低く静かな声で言った。
「重くなか」
「……」
「それ、二度と言わんでください」
怒っているわけではない。ただその言葉だけは聞き流せなかった。本気だった。彼女は少し目を伏せ、わざと冗談めかすように口を尖らせる。
「デブだからエッチ断られたのかな……しゅん」
ホークスは小さく息を吸った。腕は震えたままなのに、抱く力だけが少し強くなる。それから、「違う」とだけ言って、彼女をまっすぐに見下ろした。
「もう……何回言わせるんですか」
夜風が、二人の間を吹き抜ける。言葉だけでは足りないと思ったのかホークスは短く息を吐いて視線を逸らさず続けた。
「名前さんが太っとるとか痩せとるとか、そんなもん、一個も関係なか」
「……」
「俺がヘタレやった。ただ、それだけです」
彼女は思わず目を逸らした。そして小さな声で「降ろして」と呟く。しかしホークスは、即座に首を横に振る。
「嫌です」
腕は限界に近いはずなのに、それでも、歩みを止めない。夜の海辺を、震える腕で大事なものを抱えるように歩く姿は、かつて速すぎる男と呼ばれたヒーローには少しも似つかわしくなかった。
それでも今のホークスにとっては、世界でいちばん格好をつけたい相手は、腕の中にいる彼女、ただ一人だった。
「家までこのままです」
「それは無理あるって!」
反論されても、ホークスは真顔のままだった。相変わらず腕は震え、呼吸も、少し乱れている。それでも引き下がる気配だけはなく意地になったような目で、彼女を見つめる。
「無理じゃなかです」
「ほら……また同じことしてるよ、ホークス」
「……え?」
「相手のことを考えずに、突っ走る悪い癖」
その一言で、ぐっと言葉に詰まり、ホークスは口を閉じた。彼女を安心させたい、という、その一心で動いていたつもりが、気づけばまた自分の「こうしたい」を、押し通そうとしている。何も変わっていない。彼は苦い顔のまま数秒黙り込みやがて、観念したように小さく息を吐いた。
「……はい」
ホークスは名残惜しそうに腕の力を緩め彼女をゆっくり降ろした。「あー、恥ずかしかった」と笑う彼女とは対照的に、ホークスは膝へ手をつき肩で大きく息をしていた。腕は完全に限界だったらしい。顔は赤く呼吸も浅い。けれど苦しそうな顔の奥で口元だけは満足そうに緩んでいた。彼は息を整えながら笑う。
「……よかです、自分の足で歩けるなら」
「ふふっ」
その笑い声につられるように、ホークスも苦笑した。海岸を抜けて街灯の並ぶ遊歩道へ出た頃、彼が、横顔だけで笑った。
「……車、戻りましょ」
「うん」
二人は再び歩き出す。今度はおとなしく手だけを繋いで。夜風は冷たかったが、繋いだ手だけは不思議なくらい温かい。しばらく歩いたところでホークスが「で?」と、思い出したように呟く。
「さっきの答え、まだ聞いてないんですけど」
「ん? なんだっけ?」
その返事にホークスは不意にまた足を止めた。彼女もつられて立ち止まる。星空の下で、じっと彼女を見る。
「俺のこと、好きかどうかです」
「ん?」
「曖昧にしとった。んーんん、とか言うて」
「あー......好ましくは、思ってるよ?」
ホークスの片眉が、ぴくりと動く。ほぼ半目になりながら、大層、不服そうに唇を尖らせる。
「それさ、好きって言うとるようなもんじゃないですか」
「��ようなもん�≠セからね」
彼女はそう返して、悪びれもせずに笑う。ホークスはそれに、呆れたように息を吐いた。
「その��ようなもん�≠ナ、逃げ切る気でしょう」
「好ましいの」
ずいっと顔を近づけて堂々と言い切る彼女に、ホークスはさらに一歩、距離を詰めた。
「……で?」
「え?」
「好ましい、の次は」
逃がさないとでも言いたげな、真剣すぎる視線だった。彼女は、困ったように苦笑して、視線を泳がせる。
「んー......嫌いじゃ、ないよ?」
ホークスのこめかみが小さく引きつる。完全に遊ばれていた。彼女はのらりくらりとかわし続けそのたびホークスが一歩ずつ追い詰める。そんな攻防が少し可笑しくも心地よかった。彼は小さく息を吐く。諦めたように見えた、その次の瞬間。繋いでいた手を軽く引き、自分の正面へと彼女を導く。距離が一気に縮まる。逃げ道なんて、最初から用意していない距離だった。黄金色の瞳が、真っすぐ彼女を映す。
「俺は好きです。名前のこと」
「……!」
彼女の肩が、小さく揺れる。その反応を見て、ホークスは、その反応を待っていましたと言わんばかりに、隠しもせず少しだけ口角を上げた。
「初めて、呼び捨てで呼びました」
その一言に、彼女の頬が、みるみる熱を帯びていく。「だから、好ましい——」と、言い終える前にホークスは自分の人差し指を、そっと彼女の唇へと添えた。そして笑いを堪えながら続ける。
「そのパターン、もう飽きました」
「……、」
「ちゃんと言ってください」
「……ん、んっ、」
彼女は彼の指を見つめ、それから自分の口元を指差す。——これじゃ喋れない。そんな、無言の抗議だった。ホークスは慌ててぱっと指を離す。けれどその視線だけは逸らさない。「もー......」と、頬を膨らませる彼女に、ホークスは腰へ手を回した。そして笑いながら少しだけ首を傾げる。
「もー、やなか。ほら」
「……す、き……だよ」
夜風へと溶けてしまいそうなくらい、小さく。それでもホークスの耳にはちゃんと届いていた。目が大きく見開かれる。嬉しそうに笑うかと思えば、今度はわざと、彼女の耳元へを顔を寄せた。
「……聞き取れんかったです。もう一回」
「えぇっ!?」
吐息が触れそうな距離——。彼女は肩をすくめ恨めしそうに見上げた。ホークスはその様子に、くすっと喉の奥で小さく笑った。そして柔らかな笑みを浮かべる。
「ほら」
「——ず、ずるい……」
「ずるいのはお互い様です」
「……っ」
「散々焦らされたけん。何回だって、言ってもらわんと」
「……エッチは、拒否るくせに……」
彼女はむっと口を尖らせる。その一撃は、見事だった。ホークスは、肩から力が抜けたように、その場で、がくりとうなだれる。痛いところを、寸分違わず突かれた顔だった。「次は、ちゃんとする」と啖呵を切った男が、結局さっきも「降ろして」の一言には逆らえなかったのである。その事実だけは、どう取り繕っても、覆しようがなかった。
「……それは、ほんとにすみません」
「もう、一生言ってやるから」
その言葉に、ホークスはゆっくり顔を上げた。さっきまで肩を落としていた男の目にふっと火が灯る。負けず嫌いのスイッチが入った、と彼女はすぐに気づいた。
彼は「ほう……」と、一度、彼女から離れる。そして彼女を遊歩道の柵へ追いやり相手が背中を預けたところで、逃げ道を塞ぐように両手を柵に伸ばし自然と囲う形を作った。それから少しだけ顔を近づけて、口元だけ笑う。
「じゃあ——」
「……」
「一生言えるようにしますんで。覚悟しててくださいね」
「……ふん」
返ってきたのは、それだけだった。強気なその反応に一瞬きょとんとしてホークスは思わず目を瞬かせる。照れて誤魔化したわけでも怯えて強がったわけでもない。やれるもんならやってみろ。そんな挑発まで聞こえてきそうな顔である。
数秒見つめ合ったあと、ホークスは耐え切れず吹き出した。「あははっ」と、肩を揺らしながら笑う。
「やっぱ名前さん、おもしろいですね」
「……もう、知らない」
ぷいっと顔を横に向けて先に歩き出した彼女にホークスは、慌てて笑いを引っ込めた。
「あっ、待って。拗ねんでくださいって」
彼女は返事をしない。それでも掴んだ手だけは離さなかった。怒っているわけではない。その、小さな温もりが、それだけを静かに教えてくれていた。ホークスは苦笑しながら少し身体を傾け、恋人繋ぎに切り替える。そのまま、彼女の表情を覗き込もうとして、途中で不意に彼女が背伸びをする。柔らかな感触が唇へ一瞬だけ触れた。短いキスだった。触れたと思った頃には、もう離れている。
「好きだよ」
照れを隠すように少し早口で言い切ると、そのまま彼の手を離して、車の方へ早足で歩き出す。ホークスは動けなかった。完全に思考が止まる。二十代で、公安委員長。元・No.2ヒーロー。その肩書き全部が、たった一瞬のキスで役に立たなくなっていた。
数秒後。ようやく我に返った彼は、両手で顔を覆った。指の隙間から覗く耳は真っ赤で、隠しきれないほど熱を帯びていた。口元も、締まりなく緩んでしまっている。ホークスは、小さく笑って独りごちた。
「……ずるいのは、そっちでしょうが」
彼女は振り返らない。ほとんど、逃げるような足取りだった。それでも、夜の暗さがあっても、耳まで赤く染まっている事だけは隠せていない。ホークスは、ようやく身体を動かし、慌ててその背中を追いかけ、歩幅を大きくする。
「ちょ、待って! 今の、もう一回」
「やだよ!」
即座に返ってきた彼女からの返事にホークスは一瞬だけ、目を見開いたが、すぐに食い下がる。
「一回言えたなら、二回も三回も、一緒じゃないですかぁ〜」
「全然違う!」
「えぇー」
ホークスは、大袈裟に肩を落としながら歩く。少し先を歩いていた彼女がそこで、ぴたりと足を止めた。
「……ねえ、ホークスってさ、」
「はい?」
「よく、最低って言われない?」
「えっ」
「俺、言われたことないですよ」
ホークスは目を丸くして少し考えてから返したあと「たぶん」と、付け足した。どうやらそこで自信がなくなったらしい。公安の部下たちの顔が頭をよぎったのか、口には出していないだけで、案外、思われている可能性は否定できない。
振り返った彼女はそんな彼の様子を見ていて、思わず、吹き出した。ホークスも、苦笑しながら彼女とまた距離を詰める。そっと握った手だけはどうしても、離したくなかった。
「ねえ」
呼ぶ声は不思議なくらい柔らかかった。公安の委員長として部下へ指示を出す声でもヒーローとして、人を安心させる声でもない。ただ、好きな相手にだけ向ける、少し甘えの滲んだ声だった。彼はそのまま、彼女の手の甲に口付ける。
「俺と、ずっと一緒にいてください」
「……三回目だよ?」
「ん?」
「告白?」
ホークスは目をぱちぱちと瞬かせた。頭の中で「三回目?」と指を折る。買い物の帰りに一度。つい先ほど、海辺で一度。そして今。全部、自分からだった。思わず頭をかきながら苦笑する。
「……ほんとだ」
「私たち、一週間で別れちゃった感じなの?」
ホークスは少し考えてから、「いや」と小さく首を振り、真面目な顔で続ける。
「ちゃんとしたプロポーズは、まだ、やっとらんけん」
「プロポーズって何!?」
「いずれするってことです」
あまりにも自然に、けろりと言うものだから、彼女は思わず言葉を失った。本人にとっては未来の予定を口にしただけなのだろう。そこに気負いも照れもない。だからこそ、厄介だった。
「もぉ……汚い男」
「綺麗な男やった覚え、一回もなかですよ」
呆れ半分、笑い半分で言えば、ホークスは肩を竦めて、そう言い返した。彼女は目を細めたあと「うわ、ばっちぃ〜」と、わざと顔をしかめる。するとホークスも大袈裟に胸元を押さえてみせて「ひどかぁ」と、眉を下げた。
「さっきは、キスまでしてくれたとになぁ」
「あれはノーカン」
「ノーカンて……」
ホークスはその場へ崩れ落ちた。駐車場でしゃがみ込む、元・No.2ヒーロー。事情を知らないであろう、遊歩道を散歩していた通行人が、不思議そうな顔で通り過ぎていく。彼は地面を見つめたまま、小さく呟いた。
「俺、今日あと何回振られるんですかね……」
「まだ続くかもよ?」
その一言で、ホークスは勢いよく顔を上げた。
「何回でも言いますけど!?」
「付き合ってくださいって?」
ホークスは彼女をじっと見上げたあとゆっくり立ち上がり、スーツのズボンについた砂を、軽く払ってから自嘲するように笑った。
「それもあるし」
そう言って、スーツではなく私服のポケットへ手を入れる。取り出したのは、小さな黒い箱だった。彼女の表情が止まる。ホークスはその視線を受け止めながら、ゆっくり蓋を開いた。ぱちり、と小さな音。中には飾り気のないシンプルなシルバーのリングが一つ。夜の街灯を受けて、静かに光を返していた。
「これも」
「……え?」
彼女は目を丸くしたまま、箱とホークスの顔を何度も見比べる。ホークスは、照れ隠しのように後頭部を掻いた。そして少しだけ苦笑しながら。
「いつ渡そうかなぁって、ずっと思ってたんですけど」
「……」
「今かなって」
その口調は軽い。けれど、箱を持つ手だけは、小さく震えていた。緊張していることくらい自分でも隠しきれていなかった。彼女は慌てて両手を前へ出す。
「ま、待って」
「はい」
「待って待って。ちょっと、落ち着いて」
深呼吸をしたのは彼女だった。けれど、本当に落ち着くべきなのは、どう見ても、ホークスの方だった。差し出した箱は、指先と一緒にかすかに震え続けている。彼女はゆっくりと言葉を選ぶ。
「私、仮釈放されたばっかりだし……」
「ええ」
「元……ヴィランだし……」
「……」
「……付き合って、まだ一週間だよ?」
ホークスは、静かに彼女を見つめ返した。その瞳には、迷いも揺らぎもない。
「だから、何ですか?」
「いや、いやいやいや!」
「ん?」
「だから何ですかって、逆に何ですか!?」」
彼女は思わず一歩下がって距離を取る。それを見てホークスは、少しだけ首を傾げた。本当に、不思議そうな顔だった。しかし彼は、言葉を置くように続けた。
「好きになったのに期間の決まりってあるんですか?」
問い返す声は穏やかだった。理屈をぶつけたいわけでも押し切りたいわけでもない。ただ、自分には最初から、その答えしかなかった。
差し出した小箱は、その間も一度も引っ込められない。震える手のまま、それでも、真っすぐに彼女だけに向けられていた。ホークスは、ふっと笑う。
「仮釈放中でも元・ヴィランでも関係ないです。俺は、名前さんと、生きていきたい」
ホークスは真っ直ぐに彼女を見つめて言った。それは、揺らぎのない声だった。
「……たった、一週間で?」
思わず漏れたその声にも、彼は、困ったように笑うだけだった。そして、静かに首を振る。
「たった一週間じゃないですよ……面会で、何回会ったと思ってるんですか」
その一言に、彼女は息を詰めた。最終決戦前のずっと前。まだ、敵とヒーロー兼、二重スパイという立場でしか向き合えなかった頃から、二人は幾度となく、顔を合わせてきた。互いの腹を探り合い言葉の裏を読み合い信じることも疑うことも許されなかった日々。それでも、その積み重ねがあったからこそ、今こうして、隣に立っている。ホークスは、少しだけ視線を落とし、小さく息を吐いた。照れが、その笑いに滲む。
「ずっと、好きだったんです……気づかんふり、しとっただけで」
「いや、それとこれとは……」
「別の話じゃないです」
彼女は一瞬、目を見開いて、戸惑ったまま首を振る。ホークスの言葉は穏やかだった。それでもその声には譲らない芯があった。彼女は思わず、両手で額を押さえる。「待ってぇ……」と困ったように笑いながら、小さくうつむく。
「ちょっと色々、頭の中が渋滞してる……」
その様子を見てホークスはようやく苦笑した。
「ですよね」と、小さく頷くと、指先で箱の蓋を閉じる。かちり、と、乾いた音が夜気へ溶けた。
「じゃあ、待ちます」
「……」
「明日でも、一年後でも」
あまりにもあっさりしていて、なんとも自然な口調だった。ホークスはそのままリングの入った箱をしまい込み、ポケットを軽く叩く。そして、彼女を見て今度は自分の胸元を軽く叩いて笑う。
「
「これ、って……」
「そうでしょう?」
「そう、かもしれないけど……」
彼女は困ったように笑い返す。その表情だけで十分だった。ホークスは、それ以上、答えを急がなかった。「ほら」と、歩き出しながら肩越しに振り返る。
「シュークリーム、待ってますよ」
「……あ、待ってよ」
小走りで追いつく彼女の歩幅に合わせて、彼も自然と速度を落とす。どちらからともなく、また手を繋いだ。今度は、誰も照れ隠しに離そうとはしなかった。しばらく歩いてから、ホークスが、横目で覗き込む。
「まだ顔、赤かですよ」
「ホークスの赤面症が移っただけ」
その言葉にホークスはむっとして眉を寄せた。そして、露骨に不服そうな顔をしたまま言う。
「……赤面症て。俺そんな頻繁に赤くなっとらんですよ」
「毎回だよ?」
「俺のは……たぶん、遺伝です」
「鳥個性の、名残だったりして」
その言葉に、ホークスの足が、ほんの少しだけ緩んだ。剛翼は、もうない。空を飛ぶこともできない。それでも、不思議と胸は痛まなかった。
隣には彼女がいる。それだけで、この夜は十分だった。ホークスは、柔らかく目を細める。
「……かもしれんですね」
それ以上、二人は何も言わなかった。失われたものの話をこれ以上重ねる必要はなかったから。失ったものを数え始めれば、きっと夜が明けても足りない。だから今は、繋いだ手の温もりだけを確かめながら歩いていく。
海から吹く風は少し冷たかったが、その冷たささえ、心地よく思えた。夜の海沿いに並ぶ二つの影は重なったり離れたりを繰り返しながら、それでも、同じ方向へゆっくりと伸びていく。答えはまだ先にある。けれど急ぐ理由はもうない。二人にはようやく、『同じ明日』を思い描けるだけの時間が流れ始めていたのだから。