どれほど時間が経ったのかは、正確にはわからない。時計を確かめるという発想そのものが彼の意識から抜け落ちていた。カーテン越しの街灯が夜の輪郭をほどきはじめ、白く滲んだ光が、床ににじむ頃、彼女が小さく身じろぎをした。
その瞬間、ホークスの瞼が即座に開く。眠っていたわけではない。だが起きていた、と言い切るのも、少し違う。彼は、彼女の呼吸と体温だけを感覚の中心に据えた浅い覚醒のまま、時間をやり過ごしていた。何時間経とうが関係ない。彼女に関わる感覚だけは、常に、研ぎ澄まされている。暗闇の中、ゴーグルを外した素顔が、彼女のすぐそばにあった。
「おはようございます」
寝起きにしては、妙に明瞭な声だった。つまりこの男は翼を布団代わりに彼女を包み込んだままほとんど眠らずに、夜を越えていたということになる。ホークスは身じろぎひとつせずただ彼女の顔を覗き込んだ。前髪が影を落とし、いつもよりさらに、大人びて見える。その影を払うように、指先で彼女の髪を、軽く掬う。
「結構、寝てましたね」
時計を見れば、時刻はすでに午後十時を回っている。夕飯どころか、昼以降、まともに口にしたものは何もない。静まり返った部屋で、くぅ、と気の抜けた音が鳴った。出所は他ならぬホークスの腹だった。
「……お腹、空きました」
「お弁当、買ってきてたでしょ」
返事の代わりに「あ」と間抜けな声が漏れた。完全に忘れていた。昼間に買ってきて、そのまま冷蔵庫へ放り込んだコンビニ弁当が二つ。理由は明白だった。数時間前にソファの上で起きた一件が、彼の思考を丸ごと、吹き飛ばしていたのだ。ホークスは、のそのそと起き上がり、キッチンへ向かう。冷蔵庫を開けると、コンビニの袋に包まれた弁当が、そのままの姿で鎮座していた。
「あった」
翼で弁当と箸を同時に掴み、もう一本の翼で、電子レンジのボタンを押す。器用というよりも、日常に溶け込みすぎていて、異様な光景だった。暗いキッチンに、紅い翼だけが、ぼうっと浮かび上がる。温め終えた弁当を持って戻りホークスはそのうちの一つを、彼女に差し出した。
「はい。唐揚げの方です。名前さん、そっち好きでしょ」
「二つ、買ってたんだっけ」
中身を把握した上で、迷いなく、彼女の好みを選んでいる。こういう細部だけはやけに抜かりがない男だった。彼女が床に座るとホークスは間接照明だけを点けて翼を座椅子代わりに広げると、いつもの定位置——彼女を背後から囲う距離に、収まる。そして、箸を割りながら静かに言う。
「いただきます」
その声に少し遅れて彼女も「いただきます」と手を合わせた。しばらくは、二人とも言葉を交わさず、コンビニ弁当をつつく音だけが部屋に落ちる。油っぽいの匂いと、電子レンジ特有の熱が、妙に現実感を連れてきた。そこで不意に、彼女が口を開いた。
「ホークスってさあ?」
「はい?」
「私と付き合う前も家では、ボクサーパンツと、Tシャツだけだったの?」
鶏そぼろ弁当を咥えたまま、ホークスの動きが止まる。ずいぶんと予想外の方向から飛んできた質問だった。食事中の話題としては、なかなか、攻めている。彼はもぐもぐと咀嚼して、きちんと飲み込んでから、ようやく返した。
「……なんすか、急に」
耳の先が赤くなっているのは、誤魔化せない。心拍が、わずかに跳ねたのも、彼自身が一番よくわかっている。弁当の蓋に視線を落としながら、少し間を置いて続けた。
「まあ……そうですけど。一人暮らし、長いですし」
サイドキックたちの間では、半ば有名な話だ。任務から戻ると、シャワーを浴びて、そのままの格好で事務所をうろつき「服を着てください」と何度注意されたかわからない。公安の人間としてどうなのか、と言われれば耳が痛いが、本人は、「家では楽にしたい」の一点張りで改める気配はない。ホークスは弁当を持つ手を止めて、横目で彼女を窺った。ほんの短い沈黙が二人の間に落ちる。そうして、彼女の表情を、読み取ろうとするように。
「なんで? 気になります?」
「……別に」
「別に、って言うわりには。じゃあ、なんで聞いたんです?」
じっとりとした視線が、飛んでくる。逃げ道を塞ぐタイプの目だった。興味がないならそもそも話題に出さない。興味があるから、聞いた。そこまで単純な理屈を彼女自身もわかっているはずでだからこそ言葉が濁る。ボクサーパンツとTシャツの男を想像した上での質問だと白状するようなものだからだ。その逡巡を、ホークスは、見逃さない。口角が、自然と持ち上がった。
「もしかして……見たかったとか?」
完全に調子に乗りはじめている。少し前まで、「触り方がえっちだ」と指摘されて大人しくしていた男とは思えない。反省というものには、どうやら賞味期限があるらしい。この男は、せいぜい三時間くらいかもしれない。彼女が視線を逸らした、その一瞬を、勝ちだと判断したのだろう。
「なにを?」
彼女の声は平静を装っているがわずかに硬い。ホークスはその響きを楽しむように、箸で自分の胸元のあたりを、とん、と示す。
「これ」
深夜のコンビニ弁当タイムに、何をやっているのか。だがホークスは至って真剣。いや、真剣な顔をしたまま、明らかに愉快そうだった。空いた手でTシャツの裾を引き、腹筋のあたりをわざとらしく覗かせる。
「それとも、こっちの方がよかった?」
間接照明の淡い光が彼の輪郭を縁取っている。黄土色の髪は影に溶けて、任務中に見せる派手さとは違う生活の温度を帯びた色気が滲んでいた。無防備というよりわかっていて晒している感じが余計に、たちが悪い。
「……いや、別に」
小さく突き放すような言葉。ホークスはちぇ、と、つまらなそうに舌打ちして裾を元に戻した。本日、何度目になるかわからない「別に」。その響きは彼の頭の中で、勝手に分析が走っている。照れ隠しの確率が約、八十パーセント。根拠は、経験則。統計の母数は、彼女一人分だけ。
ホークスは弁当に向き直り、パセリを口に運びながら、さらりと言った。
「じゃあ今度から家では、パンツ一丁にしようかなぁ〜」
反応を見るためのさりげない爆弾投下だった。ホークスはもぐもぐと箸の影で口元を楽しそうに歪ませる。
「涼しいですしね。合理的でしょ」
「……目に毒すぎる」
ぶっ、と吹き出しかけて、慌てて口を手の甲で押さえる。弁当がひっくり返らなかったのは奇跡に近い。見ない、とは言わなかった。視界に入ること自体は否定していない。つまり、同じ空間で生活していれば、目にする機会がある前提の言い方だ。それは、つまり——。ホークスは肩を震わせながら、笑いを噛み殺す。
「今の、自分で答え合わせしてるって、気づいてます?」
逃げ場のない的確な指摘だった。彼女が墓穴を掘ったことに気づくより先にきっちり突いてくるあたり、相変わらず目ざとい。空気が、少しだけ甘く、少しだけ危うくなる。ホークスは、何事もなかったように弁当に戻りながら、翼をわずかに広げて彼女との距離を保つ。逃がさないが、踏み込まない。そんな線引きを今夜もきちんと守ったまま——。
「最低」
吐き捨てるように言われたその一言にホークスは堪えきれないといった様子で、けらけらと笑い出した。翼で床をばしばし叩く音が夜の静けさにやけに楽しげに響く。
「最高の褒め言葉じゃないですかぁ」
最低と最高を同じ熱量で受け取れる男だった。矛盾を矛盾として処理しないその雑さが彼らしいと言えば、彼らしい。笑いの余韻を残したまま、ホークスは、弁当の容器を手早く片付ける。
「ごちそうさまでしたー」
蓋を閉めて、テーブルに置くまでの動作が妙に早い。空いた両手は、迷うことなく彼女へ伸び、再び背後から包み込むように、腕を回した。髭が柔らかく生えた顎が、彼女の肩にそっと乗る。
「目に毒、ってさ……ちゃんと意識してくれてるってことでしょ」
声は、甘かった。からかいよりも、じんわりと染み出すような喜びが勝っている。自分の存在を体ごと意識されている。それだけでこの男は十分満たされるらしい。
「……意識するに決まってるでしょ。彼氏なんだから」
その言葉に、彼女を抱く腕の力がきゅっと強まった。彼氏——。彼女が、無意識に選ぶその呼び方が、ホークスの心拍を、容赦なく跳ね上げる。「恋人」よりも、ずっと生活に近くて、独占欲を刺激する単語。その破壊力を、きっと彼女だけが知らない。肩口に顔を埋めたまま、ホークスが、小さく言う。
「……もっかい言って」
「もう、ナンパされてたことへの怒りは落ち着いたの?」
さらりと流された話題に空気が一瞬止まった。話題の、転換。意図的かどうかは分からないが、効果は抜群だった。あの炎天下での光景が、否応なく脳裏に浮かぶ。それでもホークスはまだ顔を上げない。
「落ち着いてなかったら、こうしてないです」
低い声。怒りというより、拗ねた響きだった。火は消えたが、熱は残っている。燻った炭が胸の奥で赤く、光っているような感覚。ようやく彼は顔を上げ、彼女と視線を合わせる。暗がりの中で瞳だけが妙にはっきりと、浮かび上がっていた。揺れているのは不安か、独占欲か、それとも——その、全部か。翼が無意識に、わずかに閉じる。逃がさないけれど、縛らない。その、ぎりぎりの距離でホークスは、彼女の反応を、静かに待っていた。
「ふーん? そうなんだ」
「落ち着いたのは事実です。でも——忘れたわけじゃない」
言い切りのあと沈黙が落ちる。弁当の残り香と夜気の静けさが混ざり合う、数秒。彼女が言葉を重ねないのを見て、ホークスの表情が、わずかに緩んだ。別に慰めてほしいわけじゃない。ただ、気持ちの置き場を、確かめているだけだ。
指先が彼女の頬に触れる。親指で輪郭をなぞるその動きは、慎重で、静かだった。
「俺がいない間のことを思い出すと正直、まだ、腹は立つ。でも」
「……」
「名前さんは、ちゃんと断ってくれた。それで、十分です」
言葉を切り短く息を吐く。十分だと言いながら翼は、離れない。許した。理解もした。けれど、手放す選択肢は最初からない。彼女はようやく、短く答える。
「そっか」
「……そっか、って」
思わず笑みがこぼれた。彼女はいつもこうだ。余計な説明をしない。一言で済ませる。その潔さが、もどかしくも、たまらなく愛おしい。
ホークスは指を頬から顎の下へ滑らせ、そっと上を向かせる。自然と、視線が絡む距離。吐息が触れるほど近い。間接照明の逆光で、彼の影が、彼女に重なった。言葉はなかった。唇が、降りてくる。衝動ではない、触れるだけのキス。短く、柔らかく。離れたあとも彼の目は閉じたままで、名残だけが、そこに残る。
「……急に、なあに?」
その柔らかい声音に彼は薄く目を開ける。その瞳には、暗がりに反射する光と、もっと別の熱が混在していた。ホークスは、鼻先が触れたままの距離で、そっと囁いた。
「……足りない」
低く、掠れた一言。返事を待たず、もう一度。今度はさっきより深く少しだけ長い。離れたあと唇の端を舐めるような仕草。翼がざわりと広がった。無意識の反応だった。紅い羽根が二人を囲むように閉じていく。外の世界を遮断するように。翼が閉じきる前の、最後の光——街灯の細い線が消えた。完全な暗闇。残るのは近い息遣いだけ。
三度目。今度は、ためらいがなかった。彼女の後頭部に手を回し、角度を変えて深く口づける。舌先が唇をなぞる。暗闘のなか、音だけがある。衣擦れと微かな水音。やがてホークスは唇を離し荒い息のまま額を合わせる。応答がない。それに気づいた瞬間、ホークスの動きが止まった。探るように、暗がりの中で、彼女の顔を覗き込む。
「……名前さん?」
暗くて表情は判然としない。けれど、ホークスには分かる。耳を澄ませば翼越しに伝わる微細な情報がある。心音の速さ、呼気の長さ、身体の力の抜け具合。彼は一瞬で、それらを拾い上げた。
「ん?」
次の瞬間、彼女の体が、ぺたりと彼に預けられる。力が抜けた、その重み。緊張していたのは、ホークスの方だった。返事のない数秒のあいだに拒まれたのか、怒らせたのか、それとも——と、最悪の想像を、いくつも走らせていたのだ。
「……びっくりした。急に黙るから」
声はくぐもり耳が熱を帯びる。闇の中でなければ真っ赤に染まった耳殻が丸見えだっただろう。裏の仕事では命のやり取りをしてきた男が恋人の沈黙ひとつで動揺する。その滑稽さが、そのまま鷹見啓悟という人間の、核心だった。彼は、ぐりぐりと彼女の首元に顔を埋める。
「なんか言って。じゃないと……俺の心臓、もたない」
「何を言ってほしいの」
首元から顔を離さないままホークスは、んー、と、小さく唸った。考えていなかった。ただ黙られるのが、怖かっただけだ。言葉を求められて、途端に詰まる。こういうところが、プロヒーローとして、どうなのかと自分でも思う。少しして、ようやく絞り出す。
「……好き、とか」
ずいぶんと小さな声だった。さっきまで、あれほど近づいておいて、欲しいのはたった二文字。背中の翼が意思とは関係なく、わずかに震える。
「はは。好きだよ」
動かなくなった。三秒ほど完全に固まる。自分から求めておいて、脳が、処理を拒否している。ホークスは、がばっと顔を上げ暗闇の中で彼女を凝視した。涙ではないが、それに近い何かが瞳の奥で揺れる。翼が一斉にばさりと開き、壁にぶつかって鈍い音を立てた。それから、声にならない声を漏らして、両手で彼女の顔を包む。震えてはいない。ただ、ひどく熱かった。顔も手も全部。
「ずっるい……ほんなこつ、こすかよ。そーいうとこ」
言葉は返ってこなかった。けれど彼女は笑っている。声の温度でそれだけは分かる。その気配にホークスは、ぎりっと歯を噛みしめた。堪えきれなくなったように彼女を翼ごと抱えて、そのまま後ろへ倒れ込む。ぼすんとソファが低く軋んだ。仰向けになったホークスの上に、彼女が乗る形。数時間前と、同じ配置だ。翼がばさりと広がり、即席のシーツになる。天井に届きそうな紅い羽根のカーテン。ホークスは見上げたまま彼女の腰に腕を回した。逃がさないように。けれどその力はまだ、どこまでも優しい。暗い部屋に、二人分の呼吸だけが、静かに重なっていた。
「……なぁに?」
その声に、ホークスは下から見上げて、にっと口角を上げる。いつもの余裕を装った笑み——に見せかけて目の奥だけが正直だった。熱を孕んだ視線は隠す気もなく彼女を映している。剥き出しの欲。言葉は出さず、腰に回した腕にぐっと力を込めた。彼女を自分に密着させるように引き寄せる。Tシャツ越しに、体温が重なる。息が近い。空いた手が彼女の背筋を、すうっとなぞる。慎重さはあるのに、遠慮はない。さきほど注意された触れ方を今度は隠す気がなかった。明確な意思を持った指。目聡く耳聡い男は知っている。彼女が「好き」と言ったあとのほんのわずかな緩みを。狙っているわけじゃない、と本人は言うだろう。けれど結果として、それを絶対に逃さない。
「……さっきの続き、してもいいです?」
「んー? どれだろう」
とぼけたその返しに、彼女を触る指先の軌道は止まらないまま、ホークスは耳元に寄って、喉の奥から低く囁いた。
「全部」
短い一言に積み重なった時間が含まれていた。路地裏から始まってソファで止められて今に至るまでの——全部。つまりこの男は最初から段階を踏む気がなかった。背中を辿る手は腰骨のあたりで円を描く。急かさない、と決めた声音のまま、指だけは問い続ける。言葉より先に身体に選択を委ねるやり方だった。許可を言葉で貰う前に体の方から崩しにかかっている。無自覚か意図的かは本人のみぞ知る。
返事はない。けれど押し返されもしない。それで十分だった。ホークスは、それを受け取った。躊躇なく彼女を横に導き向かい合う形に整える。顔と顔の距離は拳ひとつ分もない。そして前髪の奥から、まっすぐに見つめて。
「止めてほしかったら言ってください。ちゃんと聞くんで」
数時間前の��聞けなかった�£jと同じ口がそう言っている。成長か、ただの作戦か。おそらく、後者だが、どちらにせよ声だけは本物の誠実さを纏っていた。それでも返事を待ちきれず、額から瞼へ、鼻筋、顎へ。ひとつずつ距離を確かめる。そうして、最後のひとつで唇に辿り着いたとき、今度は深く、腰に回した手を支えて、もう一方が後頭部を守るように添えられる。この瞬間、紅い翼が、二人だけの世界を閉じていた。
「ん……」
合間に、抑えきれない吐息が零れる。それが、何かの合図になりホークスの中の何かを外した。角度を変えて、さらに深く口づける。腰にあった手がTシャツの裾に触れ内側へ滑り込む。素肌に指が触れた瞬間、翼がびくりとわずかに震えた。冷たい指だった。鍛えられた手ではあるが冷えた指先だけが、体温を裏切っている。その温度差が彼女の体温と交わり、肌の上を這う。その差が、意識を強く引き寄せる。
唇が離れる。短い距離に荒い呼吸だけが残る。ホークスは、何かを言いかけてやめた。言葉より先に、夜が続きを許している。
「冷たかったです?」
問いかけは形だけで、手を引く気配は最初からなかった。彼の掌は彼女の脇腹に沿って確かめるように、しかし、躊躇なく滑り上がる。指先ではなく、掌全体で包み、温度を移すという名目で、ゆっくりと円を描いた。
「……冷たい」
「すみません。すぐ温まるんで」
謝りながら、手は止めない。謝罪と行動が矛盾している。その不一致が彼の性格を端的に語っていた。温まるまで、待つつもりはないと、動きが言っている。掌を広げて肌に押し当て摩擦で熱を生む——そんな理屈を彼自身だけが真顔で信じているらしい。
もう一度、唇が落ちる。今度は、首筋。鎖骨の窪みを辿るように舌先が触れ、彼女の喉の奥で、小さく息が引っかかった。冷えた手と熱を帯びた口。上下から同時に与えられる刺激が神経を細く引き伸ばす。計算か本能か判別する余地はない。ただ厄介だ、という感想だけが残る。Tシャツの内側を進む指は腰骨の縁を越え肋骨へと向かっていた。
「……ほんと、好きだね」
何が、とは聞かなかった。彼は、首元から顔を離し半分溶けたような甘い瞳で彼女を見下ろす。余裕に見せかけて、その奥に、落ち着きはない。
「上も下も、全部って言ったでしょ」
「……そういう意味の、全部?」
「そうです」
少し前の「ちゃんと聞く」という宣言はどこへ消えたのか。全部と言った男は段階という概念を軽やかに手放している。肋骨まで来ていた手が、下着の縁で、引っかかる。焦らすように、そこで止まる。指一本分。布と肌のあいだに冷たい空気が忍び込み、彼女は思わず息を吸った。そして、耳元に、低い声。
「止めてって言うなら、今だけですよ」
「……意地悪」
くっ、と喉の奥で、彼が短く笑う。その振動が触れている距離の近さを強調した。
「意地悪でやってるわけじゃないです」
嘘だった。完全に。止めて、と言わせたいのか進みたいのか。多分、そのどちらも。この男は、彼女から言葉を引き出したくて仕方がないのだ。
ホークスは、指を一節分だけ動かして、下着のワイヤーを越えて、指の背を素肌に触れさせた。そのまま掬い上げるように、胸の膨らみを下から包む。冷たさは、もうない。彼女の体温を吸って温まった手つきは、思いのほか丁寧で、乱暴さを避けるみたいにゆっくりだった。鎖骨にもう一度口づけを落としながら、手の中でゆっくり、形を確かめるように時間をかけて。
彼女の甘い声はまだ出ない。けれど身体は正直だった。背中がわずかに反り、呼吸が浅くなる。その変化をこの男が取り逃がすはずもない。手の力がほんの少しだけ強まる。下着越しではなく、直に。ずらした布の隙間へと指が潜り込む。翼が二人分の熱を含んで、かすかに膨らんだ。外界は遠い。音も気配も、ここには届かない。この紅い繭の内側にあるものは今はただ、二人だけのものだった。
「……あっ、」
ようやく零れたその声を合図にしたかのように彼の指からためらいが消えた。先端を親指の腹でゆっくり転がす。押して離して、その反応を見ている。視線の鋭さはこういう場面でも衰えない。どこが気持ちいいのか、どこで息が留まり、声が漏れるか——観察は容赦がなかった。そうして、彼の唇が、首元から耳の裏へ移る。
「……いい声」
囁くというより、噛みつくような低さだった。耳朶を甘く食む。同時に下の手がもう一方の胸に伸びる。両手。さっきまで冷えていた指は、もう彼女と同じ温度になっている。揉むのではない。包み、形に沿わせ、逃がさないように指を運ぶ。
「もっと、聞かせて」
ヒーローの声とは思えなかった。冷徹な任務をくぐり抜けてきた耳も目も手も、今は彼女にだけ向けて研ぎ澄まされている。小さな音一つ、取り逃がす気はない。
「……ふ、ん……っ、」
翼がきゅっと狭まった。獲物を捕らえた猛禽の本能。掌の中の温もりを、たった一人の雛鳥を、逃がすつもりはない。片手が胸元から離れた、と思った次の瞬間。Tシャツを掴んで、一気に捲り上げられる。手慣れているわけではない。少し、もたつく。そのぎこちなさが、逆に、生々しい。露わになった肌を見下ろして、彼が息を呑むのが分かった。暗闘でも見逃さない視界が、ここでも働いている。翼の羽根が拾った微光を増幅して、黄土色の髪の下で、獣のような目が光った。
「……信じられん」
誰に向けた言葉か。たぶん自分自身でもあり、彼女自身でもあるのだろう。下着をずらしたまま直に口を寄せて、舐めて吸って。歯は立てない。丁寧なのに、執拗だった。右を口で、左を手で。同時に進めるその器用さだけは飛行と羽の制御で鍛え抜かれている。合間に見上げた彼の口元は、濡れていた。
「……何回も、見てるでしょ」
その言葉に彼は、口を肌から離さないまま低く笑う。その振動が、肌に伝わる。舌でなぞって、もう一度、確かめるように舐め上げた。
「何回、見ても……」
過去にも聞いた気がする台詞だった。語彙は、もう機能していない。日本最速の頭脳は、今この距離で完全に停止している。ホークスは、絶えず右の胸を吸い上げながら左の胸を指で弄ぶ。爪の先で、かすかに引っ掻くように。
「慣れるって、思いよったと?……無理」
付き合ってどれほど経つのか、きっと彼自身がいちばん把握していない。数え切れないほど見てきたはずの体に毎回こうなる。体は、慣れという言葉を拒む。飽きるどころか、触れるたびに欲は鋭くなり衝動は研ぎ澄まされていく。
ホークスは、ぷは、と短く息を吐いてようやく口を離した。残った赤い痕に一瞬、視線を落とし満足そうに目を細めるとすぐ反対側へ移る。同じことを、繰り返す。見せる相手などいないのに、これは明確な印——マーキングだった。紅い翼に包まれた内側で、紅い痕が増えていく。
「……んっ、んん……」
その声だけを頼りに左からも離れ、そのまま、上へ這い上がる。胸から首、首から顎へ。最後は逃げ場を塞ぐように唇へと口づけた。自分の味が残った唇で深く。そのキスの最中に、彼の膝が、彼女の間に入り込む。体重を預け、じわりと圧をかける。そうして息の合間に、低く。
「……下も、いい?」
問うてはいるが、もう手は動いていた。太腿の内側を撫でる掌。捲れ上がったTシャツの下で、指はすでにショーツのウエストに掛かっている。それは確認というよりも、通告に近い。
「……わざわざ、聞かないでっ」
返ってきた言葉に、眉がわずかにぴくっと跳ねた。聞かないでと言われた。「いい?」と聞いたのは、彼女のためだった。数時間前の二の舞を、避けるための——失敗を繰り返さないための問いだったはずが裏目に出る。喉の奥で、低い笑いが零れた。
「了解」
一言で遠慮が消える。音を立てずにショーツの中へと手が入った。しかし、彼女が顔を背けるとすぐにその手を抜き、今度は布地の上から、指の腹が押し当てられる。そのまま、耳朶に歯を当てながら囁く。
「もう聞かん。……好きにする」
宣言と同時に指が動いた。布越しでもはっきり分かる熱と湿りに、彼は一瞬だけ呼吸を詰める。それから、獰猛に笑った。布の上から、円を描くように、ゆっくりと。直接触ればいいのに、そうしない。焦らすために、あえて、一枚隔てる。
それは数時間前に味わった焦れったさの返礼のつもりかもしれない。しかし彼女は、そんな意図など、知る由もない。そうしてようやく指先が、下着の端に掛かる。
「脱がしますね」
今回は問いではなかった。短い宣言だけが落ちる。するりと布が、太腿を伝って下り、行き場を失った熱が空気にさらされる。直に触れた瞬間、彼の呼吸がわずかに乱れた。中指の腹が、下から上へすうっと滑り、濡れた感触を確かめる。その確かさに彼は思わず息を飲む。指を伝った熱に。そのまま額を彼女の肩に預けると、声が震れた。
「……こんなになってる」
「言わないで……っ」
「無理。……言いたくなる」
肩に顔を埋めたまま、小さく笑う。中指はそのまま浅く潜り、第一関節まで。内壁が、指を締めつける感覚に彼自身の呼吸も次第に乱れていく。指を曲げて、探るように、内側の柔らかな一点を押した。羽根一枚で人を運ぶ精密さを持つ指先が今はさらに、繊細な仕事をしている。どこをどう触れれば反応が返るのか、声が出るか、耳で拾い指で確かめる。最短で核心に辿り着く——やっていることは、いつもと変わらない。ただし相手が違うだけだ。ホークスは指を動かしながら耳元で低く囁く。
「声、我慢せんでよかよ。……俺しかいない」
独占欲の滲むその言葉どおり、紅い翼は外界を完全に遮断している。世界はここで閉じ、密室が出来上がる。その内側で彼は恋人の反応をひとつずつ受け取って、暴いていく。
「……はぁ、ん……っ、」
指が、もう一本、増えた。薬指。二本が並んで揃い、ゆっくりと出入りする。籠もった水音が、翼の内側で増幅されて、逃げ場を失って、残る。くちゅ、という音が、静かな寝室では残酷なほど鮮明に響いた。それを聞いた、彼の指先の速度が上がる。いい場所を見つけたらしい。少しざらついた反応のいい場所。ホークスはそこを集中的に執拗に、こすり上げながら。
「……ここ?」
聞かないでと彼女から告げられていた。だから答えは言葉ではなく体で、指で確かめた。答えはこの体が、教えてくれる。締まる内側、わずかに跳ねる腰が、何よりも雄弁だった。翼がぶるっと小さく震える。彼の感情が制御を外れかけている証だった。
そのとき不意に無機質な振動音が割り込んだ。テーブルに放られていた端末が存在を主張する。画面の光が紅い翼の内側にちらちらと反射する。止まらない。呼び出しは、続いている。スマートフォンのバイブレーションの音と、くちゅという水音。二つが、不協和音のように重なっていた。彼は二本の指をそのまま動かしながら肩に埋めていた顔を上げ、テーブルを一瞥した。瞳の温度が一瞬だけ変わる。仕事の顔だ。しかし指は抜かれない。殺意と愛情と任務意識が、三つ巴でぶつかって、愛情が圧勝した。ホークスは、彼女の中に触れ続けたまま、スマートフォンに向かって低く唸るように言った。
「へい、シリ。今、取り込み中って伝えといて」
誰に向けた言葉なのかは分からない。今、この部屋に伝える相手はいない。紅い翼は閉じられ、外界との接続は、断たれている。それでも着信は執拗に続き、無機質な振動が、この密室にだけ、異物のように残った。
「……出た方が、いいよ」
その忠告に、彼は露骨に不満そうな顔をした。まるで、玩具を取り上げられる直前の、子どものそれだ。だが、彼女に言われては無視できない。ホークスは、抑揚をつけたため息を吐き切ると、渋々と指を引き抜く。ぬるり、と残る感触。彼は一度だけそれを見下ろしすぐに視線を逸らした。見なかったことにする、という選択。ソファから転がるように起き上がりスマートフォンを掴む。翼で彼女の体だけを隠して通話に出る。声の切り替えは、一瞬だった。
「はい、ホークスです。ええ、はい。……はあ?今から?」
会話の内容は、聞こえない。ただ、彼の背中が次第に強張っていくのだけは分かった。羽根が、わずかに逆立つ。通話を終えて振り返った顔は、ずいぶんと暗かった。申し訳なさと、苛立ちが、同じ重さで居座っている。断れない呼び出しだということは、説明されなくても伝わる。
彼はスマートフォンを一度、ソファの上に放り彼女のもとへ戻ってきた。そのまま覆い被さると額と額をくっつけた。
「ごめんなさい、行かなきゃ」
「……うん、いってらっしゃい」
それでもすぐには離れなかった。額を合わせたまま、時間だけが過ぎる。三秒、五秒。それか、もっとだったかもしれない。やがて、のろのろと体を起こし、脱ぎ散らかしたジャケットを羽織り直す。その手つきは、少々、雑だった。アンダースーツを整えて、ゴーグルを引っ掛ける。日常が逆再生されていく。
ホークスが窓際に立ち翼を広げると夜風が入り込んだ。振り返った彼の顔には、行きたくない、と正直に書いてあった。彼は一歩また戻り彼女を抱きしめる。ぎゅう、ではない。骨がきしむほどぎちぎちに。逃がさない、という意思の抱擁。
「——帰ったら、続き。絶対」
それは宣言であり、約束であり、契約だった。破ったらどうなるかは、声の低さで察せられた。ばさり、と翼が開く。夜空に、黄土色の影が飛び出し、あっという間に見えなくなる。なんとも、速すぎる男だ。
部屋には、まだ彼の体温と閉じられた翼の名残だけが残っていた。続きを待つ時間が、静かに、息づいている。