夏の陽射しは容赦がなくアスファルトの表面を焼き切る勢いで照りつけていた。
人混みの中。視界が捉えたのは見慣れた背中とその横に張り付く、知らない男の姿だった。男が彼女に話しかけている。距離が近い。近すぎる。声は聞こえないが男の口元の動きと彼女の曖昧な相槌の仕草が妙に生々しく目に刺さる。手を伸ばせば届く間合い。その事実が、ひどく不愉快だった。剛翼が意思とは別にわずかに震える。考えるより先に、身体が動いていた。屋根の縁を蹴り、音を殺して滑り降りる。群衆の頭上、すれすれを低く飛び、二人の間へ割り込むように着地した。
「あー、すみませんね。ちょっと用事あるんで、この人」
声の調子は軽くいつも通りで彼女の腕を自分の方に引き寄せた。守るというより、確保する、に近い所作だった。男に向けた笑みは、完璧なヒーロー仕様で、黄土色の髪の下——ゴーグルの奥の視線だけが「失せろ」と、静かに、しかし明確に退場を促す。男はいきなり現れたヒーローに目を丸くし何か言いかけたがホークスが首だけ回して一瞥すると、曖昧に口を動かしたあと、その口をつぐんで、人波の中へと消えていった。
「ありがと、助かったよ」
礼の言葉が落ちてくる。それに対して、彼女を抱えたままの腕は、離せなかった。むしろ、腰に回した手に、無意識に力がこもる。
「助かったよ、じゃないでしょ」
声のトーンが一段下がった。自分の声が思ったより低い。周囲ではスマホのカメラが向けられている気配があるが、気にならなかった。構わず、救助活動の一環、という顔をして、彼女の耳元へその顔を寄せる。
「なんで、逃げんやったと?あげなん、無視して歩けばよかったっちゃないですか」
翼が苛立ちを隠しきれず小さく揺れる。近くのベンチで座っていた老夫婦が「あら、ホークス」「素敵な個性だねえ」と楽しげに囁き合っているのが視界の端に入るが音としては届かない。今の彼の意識はすぐそばにいる彼女にしか向いていなかった。
「わかった、わかった。ごめんって。暑いから、離れてほしいなぁ」
そこでホークスはようやく距離を取る。いや、正確には体だけだ。手だけはまだ離さなかった。指をしっかり絡め直し、恋人繋ぎに切り替える。そのまま、少し甘い調子で言う。
「ねえ、名前さん。さっきの男何言いよったと?番号とか聞かれた?……まさか、教えてないですよね」
にこりと、笑顔は貼り付けたまま。問いかけの形をしているが、これは確認。いや——尋問だ。もはや、取り調べに近いものがある。
「教えてないよ。ほんと、心配性だなぁ」
彼女が絡めた指をほどこうとする。その動きが妙に引っかかった。ホークスは目を細めて、その空いた隙間を埋めるように、きゅっと握り直す。
「心配性やなくて。これは正当な権利の行使ってやつです」
通りすがりの女子高生たちが二人の姿を見て、「カップル?」「いや、あれホークスだ」「彼女いたの?」と、ざわつき始めるのがわかる。だが当人は相変わらず一切、気にしていない。そんなものは、どうでもよかった。むしろ、見せつけるようにして彼女側へ半歩寄る。そのまま歩き出しながら空いた手でゴーグルを下ろす。パトロール中だったことを思い出したふりで、軽く周囲を、見渡す。けれど、視線はすぐ彼女に戻る。三秒も持たない。その事実に、ホークス自身が気づいていたかどうかはわからない。
「ていうかさ。今日このあと、時間あります?」
言葉の選び方だけ見れば提案の形をしているが声の運びにはすでに結論が含まれている決定事項だった。ホークス自身それを自覚していないわけではない。ただ彼女をこの炎天下にもう少しでも置いておく気はなかったし先ほどの出来事が頭の奥でまだ燻っている。
「俺、もう上がるんで。どっか、涼しいとこ行きましょ」
「いいけど。そもそも今日、こっち来てたの?」
「ええ」
「ええ、って……。で? 涼しいところって?」
問われてホークスは人差し指で顎をとんとんと軽く叩きながら、考えるフリだけをする。ほんの一瞬だけ。だが、答えは最初から決まっている。
「んー......俺のセーフハウス、とか」
あまりにも早い回答だった。口に出した途端、自分でも早すぎたなと思う。「涼しいところ」という条件に対する検討の痕跡はほぼゼロである。彼女の方をちらりと見下ろすと、案の定、微妙な顔をしている。その表情を見逃すほどホークスという男は鈍くない。口角をわずかに上げ、わざとらしく言った。
「あ、今——『連れ込みたいだけでしょ?』って顔しました?」
してない?と、付け足す前に、彼女の表情が、わずかに揺れる。図星を突かれたような顔。その空気を感じ取って、それが可笑しくてホークスは喉の奥で、くくっと笑った。背中の羽根が気分を映すように緩み、一枚、ふわりと二人の肩の間に落ちる。
「わかってるなら、聞かないで」
たしなめる声。だが拒絶の温度ではない。そこを正確に嗅ぎ取ってしまうあたり、自分はどうしようもなく性質が悪い。翼がばさりと、隠す気もなく広がった。
「や、です。言います。だって反応、かわいいんですもん」
真昼の強すぎる日差しの下、『速すぎる男』と称されるヒーローは完全にこの瞬間、ただの若いだけの男だった。
遠くで「ホークス!写真撮ってー!」と、叫ぶ声が飛んでくる。ホークスは翼の先で軽く断りのジェスチャーを返すだけで、その視線は彼女から離さない。歩調を合わせ肩が触れそうな距離まで詰め寄り、声を落とす。
「じゃあさ。アイス買って帰りましょ。名前さん何味がいい?」
さっきまでの低く張り付いた声色はもうない。ころっと甘えた声に切り替える速さは、自分でも呆れるほどでさすがトップヒーローの面目躍如と言うべきか——。いや、それが��彼女限定�≠セという自覚もちゃんとあった。単にその彼女限定のスイッチが、切り替わっただけだ。
「ソーダ味」
横から聞こえてきたその一言に、胸の奥が軽く跳ねる。ぱっとホークスの顔が明るくなり、顔に出すまいと思っても、無理だった。
「出た、ソーダ味。ですよね。ほんと、ブレないっすね〜」
近場のコンビニに入るとレジの店員がこちらに気づき、目を輝かせる。だが、ホークスは気にも留めずまっすぐアイスケースへ向かった。片翼を伸ばして、棚の上段の奥に残っていたソーダ味のバーアイスを器用に、引き寄せる。二本取って、一本を彼女に差し出す。そうして、もう一本の、自分用のチョコミントをぷらぷらと軽く振った。
「俺、これで。あと、鶏そぼろ弁当も買っていいです?」
甘いものが好きなくせに最終的に落ち着くのは鶏肉。自分でも、ちぐはぐだとは思うが、今さら直す気もない。ホークスはさりげなく彼女が持つアイスの袋も、自然に会計へ出した。財布を探る動きが、やや早くなる。
「いーから、俺が出しますって」
「……そう? ありがと」
会計を済ませて店を出た瞬間、外気の熱が容赦なく、肌を包み込んだ。さきほどまでの冷房が、嘘だったかのように空気は重く、息をするたびに肺の内側まで温められる。
ホークスは、レジ袋を翼の内側へひょいと挟み込む。個性の保冷効果をこういう場面で使う事にもはや、ためらいはない。熱と冷気、その両方を抱えたまま歩き出す。彼女の隣にいる。それだけで胸の奥に残っていたざらつきが少しずつ輪郭を失っていく。完全に消えるわけではない。ただ、鋭さが丸くなる。その変化を、ホークスは黙って受け取っていた。
歩道を並んで進みながら、彼はさっそくチョコミントの包装を剥き始める。行儀がいいとは言えない。だが、溶け始めているのを前に待つという選択肢はなかった。
「ね、早く帰りたい」
その一言に込められた意味が、「アイスを食べたい」なのか、「二人きりになりたい」なのか。おそらく本人にもはっきりとは分かれていない。多分その両方だ。ホークスは溶けかけのアイスを舐めながら、横目でちらりと彼女をうかがう。
「……さっきの男、ちゃんと離れましたかね」
声は軽い調子を保っているが目だけは違った。もしも離れていなかったら、どうするか。そんな先回りの思考が、すでに、走っている目だった。執着の強い人間はこちらが思う以上にしつこい。空の彼方まで追いかけてくる類のものも、確かにいる。——たとえば、この男とか。
「暑いっすねー。汗でびちゃびちゃだ」
アイスの棒をくわえたまま彼女を上から下まで眺める。夏の光は残酷で汗で肌に張りついた服や首筋を伝う雫まで、余すことなく、照らし出していた。ホークスは思わず、短く息を吐く。
「……それ、わざとですか」
「え?」
返事を待たずにホークスは食べ終えたアイスの棒を口から外して、自分のジャケットを脱いだ。ばさりと彼女の肩にかける。黒のアンダースーツ一枚になった筋肉質な上半身が、陽に晒される。
「着て。……目のやり場に困る」
「暑いよ、これ」
「いいから。ほんとに、困るんですって」
二度口にした。困ると言いながら視線は外れていない。その矛盾に自分でも気づいている。信号待ちの交差点で、向こう側からサラリーマンが、「ホークス?」と小さく呟いた。だが、その声は翼に遮られ、彼女の耳には届かない。ホークスはさらに一歩近づき、彼女の耳の後ろに垂れた汗を親指でさっと拭った。触れたのは一瞬だが意識はそこに引き留められる。
「着いたら、シャワー浴びてください。うちの、使っていいんで」
結局、そこに帰結する。この男は、思っている以上に帰巣本能が強い。信号が青に変わり二人は横断歩道を渡る。渡りきった先の路地に入ると、人通りがぐっと減った。建物の影に入り日差しが遮られる。暑さがわずかに和らいだと思ったその直後だった。ホークスが突然立ち止まる。彼女をビルの間の壁際へと導き、両手を顔の横につく。影が落ちて、距離が詰まる。いわゆる、壁ドンの体勢だった。
「もう無理」
言葉は唐突で、一切の逃げ場を与えなかった。ホークスは反射的に額を寄せる。こつん、と軽く触れる感触。至近距離で、彼女の目を覗き込み、吐息が互いの頬を掠めるほど近づく。
「外だと触れられないのが、ストレスなんですけど」
声は低く、けれども、荒れてはいない。ずっと抑えてきたものを、ようやく言葉にしただけだ。ここは路地裏だ。人通りは少ないが公共の場所であることに変わりはない。誰が、いつ現れるかもわからない。それでもホークスは身を引く気にはなれなかった。
「さっきから、ずっと我慢してました」
紅い羽根が数枚、ひらりと舞い落ちる。それは二人の間に落ちて、薄いカーテンのように視界を遮る。守るためなのか、閉じ込めるためなのか。自分でも区別はついていない。そして声をさらに低く落とす。
「ね……? ちょっとだけ」
「だめ!」
即座の拒否だった。ホークスの動きがぴたりと止まる。短い沈黙。紅羽のカーテンが、はらりと崩れ、夏の日差しと蝉の声が路地に戻ってくる。壁についた手は、そのまま。だが、それ以上踏み込まない。ホークスは目を瞬き、それから、ゆっくりと口を尖らせた。
「えー」
完全に、撃沈だった。ヒーローとしての顔は、どこにもない。拗ねた中学生のような表情で渋々体を起こすが、その唇は突き出たまま戻らない。
「理由は。ちゃんと理由、聞かせてください」
どんな権利だ、と、自分でも思わなくはない。だが、今の彼にはそれを引っ込める余裕がなかった。ホークス本人は、至って真剣だった。
「俺には、知る権利があると思うんですけど」
翼が、しょんぼりと半分ほど畳まれる。まるで飛ぶ気力まで削がれたような様子に、我ながら、大げさだと分かってはいる。
「誰かに見られたら、どうするの。バカ」
最後の一言でホークスの目がきらりと光った。叱られているはずなのに、その響きが妙に、胸に残ったらしい。
「見られたらまずい関係ってのも、悪くないじゃないですかー」
反省の色は、薄い。むしろ、余計な火をくべている自覚すらある。ホークスは、壁からゆっくり手を離し、その代わりに、彼女の頬へ手のひらを当てた。グローブ越しの感触は、ひんやりとしていて、夏の熱を帯びた肌との差がはっきりとわかる。それでも、そこから先には進まない。触れているのに、触れきれない距離。そのもどかしさを飲み込むようにして彼は息を吐いた。
「大丈夫ですって。ほら、羽で隠しますし。誰も見てない」
実際に、路地には人影ひとつなかった。だが、問題はそこではないことをホークス自身よくわかっている。彼はふっと表情を緩め、声だけを落とした。押し通すのではなく、撫でるように。
「ごめんなさい。でも……嫌だったわけじゃないでしょ」
確認というより、ほとんど確信の響きだった。返事を待つ間すら惜しむように彼女のジャケットの襟を整えるふりをして、指先が首元をなぞる。触れるか触れないか、その曖昧な境界を選んだ。
「……ほら、早く行こう?」
やや呆れを含んだ声。それを制止とも拒絶とも受け取らず、ホークスはその一言を合図のように受け取った。口元が、にっ、と自然と緩む。
「了解。飛びますよ」
言うが早いか、宣言と同時に、紅い翼が大きく広がった。路地の幅いっぱいに羽が満ちて空気を孕む。羽ばたきひとつで、二人の身体がふわりと浮いた。片腕で彼女をしっかりと抱え上げ、もう片方の翼で風を捉える。ぐん、と高度が上がる。
「ちゃんと掴まっててくださいねー」
冗談めいた軽さを保ちながら腕に込める力だけは抜かない。街並みが眼下に広がりビルの谷間を縫うように紅い翼が滑っていく。地上では人々が豆粒ほどの大きさで、空を見上げて、指を差している。見慣れた光景だ。だが今日はその腕の中の『荷物』がいつもと違う。大切な存在そのものを抱えてホークスは風音に紛れない距離で、彼女にだけ届く声を落とした。
「帰ったら……さっきの続き、ですからね」
相談ではない。有無を言わさぬ、宣告だった。選択肢も残さず、拒否権も、とっくに剥奪されている。
「変態」
一言、その返しにホークスは思わず声を上げて笑った。風に煽られて紅羽が数枚、空に散る。
「最高の褒め言葉でーす」
やがて、上空から見える彼のセーフハウスが、どんどん近づいてくる。あと数分。そう遠くない未来に待っているのは、冷房の効いた室内と——彼自身が自嘲気味にそう呼ぶ��変態の巣窟�≠セ。屋上にふわりと着地し、非常階段を使って居住のある階へと降っていく。慣れた手つきで鍵を開けドアを押しやった瞬間、冷えた空気が、汗ばんだ肌を撫でた。外との落差が、ひどく、生々しい。ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。
鍵をかけたその瞬間だった。振り返るより早くホークスは背後から彼女を抱きしめる。逃げ道を塞ぐほど、強くはしない。ただ、確かに囲い込む力で。顎を彼女の肩に乗せ、すん、と息を吸う。汗と外気と、彼女自身の匂いが混ざった空気が、胸の奥に落ちてくる。ここまで我慢した分だけ、衝動が、静かに牙を研いでいた。
「暑かったでしょ。お風呂沸かすんで先入って」
気遣いとしては申し分ない言葉だった。けれど回された腕は一向に解けない。背中に回ったまま力を抜く気配がない。そして耳元で、ぼそりと。
「一緒に入るって選択肢も……あるっちゃけど」
ついさっき、路地裏で「だめ」と言われた男はもう、どこにもいない。自宅というホームグラウンドに戻ったホークス——否、鷹見啓悟は、翼をゆるく広げたまま、彼女を逃がす意思を、微塵も見せなかった。
「どうしてそんなに真っ昼間から盛ってるの?」
たとえ、咎める調子に聞こえていたとしても、この男は一切、悪びれない。
「朝からずっと、ですけど?」
清々しいほどの、開き直りだった。ナンパ男を追い払っていたときもアイスを選んでいたときも彼の思考の片隅には、同じことがずっと居座っていたらしい。恐ろしいほどに一貫している。
ホークスはようやく腕の拘束を緩め、代わりに正面へ回り込む。背丈はほとんど変わらないはずなのにこうして見下ろす角度になると翼が後光のように広がって、妙な威圧感を帯びる。
「だって、朝五時起きですよ。パトロール中も、ずっと探してたのに見つけられなくて」
「……」
「見つけて、隣にいたのに触れられなくてさあ。もう限界」
福岡から、ここまでの距離を思う。五時起床の理由が公務ではなくこの状況を作るための仕込みだった可能性が浮上してきた。ホークスは人差し指で、彼女の鎖骨を軽くつつく。
「名前さんだって、暑い〜って言ってたじゃないですかぁ。服、脱ぎたいでしょ」
「脱ぎたいけど、一人でできるもん」
なんともその可愛らしい返しに、思いがけず、ホークスの口の端が、にやりと持ち上がった。
「一人でできるのと俺と入るのは別の話でしょ」
屁理屈だ。それを承知の上で、彼は、楽しんでいる。論破された顔などまるでしていない様子。こうした応酬そのものが好きなのだ。彼女とするこの無駄なやり取りが。ホークスが不意に真顔になる。そうして一歩、距離を引いた。
「わかりましたよ。じゃあ、一人でどうぞ」
拍子抜けするほどあっさりした引き際だった。翼を畳みながら、淡々と廊下の方へ歩いていく。しかし、一度だけ振り返って。
「タオル出しとくんで。着替え、俺のTシャツでよければ置いときましょうか」
「ありがとう」
バスルームのドアが閉まり、ほどなくしてシャワーの水音が響き始める。ホークスは無意識に、小さく舌打ちした。リビングのソファに腰を下ろす——つもりだったが、落ち着けない。三十秒と経たずに立ち上がりクローゼットを開ける。服を選ぶ目つきがやけに真剣だった。自分でも理由は分かっている。待つのが苦手なのだ。特に彼女がすぐそこにいる状況では。
「どれがよかねぇ……」
シャワーの水音を背に、ホークスは無言のままTシャツを一枚、手に取った。黒っぽいオーバーサイズのそれを自分の身体に当ててみては小さく首を振り、元の位置へ戻す。次に白のバンドTに指を掛けて、また逡巡し結局それも元の場所へ。彼女の肩のなだらかな線、腰の落ち方、布が風を含んだときの揺れ方までを脳内でなぞり「これが一番映えるだろう」という結論に辿り着くまでに五分を要した。
「あー! あと、アレアレ♪」
平静を装いながら今にも口笛を吹き出しそうな調子で奥から取り出したのは新品のブラジャーとショーツ。下着の替えまで過不足なく揃えているあたり、準備の域を越えている。もはや「用意がいい」という言葉では追いつかない。準備周到を通り越して怖いまである。彼自身、自覚はあるがそれでも、その事実が引き返す理由になることはなかった。
彼の独断と偏見で選び取られたそれらを洗面台の上に、一つずつきれいに畳んで並べ終えると、ホークスは満足げに小さく頷きそのまま脱衣所の扉に背を預け、腕を組んだ。待つ、というより、自分の判断が正しかったかどうかを、静かに確かめるような立ち方だった。忠犬のように、従順でありたい気持ちと、獲物を前にした猛禽の本能が体の内側で、せめぎ合っている。興奮に引きずられるように紅い羽が一枚、また一枚と抜け落ち、床に音もなく積もっていった。個性の副産物が、感情を隠しきれないことを雄弁に告げている。
「早く出てきてくんないかなぁ……」
自分でも呆れるほど素直な独り言だった。扉の向こうからは、水音が途切れずに、続いている。シャンプーのボトルが倒れる軽い音、それに続く慌ただしい水流。ドアの下からは湯気がじわりと滲み出し視界を曇らせた。ホークスは床に落ちた羽を一枚拾い上げ指先でくるくると回す。羽根は微細に震え、浴室内の気配を音として拾い上げていた。水流の位置、呼吸の間、体の向きが変わるときの反響——剛翼の感覚器官を総動員した盗聴行為。限りなく��黒�≠ノ近い行為だ。公安に知られたら、始末書では済まない。それでも、やめる選択肢は浮かばなかった。
「背中、流しちゃろっかなぁ」
善意の顔をした下心が、そのまま、声に滲む。路地裏で「だめ」と言われた記憶は都合よく角を丸められていた。自分の限界が近いと悟ったのかホークスは扉を軽く、こんこんと、ノックする。
「名前さーん、湯加減どうですー?」
「……」
「……ん? 名前さん?」
「——あ。と〜っても、気持ちいいでーす!」
少し間があって返ってきた声は明るい。入ってくるな、という圧が、行間に詰まっている。その声にホークスは、扉にもたれたまま、ずるずると座り込んだ。
「ソレハ、ヨカッタ」
棒読みになるのも、無理はない。気持ちいいという報告ひとつで脳内映像が勝手に暴走しているのは明白で、組んだ足の爪先が落ち着きなく床を叩いていた。そして少し間を置いてから、我慢の皮を被り直す。
「ねえ、あとどのくらい?」
まだ、十分も経っていない。普段の任務では、秒単位で物事の判断を下す速すぎる男が、「あと何分」を、待てずにいる。
「もうあがるから、そこから出て行って」
「……、えー。」
一瞬の間を置いて、なんとも情けない声が零れた。二回目の「えー」は路地裏のときより遥かに切実だ。だが「出て行って」は、疑いようのない命令形だった。逆らえば、本気で怒られる。その境界線を、この男は嫌というほど知っている。
ホークスは重い腰を上げ、翼を引きずるようにしてリビングへ向かった。足取りは遅く、背中はどこか名残惜しそうだ。ドッグランで帰還命令を受けた大型犬のよう。ただし最後まで扉から目を離す気はさらさらない。一瞬たりとも。ようやくソファに辿り着くと、そのままどさりと倒れ込みクッションに顔を埋める。
「一緒に入りたかったのになぁ」
くぐもった声が、空調の音に溶けた。数分後、バスルームの鍵が開く音がした。ぺたぺたと素足が廊下を渡るそのリズムに、ホークスは弾かれたように起き上がる。視界に入った彼女はぶかぶかの白いTシャツ一枚。濡れた髪が肩に張り付き、無防備な太ももが、惜しげもなく晒されている。
思考がそこで止まった。三秒ほどの沈黙。その間に、理性が綺麗に糸を切る音がしたとしても、不思議ではない。
ホークスは、何も言わずに立ち上がり、彼女の前まで歩み寄る。無言のままタオルを取り上げてわしわしと少し乱暴に髪を拭き始めた。その動作には触れたい衝動と、これ以上は、まだ踏み込まないという自制が、ぎりぎりの均衡で、同居していた。
「髪、ちゃんと乾かさないとダメですよ」
声は穏やかで、手つきも丁寧だった。けれど、視線の着地点は彼女の首筋からTシャツの襟ぐりへと、無意識に落ちている。気づいていないのか気づかないふりをしているのか——その区別を、本人がつける気はなさそうだった。タオルで水気を吸わせながら耳に触れた指先が、わざとらしく止まる。
「ここ、赤くなってる」
「え? ほんと?」
「はい」
実際にはなっていない。湯上がりの名残が肌に残している熱の色だ。それを指摘するホークスの瞳孔がほんのわずかに開く。自覚はない。無自覚だった。欲が先に反応しているだけだ。彼はドライヤーを棚から取り、コンセントに差す。彼女をソファの前に座らせ、その背後に立った。
「じっとしててください」
温風が、回り始めると同時に、空いているもう片方の手が、自然な流れで彼女の肩に置かれた。近い。必要以上に。温風を当てているのか自分の体温を伝えているのか、その境目が曖昧になっていく。ホークスは指先で毛束を梳きながら、声を落とす。
「俺のTシャツ、やっぱ似合いますね」
「んー、大きいけどね」
「……それが、よかっちゃけど」
指が、毛束の途中で止まった。低い声だった。ドライヤーの音に溶けてしまいそうなほど静かでだからこそ、耳に残る。
肩に置いた手がするりと滑り、Tシャツの襟を指先だけで摘む。風を当て続けながら、その指は離れない。
「こげなん見ると独占欲、やばかっちゃんね俺」
自覚はあるらしい。だが抑えるかどうかはまた別の話だ。乾きかけた髪から彼の柔軟剤の香りがふわりと立ち上る。それが、自分のものだという事実に反応して翼が一瞬だけぶわっと膨らんだ。
ほぼ乾いたのを確認して、ドライヤーを切る。急に訪れた静寂が、二人の距離を、際立たせる。ホークスは後ろから、彼女を包み込むように腕を回した。
「はい、終わり」
「うん、ありがとう」
ソファを挟んだまま腕にぎゅっと力がこもる。ホークスはそのまま顔を彼女のうなじに埋めた。
「……ん。」
それだけだった。そのあとの言葉が続かない。「ありがとう」の、たった五文字が、この男には致命傷だったらしい。回した腕が、微かに震えている。しばらくそのまま動かなかった。離れれば何かが、決定的に変わってしまう気がして、呼吸だけを整える。やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「名前さん」
喉が渇いたように、声が少し掠れていた。名を呼ぶ、それだけで空気が変わった。いつものヘラヘラした仮面も、甘えた調子も、全てが音もなく剥がれ落ちる。そこにいたのは、計算をやめた、ただの男だった。ホークスは、正面に回り込んで膝をつき、ソファに座る彼女と目線を合わせる。視線を同じ高さにするというその行為に彼自身の誠実さがにじんでいる。男らしい手が、逃げ場を塞がない力加減で、彼女の両頬を包んだ。
「さっき路地で止めてくれたの……正しいです。ちゃんと、わかってる」
珍しく声に冗談の色がなく真面目な顔だった。親指が彼女の頬骨のあたりをなぞる。その動きは確かめるようでいて、同時に自分を落ち着かせるためのものでもあった。
「でも今は、二人きりなんで——」
「シャワー、浴びないの?」
言い切る前に彼女が口を挟む。一瞬だけ、間が空いた。ホークスはきょとんと目を瞬かせ、それから自分の言葉を脳内で巻き戻したように理解が追いつく。次の瞬間、頬から耳までじわりと赤くなった。攻めの姿勢を完璧に整えていた男に投げられたのが、「シャワー浴びないの?」である。色気もへったくれもない、あまりに生活的な一言——だが、これは効いた。ホークスは両手で顔を覆う。
「……やば。確かに俺、汗くさ」
昼の炎天下を飛び回ったあと、そのまま彼女にまとわりついていたのだ。冷静に考えれば当然の指摘だった。恋人への執着で衛生観念が後回しになっていたことを自覚し、顔を覆ったまま、立ち上がる。
「三分で戻ります」
宣言だけ残して、脱兎のごとく、バスルームへ消えていった。バタンと扉が閉まり、その直後、水の勢いが尋常ではない音を立てる。そうして、本当に三分きっかりで戻ってきた。正確には二分四十秒。髪からはまだ、雫が垂れ、首にタオルを引っかけたまま、息が少し上がっている。彼女を見つけるのに、一瞬も迷わない。
「ただいま」
「おかえり」
タオルで髪を乱暴に拭きながら、隣にどさりと腰を下ろす。距離が近い。湯上がりの体から石鹸の、清潔な香りが立つ。同じボディソープのはずなのに、なぜか別物に感じるのは、体温のせいだろうか。ホークスは横目で彼女を見て低く問う。
「……ちゃんと、待っててくれました?」
逃げたかどうかの確認。信頼の問題ではなく、本能的な警戒だ。野生動物が巣穴に戻ったときのそれに近い。
「え、うん。」
それだけで、十分だった。ホークスは、ふっと息を吐くように笑って——そのまま、彼女を押し倒した。ソファが軋む音。両腕で挟み込み、覆いかぶさる体勢になる。
「よかった」
その一言に込められた安堵の重さが異常なほどだった。逃げてはいなかった。ここにいた。いてくれた、それだけで、世界が救われたような顔をしている。前髪から落ちた雫が彼女の肌に一滴、音もなく落ちた。
「これは、何?」
「あ……ごめん」
謝りはしたが、退く気はない。濡れた黄土色の前髪が彼女の視界にかかり世界がホークスだけで埋まっていく。彼は、ゆっくりと顔を近づけた。鼻先が、触れる距離。呼吸が混じるほど近くで、言葉を探すように、唇がわずかに開いた。
「今度は、止めんで」
「早いよ」
ぴたり、と空気が止まった。ホークスの眉が、ハの字になってわずかに下がる。二度目の制止。路地裏に続いて今度はソファの上で。彼にとって今日は、厄日か。どうにも、間が悪い日らしい。それでも駄々はこねなかった。覆いかぶさる体勢のまま彼女の顔をじっと見つめ小さく息を吐く。
「早いって……何が」
怒りはない。拗ねてもいない。ただ、純粋に、言葉の意味を確かめようとする声だった。彼女が「早い」と言った。その事実を受け止め、理由を知ろうとする——この男なりの誠実さが、そこにあった。
「手を出すのが」
ぱちっと瞬きひとつ。至極まっとうな指摘だった。付き合いが浅いわけでも今は距離が遠いわけでもない。それでも、今の彼の勢いが、一歩先を行っていたのは確かだ。彼女の言いたいことも、当然と言えば当然である。ホークスは横にごろんと転がって、天井を見上げる。片腕だけは彼女の腰に回したまま、離さない。
「そっか」
声は静かで、翼も素直に折りたたまれている。しかし、しばらく黙ったあとで、独り言のようにこぼした。
「だって好きなんだもん。仕方なくないです?」
「まあ、ね」
横目でちらっと彼女を見る。その返事を、彼は聞き逃さなかった。否定ではない。好きだという事実をやんわり受け取った言い方だ。ホークスの背中、翼の付け根がわずかに動く。嬉しいときに出る、本人も無意識の癖。彼は体をぐるんと回し彼女と向き合う。肘をついて横になり目線を同じ高さに合わせた。
「じゃあさ、どうしたらいい?」
口調は軽いが、目だけは真剣だった。ふざけていない。こういう問いを投げるときの彼は、いつだって、本気だ。
「どうしたいの?」
その質問返しに少しだけ視線を泳がせて、それからふっと笑う。いつもの軽薄な笑みではない。背伸びをやめた、年相応の青年の顔だった。ホークスは彼女の手を取り、指を絡める。恋人繋ぎにして、ぎゅっと握った。
「別に、今日じゃなくてもいい」
自分でも驚くほど、すんなり出た言葉だった。��速すぎる男�≠フ口から出た言葉してはあまりに穏やかで、余裕のある一言。ホークスは、繋いだ手を持ち上げ、その甲にそっと唇を触れさせる。
「こうやって横で、ごろごろしてるだけでも十分です。嘘じゃないですよ?」
翼がゆるく開き、彼女ごと包むように閉じる。巣の中で雛を抱え込む親鳥のような、逃がさないけれど、縛らない距離。窓の外では、夕陽がマンションの壁をオレンジに染め始めていた。時間はゆっくりと二人の周りだけを撫でるように流れていく。
「ほんとかなぁ」
その一言にホークスはわずかに唇を尖らせた。疑われている。信用されていない。当然の、帰結だった。これまでの言動を振り返れば「待て」ができた試しがない男の「今日じゃなくてもいい」ほど、信憑性のない言葉もない。それは、彼女が一番よく知っている。
「えぇ? 疑うんす?」
そう言いながらも、否定される前提で、動いていた。翼の内側に彼女を引き寄せ距離を詰める。額と額が軽く触れ合う位置で止めたのは、最後の自制だった。
「本当やけん……たまには、俺のこと信じてよ」
たまには、という自己申告が、全てを台無しにしていた。一語が余計だったと、言い終えてから気づく。夕陽がカーテンの隙間から細く差し込み二人の影を琥珀色に縁取っている。ホークスは、目を閉じて一度、呼吸を整えた。
「今日は、このまま。ずっとくっついてるだけ」
「……」
「それなら、いいでしょ」
「……それなら、いーよ」
許可が下りた瞬間、目を開いた彼の顔が、堪えきれずに崩れた。にやけるというより安堵で緩む表情。トップヒーローのそれとは思えないほど、素直な反応だった。
「やった」
「……苦しいっ」
「あ、すんません。いや、くっついてるだけで」
力加減を間違えたのか、抱きしめる腕が、少し強まる。ホークスは体勢を変え、仰向けになって彼女を胸の上へ乗せた。心臓の真上。鼓動がそのまま伝わる距離。どくどくと少し速い。言葉では「くっついてるだけ」と言いながら、身体は正直だった。夕暮れの光が薄れ、部屋は静かに藍色へ沈んでいく。無意識に動いていた指先が、彼女の背中をなぞる。規則的で一定のリズム。撫でるというより、確かめるような動きだった。それは、子守唄の代わりのつもりかもしれなかった。
時間がゆっくり流れる。テレビも音楽もない。聞こえるのは互いの呼吸と、翼がわずかに擦れる音だけ。
「……妙に、えっちな触り方するんだね」
その一言で、背中に這わせていた指がびくっと止まった。完全に、無意識の犯行だった。自覚がないぶんだけ、たちが悪い。ホークスは、視線を逸らし、気まずそうに喉を鳴らす。
「いや、その……普通に、撫でてただけで……」
普通ではなかった。肩甲骨から腰へ流れる指の軌道は明らかに無意識の領域を踏み越えていた。翼を持つ人間特有の繊細な指遣いが完全に裏目に出ている。ホークスは、咳払いをひとつ。
「……気をつけます」
真面目な声。本気で、焦っている証拠だ。彼は手を返し今度は彼女の頭にそっと置く。安全圏。本人なりの、線引き。だが、返事がない。視線を落とすと彼女は目を閉じていた。寝息というほど深くはないが、呼吸は穏やかで完全に身を委ねている。ホークスは思わず、息を詰めた。無防備な顔。さっきまで彼を制していた相手が、今はこうして胸の上で眠っている。その事実が、胸の奥を静かに締めつける。欲ではなく、愛おしさで。
頭を撫でていた手をそっと引き翼をもう一段、慎重に閉じる。外界の気配を遮るように、けれど息苦しくならない距離を残して包み込む。
いつの間にか部屋はすっかり暗くなっていて、照明を点ける、という選択肢そのものが、思考の縁からこぼれ落ちていた。
「……今日はこれで、勘弁してあげますね」
彼女の眠りを壊さないようにホークスは、声を落とす。その響きは相手に向けたというよりも、胸の奥で反芻された独白に近い。言ったあとも、彼は一切、動かなかった。
彼女の体温と自分の胸の内側で忙しなく鳴っていた鼓動が、同じ速度に落ち着くのを待つように静かに、目を閉じる。逃がさない。けれど、踏み越えもしない。その曖昧で、だからこそ守られている境界線の上に夜は、ゆっくりと降り積もっていくのだ。闇の中で、剛翼だけが呼吸に合わせてわずかに、確かに揺れていた。