湯気がまだ空気のなかに、名残を留めていた。濡れた髪のまま私は洗面台の前で少しだけ気恥ずかしさのようなものを感じていた。バスルームではしゃいでいた彼はというともう既にTシャツに着替えてタオル片手に「そろそろドライヤーいいです?」と、まるで、順番待ちの子どものように私の背後に立っていた。

「先に、どうぞ」

 そう言って、ドライヤーを手渡すと、後ろからふわりとタオルをかけられた。スイッチが入る。温風の音が洗面所の中に、静かに満ちていく。

「前から思ってたんですけど……名前さんの髪、いい匂いしますよね」
「シャンプーのCMか」
「ちがいますよ、ナチュラルに褒めてるだけなんですから」
「ソレハソレハ、ドーモアリガトー」
「……でも、今日のはとくに、すごく好きです」

 くすぐったくなるような声音。私は何も言わずに目を閉じて心地よい風の流れと、彼の指がやさしく髪を梳いていく感触に、そっと身を委ねた。

「ほんと……こんな夜が、ずっと続けばいいのにって、思いますね」

 ぽつりと彼がつぶやく。そして、それに続いた言葉は、ほんのひと呼吸だけ遅れて届いた。

「一緒に住みたかぁー、って思っちゃいますよ。こういうの、ずっとできたらって」

 乾かす手を止めることもせず彼は淡々と、でもどこかふざけるような口調で言った。私は、何も言わなかった。いや、言えなかったのだと思う。耳がほんのり赤くなっているのを見られていないか心配しながら私はドライヤーの音のせいにして聞こえなかったふりをした。

「……あ、そろそろオッケーですか?」
「うん。ありがとう」

 振り返ることなく、首からかけていたタオルを取ると、ドライヤーの風が止まり、静寂が戻ってくる。でもそのなかで私の心の奥にだけが、まだほんのりと、熱を残していた。
 夜風を取り入れるために少し開けた窓のすきまから遠くで車の音が聞こえた。彼はそのまま私の隣に来て、ベッドの上でごろりと仰向けに寝転がる。そして何も言わず、ただ小さく、呼吸を整えていた。その横顔にそっと目をやる。


『一緒に住みたかぁー、って思っちゃいますよ』


 あの言葉を彼はどれくらい本気で言ったのだろう。あるいは言ったそばから照れくさくて忘れたふりをしているのかもしれない。それでも——。聞こえてしまったからには胸のどこかにしまっておこう。私はそう思いながら「消すね」と言って部屋のライトを落とした。
 部屋の灯りを落としたあと私はカーテン越しに薄く差し込む街の灯りをぼんやりと眺めていた。天井の模様は、もう見えないけれど、その暗さがかえって安心感をくれるようなそんな夜だった。背中に柔らかなシーツの感触。隣には同じように黙ったままの彼の存在。

「……寝ちゃった?」

 囁くように問いかけると、返事はすぐに返ってきた。

「寝てませんよ。……っていうか、寝るわけないでしょ、こんな夜に」

 彼の声は、笑っていた。くぐもった低い声で、けれどどこか、触れ合うことを怖れているような遠慮深さがあった。

「……暗いと、なんか落ち着くね」
「そうです?俺はちょっとドキドキしますけど」
「なんで?」
「だって、隣に好きな人が、寝てるんですから。そりゃ、心臓にも悪いですよ」

 冗談めかしてはいるけれど、その声の奥には、ちゃんと熱があって。私は黙って彼のほうを向いた。すると彼もこちらを向いていた。ほんの数十センチの距離。互いの呼吸がすこし混じりあう。

「ねぇ」

 と、私が言いかけたとき。彼の手が、私の頬にそっと触れた。指先が髪をそっと払うようにしてそのまま、ゆっくりと私の頬に沿った。

「……なんですか?」

 目を逸らせないでいると、彼がふっと微笑んでそのまま、やわらかく、唇を重ねてきた。深くもなく、焦るようでもない。ただ、いまの気持ちを確かめ合うみたいなキスだった。唇が離れると、彼はほんのり目を細めてうつむくように額を私に預ける。

「……なんか、しあわせすぎて、逆に怖いんですけど」
「え、なにそれ」
「だって名前さん、ほんとに可愛くて優しくて」
「……」
「俺……調子乗ったら、逃げられそうだなって」

 それはもうずるい言葉の何ものでもなかった。思わず小さく笑って私は彼の額に自分の額を合わせるようにして、そっと目を閉じる。

「じゃあ、逃げないように……ちゃんと、手ぇ、つないどいて。」
「はい、喜んで」

 その返事のあとの指先は、まるで宝物に触れるみたいにそっと、でもしっかりと、私の手を握った。指と指が、心音を交わすように絡まる。夜は静かに二人を包みこむ。どこにも特別な音はなく聞こえるのはふたつの呼吸と時折交わされる甘い囁きだけ。この夜のことを私はきっとずっと忘れない。


 *


 デスクに座ってまだ数分。今日のタスク一覧を画面に呼び出し、ヘッドセットの確認をしていたところで、不意にスマホが小さく震えた。見るとラインだった。送り主の名前を見てすこし驚く。


 ――――――――――――――――

相澤消太

元気ですか?



 ――――――――――――――――


 差出人は──イレイザーヘッドだった。あの日ご飯に行ったきり、最近はすっかりご無沙汰だったのに、どういう風の吹き回しだろう。
 私は素っ気なくなりすぎない程度に返事を打ち込む。


 ――――――――――――――――

名前

元気です。
いま、福岡に出張中です。



 ――――――――――――――――


 とりあえずは、そう返した。するとめずらしく返信がすぐに返って来た。


 ――――――――――――――――


相澤消太

センター視察の件?


名前

はい。慣れない土地ですこし緊張してますけど……なんとかやってます


相澤消太

噂は本当だったんだな


名前

はい。地方にも増やしていく方針らしくて


相澤消太

それでも地方に駆り出されるなら優秀な証拠では?


名前

いえいえ。福岡に前からよく連携していたヒーローがいまして……それで。



 ――――――――――――――――


 ポン、ポン、ポン、と彼にしては軽やかなテンポでやりとりが続く。なんだか楽しくて少しだけ、気持ちがほぐれた。東京の空気が、ふわりと手のひらに戻ってきたみたいで──と思っていたそのとき。

「……メル友ですか?」

 背後から思いのほか低い声が落ちてきた。その語尾に、はっきりと不機嫌な色が混ざっていて、私は思わず、スマホを取り落としそうになった。

「っ、な、なに……!?」

 慌てて振り返ると、すぐ後ろに、ホークス──いや、センター所長(仮)としての彼が、立っていた。手にはコーヒーの入った紙コップ。そのふちを指でなぞるようにしながら、私のスマホ画面を覗き込むように見ていた……ような、気がする。てか、メル友て……。

「勤務中の私用ラインって勤務規定的にどうなんですかねぇ。相手は……東京のヒーロー?」
「……」
「いやぁ〜まさかとは思いますけど連絡とってるの俺だけじゃないってことですかねぇ?それー」

 その顔は笑っている。でも、目が笑ってない。おまけに語尾が妙に伸びているあたり、たぶん、これ、かなり地雷を踏んだやつだろう……。

「ち、違います。たまたま、来ただけで……」
「ふーん。��たまたま�≠ナ、そんなに楽しそうに笑うんですね」
「……。」

 ……やばい。完全に拗ねている。私は反射的にスマホを画面伏せにして、背筋をしゃんと伸ばす。仕事中だし、冷静に、大人の対処をしなきゃ。

「所長、コーヒー、さめちゃいますよ?」

 わざと視線をそらして言うと彼は数秒その場に立ち尽くしてから、ようやく肩をすくめて離れていった。その背中はなんだかやたらと誇張された平然を演じているようで、見ているこちらがいたたまれなくなるほどだった。
 ──ほんと、めんどくさい彼氏だ。でも、そう思いながらも胸の奥ではすこしだけ、あたたかいものが揺れていた。


 *


 ホークスもとい所長の機嫌が悪いとセンターの空気もどこかぴりつく。わかりやすい。あの人は本当にどこまでも、わかりやすすぎる。

「……だからそこ、もう一回、現場のヒーローと交信の時間調整してって言いましたよね?一回目のレスポンスで確認してなかったの、誰です?」

 通信室からのマイク越しに、いつもより語気の強い声が響いた。サイドキックの一人が『あー、はい。すみませんっ』と、謝る声が返る。べつに大声を出したわけじゃない。けれど、ホークスが珍しく、語尾まできっちり言い切るときは、それなりに、ご乱心の証拠だ。
 私はふと視線を巡らせてガラス越しの所長室にいるその横顔をちらりと見た。椅子の背にもたれて片脚を投げ出すようにしてモニターに向かっている姿は、外から見ればきっといつものホークスそのものだろう。でも、私にはわかる。明らかに不機嫌だ。しかも原因は、私。ほんとうにもう、どうしてここまで拗らせてくれるんだか……。
 しばらくして、私の端末に、個別通信が飛んできた。所長席からの回線。勤務上の伝達事項かと思い、ヘッドセットのイヤーピースを微調整して「はい、名字です」と、応答すると──。

『さっきからそっちで受けてる通信ログ、微妙に入力抜けてるんすよね〜。いやぁ〜、困っちゃうなぁー、これじゃ報告書、書けないっすよぉー』
「……業務記録、すべて、タイムスタンプつきで保存されてますけど」
『はいはい、そりゃ知ってますよ?でもやっぱりそこは気持ちの問題っていうかぁ〜』

 ……完全に、絡んできている。怒ってるくせにこういうときだけ語尾を伸ばしてくるのは甘えている証拠だ。私の前でだけ発動する��拗ねモード・ホークス�≠ナある。

「——所長、仕事中です。いたずら通話は業務妨害ですよ」

 意地悪な言い方をしたつもりだったのに返ってきた声は、妙にしおらしかった。

『あぁ〜……じゃあこれ、後で怒られるやつですねぇ。俺しょんぼりしながら反省室行くやつだ』
「反省室なんてありませんよね、この施設に」
『えっ、ないんですっけ? じゃあ、俺、どこで反省すれば……』
「センター裏の、非常階段の踊り場でどうぞ」
『ひっど。扱いひっどい……泣いちゃおうかな』

 ちょっと沈黙。でもそのあと彼は小さく吐息を混じらせた声で、ぽつりと言った。

『……だってさぁ、朝からずっと、あーんな楽しそうにスマホ見よーけん……俺のこと、ちょっとぐらい気になってるかな〜って思いよったとに』
「……」
『あのメル友のヒーローと何喋ってたんです?』
「……その話、仕事終わってからにしてもらっていいですか?」
『……はーい』

 返事だけは素直なのがまた面倒くさくて、でもふとした瞬間、胸の奥で微かに熱を帯びたような気がした。
 この感じがいわゆる��遠距離恋愛の醍醐味�≠ニいうやつなのだろうか。それとも甘えん坊な上司のどうしようもなく子どもじみた焼きもち——。判別不能だ。けれどまあ、相手が彼であるという一点においてのみ、それは案外、嫌いではないのかもしれない……いや、もしかしたら、けっこう好きなのかもしれないな、私。


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