宿泊先はもう事前に確保済み。あとはチェックインするだけ——そんなふうに、胸の内でひとり呟きながら、私はホテルの自動ドアをくぐった。それにしてもこういうのって普通会社が手配してくれるものなんじゃ……と、社会人になるまえは思っていたけれど。どうやら私の勤める会社では��自力手配�≠ェ暗黙のルールらしい。なんだか、妙な話だ。大手のくせにこういうところはやけにケチ——いや、ドライで、肝心なところに限って、個人主義を貫いてくる。やれやれだぜ……。

 フロントロビーには、やわらかな照明が灯り、観光客らしき数人の声が遠くで弾んでいる。キャリーケースの車輪が床を転がる音が妙に響いて、なんだか、一人旅をしている気分になった。せっかく福岡に来たんだし気楽に構えていればいい。あえてあの人には言ってないけど今回はちゃんとホテルも取ったし。前回みたいに、空港で出迎えられたりはしたけれど、あまつさえ「泊まり先はうちでいいでしょ?」なんて半ば強制的に��引き取られる�≠ンたいなことは今回はない。──そう思っていたのだ。しかし、フロントに向かおうと数歩踏み出した、その瞬間。

「はーい、おつかれさまでしたぁ〜。名前さん、やっと来ましたねっ♪」

 耳に届いたのは、どこまでも軽くて、涼しい、あの声だった。まさか、と思って、顔を上げる。
 ——いた。ふかふかのロビーチェアにふんぞり返るようにして腰かけ、片足を投げ出した金髪の男が。そして私の目を見た瞬間、にやりと、唇を引き上げて言った。

「さぁ、ホテルの予約はキャンセルしたんでー、ふたりの愛の巣に帰りましょ♡」
「………………は?」

 ちょっと待ってください。しばし、理解が追いつかない。いやいや「さぁ」じゃないよ。「キャンセルした」って、なにを。��愛の巣�≠チて……どこですか?

「ちょ……ちょっと待って、何をキャンセルしたって?」
「え? ホテルですけど?このホテルです。」
「はい……?」

 彼は悪びれることなく、スマホを、ひらひらと振ってみせる。

「名前さんの部屋、日付とフルネームで調べたらヒットしたんで、先にキャンセルだけ済ませときましたよ!」

 さらりと爆弾発言を投下され、私はしばらく、ナマズの如く、口をぱくぱくさせたままだった。

「は……、え……?」
「『ホテルじゃなくて、うちに泊まったら?って言ってくれる?』って言ってたじゃないですかー前回」

 どこまでも無邪気な笑顔。全然悪気がないのが逆に怖いまである。

「言ってない言ってない!いや、言ったかもしれないけど、あれはむしろ、言わされた感じで!」
「え〜〜〜っ!?だってあのとき『ホテルなんて絶対取らせませんよ』って俺言いましたよね?」
「……言ってた、っけ……?」
「え、ひどいなあ。んで、『約束ですよ?』って言ったらうなずいてくれたじゃないですかぁ〜」

 思い出したように私が眉をクイっと上げると、彼は得意げに前髪をくしゃっとかき上げた。私は慌てて早口で捲し立てる。

「あの会話はあくまで比喩的なもので!その場の雰囲気で、つまり勢いで言っただけであって!」
「んじゃ今夜はその勢いを信じて帰りましょ♡」

 その瞬間、彼の腕が私のキャリーケースの取っ手をしれっと奪い去った。まるで、当然の権利のようにして。待て待て、なんだその、無理やりなこじつけは!?そもそも、語尾にハートをつけるな。そして、その顔で手を差し伸べるな。周囲の目が痛いんだよ。フロントスタッフも観光客も、みんなニヤつきながらこっちを見てるって……!

「……ちょっと待って。そもそもホテル、キャンセルって、どういう手段で……」
「ヒーロー舐めないでください。情報網ってのはこういうときに役に立つんです。あっ、ちなみに、今夜の晩ごはんは、おでんです♪」
「おでんって、時期じゃないでしょうに……」
「あなたの好きな大根と卵、増量しといたんで」
「私の好きなもの、なんで知ってるの……」
「前回、寝言で言ってましたよ?『だいこん……たまごぉ……啓悟ぉ〜♡』って」
「記憶にないんだけど!」
「そりゃ〜、可愛い寝顔で寝てましたから♡」

 私の頭が抱えきれないほどの恥で爆発しかけたその瞬間、彼は涼しい顔で私のキャリーケースに手をかけたまま、くるりと踵を返す。私は反射的に身を引いた。

「じゃ、タクシー寄せてきますね〜。夜風が寒くなってきたし、風邪ひいたら大変ですから」

 そうして。私の抵抗も、説明も、ツッコミも、すべて、彼の明るさと軽さと、慣れの一言で巻き込まれ。気がつけば、私はまた、彼の隣にいた。この人は主導権をたぶん天然のフリをして絶対に手放さないタイプだな……なんて思った。それがわかっているのに、結局、こうしてついて行ってしまう自分が情けなくもちょっとだけ、愛しいと思ってしまうから、もう、末期なのだろう。


 *


 玄関のドアが静かに閉じられた瞬間、背後で、鍵が回る音がして──それから、静寂。
 福岡の夜の空気とホークスの部屋の空気は記憶の中よりもやわらかくて、少しだけ、甘い香りがした。

「どうぞどうぞ〜。さ、あがってあがって。今日はスペシャル仕様でお迎えしております!」

 彼はいつになく陽気に靴箱の上の小さなスピーカーから流れるBGMを指差してにっこりする。
だけどこのジャンル……彼の趣味じゃない。私の好みを、覚えていてくれたんだ。私はなんだか、靴を脱ぐのも妙にぎこちなくなってしまい、ちょっとモタつきながら部屋に上がった。
 リビングへ続く廊下。間接照明が、いつもより優しく灯っていて、ふと視線を落とすと、絨毯が変わっていることに気が付く。前はもっと、つるつるした素材だったのに、今のはふかふか。あ、
……スリッパ、あったかい。

「寒いでしょ?まずはこれ、温かいはちみつ生姜ミルクです。電子レンジで、ちょうどぬるめにしてありますから」
「ねえ……なんで、私が好きなものばっかり出てくるの?」
「ふふ。名前さん、わかりやすいから」

 そう言って差し出されたマグカップを受け取ると、指先にじんわりと熱が染みた。──やばい、この温度、完璧。しかも、部屋の湿度も、照明の明るさも、ソファのクッションの位置も、ぜんぶぜんぶちょうどいい。まるで、彼女を快適にするためのシナリオでもあったかのように準備万端。
 気がつけば私は、自分の膝の上で手をもじもじさせていた。——処女か!バカタレ!

「……ねぇ、」
「は〜い?」
「なんでそんなに浮かれてるの、ホークス」
「ん? え、浮かれてる?いやぁ〜……」

 彼はソファの端に腰かけ私の一挙一動を嬉しそうに目で追っていた。やたら笑顔。ちょっとキラキラしている。なに?なにがそんなに楽しいの。

「だって、大好きな人がうちに来てくれるって、最高じゃないですかー。もうほんと、今日のこのためにひと月頑張ったと言っても過言じゃない」
「そんな、おおげさな……」
「いやいやいや実際そうですって。見てこのホワイトボード。夕飯のプラン、掃除スケジュール、当日テンション調整メモまで──ほら、ここ。」
「……」
「��落ち着け、うるさくするな、紳士に!�≠チて自分に書いてるんですよ?」
「えっ、なにそれ……。本当に書いてる……」
「必死でした」

 どこか得意げに笑うその横顔を見て、私はもう言葉をなくしてしまった。ばかみたい、と思う。なんでそんな律儀でかわいくて、まっすぐなの。
 私は、心臓が痛いくらいにあたたかくなるのを感じながらマグカップをテーブルに置き、思わずふっと笑ってしまった。

「……もう、降参。」
「え?」
「全部、完敗。こっちが気疲れしてるの、完全にバレてるし……」
「ですね、バレバレでした」
「ホークスがそこまでしてくれてるのに私が意地張るの、バカみたいじゃん」

 そう言って私は、彼の肩にそっと身を預けた。彼は一瞬、驚いたように私を見たあと、すぐに、両腕をそっとまわして、私を抱きとめた。

「……やったぁ……。」

 ほんの小さな声で、でも心からの喜びが滲んだ声が、私の耳元で震えた。その胸の鼓動は、私のものと少しだけズレていて、けれどそれが逆に、心地よかった。
 違う人間同士がたまに会って少しだけ重なる。そういう関係も、いいのかもしれない。

「ねぇ、名前さん」
「ん?」
「もう一回、泊まるの断られたら泣くとこだったんですよ、実は」
「……うん、わかった。じゃあ今日は泊まるね」
「ほんとっ!? マジですか!?わーーい!!」
「シー、……騒がない。」
「はい……っ」

 ——でも、めちゃくちゃ嬉しいです。と、耳元で囁いた彼の声が、笑い声の奥にあたたかく灯っていった。


 *


 夜のとばりがすっかり降りきって部屋の灯りは抑えめに。テレビの画面には私が何度も繰り返し観てきた海外ドラマ──スーツ姿の捜査官が都会の闇をかき分けて、ひとつの事件を解き明かしていく、スロウテンポなサスペンス。それを横目に私はホットティーを啜っていた。ソファに並んで座るホークスは、途中から事件の筋よりもキャラ同士の関係性に夢中になっているようだった。

「え、これって……この二人、前に付き合ってた設定とかあるんです?」
「……」
「え、ない?あれ?じゃあなんで、さっきあんな目線で──」
「……うるさいなぁ。黙って観て」
「いやいやいやいや、気になるじゃないですか!あ、ちょ、そっちのマグ取ってください」
「もー! 自分で取ってよ」
「だって俺、今──癒しモードに入ってるんで」

 そう言って彼は、大きく伸びをして、隣で肘をつきながらごろんと身体を横たえた。そうして、ちらりと私を見上げて唇の端をゆるりと上げる。

「ねぇ……、名前さん?」
「……なに」
「……膝、貸してくんないですか?」
「…………は?」
「いやいや、膝枕ですよ。ほら、今日一日ずっと頑張ってたから。街案内もしたしちょっと人混み疲れたし」
「……」
「これはもう、癒されたいモードなんですよ〜」

 わざとらしく、額を押さえてみせる演技に私は思わず溜め息をついた。けれどそれは拒絶のための溜め息じゃない。呆れているようでいて、どこか負けそうな気配を帯びたもの。

「……もう。仕方ないなぁ、ほんのちょっとだけだからね」
「はいっ!!」

 嬉々としてガッツポーズを決めた彼が枕代わりに私の膝に頭を預けてくる。ソファに斜めに寝転んだその重みがじわじわと、膝に伝わってくる。すこしだけくすぐったい。そして、あたたかい。

「ん〜〜……名前さんの膝、最高です。ふわふわで……たぶん、もうここから一生離れたくない」
「いやいや、大げさじゃない……?」
「ほんとやけん。……ねぇ、こういう夜、ずっと続いてくれたらいいのになーって思いません?」
「……」
「こういう夜を、ずっと、って言ったら、欲張りですかね」

 彼の声はテレビの音に溶け込むくらいの静けさで、だけど、私の心の奥にははっきりと届いた。
 いつもふざけてばかりいる彼が、こんなふうにぼそりと零すのはほんの僅かなタイミングだけ。だから私は答えを探すのをやめて、ただ、そっと彼の前髪を撫でた。まるで子どもをあやすみたいに、けれどそこに宿る感情はどこまでも、大人の恋だった。

「名前さん」
「……なぁに」
「眠くなってきました。寝かしつけてください」
「それは無理」
「えー。じゃあこのまま寝ちゃっていいです?」
「……いいよ。すこしだけね」

 そう言った私の声が、彼の夢の入り口になっていたらいい。
 画面の中で主人公たちはまだ複雑な真相に辿り着いていない。でもこの部屋のなかだけはたぶんもう正解で、満ちていた。
 うっすらと寝息が聞こえ始めたのは、ドラマのシーズン2の、エンディングロールが流れきる頃だった。ふと膝の上を見ると、ホークスが小さく呼吸を整えて眠っている。目尻のあたりがすこし緩んでいて、普段よりもずっと年下に見える寝顔だった。
 こんなふうに、気を許して眠る彼を見るのは、たぶん、片手で数えられるほどしかない。そっと息を殺して身体をずらす。膝が解放された瞬間、
すこしだけ軽くなった感覚と名残惜しさの両方が胸に残った。

 私は立ち上がり、そっとバスルームへ向かう。脱衣所の奥——天井までの大きなスライドドアを開けると、広々としたバスルームが待っていた。さすがはホークス。いや、事務所兼住居にしてはあまりに豪華すぎる浴室。壁はくすんだグレーのタイル、浴槽のふちはマーブル模様。間接照明が天井の隅で柔らかく灯っていて、まるでラグジュアリーホテルのようだった。
 お湯を張ったバスタブに身体を沈めた瞬間に、ふわっと全身の力が抜けていく。あぁ、と思わずため息が漏れる。今日一日の移動、気遣い、無理に張った肩の力……その全部が湯気に溶けていくようだった。

「……しっかし。ほんと、広いなぁ〜」

 湯面を撫でながらついぼんやりとそんなことを呟いていた。この大きなバスルーム、誰のために作ったんだろう。自分一人のためだとしたら贅沢の極みだけれど、でもホークスなら……いや、ヒーローなら、こういう設備でリラックスしてこそ、明日の戦いに備えられるのかもしれない。
 そんな理屈を自分に言い聞かせつつ、ふと脱衣所のほうから、ガサガサと、物音がするのに気がつく。

 …………ん?

 頭を上げて、一瞬、耳を澄ます。気のせいかと思ったそのとき──バンッ!!と、脱衣所とバスルームを仕切るスライドドアが、唐突に開いた。

「……ちょ、ええええっ!!??」
「なぁ〜に一人で入ってんですか、名前さん!!信じられんっ!」

 その声が怒っているのか照れているのか正直、判断がつかなかった。ドアの向こうに立っていたのは、見慣れた顔。そして腰にタオル一枚だけを巻いた、トップヒーロー。あっ、そこはちゃんと巻くのね……意外。——って! 違う違う!

「い、いやいやいやいやっ!ちょっと、ちょっと待って!? 何その格好っ!? どうして!!?なんで!? 寝てたよね!?さっきまで!!」
「いやいやいやいや、寝ましたけど!?ちゃんと起きましたけど!?それよりさっきの流れ的に、どう考えても一緒に入る雰囲気だったでしょ!」
「えええええええ!!?どんな流れ、それ……」
「なんで勝手に先に入ってるんですか!?置いていかれたんですけど!?」

 ぷくっ、と頬を膨らませて抗議するホークスの姿に、私はもうどうツッコめばいいかわからなくなってしまって──お湯の中で、うずくまるしかなかった。

「そ、そんなの……決まってないし。私、普通に汗流したかっただけだし……!ていうか、だからって入ってこようとしないでよ!ほら、外出て、いったん!」
「えっ、マジで言ってます?俺、きょう、部屋の鍵渡しましたよね?じゃあこの空間、半分俺のも同然じゃないです?」
「その理屈はおかしいっ!それに鍵!受け取ってないし! 玄関の棚に戻しましたし!!」
「……ひど。じゃあ、洗面台だけ借ります……」

 がっかりした様子で肩を落としつつホークスはそろりとドアを閉め、今度は洗面スペースの方へ引っ込んだ。その背中が、本気で落ち込んでいるように見えて、私はお湯の中で口元をぴくぴくと引きつらせながら、そっと湯面に小さくため息を吐いた。……どうしてこう、可愛いんだろうか、このトップヒーローは。母性本能をくすぐられてしまう自分が悔しかった。
 浴室の曇ったガラス越しに彼の気配を感じながら、私はふと、頬が熱を増すのを感じた。湯気のせいじゃ、きっとない。洗面所の方から聞こえてくる水音は、やたらと控えめだった。きっと洗面ボウルにお湯を張って一人で髪でも洗っているのだろう。湯気の向こうで背中を丸めて不貞腐れたように鏡の前に佇む姿が、まざまざと浮かぶ。
 さっきの突撃は確かに予想外だった。けれど、ふいに思い出したのだ。私だって一度は、置いていかれたと思って切なくなった日があった。あのとき、声をかけてくれたのは、彼のほうだった。なら今度は、私から——。

「ねえ……ホークス、」

 洗面台のお湯を出していた音が不意に止まり、しばらく、沈黙が続いた。

「……はい?」

 これでもかと言うほどのしょんぼりした声が、やや間延びした返事で戻ってくる。

「もし、その……入浴剤、ちゃんと真っ白にしてくれるなら、一緒に、入ってもいいよ……?」

 湯面に視線を落としながら、なるべくさらりと言ってみた。が、その数秒後——。

「ッッッはい、来ましたーっ!!!!」

 轟音を立ててバスルームのドアが開いた。何が起こったかもわからぬうちに白い粉末の塊がチャポン、と浴槽に放り込まれ、それとほぼ同時に下半身に短めのタオル一枚を巻いただけのヒーローがバシャン!と、飛び込んでくる。

「え、う、わっ!?ちょ、ちょっと待って、まだ心の準備が……!」
「大丈夫です大丈夫です! 俺がぜんぶ、リードします! 信じてついてきてください!」
「いや、どこに!? 今、どこに連れて行こうとしてるの!?」
「いやぁ〜まさかご一緒できるとは……!こんな日が来るなんて……生きててよかったぁ……!」

 湯面に浮かぶ入浴剤の粒がシュワシュワと泡を立てる中、ホークスはすでに肩までお湯に沈み、やけに上機嫌な表情でため息をついた。

「ほら……名前さん、遠慮せず。そんな、端っこにおらんで。中央、開けときましたんで」
「……ほんと、一気に元気になったね……」
「それはもう。湯気よりあったかい、愛の力ってやつですね」

 つい呆れてしまいながらも、その明るさに胸の奥が、じんわりと溶けていくのを感じる。お湯の香りは、優しいミルクハーブ。白く濁った湯面の下、彼の指先がゆらりと揺れこちらへ手招きしていた。
 ……まあ、今日は特別。私はそっと彼の方に、距離を詰めた。ふたり分の体温で、湯気のなかはもう、充分すぎるほどぬくもっていた。
 お湯の温度は、ちょうどよかった。熱すぎず、ぬるすぎず、けれど彼の体温に包まれているせいか、それ以上にぽかぽかと温かい。
 背中には彼の胸板。少しだけ湿った髪が、私の肩に触れるたびくすぐったいような気配が首すじを撫でていく。バスルームの照明は落とされて、キャンドルライトのような間接照明だけが湯面をやわらかく二人を照らしていた。

「……ねえ、名前さん」
「ん? なに?」
「やっぱり今日、来てくれて嬉しかったです」

 彼は、そう言ってから鼻先で私の髪にふれる。くすぐったくて、反射的に肩をすくめた。でも、彼の腕はしっかりとお湯の中で私の腹に回されたまま、ゆるがない。

「福岡に帰ってきてから……ずっと、考えてたんですよ。なんであのとき、東京から連れて来れなかったのかなって」
「……それは、拉致になるからだよ」
「いや、合法的にですよ? 心を、って意味で」

 私が小さく笑うと、お湯がちゃぽんと揺れて、ふたりの身体がさらに近づいた。

「ねえ、名前さん。たまにでいいんで、こうしてくれたら、俺、なんでもがんばれそうです」
「……私が、こっちに来るってこと?」
「ですです。俺も行きたいんですけど、なかなかに忙しくて」
「だよね。人気の、トップヒーローだもんね」
「でも、俺はあなただけのヒーローでありたい」

 まるで溶けたバターのように甘い声で耳の後ろから囁かれる。その言葉の重さも熱も、このあたたかいお湯も、たしかに心に触れた気がした。

「甘やかしすぎると、調子乗るからね、あなた」
「……もう調子乗ってますよ、十分に」

 そう言いながら彼の腕が少しだけ強くなった。そのしなやかな力加減と、背中に感じる鼓動と、深く息を吐く音がすべて混ざり合って、私はただ彼の腕の中にいる今を、じっと味わっていた。

「俺さ」
「うん」
「名前さんのために、ちゃんとこっちでもあなただけの居場所、つくりますからね」
「……」
「だからさ、また、来てください。彼女として、堂々と、何回でも」

 その言葉は泡のように浮かんでは消えていくのではなく湯面の下にそっと沈んで心の底でぽこりと鳴った。背中に感じる彼のその真剣な熱を私は黙って受け止めた。
 そうして私たちはしばらくのあいだ何も言わずに、お湯の音と、互いの呼吸だけを聞いていた。この時間が終わってしまうのが惜しくて、湯上がりのことなんて、もう、考えられなかった。


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