何が起きたのか一瞬、理解が追いつかなかった。男性が吹き飛ばされたことも目の前へ割って入った人影も。酔いで鈍った頭は、現実を現実として受け止めるまでに、ほんの少しだけ、時間を必要としていた。見覚えのある赤はもうどこにもない。それなのに街灯の下へ視線を向けた瞬間、胸が勝手に名前を呼んでいた——ホークス。黒いスーツに襟元から覗くワインレッドのYシャツ。夜の灯りを受けたその深い赤が一瞬だけ失われた翼の名残のように見えてしまう。
もちろん、そんなはずはない。飛べない。もうあの人は飛べないのだ。代わりに、背中には刀のような物を一本、背負っていた。
「あーあ。ごめんなさいね〜」
私と男の間に割って入ったはずのその人物は、気づけば電柱の影にしゃがみ込んでいた。そこから膝に手を置いてゆっくりと立ち上がりながら、彼はどこか困ったような、情けないような笑みを浮かべる。
「昔の個性因子が、たまに暴れちゃうことがありましてねぇ、すんません」
冗談めかした口調。けれどその笑顔は目元まで届いていなかった。笑っているのに何一つ笑っていない。その温度のない笑みを私は知っている。
彼は、静かに私の前まで歩いてきた。ふわりと金髪が夜風に揺れる。
「大丈夫?」
「——お、おい! なんなんだ、お前!」
私より先に壁へ身体を預けた男性が怒鳴った。ホークスは振り返らない。視線さえ動かさなかった。蜂蜜色の瞳は、最初から最後まで、私だけを映している。
「今……自分から、ついてこうとしてた?」
「……関係ないでしょ、元ヒーローには」
酔いに任せるように言い返す。しかしその瞬間だった。笑みが、ほんのわずかに揺らいだ。胸の奥を何かが掠めたような顔。けれどそれも一瞬で消える。
「そうだね。関係ない」
静かな声だった。そして彼は、もう一度だけ、笑う。その穏やかさが、逆に怖かった。
「おい! 聞いてんのか!」
男性が苛立ったように、彼に近寄ろうとする。ホークスはようやく右手をポケットから抜いた。何かを掴むでもなく、ただ軽く制するように前へ出しただけ。昔なら、その仕草と一緒に赤い翼が広がっていたのだろうと、不意に思う。今は何もない。それでも、その一動作だけで、男性の足が止まった。
「悲しいよねー。個性ないと、ぜんぜん気づかれないから」
「……あぁ?」
「お兄さん」
声はまだ柔らかい。だからこそ余計に逃げ場がなかった。ホークスは、少しだけ間を置く。
「悪いけど、今日のところは帰った方がいいよ」
「はぁ?」
「俺、今あんまり余裕ないから」
あんまりではなかった。剛翼が今もあったら、きっと羽の先端が、微かに震えていた。怒気だ。穏やかな声音なのに空気だけが張り詰めていく。男性も、それを感じ取ったのだろう。何かを言い返そうとして口を開きかけ、結局、何も言えないまま後ずさる。そのまま踵を返し足をもつれさせながら、路地の向こうへと消えていった。
残されたのは私とホークスだけ。翼のないヒーロー。何度その姿をニュースで見ても、現実味はなかったのに、目の前へ立つ彼の背中には本当に何もなかった。空を自由に切り裂いていた人は、もう、地面の上でしか誰かを守れない。その事実だけが、ひどく胸を締めつけた。彼はポケットへ両手を戻したまま、私を見つめている。
逃げ場なんて、最初からなかった。そんな中でホークスは、静かに口を開いた。
「……連絡先、消したんじゃなかったっけ」
「……」
「数分前、俺にワンギリしたでしょ」
「……っ、」
「ブロックも、してあったよねぇ」
答えられなかった。いつだろう。無意識に彼の連絡先を押していたのか——。代わりに、酔った頭が、どうでもいいことを口にする。
「あーあぁ……お兄さん、行っちゃったぁ」
その瞬間。彼の表情から笑みが消えた。何かを演じることすらやめたように。それは初めて見る顔だった。ゆっくりと息を吐く。その吐息だけが静かな夜に溶けていく。
「……聞こえなかった?」
「……」
「俺、今ものすごく怒ってるの」
低い声。けれど、怒鳴っているわけでもない。責め立てる口調でもない。それなのに、その一言だけで夜風が急に冷たくなったような気がして、酔いで火照っていた身体の熱が、少しだけ引いていく。彼は、相変わらず私をまっすぐ見ている。
「あのさ、名前ちゃん」
「……」
「俺が、なんでここにいるか分かる?」
「……知らないですよ」
答えると、彼は一歩だけ距離を詰めた。街灯の影が重なり、剛翼を失った身体が、私を包み込むように立つ。近づいた拍子に私の息を吸い込んだのか、彼の眉がわずかに寄った。
「酔ってるでしょ」
「ええ」
「何杯飲んだの」
「えー?覚えてないですねー」
小さく笑ってみせる。自分でも笑うところじゃないことくらい分かっていた。ホークスは、深く息を吐いた。芝居でも誤魔化しでもない、本当に疲れ切った人のため息だった。
「覚えてないくらい飲んで、知らない男についてって、ホテル街まで来る」
彼はそこで静かに言葉を一度区切った。視線が揺れる。私は息が詰まるのを必死に隠していた。
「それ、やけ酒じゃなくて、やけくそって言うんだよ」
「……やけ酒したい日くらい、ありますよ。一般ピーポーは、とくに」
「やけ酒は、勝手にすればいいけどさ……」
「……」
「酒飲むのも、勝手にすればいいよ」
私は唇だけで笑う。しかし彼のその声だけが、少し低くなった。彼の手がゆっくり伸びてくる。逃げようと思えば逃げられた。それなのに身体がぴくりとも、動かなかった。
「でもさ……見ず知らずの男に抱かれようとするのは——」
指先が、顎へ触れる。痛くはない。力も入っていない。ただ視線だけは逸らせない角度だった。蜂蜜色の瞳が、夜の闇に揺れている。
「やけ酒じゃない……自傷だよ」
ほんの少しだけ声が掠れた。目と目が合った。近かった。息が触れそうな距離。喉の奥が熱い。笑おうとして、うまく笑えない。
なんで、そんなふうに見つめるの。なんで……顎なんて掴むの。どうして。どうして抱きしめてくれないの——。
「……何ですか。説教?」
「……」
「すごいですね、ヒーローって……引退しても、そんなに偉いんだ」
顎へ添えた手は離れなかった。数秒。沈黙だけが二人の間を流れる。彼の目から、少しずつ色が消えていく。
「……偉いから言ってるわけじゃないよ」
その声は驚くほど静かだった。顎へ触れた指先が、小さく震えている。怒りなのか後悔なのか。本人ですら区別がついていないようだった。彼はそのまま、ぽつりと落とす。
「俺のせいでしょ、全部」
胸の奥を、その一言だけが、正確に射抜いた。何も言い返せない。図星だったからだ。
「……もう、ほっといてよ!」
彼の手を払って声が裏返る。その声は、路地へぶつかって情けないくらい響いた。目尻が熱い。また泣くのかと、自分でも呆れる。しかし彼は、動かなかった。離れろと言われてもほっといてと言われても私を見る目はそのままだった。顎から離れた指が今度は私の頬に触れようとして結局、触れなかった。
「……無理。」
たった二文字。ひどく幼い響き。人気ヒーローでも、公安委員長でもない。ただ、一人の男の声だった。私は涙をごまかすように、口を開く。
「……何? 帰宅途中?」
「……」
「誰かとの、食事帰り?」
「……」
「それとも、引退しても、夜の見回りとかしてる感じですか」
沈黙を守る彼に向け、言葉の尖端を研ぐように皮肉を並べ立てる。けれど、どんな言葉も暖簾に腕押しで、虚空へと消えていく。
「……だったら、戻ってください。私は、適当に帰るので」
「嘘つき」
低く、けれど、一切の迷いを排した声だった。逃げ道を塞ぐように紡がれたその一言に、背筋を冷たいものが走る。
「適当になんか帰らない」
「……」
「あのままホテル、入ってたでしょ」
淡々と確信を込めて言い切られる。心臓が跳ねて、思わず私は、息を呑んだ。
「パトロール中に偶然見つけた、とか思った?」
「……」
「違うよ」
ホークスは自嘲するように首を横に振り、どこか乾いた笑みを唇に浮かべた。それから、拒絶を恐れるかのように、わずかに長い睫毛を伏せる。
「個性があった頃は羽、一枚だけずっと名前ちゃんのそばに置いてた」
当たり前のように告げたそれは、あまりにも、自然な口調だった。だからこそ頭が理解を拒む。あまりにも常軌を逸した告白だというのに、彼の顔にはただ、どこか他人事のような寂しげな笑みだけが残されていた。
「個性を失ってからは、それもできなくなって」
「……」
「どこへ引っ越したのかも、見当がつかなくて」
その言葉に滲む時間の長さが胸を締めつける。視線が私から逸れない。彼は小さく息を吐いて、そして、少しだけ困ったように笑った。
「……ずっと探してた。ようやく見つけた」
「……」
「この前のお菓子。あれ本当にそこに住んでるか確かめたくて送ったの」
「……」
「前日に行ったのは、心配ももちろんあったけど下調べっていうか」
もう笑って誤魔化せてはいなかった。軽口も、飄々とした余裕も、どこにもない。目の前にいるのは人気ヒーローだったホークスではなく何度も私を見失い、それでも探し続けてきた、私と同じただ一人の人間だった。
「なんで、こんなことばっかするの……」
「……」
「もう……関係、ないでしょ」
「……またそれ。関係ない?」
当たり前のように繰り返して言った私の言葉に信じられないものでも聞いたように彼は、小さく噛みしめるような声を出した。
「連絡先消されてブロックされて。それで『関係ない』って言われてさ……」
「……」
「はい、そうですかって引き下がれるほど、俺、できた人間じゃないんだけど」
そう言うと彼はふっと力を抜くように一歩だけ近づいた。その額が、そっと私の肩口に触れる。さらりと落ちた金色の髪が、首筋をくすぐった。重さはほとんど感じない。ただ、その体温だけが静かに伝わってきて、胸の奥の何かを、じわりと溶かしていく。
抱きしめてほしい。その一言さえ口にできれば楽なのに言えない。自分から拒んだくせに今さら腕を伸ばす資格なんて、ないと思ってしまう。
だから私は立ち尽くしたまま、彼の温度を受け止めることしかできなかった。
「……好きって、言ってくれたじゃん」
「だって、私は、好きだったから……」
肩越しに落ちてきた声は泣いているのかと思うほどに、掠れていた。それに返した自分の声は、驚くほど静かなものだった。
「自分から離したの、そっちじゃん……」
「……」
「なんなの。誰にでも、こういうことしてるの?キープ、とかさ……そういう感じ?」
彼が、ゆっくり顔を上げた。さっきまで肩口にあった体温が離れていく。目が合う。その蜜色の瞳は、初めて見るくらい傷ついていた。彼は苦く笑おうとして、うまく笑えていなかった。
「……そういう言い方、ほんと好きだよね」
「……」
「何回言えば信じてもらえるんだろ……」
「……」
「ねえ、教えて。何回言えば信じてくれんの」
小さく息を吐く。指先が落ち着かないように、スーツの袖口をつまみ、すぐに離した。それから少し間を置いて、私だけを見つめたまま続ける。
「キープなんていないよ」
「……」
「こんなに、格好悪くなったのも、こんな必死になったのも……名前ちゃんだけ」
胸が痛い。嘘だと切り捨てたいのにその言葉を口にする彼の顔には、取り繕う余裕なんて少しも残っていなかった。
「……ねえ。一つだけ、聞かせて」
それは、逃がさないようでいて、無理に縛ろうとはしない、眼差しだった。こちらの返事を待たずに、声だけが静かに落ちてくる。
「さっきの人、自分で選んだの?」
「ううん……声、かけられただけ」
素直に答えると彼は目を閉じて、小さく、息を吐いた。問い詰める口調ではなかった。どこか、怖がるような、祈るような響きだった。
「……そっか」
たったそれだけ。それだけなのにその言葉には安堵と、自分への怒りと、遅すぎた後悔が、全部混じっているように聞こえた。彼は、私の返事を胸の中で何度も反芻するように小さく息をつく。
「じゃあさ……自分から誰かのところへ行こうとしたわけじゃ、ないんだ」
「一人で、お酒を飲みに出てきただけです」
「うん……よかった」
短く頷く。それは胸の奥からこぼれ落ちたものだった。張りつめていた表情が、ほんの少しだけほどける。目元が柔らかく緩み安堵が隠しきれず滲んでいた。しかし私は思わず、眉を寄せてしまった。
「……は? 何が、よかったの?」
彼は困ったように笑った。情けないくらい力のない笑い方だった。世間が知っている元ヒーローの姿なんて、そこにはどこにもない。ただ一人の男が安心して、肩の力を抜いているだけだった。彼は少しだけ視線を伏せる。
「いや。自暴自棄になって誰でもいいって選んだわけじゃないなら、まだ……間に合うかなって」
「なに……間に合うって」
彼はもう一度、私を見る。そしてポケットから右手を抜いた。何も持っていない掌。それをゆっくりと私へ差し出す。指先に、余計な力は入っていない。ただ拒まれても構わないと覚悟した人の手だった。
「もう一回、チャンスくれない?」
「……何の、チャンス」
「俺のこと——もう一回、好きになってもらう、チャンス」
そう言って少し照れくさそうに笑う。その笑顔は、ようやく目元まで、届いていた。無理に取り繕ったものではなく、傷つきながら、それでも、笑おうとしている人の、素直な笑顔だった。
「嫌なことは嫌って言ってくれていい」
「……」
「ちゃんと、変わるから」
差し出した手は、そのまま。その言葉を聞いた瞬間に、胸の奥で押さえつけていたものが、音を立てて崩れた。唇が震える。
「……じゃあ、言う」
「うん」
「こうやって私の気持ちを振り回すホークスが、嫌……」
彼は、手を引かなかった。言い返しもしない。ただまっすぐに、すべてを受け止める。
それでも私は、まだ言い足りなかった。喉が、焼けるように熱い。
「自分から、離れたくせに……」
「……」
「いつまでも、関わってくるホークスが……嫌」
「……うん。そうだよね。嫌だよね」
彼は否定はしなかった。ただ苦しそうに頷いただけ。そして小さく笑う。私は、言葉が止まる。止めようと思ったのに止まらなかった。鼻の奥がつんと痛む。
「……でも。バカみたいに……」
「……」
「ずっと、ホークスのこと考えてる、自分が……一番、嫌だよ」
夜の路地が、しんと静まり返る。遠くで賑わう飲み屋街の笑い声だけが別の世界の出来事みたいに聞こえていた。
彼が小さく息を呑む。目を見開いたまま、何も言えずに私を見つめている。やがて、その顔が、ゆっくりと歪んだ。笑おうとしているのに、泣き出しそうにも見える、不器用な表情だった。彼の掠れた声が、夜風に溶けていく。
「……それ、今のも『嫌』の話?」
「……わかんない」
本当に、わからなかった。嫌いになりたいのに好きが残っている。忘れたいのに忘れられない。そんな自分が一番、扱いづらかった。そんな私を見て、彼が肩を落として苦笑した。
「そこは……ちゃんと、わかってから言ってよ」
その困ったような笑顔を見たら、また胸が痛くなった。これ以上その手を見ていたら、このまま触れてしまいそうだった。だから私は咄嗟に視線を落とした。差し出された掌から逃げるように。
「……もう、その手、下ろして」
彼の手にはまだ触れていない。それでも、その掌がそこにあるだけで、私の心は、簡単に揺れてしまうから。
「やだ」
返事は短かった。その一言とほとんど同時に、彼が一歩踏み込んでくる。気づけば両腕が、私の背中へ回っていた。強く、それでいて、壊れ物を抱えるみたいに、そっと。
もう背中に赤い翼はない。それなのに、不思議だった。包み込まれる温もりは、あの頃と少しも変わらない気がしたから。
「離さない」
「……だめ」
胸元に額を押しつけたまま、小さく首を振る。あの日のフラッシュが脳裏をよぎる。たった一枚の写真で彼は私から離れていった。だから怖い。繰り返したくない。喉の奥が熱くなる。
「……また、写真、撮られちゃう……」
「撮られたっていい」
その言葉には一切、迷いはなかった。私を抱き締める腕に、少しだけ力がこもる。ちゃんと伝えたいのに、涙で息が詰まる。
「また、それで……離れていくじゃん……」
「……」
「もう……傷つきたくないんだよ……」
「もう、離れないよ」
「……なんで、どうして……助けに来たりなんかするの……」
「……。好きだからでしょ」
彼は少しだけ黙ってそれから私の耳元にそっと唇を寄せてそう答えた。掠れているのに不思議なくらい、真っ直ぐな声だった。
「理由なんか、それだけだよ」
その一言で、張りつめていた糸が切れた。抵抗する力が、指先からゆっくり抜けていく。私は、彼の胸へ額を預けたまま、動けなくなった。嗚咽だけが、小さく漏れる。初めてだった。この人の前で、こんなふうに泣くのは。
彼は何も言わない。慰めの言葉も励ます言葉も口にしなかった。ただ、傷だらけの大きな手が、私の髪をゆっくり梳いていく。何度も、何度も。指先が髪を滑るたび、不思議と心の奥のささくれまで撫でられていくようだった。
あの頃なら、この腕の向こうには赤い翼が広がっていたのだろう。誰にも触れさせないように。世界そのものから、隠してしまうみたいに。だがその翼はもうない。それでも今は、彼の腕だけで十分だった。
「……もう、帰りたい——っ」
「ん。送る」
少しだけ名残惜しそうに、腕がほどける。本来ならきっと彼はここで翼を広げていた。二人分の体を軽々と抱え上げて、地面を蹴ることもなく、夜空へ舞い上がる。ふわりと体が浮き街の灯りが遠ざかって頬を撫でる風に思わず笑ってしまう。そんな帰り道を、私は知っている。けれど、その景色は、もう戻らない。彼は、静かに私へ背中を向けた。今は少しだけ細くなった背中。私は何も言わず、その肩へ腕を回した。
「ちゃんと掴まってて」
思わず、笑いそうになる。それは昔、空へ飛び立つ前に、必ず言っていた台詞だったから。
「……うん」
首元へ頬を寄せる。彼の腕が私の膝裏を支え、ゆっくりと立ち上がる。空は飛べない。それでも一歩ずつ歩き出す足取りは、驚くほど、安定していた。夜風が頬を撫でる。空気は少し湿っていてもう春の冷たさは、その中には残っていない。
「寒くない?」
「もう……夏だよ」
「……だね」
小さく笑う声が背中越しに伝わる。肩に触れる短くなった金髪は、昔より少しだけ軽く感じた。
失ったものは、きっと数え切れないほどある。翼も。空も。あの頃の当たり前も——。それでもこの背中だけは変わらない。安心して体重を預けられる場所だった。
マンションまでは、あと少し。いつもの彼ならどうでもいい冗談を一つ二つ挟んで笑わせようとしてくるはずなのに、今夜は何も言わなかった。しかし、その沈黙は気まずさではなく、ようやく隣に並べた二人が、失わずに済んだ時間を静かに噛みしめているようだった。
*
見慣れないはずのマンションの外観が、街灯に照らされて静かに浮かんでいた。
彼は、迷うことなくエントランスを抜け階段を上り、私の部屋の前まで歩いてくる。ここまで、送ってもらう間、一度も道を尋ねられなかった。どれだけ遠回りをして、どれだけ、時間をかけて私を見つけたのだろう。考えないようにしていたことが、また胸の奥で静かに疼く。
玄関の前で立ち止まると夜風だけが二人の間をすり抜けていった。
「着いたよ」
「うん」
彼がゆっくり腰を落とす。私の足が地面へ触れた途端、それまで預けていた体温がふっと離れていった。彼の背中の温もりが消えるだけで、少しだけ肌寒く感じる。
「……ありがとうございました」
バッグから鍵を探し出し少し震える指で鍵穴へ差し込んで回すと、小さく金属音が鳴った。その間も、背中越しの気配は、動かない。帰る様子がなかった。
「ねえ」
「……ん?」
「中、入っていい?」
「……何のために?」
「送り狼」
鍵を回したまま私は思わず振り返る。にやりと笑ってくれればよかったのに、こともあろうに、この男、真顔だった。
あまりにも真面目な顔で言うものだから一瞬、意味が追いつかない。しかし、次の瞬間だった。「っ、あは」と自分で耐えきれなくなったように吹き出したのだ。
「……いや、ごめん。今のは最低だった」
肩を揺らして笑っている。ようやく知っているホークスが戻ってきた気がして胸の奥が少しだけ緩んだ。
「ほんと、最低」
「知ってる」
笑いながら答える。それでも蜂蜜色の瞳だけは冗談の奥で私を見つめたままだった。軽口を言っているのに答えだけは本気で待っている目。私は何も言えず、その視線を受け止めるだけ。
「……だめ?」
沈黙が落ちる。六月の夜。どこかで、虫が鳴き始めていた。今度は、少しだけ遠慮がちだった。私は結局、その声に負けるのだ。
「……五分、だけなら」
「……」
「五分経ったら、魔法が切れるから」
「……魔法?」
「そう。……また、他人に戻る」
そう言い終えると彼は目を丸くした。自分でも少しだけ、笑ってしまった。しかし、彼は静かに頷いた。そして、ふっと口元を緩める。
「五分ね、了解」
ドアを開ける。私が先に靴を脱ぎ、彼も続いて部屋へ入った。
玄関に漂う、生活の匂い。テーブルには、食べ終えたお菓子の空箱。半分だけ残った、スポーツドリンク。読みかけの雑誌。片付ける気力もなく積み重ねた日々が、そのまま部屋に残っていた。彼は部屋を見回して「あらぁ」と小さく笑う。
「片付いてないじゃん」
「……荒れた生活、送ってたので」
「知ってる。監視カメラで見てたから」
さらっと返ってくる。私が思わず顔を上げると悪びれもせずへらりと笑った。それは、ようやく肩の力が抜けたような、いつものヒーロー・ホークスの、笑い方だった。
「……怖いよ」
「嘘だって」
「嘘っぽくないもん」
「そんな怖い男、部屋に入れたの誰かなぁ」
その笑顔を見ているだけでさっきまで路地裏で泣いていたのが嘘みたいに思えてくる。私は靴を揃えながら、もう一度、振り返る。
「……ホークスだって。帰ってなかったでしょ、あの、マンション」
「……あー。」
視線が泳いだ。なんとも、わかりやすい。図星だったのだろう。彼はそれを誤魔化すように頭を掻く。
「まぁ……仕事が立て込んでてさ」
「女の子でしょ、どうせ」
彼は眉を下げて苦く笑った。それから、困ったように息を吐く。
「またそういうこと言う。ほんとに、そう思ってる?」
「うん」
「……」
「……そう、思っていたいの」
少しだけ間を置いてから言った。そうでも思わないと、自分から離れていった理由に納得できなかったから。彼は、私をじっと見つめる。そこに茶化す色は、どこにもない。
「んー。それってさぁ?」
「……」
「……嫉妬、してくれてるってことでいい?」
静かな問いだった。それでもやはり、からかう色はどこにもない。どちらかといえば答えを怖がっている人の声だった。私は小さく首を振る。
「違うよ」
「違うの?」
「そうやって、ホークスを最低な男に仕立て上げてるだけ」
「……」
「最低な人だったって思えたら、忘れられる気がするから」
自分でも苦しいくらい素直な言葉だった。部屋が静まり返る。彼は何も返さなかった。その沈黙だけで十分だった。きっと今のが、一番、傷つく答えだったのだ。最低な男でいてくれ。そうじゃないと、諦められない。私はそんな残酷な願いを口にしてしまった。しかし、ぽつりと落ちた声はどこまでも穏やかだった。
「忘れなくていいよ」
「……五分後には、忘れるよ」
私がそう言うと、彼は観念したようにスマホを取り出して画面を開くと、タイマーを設定した。
——五分。数字を確認してテーブルの真ん中へ置く。彼はその画面を見つめて、小さく頷いた。
「五分ね、わかった」
スタートを押す。赤い数字が、静かに時を削り始める。私たちは床へ座った。テーブルを挟んで向かい合う。六畳の部屋は、一人でいるときには持て余すくらい広かったはずのに彼がいるだけで少しだけ、窮屈に感じる。
——4:59。たった一秒減っただけなのに、胸の奥が急かされる。彼が膝に肘を乗せ少し前へ身を乗り出した。私も、三角座りで膝を抱え直す。
「……じゃあ。五分の間だけ、俺の話聞いて」
「どうぞ……演説会、始めてください」
少しだけ皮肉を混ぜたつもりだった。それでも彼は笑わない。ただ、小さく息を吸った。
——4:36。彼は私から、視線を逸らすことすら拒み、喉から漏れる言葉をひとつたりとも誤らぬよう、静かに間を置いて、確かめるように言葉を拾い集める。
「まず、あのとき急に距離を置いたこと」
「……」
「あれは、知っての通りヴィランの件があって、余裕がなかった」
それだけだった。余計な言い訳は、足さない。呼吸を整えるように呼吸と呼吸の間に間を置く。そうして、慎重に、言葉を選び取っていた。数字だけが静かに減っていく。残り、——3:40。
「——で、次。」
「……」
「ブロックされても、諦められなかったこと」
彼はそこで、少しだけ笑った。まるで自嘲するみたいにして。そのまま、視線が落ちる。
「……正直、もう嫌われたと思ってた」
「……」
「でも、ここで諦めたら本当に終わる気がした」
——2:47。ホークスはまた私を見る。部屋にはタイマーの小さな作動音だけが響いていた。時間だけが、容赦なく減っていく。
「次。居場所を探したこと……あれは、ごめん」
少しだけ情けなさそうに眉を下げて、真っ直ぐ謝る。それから苦く笑った。けれど、その笑顔はすぐに消えてしまった。
「最低だって、自分でも思う」
「……」
「でも……。どうしても、もう一回だけ話したかった」
——1:00。残り一分。急にその数字が現実味を帯びる。こんなに短いんだ、と今さら思う。彼も同じだったのか、少しだけ呼吸が浅くなった。
「名前ちゃん」
——0:27。名前を呼ばれる。返事はできなかった。ただ、喉だけが詰まる。それでも、彼は待たない。もう時間がないことを、知っているから。
「好きだよ」
最後は飾りも冗談もなかった。ただ、その一言だけ。同時に、タイマーが鳴る。電子音が部屋の静けさを小さく震わせた。赤かった数字が正しく0:00を表示し、やがて画面がゆっくり暗くなる。
五分——。私が決めた約束の時間は終わった。これで他人に戻るはずだった。それなのに、彼は立ち上がらなかった。私も「帰って」とは、言えなかった
「……タイマー、止めないの?」
「止めたら、いてもいいってこと?」
終わった数字を見つめたまま、彼が、少しだけ口角を上げる。もう五分は過ぎている。それでも私はしばらく、何も言わなかった。彼も何も言わない。そうして、私から先に口を開いた。
「……いや、単純に、ピコピコうるさいだけ」
「あ、そっち?」
ようやく肩の力が抜けたようにふっと笑って、彼が手を伸ばす。画面を軽く触れると、電子音が止み、部屋がしんと静まり返ると、私たちの呼吸だけが聞こえる温度まで戻った。
「五分だね」
「うん。ちゃんと五分だった」
「オーバーしなくてよかった」
「お疲れさまでした、演説会」
「ははっ。ありがと」
約束は守った、というように彼が肩を竦める。そして、少し笑ってから、蜂蜜色の目がまっすぐ私を捉えた。どうやら帰る気はまだないらしい。
「で?」
「……ん?」
「俺は五分できっちり言いたいこと言ったけど」
「うん?」
「名前ちゃんは?」
彼はまた、さきほどと同じように膝に肘を乗せ少しだけ前に、身を乗り出す。そして、その問いだけが、静かな部屋に残ってしまった。
「私は……」
喉まで来ている言葉が、うまく形にならない。言えば傷つける。でも、言わなければ、この人はきっと何も知らないままになる。私は唇を噛んで小さく息を吸った。そして、視線を落としたまま続ける。
「……さっき、ほとんど言ったけど」
「うん」
「さっきの、お兄さん……別に、あのままホテル行っても、いいって思ってた」
その瞬間、空気が変わった。彼の笑顔だけが、その場に取り残されたみたいだった。目だけが、静かに細くなる。そして、絞り出される低い声。
「……それ、今言う?」
「今じゃなきゃ、もう言えないから」
返事はない。ただ、膝の上で握られた拳だけが少しずつ、力が入っていくのがわかった。
「ホークスと、キスなんてしちゃったから……」
「……」
「……きっと、ただの勘違いだった。ひとりで、勝手に、気持ちを膨らませちゃってただけで」
「……」
「人気のヒーローに遊ばれたなら......一回くらい抱いてもらえば諦めもついたのかなって。そんなことまで考えた」
喉が熱い。自分でも笑ってしまうくらい、情けない理由だった。しかし、その瞬間だった。彼がゆっくり立ち上がる。見下ろされる形になるのに不思議と威圧感はない。ただ、その目だけが痛いくらい真っ直ぐだった。
「遊んでない」
「……」
「遊びで、キスなんかしない」
「……わかんないじゃん」
低く落ちた声が胸に響く。反射みたいに返した言葉だった。信じたい自分と信じたくない自分がずっと私の中で、喧嘩をしている。
「わかってよ」
「……」
「もう……わかってほしい」
その言葉が、思っていたよりもずっと苦しそうだった。彼はゆっくりしゃがみ込み私と同じ高さまで、目線を下ろした。逃げ場をなくすためじゃない。ちゃんと、目を見て話すために。そして、静かに息を吐き、少しだけ困ったように笑って。
「じゃあさ、そんなにわかんないって言うなら、俺が、ちゃんとわからせる」
「……もう、五分経ってる」
「……」
「ゲームオーバー、だよ」
思わず呟いてしまったその言葉に、彼は小さく首を振った。
「ゲームなんかしてないよ」
「……」
「最初から、一回も」
右手が、小さな一人用のテーブル越しにそっと伸びてきて、私の頬を包む。
熱かった。逃げようと思えば逃げられるくらい優しい力なのに、その手の温度だけで、動けなくなる。目の前には、近すぎる蜂蜜色の瞳。
「好きな子が……俺以外の男と、ホテル行こうとしてた」
彼はそこで一度だけ言葉を切る。笑おうとしたのかもしれない。でも、笑えていなかった。
「そんなの……ゲームで済ませられるわけないでしょ」
親指が頬を滑る。まるで、涙を拭うようなその手つきだけが、どうしようもなく、優しかった。
「……俺じゃ、だめ?」
「……ホークスを、好きでいると……苦しいことばっかり、起こるから……」
言葉にした途端、胸の奥で押し込めていたはずの痛みが、また息を吹き返してしまった。写真も週刊誌も。あの日、ベランダで背中を向けられたことも。好きになればなるほど失う怖さばかりが増えていく。
「苦しいことなら、全部、俺にぶつけて」
頬を包んでいた手が、ゆっくりと離れていき、その温もりは、途切れることなく私の手へ移る。テーブルの上に力なく置いていた指先を、そっと包み込む。
「週刊誌も、写真も、記者も……。名前ちゃんのところに届く前に全部、叩き落とす」
「……もう、羽ないのに?」
「あのさ……そこは表現の自由ってことで」
思わず少しだけ、笑ってしまった。彼も困ったように笑う。その笑い方が、出会った頃よりも、少しだけ、ぎこちない気がした。
「だって……絶対にまた急に、離れていくもん」
「離れない方法を考える。今度からは一人で抱え込んで、逃げたりせん」
「……」
「ちゃんと、相談する。ちゃんと話すから」
迷いのない返答だった。それきり、彼は沈黙を守る。急かすでもなく、けれど絡めた手は決して解こうとしない。ただ私が諦めて答えを口にするまで、静かに余白を差し出してくれていた。私はその沈黙に屈するように、俯いたまま掠れた声を漏らす。
「ほんとに……弄ばれたんだって……思ってた」
「……ごめん。全部、俺が悪かった」
一切の飾りもない、真摯な謝罪だった。自弁も取り繕うための軽口すら交えない。素顔のままの彼が、そこにいた。
「……うそつき」
「嘘じゃない」
ホークスは静かに首を横に振る。それから胸の底から息を吐き出すようにして、わずかに目元を緩めた。
「……ずるい」
「うん、こすかね」
「……」
「最低だし、普通にストーカー予備軍やしね」
開き直るでもなく情けない自分の愚かさを噛み締めるように呟き己の身勝手さを素直に認めると彼はどこか気まずそうに、けれど愛おしさを隠しきれないような顔で、少しだけ視線を泳がせた。
「……それでも、好き。」
その最後だけは、まっすぐ、私を見て言った。その、瞬間だった。彼はとうとう、耐えきれなくなったように低く息を吐きながら、テーブルへと両肘をついて、逃げ場を探すみたいに顔へ持っていった。
額を押さえる左手の指は前髪をかき分けるように額へ食い込み、もう片方の手は、頬から口元を覆うように添えられている。指先は力なく開いていて、顔を隠しているはずなのに、指の隙間から覗く耳は真っ赤で、伏せられた睫毛は、かすかに震えている。隠したいのに隠しきれない。まるで「見ないで」と「見つけて」が同時にそこにあるような、そんな不器用さが、溢れ出していた。
「……俺のこと、好きになって」
今までで一番掠れた声だった。人気ヒーローとして活躍してきた人なのに、たった一人への願いだけは、こんなにも心許ない声になるらしい。
好きになって——。たったそれだけの感情が、どうしてこんなにも、人を追い詰めるのだろう。
その一言へ辿り着くまで、この人は、どれだけ自分を責めて、どれだけ私を失う未来を想像したのだろう。私の前で、視線も声も逃がしながら、それでも逃げきれずに、立ち止まっている。手の甲に浮いた血管や、耳まで赤くなっている姿を、見ないふりなんて、もうできなかった。
沈黙は長く、でも不思議と、苦しくはなくて、その隙間に鷹見啓悟という人間の鼓動がはっきり聞こえる気がした。
隠した顔の向こうで、きっと彼は、私のことを考えている。その事実だけで胸の奥が少しだけ、やさしく痛んだのだった。