一番、嘘がつけないのはキスだと思っている。唇が触れ合った瞬間、重なった息の震えだけで、その人がどれほど緊張しているのかわかる。
力が抜けるように唇がやわらかくほどけるのは安心してくれている証で、服を、ぎゅっと掴んでしまうのは離れたくない気持ちが指先から溢れてしまった証拠。深くなるにつれて、呼吸が乱れるのは、もっと近づきたいという無意識の願いで、首に腕を回すのはこの人にならば全部を委ねてもいいと思えた瞬間なのだろう。
ゆっくり触れてくる人は、その時間ごと、噛みしめるように相手を好きでいて、反対に抑えきれない勢いで触れてくる人は、それだけ、我慢できないほど、欲しかったということ。そして、唇が離れたあと、少し潤んだ瞳には、その人の本音が映る。好きの大きさも、甘え方も、心の距離も。全部、隠せない。だから私はあの日のキスだけはどうしても、嘘だったとは思えなかった。
*
彼と、ベランダで最後に言葉を交わしてから、当たり前だった景色は確実に姿を変えていった。何も変わらないと思っていた日常が音もなく形を失っていく。あの日から、隣の部屋に彼が帰ってくることは、とうとう一度もなかった。
朝のニュースは天気予報より、避難情報を優先して流すようになり、会社では、営業資料よりも非常食や飲料水の備蓄を確認する時間が増えた。街を歩けば、空を見上げてヒーローを探していた子どもたちは、爆発音に肩を震わせ、大人の手を強く握って俯いて歩いている。
ヒーローは『安心』の象徴では、なくなった。命を懸けて、それでもなお、勝てるとは限らない人たち。そんな存在へと世の中の見方が変わってしまった。
ヒーローとヴィランの全面戦争。その文字を、日本中の誰もが知ることになる。テレビは何日も特別番組のまま切り替わらず、崩れ落ちるビル、燃え上がる街、泣き叫ぶ人々の姿が繰り返し映し出された。画面の端には見覚えのある赤い羽根が何度もよぎる。そのたびに、私は息を止めた。
連絡なんてできない。そんな資格は、もう自分にはない。そう言い聞かせながら、それでも画面から目を離すことができなかった。
それ以上に呼吸を忘れた瞬間がある。ヴィラン連合の一人が、全国へ流した映像。全身、火傷に覆われた、荼毘という男が、まるで楽しむように笑いながら、一人ずつ名前を暴いていく。エンデヴァー。そして、ホークスの名も。思わず手からリモコンが滑り落ちた。乾いた音がフローリングを転がり、やけに大きく部屋へ響く。テレビから聞こえてきたのは、『ホークス』という名前ではなかった。
初めて耳にする本当の名前——��鷹見啓悟�=B彼の告発のあと、速報の字幕が何度もその文字を映していた。翌朝には新聞の一面にもその名前が載っていた。世界中が知ってしまったのだ。彼がずっと、隠してきたものを。生まれたときから、背負わされてきた、その過去を——。
(たかみ、けいご……)
私は、その名前を心の中で何度も繰り返した。私にとってあの人はずっと「ホークス」だった。だからこそ、その名前を知った瞬間、不思議と、人気ヒーローの素顔を知った気持ちにはならなかった。ただ、一人の青年が、大勢の前で無理やり裸にされたような気がして、胸の奥が痛かった。私には善悪なんてよくわからない。誰が正しくて誰が間違っていたのか。そんなことを簡単に決められるほど、賢くもない。それでもテレビをつければ毎日のようにヒーローの話題が流れ続けた。治安は悪化し街から笑顔が減りヒーローを辞める者が相次いでいるとニュースは淡々と伝えていくだけ。
誰もが何かを失っていた。家族を。友人を——仕事を。信じていたものを。そして私もその一人だった。やがて、日本そのものが崩れ落ちそうになり、朝から携帯電話は災害速報を鳴らし続け、会社も店も、いつものようには、動かなかった。人々は、自宅や避難所で息を潜め、テレビだけがこの国の今を映し続けていた。画面の向こうでは街が崩れ人が逃げ、ヒーローたちが走る。
ニュースは昼も夜も終わらず犠牲者の数だけが静かに増えていった。私は、画面の端ばかり見ていた。ニュースキャスターではなく、被害の状況でもない。速報のテロップにときおり映る一人の名前を——。ホークス。その文字が流れるたび、胸が締めつけられ呼吸の仕方を忘れたのだった。
*
長かった戦いは、ようやく終わった。それから一年も経たないうちに世界はすっかり別の景色になっていた。
季節だけは、何事もなかったように巡る。春が来て桜が散り、新しいスーツや制服に袖を通した人たちが、まだ工事用の囲いが残る街を、足早に行き交っている。壊れた建物は少しずつ姿を消し代わりに、新しい看板や足場が、街のあちこちに増えていった。復興という言葉はいつしか特別なものではなく、日常を説明するための当たり前の言葉になっていた。そんなある日の夜、スマートフォンが鳴った。
『もしもーし、生きてる?』
電話の向こうで、学生時代の友人が、朗らかに笑った。その笑い声を聞くだけで、少し肩の力が抜ける。幸いにも家族も友人も、あの戦いで命を落としたり、大きな怪我を負ったりすることは、なかった。みんな、それぞれ傷を抱えながらも、ちゃんと今日を生きている。
「生きてるよ」
『えー?声が死んでるじゃん』
「……それは残念。仕様なので」
友人が、盛大に吹き出した。私は思わず、その声量にスマホを耳から一度、離す。
『相変わらずだね〜。でも元気ってことで』
「お互いにね」
それから少しだけ他愛もない話をした。職場の愚痴。値上がりした食料品。最近できたカフェ。戦争が終わってからようやく好きなアーティストのライブが再開されたこと。誰かが笑って誰かが恋をして誰かが結婚する。世界はちゃんと、前へ進んでいる。
『そういえば引っ越し先、もう慣れた?』
「うん。スーパー近いし、静かだし」
『じゃあ、隣人ガチャは?』
「はは。普通だよ。サラリーマンだったかな」
『よかったねー。普通が一番だよ』
普通が一番。その言葉を、口の中で転がした。きっと、本当にその通りなのだと思う。壁越しに生活音が聞こえても、心臓が跳ねることもない。ベランダへ出ても、赤い羽根を探す癖も少しずつ薄れてきた。それが本来あるべき暮らしなのだ。
『いやぁ〜、久々に笑ったわ。じゃあ、また電話するねっ!』
「うん、ありがとね」
通話が切れて部屋はまた静かになった。誰かと話している間だけ忘れられていたものが静けさと一緒に戻ってくる。
私は、あのマンションを出た。隣に、プロヒーローが住んでいない、ごくありふれた部屋へと。
段ボールをほどき、新しい本棚を組み立てて、カーテンを掛け替える。生活というものは、拍子抜けするほど簡単にその形を変えていく。住所も毎朝の通勤経路も窓の向こうに広がる景色すらもすべてがすっかり入れ替わってしまった。それなのに胸の底にこびりついた想いだけは、どんなに優秀な引っ越し業者であっても、連れ出すことも置き去りにすることすら、叶わないらしかった。
翌日の昼下がり——。会社の休憩室で点けっぱなしになっていたテレビから、梅雨入りを告げる気象予報士の朗らかな声が唐突に途切れた。
続いて聞こえてきたアナウンサーの声はすっと低く、硬いトーンへと改められる。
『新たなヒーロー公安委員長に、元・No.2ヒーロー、ホークス氏が就任しました』
私はその映像をぼんやり眺めていた。以前より少し、短くなった金髪。ヒーロースーツを彷彿とさせる黄土色のスーツ。まっすぐ前を向いて話す姿は、あの頃と何も変わらない。ただその背中に赤い羽根は、もうなかった。
知っている。先の戦いで、彼は個性を失った。誰よりも自由に空を飛び続けてきた人は、もう、二度と自分の翼で、空へ上がることはできない。アナウンサーは『第二の人生』『新たな挑戦』と前向きな言葉を、並べ立てる。画面の中の彼も、期待を裏切らないように、穏やかに笑っていた。でもその笑顔を見るたびに思う。あの人は笑えてしまう人なのだ。どれほど傷ついていても、泣きたくても、誰にも見せたくないものを胸に抱えたまま、それでも笑ってしまう人。だからその笑顔だけでは本当のことは何ひとつわからなかった。
休憩室には、もう誰もいない。テレビの電源を落とすと、室内は急に静かになった。窓の外では雨が降り始めている。灰色の空を見上げながら、無意識に視線が空を探していた。もう飛んでくるはずもない赤い羽根をまだどこかで探してしまう自分がいる。
それから、およそ一週間が過ぎた。目覚ましが六時半を告げる。土曜日——。休日の朝くらい、もう少し、ゆっくり眠っていたかったのに、身体だけは平日と同じ時間に、目を覚ましてしまう。顔を洗い、冷蔵庫を開ける。食パンを卵と牛乳に浸しフライパンへ落とす。じゅわ、と小さな音がして甘い匂いが部屋に広がった。一人分には十分すぎる、質素な朝食だった。
テレビをつける。映ったのは天気予報だった。今日は、晴れるらしい。最高気温を確認しようとしたところで画面が切り替わり思わず肩から力が抜けた。
窓の外を見る。昨日までの雨が、嘘みたいに、空は青かった。その青さとは裏腹に、頭の奥では鈍い痛みが、脈を打った。変わったことがあるとすれば、缶ビール一本で、二日酔いをするようになったことくらいだろうか。低血圧の朝にアルコールは相性が悪い。そんな当たり前のことをこの歳になって、ようやく身体が覚えたらしい。
こめかみを押さえながら、フレンチトーストを口へ運ぶ。テレビでは、ヒーロー特集が始まっていた。画面の中で新しい世代のヒーローたちが、爽やかに笑いファンへ手を振り、軽やかな口調でインタビューに答えている。その姿を眺めているうちに、ふいに一人の顔が浮かんだ。ベランダで星を見上げながら交わした他愛もない会話。あの最後の夜に聞いた声が、遠い昔の出来事みたいに思えてしまう。やっぱり彼は、上手だったんだ。笑うことも何もなかったような顔をすることも。そう思った途端、胸の奥が少しだけ軋んだ。私はリモコンを手に取り静かにチャンネルを変えるとそのまま洗濯機を回しに行くため立ち上がった。
*
「ただいまぁ……」
誰もいない部屋に、小さく声を落とした。午後から少しだけ買い物に出て、ようやく帰ってきたところだった。
エコバッグを床へ置くとそれだけで身体の力が抜けていく。特別なことをしたわけでもないのに今日はひどく疲れていた。靴を脱ぎながら、ふと胸の奥で、ひとつ思考が浮かぶ。
(……今日も、帰りが遅いのかな)
そこまで考えたところで自分で苦笑した。もう気にする相手なんて、この部屋の隣にはいない。
時計は十九時を少し回っていた。窓の外はすっかり夜で、街の灯りだけが、静かに瞬いている。
ベランダを気にすることもなくなった。いや、正しくは、気にしないようになった、だ。見ても何もない。期待する理由もない。そう思い続けてきたから、いつしか窓の外を見る癖もなくなっていた。
夕食の片付けを済ませ、ソファへ身を預ける。昼過ぎには頭痛こそ治まっていたものの、身体の奥には、鉛みたいな倦怠感が、残っていた。休日らしいことを、何ひとつしていないはずなのに、心だけが妙に疲れている。少し前までは、毎日が楽しかった。そんなことを考えてしまう自分が、本当に嫌だった。
ベランダ越しに他愛もない話をして、お互いの部屋を行き来するようになってくだらないことで笑って。そして——キスまで、してしまった。
(……こうなるくらいなら、一度くらい、抱いてもらえばよかったかな)
そこまで思って、すぐに首を横へ振る。違う。そんなことをしたら、もっと忘れられなくなっていた。今よりずっと、苦しかったはずだ。最低なことを考えている。自覚はあった。それでも頭の中だけは、勝手に過去をなぞってしまう。抱いてもらえばよかったなんて、自分が、そんな発想をする人間だとは思ってもいなかった。ごろん、と寝返りを打つ。天井のシーリングライトがやけに白く眩しかった。
そのときだった。玄関の向こうから足音が聞こえた。鍵束が小さく触れ合う、金属の澄んだ音。無意識に息を止める。次の瞬間、自分でも可笑しくなった。もう隣に住んでいるのは彼じゃない。わかっているのに、身体だけは、昔の癖を忘れていなかった。
がちゃり。隣室のドアが開き、ほどなくして、閉まる音が響く。少し間を置いてからシャワーの水音が流れ始めた。壁一枚隔てた、誰かの生活。それだけのことなのに、耳が勝手に、音を拾ってしまう。聞きたくない。そう思うのに、身体は、動かなかった。やがて水音が止み、冷蔵庫を開け閉めする音が続く。何かを取り出して、置いて、また扉が閉まる。それから規則正しい包丁の音。とん、とん、とん。一定のリズムで刻まれる音は不思議と安心感があった。隣の部屋にも、誰かの日常が、ちゃんと、流れているのだと思う。見たこともない隣人へ、心の中でそっと呟く。
(——おかえりなさい。)
その言葉は、本当は、誰に向けて言いたかったのか。そんなことは、自分だけが知っていた。
おかえりなさい、なんて。もう言える立場じゃない。言う資格も、義理もない。あの日、自分で終わらせた。終わらせるしかないと思って、自ら手放した。全てを、相手のせいにして。怖かったから。何もかもが。だからもう、その言葉を口にする相手はいない。壁の向こうではとんとん、と規則正しい包丁の音が続いていた。不意に、あのヒーローが台所へ立つ姿を思い浮かべてしまう。もし今も翼があったならきっと邪魔そうに羽根をたたみながら、料理をしていたのだろう。でも、もう違う。翼はない。なら——今ならばエプロンなんかを着けたりも、するのだろうか。
「……、」
……だめだ。そんなことまで想像したくない。これ以上好きになる理由を増やしたくなかった。
水道の流れる音。皿を置く、小さな音。食卓を囲む話し声は聞こえない。隣人さんは一人暮らしなのだろうか。テレビもつけていないらしい。
こちらもいつの間にか、テレビは消していた。さっきまで流れていたはずの、バラエティ番組の笑い声だけが部屋の空気に取り残されている気がした。やがて、箸が器に触れる乾いた音がして、それも途切れる。食器を洗う水音。蛇口が閉まり静けさが戻る。それから、ガラス戸が開く音が、聞こえた。ベランダだ。仕切り板の向こうへ出たのだろう。けれど、こちらへ近づいてくる気配はない。当然だ。あの頃とは、もう何もかも違う。
風が向きを変え、煙草の匂いがかすかに流れてきた。一本だけ吸う人なのか。それとも、何本も吸う人なのか。そんなこと知る必要なんてない。知りたいとも思わない。それでも鼻は、勝手に、匂いを拾ってしまう。時間だけが、静かに流れていった。それから十分ほど経った頃、窓の閉まる音がした。足音が遠ざかる、と思った。けれど、今度はまた別の足音が壁の向こうではなく廊下のほうから聞こえてきた。ゆっくりと、迷うような歩幅で。この部屋の前は通路だ。きっとそのまま通り過ぎるだけだと思っていた。それなのに私の部屋の前で、その足音が止まった。
「……。」
息を潜める。数秒。インターホンは鳴らない。こんこんこん、と扉を叩く音もしない。代わりにこつ、と。指の甲で触れたような、小さな音。
聞き間違いかと思った。こんなところまで来てまだ期待している自分がいるなんて、絶対に認めたくなかった。けれど——こつ。もう一度。同じ音が、今度は、はっきり聞こえた。ノックというより、そこにいることだけを知らせる、控えめな合図だった。
身体が先に動いていた。理性は必死に引き止める。行っちゃだめ。開けちゃだめ。また、傷つくだけだから。それでも足は止まらない。玄関まで歩いてチェーンだけは外さずあの日と同じようにそっと覗き穴へ目を寄せた瞬間、息が止まった。そこに立っていたのはホークスだった。黄土色のスーツ姿。少し短くなった前髪はまだ濡れていて額に細く張りついている。雨は、降っていない。仕事を終えて、シャワーだけを浴びて、そのまま来たのだろうか。手には何も持っていなかった。焼き鳥もコンビニ袋もレシートの裏に書くような言い訳も——。何ひとつ持たず、ただ、スーツのポケットへ両手を入れ、少しだけ、肩をすぼめるようにして、静かに扉の前へ立っていた。
「……なん、で……」
閉じたままのドア越しに、掠れた声が零れた。彼はポケットから右手だけを抜く。掌には小さな箱が載っていた。ドラッグストアなどで見慣れた何かの薬の箱だった。
「これ、置いとくだけだから」
しゃがみ込み、チェーンの外側——ドアノブの真下へ静かに置く。音を立てないように。まるでその程度の距離しか許されていないことを知っているみたいにして。
「頭痛薬。二日酔い用」
それだけ告げると彼は踵を返す。「待って」と呼び止めたい気持ちだけが喉につかえ声にはならない。代わりに、そっと扉を開ける。鎖を外さぬままほんの数センチだけ。数歩進んだ彼は、その音に気づいて不意に歩みを緩めるとこちらを振り返らないまま、静かに言った。
「昨日、結構飲んでたでしょ」
「……なんで、知ってるの」
——違う。そんなことを聞きたいんじゃない。どうしてこの部屋を知っているのか。どうして、今になって来たのか。どうして、あれから一度も連絡をくれなかったのか。聞きたいことは山ほどあるのに口から出たのはそんな些細な一言だった。彼はそれでも、振り返りはしない。
「知る方法くらい、あるっちゃん」
「……」
「心配だったし」
俺の個性、便利なんだよね。振動でわかるの。ビール缶の底を指で弾いた音も、全部ね。とは、もちろん言わなかったが。まるで当たり前にそう付け足して言うみたいな、なんとも軽やかな口調だった。どこで知ったのかも誰に聞いたのかも、何ひとつ、説明してはくれない。聞けば、答えてくれるのかもしれないけれど、その続きを尋ねる勇気は、今の私にはなかった。
「あ……ありがとう、」
遅れてようやく、言葉が口をついた。私の声に彼は片手だけをひらりと上げてみせる。見慣れたいつもの仕草だった。昔と、何ひとつ変わらないように見えて、けれど、彼の背中にはもう、あの誇らしげな赤い翼が、影も形もなくなっていた。
「あ、あの……」
気づけば呼び止めていた。彼の足が、もう一度ぴたり、と止まる。
「最後に……変なこと言ったの……気にしないでください、ね……」
しまったと思った。自分から言ってしまった。聞こえていたか、どうかもわからない。確かめもしないまま、自分から墓穴を掘っている。
あの夜。ベランダで。好きだったのに——そう零したことを、自分から、認めてしまったようなものだった。ホークスは、ゆっくりと振り返る。廊下の照明は少し暗く、その輪郭だけを柔らかく照らしていた。口元には穏やかな笑み。誰に向けても見せられる、大人の笑顔。でも。私は知っている。この人は、本当に笑っているときは目尻がほんの少しだけ下がることを。照れたときは耳が赤くなって、誤魔化すみたいに、咳払いをする。
だから今の笑顔は違う。笑っているのに笑えていない。それは——誰かを安心させるためだけに覚えた、偽物の笑顔だった。
「変なことって?」
「あ、いや……その……」
「……」
「聞こえてなかったなら、ぜんぜんいいんです。じゃあ——」
「聞こえてたよ」
ドアを閉めようとした、その瞬間だった。彼が一歩だけ近づく。チェーン越しの距離。そのすぐ向こうにある蜂蜜色の瞳が、まっすぐ、こちらを見つめていた。逃げ場なんてない。こんな近くで目が合ったら、泣いてしまう。
「最低だって言われたのも。好きになったのに、って言ったのも」
「あ……そう、ですか……」
「うん」
短い返事だった。それなのに、その一音だけで胸の奥へしまい込んだはずの言葉が、また簡単に息を吹き返してしまう。
「全部、聞いたうえで言うけど」
彼は、無意識の癖なのか、スーツの袖口を軽く整えた。かつて翼があった背中はもう動かない。それでも、その仕草だけは昔と何も変わっていなかった。
「気にしないなんて、無理」
「そ……それは、なんというか……すみません。ご迷惑を、おかけしました……」
「茶化さないで」
「……」
「あと。だから、謝んないでって」
怒っているのかと思い、ちらりと、彼の表情を窺ってみると、困ったように眉根を下げて笑っていた。その顔が好きだった事を不意に思い出す。
「あれ、本音でしょ」
「あー、えっと……酔ってたから。自分でも何を言ったのか、よく覚えてなくて……」
彼は何も言わず、じっと私を見つめる。近い。視線だけで、心の奥まで覗かれてしまいそうで、思わず顔を少し引いた。笑って誤魔化そうとする私と、もう、笑って誤魔化そうとしない彼。今のチェーン一本ぶんの距離が、近いようで、やけに遠かった。
「……酔ってて覚えてない、か」
ぽつりと零れた声は低かった。その響きだけで信じていないことがわかる。だって、あの日は、缶ビール一本しか飲んでいない。そのことを彼は知っているはずだから——。
「……まあ、いいけど」
嘘だ。よくない。そんなことくらいその表情を見れば、誰にだってわかる。それでも彼は、それ以上、責めることはしなかった。その代わりに、ほんの少しだけ、口元を緩める。
「頭痛薬、ちゃんと飲みなよ」
「……」
「おやすみ」
それだけ言い残すと彼はようやく背を向けた。革靴の音が廊下の奥へ少しずつ遠ざかっていく。取り残されたような静けさだけが、廊下に残る。
私はしばらく、その場から動けなかった。ようやくチェーンを外してドアを開ける。足元に置かれた頭痛薬の箱を拾い上げようと身をかがめた、そのときだった。箱の脇に大きめの紙袋がひとつ置かれていることに気づく。こんなもの、さっきまであったっけ……?
どうやら、音もなく置いていったらしい。恐る恐る持ち上げると、思っていたよりずっと、重かった。中を覗くと、スポーツドリンクが、何本も入っている。その下には、お粥のパウチやゼリー飲料、それから、栄養補助食品まで、ぎっしりと詰め込まれていた。まるで、数日寝込むことまで見越しているようなその中身に思わず苦笑する。
「もぅ……どこまで、過保護なの」
笑いそうになったのに、笑えなかった。部屋に入って、頭痛薬を一錠、水で流し込む。スポーツドリンクを冷蔵庫へしまい、ゼリー飲料だけテーブルに置いた。それを見つめているうちに、胸の奥へ押し込めていたものがゆっくり溶け始める。そのまま私はベッドへ倒れ込んだ。薬が効くまでまだ少しかかるだろう。そう思った瞬間だった。
……駄目だ。涙が出る。止まれと何度も思う。枕へ顔を押しつけて息を殺し、歯を食いしばる。それでも涙は勝手に溢れて布地を静かに濡らしていく。あの日とは違う。好きだと認めてしまったあとに流す涙は、こんなにも、重たい——。
「……っ、サイアク……っ」
それは誰に向けた言葉だったのだろう。素直になれない自分へなのか。何度も傷つけてそれでも優しくしてくる、彼へなのか。もう、その境界はぐちゃぐちゃで、よく見えない。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたままもはや顔を上げる気力すら湧かず意識がゆっくりと底へ沈んでいく。まるで、泣き疲れた子供が、眠りに落ちるように『誰か助けて——』と心の中だけで掠れた声を漏らした。もちろん、誰に届くはずもない。ここは一人きりの部屋で、すがるべき誰かなど、ハナからいないのだ。
壁の一枚向こうには、かつてならこの声を寸分違わず拾い上げてくれた人がいた。けれど、今の彼は、私がどれほど救いを求めても、駆けつけることすら許されない存在になってしまっていた。
世界でたった一人、私を掬い上げられるはずのヒーローは、今もあの部屋の薄い壁の向こうで、ただ黙殺するように、佇んでいる。
*
翌朝。日曜日。七時十二分。スマートフォンのアラームより先に目が覚めた。眠れたのか眠れていないのか、自分でもよくわからない。
鉛でも詰め込まれたように瞼が重い。洗面所の鏡を覗くと、昨日よりさらに腫れぼったくなった目をした自分が映っていた。
「……ひど。」
思わず漏れた声に自分で苦笑する。最悪な気分は、一晩寝ても更新されるだけらしい。顔を洗いテーブルに置きっぱなしだったゼリー飲料を手に取る。昨夜、彼が置いていったもの。キャップを回して一口飲む。味がしない。もちろん、本当に無味なわけじゃない。ただ、今の私には、それを味わうだけの余裕が残っていないのだ。
何をする気にもなれなかった。掃除機をかける気力も、洗濯物を干す気力もない。ただソファへ身を預けぼんやりとテレビをつける。休日の情報番組では、人気カフェの特集や、行楽地の中継が流れている。世界は、何事もなかったように朝を迎えていて、それが少しだけ腹立たしかった。
昨日までここは私ひとりの生活だった。誰にも振り回されず誰のことも考えずに済む部屋だったはずなのに。一夜で、こんなにも心の置き場所が変わってしまうなんて……。嫌な予感だけが胸のどこかに残っていた。
このまま終わる気がしない。そんな根拠のない胸騒ぎはほんの数時間後には確信へ変わることになる。
「お届け物でーす」
その日の昼間。不意にインターホンが鳴った。モニターを見ると普通の配達員だった。段ボール箱を持って立っている。何か、頼んだっけ。思い当たるものはない。首を傾げながら受領印を押し箱を部屋へ運び込む。ふと送り状に目を落とした瞬間、思わず固まった。差出人は法人名。そしてその下には『ホークス事務所』の文字が。
「……は?」
思わず声が漏れる。カッターでテープを切り、箱を開ける。中には紙袋が一つだけ入っていた。取り出して覗き込むと福岡では有名な洋菓子店のお菓子が、きれいに箱詰めされている。その上に小さなメモが一枚。見慣れない、少し丸みのある字で書かれていた。
『福岡の有名なお菓子です。ホークスが送ってとうるさいので』
サイドキックだろうか。思いがけず笑いそうになった。ということは、私のことは話していないのだろうか。それとも、話せなかったのか。
まあ、普通は話さない。誰と親しくなったとか誰と拗れたとか。そんなプライベートことまで、職場で、報告する人ではないだろう。ましてや、ヒーローならばなおさらだ。そもそも、私たちが付き合っていたと言い切れる関係だったのかも、今となっては怪しい。
何の気なしにメモを裏返すと、その裏にも一行だけ何か文字が添えられていた。
『 P.S. 俺もこれ食べたかったです 』
ほんとに正直な人だ。思わず、額を押さえた。呆れている。この洋菓子にじゃない。この人に。この状況、そのものに。
距離を置こうと言ったのは私だ。もう終わりにしようと決めたのも私。それを全部、彼のせいにした。なのにあの人は頭痛薬を置いて帰り、栄養補給の袋まで残し今度は福岡からお菓子を送ってくる。しかも自分の部下を巻き込んで。さすがにくすっと笑ってしまう。でも、笑ったはずなのに胸は少しも軽くならない。
こんな事をされてしまうと未練があるみたいに思ってしまう。こっちまで、期待をしてしまう。行き場のない感情のまま洋菓子の箱をテーブルへ置いた。勢いが少し強すぎて蓋がずれ、ふわりと甘い、ミルクとバターの香りが、部屋いっぱいに広がった。
「……ほんと、ひどい男。」
誰に向けた言葉なのか自分でもわからないまま一つ摘まんで口へ運ぶ。しっとりとした生地が、舌の上でゆっくりほどけていく。……美味しい。悔しいくらい。腹が立つくらい。
こんなときに限ってどうしてこんなにも優しい甘さなんだろう。もう一口かじって小さく呟く。
「……なんで、美味しいの。」
その一言がやけに空しく部屋へ溶けていった。決めた。今夜は飲みに行こう。浴びるほど飲んで何も考えられなくなるくらい、酔ってしまおう。こんな日は、それくらいしか思いつかなかった。夕方になって支度を済ませる。少しだけ気合いを入れて化粧をしてお気に入りの服に袖を通した。
鏡の中の私は、どこからどう見ても、失恋した女には見えないだろう。だからきっと、大丈夫。そう自分に言い聞かせて部屋を出た。
午後七時。日曜日の飲み屋街はすでに休日ともつかない人たちで、賑わい始めていた。赤提灯が連なる路地を歩く。一人でも入りやすそうな店を探しながら、ゆっくり足を進める。
ふと、『立ち飲み処』と書かれた暖簾の向こうから、香ばしい煙が流れてきた。焼き鳥だ。その匂いだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
……だめ、今日は。今日は、焼き鳥じゃない。私は何も考えないように視線を逸らし、その店を通り過ぎた。結局入ったのは路地裏にひっそりとある小さなショットバーだった。照明は落ち着いていて、店内には、静かなジャズが流れている。私は、カウンターへ腰を掛ける。
「ジントニック、お願いします」
ほどなくして差し出されたグラスを口へ運ぶ。ライムの酸味が喉を抜け、アルコールがじわりと身体へ広がっていく。
「……美味し。」
思わず、声が漏れた。マスターは何も言わず、小さく頷くだけだった。二杯目、三杯目とグラスが空になるたび、新しい酒が目の前へ置かれる。
今日は潰れるために来た。それくらい自分でもわかっていた。だからいいのだ。そして四杯目を飲み始めた頃だった。
「隣、いい?」
不意に、声を掛けられる。顔を上げるとスーツ姿の男性が立っていた。年齢は三十代半ばくらいだろうか。ネクタイは少し緩んで、頬は酒で少し赤く染まっている。私が「どうぞ」と促すと隣へ腰を下ろした男性は、私を見るなり笑った。
「お姉さん、一人?」
「そうです」
「奇遇。俺も一人なんだよ」
そんなわけないだろう、と心のどこかで思う。けれど、そんなことは、どうでもよかった。
「よかったら一杯、ご馳走させてよ」
「え、本当ですか?」
どうでもいいと思いつつも酔った勢いで笑う。どうせ数時間の出会いだ。このまま店を出たら、別れて名前も知らないままお互いに背を向けるのだから。
「じゃあ、遠慮なく高いお酒頼んじゃおうかな」
「ははっ、いいよいいよ。好きなの飲んで」
「でも、今日はお兄さんが選んでください」
男性は「えー?」と、軽く言い返しつつも気前よく笑いながら、棚に並ぶボトルを指さした。
「マスター。響、十二年で」
その銘柄を聞いた瞬間、思わず値札へ目がいってしまった。思っていたよりずっと高い。当たり前に躊躇すると、男性は笑って手を振った。
「気にしないで。お姉さん綺麗だからさ、ご馳走させて」
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
琥珀色の液体がグラスへ注がれる。一口飲む。香りも余韻も素晴らしい。なのに、何を飲んでも心だけは、満たされなかった。そんな中、男性が慣れた手つきでグラスを揺らしながら尋ねる。
「お姉さんは?日曜なのに、一人飲み?」
「まあ……ちょっと、いろいろありまして」
「俺も。仕事の付き合いで来てたんだけど、上司だけ先に帰っちゃってさ」
男性は笑いながら話す。その視線だけが、ときどき私の横顔をゆっくりなぞっていた。
「一人って、寂しくない?」
——寂しい。その一言で済ませてしまえるほど軽いものではなかった。けれど、その寂しさを、この人に埋めてもらいたいわけじゃない。頭ではちゃんと、わかっている。それでも、水のように流し込んだアルコールが、私の感覚をじわじわと鈍らせていく。その証拠に男性が不意に笑って、私の手に無遠慮に触れてきたのを交わすことすらできなかった。
「このあと、もう一軒どう?」
「……」
「静かでいい店、知ってるんだ」
私はしばらく空になったグラスを見つめ、それから、笑った。
「いいですよ」
その返事が、自分の声とは思えなかった。景気付けにと五杯目を飲み干し、店を出る。
六月の夜風が火照った頬を静かに撫でていく。酔いは少しだけ引いた。けれど、そのぶん胸の奥だけが、余計にはっきりと、痛み始めていた。
「こっち」
男性は慣れた足取りで路地へ入っていく。私は少しふらつく足で、その背中を追った。大通りを一本外れただけなのに、人の声は急に遠くなる。赤提灯の灯りも届かない細い道は、夜だけが濃く沈んでいるようだった。
雑居ビルの二階。小さなバーらしき看板がぼんやりと灯っている。階段を上り始めたところで、男性が振り返って、こちらに手を差し出した。
「暗いから、気をつけて」
「あ……ありがとうございます」
その手を借りようとした瞬間、支えられたのは手首ではなく腰だった。ひやり、とした違和感が走る。けれど、酔っているせいだろうかと自分に言い聞かせてしまう。もともと誰にでも、距離が近い人なのかもしれない。それだけだ、と。
階段を上りきると扉が開いた。そのとき不意にふわりと男性から甘い香水の残り香がして鼻先をかすめた。女性ものだろうか。さっきまで誰かが一緒にいたような、なんとも近い匂いだった。
「おしゃれな、お店ですね……」
「でしょ?ここ、穴場なんだよ」
店内は照明が落とされ、カウンターの奥では、氷を削る音だけが静かに響いていた。案内されたのは、奥のボックス席だった。二人掛け。向かい合って座るのかと思いきや、自然と隣同士になる距離に腰を掛けられて、胸の奥が少し嫌なふうにざわつく。
「何飲む?」
男性が慣れた手つきでメニューを私のほうへと傾けた。肩が触れそうなくらい近い。だが今さら怯むこともないだろうと私は淡々と言い返した。
「めちゃくちゃ強いやつ、飲んでみようかな」
「いいね。いける口?」
彼が店員へ軽く合図を送る。運ばれてきたのは小さなショットグラスだった。透明な液体の横に塩とライムが、添えられている。私は思わず目を泳がせた。
「テキーラ、ですか……」
「うん。じゃあ、出会いに乾杯」
急かされるままに差し出すと、カチリと小さくグラスが触れ合った。一気に、口へと流し込む。喉から胸の奥へと火の種を落とされたかのように途端に全身が熱く、灼けていくのを感じた。
「……っ、」
「はは、大丈夫?」
「……だいじょぶ、です」
たぶん、もう判断力なんて、最初の店に置いてきた。二杯目を頼みながら男性は自然な動作で、私との距離を、さらに縮めた。腕が肩へ触れる。避けようと思えば避けられる程度だった。なのに体がどうにも、動かなかった。
「お姉さん、普段もよく一人で飲むの?」
「……まあ、たまに」
「仕事帰りとか?」
「ええ。考え事したい日……とか」
「へえ。彼氏は? いる?」
唐突に飛んできた問いに私は自嘲めいた笑いを漏らした。「別れました」とひとこと言ってしまえば、それで終わる話なのかもしれない。けれどそもそも、私たちは付き合ってすらいなかったのではないか。私の勝手な思い違いでしたと軽薄に笑い飛ばし、バカだなあなんて呆れられた方が、よっぽど、救いになる気がしていた。
「……いない、です」
「別れた?」
「まあ」
「最近?」
「うーん……実質、振られたみたいなものです」
「そうなんだ。遊ばれてた感じ?」
「さあ……相手、それなりに有名人だったので」
「え、芸能人とか?」
「いえ……ヒーロー、です」
口にした瞬間、胸のどこかが、小さく痛んだ。もう私には関係ない人。そう何度も言い聞かせてきたはずなのに、その肩書きだけで苦しくなる。男性は、グラスを回しながら笑った。
「……へえ。今の時代じゃ大変だよな」
「……」
「あの戦争以来、ヒーローなんて叩かれてばっかだし。別れて正解じゃない?」
きっと相手も軽く言っただけなのだろう。もしかすると、慰めのつもりだったのかもしれない。それなのにその言葉だけは胸の奥へ鋭く落ちた。私は、笑えなかった。肯定も否定もできないままライムを思い切り噛む。強い酸味だけが、口いっぱいに広がった。
「……俺だったら、遊びで終わらせたり、しないけどね」
ふいに視線が絡んだ。その言葉が誰にでも向けられるものなのか、それとも今この場だけのものなのか、もう考える気力も残っていなかった。
「……ん?」
「いや、お姉さん可愛いのにもったいないなって思って」
あまりにも自然体だった。歯の浮くような台詞なのに、まるで「乾杯」みたいに軽く口にする。その慣れたような調子が、かえって場数の多さを感じさせる。男性は笑ったままグラスを傾けた。
「その
「……本人に、言ってあげてください」
「本人? まだ連絡取ってる感じ?」
男性は少しだけ目を丸くした。胸の奥で何かがちくりと痛む。私は「ううん」と首を横に振る。
「連絡先も……消したから」
自分で言ったくせに、その言葉だけが喉の奥へ引っ掛かった。しかし男性は肩をすくめて笑う。
「あ、そうなんだ。じゃあ、俺が言うのは無理だなぁ」
「……」
「ヒーローなら尚更。文句の一つでも言ってやりたいところだったけどねぇ」
彼は慣れた手つきで店員へ指を立て、四杯目を注文した。その流れで私にも杯を勧めようとしたのだろうが、途中で思い直したように、私の顔を覗き込んできた。
「……お姉さん、顔真っ赤じゃん」
「んー......まだ、へーき」
「ほんとかな」
そう言って頼んだのは、酒ではなく水だった。目の前へ置かれたグラスを見て、一瞬だけ優しい人なのかもしれない、と思ってしまう。けれど、その優しさは私を気遣うものではなく、最後まで酔い潰させないための計算なのだと、どこか冷静な自分が教えてくれていた。
「……お兄さん、慣れてるね」
「ん? 何が?」
とぼけるその顔があまりにも自然で思わず笑いそうになった。私は「別に」と水をひと口飲む。ぬるい。アルコールで痺れた舌には、水の味すらぼやけていた。すると男性が「ねえ」と、さらに身を寄せてきた。
「そろそろ店、変えない?」
「……」
「もうちょっと、静かなところで話そうよ」
気づけばいつの間にか腰へ手が回されていて、その力が少しだけ、強くなった。私は朦朧とした頭で、促されるまま立ち上がる。
「……いーよ」
自分でも驚くくらい、軽い返事だった。会計を済ませ店を出る。六月の夜風はまだ少し冷たくて火照った身体には心地よかった。男はごく自然に私の肩を抱き寄せ、そのまま歩き出す。
「こっち。すぐそこだから」
連れて行かれるまま、細い路地へ入る。さっきまで賑やかだった通りの喧騒はもう背中の向こうへ、遠ざかっていた。ネオンも届かない暗がり。その先に並ぶ建物を見た瞬間、酔った頭でも何となく、理解してしまう。そう、ホテル街だった。反射的に小さく笑ってしまった。いや、笑うしかなかった。それでも男性は、歩みを止めない。
「やっぱり……。だよね」
「なに? やっぱりって」
「……」
「もしかして、嫌?」
問いかける口調とは裏腹に、その手は私を逃がさないよう、肩を抱いたままだった。嫌なのか。嫌じゃないのか。考えようとしてもアルコールで霞んだ頭は答えをうまく掴めない。
その瞬間だった。耳元で鋭く空気が裂ける音がした。風か。いや、それよりももっと速い何か。視界の端を、赤いものが一筋、閃いた気がした。酔いが見せた幻だと思った。しかしそう思う暇もなかった。次の瞬間、男性の身体が横殴りの突風でも受けたように宙へ浮き、そのまま二メートルほど吹き飛ばされる。二回ほど瞬きしたあいだに鈍い音を立てて壁へ叩きつけられ息を詰まらせる男性の声だけが、夜の路地に短く響いた。