火照った身体の汗と水気を、丁寧に拭い去り、ルームウェアに身を包んでリビングへ戻る頃には壁の時計の針はすでに、午前三時を指していた。
 朝を迎えるまでの残りわずかな時間。ソファに座る私の背後に回ったホークスが手慣れた動作でドライヤーの温風を当ててくれる。自分の髪は、タオルで雑に拭っただけで、まだ先端から水滴を散らせながら指先で丁寧に私の髪を梳き上げる。深夜の部屋には風の音と二人の静かな呼吸だけが漂っていた。

「名前ちゃん、寝れそ?」
「二回目。その声、全然寝かせる気ないじゃん」
「ははっ……ばれた?」
「ほんと、元気だね」
「それだけが取り柄なんで、俺は」
「自慢にならないですよ?もう、当分しないよ、ヤリチン」
「……ヤリチンて。なんかキャラ変わっとらん?今ん一言で情報量すごかったっちゃけど」

 その言葉の直後、頭上で、ゴーッと音を立てていたドライヤーの手が、ふっと止まった。温かい風だけがそのまま、虚しく私の髪を揺らし続けている。

「……名前ちゃん以外と、したことなかとに」
「……………え。」
「……なに、そのあからさまな『え』は……」
「えっ、待って。嘘……初めて、だったの?」
「……悪い?」

 後ろを振り返ると、濡れた金髪の隙間から覗く彼の耳が根元から首筋にかけて真っ赤に染まっていた。普段の飄々とした態度は完全に鳴りを潜め彼の中に残された無垢な部分が剥き出しになっている。

「……やだ、どうしよう」
「なにが?」
「途端に愛おしさが爆発しちゃった」
「……やめて。泣きそうになるから」

 ホークスは、スイッチを切ったドライヤーを、ソファの脇に、ことんと置くと、誤魔化すように慌てて顔を背けた。照れ隠しの仕方がどこまでも素直で、胸の奥が、きゅんと締め付けられる。

「どうして、泣きそうになるの?」
「……嬉しいからに決まっとるでしょ」
「ふふ、そっか……」

 逃げ場を失ったホークスは言葉の代わりに背後からそっと、私を抱きしめてきた。まだ半乾きの彼の髪が首筋にあたり温かい体温ごと背中全体にじんわりと広がっていく。

「……忙しくて、そういうことする暇がなかったけんね」
「へえ」
「でも、ずっとしたかった。名前ちゃんとは」

 その先の言葉を、彼は口にしなかった。けれど私を抱きしめる腕の熱さと密着した体温が、言葉以上の意味をすべて物語っていた。

「私が初めてで、すごく嬉しいよ」
「……ほんとさ、泣かせにきてる?」
「ホークスの初めてが私で、本当に嬉しい」

 改めて繰り返された私の言葉に答えるように、背中から回された腕にぎゅっと強い力が込められた。髪に顔を埋めたまま彼はしばらく無言で私の体温を確かめるように静まり返っていた。やがて少し小さく、くぐもった声が聞こえてくる。

「……朝、帰りとうなかぁ」
「もういつでも堂々と会える関係になったんじゃないの?」
「そういう意味じゃないって」
「じゃあ、どういう意味?」
「……帰したくない、のほう」
「そっち? ここ、私のマンションだけどね」
「そのへん、細かいことは気にせんで」

 彼は私の肩口に額を押し当てたまま、くくっと可笑しそうに喉を鳴らした。けれど背中から回された腕の力は少しも緩むことがなく、むしろこれ以上の隙間を拒むように一層強く私を抱き寄せてくる。元ヒーローとしての器用な仮面を、すべて脱ぎ捨て、ただ私との時間を惜しむ彼の体温が、じわじわと肌に染み込んでいくようだった。

「朝さ……あのマンションのドアを一人で開けて出ていくの、今までとは全然違うと思う」
「そんなに?」
「そんなに」

 迷う素振りなど微塵も見せず彼の返事はあまりにも、まっすぐだった。静まり返った部屋の中、二人を包む、残り少ない夜の時間が、愛おしくも切なく流れていった。

「隣同士やったときより今はもっと特別になったけん」
「たしかに。きっと世界が違って見えるかもね」
「でしょ?」
「うん。……てかさ」
「ん?」
「初めてにしては、手慣れすぎていませんか?」

 私からの突然の追及に、私の髪に顔をうずめていた彼の身体が、ぴくりと強張った。抱きしめていた腕の力がわずかに緩むのを感じてそっと顔を上げた彼の表情を私は覗き込んだ。濡れた金髪の隙間から見える顔は、先ほどよりもさらに赤みを増していた。目を合わせまいと視線をあちこちに泳がせながらホークスは、観念したように小さく唇を尖らせる。

「……たくさん、勉強したんで」
「勉強? どんな?」
「真面目に見たけんね?レビューまで、ちゃんと読んだし」
「はは!どんなの見るの? 好みとかは?」
「……それ聞く? 朝の三時に?」
「朝の三時だからいいんじゃん。ねえ、教えて?知りたい。お願い」
「やけん、キャラ変がエグかって……それにその甘え方、こすくなかぁ?」

 ホークスはあきれたように吐息を漏らし完全に降参したといった様子で額を私の肩へさらに押し当ててきた。

「……年上のやつ、とか」
「ふーん? 見た目は? 女の子の見た目」
「……黒髪、ロング——とか……」
「わー、私と正反対だ」

 予想外の答えに、思わず目を丸くすると、彼は気まずそうに濡れた金髪を指先でガシガシと掻きむしった。自分の手の内をすべて明かしてしまった照れくささを隠すように、彼は、ぷいっと顔を背け私を抱きしめる腕の力をぐっと強めて身体を押し付けてくる。

「だから、意味あるんでしょ」
「そうなの?」
「好きなタイプで抜いても、虚しいだけじゃん」
「……なるほど! 勉強になりまーす」
「ぜったいバカにしとー。講義料、高かよ」

 どこか開き直ったような彼の言葉に私は思わずくすくすと、肩を揺らして笑ってしまった。私の笑い声が耳元に響いたからか、肩口に顔を埋めたままの彼の耳たぶがまた、みるみるうちに、赤く染まっていく。普段の、飄々とした面影はどこへやら……私に翻弄されている姿が、あまりにも、愛おしい。

「あら、じゃあ借金しないと。引っ越し資金で、お金なくなっちゃったし」
「じゃあ、カラダで払って」
「……うわぁ、調子に乗ってるー」
「乗ってない。ちゃんと回収しようとしてるの」

 ふと視線を泳がせると、壁に掛けられた時計の針は静かに、午前三時半を指し示していた。残されたタイムリミットは、あとたったの三時間。

「そろそろ、本気で寝ないとね」
「ねー」

 ふっと互いに顔を見合わせ小さく笑い合った。どちらからともなく自然と指を絡め合わせ、手を繋いだまま、ベッドへと向かう。さきほどまでの狂乱の熱を吸い込んで静まり返ったシーツへ逃げ込むように、二人で滑り込む。しん、と冴え渡る深夜の空気の中、彼の腕の中で微かな体温を感じながら私たちはゆっくりと眠りに落ちていく——はずだった。

「……落ちそ。」
「……わかってます。文句言わないでください」
「それにしても、やっぱ狭すぎっちゃんね」
「これで今もホークスの背中に剛翼があったら、大事件だった」
「たしかに……よし、もっとくっつけばいける」

 事実として、非常に、残念なお知らせだった。どう甘く見積もっても、まるで、いけていない。二人がどれほど身を寄せ合って足掻こうと互いの肩や背中がベッドの端から、みっともなく、はみ出してしまう。

「……ちょっと、もうちょっと寄って」
「待って、息っ、止まっちゃう……っ!」
「あ、ごめんごめん」

 それから、二人で寝返りを打ったり体勢を変えたりと、何回も右往左往を繰り返しながら互いにとって、いちばん落ち着ける位置を探り当てた。結果、狭いスペースの中で、お互いに向かい合い抱き合う体勢に落ち着く。

「これでいけるね」
「うん」

 まさにぎりぎりの隙間。私の頭は、すっぽりとホークスの胸元に収まり彼のあごが私の頭頂部に心地よく触れる形になった。ホークスの胸に顔を寄されると、衣服越しに、ドクドクと力強く規則正しい心臓の鼓動が、伝わってくる。
 あれだけ激しく動き回り、お互いを貪り合ったあとの心拍数はゆっくりと穏やかなリズムを取り戻しつつあった。髪に触れる彼の指先が、愛おしそうに、私の毛先を撫でていく。

「ねぇ、ホークス」
「んー?」
「ほんとに、もうすぐ朝が来ちゃうね」
「……来なくていいっちゃけどね、ほんとは」

 冗談めかさずどこか子供っぽく溢れ出た本音。私の背中に回された彼の腕が、きゅっとわずかに力を増す。

「明日……じゃなくて、もう今日か。俺は朝イチちょっと出るけど、すぐ戻ってくるけん」
「ん」
「名前ちゃん、お仕事何時からと?」
「昼過ぎから。だから少しは一緒にいられるよ」
「そっか。よかった……」
「安心した顔、かわいい」
「やっぱり、バカにしとー」

 彼の親指の腹が私の頬をそっと優しく撫でた。さきほどまで荒々しく私を抱いていた手とは思えないほど、驚くほど繊細で温かい手つき。

「さっき言ってた、『世界が違って見える』ってやつ」
「うん?」
「もう、違って見えとるよ。部屋の天井も、この狭いベッドも、全部」

 耳元で囁く声はどこまでも低く胸の奥にすとんと落ちてくる。普段は多くのものを背負い誰よりも速く飛び去ってしまう人が、今はこうして私の腕の中でたった一人の男として私だけを見つめてくれている。

「私も。ホークスが隣にいるだけでなんでもない部屋が、特別な場所に思える」
「ほんと?じゃあ、もっと好きになってもらわんとね」

 くすりと嬉しそうに笑うと彼は私の額へそっと温かい唇を押し当てた。さきほどの、貪るようなものとは違う、長く愛を確かめるような優しくて静かな口付け。

「……もう十分、好きだけどね」
「足りんでしょ。俺のほうが好きの額、圧倒的に上なんだから」
「これ以上? もう重すぎるくらいなのに……」
「まだまだ。利息つけて、も〜っと重くしていくけんね」
「これ以上好きになったら、私どうかなっちゃいそう」
「どうにかなってよ。逃げられんくらい俺でいっぱいにしたいっちゃけど」

 軽口を叩きながら彼は私の腰を抱く手にぐっと力を、込めてきた。じゃれ合うようなその重みに甘えながらもふと暗闇の中で彼の顔を見つめる。
 世間が憧れ、誰もが羨む、若きNo.2ヒーロー。けれど、私の首元に鼻先を寄せているこの男は、いつだって、どこか果てしない虚無の淵に立っているような危うさを孕んでいる。ずっと胸の奥に引っかかっていた問いが、静かな部屋の中に滑り落ちた。

「ねえ。ヒーローとしての名誉も名声も、お金も自由も全部を持ってるってどんな感じだったの」
「んー......鳥籠の中にさ、鳥を閉じ込めるような感じ」
「え?」
「で、そのまんま心に鍵をかける。そこからは、はみ出さないし嬉しくもないし、悲しくもない」
「……」
「人に期待なんてしないし、信用も発揮しない。誰も愛さない。だから何があっても傷つかない」

 肌を重ねたあとの残り香と微かな部屋の暗闇。彼の胸元に頭を預けていると、その言葉はまるで自分自身に言い聞かせる独白のように静かに落ちてきた。『プロヒーローホークス』として完璧であり続けるために彼が置き去りにしてきたものがその淡々とした声の裏側に、滲んでいる。指先で触れた彼の鼓動は規則正しく打っていたけれど、どこか遠くの空を漂っているみたいに途方もなく冷たかった。

「……ふうん。半径十五センチの心だ」
「半径?」
「鳥かごの中。ずっと飛ぶことのない心。もう、飛び方、忘れちゃった?」
「はは……名前ちゃんといるといつもいい感じに調子狂わされるっちゃんね。でも、どうかな」
「ん?」
「本当はまだ、飛びたいって思ってるかもね」
「かごの中の鳥ほど……青い空に憧れるんだよ。自由に飛んでる鳥よりも」
「……」
「自分の心を開かない人に限って、本当は誰より愛されたがってる」

 私が紡いだ言葉は二人の間に漂うぬるい空気の中に静かに溶けていった。彼はしばらく目を細め天井の暗がりを、じいっと見つめていたけれど、やがて自嘲気味な笑みを、その唇に浮かべた。

「名前ちゃん、もう知っとるでしょ。俺の過去。父親のこととか。トゥワイスを俺がどうしたか、とか」

 ぽつりと落とされたその声にはプロヒーローとしての仮面を剥ぎ取った、一人の人間の生々しい傷口が覗いていた。突如しんと静まり返る室内。沈黙が落ちて、お互いの呼吸音だけが暗闇の中で重なり合う。

「……でも、関係ない。そんなの全然後回し」
「うん?」
「私は、私の目で見たことしか——自分が、感じ取ったものしか信じないから」
「……へえ。じゃあ教えてよ。君から見て俺って何?」

 縋りつくようでもあり試すようでもある言葉。私は答えの代わりに彼の少し乾いた唇へとそっと自分の唇を重ねた。
 かつてはお互いの立ち位置や思惑が噛み合わずどこか、いがみ合っていた。それが巡り巡って、こうして同じベッドの上で肌を寄せ合っているのだから、運命なんてものは、つくづく悪趣味だと思う。互いの心が今本当はどこにあるのか、今の段階では私にもまだ分からない。「目で見たことしか信じない」なんて強がりを口にして、結局のところ、私は彼のことが好きで好きでたまらないのだ。でも彼はどうなんだろう。私と同じ熱量で人を想ったことなんて彼のこれまでの人生で一度でもあっただろうか。むしろ他人の好意すら道具として利用しながら生きてきたのかもしれない。そう考えると一歩前進したように見える私たちのこの関係も、実は、何ひとつ進んでいないのかも知れない。——けれど、どんな理由を並べ立てたところで彼を愛おしいと思ってしまうこの気持ちだけは、もう誤魔化せそうにない。

「……ん、」

 そんな私の葛藤を見透かしたかのように、重なっていた唇に、ぐっと強い力が込められた。彼の手が私の後頭部に回され、指先が髪の隙間に深く滑り込む。逃がさないとばかりに引き寄せられ、浅かった口付けが、熱を帯びた深いものへと変貌していく。

「……ねぇ、もう一回言って」
「なに、を……っ、」
「俺のこと、好きって。……足りない」

 触れ合う唇から漏れ出るおねだりはどこまでも我儘で、けれど、縋るように切実だった。互いの吐息が混ざり合い隙間を埋めるように滑り込んでくる温かい舌が私の口内を優しく、けれど強引に掠めていく。深く貪られるたびに吐息が漏れて、頭の中の思考が甘い痺れによって白く塗りつぶされていく。

「ん、すき……、ホークスしか、やだ……っ、」
「ほんと、俺をどこまで狂わせたら気が済むの」
「……っ、」
「捕まえたなら、ちゃんと閉じ込めておいて」

 皮膚を伝う彼の熱に身を委ね諦めにも似た甘い降伏を告げる。ホークスは息を呑み、どこか苦しげに眉を寄せた。背中を抱きすくめる腕の力は、どこまでも切実で胸と胸が強く押し付けられた。重なり合う鼓動の速さが、どちらのものか分からなくなるほどに。腰のあたりに押し当てられた、彼の肉体が、再び、はっきりと熱と質量を増していくのが、肌越しに伝わってくる。

「……あーあ、どうしよ」

 彼は唇を離して熱い吐息を私の首元に吹きかけながら、耳元で低く掠れた声を漏らした。

「ん……?」
「また、勃ってきちゃった」

 そう言って彼は、少し困ったように、けれど、どこか甘えるような笑みを、私の肩口に埋めた。私はそれを全身で受け止めながら彼の頭へそっと手を伸ばした。金の毛並みに指先を滑らせ子供をあやすように優しく撫で下ろす。

「……早く寝ないと、本当に朝になっちゃうよ」
「……んー。そうだね」

 不満そうに唇を尖らせつつも、彼は素直に力を抜いて、私を抱きしめ直してくれた。指先越しに伝わる頭部の温もりと、微かな鼓動が、彼の熱い名残惜しさを、何よりも雄弁に物語っていた。

「おやすみ、名前ちゃん」
「おやすみ、ホークス」

 短くなる夜の余韻を惜しむように互いの体温を分け合い肌と肌を密着させたまま私たちはそっと瞼を閉じた。規則正しい息遣いと、胸の鼓動が、静かに重なっていく。残り少ない夜の闇に包まれながら、今度こそ私たちは、二人で同じ眠りへとゆっくり沈んでいったのだった。


 *


 翌朝、午前六時半。薄いカーテンの隙間から、やわらかな白金色の朝日が、室内へと静かに差し込んでいた。以前なら、隣室から聞こえるはずの生活音は一切ない。それもそのはずで今朝は同じひとつのベッドの中で二人で体温を分かち合っている。
 ホークスはすでに目を覚ましていた。ベッドに肘をつき、隣でまだ心地よさそうに、微かな息を立てて眠る彼女の顔を、静かに見下ろしている。散らかった金色の前髪が片目にかかっていたが、それを気に留める様子もなく、ただ愛おしそうに彼女の寝顔を見つめ続けていた。起こさないよう唇をごく小さく動かして、独り言をこぼす。

「……ほんとに、朝が違って見えるなぁ」

 窓の外で、ちっちっと、雀が鳴いた。鳥のさえずりも空気の冷たさも、いつもと何ひとつ変わりない朝。けれど彼の目に映る世界の色は昨日までとはまったく違う色彩を帯びていた。そのとき。ふと、彼女が身じろぎをし、長いまつげが微かに震える。目覚めの気配を察したホークスは素早く姿勢を元に戻し何食わぬ顔で微笑みを浮かべた。

「……おはよ。よく寝れた?」
「……ん、ホークスは……?」
「俺? 三十分くらい前から起きてるよ」
「んー......先に起きたかったのにぃ」
「はは、そうなの? ……ごめんね、俺ちょっと、一回出てくるよ」
「んん……わかったぁ……」

 彼女がまだ、名残惜しそうに薄目を開けると、ホークスはすでにベッドを降りて、身支度を整え始めていた。仕事用のジャケットを羽織り乱れた髪を指先で手早く整える。ひとつの任務のために一度、自分のマンションへ戻り、公的な身なりを整えてから現場へ向かわなければならないのだ。
 彼は支度を終わるとベッドの端に腰かけ彼女の頬に、そっと、温かい唇を落とした。愛おしさを確かめるような、短くも濃密な口づけ。

「ちゃっちゃと仕事片付けてまたすぐ戻ってくるけん。おとなしく待っといてね」
「ん……まあ、ここ私の部屋なんだけど……」
「ふは、知っとる。だから、鍵借りていくね」
「……うん、いってらっしゃい」
「いってきます」

 彼が去った後の部屋には、静けさと共に微かに彼の残した体温と香りが漂っていた。かちゃりと玄関のドアが閉まる音を耳で追いながら、私は、彼の残像を胸に抱き再びゆっくりとシーツに顔をうずめた。
 どれくらい経っただろう。しばらくして玄関の鍵が静かに回る音でわずかに意識を浮上させた。ドアが閉まり聞き慣れた軽い足音が廊下を渡ってこちらへと近づいてくる。約束通り彼は、本当に一時間足らずで、戻ってきたようだった。早朝の急用を、最速で片付けてきたのだろう。

「……ただいま。まだ寝とった?」

 部屋に入ってきたホークスは、上着を脱ぎ捨てながらベッドへと一直線に向かってきた。スーツから漂う微かな外気と、彼自身の高い体温が引き上げられたシーツの隙間から、滑り込んでくる。まるで、光の速さで、ひんやりとした彼の指先が私の頬を撫でた瞬間まどろんでいたはずの意識はゆっくりと覚醒していった。

「……おかえり。速かったね」
「言ったでしょ。ちゃっちゃと片付けて、戻ってくるって」

 耳元で囁く声は、どこか甘く掠れていた。彼の手が私の腰に回り逃がさないようにぐっと力強く抱き寄せられる。
 衣服越しに伝わってくる彼の体温は先ほど出て行ったときよりも明らかに高くなっていた。私のお腹のあたりに硬く熱い塊が押し当てられているのが、はっきりと分かる。

「……ホークス?」
「んー?」
「……なんか、すごく熱いんだけど」
「朝だからね。健全でしょ」

 悪びれる様子もなく、彼は私の首筋に顔をうずめて、深く息を吸い込んだ。朝の光の中で、彼の柔らかい金髪が私の肌をくすぐる。

「一時間——、めちゃくちゃ急いで仕事、終わらせてさ」
「うん」
「頭の中、ずっと名前ちゃんのことばっか考えてた」

 囁きながら彼の手が私のルームウェアの裾から素肌へと滑り込んできた。熱を持った大きな掌が脇腹から胸元へと、ゆっくり這い上がってくる。
 肌をなぞる手つきに躊躇いはなく、朝特有の、生々しい欲が隠しきれずに滲み出ていた。

「……朝から、元気すぎるよ」
「誰のせいだと思ってんの。こんな可愛い顔して待っとる方が悪いっちゃけど」

 耳たぶを優しく食まれ、思わず身震いが走る。彼の指先が昨夜、彼自身がつけた胸元の赤い痕を確かめるように辿り、そのまま先端を、きゅっと優しく摘まみ上げた。

「ん……っ」
「いい返事」

 返事などしたつもりはないのだが彼は満足げに目を細めると、私の上へと覆いかぶさってきた。
 朝日が差し込む部屋の中、彼の黄金色の瞳が、妖しく光っている。昨夜あれほど、貪り合ったというのに、彼の瞳にある飢えは少しも満たされていなかった。

「……二度寝の前に、もう一回だけ頂戴?」

 そう言いつつも断る隙を与える気など最初からないような速さと強引さで彼の熱い唇が私の返事を塞ぎに降りてきた。眩い光が差し込む部屋の中で重ねられた唇から漏れた私の吐息はあっけなく彼の熱に、呑み込まれていく。口内を執拗に貪る舌の動き。昨夜の激しさを思い出させるような、濃厚な口づけに頭の芯がじんわりと痺れていく。
 彼の手はすでに、私のルームウェアのボタンを器用に外し、はだけた胸元へと容赦なく侵入していた。素肌を撫でさする大きな掌の熱に私の体は流されるままに、自然と、快感の波を拾い集めてしまう。

「……はぁ、っ……ホークス、待っ……」
「待たんよ。もう散々、待たされたとに」

 何の話をしているのか。それでも、私の抵抗を甘い強がりとでも受け取ったのか、彼はくすりと笑うと、私の太ももを押し開くようにして身体を割り込ませてきた。下着の薄い布越しに、完全に怒張した男の熱量が、ダイレクトに密着する。

「……もう、準備できとるでしょ?」
「でき……て、ないっ、ちょっと、ほんとに——待っ、て……!」

 彼の手が下着の縁に指をかけ、ずるりと、滑り降ろそうとしたその瞬間。私は残された力を振り絞り、彼の固い胸板を両手でぐっと押し返した。

「……ん? なぁに?」

 彼の動きがぴたりと止まる。押し当てた胸板の向こうでドクドクと早く脈打つ鼓動が、掌に伝わってきた。彼は首をかしげて、不思議そうに私を見下ろしている。しかし、その黄金色の瞳には、まだはっきりと、熱い欲望の火が灯っていた。

「……駄目。ほんとに、今からは駄目!」
「えー......なんで? まだ時間あるでしょ」
「時間の問題じゃないの!……かっ、身体が——もう、痛いのっ」

 顔を真っ赤にしながら必死の形相で訴えると、ホークスは、ぽかんとした顔をした。

「……痛い?」
「そう!昨夜だって二回もして、お風呂場でも、あんな激しかったし……もうムリ!絶対ムリ!」

 昨夜の熱狂の痕跡は私の中に、まだはっきりと残っている。いま彼を受け入れたら絶対に途中で身体が悲鳴を上げるのが目に見えていた。

「ん〜?……でもぉ、結構、濡れて……」
「それはホークスが濡らし——じゃない、上手いからでしょっ! 騙されないからね!」

 勢い任せに言い放つとホークスは一瞬、驚いたように目を丸くし、それから「上手いかぁ〜」とそこだけを都合よく受け取り、嬉しそうに口角を上げた。だがすぐに顔を伏せ私の胸元あたりに、わざとらしく、深く額を押し当ててくる。

「……ずるかねぇ。そんな言い方されたら、余計したくなるっちゃけどぉ」
「調子に乗らない!本当に無理なの。お願いだから、諦めて」

 私の切実な声に、彼は私の上に乗っかったまま重みと熱をあずけるように、深く大きな溜め息をついた。背中に回された腕にぎゅっと力を込め、私の胸元に埋めていた顔をそっと上げるとすがりつくような上目遣いで私を覗き込んでくる。その健気でどこか犬っぽい瞳に見つめられると、胸が痛んだ。

「……ほんとに、駄目?」
「駄目」
「一回だけ。優しくするから。ね?」
「さっき一回って言ってからのコレでしょ。絶対嘘だもん」
「……バレたか」

 彼は観念したようにくすくす笑うと私の上からようやく身体を退けて、私の隣へと倒れ込んだ。
 どうやら完全に折れて諦めたらしい。けれど、その手はしっかりと私の腰を引き寄せて離さず、悔し紛れのように私の頬を両手で挟んで、むにゅっと、引っ張ってきた。

「ちぇー......速すぎる男、不発に終わりました」
「……その言い方、なんか嫌だなぁ」
「事実でしょ。あーあ……せっかく急いで帰ってきたのに」

 拗ねたような口調で呟きながらも、その瞳には私を気遣うような優しさが戻っていた。
 私は彼の固い胸に顔を寄せて、トンと額を押し当てた。激しかったさっきまでの彼の熱量が少しずつ穏やかな体温へ落ち着いていくのを感じる。彼の無骨な指先が、私の乱れた髪を愛おしそうに幾度となぞる。そのとき、胸の奥にずっと引っかかっていた小さな問いが、ふと口をついて出た。

「ホークスは、さ……」
「んー?」
「私とこういうことがしたいから昨日、あんなに必死に告白してきたの……?」
「……え?」

 彼は一度、こちらの顔を覗き込み、小さく息を吐くと、私の身体ごと、すっぽりと腕の中に閉じ込めた。まだ硬さの残る下半身を誤魔化すように頭頂部に、ぽすりと顎を乗せられる。

「そんなことあるわけないでしょ」
「どう、かな……」
「……ほんとにそう思っとる?」
「だってぇ……昨日からずっと凄かったし、今朝だって、一時間で飛んで帰って来てすぐに……」
「はぁ……ほんと、どこまで自己評価低いの」

 ホークスは困ったように低く溜め息をつくと、私の頭に乗せていた顎を離し、じいっと私の目を覗き込んできた。

「俺がどんだけ前から名前ちゃんのこと好きだったか、知ってるでしょ」
「……まぁ」
「こういうことできなくても、隣におれるだけで十分すぎるくらいだったっちゃけど。……まあ、堂々と触れてもいいってなったら、我慢できんくなったのは、否定せんけどね」
「やっぱり、我慢できてないじゃん……」
「好きだからに決まっとるでしょ。体だけが目的だったら、こんな面倒くさいことせんよ」
「……」
「公安の仕事より必死になって告白なんて、するわけない」

 まっすぐな黄金色の瞳で見つめられて、真摯な言葉が胸の奥へと、深く響いていく。冗談めかすこともなく告げられた彼の本音に私の中の不安は綺麗に溶けて、消えていった。頬が火照っていくのが、自分でも分かる。私の顔の赤さに気づいた彼は誇らしげにふっと満足そうに口角を上げた。

「じゃあさ。おあずけの代わりに、二度寝につき合って」
「……うん。それなら、いくらでも」

 カーテンの隙間から差し込む朝日は、刻一刻と部屋を明るく染めていくけれど二人で毛布にくるまっているこの空間だけはまるで時間が止まっているかのように、穏やかだった。彼の規則正しい心臓の鼓動と、温かな体温が直接伝わってきて、その温もりと、包容力に包まれながら私は、心地よいまどろみの中へと再び深く、落ちていったのだった。


 *


「……そろそろ起きなくて平気? お姫さま」

 不意に、頭上から聞こえた低い声で、私は再びまどろみの縁から意識を引き戻された。彼もまた目覚めたばかりなのか、声が少し掠れている。

「どうする? もう起きる?」
「ん、……あと、五分……」

 まだ半分ほど夢の中にいる我儘に、彼は「はいはい」とくすり笑いながらも抱きしめる腕の力を緩めようとはしなかった。それから五分が過ぎて十分が経過した。

「名前ちゃん」
「……あと、三分……」
「三分ね」

 その約束の三分もあっという間に通り過ぎて、結局、十五分ものあいだ、二人は互いの温もりを手放せずにただ抱き合ったまま、ぴくりとも動かなかった。

「……よし。そろそろ起きよっか」
「うん……私も、お仕事の準備しないと」
「そうねぇ。ね、今夜もまた来ていい?」
「え?……あー、うん。いい、よ?」
「あー、なんで疑問形なん?」
「いや……べつに」
「俺、盛ってばっかじゃないっちゃけど?」
「ふふ、どうかなぁ」

 彼の拗ねたような、けれどどこか、嬉しそうな顔を見上げると胸の奥が温かくなる。シーツから身体を起こした彼の金髪と布越しでもわかる引き締まった身体が眩しくて、私は思わず息を呑む。すると彼の手が私の指先に触れ、名残惜しそうに優しく握り直された。

「……同棲したら、毎日会えるんだけどねぇ」
「こらこら。さらっと話をそっちに、持っていかないでください?」
「だって。予約、入れとかんとでしょ」
「一緒に住む予約?」
「そう。決定」

 彼は私からの問いに、ごく当然のことのように深く頷いてみせた。そのまっすぐな瞳には、私と歩むこれからの未来が当たり前の日常として映し出されていた気がした。

「とりあえず次の休み、不動産屋行こ」
「え?……本気で一緒に住むの?」
「え、冗談だと思ってた?」
「まだ、もっと先の話かと……」
「速すぎる男なんで」
「……また使うの、それ」
「うん、便利でしょ」

 彼がいたずらっぽく笑いながら、私の手を握り直してくる。過去に一度、同棲の話が立ち消えになったことがあった。そのときの切なさや遠慮がまだ私の中に残っていたのを見抜いたのか、彼は握る手にぎゅっと力を込め、私の不安を拭い去るように、力強い視線を向けてくれた。

「なに、考えとーと?」
「だって、前に同棲の話、一度流れたし……」
「あれはね。だからこそ今度は最速で行くよ」
「なんかさ。それを言えば、なんでも許されると思ってないですかー?」
「さあ、それはどうかなぁ」

 ホークスは私の額にキスを落とし先にベッドを降りた。名残が残る温もりから抜け出すのは少し寂しかったけれど、私も意を決して体を起こす。ぺたぺたと足音を立てながら洗面所に向かい顔を洗う。やや慌ただしくも愛おしい出勤前の支度を整えていくうちに、少しずつ心が現実へと戻っていった。
 互いに身支度を済ませた私たちは、出勤までのあいだ、リビングのソファへと並んで腰かけた。ホークスが淹れてくれた温かいお茶の湯気が立ち上り、昨夜から今朝までの激しい熱が嘘のように穏やかで甘い時間が流れている。彼は、私の隣にぴったりと密着し肩を寄せ合いながらリモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。

「あ、ニューヒーローたちだ」
「あー、そうね」

 映し出されたニュース番組の特集に二人で目を向ける。そこにはこれからの未来を背負って立つ若きヒーロー候補たちが眩しいほどの輝きを放ちながら活躍する映像が流れていた。

「友達がさ、ショートくん好きなんだよね」
「へえ」
「雄英高校入学当初から推してたから、古参だ!とか言って、息巻いてたなぁ」
「ふーん」
「いい大人が、高校生を推してるのも、ちょっとどうかと思うけどさ」
「ん」
「……? どうしたの?」

 相づちが急に素っ気なくなったことに違和感を覚え、私は横に座る彼の顔を覗き込んだ。さっきまで機嫌よさそうに私の髪を指で弄っていた手がぴたりと止まっている。ホークスはテレビ画面に映るヒーローたちを薄い目で見つめたまま分かりやすく、嘴——いや、口先を尖らせていた。普段なら誰に対しても余裕のある笑みを崩さない男があからさまに面白くなさそうな顔をしているのは妙に滑稽でもあった。

「……なん。ショートくんのことカッコよかぁて思いよーと?」

 あからさまに不機嫌そうな、低めの声音。彼は私の髪を掴んでいた指を離しソファの背もたれに深く体重を預けると、ちらりとこちらに、視線を送ってきた。

「えっ、いや、私じゃなくて友達がファンだって言っただけだよ?」
「ふーん。ばってんテレビ付いた瞬間、ちょっと嬉しそうやった」
「別に嬉しそうにしてないってば……ていうか、もしかして、妬いてるの?」
「妬いとーよ。だいたい、俺が目の前におるとに他んヒーローん話なんかされたらしけとーやろ」

 ちょっと、解読不能ではあったが、開き直ったように早口で言い放ち、彼は私の腰を引き寄せて抱え込んだ。そのまま私の肩口にぐにぐにと顎を押しつけ、剥き出しの嫉妬を隠そうともしない。

「……相手、まだ高校生だよ?しかもヒーローとしては、ホークスの後輩たちじゃん、一応」
「後輩やろうと関係なかね。ショートくんなんかお父さん男前で顔よかし、今ばり人気あるし」
「……」
「俺より若くてイケメンなヒーローん名前出たら嫌な気しかしないでしょ」
「ふふ、なにそれ。ホークスだってめちゃくちゃカッコいいのに」
「……口先だけならなんとでも言える」
「口先だけじゃないよ。私にとってはホークスが一番カッコいいし、一番好きだよ」

 私が彼の頬にそっと手を添えると、ホークスは一瞬だけ丸く目を見開いた。そして誤魔化すようにふっと息を吐き、私の額にこつんと自分の額をぶつけてくる。

「ずる。そういうこと素顔でさらっと言うよね、名前ちゃんは」
「だって、事実だもん」
「……ハァ、ほんと調子狂う。朝から散々我慢させたんだから、今夜はちゃんと俺だけ見てよね」
「あ——っ!嘘つき!盛ってるだけじゃないって言ったくせに!」

 私の抗議にホークスは悪びれもせずクスクスと嬉しそうに笑った。時計の針が、刻一刻と二人の出勤時間の訪れを告げている。

「じゃあ、今度ね。今度たくさん頂戴?」
「……うん、分かった。予約、入ったね」
「よし。じゃ今夜を楽しみに仕事片付けてくる」
「だからっ! 今夜はしないってば!」

 満足そうに口の端を上げたホークスは、これで最後と言わんばかりに私のおでこへそっと温かい唇を落とした。そのまま名残惜しそうに、ソファから立ち上がる彼の背中を見送りながら、私は、降参するように、肩をすくめる。こうして優しくされると私は何も言えなくなる。それを知って、あの人はやっているのだ。ずるいのは、いったいどっちなんだろう。そんな、答えの出ないことを考えながら私は小さく息をついてようやくソファから重い腰を上げた。
 持ち物を整え二人並んで玄関に立つ。彼がドアノブに手をかけ、カチャリと静かな音を立てて、扉を開けた。外からは、清々しい空気と、どこか遠くで響く街の喧騒が流れ込んでくる。靴を履き終えた彼が振り返り、私を見下ろした。

「じゃ、行こっか」
「うん。忘れ物はない?」
「大丈夫。名前ちゃんの体温もしっかり充填したしね」
「……! まった、そういうこと言う!」
「えー? 本当のこと言っただけっちゃけど?」

 軽口を叩き合いながら部屋を出て鍵をかける。廊下に並んで踏み出すと昨日まで私ひとりのものだったはずの空間が、彼と一緒に歩くだけでまったく新しい世界のように鮮やかに映った。
 エレベーターを降りて、エントランスを抜けるまでの、わずかな時間。並んで歩く彼の肩が私の肩と、何度も優しく触れ合う。駅までの道を歩きながら、ホークスの手が、さりげなく私の指先をかすめた。手をつなぐわけでもないほんの一瞬の誰の目にも留まらないような微かな接触。けれどそれだけで肌から直接彼の温もりが伝わってきて胸の奥が甘く疼く。

「……ねえ、ちゃんと前見て歩いてる?」
「見てますよ?でもさ、隣に名前ちゃんがおると、どうしても視線が滑っちゃうわけ」
「……もう。ほら、駅見えてきたよ」
「あーあ、早かねー。もっと、遠回りしてくればよかったぁー」

 そう言って、悪戯っぽく笑う彼の横顔に、また胸の奥が熱くなる。駅の改札前でホークスと別れて私は、彼とは逆方向の電車に乗り込んだ。吊り革に掴まりながら電車に揺られていると鞄の中でスマホのバイブレーションが小さく震えた。誘導されるまま画面を開けば通知欄には『ホークス』ではなく『鷹見啓悟』という名前が、表示されている。
 メッセージの内容を開くのは電車を降りて落ち着いてからにしよう。そう決めて、スマホを鞄の奥へと戻した。けれど画面に浮かんだ彼の名前を目にしただけで自分の頬がじわじわと熱くなっていくのが分かってしまい、私は小さく首を振り、照れくささを誤魔化すように、深く息を吐いた。

 壁一枚を隔てただけの、偶然の隣人同士——。かつてはベランダ越しに交わす短い言葉や、隣のドアが開く微かな音に、密かな期待と、躊躇いを滲ませていた私たちが、今は、恋人として互いの体温を知り、別々のドアの先にある同じ未来へと歩み出している。
 あの頃とは二人の関係も取り巻く世界の密度も重なり合う想いの深さも、まるで全てが変わってしまった。けれど、あのドアの向こうで私を待つ人の体温を思い出すたび、胸の奥がぎゅっと締め付けられるこの愛おしさだけは、何ひとつとして変わっていない。そう、どれだけ季節が巡ろうとあのヒーローを想うたびに甘く胸が跳ねる、このときめきだけは絶対に変わらないのだと誓える。

 電車を降りると、やわらかな光と心地よい風が私を優しく、包み込んだ。
 自宅の鍵をかける手がいつか二人で同じドアを開けて「おかえり」「ただいま」と、笑い合えるその日まで——私は少しだけ早くなった足取りで彼と繋がる新しい一日へと、今日も歩き出したのだった。








隣人(ヒーロー)は空を知っている


『ねえ、もう会いたいっちゃけど』
『早いよ。まだ会社着いたばかりなのに』
『今夜の予約、キャンセル不可やけんね?』
『キャンセルの電話はどこにすればいい?』
『電話なんて受付けんよ。俺が直接回収しに行くけん』
『はいはい。楽しみにしてるね』

※image song『 空の青さを知る人よ/あいみょん 』


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