夜がゆっくりと沈殿していた。灯りを落とした部屋の空気はまるで、水のようにやわらかくて、二人の肌にまとわりついている。ベッドのシーツには微かに体温の名残があって互いの息づかいはもうとっくに静まり返っているのに、それでも、どこか深いところで繋がった感触が、じんわりと消えずにそこにあった。
 彼の手が、私の指を探してそっと絡めてくる。なんの言葉も要らないくらいに、さりげなくて、優しくて。

「……ねぇ」

 寝返りを打つみたいに、彼が私の方を向いた。声は囁きよりも小さく、でも、確かな熱を帯びていた。

「こんな風に、誰かとただ手を繋いで寝るだけで心が満たされるなんて、思ってなかったです」

 私は返事をしないまま指先に力を込める。瞼を閉じても、彼の横顔が脳裏に浮かんで離れない。あの目も、あの笑い方も、そして、たまに見せる拗ねたような幼さも——ぜんぶ、好きだった。

「バカみたいに、ずっと考えてる」
「……」
「寝ても覚めても、名前さんのことばっかりで、」

 彼が静かに続ける。感情を隠さず、言葉にしてくれるその素直さに、胸が少しだけ痛む。

「ここにいてくれるだけで、ほんとに、救われてるんです。俺……」

 私はそっと、彼の胸元に額を寄せた。言葉じゃなくて、ぬくもりで応えたくなった。

「……わたしも、ここにいられて、よかった」

 夜の深さが、ふたりを包んでいく。どこまでも静かな、でも確かな愛の輪郭をなぞるように彼の指がまた私の手をぎゅっと握り直す。そのぬくもりだけで今夜は、眠れそうだなと思った。


 *


 窓の外、まだ空は夜の名残を手放さずにいた。明け方には早く、けれどもう完全な闇でもない。そんな曖昧な時間に、私は彼の腕のなかにいた。枕元の時計は刻々と秒を刻んでいるはずなのに、その音さえ遠く、今の私は彼の吐息の流れにだけ寄り添っていた。

「……起きてます?」

 背後からふいに彼の声。ささやくような小さなものだったけれどその響きはまっすぐ心の奥まで届いた。

「うん。起きてるよ……」

 そう答えると彼の腕がぎゅっと背中を引き寄せてきた。裸の肌が触れあい、体温と体温が、ゆっくりと重なり合う。

「……ほんとに、福岡、来ませんか?」

 その言葉に、心臓が少し締め付けられた。聞き間違いじゃない。そして彼は私の耳元でためらいもなく続けた。

「こっちで働いたらいい。いや……働かなくてもいいです。俺、養えます」

 なんて、真顔で言っているのだろうか。笑ってしまいそうになったけれど、その声が、あまりに真剣で私は笑う代わりに、少しだけ息を飲んだ。

「それってさ……もしかして、私たち世代の言い方でいうところの��プロポーズ�≠チて、やつ?」

 私が静かに問い返すと、彼は私の肩に額をうずめて何も答えずに、ただうなずいた。呼吸の音がゆっくりと私の首筋に溶けていく。

「そんなこと言われたら、来たくなっちゃうね」

 思わずそう呟いた私の声が、まるで自分のものじゃないみたいに少し震えていた。彼は腕の力を緩めることなく私を抱いたまま、もう一度だけ、ぽつりと呟いた。

「……ずっと、そばにいてほしいです」

 その声には甘えと寂しさと、願いの全部が混じっていた。私はその感情すべてを、ひとつ残らず抱きしめるようにそっと彼の手の甲に自分の手を重ねた。
 答えは、まだ出せない。だけどこの夜明け前のひととき、少なくとも私は、彼の願いを否定できなかった。窓の向こうに、明け方の輪郭がすこしずつ滲みはじめていた。

 眠りから醒めたとき、私はなぜかひどく、静かだった。心が、というより空気が。昨日あれほどあたたかかったはずの寝具に、朝のひやりとした気配がしみ込んでいた。
 隣にいた彼はすでに目を覚ましていたけれど、私が目を開けたときには、そっとベッドから抜け出しキッチンのほうへと消えていた。私は深呼吸をひとつして、なるべく何も考えないように身を起こす。
 洗面所で顔を洗い、鏡を見る。少しだけ、目の下に残った赤みはたぶん、寝不足のせい。昨夜の会話や、そのあとの肌のぬくもりが記憶のなかでまだくすぶっていたけれど、口に出すにはどこか気恥ずかしくて、私はいつものように髪を束ね、化粧を施し、一人の社会人としての顔を作った。

「おはよう」

 そう言ってキッチンに顔を出すと、彼は、振り返って、少しだけぎこちない笑顔を見せた。

「……お、おはようございます」

 なんだそれ……まるで、強豪校の運動部の後輩みたいな挨拶じゃないか。けれど私はそれに咄嗟に突っ込む気力もなくて、そのまま、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
 彼が差し出してくれたマグカップを受け取ると手のひらに少しだけ熱が宿る。けれどそれ以上、言葉が生まれなかった。昨夜、あれほど近づいた距離がどうしてこんなにも朝には遠く感じられるのだろう。彼もまた何かを言いかけては飲み込み言葉の代わりにトーストを口に運んでいた。私はわざと話題を探さなかった。逃げているようで、情けないとは思う。けれど今ここで何かを言ってしまえば、すべてが決定されてしまう気がして、私は、黙るしかなかった。


 *


 センターのフロアに入ると空気はいつもの仕事モードに切り替わる。けれど、今日は明らかに、彼、ホークスが距離を取っていた。私のデスクの前を通るときもいつものように軽口は飛んでこない。むしろ目を合わせないようにしているようにさえ見えた。
 さりげなく覗き込んでいた書類にも目を通さず無言で自分の端末の画面に目を落とすだけ。いや違う。意識的に避けている——それが、わかる。誰にも気づかれないように振る舞っているのは、私も同じなのだけれど。ただ、彼の無言がまるで、「昨夜のことは無かったことにしてください」と言われているみたいで胸の奥が少し痛んだ。私はそれを表情に出さないように仕事に集中するふりをしながら、キーボードを叩いた。

 まったく……どうして男の人って、夜にあんなふうに抱きしめて愛を囁いておきながら朝になると、いい人を装いたがるのだろう。
 きっと私たちはまだ、近づき方の慣らし運転が下手すぎるのだ。


 *


 この日の午後は新しく配属された研修生たちの初日研修を任されていた。午前中から資料を広げひとつひとつの業務の流れを確認したので不備はないだろう。私は自分で作った資料を配りながら研修生たちに淡々と説明する。無線機の扱い方、緊急対応の心得、ヒーローたちとの連携のポイント。少し堅苦しい雰囲気をほぐすように、冗談も交えながら、私は研修生たちの緊張した表情を、ゆっくりと解していった。
 その最中、ふと、背後の空気が微かに変わった気がした。視線を感じて振り返ると透明なガラスの向こうにホークスが立っていた。誰かを待っている風でもなく、ただ静かにこちらの様子を見ているだけ。けれどその目にはどこか決意を秘めたような昨夜と同じ揺らぎを湛えていた。
 私は思わず、視線を逸らしてしまう。気まずいというより、怖いのかもしれない。あのとき彼が言った「福岡来ませんか」「養える」という言葉は、冗談まじりの口調だった。けれど、彼の瞳は冗談なんかではなかった。私の生活も、仕事も、これまでの歩みも丸ごと抱きしめようとするような、真っ直ぐな熱を帯びていた。

「名字さん、質問してもいいですか?」

 研修生の一人に声をかけられて、我に返る。

「……あ、うん。ごめんね、なに?」

 気持ちを立て直しながら答える私の視線の先でホークスがそっと手を挙げて、かすかに笑った。あれはきっと『がんばってね』の合図。だけど、私の心はまた一度、大きく波立った。
 昼休み、休憩室に入ったとき、そこにはまた、彼の姿があった。どうしてここに、と尋ねる隙もなく、彼はお弁当箱を片手に言った。

「研修って知ってたんで、タイミング見計らって差し入れに来ました」
「……なにその絶妙なタイミング。わざと?」
「うーん……わざとです」

 まったく、と呆れつつも胸の奥がふっと温かくなるのを感じる。朝方——『ずっと、そばにいてほしい』だなんて、あんな言葉を聞いてしまったあと彼がどうするのか私は少しだけ不安だった。でもこうして彼は私の日常にまたそっと近づいてくる。言い包めるでも、答えを急かすでもなく。ただ隣に座って、私が、唐揚げのタレを蓋につけすぎているのを気にしてるような、そんな顔で。

 ──少しずつ、でいい。ちゃんとこたえたいと思っている。
 彼がくれたお弁当の温度がいつまでも冷めないような、そんな、昼下がりの出来事だった。


 *


 宿泊先のホテルの件は——会社に怪しまれたら困ると私が強く抗議していたことをたぶん覚えてくれていたのだろう。
 彼は残りの日数分のホテルを「仮で」と押さえてくれていた。場所は、センターから徒歩数分、まだ新しく清潔感のあるビジネスホテルだ。唐突に会社からの宿泊費の上限を聞かれ、ざっくりと伝えた数分後。彼から『ここ取っておいたんで』とのラインが届きリンクと予約番号、住所にチェックイン時間、周辺のコンビニ情報までが、まとめて送られてきた。その最後に、さらりと添えられていた『これで、偽装は完璧ですね。』という一文はなんとも彼らしい物言いすぎて私は思わずスマホを伏せて溜め息とも笑いともつかない息を漏らしたのだった。 
 ただひとつだけ、気になる点があるとすれば、予約された部屋がダブルルームであったことだ。なぜに……。いや、なにかよからぬ下心でもあるのでは?と一瞬、勘ぐりたくもなったがさすがにそれは考えすぎだろうと自分に言い聞かせるようにして、その話題には触れずにおくことにした。

 気づけば��福岡出張�≠フ日々も折り返し地点を過ぎていた。そしてあの日、プロポーズまがいの一言が交わされてから、もう数日が経っていた。私はそれ以来彼のマンションには戻っていない。あの日から彼は以前ほど近づいてこなくなった。けれど、ふと気づくと、いつも視界の端にいた。
 たとえば朝、出勤時にセンターの玄関で会えばカフェで買ったらしいコーヒーを二つ差し出してくれる。私はその都度「いらないって言ってるのに」と眉をひそめて歩みを進めるのだけれど彼は懲りる様子もなく「まあまあまあ、手が滑って、買っちゃったんで」と笑って、しれっと机の端に置いていく。
 昼休みには食堂の混み具合を見ては「外で食べません?」と声をかけてくるし終業後には『今夜も気をつけて帰ってくださいね。』と、まるで、私の上司のようなトーンで、通信を送ってくる。そんな些細なやりとりのひとつひとつに私の心は少しずつ、けれど確実に変わっていった。最初は面倒だとか気まずいとか照れくさいとか。そんな防波堤を立てていたつもりだった。でも、いつのまにか、その言葉のひとつひとつが、私の生活にあたりまえのように馴染んでいた。資料の整理で一人、残業をしていたときだって背後で「おつかれさまです」と彼の声がすると、いつものように黒いインナーのままの姿でファイルの束を小脇に抱えていて。

 何気ない会話を交わして何気ない時間が過ぎていくその中で私はふと自分がまったく警戒をしていないことに気づいた。彼といると、楽なのだ。それがどうしようもなく嬉しかった。彼が誰よりも私に遠慮しないくせに、私をちゃんと尊重してくれていること。この人は、無理やりな言葉ではなく、隣に立ってくれることで、気持ちを示してくれるのだと、ようやく思えた。
 帰り道、歩道の段差でヒールがつっかえてバランスを崩しかけたとき何も言わずたださりげなく腕を差し出してくれたこと。その瞬間、私は心の中で、そっとひとつ小さな扉を開ける音を聞いた気がした。

 たぶん私は、もう──彼のことを、ほんとうに心から好きになってしまっている。
 彼は「ずっとこうしていたい」とよく口にするけれど、きっと、そう思っているのは、私のほうなのだ。


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