ホテルの部屋は、必要以上に広かった。クローゼットにコートを掛け、ベッドサイドのランプを点ける。低い天井。窓の外には夜の博多の街が、点々と光を瞬かせている。
 私の右手には、まだスマートフォンが握られていた。画面には未送信の文章が残されたままで、指先がその上を、ただ無意味に彷徨う。


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名前

今夜もこっちに泊まるね



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 そう打とうとしてやめた。なにも言わずそっと相手からのラインに既読をつけてスマホのロックボタンを押した。
 きっと彼は、わかっている。あの��仮のプロポーズ�≠ノ、どう返していいのかわからないでいる私の心情を——。あのときの引き止める言葉が、あまりに真っ直ぐすぎて私は、ただ黙ることしかできなかった。その沈黙が、彼を傷つけたのだということも、薄々は気づいていた。

 夜——八時過ぎ。バスローブ姿のままベッドに腰をかけていた私の手元が震えた。……着信だ。相手は、ホークスから。私は息をひとつ吐いて、その着信を取った。

「……はい」
『あ、お疲れさまでーす……』
「……お疲れさま」
『名前さん、今日も……来ない感じで?』

 甘えるでも責めるでもない声。けれどどこかにちょっと、拗ねたような色が滲んでいた。

「……ごめん。今日、ちょっと……疲れてて」

 ほんとうは、違う。行けなかっただけ。行けばまた、彼が本気で私を留めてしまいそうで、怖かったから。

『そっか……じゃあ、俺が行きますね。』
「……え?」
『今夜は俺が、名前さんのところ行きます』
「ホークス……」
『俺、なんか、嫌なんですよ。ひとりで寝るのも、あなたが遠くにいるのも。……せっかく、こんなそばにいるのに』
「……」
『触れ合える距離にいる今……ちゃんと、一緒に居たいです』

 電話越しのその声音に堰を切られたように胸が熱くなった。一緒に居たいという言葉が、こんなにも真っ直ぐに、優しく胸に届くなんて。

「……周りに、バレないようにね。」

 そう小さな声で呟くとすぐに彼は笑ったような声を漏らした。

『了解です。あと、五分で行きます』

 ——ほんとうに、来るんだ……。電話を切って私は鏡の前に立つ。何度も指で髪を整えて、バスローブ姿のままで、そわそわとリビングをうろついた。ふと、バスローブなんか着て待っていたら誘っているみたいに思われないだろうかと不安になったが、そんな私の思考を置き去りに五分後、約束通り、ノックの音。

「……こんばんは。部屋、間違ってないです?」

 ふざけたように小さく笑って立っていた彼は、どこかほっとしたような表情をしていた。入口の灯りに照らされたその横顔を見た瞬間、私は心の奥が、じんわりと解けていくのを感じた。

「どうぞ……入って。部屋、広いよ」
「そりゃ、広い部屋選びましたからね。あなたにリラックスしてほしくて」
「それは——どうも、ありがとうございます」
「いえいえ。……じゃあ、遠慮なく」

 彼が中に入りドアが静かに閉まる。二人だけの空間が音もなく再び始まった。ソファに腰かけた彼が、ぽつりと呟く。

「やっぱり、会えてよかったです。」
「うん……」
「俺、今日は……たぶん、寝れなかったんで」

 その言葉に私はもうなにも言えなかった。ただ隣に座って、そっと自分の肩を彼の肩に寄せた。
 沈黙は、もう痛みではなかった。それはやっとたどり着いた場所で、二人が少しずつ整えていく夜の余白だった。
 ふたりで過ごす今夜は、いつもより、少しだけ静かだった。テレビの音は小さくして、ベッドに背中を預けるようにして、並んで座る。シーツの柔らかな肌触りと彼の体温が、肩越しに伝わってくる。彼は隣でごそごそと何かをいじっていたがふと落ち着いたように、手を止めて私を見た。

「名前さん……今夜は、ちゃんとした話、してもいいですか?」

 その声はふだんの軽さがほんの少し抜けていて代わりに、何か大切なものを扱うときのような、丁寧な気配が滲んでいた。私は頷くだけで返す。

「……このあいだの、アレ」
「アレ?……ああ、ホテル取らせないって言ってた、くだり?」
「違います。そっちじゃなくて」

 彼が小さく笑って、首を横に振る。

「こっち来ませんかって……言っちゃったやつ。あれ、言い方が……勢いすぎましたよね。ごめんなさい」

 私は少しだけ息を呑んで、彼を見つめた。彼の目は、まっすぐに私を見返してくる。そこには、いつものからかいや、冗談めいた色はなかった。

「でも、やっぱり……ちゃんと、言い直したいなって、思ってます」
「言い……直す?」
「はい。プロポーズ。ちゃんとしたの、リベンジしますから」
「……」
「今度はちゃんと……準備して、言葉も選んで、タイミングも間違えずに」
「……」
「できるなら、俺——名前さんと、ずっと一緒にいたいです」

 それは、好きや会いたいよりもずっと深い言葉だった。彼の声は、震えてはいなかったけれど、それが余計に、胸を打った。

「そんな顔して言われたら……また私、どうしていいか、わからなくなっちゃうじゃん」
「いいんです、それで」

 彼がそっと笑った。さっきよりも少しだけ近くに寄って。

「わからないまま、考えてくれたらいい。迷って逃げたくなったら逃げてもいい。でも、俺はもう引かない。」

 そう言って彼はゆっくりと顔を近づけ私の頬にくちづけた。それは驚くほど優しく、でも、芯のあるキスだった。私はまぶたを閉じ、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
 部屋の灯りを落としたあと二人はベッドの中で言葉よりも、呼吸を通じて確かめ合う。彼が腕を回してくれると私は自然とそこに身体を預けた。ぬくもりがどこまでも静かに、肌を通して染みてくる。

「——今夜は、ただ一緒に眠りたいです」

 そう囁いた彼の声が、耳の奥で揺れる。私は、何も言わずに頷き指先だけを彼の指に絡ませた。
 夜の静けさが、ふたりの輪郭をやわらかく包み込んでいく。こうしてこの人と眠る夜が、私の、当たり前になったら……。そんな未来を、ほんの少しだけ、想像してしまった夜だった。

 目を覚ましたとき、彼は、すでに起きていた。カーテンの隙間から射し込む朝の光に彼の背中が淡く浮かび上がる。あぐらをかいてスマホを見ている姿は、寝起きのくせに、不自然なほど姿勢がよくて、それがちょっとだけ、おかしかった。

「……おはよ。」

 そう声をかけると彼はふり返り、ふわっとした顔で微笑んだ。

「おはようございます。……よく眠れました?」
「うん。ホークスは?」
「寝ました。あなたが隣にいたから、たぶん……久々に、ぐっすりです」

 そんなふうにさらっと言うものだから胸の奥がふっと痛む。嬉しい、けれど、こわい。
 彼は昨日ちゃんとプロポーズをすると言った。それはたぶん冗談なんかじゃなかった。仕事着に着替えて髪をまとめながらふと、思う。いままでずっと��好き�≠ニ��将来�≠�、切り離して考えていたということを。そうだ、考えないようにしていた。でも彼はたしかに一歩を踏み出してくれていた。なら……私は、どうするの——?
 ドライヤーの音でごまかすようにそんな思考を止めてやった。さあ、今日もまた一日が始まる。


 コーヒーを淹れながら、つい何度も彼女の姿を盗み見る。着替える気配、髪をまとめる仕草——リップクリームを塗るときの指の動きまで全て。全部が、愛しい。
 昨夜、俺は、本気で言った。「リベンジしますから」って。今朝になって正直ちょっと後悔している。なんか言い方がガチすぎだったかもって。でも、こんなに好きで、よく黙っていられたな、っても思う。
 彼女が無言でホテルに帰ってきたあの不安が、俺を突き動かした。置いていかれそうな気がして勢いで、追いかけてきてしまった。でもそれは、ただの甘えじゃない。本気でこの人と生きていきたいって、そう思ってるから。
 彼女は俺に比べてずっと冷静で真面目で大人で。たぶんまだ心を決めるには時間がかかるって、わかってる。だけど、待てる。何年でも。それくらい好きになってしまった。

 リビングに戻ると、彼女はもう、バッグを肩に掛けていた。その背中が、なんだか少しだけ遠く見えた気がした。


 *


 モニターに並ぶ受信記録。朝のミーティング後——各々事務所に戻っていくサイドキックたちの後ろ姿をぼんやり見送りながら私は一人デスクに残って業務用タブレットのチェックを黙々と続けていた。
 なんとなく彼と、目が合っていない気がする。いや、合ってはいるのだ。すれ違うとき、ミーティングのとき、何かを手渡されたとき——ほんのわずかに。でも交わさないようにしているようなそんな節がある。もしかしたらそれは、私のほうなのかもしれない。あの夜の事をまだ自分の中でしまえていないから。

 ふと、向こうの廊下に、その姿が見えた。赤い羽根。黒いインナー。無造作な金髪に耳元の赤いピアスが光る。視線を落としたままで歩いていた彼がほんの一瞬だけ顔を上げて私のほうを見た。
 すれ違う——何も言わずに。けれどその瞳が、言っていた。

「今、いいですか」

 ——と。私は何も言わずにタブレットを閉じて無言で、立ち上がった。廊下の先。監視の死角になる書庫の前。彼は、そこに立っていた。

「ホークス……今日は、ヒーロー活動のほうですよね? こっちには……残らない予定では?」

 軽く肩をすくめながら私がそう言うと、彼は、おどけたように指を一本立ててみせた。

「ちゃんと、休憩申請出してますよ?」
「……なに、その堂々とした不良みたいな態度」
「だって急がないと、あなた……すぐ逃げるじゃないですか」

 その一言に、胸の奥がふっと掠れた。

「逃げて、なんか……、」
「じゃあ、今夜は——逃げないでください」

 ふと彼が目を細めた。声は、いつもよりずっと低い。けれど、どこまでも優しかった。

「明日、休みですよね?オペレーターのスケジュール表見て、確認しました」
「権利の乱用です、それ。」
「特権です。——で。だからあの、できれば、」

 彼はほんの一瞬だけ視線を逸らしてから、またまっすぐ私を見た。

「デート、してください」

 たった一言。でもそれはきっと、何度も何度も胸のなかで練習してきた言葉だったのだと思う。私は驚いたふりをしながらも、たぶん、もうそのときには答えを決めていた。

「帰ってから……連絡して。時間とか決めよう」
「えっ、ほんと? してくれます?デート。」
「今は業務中ですから……ちゃんと職場では——知らん顔しようって、決めたでしょ」

 その言葉に、彼がふっと笑った。嬉しそうに、でもどこか、安堵したように小さく頷いた。その笑顔を見たとき自分は彼から逃げるつもりなんてないのだと——その胸の中に、今すぐにでも飛び込んでしまいたいのかもしれない、なんて、ふと思った。


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