改めて恋人として身体を重ねたそのぬくもりがまだ肌に残る夜——彼は東京でのチームアップの任務を終えた足でそのまま福岡へ戻ることをわざわざ私のマンションまで報告に来てくれた。雨があがったばかりの、午後七時。外の湿った空気を連れてきた彼に私は、あたたかいコーヒーを差し出す。彼専用だったマグカップは、数ヶ月前に床に落として割ってしまっていたため、今日は戸棚の奥に眠っていた無印のシンプルな青いマグカップを使った。彼はそのマグを両手で包み込むように抱え、ふうふうと慎重に息を吹きかけながら口をつけたあと、じっとそれを見つめた。
「……これ、買ったんです?」
彼はそう言って、眉をひそめる。警戒心というよりは、ちょっとすねた子どものような、そんな空気が真横から漂ってくる。
「ううん。前から家にあったやつ」
「ジーニストさんカラーやぁ……」
「ははっ、意識してないよ」
「ひどかっ!もしかして他ん男のマグカップ使わせてんじゃないです!?ありえる、あなたなら」
「そんなわけないでしょ。いったい私に、どんなイメージ持ってんの」
「俺をわざといじめて懲らしめるイメージです」
「ほんとに誰のでもないただの予備のやつだよ」
笑いながらもちょっとだけテレビのリモコンに意識を戻してしまっていた。パチパチ、とリズムよくチャンネルを切り替えていく様子がどうやら気に入らなかったらしい。突然私の前に彼の顔がぐいっと割り込んできた。まるで、テレビ画面のなかに彼が現れたかのように。
「……え、なに。」
「俺専用のマグ、そろそろ復活させてほしいんですが」
「あ〜……あれさぁ。実は、割っちゃって……」
「えぇ!? おっちょこちょいですかぁ、もう!食器類ちょっと割りすぎじゃないですぅ!?」
「はいはい、ごめんごめん」
「俺専用の新しいマグカップ、買ってください」
「わかったわかった。買っておくってば」
手で軽く彼の顔を押し戻すようにしてスペースを確保すると、彼はしぶしぶソファの背にもたれ直した。それでも諦めきれない様子で、隣でぶつぶつと文句を言い続けている。
「ほんとにお願いしますよ?俺専用ってちゃんとわかるようなやつで。名前入れてもいいですし、あ、むしろ、俺の顔プリントとかどうです?」
「絶対いや」
「冷たっ……いや、でも。なんか改めてこうして会いに来て、よかったなって思いました」
「んー?」
「美味しいコーヒーも、ご馳走になっちゃって」
「……」
「やっぱり俺、あなたの横が一番落ち着きます」
その言葉に、私はふと手を止めて、彼の横顔をそっと見つめた。今しがたまで甘えた口調で文句を言っていた男の表情は、湯気の向こうでどこか柔らかく安心しきったような眼差しをしていた。まるでこの場所が自分にとって一番自然で、帰るべき場所だとでも言いたげに。
「そうだ……もう、今買っちゃいましょう」
唐突にそう呟いたかと思えば、彼はすぐさま、スマホを手に取り、指先で器用に画面を操りはじめた。まるでヒーローとして空を飛ぶ時のような軽やかなスピードでいくつものショッピングサイトを開き『鳥・翼・空』などのワードを、次々と入力しては検索をかけている。
「えー、ホークスモデルないんですかねぇ?」
「そんなのないでしょ」
「じゃあ恋人が淹れてくれるコーヒーを飲むためだけのマグカップ、っていうコンセプトでぇ〜」
「……」
どんなコンセプトだよ、と突っ込むことはせずその甘ったるい言い回しに私は、リモコンを持つ手を止め、横目で彼を睨むように見るが、本人は意にも介さず真剣にマグカップを探し続けていた。
「あ!あったあった〜。これなんてどうです?」
そう言って彼がスマホの画面を、こちらに差し出してくる。目はきらきらと輝き、まるでクリスマスの朝にプレゼントの箱を開けたばかりの子供のようだった。何をそんなに嬉しそうに、と思いながらも私は仕方なく画面を覗き込んだ。そして次の瞬間、思わずぎょっとして息を飲む。
「ね、ねっ? どーです?��空色のつばさマグ�≠アれよかねぇ〜」
そこに映っていたのはまるで彼自身をイメージしたかのような派手な赤と黄色のグラデーションが施されたマグカップ。しかも、持ち手の部分は、大きな翼をかたどった、あきらかに見た目重視の奇抜なデザインで、どう考えても、洗いづらそうだった。あと単純に重そうでもある。
「……いや、持ちにくっ。てか、これ……」
「ね、いいでしょ!?めちゃくちゃ俺!って感じしません?」
「いや、するけど……」
「でしょ?俺、これにします。買っていいですか?いや買います。即決で今日からこれが俺専用!」
その瞬間、彼の指がリズミカルに、『購入』のボタンを押そうとしたのを私は見逃さなかった。
「待って!」
「はい?」
「ちゃんと確認くらいしなさいよ」
「え、なんを」
「いろいろ!」
「あー。いえ、大丈夫です!もう一生分の信頼があるってことで」
軽口と本気の間で揺れながら彼の羽根のように軽やかな愛情が今日もまた日常の中にそっと舞い降りてくる——が、さすがに流しきれないと思うこの案件は。
「いやいや、ちゃんと値段見たぁ?」
「はい、見ましたよ」
「えっ、5,980円だよ?……たかっ!」
思わず声が裏返る。私が目を見開いて言うと、彼はまるで何も聞こえていないかのように軽やかに口笛を吹きながら、今度は『購入』ではなく、『お気に入りリスト』へと指先をすべらせた。
「ねえ……よく考えなよ」
「はい? なにをです?」
「こんなコップ一個にさぁ……5,980円だよ?今の時代、コップなんて100円でも売ってるのに」
「え、俺が買いますよ?」
「いや、そういう問題じゃなくてさ……」
私は呆れ半分で彼の横顔を見つめる。だけど、その表情は、湯気の向こうでどこか幸せそうで、少しだけ照れているようにも見えて不思議と何も言えなくなってしまった。
はあ、と息を吐く私の隣で、彼はすっかりその気になっていた。指はすでに『カートに入れる』ボタンに伸びており、表情は真剣そのもの。だというのに次の瞬間、彼がまた何か思いついたように「お?」と声を上げ、眉を上げて私を見た。
「これ、色違いもあるっぽいですよ?」
完全にいやな予感がした。彼の声には、悪戯を思いついた子ども特有の妙に陽気な響きがあったから。
「……いろ、ちがい?」
困惑している私を無視して彼のテンションが、ぐいっと、もう一段階、上がったのがわかった。ソファにあぐらをかいて、スマホを操作していた彼は、まるで、宝物でも見つけたかのような顔で私のほうへ再度、画面を差し出す。
「ほら、これ。��風の花�<cfル!」
「かぜの……はな、」
「やわらかい水色ベースで、持ち手がほら、白い羽根になってて。あ〜、赤がよかったっすねー。まあ、いっか」
ふざけたような口ぶりとは裏腹にその目は案外まっすぐで。見た目の好みより、ふたりで使うというイメージを優先したのだろう。言葉より先にそういう気遣いが胸に響いてしまうのがずるい。
「名前さんに似合う。買っちゃいますね?」
唐突にそう言いながら、彼の親指はもう、その二つ目の��風の花モデル�≠�『カートに入れる』へ進みかけていて、私は慌てて手を伸ばす。
「待って待って待って!なんで勝手に買う流れになってんの」
「いや、恋人同士でお揃いマグ、定番でしょ?」
さらりと当然のように言うその声に、また少しだけ心があたたかくなる。悪気なんてひとかけらもないのだ。すべては『二人で使うため』という名目の、全力の甘やかし。
「お揃いって……その形持ちにくいって、さっき言ったよね?しかも、絶対に洗いづらいよ」
「俺が洗います。ついでに一緒にいる時はあなたの分も責任持って注ぎます」
画面から視線を外さず、さらっとそんな事を言う彼の横顔が、妙に頼もしく思えたりするのがまた腹立たしい。
「誰がそんなの頼んだの……」
ぶっきらぼうに返すと彼はようやくスマホから顔を上げて、わざとらしく眉を下げてみせた。
「ねぇねえ、名前さん?」
「はい」
「朝一緒に起きたときにお揃いのこれでコーヒー飲んだら、ばり良くないです?」
「……」
「インスタ映えってか、なんか、生活感出てて。あ、インスタやってましたっけ?」
「やってないです。てかさ私の生活感を勝手にプロデュースしないでもらえる?」
言いながらも、気づけば私の口元もすこしだけ緩んでいた。その��生活感�≠ニいう言葉にふっと喉の奥が鳴った。
こっちはまだ、彼が帰る夜の余韻の中にいたというのに……彼はもう二人の朝のことまで考えている。目が合うと、ニコニコと笑みを絶やさない彼を見てついつい画面を覗き込んでしまう。そのマグカップは確かに可愛らしく、彼の言う��風の花�≠ネんて名前も憎らしいほど私向けに聞こえる不思議。……でも、でもだ。
「……これも、5,980円かぁ。」
画面の価格表示を見た瞬間つい無意識に口からこぼれた。だってマグカップにしてはなかなかの金額だと思う。いや、冗談抜きに。それがペアとなるとちょっとしたランチデートが何回かできてしまいそうな価格帯である。
「え、ふたつペアでこの値段ですよ?」
彼の口ぶりは、むしろお得だと言わんばかりの熱量を帯びていた。
「え?」
「動画配信サービス登録したら、一個タダ!ってキャンペーン見つけたんで、即加入しました」
「ねえ……ヒーローの金銭感覚おかしいってぇ」
「実質無料ですよ? しかも、ホークスとお揃いつき!」
彼がドヤ顔で得意げにスマホの画面を突き出してくる。もはや彼の中ではお揃いのマグカップを持つことが恋人としての必須装備か何かになっているらしい。思わず言葉を失ってしまった。なんなの、その謎の謳い文句。こっちの理性の防御力を、まるで意識していない、いや無視してくる。彼は悪気もなくただ楽しそうに恋人であるということを、満喫しているだけなのだ。私はしばらく黙って彼の横顔を見ていたが、やがて、肩の力がふっと抜ける。
「……じゃあせめて、もっと実用的なやつにして欲しいな」
「えぇぇ……でも、翼ついてるのが俺っぽくないです?」
「わかるけど……指ひっかかるでしょ、これ」
「じゃあ俺、器用になる練習します」
彼は真面目にそう言って『購入確定』ボタンを押した。ああ、もう。私の意見、どこへ行った。
「てかさ……帰る時間、大丈夫なの?」
ふと我に返るようにそう尋ねると彼は目を丸くしてから「あー」と少し唸るように声を漏らし、手元のスマホをまた、弄り始めた。親指で画面を数度タップしながらスケジュールアプリを開いているらしい。そして、何を確認したのか、どこか軽やかな口調で満面の笑みを晒しながら呟いた。
「朝方、飛んでいきます」
その声音は、どこか嬉しそうで、企みを孕んでいて──だけど、ちゃんと優しさもある。
「え、それって……今日、泊まるってこと?」
「はいっ」
きっぱりと言い切るその声に、私は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。彼の指はまだスマホの画面を弄っているふりをしていたけれど、その実もう予定なんて確認していないんじゃないかと思うほど顔が緩んでいた。むしろ、泊まるという既成事実を作るための儀式だったのだろう、あのスケジュール確認は。
けれど、彼の想いがすでにここにあることを私の中ではもう確かに感じ取っていた。だがそれはまだ、胸の奥にしまっておく秘密。
*
東京の空は静かに晴れていて陽だまりの匂いがカーテン越しに少しずつ部屋の輪郭をなぞるようにして差し込んでいた。
彼が「ちょっと二度寝していいですか」と言いながらベッドへ沈み込んでいったのは、ほんの、二時間前のことだった。
「ホークス」
「……」
「朝方に飛んでいくって言ってなかったっけ」
「……」
さすがにそろそろ起こさなければと、そっと、ベッドへと歩み寄る。彼はうつ伏せのまま羽根の代わりに毛布に包まれてすっかり夢の中だった。規則正しく上下する背中の動きが、まるで小さな生き物の寝息のように感じられて私は思わず微笑んだ。ベッドの脇にしゃがみ込み、そっと頬に、視線を落とす。顔は、私の方を向いていて寝起きの気配さえない穏やかな表情がそこにあった。肌は白くて、しっとりとしている。目元の鷹のような模様は個性由来なのか、まるで何かの証のように凛と刻まれている。それを、そっとなぞるように指先を滑らせると「ん……」とぐぐもった寝息とともに、ほんのわずかに眉間が寄せられた。
「……たしか、最後にちゃんとキスしたの——」
その声は思ったよりも近くてあたたかかった。目を開けていないくせに、ちゃんと起きている。そんな様子に、私の胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
「あの日の、朝ですよね……」
やがて彼の右手がゆっくりと私の頬へと添えられた。息を吸い込み互いの温度を確かめるようにそっと唇が重なる。やわらかく、深く、ひとつの約束のように心ごととかしていく。離れたあとの静寂を破るように彼がまぶたをゆっくり開けた。寝起きのぬくもりを残した目元にほんの少しだけ照れたような光が滲んでいる。そして頬に置かれた手は、まだ私を離そうとはしなかった。
「東京デートした翌日。晴れて、静かだった日」
「……うん」
「それで俺が、シンデレラの靴下を履かせて」
「ふふ、あったね。そんなこと」
「途中でなんか俺、急に何も言えなくなって」
「うん。私も、ちゃんと応えきれなかった」
「……王子様は、見つかりましたか」
「……うん、見つけた。今、目の前にいる」
ひとつの恋が終わって、ひとつの愛が、また、静かに、歩きはじめる。この朝のキスはきっと、あの日の続きを、完成させるためにあったのだ。そして同時にそれはふたりの��始まり�≠サのものでもあった。
カーテンの隙間から、春先の風がふわりと吹き抜けてゆく。季節は冬から春へとその輪郭をゆるやかに変えはじめていた。窓の外、ふと見上げた空には彼の背中の羽根に似た雲がいくつも、あたたかく、浮かんでいた。
「たまにはさ、誰もいないような、秘密の場所に行きません?」
シャワーを浴び終え帰り支度の手を止めた彼がふいにそんなことを言った。それはきっと、ヒーローらしい冗談なのだろう。けれど、その言葉が落とす影が妙に暖かくて私は思わず頷いていた。
誰もいない秘密の場所——。彼と一緒ならば、そこはたぶん、天国になるのだろうと思った。
「……ねぇ、あの日さ。」
「ん? あの日?」
「ほんとは、私……来てくれるって、思ってたんだよ」
マンションを出て肩を並べて歩いていたとき、そんなふうにぽつりと口にした。あの日——彼が合鍵をポケットに忍ばせて、会いに来てくれた、あの日。言葉にしなくても伝わると信じていた。きっと彼も、そうだったのだろう。
「俺は、あなたを……信じてた。」
たったそれだけの言葉が胸の奥をしずかに満たしていく。信じるということ。それはときにヒーローであることよりもずっと強くて確かなことでそして、とても困難なこと。
春の風が、肩越しに優しく吹き抜けていった。彼がそっと私の手を取る。もうあのときとは違う迷いのない、手だった。ほどけたままでもいいと知った指先が確かにいま、ぬくもりを伝え合っている。
——好きになってよかった。そんな言葉をあの日の自分に伝えられる今がたしかにここにある。ふたりで進むこの道の先にはきっと、まだ困難も迷いもあるだろう。けれどもう一度めぐり会えたふたりなら、今度はきっと、大丈夫だ。
「もう、春ですねぇ」
「うん……春だねぇ」
空は、少しずつ春の色を深めている。その風のなか、彼は私の隣を歩いていた。私はすこしだけうれしそうに笑った。
過去が過ぎ、未来が近づき、
ファーストキスは、
あの日の続きを。
(ねえ、今……何考えてたの?)
(んー……あなたが笑ってるとき、世界も一緒に緩むんだなぁって)
(なんか……詩人みたい)
(じゃあ、詩人系ヒーローってことで)
(……もう、そういうの慣れちゃったよ)
(ちゃんと覚えててください。俺の口説き文句)
(……考えておく)
※image song『 あなたを想う風/HY 』