あれから私たちは何かを取り戻すように、あるいは、最初から創り直すように、少しずつ言葉を交わし、時間を分け合ってきた。特別なことは、何ひとつなかった。駅まで並んで歩いた帰り道。いつもの喫茶店で注文するコーヒーの温度。すれ違う日々の隙間を縫うように互いに送り合う短いメッセージ──同じ時刻に起きられなくても同じ景色を見られなくてもそれでも伝えたくて綴った言葉たち。そのどれもがまるで小さな愛の合図のように思えた。そして、その全てが宝物だった。
 窓を少しだけ開けると午後の風がレースのカーテンを揺らす。白くやわらかな布地がふわりと浮きゆるやかに落ちてくるのを見つめながらスマホを手に取った。普段ならメッセージ一つで済ませるところを珍しく声が聞きたくなった。発信ボタンを押した指先に、午後の光が淡く射していた。

『もしもーし? お、どうしたんですか珍しい。日曜の真っ昼間に』

 電話越しの声はまるで午後の光のように軽やかだった。ああ、声を聞いただけで胸の奥が緩むのがわかる。やっぱり私はこの人のことが好きなのだと、あらめて実感する瞬間だった。

「……あ、ごめんね。ヒーロー活動中だった?」
『いえ、移動中なんで大丈夫ですよー。でも今、飛行中なんで、電波はあんまよくないかもです』

 背後からは遠く、風を切るような音がかすかに混じっていた。ああ、本当に飛んでいるんだ──いま、この空の上で。こんなにも距離があるのにこうして私たちは、繋がっている。

「うん。ちょっと、声が聞きたくなっちゃって」

 思わずこぼれた本音だった。甘えるつもりなんてなかったのに、気づけば、言葉はするりと口をついていた。

『え……。季節はずれの雪でも降りますかねぇ。もしくは俺、明日死んじゃうフラグ立ってる?』

 冗談めかしたその声に、私は少し黙り込んだ。でも彼のほうが先に沈黙に焦りを感じたようで、『あーあーあー!ごめんなさい、切らんで!』と慌てた声が、風の中から追って響いてきた。

「なんで、切ろうとしたのわかったの……」

 半ば呆れながら問い返すと彼は少し間を置いてから、照れ隠しのように、軽やかな声で答えた。

『剛翼って言いたいとこすけど、愛の力っすよ。名前さん、さては俺のこと結構好きですね?』
「……んー、いまさら?」

 私の返事が思いのほか素っ気なくなってしまったのは、きっと照れの裏返しだったのだと思う。それでも今の私たちならその不器用なやりとりの奥にある気持ちを、きっとわかり合える。そんな信頼が、いつの間にか静かに根を張っているのを私はちゃんと知っていた。

『わー、照れないあたりがまたキュンとする〜』

 風の音に乗って届くその言葉は雲を裂いて射し込む光のように胸の奥へ静かに染み込んできた。相変わらずの軽口に抗うようにしてもふと笑ってしまう。そしてその笑みの後には柔らかな余韻のようにあたたかい孤独が残る。きっと今彼もこの空のどこかを見ている。遠く離れていても、同じ風に揺られ、同じ光の粒を浴びながら空の広さを分け合っている。こんなふうに、彼の声を求めてしまうのは何度目になるのだろう。分からない。ただ確かなのはそのたびに私の心が少しずつ彼にほどけていくということ。
 私は彼に恋をしている。それはもう、始まりも終わりも定かでない、風のような、感情だった。けれど想像は勝手に彼の横顔を空のキャンバスに描いてそっとなぞる。輪郭の先にある眼差しまで思い浮かべてしまったとき不意に胸の奥がちくりと寂しくなった。彼の横顔に今、触れられたら。そんなことばかりを考えてしまうのだ。

「わたし……福岡、行こうかなって思って」

 その一言は、ぽつりと、でも確かな決意と共に唇から落ちた。ところが──

『え、マジ!?やったぁ! いつです?でもさ、急じゃないすか?え、いつ来る?空港に迎え行きますね!』
「え? いや……その……」
『あ、でも俺、ウィングヒーローやったわ。天候にもよるっちゃけど飛んで迎えに行きましょうか?』
「あの、そうじゃ……なくて、」
『で——どこ行きます?もつ鍋?あ、でもこの前水炊き食べたいって言ってましたよね?じゃあ、水炊きからの中洲ぶらぶらで、ホテルでお泊まりコースってことで、どうです?』
「……ちょ、ちょっと待って、あのね?」
『あっ、ごめんごめん!ホテルとかじゃなくて、ウチ来ます?愛の巣♡いや〜でもな〜、俺の部屋ちょっと今散らかってて……でも大丈夫!秒速で片付けるんで!』
「だから、私、遊びに行くんじゃなくて……」
『え、まさか日帰り!?強行スケジュール旅!?やばぁ、強いっすねぇ……仕事忙しいんすかぁ?そんな数日の有給も使えんほどに』

 なんだこの異様にテンションの高い鳥は……。全然ひとの話を聞いてくれやしない。ペラペラとよく回る口には相変わらず感心はするが、私が今伝えたいことは、そういうことじゃなくて。

『俺、マジで頑張りますっ!今から、腹筋割っておかんと!ほらぁ〜、こないだ名前さんのほうが元気だったでしょ?あれ結構気にしてまして』
「あの……ホークス、そうじゃなくて」
『あ、あと!お気に入りのカフェも予約しておきますね♪ふたりで行ったら絶対映えるんで!え、てかインスタやってましたっけ?』
「だからやってないけどって、それ前にも言ったよね?……てか、話聞いて?」
『あ……すみません。嬉しすぎて、テンションが九州新幹線ばりに高速で……。いや〜今日の占い最下位だったんすよ〜?でもこれでチャラすね』

 彼の言葉が止まらない。私が伝えたい本題が、どんどん遠ざかっていく。私はついに堪えきれず咳払いで言葉を切った。

「聞いて、ホークス——! いや、啓悟くん。」
『はい! 名前さんの番ですね、聞きます!』
「ふぅ……。あ、あのね……? 私……、」
『はい。あのね、私? ちゃんと聞いてますよ』
「て——転勤願い、出したの。福岡支部に……」
『……て、…………へ?』
「福岡に引っ越して……あなたと、啓悟くんと、一緒に住みたいな、と思って」
『…………えっ、……ガチ?』
「……ガチ。」 

 一瞬の静寂。そのすぐあと耳のそばをかすめるような風切り音と羽ばたきが巻き起こす混線したような騒がしさが、電話越しにどっと押し寄せてきた。

『ちょ、わっ……! ちょっ、待っ——あああ!あっぶなっ!!』

 バサバサッという羽音と同時にガチャガチャと何かがぶつかり合うような金属音。受話器越しの空間がしばしの混乱に包まれたようで私は思わず耳からスマホを少し離してしまう。

「……ちょっと、大丈夫? な、なに?」
『ごめんなさーい!今、スマホ落ちてー!って、俺、スマホ落としたとっ!? やっべ!?』

 彼の声が遠ざかって、そして、声が途絶えた。
……え、何が起きたの?と思考が停止した瞬間、受話口からは街のざわめきとどこかの地上からの声が混じって聞こえてくる。

『うわっ、なんか空から降ってきたぁ〜!?』
『えっ、あれホークスやなかぁ〜!?』

 パニック混じりの中に、軽快に風を割って舞い戻る羽音。そして──

『あーーっぶな!よかった、キャッチ成功〜!』

 どうやら彼は、スマホが地面に叩きつけられる直前滑空しながら掠め取るように拾ったらしい。すると電話の向こう側で、地上の人たちが叫ぶ。

『うぉーー!ナイスキャッチ〜!』
『すごかぁ〜、落ちる寸前やったねぇ!』
『録った!? 今ん録ったか!?』
『いやいや!一秒遅かったら直撃しよーばい!』

 歓声と拍手喝采。さすがプロヒーローである。私も「お〜」と拍手を送りたいところだが、事故すらもエンタメに変えてしまうその姿にはもはや呆れるほかない。

『……はい、お待たせしました。ちょっと、落ち着きました』

 やや息を切らしながら戻ってきた彼の声に私はスマホを見つめたまま、どうにもならない苦笑を漏らした。

「ねぇ……ほんとに、落ち着いた?」
『はい……って、あのこっちが聞きたいですよ!そんな大事な話しといて、こっちはスマホ落とすほど焦ったんですからね!?』
「落ち着いて。危ないからもう飛ばないで……」
『いやいや、あなたが福岡に住むとか言うから、心臓持ってかれたんですってぇ!』
「ガチです」
『……え? あの、福岡、に……引っ越すと?』
「うん。最初からそう言ってるよ」

 一瞬だけ電話越しに息を呑む音が聞こえた気がした。彼の驚きと緊張がまるごと伝わってくる。

『え、じゃあ俺の予約した中洲デートプランは』
「はっ? もう予約したの!?」
『ええ……さっき、スピーカーにしながら。電話越しで、福岡行こうかなって言われた瞬間、検索ボタン押してたんで……』
「……最速で大変素晴らしいですが、無効です」
『腹筋も……』
「必要ないです。てかそれ以上ムキムキになったらそれはもう、プロレスラーだよ」
『掃除する意味……』
「あ。それは、やっておいて」

 スマホの向こうで、彼が盛大に頭を抱えている姿が、手に取るようにわかる。

『ほんっとに俺、彼女の話聞くの下手ですね……ってか、そんな大事な話、もっとドラマチックにしてもらわないと心が追いつかないんですけど』
「えっ?ドラマチックに言ったつもりだったんだけどなぁ……『福岡、行こうかな』って」
『それ、完全に旅行ノリですって』
「うそぉ、そう?」
『はい。もっと月9的ノリで言ってもらわんと』
「あら、月9ヒロインじゃなかった?」
『んー、水10ヒロインくらいすねぇ』

 私はふふっと笑いながら、ようやく落ち着いたらしい彼のトーンに、すこし安心する。

「でも……嬉しい?」
『嬉しいに決まってんじゃないですか。俺、今、剛翼バタついてますから。スマホ持ちながら上空まで飛んでいきそう』
「落ち着いて。墜落したら本末転倒だから」
『てか、これ正式に発表していいやつです?俺、彼女と同棲始めま〜すって街中に。飛行表示で』
「やめてください。業務妨害になるから」
『俺の愛が妨害になるなんて、切なかねぇ……』

 なんともくだらないやりとりである。でもその向こうには確かに笑顔がある。すれ違ってもこうして何度でも重なれる。それがたぶん恋なのだ。
 彼の声が再びスマホ越しに戻ってくる頃には、風の音も、ざわめきも、遠くなっていた。

『……あの、ちょっといいですか?』
「ん?」
『今から俺、正直な気持ちを申し上げますね』

 やけに真面目なトーン。けれどその直後、パンッ!と乾いた音が聞こえてきて、私は思わず眉をひそめた。

「……え、なに今の?」
『いや、すみません……ほっぺを叩きました』
「ほ……ほっぺ?」
『はい。夢じゃないかと思って……さっきから、三回は叩いてます』
「え」
『もう赤いです。ああ、俺のベビーフェイスが……てか痛いです。現実でした、どうやら』

 どうやらじゃないよ、まったく……と、笑いを堪えながら私はそっと口元を覆う。相手は至って真剣そうなので、今ここで笑ったら失礼だ。

『え、福岡に来るってほんとなんです? えっ、住むんですか?ほんとに?本気です?マジで?』

 矢継ぎ早に飛んでくる質問に、まるで、大事な試験を受けてるような気持ちになって少しだけ、げんなりする。

「うん。だって……こうして電話で話してるだけじゃ、やっぱり足りないから」

 言葉にした瞬間、自分の胸の奥に、ずっとくすぶっていた想いが、そっと灯るような気がした。あたたかな灯り。それは寂しさとも違う、もっと近くで感じていたいという、願いのかたち。

『ああ……俺の彼女さんは尊いです、ほんと。』

 あいかわらず照れ隠しに甘い言葉を重ねてくるけれどその声の裏にある切実さを、私はちゃんともう、聞き分けられるようになってしまった。

「毎回別れ際に、またすぐ会いたくなるの、もうやだなって思ってさ」

 ほんの少し、言葉の終わりが震えてしまった。それに呼応するように、受話口の向こうからは、「……っ」と、小さく喉を詰まらせるような音が聞こえた。きっと今、彼はこの空の下で翼をたたんで立ち尽くしている。そんな気がした。

『すっごく、嬉しいんですけど……もっかいだけ叩いていいですか』
「え」

 ——バチン!

「やだ……叩いた?」
『ええ、ちょっと強めに。はい、今度こそ本当に理解しました。嬉しいです、めちゃくちゃ。あの、もっかい言ってもらっても?』
「はい?」
『「啓悟くんと一緒に住みたいなと思って」ってやつ。録音したい。着信音かアラームにするんで』
「はぁ?」
『あの、さっきの息継ぎとか間を溜めるところもちゃんと再現してもらっていいです?』
「——やめて。盗聴とかやめて、怖いって……」
『盗聴じゃなか!保存っ!俺の心のライブラリに永久保存ですっ』

 どこまでも口がうまくて、でもそれ以上に心底喜んでいるのが声に滲んでいて、私は言葉よりもその温度に胸がいっぱいになる。結局は、こんな彼のことが好きなのだから、どうしようもない。

『……じゃあ、これから家探しですね!ふたりで住むとこ。あと、家具やカーテンも!』
「え、家は……ホークスが迷惑じゃなかったら、愛の巣で、よくない?」
『んー、狭いっすね』
「いやいや、広いよ、充分。大丈夫だよ……」
『いえ!そこはちゃんとしましょうよ、ねっ?』

 はしゃぐ彼の声はまるで、遠足前夜の小学生のようだった。私さえいれば喜んで布団よりもダンボールに入って眠りそうなテンションである。

『あ、そうだ。引っ越しといえば、例のマグっ!ちゃんと持ってきてくださいねー、あれ』
「……え?」
『空色のつばさ&風の花です。届いてます?』
「届いてはいるけど……まだ開けてないよ?」
『じゃあ福岡の新居で一緒に使いましょう!』

 ああ──まだその話を引きずっていたのか、と心の中でため息をつきながら私は思わず天を仰ぎそうになる。届いていた。確かに私のマンション宛にそれは届いていた。けれど私は迷うことなく中身は開けずその箱を何事もなかったかのようにクローゼットの奥へと押し込んでいたのだ。

「あれ、さぁ……いる、かなぁ?」
『なにを言うんですか!あれこそふたりの門出の象徴ですよ?』
「平和の象徴みたいな言い方やめれる?」
『いやいや〜、夫婦箸みたいなもんです』
「いやいやいや。あれ、食洗機ダメだったよね?そもそもあの持ち手、羽根のくせにゴツくて絶対洗いにくいし、なにより……重いし──」
『羽根のくせにって言い方やめましょ?俺、羽のヒーローなんで、いま軽く傷つきました』
「いや別にあなたの羽のこと言ってないからね。マグの話をしてるの、マグカップ。」
『羽根を笑うものは羽根に泣きますよ』
「脅しかな?」
『愛です』

 間髪入れずにそう言われて、私はついに豪快に噴き出してしまった。ほんとうにこういう調子で彼はいつも私の心を油断させる。参ってしまう。

「……でもまあ、仕方ないか。ホークスが洗ってくれるなら」
『もちろんです。マグもあなたも。朝から洗い清めて差し上げますよ』
「なにをだよ」

 笑いながらツッコみつつ私はスマホ越しに響くその声にまた新しい日々が始まる予感を重ねた。

「てかさ、やけになんかテンション高くない?」
『そりゃそうですよ。人生でいちばん大切な人と人生でいちばんちゃんと暮らしたいって思ってたんで、それが叶うんですから』

 いちばんちゃんと暮らしたいの意味は正直よくわからない。けれどその不器用な言葉の向こうにあるまっすぐな想いだけはきちんと胸に届いた。こんなにも迷いなく、こんなにも正面から、私を『人生』と言い切る彼に、思わず頬が緩む。胸の奥がじんわりと熱くなって言葉の代わりに笑みがこぼれた。

「……じゃあ今度、ちゃんと家、見に行こうね」
『はい!ついでに、羽モチーフの食器も新居用に買い足しましょう』
「やだ、まだ羽モチーフ買うの?もういいよ」
『いや、絶対買います。ふたりで朝に並んでそれを使うのが夢なんで!』

 また始まったと心の中で呆れながらも、思わず笑ってしまった。くだらないことで笑い合って、ちょっとした一言に照れて、未来の話を、当たり前みたいに重ねていける人がいる——。それが、どれほど奇跡みたいなことか、今の私はようやく身をもって実感している。
 隣にいなくても繋がっていられる人。夢を語りながら現実を丁寧に並べていける人。きっと私はちゃんと恋をしてるんだとやっと心から思えた。

 もう彼は、飛ばなくてもいいのかもしれない。そう思う瞬間が、少しずつ増えていく。もちろん彼は今もヒーローだ。呼ばれればすぐに空を翔け誰かのもとへ駆けつける。ただ、もう無理をして飛ぶことはない。誰にも見えない場所で、羽根を傷めつけることも誰かの期待に応えすぎて自分を削ることも少なくなったことを私は知っていた。
 私が彼の羽根になる。そう思えたのはずいぶんあとになってからだった。あの日、橋の上で泣きながら彼の名を呼んだとき、私はまだ何も持っていなかった。ただ好きで、ただ苦しくて、ただ、抱きしめたくて、でも届かない心に怯えていた。けれど今、彼の隣にいて、彼の髪をそっと撫でられる時間が何よりの��証�≠セと思えるから——。





あなたの羽根になる日



(……で、いつから住めるんです?)
(まだ正式には決まってないけど転勤は確定)
(そっか。まあ、俺はいつでも準備万端です)
(え?)
(今日でも明日でも。あなたが今って言った時が俺にとっての始まりです)
(ほんと……口がお上手ですこと)
(ほんとですよ?だっていつからだって、ずっと一緒にいたいんですから)

※image song『 さあ行こう/HY 』


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