しかし——現実は、そう甘くはなかった。ホークスはその日の夜、急遽福岡へ戻らなければならなくなってしまったのだ。理由は言わなかった。いや、言えなかったのだと思う。大方、ヒーロー側の仕事だろう。ただその表情がどこか申し訳なさそうに曇っていて、それだけで十分すぎるほど伝わってしまった。
 仕事を終え、センターの屋上でほんの少しだけ言葉を交わしたあと、私たちはゆっくりと階下へ降りていった。空はすでに群青の深みに沈み込んでいて、ビルの縁が夜の輪郭に溶けかけていた。
 センターの自動ドアが静かに開くと、夜の街の空気がふわりと肌に触れた。そのとき隣を歩いていた彼が不意に足を緩めて、小さくつぶやいた。

「……もうちょっとだけ、一緒に歩きません?」

 それはまるで、ずっと前から続いていた会話の一部のように自然で気づけば私は何のためらいもなく頷いていた。たったそれだけの遠回りがこんなにも嬉しいなんて。思えばあの日——福岡での帰り道以来だったのかもしれない。彼とこうしてゆっくりと、夜を歩くのは。ビルのガラスに映るふたりの姿がどこか少しだけ不思議だった。肩の位置、歩幅、視線の高さ。ほんのわずかな変化がやけにくすぐったく思える。

「変わったね……」

 自然とこぼれたその言葉は夜風に紛れるように小さかった。だけど彼はすぐに反応してくれた。

「どっちがです?」

 問い返す声は穏やかでどこか冗談めいていて。街灯の光が彼の横顔にやわらかく差し睫毛の陰がその琥珀色の瞳を深く縁取っていた。

「……どっちも」

 そう答えると彼は短く息を吐いて、くしゃっと目尻を細め「はい」と言った。それだけだった。でも、たったそれだけで胸の奥が、じんと温かくなる。
 駅前の自販機で彼がホットココアを買って差し出してくれる。いつもの缶コーヒーじゃないその選択にどこか彼のささやかな気遣いが透けて見えた気がして、私は思わず小さく笑ってしまった。
 信号待ち。横断歩道の白線の手前で並んで立つその距離が心地よくて、でもどこかくすぐったくて。そんな沈黙の隙間に彼が、ぽつりと呟く。

「なんか、すみません……」
「……ん?」
「その、バタバタしちゃって……」

 そう言って彼は少しだけ困ったように笑った。ヒーロースーツの襟を撫で付ける彼の仕草がどこか慌ただしくて、だけどやっぱり申し訳なさそうで、私は黙って彼の横顔を見つめていた。

「福岡。急遽、今夜戻らないといけなくなって」「うん……」
「……連絡遅くなって、ごめんなさい」
「……うん」

 さっきまでの温かい空気が、まだ身体に残っていた。でもその余韻を追い越すように彼の現実が追いついてくる。ヒーローはいつだって呼ばれる側だ。わかっていた。だけど、それでも……。

「仕方ないよ」

 そう言った声が、自分のものとは思えないほど平坦だった。本当は行かないでと言いたかった。もう少しだけそばにいてって。でも言えなかった。それはわがままになる気がして、彼の背負う現実の重さを知らないふりはできなかったから。彼は笑った。少しだけ、悔しそうに。

「ちゃんと話したかった。間が悪いっていうか、俺らしいっていうか……ほんと、すみません。」
「ううん。俺らしいじゃなくて、俺たち(・・・)らしい、じゃないかな」
「あー、まあ……たしかに」
「それに、会えただけで、うれしかったよ」

 私の言葉に彼はそっと目を細める。ほんの一瞬だけ、近づいた距離。息を飲むほど静かな都会の夜の交差点の端っこで、彼の手が私の指先に触れた。握るでも引き寄せるでもない。ただ、そこに触れていただけの体温。とても、あったかい。

「また、連絡します。こっち、どうせ、すぐ来ると思うんで」
「うん……」
「そのときはちゃんと今日の続きしましょうね」
「……うん。待ってる」

 彼は駅の方向へゆっくりと歩き出す。歩幅は変わらず、だけど背中がどこか寂しげに見えたのは私の気持ちがそう映しただけなのかもしれない。振り返るかと思ったけれど、彼は振り返らなかった。
それでも不思議と涙は出なかった。寧ろ心のどこかにまだ、あたたかな何かが残っていた。きっとそれはさっき彼が触れてくれた、あの手のひらの余韻。
 私は深く息を吸って、彼がいた場所を見つめたまま、目を閉じた。——また会える。今度こそ、ちゃんと。自分にそう言い聞かせながら私は夜の街にひとり、背中を向けた。

 まだ名前の付かない関係。でも名前の付く日が来るとわかっている。好きの少し手前で止まったままの想いが近いうちにきっとやさしく花開くのだと、そう信じている。


 *


 ——正直に言おう。
 朝の空気は、やたら澄んでいた。鳥の鳴き声が妙にクリアに聞こえるし、部屋のカーテン越しの光もいつになく柔らかい。なのに、俺の頭のなかだけは朝から大混乱、修羅場だった。心のなかで火災報知器が鳴っているレベルで。
 あの日、目が覚めたとき、彼女の寝息が、すぐ隣から聞こえてきた。まどろむまつ毛、無防備にほどけた髪、ほんのり肩に触れていたぬくもり。その全部が確かな証拠だった。俺たちはたしかに��ひとつ�≠ノなった。言葉ではなく身体で思いをぶつけ合った夜。ただ問題がある。彼女は酔っていた。しかも、記憶があいまいらしい。まったく笑えない話である。
 けれど、眠っているその横顔は、誇張なしに、プリンセスのようだった。もしくは、天使。あのあたたかい手で、俺をまるごと受け止めてくれた人が何も知らない顔で安らかに眠っているなんてずるいにもほどがある。(大事なことなので二回言うけど、彼女は記憶がないらしい。最低っ!)

 そして俺は、気づいてしまった。俺たちって、えっと……復縁してなくない?と、いうことに。その思考が脳内に浮かんだ瞬間、心臓がバクンと音を立てた。ヤバい。ヤバいぞこれは。まさかと思いたい。でも、もしかして、いやまさか、あの夜は一時の──それ以上は考えまいと思って目をぎゅっと瞑る。そしてゆっくりと瞼を開き小さくため息を吐き出す。

「やばぁ……俺、これ、やらかしとらん……?」

 と、自分の中に沸き起こる疑念を振り払えずにいた。だが俺の胸の上に手を置いた彼女がすぅと呼吸を深くして、ふにゃりと微笑んだあの表情を思い出すたび……ああ、もうダメ。好きすぎる。そんな感じで俺は今日もまた一人で悶えている。

 その日の夜——駅前のコンビニに立ち寄った。コーヒーでも飲んで、頭を冷やそうと。そのときだった。制服姿の女子高生が、二人、雑誌を立ち読みしながら、キャッキャと話していた。

「え〜、でもさ〜?これってもうセフレじゃん」
「えー? 元サヤに戻ったんじゃないのー?」
「違う違う元カレだったけど、なんか、カラダの関係だけ戻ったっていうか〜」
「うわぁ〜都合よ〜。それセフレ確定〜!」

 彼女たちの会話は、容赦なく、俺の鼓膜をぶん殴ってきた。もう、フルボッコに。

 ��カラダの関係だけ戻った��
 ��それセフレ確定��

 その瞬間、目の前の視界が一瞬スローになる。コンビニの冷蔵棚、缶コーヒーのラベルがなんか俺を責めてる気がする。いやいやいや、嘘だろ。えっ?もしかして……いや、いやいやいや……!
心の中で何度も否定しようとするのに、女子高生たちの声がエコーみたいに、脳内をループする。

「えぇ〜。やっぱ、そうだよねぇ〜!?」
「だって、もうそれ、セフレ〜〜〜っ!」
「……てか、待ってぇ、あれホークスじゃん?」
「え、マジ!? うわ〜♡ばりかっこよぉ〜♡」

 ちょっと待て……そうだ、俺はホークスだぞ?こんなとこで一般JKの人生観に刺されてて、どうする……!?しっかりしろ。
 でも、でもだ。言って、ないんだよな……また付き合ってください、って。あの日の朝だって、俺は彼女の髪に触れて口づけて名前を何度も呼んで優しさも情熱も全部込めたけど、言葉にはしていない。ちゃんと自分の言葉で『好きです、あなたとやり直したい』って、伝えていない。そして、彼女も、とくになにも聞いてこなかった。
 俺はふらふらとレジに向かって会計を済ませ、缶コーヒーを持ったまま夜の福岡の空を仰いだ。遠くでヒーローサポートセンターのネオンが無情にも瞬いている。

「くっそ……、慎重になりすぎたばい……」

 今さら気づいた。好きすぎて慎重になってたんじゃない。慎重って言いわけで、肝心なことから逃げていただけだった。
 明日、東京に行こう。それで、絶対に言おう。今度はちゃんと自分の口ではっきり言葉にする。俺たちはもう一度ちゃんと始めるんだって。そう決めて俺は、ようやく一口、コーヒーを飲んだ。
……なんだこれ。めちゃくちゃ苦くなか?でも、ちょっと沁みる。あーあ。ほんと、救えない。


 言葉はなかった。あの朝も、あの夜も——肌を重ねて、互いの体温で確かめ合ったはずなのに。確かに彼はそばにいた。抱き寄せて愛し合った。けれど「また付き合おう」なんて言葉は一度も、彼の唇からは聞こえなかった。
 あの夜の記憶はところどころ曖昧で霧のように指の隙間からこぼれていく。酔いにまかせていた私の意識は肝心な部分だけがやけにぼやけていて夢と現実の境界線さえ曖昧だ。それでも彼のぬくもりはたしかに私の中にあった。心臓のすぐ傍にあって、やさしく私を包んでくれた。だからこそ言葉が欲しかった。その温もりが、ただの一夜の気まぐれじゃないって確かな輪郭で欲しかった。
 わかっている。彼は臆病なのだ。本気になればなるほど、言葉を慎重に選んでしまう人だということくらい、もう、十分すぎるほど知っている。だけど——それでも。

 ひとりでベッドに横たわる夜、眠りにつく前の時間にだけふと心が音を立てる。深呼吸をしてもどうしても拭いきれない小さな靄のようなものが、胸の奥でずっと、くすぶっている。
 私たちっていま……どういう関係なんだろう?そう思った瞬間、罪悪感みたいなものが後ろから追いかけてくる。あんな風に求め合ってしまったのは、間違いだったのか。彼を、困らせたのではないか。私は、自分だけが恋人に戻ったつもりでいるんじゃないか。

「……元サヤ? いや、セフレ——?」

 ——いや、そんなはずない。あの日、彼の腕の中にいたときのあの優しい声も、震える吐息も、肩に回された手の強さも嘘なんかじゃなかった。それでも��言葉�≠ヘ、もらっていない。だから、どこかで怖くなる。期待してはいけないと自分に言い聞かせるたび、もっと苦しくなる。まるで、自分の気持ちだけが先に走ってしまったようで。まるで、都合のいい関係に、勝手に名前をつけてしまったようで。
 私は、スマートフォンの画面を見つめながら、彼からの何気ない通知が鳴るのを、ただ黙って、待っていた。

 『いま何してます?』
 『ちゃんと寝れました?』
 『またすぐ会いたくなってます』

 ——たったそれだけで、安心できるのに。その夜は、メッセージの音も鳴らなかった。まるで、世界に置いていかれたように静かな部屋で私は、掛け布団を引き寄せて、ぎゅっと自分自身を抱きしめた。
 ひとこと「やり直そう」って言ってくれたら、私は、眠れるのに。そんなふうに思ってしまった自分が、少しだけ情けなくて、少しだけ泣きたくなった。でも、泣くほど悲しいわけでもなくて、ただ恋をしているのだと、改めて思い知らされた夜だった。


 *


 翌朝。目覚めてすぐに、彼の名前が浮かんだ。理由はない。ただ夢の続きのように胸の奥に彼がいた。少しだけ心拍が早い。まるで、今日という日を、身体が先に知っていたかのようだった。
 スマホの画面は変わらないままだった。未読の通知は来ていない。夜が明けても彼の言葉がなかったという事実が、じわじわと効いてくる。彼がどれだけ忙しい人か、私は誰よりも知っている。でも、それでもせめて『おやすみ』とか『また、すぐに連絡します』とか、ひと言あればよかったのに。

 センターの窓から空を見上げると、まっさらな青が広がっていた。彼ら、ヒーローが守ってくれている空だ。よく晴れた空はとても綺麗で、でもなぜか、余計に切なかった。そんなとき、ふと、スマートフォンが震えた。


ホークス

今日、会えませんか


ホークス

今夜、行ってもいいですか


ホークス

ちょっとだけ顔が見たいです


ホークス

あと
話したいことがあります






 その文字を見たとき、胸の奥でなにかが、音を立てた。その言い回しにすこし、笑ってしまう。
 『話したいこと』なんて、もう分かっている。だけど、たとえどんなに不安な夜がやってきてもやっぱりちゃんと言葉にしてくれる人だと知っているからこそ私はそのメッセージが嬉しかったのだ。彼がちゃんと言うと決めてくれていることが今の私のいちばんの安心だった。


名前

うん。


名前

待ってる






 そして、夜。マンションのロビーで彼を待っていた。エントランスの自動ドアが開いた音に気づいたときにはもう彼がいた。息を少しだけ切らし彼はそのまま、私のほうへと、まっすぐに歩いてきた。

「ごめんなさい、急に……会いたくなって飛んできちゃいました。雨降ってなくてよかったぁ」

 彼は冗談めかしたように言ったけれどその目は本気だった。何かを押しとどめるような、でも、その、ぎりぎりのラインを超えたくて仕方がないような、そんな目をしていた。

「あの、会ってすぐで悪いんですけど、要件だけ先に……」
「……」
「このあいだ、何も言えなかったこと……ずっと後悔してて、悔しくて……」

 彼は私の前で一度だけ立ち止まるとゆっくりと呼吸を整えて、言葉を探すように目を伏せた。

「あの日……ほんとは言うつもりだったんです」
「……」
「やり直したい——って。でも、怖かった」
「……うん」
「もしも、あの日の温もりがあなたにとって一時的なもので、答えじゃなかったらって思ったら」

 私は、そっとかぶりを振る。彼が今、どれだけ震えながらこの言葉を口にしているか、私には、痛いほどわかる。

「でも昨日、コンビニでJKの会話聞いて……」
「……ジェー、ケー?」
「元カレとカラダの関係だけ戻ったって、セフレだよね〜!って言ってるのが聞こえてきまして」
「…………は?」

 思わず笑いが漏れる。でも彼はそれすら真剣な顔のまま続けた。なんだか少し、可愛かった。

「それで怖くなったんです。ちゃんと言葉にしないまま、そういうことしちゃって」
「……」
「たしかにあなたは酔ってたし覚えてないのかもしれない。でも、だからノーカンとかそーいうんじゃなくて」
「……」
「俺はちゃんと、あなたが欲しいって、また隣にいてほしいって、言えてない……って」

 彼の手が私の手をそっと包む。それは、ほんの少し汗ばんでいて、そして、あたたかかった。

「……また、付き合ってくださいって言ったら、重いですか、ね……」

 上目遣いで彼が尋ねてきた。私は、ほんの少しだけ考えるふりをした。けれど答えはもうずっと前から、この胸の奥にあった。

「……ううん。たぶん、うれしいと思う」

 そう伝えると、彼は、ちょっと照れくさそうに笑ったあと、優しげな、それでも、真剣な声音で言った。

「じゃあ——言わせてください。俺は本気で……あなたが、名前さんが好きです」

 彼の声はまっすぐで、まるで風一つない湖面に落とされた石のように、心の奥に、波紋を広げていく。

「俺……名前さんのこと、ずっと好きです。一回はダメになっちゃいましたけど、それでもあなたのいない日々より、隣にいるほうがずっといい」

 言葉を選ぶようにしているはずなのに、それは淀みなく、彼の胸の奥から、そのまま零れているようだった。

「大好きです、名前さん。あなただけです」

 その声には、装飾も駆け引きもなかった。あるのはただ、彼、鷹見啓悟の、正直な想いだけ。

「いまも、これからも、また一緒に過ごしたい。だから、俺と結婚を前提に付き合ってください」
「え……けっ、」
「……って、言いに……来ました……」

 尻すぼみしていくそれは、あまりにも率直で、まっすぐすぎて、そして、苦しくなるほど優しい言葉だった。私は目をそらす事ができなかった。呼吸が浅くなるのを感じた。心臓がいつもよりも高い音を立てている。彼は私を見ていた。逃げず飾らず、どんな返事でも、受け止めようとしている目だった。
 私はすぐには答えなかった。でもそれは、迷いではなく彼がどれだけの想いを込めてこの言葉を紡いでくれたのかが痛いほど伝わっていたから。たとえこの沈黙が彼にとってどれほど焦れる時間であっても私は、その重みに誠実でいたかった。

「……私も。ホークスが、啓悟くんが好き。あのとき怖くて逃げたけど、もう逃げたくない」

 自分の口からその言葉が出た瞬間、胸の奥から何かがじわっと溶け出したようで思わず泣きたくなった。私の手を握る彼の指先に力がこもった。その掌は、震える私の指先をまるごと包み込んでくれる、ヒーローのあたたかさだった。

「俺の、残りのぜんぶを、もらってほしい」
「……」
「俺と、結婚してくれます?」

 さらりと、でもどこまでも真剣にまっすぐ私を見据えたまま、彼がそう言った。

「え……あ、えっと……あの、前提っていう話、なんだよね……?」
「いえ。確定した候補、ってことで」

 慌てる私に彼はふっと笑って言った。その瞳を見つめると琥珀色が微かに揺れていた。光を反射して、まるで湖の水面のようにきらきらと揺れている。私はそっと目を伏せ言葉を探すように息を吸い込み、そして、心の奥でようやく形になった想いを、そっと彼に手渡すように差し出した。

「……もう。それ言ってくれるの、私……ずっと待ってた」

 彼が微笑む。その優しい眼差しが好きだった。彼は、肩の力が抜けるように何度も何度も頷きながら、そのまま私の額にやさしく唇を落とした。あたたかく、深く、安心に満ちたキスだった。
 今度こそちゃんと始まったんだと。もう不安で眠れない夜は来ない。疑う事も試す事も、傷つけ合うことも、必要ない。だってこの人は言葉で、ちゃんと私の手をとってくれた。心で、今ここにいてくれると証明してくれたのだから。

 私は彼の胸の中で、そっと目を閉じて、小さく息をつき、「おかえり」と、心のなかで囁いた。何度も、何度も。
 人気のないマンションのエントランスホール。夜の静けさに包まれたその場所で、私たちは肩を寄せ合っていた。天井のダウンライトがぼんやりとふたりを照らし磨かれた床の上に影が寄り添うように揺れている。冷たく光るタイルの上にただ静かなぬくもりだけが残されていた。夜風はもう冷たくなかった。ガラス越しに見える外の闇さえどこかあたたかい。
 この人となら、きっとまた、ひとつひとつ光のほうへ歩いていける。そう思えた。確かに、そう信じることができた。


 *


 ほんの少しの角度でいい。もし彼が私のほうへ顔を傾けてくれていたら——私はたぶん、迷わず彼に、触れていたと思う。
 彼が前に、一緒に行きたいと言っていた近くの公園まで散歩をした。その帰り道、ふたりでゆっくり歩いてマンションの前まで来たとき、どちらからともなく、足が止まった。

「ほんとはもっとゆっくりしたかったんですけど明日、ちょっと早くて……ごめんなさい。」

 人の気配もなくなったその静けさの中で、彼の声だけがやけに柔らかく、耳に残った。彼は私の顔をじっと見つめたあとで、ふっと視線を逸らす。きっとその目の奥にはまだ伝えきれていない言葉が、いくつも残っていたのだろう。けれど、彼はそういう人だ。全部を言葉にせず代わりに態度で行動で、心を差し出してくる。

「大丈夫。こっちこそ長い時間、拘束しちゃったね」

 そう返すと、彼はブンブンと大げさに首を横に振った。

「いいえ……俺が会いたくて来たんですよ?付き合ってもらったのは、俺のほうです」
「……」
「だからもう、そげん顔せんで? ね?」

 小さく頷く私を待って自然と抱き合った。彼の腕に包まれているうちに私の心はどこかで覚悟を決めてしまっていた。もう一度彼を受け入れたいと。身体ごとすべてを。けれど彼の唇が私の髪にそっと触れた時その静かな熱がすべてを変えた。

「今日は、このまま帰ります。中途半端にいたら、抑えられなくなるんで」

 それは冗談のように聞こえて、だけど冗談じゃない真剣さがこもっていた。

「……うん、わかった」

 私は笑って頷いたつもりだったけれど、たぶん少し声が揺れていた。まるで抱かれたいみたいな顔でもしていたのだろうか、彼がほんの数歩だけ近づいて私の手を取る。そして、何も言わずただ手を握る。その指先に宿る熱だけが今夜の余韻をすべて物語っていた。

「好きすぎると……ちゃんとしたくなるんです」
「……」
「だから残念ですけど、今日は、帰りますね。」

 その一言に私は救われるような気持ちとひどく切ない、焦がれの両方を覚えた。どうしてこんなふうに私の気持ちばかり先に溢れてしまうのだろう。彼の方がずっと大人なのに。彼の方がきっとだれよりも、私の輪郭を守ろうとしてくれているのに。

「ちゃんとまた連絡します。あと次はもうちょっと時間つくって来ますね」

 そう言って彼は私の額にそっと口づけた。愛おしさを隠しきれない、けれどそれ以上を求めないぎりぎりの距離感で。
 私は何も言えずにただうなずいた。彼は笑って「ほんとにまた、会いに来ますから」と言った。彼が小さく手を振る。私はやっぱり、何も返せずただ静かに、その光景を胸に焼きつけた。
 その夜。彼からのメッセージは、思ったよりもすぐに届いた。


ホークス

今日、会えて
本当によかったです


ホークス

無事に帰れたら
連絡しますね






 スマートフォンの画面を見つめながら私は深く息を吸って目を閉じた。今も彼のぬくもりが手のひらに残っている。あの人の誠実な言葉が、ようやく私の心にも素直に届き始めている気がした。今夜はここまで——それでいい。だからきっと、次はもう一歩、踏み出せる。

 ——それから二日後。スマートフォンが突如として震えたのは午前中の書類整理をしていたときだった。


ホークス

お疲れさまです


ホークス

朗報です






 たったそれだけなのに胸が驚くほど高鳴った。まるで付き合う直前の10代の少女みたいに。もう一度、スマホを握りしめる。『どうしたの?』とだけ送り返すと、それに返ってきた言葉は……。


ホークス

今週チームアップで
2日だけ入ります


ホークス

どこかで少し
会えたりしますか?






 指先が止まった。私は画面を見つめたまま少しだけ笑った。ほんの短い文章なのに画面の文字がじんと、滲んで見えた。『会えたりしますか?』なんて、そんなふうに訊かなくてもいいのに、と思った。だって私はずっと彼の「また来ます」の言葉だけを頼りに過ごしていたのだから。返事は少しだけ焦らして、でも、すぐに送った。


名前

もちろん。
どこでも行きます


名前

会えるの楽しみにしてます






 きっとまた彼は、言葉ではなく仕草で、呼吸で視線の奥にあるものすべてで私に伝えようとするのだろう。あの日のように無言のままでも、それでも確かに、何かを託すように。
 でも、今度は私も、もう聞き逃したりしない。曖昧な笑みや俯いたままの背中に、ちゃんと心を澄ませていたい。この再会を、またどこかですれ違うだけの記憶にしないために。

 私はそっと深く息を吸った。胸の奥で息づいていた言葉にならなかった想いに、静かに触れる。まだ触れていない指先が、こんなにも熱を帯びていた。まるで、これから触れる未来のぬくもりをすでに、知っているかのように。そしてきっと、私たちはまた、歩きはじめるのだ。





夜に向かう光のなかで



(……もしもし?)
(あ、名前さん?やっぱ電話しちゃいました)
(そっか)
(てか、遠慮せずかけてくださいよー、もう)
(あー、ごめんね?)
(いやそれです。そーいうのもうやめません?)
(え……?)
(そろそろ俺ばっかってやつ、もう卒業したい)
(……わかった。じゃあ次は、私からかけるね)
(ふふっ、やった)

※※image song『 With/幾田りら 』


  • prev | next

  • back
VERTEX