——目覚めたとき、天井が、見知らぬ色をしていた。光がまだやわらかく、窓のカーテン越しに漂ってくる朝の気配は静かに部屋を浸していた。ああと私は息を吸ってゆっくりと吐き出す。まるで胸の内側に、小さな波が残っているようだった。それは夢の余韻か、それとも昨夜の温度か……。ぬるいシーツの中で自分の身体の輪郭をたしかめる。何も着ていない。触れたくせに触れていないような。重ねたくせにどこか赦し合っていたような。そんな夜の記憶が肌の奥に染み込んでいた。
隣にいるはずの彼は、もう起きていた。けれどまだ部屋のどこにも気配がない。時計もない。窓も曇っていて時間の輪郭が見えない。私はそっと上体を起こした。身体にかかっていたシーツが、音もなく滑り落ちる。目を凝らすと、カーテンの隙間から少しだけ、赤茶けた羽根が覗いていた。ああ——やっぱり夢じゃなかったのか、と思う。彼ともう一度、夜を越えてしまったこと。一つの終わりを知って、それでも手を伸ばしてしまったこと。
バスルームの方から微かに水音がした。彼は、そこにいた。シャワーの音ではない、蛇口の水。顔でも洗っているのだろうか。私は声をかけようか少しだけ迷ったけれどやめた。まだこの距離がちょうどいい気がしたから。
ベッドの傍に彼のジャケットが丁寧に折られて置いてある。そのポケットからなぜか一本の赤い羽根が覗いていた。個性の羽根をあちこちにばら撒くのは、彼の癖なのだろうか。それとも……。
私はそっと、その羽根に指を触れる。かすかに温かい気がして慌てて手を引っ込めた。この人はやっぱりヒーローなのだと思った。夜を共にしても、朝を隣で迎えても、その事実が薄れることはない。けれど今の彼は、ホークス1.0じゃない。
目の前の誰かをちゃんと見ることができて自分の想いを少しずつでも言葉にしようとしてくれる。変わろうとする人の背中は、時々、不器用なほど美しい。
私はその羽根をもう一度そっと手に取ってから感触を確かめて元の場所に戻す。この朝をなかったことにするためじゃなく。ちゃんと今日を始めるために。
やがて水音が止まった。私はもう一度シーツを引き寄せて、目を閉じるふりをした。扉が開いて彼の気配が近づいてくる。優しい風が、私の髪をそっと揺らした。足音は静かで、でもたしかに、こちらへ向かってくる。私はまだ目を閉じたふりをしていた。見てしまったら言葉が溢れてしまいそうで。気の利いた冗談も、小粋な朝の挨拶も、きっと今の私はうまく言えない。
ベッドの端が、少し沈む。羽毛のマットレスが彼の体重を受け止めるようにわずかにきしむと、そっと掛け布団が引かれた。
「……起きてるの、分かってますよ?」
優しい声だった。ふわりと朝の光と同じくらいのやわらかさで、耳に触れる。私は観念してゆっくりとまぶたを持ち上げた。目の前にはタオルで髪を拭きながらも、じっとこちらを見つめる彼、ヒーローの姿があった。
「……お、おはよ。」
そう言うと、彼はふっと目を細めて笑った。
「おはようございます」
その��ございます�≠フ響きが少しだけくすぐったかった。いつもより丁寧なのは、たぶん、照れ隠し。あるいは、これが��関係のリスタート�≠フ第一声だからなのかもしれない。私は、少しだけ身体を起こし、シーツを引き寄せながらベッドの端に腰を掛けた。そして、逃げるように言った。
「そ——そろそろ、帰ろうかな……」
ほんの小さな独り言のつもりだったのに彼にははっきりと届いてしまったらしい。
「え、なして?」
その声はあまりにも素で、それでいて素早くて私は思わず笑ってしまいそうになる。
「え、って……別に、ほら……もう十分、休んだし……」
言葉を選びながら視線を逸らしていると、彼がベッドの上に寝転がり両肘をついて、じっと私を見上げてきた。
「帰っちゃうんすか?」
「……う、うん」
「ていうか、さっきまで隣で寝てたのに急に帰るとか……俺、なんかやらかしました?」
「いや、やらかしてないよ……」
「じゃあ、帰る理由どこです?」
「う……」
問い詰めるでもなく責めるでもなく。ただ素直に、子どもみたいな顔で「行かないでほしい」と言ってくるその感じが、ずるかった。
彼はさらにベッドの上で転がるようにこちらに寄ってきて、少しだけ声のトーンを落とす。
「俺、昨日すっごいがんばったじゃないすか……言葉とか間合いとか、ちゃんと、抑えたりして」「……なにそれ、アピール?」
そう返すと彼は少し唇を尖らせて冗談まじりに笑った。
「そりゃしますよ、アピール。2.0は誠実なんで」
言葉の調子はいつも通り軽やかだったけれど、その目は終始まっすぐで、茶化すことに逃げずにいようとする意志が宿っているようだった。その目を私は、どう受け止めればよかったのだろう。
「誠実な2.0は、酔っ払った勢いで元カノと寝ますかねぇ……」
言ってしまった。本当に、なにげなく。とくに深い意味があったわけじゃない。ただ照れ隠しとあとは……そう、ほんの少しだけ彼を試すような気持ちが、混ざっていたかもしれない。けれど、その一言の後。空気がぴたりと止まった。何かが壊れた音すら聞こえたような気がした。私は思わず顔を上げる。そこには信じられないものを見たような彼の表情があった。目を大きく見開き呼吸を忘れたようにこちらを見ている。……あれ?私なにか取り返しのつかない事を言ってしまった?
「待ってください」
彼の声が、いつもより低く落ちた。反射的に、危険信号が私のなかで突如として鳴り響く。
「あー、……やっぱ、私……帰ろっかなぁ」
この空気の重さに耐えきれず、私は半ば、逃げるようにベッドから身を起こす。けれどその腕を彼が強く、いや、必死に掴んだ。
「え、ちょっ……」
引き寄せられるように体勢を崩し私はシーツの上に、押し倒される。真上にいる彼。至近距離で見たその顔は、怒っていた。けれど、それ以上に傷ついていた。痛いほど、真剣な表情だった。
「……覚えて、ないんすか?」
喉の奥に、石を詰められたような問いだった。その言葉の意味がすぐには掴めなくて私は一瞬、固まる。その声には、冗談はひとつもなかった。
「…………ごめん」
やっと出てきた言葉は、それだけだった。目をそらすこともできず、私はただ、彼の瞳の奥を見ていた。その奥に沈んでいる感情が熱を持っていることだけは、はっきりと分かった。
——酔っ払いは私の方だった。バーのカウンターで並んで飲んでいたところまでは覚えている。彼が笑ってくれて促されるように隣に来てくれて私がバーボンを頼んでふたりで乾杯をした。そこまでは確かに憶えている。けれどその先が、どうしてもその先だけが霞んでいた。
彼の言葉にあんなにも熱があった理由も。今朝私に向けられた愛しさと不安が混じったまなざしの意味も。やっと今になって繋がっていく。私のなかだけ、取りこぼされていた夜が確かにあったのだ。彼が本気で向き合おうとしたその夜を私は軽い冗談ひとつで、踏みにじってしまったのかもしれない。
呼吸が詰まりそうになる。心臓が冷たいものを吸い込んだように震えていた。
「ほんと……ごめん……」
ようやく口に出せた言葉は、やっぱり、謝罪のそれだった。どうしようもなく情けなくて、でも今の私にはそれ以上の言葉が見つからなかった。心の奥にじわりと広がっていく後悔は、彼の手の温もりを通して、なおさら重くなっていく。それでも彼は、私の腕を握ったまま離さなかった。
「……覚えてなくても、俺は覚えてますよ」
声は静かだった。なにも責めるような響きじゃなかった。ただ少しだけくぐもっていた。まるで自分の気持ちを踏まえて語ろうとするのにうまく言葉が追いついていないみたいに。
「名前さんが、俺のこと真剣に見てくれた瞬間も抱きしめ返してくれたことも。指先、俺の背中をなぞった動きまで、ぜんぶ……」
彼はゆっくりと顔を伏せる。そうすることで、私の目を見なくて済むようにしたのかもしれない。けれども私は、逸らすことができなかった。
「俺、うれしかったんですよ。ああ……また戻ってこれたんだって。ちゃんと今の俺を見てくれてるんだって……」
それはまるで、ひとつひとつ拾い上げるように語られた告白だった。彼の心の奥から慎重にすくい上げてきた記憶の欠片。私がすっかり落としてしまった夜を彼は両手で守っていてくれた。私はそっと上体を起こした。
「……本当にごめんね。そんなふうに……思ってくれてたのに……私、」
声がかすれる。言葉にすると涙になりそうで、私はそれ以上喉の奥から出てくるものを堪えた。彼はそれでも、ふっと笑った。強がりの笑みではなかった。ただ、どうしようもないなぁ、とでも言いたげな、あの昔から変わらない彼の、他者のすべてを受け止めるような、そんな笑いだった。
「いいんすよ、忘れてても……でも、ひとつだけ覚えててください」
彼は、静かに私の頬に触れた。まるで、羽根で撫でるような指先だった。
「あなたに触れられた俺が、どんな顔してたか。どんなふうに、あなたの名前を呼んだか」
目の奥が熱くなった。私は、確かにその声を、昨夜、夢のように聞いた気がする。名前を呼ばれて、ふるえるほど嬉しかったような感覚だけが、身体に残っていた。きっとそれは、本当だったのだ。彼がずっと覚えていた夜を、私だけが置いてきぼりにしていたことが、たまらなく申し訳なかった。
「ねえ……あの、」
「……うん?」
「もし、もし今からでも遅くなければ、もう一回だけ——ちゃんと、ちゃんと覚えたい」
「え……?」
「名前さん。あなたとの、夜を。」
そう言うと彼の手がそっと私の手に重なった。ふたりの指が絡む。言葉よりも静かに、優しく、確かなぬくもりで。
「今夜、もう一度、バージョン2.1にアップデートしてみます?」
ふざけたように言いながらも、彼の目は笑っていなかった。真剣な想いの奥に少しだけいたずらの匂いを忍ばせる。それが彼——ホークスという男の、危うい誠実さだった。
私は答えなかった。けれど彼の指先が、すでに私の手の甲から腕へと、ゆっくり、軌道を描いて昇っていく。
「……えっ? ちょ、ちょっと……」
彼のもう片方の手が私の腰のあたりを包むように優しく滑り込みそのまま重力に導かれるようにして私はまたベッドの柔らかさに、背を預けさせられていた。
「ちょ、ちょっと、タンマ!今夜って言った!」
彼の顔が、ぐっと近づく。朝のやわらかな光に照らされた横顔は、どこか少年のようで、それでいて、野生の獣のようでもあった。
「んー……予行練習です」
「予行っ……練習って……!」
抗議の声が、唇を掠める指先に奪われそうになる。彼の手はすでに私の髪をほどき、頬を撫で、うなじへと触れていた。ひとつひとつが丁寧で、あまりにも自然で逃げるタイミングを失いそうになる。
——この人は、優しいくせにずるい。ちゃんと止めてほしいときに限って、止まってくれない。
「ま、朝だし、明るいし?なんならチェックアウトの時間もあるし……本番じゃないってことで」
「勝手に条件つけないでよ!」
彼の指が、鎖骨の上をすべる。そこまでで私はついに我慢できなくなり、思いっきり、彼の頬をつねり上げた。
「ぎゃっ!?いったぁ……! なんっ!?」
予想以上に痛かったのか彼が眉をひそめて後退する。その顔が本当に子どもみたいで、私は吹き出しそうになった。
「調子に乗らない!2.1は、制御機能つけてからにして」
頬をおさえる彼にそう言いながらも、指先にはまだ彼のぬくもりが残っていた。身体は止めた。でも心は、もう少しだけ、この朝の余韻に揺れていたかった。そして彼もまた止められたくせに、どこか嬉しそうに私を見ていた。
「バージョン2.1にアップデートしてみます?」と言われたとき、ふざけたような言葉だったのに、私の胸の奥ではなぜだか音がした。笑ってしまいそうな、それでいて泣きたくなるような、そんな優しい、愛の提案だと思った。
本当は私も、帰りたくなんてなかった。ただ、まだ居ていいのかが怖かっただけ。戻ると決めたその先で、ちゃんと愛されるのか確信が持てない自分がまだどこかにいた。でも彼のその言葉に、視線に、私はもう逃げられない気がした。だからそっと言ってみた。
「……もう少しだけ、ここにいてもいい?」
私がそう言うと彼は目を細め、いたずらっぽく唇の端を上げた。
「もちろん。チェックアウトまで全力で引き止めますんで」
私はふっと笑った。そして二人でまたシーツの中に静かに身を沈める。背中に感じる羽根の感触はもう怖くない。ただ心地よいだけ。彼がそっと肩を寄せてくる。私の耳のすぐそばで低くあたたかい声が降りてきた。
「……俺さ、本当に好きな人と一緒だとこんなに満たされるんだなァって改めて今、思ってます」
声があまりに優しくて、思わず胸が詰まる。
「それ、今まで言ってくれた言葉の中で何よりも甘い」
「マジっすか?じゃあアップデート成功ですね」
彼はそう言いながら、私の頬に軽くキスを落とす。額にもまぶたにもいたわるように寝かしつけるみたいに、優しいキスだった。それがくすぐったくて、私は目を細めた。
「ねえ、いつからそんなに甘党になったの?」
「昨日から。いや、たぶん、もっと前から……」
「ふうん」
「でも、今朝のあなたには特別甘くしてます」
「うそ、さっきまで拗ねてたくせに」
「……それはそれ。これはこれ。男ってやつは、愛されると甘くなる生き物なんで」
とぼけるような声で言いながら、彼の腕が私の腰にまわる。ほんのり熱を帯びた掌がシーツ越しにぬくもりを伝えてくる。
「……そうやって、すぐくっつく」
「くっつくでしょ、恋人なんだから」
その恋人という単語がさらりと出てきたことに私は思わず眉を上げた。けれど、それをからかいたくなる気持ちもあって、少し意地悪な声で言い返す。
「まだ告白されても、してもないけど?」
彼は一瞬きょとんとしたあと、ニッと片側だけ口角を上げて笑った。
「じゃあ……確定した候補、ってことで」
その言い回しがなんとも彼らしくて、私は吹き出しそうになった。ずるい。ずるすぎる。はっきりさせないのに、気持ちは確かに、ここにある。
「なにそれ、選挙戦みたい」
「選挙ならもう当確ですね。だって、あなたが今ここにいるから」
「え……?」
「あなたがまだ俺のそばにいる。それだけでもう俺のことをちゃんと見てくれてるってことなんで勝ち確です」
さらりと。そして、確信に満ちたその言葉に、思わず、心の奥がぐらりと揺れた。彼の愛情は、たまに冗談めいていて、そのくせ逃げられない。まるでブランコだ。私はわざとらしく布団に潜り込んで背中を向けるふりをした。
「もー、そうやってすぐキメ台詞言うのやめて」
「いやぁ、2.1からは自動搭載になりまして……」
後ろから回される腕があたたかくて、少しずつ私の身体に沿ってくる。心の奥までほぐれていくようなぬくもりに、私は身を預けてしまいそうになる。けれど、これ以上は、まだ早い。焦っちゃダメ。
「ほんと、調子いいんだから」
「2.1ですから。2.0よりさらにキス多めの仕様になってますよ」
そう言ってまたひとつ、今度は唇の端にキスが落とされた。くすぐったい。私はふっと笑った。この人のこういうところが、やっぱり好きだなと思う。そして、羽音のないこの朝がまたひとつ、記憶の中に積み重なっていく。次はもうちゃんと未来に向かうために。
予行練習のくちづけを
(……ねえ)
(はい?)
(触り方がなんか、ヘンタイみたいでやだ)
(いやいやこれはテスト稼働といいますか……)
(今晩が思いやられるね)
(誠実な2.1の実力、夜にご確認ください)
(……)
(あ、ひどっ。笑いました?でも今度はちゃんと愛される準備、しててくださいよ?)
(はいはい)
※image song『 ハミングバード/Nobel bright 』